●フェイズ03「近隣情勢と再独立」

 北東アジアでのアメリカ、ソ連を中心とする新たな対立構造は、日本を中心に徐々に亀裂を深めていった。
 第二次世界大戦を経て、日本とドイツは米ソを中心とした占領下に置かれた。しかし日本は、ドイツとは違って日本政府を保持したままの統治であるため、ドイツほど問題もなく再統合が可能だとアメリカなどは考えていた。統治は軍政ではなくGHQを介した間接統治であり、民主的な新憲法も発布された。
 しかし旧満州、朝鮮半島ばかりか中華地域の多くでも優位を得たソビエト連邦は、日本列島の占領統治でも強気の姿勢を崩さず、アメリカとアメリカの言いなりの日本政府に無理難題ばかりを吹っかけていた。またその裏では、北海道北部の自国領への併合作業を勝手に進め、こも問題が徐々に米ソ両国の日本統治での協調を困難にしていった。
 しかもアメリカは、自らの占領地域での日本への支援を徐々に増やしていき、特に経済面での支援を強化するようになった。これは表面的には日本経済をある程度良好な状態に持ち込み、円滑な占領統治を行うためだとされた。また再独立に必要な準備を行うためだとも言った。しかし真実は、ドルの影響力を日本全土に浸透させることで、日本の再統合を図ろうというものだった。日本列島という半ば孤立した状態の場所なので、それも可能だと考えられていた。ソ連の極東での経済力は極めて低く、他の地域との経済的連動性も海を隔てている以上限定的だからだ。加えて日本は島国であり、ロシア人が大好きな地続きではなかった。
 当然ソ連側の焦りと、そして反発は強まった。
 ソ連占領地域の日本本土の経済力が元々低かった事も、ソ連の行動を促す要因となった。ソ連占領地域では、民主化の名の下に共産党、社会党、無産党などの勢力が急速に拡大し、地方行政も次々に乗っ取っていった。ソ連があからさまに支援しているので、他の日本人勢力では太刀打ちのしようがなかった。せいぜいが日本政府中央や米軍に通報や「密告」を行うぐらいだった。しかもこれすら、徐々に命がけの行為になりつつあった。
 しかも1946年も半ばになると、ソ連占領地からの復員が開始されたのだが、彼らは立派な社会主義者、共産主義者としての態度を身につけて帰国した。それが早期帰国の条件だったからだ。帰国できた先がソ連占領地の日本だったとしても、シベリアの極寒や既に被支配者達の住む場所となった満州や朝鮮よりもずっとマシだったのだ。少なくともそこは日本列島だった。
 そして大陸からの帰国者の一部は極めて優秀な元官僚や軍人であり、ソ連の指導のもと新たな日本の建設に邁進していった。彼らは新たな主義を身につけるも、アメリカへの敵愾心は残していたので、アメリカを利用はしても信用はしなかった。
 しかしそれでもソ連占領地域の経済状況は、食料供給以外では芳しくなかった。
 このため、1948年よりソビエト連邦の占領地域による通貨改革を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られた。ソ連占領地域での通貨暴落が原因であり、自占領地域へのアメリカの浸透を恐れたソ連側が起こした行動であった。
 これに対してアメリカは、日本銀行発行の日本円を使わない地域、つまり関東以北と東東京の事実上の封鎖を実施して対抗する。特に東東京は孤立状態となり、これに対してソ連はほとんど何も出来ず、一週間程度で東東京の事実上の解放を行わなくてはならなくなった。制海権の有無が、アメリカの強気を呼び込んでいた。海空戦力の懸絶した差が、アメリカの怒りを形としていた。日本のソ連軍などは、アメリカからの兵站支援がなければ、ロクに食べることすらできない集団に過ぎないからだ。
 しかしこれがソ連側をますます頑なにさせる。
 しかも米ソの争いは、ドイツを中心にヨーロッパでも強まっており、ドイツの東西分断と共に日本の南北分断を、政治的に決定的なものとした。
 ヨーロッパでは、1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。

 一方北東アジアでは、1946年から中華大陸中央部で共産党優位で内戦が再発していた。終戦までに、ソ連が深く侵攻及び進駐していた影響だった。このため蒋介石は何時まで経っても北平(北京)に入ることができず、南京で過ごしたまま新たな内戦を迎えることになった。無論彼の軍隊が万里の長城を越えることも出来なかった。ソ連が軍政を実施している旧満州国に入れるわけがなかった。そこで中華共産党の軍隊が、大規模に訓練を受けていると分かっても何もできなかった。
 ただし本来ならば、中華領内の日本軍の降伏や日本人の帰国事業は、中華民国と軍事顧問を派遣しているアメリカが行うはずだった。しかし戦争中は曖昧に決められていただけで、連合軍内での決まり事ではなかった。よって黄河より北では、日本軍がソ連の進駐を受け入れてしまっていた。このため侵攻した部隊が占領地行政を行うという形に従い、米ソ双方が介入して中華民国の再建が図られることになっていた。
 そしてソ連占領地では「連合軍に参加した中華民国の一部」である共産党が優遇され、多くの地域を実行支配するようになっていった。
 そして1946年3月にソ連が中華領内、旧満州から立ち去ると、国民党はようやく、そして一気に華北、満州へとなだれ込んだ。いや、なだれ込もうとした。
 両者の間をアメリカが取り持とうとしたし、実際交渉を行おうとしたが、国民党も共産党も聞く耳を持たなかった。国民党は中華の北半分が共産党に取られることを恐れていた。共産党は、せっかく握った勢力圏とそこで建設されつつある軍事力を手放す気は毛頭なかった。
 そしてほぼ両者合意の形で、華北を中心にしてさっそく内戦を再開させてしまう。
 内戦再開当初の国民党軍は、米式装備を持ち士気も高く各地で連戦連勝を重ねた。なだれ込むという程の速度ではなかったが、鉄道沿いに主要都市を次々に奪回していった。一方の共産党軍は、毛沢東の指導に従って大規模な戦闘を避け、都市部を明け渡しつつ農村部でのゲリラ戦を行った。
 国民党軍は北平も占領して、首都としての名前、北京の名を取り戻させた。国民党軍はそれでも飽きたらず、万里の長城を越えて旧満州国へもなだれ込んだ。
 しかし敵の勢力圏で面ではなく点と線の占領地を得るという行為は、誰かに似ていた。そう、数年前までの日本軍に似ていたのだ。
 国民党軍は、気が付いたら共産党軍に農村部から包囲された状態であり、都市と鉄道を押さえただけの自らの姿は、かつての日本軍と似ていた。ただし、同じではなかった。
 同じではなかったのは、日本軍以上に民心を得ていなかった事であり、アメリカがいなければ最新兵器や兵站物資の補給もないためだ。当然、破局が訪れるのは早かった。 しかも華北、満州で共産党的指導が行われた民衆が育っていたため、国民党は行く先々で敵を作ってばかりいた。またソ連が後ろ盾になっている事で共産党有利と見た軍閥の幾つかが、内乱再開までに共産党側に寝返った要素も無視できなかった。さらには、人民韓国が特に初戦で共産党を強く支援した事も、国民党の敗北を早めた。共産党軍の中には、日本北部から派遣された義勇兵までが国民党に対して銃を取って戦った。
 かくして、1948年7月に中華人民共和国が独立を宣言し、破れた中華民国は這々の体で大陸から海を隔てた台湾へと逃れた。第二次世界大戦から結局何も学ばなかった事による因果応報だった。

 一方朝鮮半島では、当初からソ連軍による朝鮮半島全土の軍政が実施された。このため新国家の体制造りは早く、一部では日本人に仕事をさせてまでして新国家建設を急いだ。ソ連も金日成(キム・イルソン)率いる朝鮮共産党(後の大韓労働党)も、アメリカが押した李承晩(イ・スンマン)ほど分からず屋ではなかったので、利用できるのならば日本人も利用した。しかもその日本人達が同じ道を歩む者であるならば、報償すら与えたりもした。かつての敵や支配者とはいえ、新たな友人は大切だった。
 そして1948年、漢城(ソウル)を首都として、大韓人民共和国(=人民韓国もしくはコリア)が成立する。金日成率いる共産党勢力の一党しか存在しない、ソ連の後押しを受けた独裁国家となった。アメリカ軍が占領統治していた済州島では、一時民主国家の同時独立が考えられたが、あまりにも社会基盤が弱く人口規模が小さすぎるため、しばらくはアメリカの委任統治領として保持されることになった。李承晩は、日本の九州を朝鮮領として寄越せと馬鹿な事すら叫んだが、日本人の全てから反感を持たれただけだった。彼は、ちっぽけで貧しい島の統治者にしかなれなかった。それですらアメリカの体面で、させてもらっているに過ぎなかった。
 そして赤い朝鮮半島は、ソ連の後押しもあって無事国連への加盟も果たし、北東アジアで二番目の社会主義国家となった。
 そして人民韓国は、国土の完全完全回復とアメリカ占領下の日本帝国主義打倒を国是として、国力の増大と共に自国の力を無視した海空軍の整備を熱心に行うようになる。しばらく後には、済州島、対馬、竹島などでの海上国境侵犯は日常茶飯事となっていく。
 またさらに後には、北部国境近辺の朝鮮民族解放も重要な政策に掲げるようになり、中華人民共和国との対立姿勢を強めるようになっていく。
 朝鮮半島はなまじ国内が安定していたため、イデオロギー維持のため外に敵を求める国家になっていた。

 そして共産主義の波は、日本列島にも押し寄せる。
 同1948年5月1日、ソビエト連邦が占領統治する南北海道と東北地方に「日本民主共和国=DRJ (Democratic Republic of Japan)(北日本)」が独立宣言したのだ。
 前後して、日本本土内のアメリカ軍占領地域でも、関東以北に向かわなかった共産主義者や無政府主義者、社会主義者など様々な勢力による反米運動、反日本帝国主義が激化した。一部で北日本への併合、もしくは日本全体の赤化に向けての強い動きが出て日本列島全体が騒然となった。
 だが日本国民の大多数は赤化には反対して、この時から共産党や社会主義者を明確に敵視するようになった。特に天皇を排除の考えは、当時の日本人にとって受け入れ難い事だった。また騒乱の中心が東京だった事もあってか、ソ連代表を除外したGHQの極めて強い命令と、軍を展開させた威圧により鎮圧された。一部で衝突も発生して死者も出たが、米軍占領地域で深刻な問題が発生することがなかった。これを「血のメーデー事件」と言う。

 日本全土の赤化運動に敗れた人々は、大多数の日本人と違って占領軍を解放軍とは考えなくなり、東東京もしくは米ソ分割占領線を越えて北側へと移住していった。
 また、北日本の成立よりも一ヶ月近く早い4月8日、「日本国(南日本)」が成立していた。これも騒乱を押さえるのに大きな役割を果たしたと言われている。
 なお正式には、GHQ管理下の日本政府が再独立を果たしたものとなった。この事が、米軍占領下での各種の共産主義勢力の運動を呼び起こしたことは間違いない。一方では、ソ連の動きを読んだアメリカが先に日本政府に再独立を与え、ソ連の行動を封じようとした結果でもあった。
 しかし結果は、ソ連の行動を頑なにしただけであり、米ソの対立は極東地域でも明確となった。
 そして米ソの対立を象徴するように、北の日本は長らく国家として国際承認されることはなかった。南の日本も、ソ連などの共産主義国から長らく認められることはなかった。相互承認は、南北双方が互いを承認する1973年まで待たねばならなかった。

 そして二つの日本の独立(再独立)、朝鮮半島の独立、中華地域のでの共産主義政権の成立は、どれもが国際的な問題となった。
 ソビエト連邦以下共産主義諸国は、日本国の再独立を一切認めず、アメリカ以下世界中のほとんどの国が、北東アジア全ての共産主義国家の成立を認めなかったからだ。ヨーロッパにおいても同様だった。
 特にアメリカ以下自由主義諸国は、北日本はポツダム宣言と日本国憲法などに従って南日本に合流するべきだと主張した。朝鮮半島についても、多数の政党の政治参加を認めて民主化を進めるべきだと主張した。中華地域に至っては、台湾島に追い出された中華民国を、半ば愛想を尽かしつつも政治的理由で唯一正統な国家と認めた。
 しかしソ連及びそれぞれの政府は、アメリカの動きを事実上黙殺して、自らの体制固めに奔走した。
 この影響で、南日本は1950年に主権の完全な回復を宣言した。アメリカなどの働きにより国際連合への加盟も果たした。ソ連はこの時の国際連合会議を欠席したが、それ以外のほんとどの国が日本との南国交を回復した。今日本列島で赤化の勢いが増せば、アジア全体が赤く染まり上がると考えられたからだ。
 日本は、防波堤でなくてはならなかった。
 この背景もあって、国内の反対を押し切って憲法改正が行われ、日本軍を編成して日本の再軍備を行い、アメリカとの日米安全保障条約を締結するに至る。一部で反対運動が激しく行われたが、現実の脅威を前にしてほとんどの日本人が「ごく当たり前」な憲法改正を受け入れた。
 ただしソ連軍が駐留し続ける北日本と直接国境を接するため、多数のアメリカ軍が日本国内に駐留し続けることになった。
 かくして日本列島に二つの国家が成立し、そこは冷戦の最前線となった。


●フェイズ04「北日本と南日本」