●フェイズ05「日本戦争前夜」

 1949年末、アメリカ軍高官はアジア・太平洋の防衛戦略についてコメントを発表した。
「我々のアジア・太平洋の防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島とその周辺部を経てフィリピンに至る。しかし一部例外を含める」

 しかもアメリカは、日本列島を共産主義の防波堤とすると発言もしていた。
 1949年8月29日、ソ連がセミパラチンスク核実験場で原爆実験に成功し、アメリカの原爆独占を終結させた事が、アメリカに勢力圏防衛について発言させたのだった。
 しかしこの発表に、北日本政府は騒然となった。
 アメリカが北日本を武力占領するつもりなのか、一部例外の例外とは北日本を意味するのか、というのが北日本にとっての争点であり、そして死活問題だった。米軍が準備万端整えて本気で攻めてきたら敗北と国家滅亡は確定的なのだから、北日本側の焦りもやむを得ないものがあった。何しろ彼らは、誰がどう見ても戦略的劣勢下にあった。
 しかも再独立した南の帝国主義者は、自らの軍隊もアメリカの支援で急速に再建しつつあった。それ以前の問題として、日本本土内にはアメリカ軍が12万人も駐留していた。それに引き替えソ連軍は、北日本の独立と共に北北海道に1個旅団を置いているに過ぎず、これですらアメリカにそこがソ連の縄張りであることを見せるためのものでしかなかった。
 肝心の海軍力については、ソ連が日本から得た賠償駆逐艦を与えられていたが、相手がアメリカである以上比較にもならなかった。津軽海峡の維持すら難しいだろうと、いや無理だろうと考えられた。
 つまり、軍事的には圧倒的劣勢だった。アメリカ軍の事を計算に入れただけで、計算にもならなかった。「反米」という国是と民意は、恐怖の裏返しでもあったのだ。何しろアメリカには、数年前にぐうの音もでないほど叩きのめされたばかりだった。
 一方、南日本と現地アメリカ軍も、現状を全く楽観していなかった。
 日本本土の米軍の多くは、占領統治とそれまでにため込んだ備蓄物資の管理が主力で、実戦部隊は埼玉と栃木の県境近くに陣取る第77師団だけだった。他にまとまった戦力は第1騎兵師団、第24師団師団、北九州と沖縄に海兵師団がいるが、そのほとんどが平時編制だった。アメリカ国旗が立っていることが重要だったからだ。第77師団も準動員状態で、後方支援部隊など欠けているものが多かった。
 再生されたばかりの日本軍も、関東と新潟前面に展開する3個師団の半分程度しか実戦状態には置かれていなかった。米軍から供与された装備が足りず、訓練中の部隊が多いためだ。日本側が強く要求していた師団ごとの戦車大隊などは、まともな編成のものは1つしかなく、それですら装備は貧弱だった。
 しかし日本軍の再編成はさらに進んでおり、3年もすれば今の二倍以上に規模が拡大して、北との戦力差は何とか拮抗すると考えられた。人口差を考えれば、ゆくゆくは圧倒的な差が付けられるのも当然の状況ですらあった。それだけに相手の暴発の危険性が高く危機的状況であり、日本政府と現地米軍はアメリカ本国に増援や兵器の供与を何度も何度も訴える状況が続いていた。

 また、アメリカはアジア・太平洋の防衛戦略について危惧を抱いたもう一つの国家が、意外にも大韓人民共和国(人民韓国)だった。
 彼らも北日本同様に、「日本列島とその周辺部」という言葉に翻弄されていた。主な理由は、アメリカの太平洋防衛には対馬海峡確保が必要であり、朝鮮半島南部が危険だとの認識と判断があったためだ。このためソ連や北日本政府と密に連絡を取り合い、アメリカ帝国主義にいかに立ち向かうかが真剣に議論された。
 ただし、海軍力がどうにもならないのは盟主ソ連も同様であり、ソ連の衛星国に過ぎない人民韓国に何かができる道理もなかった。海岸線の長さを考えたら、沿岸防衛すら空しく感じられるほどだった。
 そして人民韓国の結論は、北日本に倒れられては困るという単純だが切実なものだった。自分達の代わりに、叩かれ睨まれる者がいなくなっては、自らの存亡に関わると判断されたからだ。
 このため人民韓国から北日本に様々なものが援助された。中には日本統治時代の物まであった。そうした中で一番の援助が、万が一有事が発生した場合に共同戦線を張るという外交上の約束だった。実効性はないが、抑止効果としてはそれなりに期待できたからだ。アメリカも無軌道に戦線を広げたいとは考えられないからだ。そして抑止効果である事が確認されると、人民韓国はラジオのプロパガンダ放送で北日本との連携を強く訴えた。当面は口だけで済むのだから、安いものだった。
 また祖国を統一したばかりの中華人民共和国だが、北日本の支援と帝国主義者打倒には積極的姿勢を示していた。北日本との友好関係も即時に締結し、軍事交流も活発に行われた。内戦で北日本義勇軍が戦列に参加していた事が影響していたと言われている。
 このため人民中華からも北日本に様々なものが渡り、結果として北日本の開戦準備を手助けする事になった。
 そして共産主義陣営の盟主であるソビエト連邦は、当初は北日本などが過激な行動に出ないよう慎重な態度を取っていた。またヨーロッパ正面など、様々な場所でもアメリカや西欧諸国との対立も深まっており、軽はずみに動けなかった。
 しかし自らの原爆開発の成功と、日本列島の米軍、日本軍が弱体であるという情報をつかむと、俄に事態を変化させた。しかもアメリカ軍は、既に大戦中に作った軍隊の90%を動員解除している。再び動員するにしても、即応部隊だけで三ヶ月、他の多くは最低でも半年が必要だった。そして現状では、新たな軍備増強には消極的だった。つまり、半年の間に既成事実を作り上げてしまえば、後は核兵器を材料にして交渉が出来ることを意味していた。いや、意味しているように思えた。
 またソ連は、万が一南北日本が戦争になって北日本が大敗を喫しても、北海道を失うことはないと考えていた。北北海道にソ連が陣取っている以上、アメリカが外交戦略上の危険を冒さないという大国的な判断からだ。無論、現状の南日本軍に、北北海道まで侵攻する力は全くないという判断もあった。そしてソ連としては、貧弱な同盟国が地続きでアメリカの衛星国と接すると言うことが危険だと考えていた。抜本的に処置するならば、なるべく早い方がよかった。
 また北日本が、万が一南日本の領土を奪うことが叶うのならば、それは棚ぼた的勝利であり、やってみる価値はあるのではないかと考えられた。しかも現時点は、北日本の戦力的優位が存在できる唯一の期間と考えられた。
 こうした思惑からソ連は北日本への援助を増やし、北日本軍は編成表通りに格段に強化されていった。

 一方アメリカだが、共産主義陣営の動きを正確には掴んでいなかった。しかもアメリカには油断もあった。純粋な国力差や状況を考えれば、日本列島でアクティブな行動が起きる可能性はほとんどあり得なかった。北日本が動いた時点で、自滅することがほぼ確定していると考えられていた。
 しかも万が一に備えて、日本には再軍備を急がせていた。兵器の急ぎ供給が間に合わないため、旧日本軍の装備すらが保管されていた倉庫から大量に供与されてすらいた。戦力差を考えても、三ヶ月程度は関東平野主要部と首都東京を守れる程度の戦力は既に備わっている筈だった。
 そして三ヶ月という時間さえ得られれば、軍の動員を殆ど解除していたアメリカ軍の再編成と投入が可能であり、十分に日本列島を防衛できると考えていた。
 さらにアメリカの一部では、北日本を暴発させて向こう側から戦争状態に持ち込めば、労せずして日本列島を「奪回」出来るのではないかという研究も行われていた。
 日本列島はドイツではなく、ソ連軍が地続きでやって来る事はない。むしろ海上はアメリカのテリトリーであり、柔軟な対応が可能と判断されていた。海上封鎖など朝飯前の筈だった。
 それが最初に挙げた、アメリカ側の発言に繋がったとも言えるだろう。
 つまり米ソ共に、自らの思惑から日本列島での戦いを欲していたと言えるだろう。


●フェイズ06「日本戦争」