●フェイズ08「二つの日本の戦後復興」

 「日本戦争」は対外的呼称で、南側の日本では「回復戦争」と呼ばれるようになった。そして今回の戦争は「第一次」であり、最終的には日本列島の全てを取り戻すという意思を見せた。
 そして日本は自らの戦争中、自らの軍隊への需要とアメリカからの発注で、戦後ずっと停滞していた経済と景気が息を吹き返したと言われた。とは言え、戦争は僅かに一年ほどで終わり、戦争特需と呼ぶには少し物足りないものだった。
 また関東平野の半分が戦場となって荒廃し、さらに奪回した東北地方も北日本の悪政で荒れ果てており、その復興も行わなくてはならず、差し引きゼロというのが体感的な感情だった。
 しかし悪いことばかりではなかった。
 戦争というカンフル剤のおかげで、日本人全体が元気を取り戻したからだ。関東北部で住民の多くが戦闘に巻き込まれた事も、この場合はマイナスよりもプラスの方が多かった。
 戦争は媚薬とはよく言ったものである。もしくは、一種のショック療法と言えるだろう。
 また戦後の日本は、再軍備に拍車が付いたことによる軍需景気がある程度継続したため、軍需生産や関連する重工業が息を吹き返していった。GHQにより進められていた生産施設や企業の解体なども停止どころか促進され、日本の産業は活況に湧いた。アメリカ軍も北日本や人民韓国という現実の脅威を前にして、日本の再軍備促進を止めるわけにも行かなかったからだ。
 しかもアメリカ市民が、日本戦争での自国兵士の戦死に敏感となったから尚更だった。そう言う点では、一度に千人単位での戦死者が出た戦艦撃沈は、大きな衝撃となってアメリカ市民を直撃していた。
 そして戦争中は、関東平野や各港湾都市を中心に戦争中盤以後一年ほどは多数の海外の軍隊と軍人が日本に外貨を落としたため、そうした特需もこの頃の日本にとっては重要だった。アメリカなどからの物資の発注も、日本の生産体制、特に生産管理や設備投資へ与えた影響は極めて大きかった。アメリカの需要に応える状況を作り出すという事は、世界に通じる状況を作る事を意味していたからだ。
 また関東北部を中心にして復興景気とでも呼ぶべき建設需要も大きく増大して、以前よりも順調な日本経済の発展が見られるようになった。
 そうして日本は、少しずつだが復興とそれにつながる次なる発展に向けて歩んでいった。
 北海道を回復できなかった事、祖国を統一できなかったは主に政治的に痛手だったが、陸で敵と接しなくなった事は大きな利益だと考えられた。軍事予算や軍事に割くリソースを海空軍中心に投入でき、陸軍も戦前の大軍を並べる方向から機動防御に重点を置く向きが強まって、そのどちらもが産業への影響が大きかった。
 日本の中枢部は、戦争を契機に発展へを大きく舵を切っており、1955年の神武景気から1973年のオイルショックにに至る、「アジアの奇跡」とも言われた高度成長時代を迎えることになる。

 一方北日本だが、戦後の復興は思うに任せなかった。
 ただでさえ国内産業が少ない上に、戦争によって国土の半分と総人口の半数以上を一度に失ってしまった打撃は大きかった。南に対して唯一対抗できた陸軍も実戦部隊の8割近くが失われ、その損失も計り知れなかった。当時の北日本陸軍は、手足どころか胴体の過半すらもがれたに等しい状況だった。
 結局、戦争を行った直接的な利益は何一つなかった。
 ただしソ連に泣きついた価値はあり、旧日本領の多くを回復できたことは新政権にとっては大きな追い風となった。しかもソ連からの半ばお情けで北樺太がもえらたのだから、失った分の補完は不可能ではなかった。しかし一方で、ソ連の影響がさらに強まった事もまた事実だった。
 そして戦後の北日本は、以後十年近くソ連の属国状態に置かれるしか生存の道はなく、逆にソ連に様々な物を強引に求めることで国力回復に躍起となった。北日本は、自分自身を半ば人質もしくは担保とすることで、ソ連から人民韓国以上のものを次々とものにしていった。諸外国から、開き直りやソ連の16番目の共和国とすら言われたほどだった。しかしソ連も、自分たちにとっての緩衝地帯の維持に相応に力を入れなければならず、また太平洋への出口の維持も重要であるため、北日本への肩入れを継続的に続けなくてはならなかった。
 そして北日本政府が重視したのが、軍備の再編成と自力での工業の建設と並んで人口拡大政策だった。とにかく国家の体格差が南の日本と違いすぎるのは大きな問題だと考えられた。敗戦の原因の多くも、基礎的な国力差にあるとされたほどだった。そして幸いにして北海道は農業や漁業が盛んなので人口包容力が比較的大きく、当面は小さな国での野放図な人口拡大が可能なこともこの政策を後押しした。
 当然国内では多産政策、「産めよ増やせよ」が政府の強力な指導で実施された。また東側各国からの移民も募り、これには困窮していた朝鮮半島から多くの移民が流れてくる事になる。またソ連領内からも、少数民族を中心に移民が「もらえる」事になる。ソ連では、第二次世界大戦で男性人口が激減していたので、有る意味渡りに船ですらあった。また北日本建国が決まった頃から、男性が不足するソ連と女性が不足する北日本との交流と相互移民が行われていたので、戦後の移民政策は国家事業として比較的円滑に進展した。
 そして北海道はある程度人口扶養能力が高いため、北日本での一定の人口拡大は継続された。
 北日本の人口は、1951年の日本戦争終了時550万人だったのが、10年後には900万人に、30年後の1980年には1800万人を数えるまでに増加した。さらに30年後には、2300万人にまで増加している。国民の4割近くが日本民族以外かその混血となったが、移民と多産政策の効果は絶大だった。寒い土地でこれだけの人口増加は、カナダのような移民国家ですら難しい事業だったからだ。また特に朝鮮民族系に対しては官民挙げての強力な同化政策が強力に進められたため、見た目にはせいぜい2割程度しか異民族や混血児はいなかった。
 ただし1960年代前半までは、南の日本側も対抗外交とばかりに事実上の多産政策を実行したため、それほど効果はなかったと言われている。何しろ体格差が大きすぎた。
 しかし一方では、対立した二つの国同士の間で、多産政策と国力(経済力)の回復及び増強を実行する間、共に騒乱状態を望まなかったという共通項があり、戦争から一転して銃撃事件一つない静寂な状態となった。世界的な海の難所でもある津軽海峡を越えようと言う物好きも希だった。同じ海峡でも、対馬海峡が日常的に人民韓国軍と日本海軍が銃撃事件を起こしていることと比べれば、大きな違いだった。
 そしてその静寂をより確かなものとしたのが、二つの日本が陸で境界線を接していないという点だった。
 二つの日本は津軽海峡を挟んで対陣したが、海峡が相手では大軍を向け合って直接睨み合う事は難しかった。北日本などはソ連からもらった長距離列車砲などを半島先端に置いてみたりもしたが、陸では上陸に適した海岸部や重要拠点に守備隊を置くのが精一杯だった。南の日本にとっては、ソ連ではなく北日本と国境を接したおかげで、大規模侵略される可能性がむしろ低下したと判定された程だった。
 そして二つの日本で共通したのが、海軍と空軍の拡張と増強だった。しかも陸軍は、双方とも防衛陸軍としての性格を強く持たせて経費削減するようになり、相手が攻めて来れないように海軍と空軍を中心とした国防を組み上げていった。北日本では、戦争中ほとんど唯一の金星を挙げた《長門》が守護神のごとき扱いを受けるようになり、ソ連からも東側勝利の象徴として高く評価され、改装を続けながら現役復帰と予備役を繰り返して長らく保持された。
 一方国力に余裕のある南の日本側は、戦争中に誕生した海兵隊という組織を持っていた。後に師団規模にまで拡大した事から、自由主義陣営の日本の方が北日本よりも攻撃的だったと言えるだろう。しかも日本は航空母艦も戦争中に編成表に加えてその後も維持し続けたため、十分攻撃的な軍隊へと変貌を遂げていた。こうした軍備は、『大日本帝国』の復活につながると近隣諸国から大なり小なり非難されたが、日本は二つの敵(北日本と人民韓国)を持つための効率的な国土防衛と、何より祖国回復のために必要な軍備だとして譲ることはなかった。しかも北日本は、日本国の地図の上では自国領になるため、侵略戦争に当たらない地域となっていた。こちらもある意味開き直っていた。戦争が、日本人を正直にしていた。
 加えて言えば、文句を言うのがほとんど共産主義国なので、むしろ日本の政治的立場を強めていた。
 そして劣勢に立たされた北日本は、周辺共産国との連携で不利を補おうと画策した。当然ソ連との関係は一番重視されたが、他の共産主義国である中華人民共和国(人民中華)と大韓人民共和国(人民韓国)、モンゴル人民共和国との関係もより強められた。
 特に北日本が重視したのは、対馬海峡を挟んで日本と対陣する形になっている大韓人民共和国(人民韓国)だった。人民韓国の反日姿勢と軍事力配備のため、日本軍は東北と北九州に戦力分散を余儀なくされ、これが南日本による「第二次回復戦争」を起こさせなかったと言われることもある。少なくとも人民韓国ではそう言われていたし、そう宣伝して回った。実際北日本も、南日本の軍事圧力低下の恩恵を受けていた。

 なお人民韓国は、南北日本と同じく1948年に成立を宣言した共産主義国家である。領土は朝鮮半島全土を持つため、建国時の国土面積は当初の南日本と大差なかった。国際連合にも、大きな問題もなく加盟することができた。済州島を保持しただけでは、流石の西側諸国も文句が言いづらかった。むしろ中途半端に済州島を保持せざるを得なかった事は、政治的にも物理的な面でもアメリカの失点となっていた。ない方がむしろマシだった。
 建国時の総人口は、日本列島、満州国からの大量の帰国者を迎え入れたため、日本統治時代の2600万人から3300万人にまで増加していた。
 国政はソ連が支援した大韓労働党が担い、ほぼ完全なソ連型の共産主義国家だった。事実建国時には多数のソ連人顧問が入り込んでおり、日本統治時代の上に共産主義的政府を作り上げた。
 ソ連が朝鮮半島全域を占領統治したことから、建国時から政治的には安定していた。
 しかし、国内から政財界を握っていた日本人が消えた事と共産主義移行に伴う政治及び行政、経済の大きな混乱から、経済や産業は停滞した。民衆がたまらず日本列島に逃げだそうにも、混乱を嫌う南日本(GHQ)は再渡航者を堅く拒絶していた。事実上の海上封鎖を実施して、密航者も見つけ次第強制退去が行われた。朝鮮半島に共産国家が誕生してからは、日本人全体が朝鮮人(韓国人)を敵視すらするようになった。戦争終了時に帰国ではなく日本残留を望んだ人々も、非常に肩身の狭い暮らしをしなければならなかった。緊張緩和が進んだ一時期には、積極的な帰国事業も行われたほどだった。
 そして人民韓国国内は、圧倒的大多数の貧困層による不満が常に渦巻いた状態となった。これをアメリカが後ろで糸を引く自由主義者につけ込まれ、小規模なテロの絶えない状態が長らく続く事になる。これが原因で、日本戦争で行動が起こせなかったと言われたほどだった。
 また日本戦争以後は、北日本への大量移住と北日本への帰化を産む事にもつながる(※北日本は、移民に対して徹底した帰化政策、日本化政策を行った)。
 一方外交は、ソビエト連邦と中華人民共和国と日本民主共和国など周辺共産主義国との関係が良好で、近隣で唯一の敵は南日本だけだった。とは言え、アメリカ軍が居るため攻めるわけにも行かなかった。日本軍自体も、人民韓国軍よりもはるかに強力だった。また対馬海峡を隔てていては、海軍力が事実上皆無の人民韓国軍に具体的に何かができるわけではなかった。戦闘艦艇とも呼べないような小さなボートで、嫌がらせや挑発を行うのが精一杯だった。
 対する南日本は、北日本対策を常に重視するため、人民韓国に対しては海上警備(国境防衛)や防空、沿岸防衛以外では最低限の軍備しか置いていなかった。このため、皮肉なことに人民韓国の国防面も安定していた。日本が保持した対馬は再び要塞と化すようになったが、海を挟んでいるので不安も低かった。
 しかし、近隣で一番安定した共産主義国という事でソ連は援助を他に回し、特に軍備増強については北日本重視にされてしまう。北日本領内には、軍港を含めた巨大なソ連軍基地が幾つも置かれた。人民韓国はソ連に支援などを訴えたが、ソ連側は人民韓国が南日本に余計なことをしてはいけないと考えて、常に最低限の支援しか行わなかった。加えて人民韓国は、何かにつけて独自性を主張するため、ソ連が基地を置くには不向きと考えられた。弱体化した北日本の方が、ソ連にとっては都合が良かったのだ。それに北日本は太平洋に面する港を持っているので、ソ連にとっては好都合だった。さらにソ連にとっての北日本は長く国境を接する国でもあったので、自らの国防面でも重視する向きが強かった。
 仕方ないので人民韓国は、建国時に義勇兵まで出した人民中華に援助を求めるも、こちらには兵隊はいても兵器はなかった。兵器を作る能力もなかった。多少の資源があるぐらいで、その程度ならソ連も問題なく安価で輸出してくれた。しかも毛沢東主導の共産主義は、労働党が推し進めるソ連型の共産主義とは違うため、次第に距離を置くようになる。特に1956年のスターリン批判で、ソ連の共産主義体制を修正主義とした人民中華と、ソ連型共産主義を推し進めていた人民韓国との関係は急速に悪化した。
 しかも中朝国境の中華側には朝鮮民族が居住するため、いつしか人民韓国は人民中華に対して敵意を抱くようになっていった。


フェイズ09「共産陣営内の対立と南北日本」