●フェイズ10 アフター「21世紀に向けて」

 以後の事は、それぞれに概要を加えた年表形式で21世紀初頭までを紹介していきます。また年表は、「東京オリンピック」のあった1964年から始めていきます。

●年表1

・一九六四年
 ・「ヴェトナム戦争」開始

この時点では、南北日本共に傍観者で過ごす。誰もが、アメリカの短期間で一方的な勝利と北ベトナムの消滅を予測していた。ソ連ですら、戦争の過程でアメリカへの大きな嫌がらせができれば御の字だろうと捉えていた節が強い。普通に考えれば、北ベトナムが勝てる見込みはどこにもなかった。日本人達は、空襲で北ベトナムが地図の上のシミになると確信していたと言われる。
 ・ソ連、ブレジネフ書記長就任
以後ソ連は停滞期に入ったと言われたが、この頃既にソ連経済の停滞と財政の悪化が始まっていた。北日本は、まだ経済や産業が建設途上で、ソ連も北日本の戦略性(太平洋に面している)を重視して援助や支援を行ったため影響はほとんど皆無だった。
 ・日本、超特急「新幹線」開通
「国防鉄道」として軍事費から予算を拠出してまでして、国威向上のために建設が実施された。初期は東京=大阪間だが、「国防鉄道」の整備のために、敵の侵攻の可能性が最も高い北九州、上越、そして東北への延長が既に決定していた。実際建設の始まった頃から、陸軍を中心に予算が流用された。なお、軍では「弾丸特急」という戦前の計画名称が使われたが、「弾丸」という言葉によってあえて軍事面を強調したと説明された。
なお、高度経済成長開始に伴う鉄道輸送量の大幅な拡大から、最低でも東京=大阪間の新規路線が必要だったため、軍事費の流用がなくても敷設された可能性は高かったと言われている。
 ・日本、「東京オリンピック」開催
アジアで初めてのオリンピック開催となり、日本の復興と発展を世界にアピール。オリンピック開催は、日本の経済成長に拍車をかけさせた。北日本に大きな焦りが出て、対南日本融和政策を進めることで、軍備よりも国力と経済発展に力を入れるようになる。
北日本がオリンピックに特別招待された事を切っ掛けに、南北日本の間に本格的な対話が始まる。ただし、諸外国から国際承認をあまりされていない北日本は、正式なオリンピック参加もこの頃は認められていなかった。このため、南日本は北日本を特別招待で招いた。そして南日本としては、圧倒的な国力と経済力で北日本を飲み込むことを画策するようになった。
以後南北日本は、軍備と軍事費を双方暗黙の了解で大幅に削減して、国力と経済力の建設に多くを投入するようになる。アメリカはそうした北日本を警戒したが、南日本から民族融和を邪魔するなという世論が強く撒き起こって、アメリカの干渉は民意の点から失敗する。まさに日本列島、日本民族同士だからこそ起こり得た事件であった。
 ・人民中華、初の核実験実施
南日本に焦り。オリンピック開催中だったこともあり強く非難する。日本各地でも反核運動が発生。人民中華に対する反感が強まる。戦後にもう一度戦乱を経験した日本人達は、軍事に対して再び敏感になっていた。

・一九六五年
 ・米、北ヴェトナムへ空爆(北爆)開始

米、ワシントンで大規模なベトナム反戦デモ。しかし戦争はまだ始まったばかりでしかなかった。日本でも、まだベトナム戦争自体の話題が少なかったが、政府は学生運動の加熱に伴う社会主義、共産主義に対する傾倒を警戒。

・一九六六年
 ・人民中華、「文化大革命」始まる

毛沢東復権に伴う政治的混乱が始まる。大規模な粛正と知識階層、宗教及び少数民族への弾圧、文化財の破壊が行われた。事実上の内乱状態のため、各種粛正だけでなく飢饉を含めた死者は、最低でも1000万人、最大5000万人と言われる。あまりの愚かさに世界中が人民中華との関係を断絶。人民中華の国際孤立がピークを迎える。ソ連、人民韓国との国境線には、双方の大軍が配置されるようになり、ソ中双方の国庫に少なくない負担を与える。中韓国境も似たような状態となり、人民中華の国庫をさらに圧迫。満州の長い国境線には、都合100万人以上の人民解放軍が常時駐留するようになる。
北日本は、以後人民中華との関係を完全に断絶。
日本、人民韓国の動きに伴い、対馬海峡での軍事負担が軽減。
 ・日本、南ベトナムへの派兵決定
アメリカの強い要請を受け入れる形で、南ベトナムへの派兵を決定。三軍から選抜された部隊が派遣され、最盛時の1968年には約3万人が派兵される。
前線での日本軍は、アメリカ軍将兵から自軍よりも頼りにされるようになったと言われた。
なお南日本では、ベトナム派兵のために憲法改定が実施される。国連及び同盟国の要請があり尚かつ国会の承認が得られた場合に限った時限法によって、軍の海外派兵が可能となる。また派兵の対価として、アメリカからの多数の援助や技術を獲得。さらに日本自体がアメリカの兵站基地となることで、日本の好景気に追い風を与える。
 ・日本国内で大きなベトナム派兵反対運動
日本がまた戦争に巻き込まれるとして大規模な反対運動が発生するが、国民の多くは戦争特需という現実を優先させた。このため、学生と活動家だけが反戦運動を行い、浮き上がった存在となる。
 ・北日本、北ベトナムに義勇兵派遣
南への半ば対抗外交として北ベトナムに義勇兵を派遣。支援も強化される。これで南北日本の融和が終わるかに思われたが、日本列島内は一部を除いて大きな問題とは見られなかった。むしろ双方米ソの言いなりにならねばならない事への民族共通の憤りとして意見の一致を見る。南日本での学生運動では、特に北日本との連携が叫ばれたりもした。
米ソ双方は、日本全体での民族主義台頭を警戒。両国ともそれぞれの陣営への援助を増やすことになる。
同年、人民韓国も北ベトナムに派兵。
 ・フランス、NATO脱退
核の独自開発もあって、フランス特有の大国外交が目立つ。しかしフランス外交の復権と国民意識の向上が進んだのも事実だった。そしてフランスが独自色を強める日本との関係強化を始めるようになる
 ・日本、初の超高層ビル完成(霞ヶ関ビル)
かなりの間、日本発展の象徴の一つとされる。以後、超高層建築が増加。

・一九六七年
 ・「ヨーロッパ共同体(EC)」成立

ヨーロッパの自由主義陣営の国々が、EEC(ヨーロッパ経済共同体)からさらに進んだ貿易や交流の促進を図るための新たな組織を設立。後のヨーロッパ連合の母体となる。ただし、イギリス、北欧諸国は不参加。
 ・「第三次中東戦争」(六日戦争)
イスラエル軍が、電撃的な侵攻でエジプトのシナイ半島を占領。スエズ運河が封鎖されて世界経済が混乱。軍事面では、現代版の電撃戦が注目を集める。
 ・日本、重大な工業病相次いで表面化
工業病と工業汚染も問題化し、急速な経済発展の負の側面が表面化する。初期の段階では、政府の対応も経済成長を優先したため後手後手に回る。
 ・日本、ベトナムに有力な海軍を派遣
ベトナム戦争の激化に伴い、日本軍はベトナムに空母を派遣。内外に物議を醸しだし、共産主義陣営からは大日本帝国軍の侵略再開と言われる。

・一九六八年
 ・「テト攻勢」

南ヴェトナム解放戦線が大規模な攻勢を実施。攻勢自体は様々な理由で失敗して南ベトナム解放戦線は壊滅的打撃を受けるが、メディアの発達を利用され戦略的、政治的にはアメリカが敗北。日本でも、反戦運動が激化。
なおサイゴンの日本大使館は、襲撃を受けるも現地守備隊により守られたが、アメリカ軍が非難される要素を一つ増やす結果になってしまった。
 ・「プラハの春」
チェコ民主化運動。ソ連軍により鎮圧される。北日本では、特に民主化運動は行われず、影響もなし。
 ・日本、「成田闘争」始まる
政府は、国策だとして空港建設反対派の排除を徐々に強めるようになる。最終的には軍を動員して、反対派を空港建設予定地から全て強制排除。国民全体も、北日本や共産主義陣営との対抗上の国力増大を是として政府を概ね支持するが問題も残した。後に補償問題が少ないとされる海上空港建設が盛んとなる。北日本は、日本政府を強権的だと批判するが、以前ほどのトーンとはならず。
なお、成田空港の建設は関東復興事業の一環でもあり、連動して首都と新空港を結ぶ鉄道と高速道路も新たに建設される。
 ・米、キング牧師暗殺
ベトナム戦争で表面化していた人種差別問題がさらに顕著化。前後してアメリカでは、人種差別問題解決のために膨大な国費と国力、労力が投入される。これがアメリカの一時的な停滞と、その後の発展に繋がった。

・一九六九年
 ・「中ソ国境紛争」

ソ連と人民中華が、国境沿いを流れるアムール川の小島を巡り国境紛争を展開。世界に共産陣営の分裂を印象づける。周辺各国も緊張増加。
 ・「中韓紛争」
人民韓国が、文革からの同族救出及び解放を理由に人民中華側に侵攻。国境全域に布陣する数十万の軍が戦闘を行う大規模な武力紛争となる。人民中華の国際的孤立が改めて浮き彫り。
北日本は人民韓国支持を打ち出して、人民中華との対立をさらに深める。日本は、軍事圧力が一層減った事で軍備の見直しが進む。
 ・日本、GNPで世界第二位となる
日本が西ドイツを抜いて世界第二位に浮上。日本の高度経済成長がピークへと突入し、国内開発、経済発展の遅れる北日本の焦りはさらに強まる。
 ・米、月面着陸成功(10月)
米ソによる月レースは、アポロ11号の月面着陸でアメリカの勝利で終わる。しかし以後の宇宙開発は停滞期に入る。

・一九七〇年
 ・日本、人工衛星打ち上げ成功

世界で四番目の成功となる。以後日本では、精力的な宇宙開発が行われるようになる。これは、国内事情から核兵器を保有できない事への代替手段であった。
 ・日本、ベトナムからの一年以内の全面撤退を発表
日米安全保障条約改定への反対運動と合わせて、ベトナム撤退運動は日本での反対運動のピークとなる。そして日米安保改訂とベトナムからの撤退発表以後は、反対運動が急速に衰退する。
 ・日本、「大阪万国博覧会」開催(3月〜)
日本はアジアで初めての万国博覧会を開催。北日本も国民広くに特別招待を受け、南の発展に驚愕する。
 ・「大阪会議」(8月)
南北日本、互いの国家承認は先送りして、まずは日本戦争の休戦状態の終了を確認。休戦が終戦へと変化。ただし終戦記念日は、この後も一つのままとなる。しかし、戦争終了により両者の国家承認も事実上行われた事になる。
また、南北離散家族が初めての対面。以後、対面事業、一時帰郷事業が常態化。日本列島でデタント機運が上昇。国連も会議を承認し、国際的な北日本の国家承認の大きな一歩となる。
人民韓国が、北日本の行動は裏切りとして関係を冷却化。文革中の人民中華も毛沢東が南北日本双方を強く非難したが、既に国交どころか何の関係もないため特に変化なし。ソ連は、特に大きなリアクションを起こさず。
日本の和解推進は、南日本の経済力、国力拡大による余裕、北日本の経済優先政策、ベトナム戦争で窮地に立つアメリカ外交、さらには経済的に行き詰まりつつあったソ連外交がかみ合った結果でもあった。南日本(日本)は何となく流されただけという向きが強かった。
しかしアメリカにとって必要な政治的衝撃には足りず。

・一九七一年
 ・「ニクソンショック」

米、純金とドルの交換停止。南日本の円レートが360円の固定から変動制に変化。一気に320円にまで円高が進む。日本は一時的に輸出不況に陥るも、アメリカ経済の傾きと同時に日本経済の発展を印象づける。また日本では、不景気対策として行われた経済政策の結果、国内で大規模な土地投機が発生。
 ・日本、ベトナムから完全撤退
70年から進んでいた軍の撤退がこの年の春に完了。以後アメリカ軍以外の外国軍は、南ベトナムからいなくなる。
 ・佐藤栄作、野坂参三、ノーベル平和賞受賞
南北日本の和解と日本戦争の休戦状態を終了させた事が評価される。南北日本両国ではお祭り騒ぎとなり、南北融和も一層進展。

・一九七二年
 ・日本、冬季オリンピック開催(長野)

日本列島のかけ声もあって、開発の遅れていた長野と比較的近在の新潟などの開発が進展。日本の高度経済成長の実質的な最後を飾ることになる。
この時も北日本が特別招待され、冬の競技のため活躍。
 ・日本、沖縄復帰
沖縄が日本に復帰する。これでアメリカ占領下の領土の全てが復帰する。日本では、沖縄・小笠原開発庁が設置される。以後日本では、北日本を唯一未解決の領土問題と位置づける事になる。
 ・日本、「日本列島改造論」
田中角栄首相の発言で、日本は国内全土のインフラ整備が国策として推進される。田中角栄は、以後4年ほど政権首班を担当。冷戦構造下の分断国家では安定した強い指導者が求められ、彼には経済発展と前政権での南北融和促進が期待されていた。
 ・ニクソン訪中
アメリカと人民中華が国交樹立。冷戦構造に大きな変化。日本にアメリカへの裏切り感と焦りが出る。日本は、北日本を含め周辺国、アメリカと水面下での協議をそれぞれに重ねる。
 ・戦略兵器制限条約(SALT)調印
米ソ間で、保有しすぎた核兵器に対する一定の軍縮と制限が以後行われるようになる。両国とも、軍拡競争に疲れが見えていた。
 ・日本、「成田空港開港」
日本初の4000メートル級滑走路(2本)を備えた国際空港となる。前後して、東京=成田間の高速道路と鉄道の整備も精力的に進められる。これは、日本戦争での関東地方の戦災復興から続いていた事業でもあった。ただし、空港建設反対派は、左翼的活動として徹底的に排除されるなど、負の側面もあった。
 ・東西ドイツと南北日本、それぞれが互いに国際承認
南北日本との間に国交が正式に樹立され、互いに大使館を設置。二つの戦争での離散家族の相互交流活発化。ただし、アメリカなど一部の国が北日本の承認を見送り。東アジアの一部の国からも非難。
 ・日本、人民中華との関係改善先送り
日本、南北関係維持のために人民中華との関係改善を先送りし、台湾(中華民国)との外交関係を継続。逆にアメリカから一定の圧力があるが、日本は北日本との関係を重視。ソ連など東側陣営(人民中華周辺諸国)も、日本の動きを支持。日本とアメリカとの間に溝。南北融和と沖縄返還もあって、日本国内で在日米軍見直しの考えが大きく浮上。自力での防衛のための軍備増強と、核兵器に関しても保有までいかなくても議論や研究などが行われるようになる。一方では、反核運動を切っ掛けとして安保運動家が少しばかり息を吹き返す。

・一九七三年
 ・日本円、変動相場制に移行

変動相場制の導入直後に1ドル=300円台まで円高が進む。日本国内で、輸出型経済モデルに対する懸念広がると同時に、アメリカへの反発が強まる。
 ・日本、返還された沖縄及び周辺海域での資源調査で、尖閣諸島に海底油田発見の第一報
当初は世界屈指の超巨大海底油田と報道され、日本中が沸き立つ。
日本といまだ国交のない人民中華が、尖閣諸島の領有を一方的に宣言。日本国民の間に反人民中華世論が台頭。
 ・「第四次中東戦争」
初戦でイスラエル軍が敗退するが、その後アラブ各国は惨敗。自らの戦術的不利を戦略で覆す行動に出る。
 ・「オイルショック」
OPECが石油戦略決定。石油価格が大幅に上昇。
日本、高度経済成長終わる。世界経済全体も停滞。社会主義陣営に影響はなかったと宣伝されたが、地下経済でつながっていた事などもあって東側経済も大きな打撃を受ける。一方で、尖閣海底油田開発に追い風となる。
 ・米ソ、核戦争防止協定調印
紳士協定に近いが、一定の歯止めになると国際的に評価される。これは、人民中華と西側の接近がもたらした結果の一つだった。
 ・東西ドイツと北日本、国連へ加盟
同時にソ連が日本との関係を進め、ようやく通常の国際関係が成立する。アメリカも北日本をようやく正式承認。それぞれの大使館が設置される。
 ・アフガニスタン、イスラム原理主義クーデター
新たなイデオロギー出現に世界が緊張。アメリカはイラン・パーレビー王朝への支援を強化し、ソ連は中央アジア統治に配慮し、万が一の事態に備えるようになる。
 ・「南北日本デタント」
南北日本、国交に続いて限定的な経済交流や一般の相互訪問が実現。南北双方の物産が互いの市場に現れる。北から南に輸出される物産による利益は、以後北日本の貴重な外貨となる。また南の日本にとっては、オイルショック以後の経済回復の切っ掛けの一つと考えられた。
この頃の北日本は、北樺太の石油や天然ガスの開発進展もあって、経済が上向き。東ドイツというよりはルーマニアのような状態になる。北日本に経済特区が設けられて試験的に市場経済も導入され、南の企業が合弁の形で進出。石油や天然ガスの西側(日本)への輸出も行われるようになる。

・一九七四年
 ・インド、初の原爆実験

核保有国がこれで6カ国になり、ソ連とインドの接近が言われる。同時に、世界で核不拡散が言われるようになる。この頃北日本では核開発疑惑が浮上していたが、南日本はデタントを優先してむしろ擁護。北日本側も、電力需要拡大に対する原子力発電のための予備的な研究段階であり、また平和利用だと各国に説明。
 ・米、「ウォーターゲート事件」
ニクソン大統領辞任。アメリカ低迷の象徴の一つとされる。
 ・日、尖閣諸島海底油田の本格調査開始
中華人民共和国が強く非難するが、日本側は周辺部の警戒及び軍備増強で対応。以後「尖閣問題」とされる。
 ・尖閣問題でアメリカが苦言
日本は北日本に対向するための地下資源確保が必要だという論法で油田調査を続ける。

・一九七五年
 ・サイゴン陥落

ベトナム戦争終戦。南ベトナム滅亡。多数のベトナム難民が発生し、日本ではベトナム戦争派兵の影響もあって、難民の受け入れを行う。北日本は、ベトナムとの関係を一層強化。
 ・台湾(中華民国)、蒋介石死去
永久大統領だった蒋介石の死去により、台湾の独裁体制に陰りが見える。日本は台湾との関係強化に動き、国境の確定を実施。この時尖閣諸島が問題視されるが、台湾政府は日本の主権を承認。
 ・スペイン、フランコ総統死去。王政復帰
スペインは、急速に西側国家としての姿勢を見せる。
 ・初の「先進国首脳会議(サミット)」開催
米・英・仏・西独・伊に加えて日本が参加(後にカナダが加わる)。北日本は、内心さらに大きな衝撃を受ける。
 ・日本、尖閣海底油田の試掘に成功
しかし、当初1000億バレルと言われた石油埋蔵量は極めて過大な評価だった事が判明。実際は、この時点での調査では究極可採埋蔵量5億トン(約32億バレル)程度と判定。それでも年産最大1000万トン近くが見込まれるため、日本政府は油田開発を本格化を決定。

・一九七六年
 ・人民中華で政変

建国の元勲である周恩来、毛沢東、朱徳が続けて死去。政治的混乱発生。毛沢東側近の江青ら「四人組」逮捕。
 ・日本、「ロッキード事件」(汚職事件)
田中角栄が罪を問われるが、日本国民からの人気は衰えず。アメリカの謀略だという説が流布して反米世論を醸成。
 ・モントリオールオリンピック開催
東西ドイツ、南北日本が初めて全て参加。
 ・日本・ソ連、ソ連空軍のミグ25が亡命
沿海州を発進したソ連軍機が、日本の秋田空港に強行着陸して亡命。着陸直前まで発見できなかった日本の防空体制の不備が明らかとなる。

・一九七七年
 ・世界的に200海里水域の設定進む

南北日本とも、多くの経済海域を持つようになり、協議の上で境界線地域の線引きも行われる。一方で、南日本と人民韓国との境界線は長い間定まらず、両者の間に緊張状態が続く。
 ・日本、尖閣海底油田の商業活動開始
1980年頃より本格採掘開始。後に、現地での自然破壊が問題となる。

・一九七八年
 ・「尖閣諸島紛争」

人民中華の漁船が大挙尖閣諸島に殺到。日本政府は当初海上保安庁で対応しようとするが、漁船衝突による死者発生で問題が深刻化。国連が調停しようとするが、未だ両者の間に国交がないため問題が長期化。
人民中華側が軍艦を派遣するに及び、日本海軍も戦闘艦艇を派遣。軍艦同士の砲撃事件にまで発展し、日本政府が現地への空母派遣の可能性を発言。
ここでアメリカが調停に入り、人民中華側が引き上げる形で問題終息。以後日本は八重山諸島の軍備を大幅に増強するようになる。
この問題で北日本は終始南日本の肩を持つ。

・一九七九年
 ・イラン、イスラム原理主義革命

国内からアメリカの勢力を完全に排除し、宗教を基本に置いた国家建設を開始。世界中が、イスラム原理主義に対して強い警戒感を持つ。
 ・ソ連、「アフガニスタン侵攻」
国内へのイスラム原理主義波及を警戒したソ連が、予防戦争を開始。後に泥沼化。
 ・米、イラン、アフガン双方の軍事介入失敗
アメリカの権威失墜。アメリカ国内で、「強いアメリカ」が求められるようになる。
 ・「レバノン紛争」
イスラエル軍が隣国レバノンに侵攻。
 ・英、首相にサッチャーが就任
イギリス、国内の建て直しを計ると共に強気の外交に転換。
この年に起きた一連の外交変化で、東西緊張が再び強まる。
南北日本の関係も、他国に引きずられて冷却化に向かう。
 ・「第二次オイルショック」
レバノン紛争が原因。日本では産業合理化が進展。後の飛躍につながる。日本は、尖閣海底油田の天然ガス利用を決定。

・一九八〇年
 ・ユーゴスラヴィア、ティトー死去

以後、ユーゴスラヴィア国内の団結が徐々に崩れ始め、ソ連崩壊と共に決定的となる。
 ・「イラン=イラク戦争」開始
世界中の国が中東では珍しい共和制国家のイラクを支持、支援する。当初世界は原理主義の拡大を強く警戒。
 ・「モスクワオリンピック」開催
アメリカなど西側諸国の多くが不参加。日本は、オリンピックは政治とは関係ないとして参加。北日本との融和外交を優先した。日本と西側諸国との関係が若干冷却化。
 ・英、歌手ジョン・レノン射殺

・一九八一年
 ・米、大統領にレーガンが就任

「強いアメリカ」を旗印に国内改革と軍拡に傾倒。
 ・仏、大統領にミッテランが就任
フランスの親米外交が以後進展。
 ・日本、1988年の名古屋オリンピック開催が決定
東側諸国の票が勝敗を決した。候補地を競い合った人民韓国が東側諸国への不満を表明。
 ・北日本、千島列島で原爆実験に成功(年末)
北日本は、二度と日本の大地に核兵器を落とさせないための抑止力だと説明。しかし日本では市民レベルで強い感情的反発が発生。日本政府も強い懸念を発表。以後、南北日本の関係が大きく悪化。原爆投下地の広島、長崎、小倉を中心に大規模なデモも起き、以後しばらく両国の国交は最低限となる。西側諸国全体からも北日本への敵視が強まる。
 ・インターネット誕生
当初は軍事通信網の一つとしての誕生となる。

・一九八二年
 ・日本と人民中華、初めての公式対話

国交正常化に向けての交渉が始まる。核兵器問題に端を発する南北日本の対立激化が原因。
 ・英、「フォークランド紛争」
南北日本は特に関わりなし。ただし、戦訓は双方で採用され、日本では艦艇の防空力、防御力強化が、北日本では対艦ミサイルの増強が行われる。
 ・日本、首相に中曽根康弘就任
戦後政治の総決算として大規模な行政改革に着手。また、「日本列島不沈空母発言」を行い、軍拡路線にも傾倒。日本の国防費が10数年ぶりにGNP比2%突破。日本は、北日本の核兵器に対抗を理由として、長距離巡航ミサイルの保有や新型の中型空母、原子力潜水艦の新たな建造など、大幅な軍備拡張を実施。アメリカとの関係も強化して、多数の新兵器を購入(もしくはライセンス生産)。さらに独自の偵察衛星配備のため、宇宙開発予算も大幅に拡大。
対抗外交として北日本も軍拡に転じ、南北日本の対立がさらに深まる。
 ・中曽根康弘訪中。日中国交正常化
日本、中華人民共和国との国交を樹立。中華民国(台湾)との関係は政府レベルでは事実上の断絶。
 ・北日本、野坂参三が書記長引退
野坂参三が30年以上続けていた書記長を引退。以後名誉書記長となり、死去する1993年まで一定の政治的影響力は保ち続ける。引退理由は不明だが、核開発に満足したからだとも、南北関係悪化と日中国交正常化がショックだったと言われる。しかし、人民韓国のように世襲を行わないことを内外に印象づける。
以後北日本は、独裁者と呼ぶべき人物がいなくなり、官僚、軍人、党による共同運営体制が強くなり、元から強かった官僚専制国家の方向性をさらに強める。この頃から南北日本双方が、最も完成した社会主義国家と言われるようになる。また北日本が最高権力者の世襲を否定した事で、世襲を目指していた人民韓国に衝撃が走る。

・一九八三年
 ・米、戦略防衛構想(SDI)発表

「スター・ウォーズ」とも言われ、米ソ軍拡の象徴とされる。実際は、軍事方面への研究開発費の増額が目的だった。
 ・ソ連、財政悪化
ソ連、軍拡とアフガン侵攻により財政状態が極端に悪化していることが、国際的にも明らかとなる。
 ・「日韓国境紛争」
西朝鮮海峡の対馬側で銃撃戦が発生。その後両者のチキンレースが激化して、竹島も含めて軍事的緊張が大きく拡大。空中戦も発生して日本側は空母まで投入し、圧倒的海空戦力差で人民韓国側は事実上引き下がった形で終結。日本側は防空体制の不備が、人民韓国側は旧式のミグ戦闘機がほとんど役立たずである事が判明。
この間北日本は、人民韓国側の要請があるも必要以上に日本を刺激せず。
 ・日本、「ファミリーコンピュータ」発売。NHK「おしん」放映。日本からの文化発信が始まる

一九八四年
 ・「ロサンジェルスオリンピック」開催

東側諸国は揃って不参加で、北日本も不参加。
 ・日本、ペルシャ湾に海軍艦艇を派兵
自国タンカーの護衛が理由で、実際何度も攻撃を受ける。
 ・北日本、ソ連の要請を受けてアフガンに派兵
派兵規模は限られ、ヘリと一部特殊部隊がほとんどなる。



●年表2