■フェイズ02「暗雲到来」

 暗雲とは、いつも突然のように到来するものらしい。
 1939年7月初旬、日本と中華民国との軍事衝突が最初の事件だった。「第二次上海事変」の発生だった。
 今までドイツとの関係から自重していたと言われていた蒋介石率いる国民党は、ミュンヘン会談以後のドイツの膨張外交に見切りを付けてアメリカやソ連、さらにはイギリス、フランスへの傾倒を一気に強めた。要するに当時枢軸と言われるようになっていた陣営から離脱を図ったのだ。
 そして1936年頃からは、アメリカ、ソ連などから大量の武器が流れ込んでおり、中華民国軍の見かけ上の戦力は大きく拡大していた。ソ連などは、2億5000万ドル分もの武器、弾薬を様々ルートで中華民国に渡していたほどだった。実際、1937年以後に中華民国軍が手にした武器の過半数以上がソ連製だった。加えて、ドイツや日本に変わり、ソ連軍の軍事顧問も多数入り込んでいた。
 ソ連がこれほど中華民国に肩入れしたのは、中華民国を利用して日本を牽制そしてアジアに拘束しておくためだった。他の欧米諸国にとっては、少し出過ぎた日本に対する牽制であり見せしめだった。そしてどの国も牽制や示威、威圧、恫喝が目的であり、不思議と言うべきか当然と言うべきか誰も戦争や大規模紛争までは望んではいなかった。せいぜい、暴発した国民党軍の攻撃で日本が少し痛い目を見ればいいという程度のものだった。
 しかし中華民国の蒋介石は、諸外国の支援を受けた事と自らの見せかけの軍事力に自信を持った事もあって、突然のように日本へと牙をむく。
 具体的には、短期的には上海から日本軍を追い出すことで、国威向上をはかる事を画策した。長期的には、自分たちと日本の間に争乱を作り上げ、さらにはそれを日本と他の諸外国の対立そして戦争に発展させ、最終的に他国を利用して満州を取り戻すという構想だった。有る意味、実に中華的発想と言えるだろう。
 そしてこの時期動いたのは、米ソからの軍事支援により自らの軍隊が飛躍的に強化されたと考えていたためだ。全ての意味において中途半端な軍事力が、蒋介石並びに国民党の日本への強気を呼び込んでいたのだった。
 しかも上海での行動とほぼ同時に、万里の長城付近にも日中双方が非武装地帯としていた地域に大軍を布陣させた。
 日本が警戒態勢を大きく引き上げるのは、むしろ当然だった。そして中華民国の突然の行動は、どの国も予測していなかった。それだけにどの国も、対応が後手後手に回ることになる。

 事件の発端は、日本人将校の射殺事件と中華民国保安隊員の射殺だったが、日本側は中華民国の自作自演と断定。諸外国にも事件についての詳細を発表し、中華民国に対して厳しい態度で臨んだ。既に同種のテロ事件は華北地方でも発生しており、混乱の不拡大を前提としつつも、これ以上譲る気はなかった。日本としては、テロを馬鹿馬鹿しい戦闘行為にまで発展させる気がなかったからだ。
 しかし中華側も、常に権高に出てくる日本の行動を見透かしており、態度を二転三転させてその間に自分たちの準備を進めた。日本に反発的な国々には、積極的なロビー活動と事実を都合良く解釈した自国優位の発表を行った。
 そして上海の非武装中立地帯に作られた中華民国側の違法の塹壕から銃撃を開始して、それが戦闘の合図となった。
 この時点でも日本側は、不拡大方針に従った対応を行い、租界各国に調停を依頼した。
 しかし事態は一方的な国民党軍側の攻撃拡大という形で急速に進み、日本政府は交渉が不可能と判断すると軍を用いることを決意。現地からの大規模な援軍要請に対して、陸軍1個軍3個師団の増援が決められた。しかもこの時の日本軍は、半ば実験的措置で機械化旅団を支援部隊として送ることにした。示威目的と共に高価な玩具を使ってみようという意図程度のものだったが、これは後にコロンブス的発想となる。
 ちなみに、日本国民の間で中華をさげすむ風潮が強まっていたため、日本側も安易な軍事力の行使には肯定的だった。政府をはじめ日本の中枢は馬鹿馬鹿しい戦闘の拡大は避けたかったが、日本陸軍内部のかなりは一戦で敵全軍の戦意を挫いてみせると気勢を上げていた。政府としても事態がここまで進んだ以上、できれば示威や威圧で、不可能ならば可能な限り短期間での戦闘による解決を目指そうとした。
 一方では、万里の長城方面での動きは、相手が大軍であるため数ヶ月前から動きを掴んでいたため関東軍は秘密裏に若干増強されており、満州南西部に素早く大軍を布陣して牽制をかけた。今までなら、これで中華民国(国民党)軍は、引き下がるはずだった。
 だが、首都南京近辺の国民党精鋭部隊が、日本側の租界を包囲する形で大軍を展開。その数は初期だけで3万人にも達し、最終的には4路軍12師(=師団)もの大軍が準備された。
 なお、当時の上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に分かれていた。自国民を守るため、米軍2800人、英軍2600人、日本軍(海軍陸戦隊)2500人、仏軍2050人、伊軍770人がいた。そして日本人が多数住む区画を通称で「日本租界」と呼び、主に日本海軍陸戦隊が防衛していた。陸軍ではなく海軍部隊だったのは、海外居留地防衛は国際的な慣例で海軍の陸戦部隊が警備するのが慣わしだったからに過ぎない。
 そして日本租界は上海租界の外縁部にあり、攻撃しやすい位置にあった。しかも上海の日本海軍陸戦隊では、上海に停泊中の軍艦からの増援を含めても4000名しかなく、防衛戦をするにしても太刀打ちできる戦力ではなかった。そして日本軍の足下を見る国民党軍は戦闘を故意に拡大させ、ついには空襲を実施。日本の態度を頑ななものとさせる。
 そして英米仏による停戦勧告があったが、国民党側はまともな交渉を持たずに日本軍との交戦という既成事実を積み上げるために戦線を拡大する一方で、邦人救援を理由に日本側も調停を謝絶。既に本格的な戦闘に突入していた上に、国民党が協定違反による開戦意思を持っている以上、それと対決する以外ないと日本側は判断しての事だった。

 その一週間後には、早くも上海派遣軍の1個軍3個師団を乗せた日本軍の船団が電撃的に到着して、戦闘は一気に拡大した。
 日本軍の行動がこれほど早かったのは、中華民国側の以前からの行動を見て既に事前準備を進めていたからだった。加えて、日本本土ではさらなる動員が進められており、陸軍部隊の大量派兵を緊急決定していた。既に派遣されている先鋒の1個軍に加えてさらに1個軍を準備し、圧倒的戦力を用いて紛争の短期解決を図ろうという意図だった。戦力の中には、発展した工業力を用いてドイツ風に作られた戦車を中心にした、日本陸軍の中でも精鋭の機械化部隊(師団)も含まれていた。同時に関東軍にも、対中華民国向けとして1個軍団の増員が決定した。
 当時日本陸軍は、まだ増強が本格化していないので17個師団しかない事を考えれば、既にほとんど総動員状態だった。
 元々関東軍として5個師団が既に満州にあり、他に朝鮮軍が2個師団あり、内地の近衛師団は実質的に動かせないので残りは9個師団だが、その全てが動員されたことになる。既に軍備の増強が始まっていた事が、この時の動員を可能としていた。また戦車1個師団、歩兵12個師団が軍備増強計画に沿って編成途上にあり、うち3個師団は準戦時動員を行えば既に出動可能なほど編成が進んでいた。ただし、この時点では日本国内での本格的な動員は行われてはいなかった。日本軍としては、あくまで事変、紛争としか考えておらず、そのための大戦力の一挙投入だった。
 一方で国民党は、日本以外の列強と戦争を行うつもりは無かったので、戦闘を拡大しつつも租界への侵入は行わなかった。あくまで、日本軍を挑発して自分たちに有利な筈の塹壕戦に引き込むことが目的だった。そのための銃撃や砲撃、空襲だったのだ。この時点では、国民党も紛争以上は望んでいなかったと見ることも出来るだろう。

 しかし中華側の予測を上回って日本軍の行動は素早く、1個軍(軍団)を載せた船団には、戦艦や空母など有力な艦艇も含まれていた。日本は本気だった。本気で、自らの圧倒的勝利による短期収拾を図るつもりだった何よりの証拠だった。
 すぐにも租界側の日本軍防衛線に増援部隊が合流して危機的状況を回避し、その一方では上海派遣軍の3個師団が上海北部沿岸に艦船砲撃の支援のもとで上陸作戦を開始した。
 上陸作戦そのものは、国民党軍が沿岸防衛などほとんど考えていなかったため順調に進み、歩兵部隊の上陸の後で機械化旅団も無事に上陸を果たした。
 国民党軍の動きが消極的だったのは、重砲や航空機などが不足していた事もあったが、彼らが第一次世界大戦を教訓とした塹壕戦を日本軍に強いることを目的としていたからだった。
 もともとはドイツ軍顧問から教わったものだったが、ソ連軍は武器こそ渡すが軍事顧問は航空機の教官止まりのため、戦術が変わることも無かった。日本軍事顧問が教えたのも、ゲリラ戦を仕掛けてくる敵(共産党軍)への対処法であり、大軍と戦う術は塹壕戦しかなかったといえる。
 しかも、元々国民党精鋭部隊が日独の軍事顧問団に教育された事と、日本側が当初から既に現地入りしていた新鋭の機械化部隊を投入したことから日本軍の圧倒的優位で展開した。
 本気になった日本軍は、軍閥とは決定的に格が違った。
 この時日本軍は、沖合の航空母艦から発艦した海軍航空隊による航空支援のもとで機械化部隊による突破作戦を行い、前面の重武装化された歩兵部隊は先の世界大戦で証明された浸透突破(肉弾攻撃)を実施した。
 航空母艦を用いた洋上からの濃密な航空支援、戦車、装甲車、自動車類で構成された機械化部隊の運用のどちらもが革新的な軍事力であり、二つを組み合わせた戦闘はスペイン内戦でも見られなかったような革新的な戦闘形式の萌芽であった。
 このため、第一次世界大戦のような塹壕戦で相手を消耗させれば良いと考えていた国民党軍は、混乱するばかりで対応が取れなかった。また個々の兵士、士官の練度が低く機械化戦力、砲兵力に欠けるため、対応したくてもできない状態だった。想定外の空襲や装甲車両の群の出現などで、パニックに陥った者が多数発生して、本格的戦闘前に壊乱した部隊もあったほどだった。そして一旦背を見せた軍隊ほど脆いものはなく、上海の非武装地帯に展開した国民党軍は一気に瓦解していった。こうなっては、圧倒的に国民党優位だった兵力差も関係なかった。
 結局、一週間程度の戦闘で上海方面の国民党軍は戦線を突破され、軍事組織として瓦解。主力部隊は左翼の歩兵部隊と右翼から後方に突破した機械化部隊に包囲され、多くが降伏を余儀なくされた。また包囲を免れた戦力は、そのまま首都南京へと後退していった。事実上の総崩れだった。後の戦闘は追撃戦であり、日本軍はとりあえず上海の非武装地帯から逃げる国民党軍を後ろか撃ち続けるという戦闘の名にも値しないほどの掃討戦を行いう。
 そして日本軍は、政府の強い命令で進撃を一旦停止する事になる。戦闘区域が上海だけであり、日本側の目的を達した以上、それより進むことは許されなかった。
 万が一全面戦争にでもなれば、1940年の開催を予定していた東京でのエキスポとオリンピックの同時開催が不可能になるかもしれなかったからだ。この時は、中華民国の戦闘に勝つことよりも、エキスポとオリンピックの方が重要だった。この事は、流石の日本陸軍もある程度了解していた。前線の将校達も、自分たちが五輪や万博を潰すことになるかもしれない危険な賭けに出ることはなかった。
 なお、上海の動きに連動して、万里の長城方面でも双方の軍隊が非武装中立地帯に入り睨み合い状態となった。しかし双方とも結局発砲一つする事なく、付近の象徴的な建造物から「盧溝橋の対陣」と呼ばれることになった。
 ここまでが8月23日頃の出来事だった。
 しかし事態は流動的であり、日本軍の追撃開始と全面戦争の可能性があった。日本国内でも、中華民国への懲罰が必要だとの雰囲気が強く、特に軍部は三ヶ月で中華民国は降伏すると強気の姿勢を維持していた。気にしていたのは、五輪と万博の開催を自分たちで潰すという不名誉を被りたくないという事ぐらいだった。当時不必要なまでに「政治家」化していた将校達の考えとは、その程度のものでしかなかった。
 一方で日本政府首班だった近衛文麿は事態収拾に意欲的で、日本軍の勝利が見えた段階から海外との交渉を活発化させていた。
 だが、世界情勢が一変する。

 1939年8月23日、ナチス・ドイツとソビエト連邦の間に「不可侵条約」が締結されたのだ。
 日本政府は、突然のドイツの裏切りとも言える行為に混乱した。またソ連が満州や南樺太に攻め込むのではないかと強く警戒し、首都南京方面の追撃、長城方面での北京方面への進軍は立ち消えとなって、防衛密度を高めるためにも軍は満州へと下げられた。日本の組織の中で一番混乱していたのは陸軍で、大規模な謀略に陥れられたと言うものまでが現れたほどだった。
 そして日本が支那からの軍を戻したりドイツの真意を探ったりしている中、事態はさらに激変する。
 9月1日にドイツがポーランドに侵攻して、9月3日にはイギリス、フランスがドイツの宣戦布告して第二次世界大戦が発生してしまったのだ。
 しかも日本にとって厄介な事に、いやヨーロッパの国々にとっても厄介な事に、日本と紛争状態だった中華民国が日本だけでなくドイツにも宣戦布告するという事態に発展する。
 誰も予測しなかった事件であり、イギリス、フランスなどは宣言の撤回を中華民国政府に強く迫ったほどだった。
 中華民国の参戦理由は、日本と中華民国は既に事実上の戦争状態であり、順序が逆になったが日本に宣戦布告するのが国際的道義だとした。そしてその上で、日本と事実上の同盟関係にあるドイツに宣戦布告するのが国際的な道理だとした。
 だが、世界中の目を、あっと言う間に軍事的不利になった自分達に向けるのが目的だったのは間違いなかった。また国民党としては、ひも付きの援助よりも日本との戦争でもたらされるであろう無償援助や支援を当てにしていたことは間違いなかった。しかしこれは、基本的に中華情勢しか見ていないが故の行動だったと理解できるだろう。

 突然の戦争開始と、予期せぬ拡大に世界中は混乱した。ドイツと敵対することになったイギリスとフランスは、ヨーロッパ以外での面倒を抱えたくないので中華民国の参戦を阻止したかった。特に、アジアで最も強大な軍事力を持つ日本との戦争は、可能な限り避けたかった。自分たちの植民地が、強大な海軍を有する日本の餌食にになってしまう可能性が極めて高いからだ。
 しかし日本がドイツと軍事同盟を結んでいるのは事実だし、ドイツとの戦争状態が日本との戦争状態を意味する可能性は最初から高い事も考慮していた。しかも今回の第二次上海事変から続く一連の行動は、日本とドイツの連携と見ることも可能だった。極めて短期間の間に2箇所で大規模な戦争が始まった事は、軍事同盟による連携抜きには考えられないようにも思えた。
 そして独立国家が行った宣戦布告を撤回させることは難しく、しかもヨーロッパから遠い国とあっては尚更だった。日本側もドイツ、中華民国双方の動きを無視することも出来ず、ドイツとの戦端を開いたイギリス、フランス、そして中華民国に対して宣戦布告を実施。イギリスとフランスも、日本に対する宣戦布告に踏み切らざるを得なくなった。
 なお、ドイツの中枢部は、上海での大規模軍事衝突が本格的戦争にならなかった事で、自分たちのポーランドに対する行動も大丈夫と確信したのだと言われている。だが結果は冷酷だった。

 かくして後に第二次世界大戦と呼称される戦争は、開戦当初から世界規模での戦争へと発展した。
 しかし、突然の戦争にとまどっているというのが、日本国民の一般的な感情だった。なぜ自分たちが突然戦争を始めなければいけないのか、説明できる人間はどこにもいなかった。
 それよりも、突然戦争を始めてエキスポとオリンピック、さらには紀元二六〇〇年祭すら中止に追い込んだドイツに対する反感が強まったが、事態はそんな感情的理由で流されるようなものではなかった。すでに事態は、国家が自らの存亡を賭けて戦う総力戦へと移行しているのだ。
 列強同士の宣戦布告がどういうものであるかは、先の世界大戦が証明していた事だった。

 なお、既にドイツ、日本、イタリアの同盟集団は自らの言葉により「枢軸(アクシス)」と言われていたが、イギリス、フランスチャイナのグループは、まだ「連合」とは言われていなかった。
 今回の戦争は、それほど急で混乱した状態で始まったのだ。


フェイズ03「日本の戦争準備と新造戦艦」