■フェイズ07「インド洋侵攻」

 インドはイギリスの力の源だった。
 資源供給地であり、市場であり、資本投下地であり、人材育成の場であり、そして世界国家としてのイギリスの象徴的な場所であった。
 イギリスの白人生存圏(カナダ、オーストラリアなど)の自治が進んでいたこの頃をイギリス単独で見た場合、インドの価値は生命線と言って間違いないほどだった。少なくともブリテン島のイギリス本国人は、感情面でそう考えていた。
 しかしそのインドに、イギリス建国以来の危機が迫っていた。

 既に1940年10月頃からインド洋各地に日本海軍の潜水艦や通商破壊艦艇が出没するようになり、その数は時間を経るごとに増えていた。日本は、イギリスの手によって完成したばかりだったシンガポールの海軍施設を起点として、マレー半島西部のペナン、ジャワ島のジャカルタに拠点を置いて積極的な作戦行動を実施していた。このためインド洋東部でのイギリスの通商路は同年晩秋にはボロボロとなり、インド、オセアニア地域を結ぶ航路には護衛なしに船を出せない状況になっていた。インド洋も北大西洋や北海と同じ場所に変化したのだ。
 オセアニア地域の太平洋側はまだマシだったが、こちらもビスマーク諸島を日本軍が呆気なく占領して潜水艦や航空機の基地を展開し、インド洋ほどではないが通商破壊を行っていた。日本が太平洋を疎かにしていたのは、太平洋と大西洋を行き来するイギリス船舶が少ない事もあったが、アメリカに気を遣っていたからだった。もしアメリカを気にする必要がないのなら、単独での国力に限りのあるオーストラリアやニュージーランドは完全に海上封鎖されていたかもしれなかった。同時に日本は、自分たちの国力ではイギリスの外郭地全てを占領する力がないことを理解しており、オセアニア地域の限定的な海上封鎖によって、イギリスの努力をこちらに釘付けにしておく戦略が採られていた。実際、オーストラリア軍は、シンガポール防衛に1個師団を出した他は、地中海方面に遠征予定だった陸軍部隊のほとんどを本土に留め置く決定をせざるを得なかった。シンガポールに出した師団が降伏した事で、オーストラリア市民の心理が日本軍への恐れで染まり上がったからだった。
 しかもオセアニア地域は自力で航空機や装甲車両の製造がほとんど不可能なため、イギリス本国に催促するという状況に陥り、イギリス本国からオセアニア地域への輸送途上で日本軍通商破壊部隊に獲物を差し出す状況となっていた。
 しかし日本軍の本命はインドであり、オセアニアの海はついでのような戦場でしかなかった。万が一オセアニアが重要性を持つとしたら、イギリスの戦争が日本単独になるか、アメリカが全面参戦するといった大事件が必要だった。

 一方、日本軍のインド洋での本格的な活動は、早くは1940年の10月中頃に開始された。次の侵攻に備えた強大な軍事力も、徐々にシンガポールを起点に集まり始めていた。また、日本で不足する資源を得るため多数の商船が東南アジアにやって来るようになっており、物流の流れも一気に変わりつつあった。
 そして日本の水上艦隊の最初のインド洋展開は、ビルマ作戦が最終段階に入っていた1940年11月初旬から開始される。
 主な目的はビルマ作戦の支援と通商破壊作戦、さらにインド西部の重要港湾の破壊であった。
 時期はきしくもイギリス軍のタラント空襲とほぼ同じであったが、投入された戦力が違っていた。
 日本海軍は、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「龍驤」を基幹とした第一航空艦隊を編成し、圧倒的な戦力集中による制空権、制海権の確保を図りつつ電撃的にインド洋を席巻する計画だった。他にも他艦種から改装の済んだ軽空母3隻が通商破壊作戦のために別働隊として投入されており、イギリス軍の大規模な増援がない場合は長躯アラビア海やアフリカ東部沿岸にまで進出する予定になっていた。投入される軽空母が、いずれもディーゼル艦のため高い航続距離があった事が理由だった。
 しかも戦艦以下の水上艦隊も手抜きされていなかった。「金剛級」戦艦4隻が揃い踏みするほか、軽空母群と共に通商破壊を担当する第二艦隊には多数の重巡洋艦が配備されていた。
 なお、日本海軍が空母と艦載機戦力を重視した背景には、軍事ドクトリンの変更もあったが依然としてアメリカに対する抑止力としての大型艦艇が傷つく事を恐れていたからだった。また、41年春頃から大型の新鋭艦が続々と連合艦隊に編入される予定だったため、増強が済むまでの間の艦艇の消耗を最小限にしたいという意図があった。インド洋作戦では、イギリス海軍の強い反撃があると予測していたのだ。これは日本海軍が、イギリス軍のタラント空襲のための戦力移動を無線情報でおぼろげながら掴んだため、その戦力が移動してくると勘違いしていたからだと考えられている。
 これに対してイギリス軍は、当時秘密基地として整備の進んでいたアッズ環礁に「R級」戦艦の「リヴェンジ」が配備されているだけで、他にはシンガポールから後退してきた巡洋艦や若干の増援部隊がいるだけだった。空母については皆無で、しかも新鋭の「イラストリアス」はまさにイタリア海軍への攻撃に作戦時従軍中だった。
 このためイギリス海軍は、地中海が安定して増援を送り込めるようになるまでは逃げの一手を決めており、日本軍の侵攻が判明するとインド洋東部にいる大型艦艇全てにアッズ環礁への待避を命令していた。イギリス軍全体も、海軍の大規模増援が行えるまでは各地での徹底した持久を図ることになっていた。増援として航空隊が急ぎ送り込まれたが、それもドイツとの戦いがまだまだ予断を許さないため限られていた上に、日本軍の侵攻には間に合わなかった。
 イギリス本国が受ける爆撃がようやく下火になったばかりのため、対応するだけの時間が与えられなかったからだ。

 そして1940年晩秋に日本艦隊が大挙インド洋に足を踏み入れても、イギリス軍はほとんどまともな反撃をしてこなかった。
 日本側がイギリス空軍の反撃を予測した拠点を空襲しても、たいした数ではない旧式機が上がってくるだけで、自分たちの新鋭機の相手にもならなかった。洋上の艦艇を見つけても、逃げ損ねた巡洋艦が数隻あっただけで、航空隊の爆撃だけで片が付いてしまった。このため鬱憤をはらすように各港湾の空襲を徹底して行い、一部では艦砲射撃までが実施された。通商破壊もより規模を拡大して行われ、約半月行われた一連の作戦中だけで、港湾と洋上合わせて20万トンもの連合軍艦船を撃沈もしくは拿捕に成功していた。数が少ない上に旧式機ばかりだったインド東部のイギリス軍航空戦力も壊滅的となった。
 なお、大規模な日本艦隊が活発に活動できた背景には、東南アジアでの電撃的な侵攻が強く影響していた。もともと貧弱な植民地警備軍しかない上に、オランダは本国が崩壊してあまり時間がなく混乱するばかりだったため、施設の破壊もままならないまま日本軍に占領、接収された施設が多かったためだ。施設の中には油田や精油所、石油積み出し港も含まれており、日本軍はすぐにも燃料として活用する事ができた。
 そして以後日本は、日本本土から兵力や弾薬、各種物資をシンガポールに運び、帰りの船は石油や各種資源を積載して戻るという循環を行えるようになり、戦争経済の効率化ができるようになった。また資源を得たことでアメリカの経済的影響も低下し、外交面でも若干ながら優位に立てるようにもなった。

 一連の作戦を終えた日本海軍は、12月初旬に一旦シンガポールまで引き上げて整備と補給を行っている間に、日本陸軍の侵攻準備が行われていた。
 目的はセイロン島。他の陸地と離れているので攻略と占領維持には最適であり、またインド洋の要地にあるため通商破壊や今後の侵攻の拠点として有効と判断されたからだった。
 作戦開始は1941年1月を予定しており、連動してビルマからインド国境に向けてさらに進撃する作戦も発動されることになっていた。
 この日本軍の動きを、イギリスも十分承知していた。しかし、インド洋に回すべき戦力が不足していた。タラントでイタリア軍を叩く事に成功したとはいえ、まだイタリア海軍は健在で、地中海艦隊やジブラルタルを防衛する通称「H部隊」を太平洋に回すわけにはいかなかった。ドイツ海軍もノルウェー戦で受けた損害の修理を終えて、いつ動き出すか分からなかった。
 それらにも増して通商破壊への対処は、現在進行形での一番の問題だった。
 1940年内に沈められたイギリス船舶の総排水量は、既に400万トンを越えていた。開戦時に保有していた100トン以上の鋼鉄製船舶の二割に当たる数字であり、いまだ戦時生産体制が整っているとは言えない新規建造分だけではとても損害分を補充できていなかった。損害のうち二割は日本海軍の攻撃による損害だったが、ほとんどはドイツ海軍であり、いっそう英本土近辺から艦艇を動かせない状況だった。
 しかも海の守護者たる海軍艦艇の損害も深刻で、既に戦艦4隻、空母2隻を喪失しており、ようやく1937年度計画の新鋭艦が就役しようと言うところだった。しかし艦の建造速度の違いから、空母に比べて戦艦の建造は半年ほど遅れ、イギリスが有する戦艦、巡洋戦艦の数は11隻にまで減少していた。
 これに対してドイツ海軍は、戦艦「ビスマルク」が1940年夏に就役し、既に訓練に明け暮れていた。同型艦の「テルピッツ」も翌年春には就役すると見られていた。これに既存の2隻の戦艦を加えて、合計4隻の戦艦が活動し始めることを意味していた。これらの艦艇の大規模通商破壊作戦を抑止するには、最低二倍の数の戦艦を各地に配備しなければならず、イタリア海軍が数が減ったとはいえ地中海も手を抜くわけにはいかなかった。
 つまりこの時点では、イギリス海軍に余剰戦艦が1隻もない事を意味していた。
 ならば空母をという声もあったが、航路防衛や航空機の輸送のために空母は不可欠であり、またドイツ海軍の2隻の日本製空母に対する備えも必要なため、日本軍に向けるべき戦力がなかった。

 海軍は仕方ないので、ならば陸軍と航空隊の増援を送り込むべきだという意見があったが、現地インド軍は動員により兵士の数だけは十分にあったが、まずはインド国内の治安維持に使われていた。これは日本軍が既にビルマを占領したため、ビルマに近い地方で動揺が見られるようになっている事が影響していた。しかも日本軍はマレー、ビルマで降伏したインド兵によってインド国民軍を編成しており、戦力としてはともかく政治的要素の点で無視できなかった。
 他の戦力としては、近在にオーストラリア、ニュージーランド、さらには南アフリカもあったが、声だけが大きなアンザック二カ国は既に自国内に引きこもり状態だった。彼らは、海軍の大規模な増援があるか日本軍の攻撃的戦力の撃破がなければ、他の場所に師団を回せないと言っていた。南アフリカでは、旧ボーア人などとの反目が出ていたので、軍そのものの編成が遅れていた。それに日本軍の通商破壊のため安全に増援を送り込むことが既に難しく、インド西部以外への増援の場合は、最低でも三割程度の海上での損失を覚悟しなければならない状況だった。
 以上のような状態で、日本軍の侵攻が確実視されるビルマ境界線にインド軍主力の集結を急ぎつつ、総督府のあるカルカッタへの強襲上陸への備えと、セイロン島の増援も合わせて行わなければならなかった。
 当然と言うべきか、空軍の増援もままならなかった。日本海軍のように飛行場経由で航空隊を直接空路送り込むという荒技は、一部の重爆撃機以外は選択できる状態になかった。
 しかもドイツ軍が地中海での活動を始めつつあるため、まずはそちらに兵力増強をしなければならない状態で、インドには手が回らなかった。
 ついでに言えば、1940年秋の日本軍の攻撃で、現地空軍の半分以上が既に壊滅的打撃を受けていた。それまでにハリケーン戦闘機を1個大隊送り込んでいたのだが、日本軍の未知の新鋭艦載機はハリケーンを圧倒する性能だった。マレーやビルマに姿を現した日本陸軍の「メッサーもどき」も、ハリケーンと互角以上の性能を持っていた。
 そして全ての情報を整理してしまえば、現時点での日本軍のインド侵攻を止める手だては存在しない、と言うことだった。
 これが中小規模の攻撃ならまだ対処のしようもあったが、日本軍は強大すぎる規模の海空戦力をシンガポールに集結させつつあり、日本軍の望む場所に大軍を送り込むことが可能だった。無論物理的限界もあるが、最低でも1個師団以上、おそらくは1個軍団・3個師団の戦力が襲来するだろうと予測されていた。しかもこれとは別にビルマ方面には4個師団が展開しており、現状では現地インド軍は先の潰走から立ち直れていない状況だった。

 かくしてイギリス軍は、日本軍のインド侵攻を諦観の思いで迎えるが、イギリス軍の予測通りそして日本軍が拍子抜けしたように、日本軍のインド侵攻の第一段階は現地駐留軍の弱体な抵抗以外の防戦がないという状況に陥った。あまりに簡単に進む戦況に、日本海軍が疑心暗鬼になってインド洋東部にまで哨戒網を広げて、イギリス軍を探し回ったほどだった。
 そしてこの時日本軍が見つけたのがアッズ環礁であり、そこに疎開していたイギリス東洋艦隊を増援の一部であろうと当たりを付ける。そして見つけるが早いか、周辺の日本海軍部隊がアッズ環礁に殺到した。
 高速空母5隻を配下に置く第一航空艦隊、今回のインド侵攻でようやく出撃のかなった戦艦6隻を擁する第一艦隊、重巡洋艦と水雷戦隊による第二艦隊、その全てが大増強されている筈のイギリス海軍との「艦隊決戦」を目指した。
 対するイギリス軍は、見つかった段階で逃げの一手であり、基地の放棄と停泊全艦艇の脱出が直ちに開始される。
 しかしその脱出は、既に付近に集結しつつあった日本軍潜水艦群の前につまづき、そこに第一航空艦隊から発進した約100機の艦載機が襲いかかった。
 この一撃で弱体だったイギリス東洋艦隊はほぼ壊滅し、続いて襲来した第二波の航空攻撃によってほぼ全ての艦艇が行動不能に陥った。そこに日本海軍の水上艦艇群が殺到し、残存艦隊を袋叩きにしてアッズ環礁を更地に変えた。
 これでインド洋西部の戦いはほぼ決着がつき、後は一ヶ月ほどセイロン島内での戦闘が行われただけだった。
 しかしその後アッズ環礁には日本軍が進出して、航空隊を配備し、潜水艦や通商破壊艦艇の拠点に変えてしまう。
 日本軍の次の目標はインド洋東部とインド本土であった。
 インド洋とイギリス本土を断ち切ることが、日本軍の戦略的目標であった。


フェイズ08「広がる戦場」