■フェイズ25「決戦前夜」

 1943年4月8日、遂にスペインが枢軸へ参加し、イギリスに対して宣戦布告を実施した。
 そして即日、陸路ジブラルタルへの侵攻を開始する。侵攻にはドイツ空挺部隊やイタリア海軍、そして日本海軍の遣欧艦隊も様々な方面から参加していた。
 イギリス軍に出来たことは、事前に掴んだ情報を元に最小限の損害でジブラルタルから撤退する事だった。無論、枢軸陣営、特にスペイン人に教育をたれておくことも忘れなかった。それが追いつめられたとはいえ、覇権国家の義務だからだ。このため大ブリテン島からは、イベリア半島に対する空爆が実施された。

 一方では、中華民国が遂に枢軸陣営に講和を請うた。
 イギリスと共に最後に敗戦国に連なり、不利な条件を課せられたり、多くの賠償を払わされるよりマシと判断したのだった。
 もっとも、中華民国が宣戦布告以後した事といえば、日本軍と自国領内や北京近辺の中立地帯で散発的な戦闘をしたぐらいだった。満州国国境方面に、中途半端な戦力で攻撃した事もあったのだが、戦史に残すほどの変化と結果は生まなかった。やっていた事は、もっぱら国内の軍閥討伐だけだった。正直なところ、日本を早々に第二次世界大戦に引きずり込んだ事が最も大きな政治的、軍事的な行いであり、結果として連合国にとって災厄を呼び込んだだけだった。しかも開戦前に日本軍に自らの精鋭部隊を壊滅させられた事から、イギリスなどが望んだ役割を果たしたことは一度もなかった。
 中華民国自身は、他国の力で日本を排除しようとしたのだが、当然ながらその目論見は一度も成立しなかった。一方の中華民国が参戦したイギリスにとっての唯一の利点は、日本に香港を攻略させなかった事ぐらいしかなかった。ソ連が参戦しても、日本の対ソ宣戦布告時には既に不利と見て、ソ連の援助要請や牽制依頼を事実上黙殺していた。連合国側がいっそう不利になってからは、国際的には存在しないに等しくなっていた。
 故に中華民国が講和を打診しても、ドイツなどは交戦国だったことを半ば忘れていたと言われる。
 そして中華民国代表を東京に呼びだして講和会議を行ったのだが、ここに国家元首である蒋介石総統は現れなかった。また、中華民国に戦争賠償を出させると言っても、いまだ「北清事変」の賠償金を減額されても払い続けている現状を考えると、賠償金を課すのはもらう側としても馬鹿馬鹿しい事態になりかねなかった。それに中華民国の物理的な実害は、戦争全体で見た場合極めて小さかったし、今後市場として活用することを考えると過酷な条件を突きつけるのも考え物だった。
 とりあえず日本は占領下の海南島を割譲させ、満州国と内蒙古に作った自治政府の国家承認を求めた。満州国の国境も、より南に移った。上海には広大な日本租界と、新たな中立地帯が設定された。他には、中華民国領内の鉱山、炭坑の利権、採掘権、そうした地域を中心とした鉄道利権が日本のものとなった。中華民国軍に対する、厳しい軍備制限も課せられた。
 また、日本軍が香港攻略のために必要な場所を、期間限定で提供することにもなった。
 満州国承認については中華民国側が強く拒んだが、じゃあ戦争再開して来年にもシベリアから戻った大軍で攻め込むぞというメッセージを水面下で送ると、全くの腰砕けとなった。ただし、満州、内蒙古双方での華人の議員、官僚への採用枠拡大を条件に付けてきた。これに対して日本は、敗戦国が戦勝国の内政問題に条件を付けるなどあり得ないと強く反発。しかも講和会議の水面下で中華民国がアメリカと接触しているのが露見し、アメリカ側も表面上は引き下がってしまう。リークしたのは、イギリスだと言われたが全ては謎であり、中華民国はいっそう不利に追いやられただけに終わった。
 その後、1943年6月に東京講和条約が成立。おおむね枢軸側というより日本が提示した、極めて「穏便」な条件で講和条約が締結されることになった。

 一方、1943年夏頃からは、ソ連領内奥地に行っていたドイツ軍が、戦闘が山を越えた事で続々とドイツ本国に戻ってきた。目的は休養、再編成、そして再配置のためだった。この時、東部戦線いた約三分の一の地上戦力と、空軍の約半数が急ぎヨーロッパへと戻ってきている。何が目的かは、言うまでもないだろう。
 空軍の航空艦隊は、ロシアに残った1つをの除く4つがノルウェー=ドイツ本土=フランス北部沿岸に集結した。その上イタリア空軍までが、北フランスなどに展開するようになっていた。
 しかしイギリス軍も負けてはいなかった。スピットファイアを中心とした戦闘機は、1940年とは比べものにならない規模で生産されていた。Uボートはそれこそ毎週のように撃沈し、哨戒機の活動圏内での制海権についてはほぼ取り戻しつつあった。枢軸側の水上艦隊が大きな脅威だったが、イギリス側も本土近辺に集めて海上交通護衛に全力を傾けていたので、容易に手が出せないでいた。
 そしてドイツが目指している英本土侵攻だが、敵味方共に重武装化が進んでしまったため、現状のドイツ商船隊では英本土攻略に必要な部隊を運ぶことも、補給を維持することも難しかった。
 しかもイギリス本土には、ダンケルクの頃とは比較にならない地上部隊が展開していた。イギリス本国軍が機甲師団7個、歩兵師団21個、空挺師団1個、カナダ軍が機甲師団2個、歩兵師団3個、自由フランス機甲師団1個、自由ポーランド機甲師団1個、その他自由政府混成の独立旅団1個が存在していた。他にもまだ新規部隊も編成中だった。しかも本土防衛ともなれば、民兵、義勇軍などがさらに戦力として加算されるのは間違いなかった。
 またこれまでの兵器生産の結果、十分な数の兵器、弾薬も供給されており、本土防衛と言うことで少なくともイギリス本国軍の士気は高かった。
 度重なる敗北の結果、なまじ他の地域の防衛を事実上考えなくてよくなったため、英本土近辺の防備状況は極めて強固になっていた。
 これをドイツ軍を主力とする枢軸軍が撃滅したければ、完全な制空権、制海権を得た上で150万人の重武装化された兵力を上陸させ、最低でも3ヶ月間戦わせるだけの物資を送り込み続けなければならなかった。
 無論ドイツ軍には、150万人どころかその二倍の陸軍、しかもソ連赤軍を破ったばかりの世界最強の陸軍があった。このうち半数、つまり必要十分な数を用意しようとしていた。だが、ドーバー海峡を渡れなければ意味はなく、この点だけは3年前となんら変化がなかった。
 一方、比較的規模の大きな陸軍を編成したイギリス側だが、彼らがヨーロッパに反抗に出るという可能性はほぼゼロだった。海上交通線をある程度回復させたとは言っても、船舶量そのものが英本土の戦争経済を維持するので精一杯で、他方面に大軍を輸送する能力を既に有していなかった。大西洋での戦いでも、哨戒機の飛べない地域ではいまだ多くの犠牲も出していた。
 イギリスが侵攻能力を回復するには、これ以上船舶損失がなくその上で3年の歳月が必要だった。そして侵攻のための輸送船、補給体制をドイツが整えるのにも、同じぐらいの時間が必要だった。
 戦前ドイツは世界で2番目の工業大国だったが、船舶保有量は5番目だった(1:米、2:英、3:日、4:ノルウェー、5:独、以下伊、蘭、仏)。それでも戦争の中でヨーロッパ大陸中の造船施設を手に入れたのだが、船舶は移動できるものなのでかなりの数が逃亡されていた。イタリアと南フランスの商船は、地中海での戦いで半壊していた。肝心のドイツの建造力は、一部はイギリスの邪魔で破壊され、生産のほとんどは今やUボート向けだった。しかもドイツは、イギリス、日本のような商船の大量建造に向けての努力をほとんどしていなかったので、今から体制を作らないといけなかった。余裕のある日本がある程度の船舶提供をする予定だったが、やはり自前で建造しないことには話しにならなかった。

 だが、そうした状況でヨーロッパにやって来たのが、日本の「遣欧艦隊」だった。戦艦8隻、大小15隻の空母を中心とした大艦隊は、ヨーロッパのどの国の海軍よりも強力だった。それどころか、当時のヨーロッパの全ての海軍を併せたほど強大だった。
 日本海軍の大規模遠征に向けた動員は、1942年冬頃から本格的に始まっていたので誰もが知っている事だったが、正直なところ本当に欧州に大艦隊を派遣するとは考えていなかったとも言われている。しかし遣欧艦隊こそが、ヨーロッパでの英独による日本語で言うところの「千日手」状態を完全に突き崩す存在だった。
 潜水艦や直属の補給艦まで含めると総数120隻、常用艦載機800機という数字は、戦争を大きく動かす程の戦略的価値を有していた。
 この頃イギリスは、新旧の戦艦が合わせて7隻、艦隊随伴可能な空母が新型1隻、旧式1隻にまで激減していた。新鋭艦艇が多いのが救いだが、数が少ない事に変わりはない。対する欧州枢軸軍はドイツが戦艦4隻、空母2隻、軽空母1隻、イタリアが戦艦6隻、軽空母1隻を有していた。ヴィシー・フランスはいまだ沈黙を守っていたが、既にいつ枢軸側に立って参戦するのかと言われていた。そしてフランス軍艦艇を抜きにしても、既にイギリスと独伊の大型艦勢力は独伊優位ながらほぼ均衡するようになっていた。このため本来なら両者共に迂闊に手が出せない状況なのだが、今や世界最強と言える海軍を保有する日本海軍のヨーロッパへの大量派兵は、ヨーロッパの海上ミリタリー・バランスを大きく覆す存在だった。
 ただし日本の大艦隊にも欠点はあった。
 一つは、艦隊の規模が大きすぎる事。このため、枢軸側には全てを収容できる軍港や泊地がほとんどなかった。しかもドイツの大規模軍港、港湾に入ろうと思えば、まずはイギリス海軍の妨害をくぐり抜けなくてはならなかった。
 二つ目は、基本的に太平洋での運用を考えているため、比較的近距離での戦闘が多いヨーロッパでの戦闘に不向きな事。これは日本海軍が多数持ち込んだ空母の飛行甲板が全く装甲化されていない事で象徴されていると言われる。
 三つ目は、艦艇の修理や整備に、本国との距離という足かせが伴う事。多数の資材を積んだ工作艦や補給艦、貨物船を伴ってはいたが、全てを賄いきることは難しかった。同盟国の施設を利用するにしても、設備や工作機械の面などで色々と限界があった。
 そして最後の欠点というか問題は、拠点の問題だった。
 既にジブラルタル海峡の両岸は枢軸側の占領下になっていたが、遣欧艦隊の全てが拠点として使うには余りにも狭かった。
 またイギリスへの全面攻勢の際には、イタリア海軍がジブラルタルの担当となるため、日本海軍はジブラルタルを半ば素通りして他の場所を目指さざるを得なかった。
 そして大西洋側の拠点として、まずはフランスのブレストも候補とされた。そしてブレストは、拠点としてはかなり有効な位置と規模だが、ブリテン島から近すぎた。
 拠点の防空と艦艇の整備を考えればドイツ本土のヴィルヘルムス・ハーフェンや、キール、ハンブルグなどが理想的だが、北海の奥まった位置では活動そのものに大きな制約を受ける可能性が高かった。またドイツ海軍との共同行動よりも、数が増えることによる混乱も嫌われた。
 結局、大西洋に出た後の日本海軍は、ノルウェー各所に分散して拠点とすることになった。
 これは遣欧艦隊が多数の支援艦艇を連れているため、停泊できる場所があれば当面の活動は十分可能であり、そして枢軸側は最短3ヶ月でイギリスとの戦争に決着を付ける積もりだったからだ。
 かくして枢軸側の行動は決まり、タラントにあった日本艦隊とイタリア艦隊は順次出撃。ジブラルタルを目指した。

 対するイギリスは、日本海軍が大西洋で暴れ回れば自分たちが窮地に陥ることをよく知っていた。このため、とにかく日本艦隊を北大西洋に出さない方策を考えるも、手段は限られていた。対潜哨戒機やハンター・キラーを多数用意されては、制空権のないジブラルタル及びイベリア半島南部地域では、潜水艦を繰り出したところで犠牲を積み上げるだけだった。イギリス海軍の総力を挙げて迎撃しても返り討ちに合うのは、シンガポールで目撃された大艦隊の情報が伝わった時点ででよく分かっていた。
 それに、イギリス海軍が大挙出撃した時点で、ドイツ艦隊、イタリア艦隊も動き出すことは明白で、その時点で国運を賭けた大決戦という事になる。当然だが、安易な決戦は危険すぎた。
 ジブラルタルでは、英本土から航空機(重爆撃機)で攻撃することも現実問題として無理だ。
 突破頃に機雷をばらまいたり、潜水艦群で強引に攻撃するのが、正直なところの精一杯だった。

 そうしてイギリスがスペイン参戦への対応で苦悩している1943年4月18日、イギリスにとって衝撃的事件が起きる。ヴィシー・フランス政府が、条件付きで枢軸への参加を決定したのだ。
 参加の条件は、一部を除く領土の復帰、捕虜の解放、完全な自主独立の約束、ドイツへ貸しているもしくは駐留を認めている場所以外からの軍部隊、一般親衛隊、秘密警察の国外退去、などとなっていた。
 色々条件は並べていたが、要するにフランス本土はドイツ及び枢軸陣営が戦争に完全勝利すると判断した結果だった。
 そして既に水面下での交渉が行われていたため、ドイツ及び枢軸各国は条件を概ね承認。ヴィシー・フランス政府は発展的に消滅してフランス共和国が独立を復帰する。
 そしてさらにフランス政府は、世界中のフランス植民地、フランス軍に対して自らへの政府への帰属を求め、それが無理な場合は連合軍に対する降伏を認める旨を伝える。
 この命令に反したのは、イギリス及びカナダに本拠を置く自由フランス政府だが、自由フランスの勢力に残ったのは、南北アメリカ大陸周辺部とアフリカ西岸南部の一部のみだった。アジア、太平洋、インド洋、地中海沿岸はことごとく復活したフランス政府に帰属する事を表明。フランス軍も正式に復活し、陸海空軍も枢軸軍として改めて加わる事になる。フランス国内の爆撃も受けていたので、フランス空軍はドイツなどからの供与兵器ですぐにも活動を再開した。
 これで一番大きな変化は、凍結状態に置かれていたフランス海軍の活動が再開されることと、アフリカ植民地を枢軸側が自由に使えるようになる事だった。この中で特に問題なのは、北大西洋側のフランス植民地、より具体的にはモロッコのカサブランカ港を枢軸が使えるようになるという事が重要だった。

 さっそくカサブランカには、ドイツ空軍が進出して制空権を確保。陸路、海路でも物資や小規模な部隊が進出して、現地の軍事的支配権を確固たるものにする。
 そして1943年4月末、日本艦隊の先遣艦隊が、既にドイツ海軍潜水艦が進出していたカサブランカ港に入港。日本軍が大西洋に最初の一歩を記す事になる。
 以後カサブランカは、フランス海軍ではなく日本海軍の拠点となり、順次艦隊が進出して一大拠点として運用されるようになる。
 これでイギリスは、北大西洋航路を日本の大艦隊に押さえられたも同然だった。
 枢軸側としては、王手飛車取りもしくはチェック・メイトといった瞬間であった。

 なお、スペイン、フランスの相次ぐ参戦は、3月のソ連軍の反抗失敗と、日本海軍のヨーロッパ派兵が影響していることは言うまでもない。そういった点からも、戦争が終幕に迫っていることが分かるだろう。


フェイズ26「北大西洋海戦」