●世界大戦と日本

 日本人がロシア人を恐れイギリスへの不信感を募らせ続けている頃、世界というよりヨーロッパで一大事件が発生する。「世界大戦」、後の「第一次世界大戦」が勃発したのだ。
 戦争に際して日本列島が関わるべき事象は何一つなく、無論原因となるべき要因も存在しなかった。日本民族は、イギリスの支配の中で半ばのたうち回っているに過ぎない弱小民族でしかなかった。

 この戦争でヨーロッパ列強は、文字通り国家を総動員した有史以来最大級の総力戦を展開する。世界最大の国家にして連合国の雄であるイギリスは、世界中の自治領や植民地からありとあらゆる戦争資源と兵士をヨーロッパに注ぎ込んだ。
 当然日本にも、イギリス本国から否応の存在しない大きな負担が求められた。外交権と軍事力のない日本に、拒否権など有るわけがなかった。日本は、イギリスの保護国なのだ。
 日本人には、莫大な戦費の調達と負担はもちろん、無理矢理動員された50万人もの兵士が志願兵の形でイギリス兵として従軍する事が「命じ」られた。特にイギリス本国で日本兵の価値が高いと判断されていたため、他の有色人種とは違って前線に出されることも多く、当然ながら日本人の死傷者数も大きかった。ただし敵となったドイツ軍も、相手が有色人種(部隊)と分かるといつも以上に手加減しなかったと言われている。
 なお当時の白人一般の価値観で、戦闘は名誉のものとされ、前線で戦うのも白人兵がほとんどだった。無論それは名目で、実体は円滑な植民地支配のために有色人種に実戦経験を与えないためだった。だが、比較的従順な日本人の場合は、既に多数が英日軍として使われていたため、前線への投入もそれほどためらわれなかった。
 また数年前に日本人の献金で英本国で建造された最新鋭の巡洋戦艦は、開戦前後の完成だったためヨーロッパに留め置かれ、後の海戦で活躍するもうち1隻がドイツとの艦隊決戦で撃沈されている。船に乗っていたのはイギリス兵だったが、建造資金を出した日本人としては納得のいくものではなかった。

 だがヨーロッパを主な舞台とした未曾有の大戦争は、日本人にとって悪いことばかりではなかった。イギリス人自身が戦争に係り切りなため、必然的に植民地経営が疎かになったからだ。当然、自らの統治に対する負担が求められたが、それは日本人に利する事だった。
 また戦争による特需の発生で、日本国内の産業が大きく発展した。空前の総力戦を前にして、イギリス本国やカナダなどの有力連邦での生産には限界があり、それまで産業発展を抑制していた地域で足りないものを作らざるを得なかったからだ。おかげで日本の民族資本が大きく躍進し、日本列島内での産業従事者が爆発的に増大した。それまで「ファー・イースト・ビクトリア・アイランド(=V.ファー)」(旧エゾ・アイランド)にしか置かれなかった各種機械式工場も設置されるようになった。何しろ戦争は、無尽蔵に物資を必要としており、イギリスと言えどもなりふりなど構っている場合ではなかった。万が一敗北したら、天文学的な賠償金を支払わねばならないのだ。それだけは阻止しなくてはならなかった。また世界各地で不足する様々な製品を自力で作る必要にも迫られたため、日本でも衣料、食料などの地場産業が大きく発展した。
 またイギリスは、日本の戦争への全面協力への報償として、日本主要部での日本人による自治拡大を約束した。1919年には「日本統治法」が発布され、イギリス直轄領(藩領以外)での農業など地方行政の一部が日本人の手に委ねられることになった。各爵領(各藩)での地方自治権の拡大も実施された。教育についても、それまで私塾や各藩が別個に行っていたものが正式に認められ、イギリス本国に準じた学制の日本国内での統一が実施される事になった。このため日本人の戦争協力姿勢が強まり、50万人もの兵士が志願兵として集まった。
 当然と言うべきか日本人の独立機運も大きく上昇し、戦争中はイギリス人もよほど酷い場合を除いて弾圧などの強圧支配を行うことはなかった。反乱などで日本人にかまけるより、良い気分にさせて戦争に協力させることの方が遙かに重要だったからだ。
 世界大戦は1914年夏から1918年秋にかけての4年以上行われ、繁栄の頂点にあった筈のヨーロッパ世界は大きく疲弊した。逆に、世界の兵器廠となったアメリカ合衆国が世界一の経済大国として明確に頭角を現し、戦争のおこぼれにあずかった英領日本帝国もようやく本格的な発展の兆しが見られるかに見えた。
 しかし日本には再び暗雲がたれ込める。
 戦争が終わったからだ。

 世界大戦の終了と共に、イギリスの日本支配は再び強まった。いかなる言葉を用いても不足する戦争債務を、植民地から取り立てねばならないからだ。しかし、インドで先駆けて行われたローラッド法(※条令なしの逮捕、裁判なしの投獄を定めた植民地法)がインドで激しい抵抗と不服従運動に発展していたため、比較的反発の小さかった日本での導入は延期され、後に中止された。また極東アジアでは、世界大戦の余波が日本人に良い風向きを与えていた。
 世界大戦中の1917年、ロシアで革命が起きて帝政が崩壊した。それが単なる次なる王朝の胎動や民主主義国家の誕生へと繋がれば良かったのだが、欧米世界全てが驚いたことに社会主義という先鋭的かつ危険な思想を持った国家が誕生してしまう。
 君主制を敷く国にとっては、自国への革命の波及は破滅を意味していた。そして当時世界の陸地の四分の一を支配(※後清含む)していた巨大国家の崩壊は、周辺支配領域の独立と混乱を引き起こす。ヨーロッパでは、以前から独立運動が続いていたポーランド、フィンランド、バルト三国が独立を果たした。中央アジアでも、一時的に独立する流れが生まれた(※後に大量虐殺などの強引な手法で再併合(再統合)されている)。
 東アジアでは、ロシア帝国の後ろ盾の消えた後清帝国が革命の波及どころか亡国の危機に瀕しており、誰でもいいから助けてくれという悲鳴を世界中に発信した。事実中華民国の各勢力(主に軍閥)が、早速干渉を強めていた。
 しかし建国されたばかりのソビエト連邦ロシア(1922年成立で、革命間は度々政府名と政府そのものが代わる)は、後清はロシア人の既得権益だとして他国の介入や干渉、支援に反発した。中華地域に対しても、強い文書を送りつけた。中華勢力に対しては、貧弱だった赤軍が恫喝として用いられた。
 それでも後清は、連合軍による政治的干渉、「アジア・シベリア出兵」により一時英米軍による占領に近い形に置かれる。一時期ソ連も、他国との衝突を恐れて緩衝国家を作ってみるなど、手放すそぶりを見せた。実際、防衛上不利で戦略的にも半ばどうでもよい朝鮮半島は、独立復帰させるとして手放した。それにロシア人にとって朝鮮半島は、既に絞り尽くした残り滓に過ぎなかった。それに反抗的な連中を、ロシア人の血を流して守る理由はほとんどなかった。絞りかすなど、強欲な資本主義者にくれてやれば良いというのが、無責任なロシア人の本音だった。
 一方でイギリスは、サハリン、クリルも全域を占領して、その後のロシア人との交渉材料として使おうと動いていた。イギリスは、日本列島というよりV.ファー防衛のための緩衝地帯の獲得を狙っていたのだ。
 しかしその後、連合軍に対してシベリアを中心に各地で赤色ゲリラ戦が多発。ロシア各地域ばかりか後清でも民族自決戦争になったため、結局駐留経費と損害に耐えかねて英米は撤退した。ただし、サハリン、クリルはそのままイギリス人の手に残ってしまい、イギリスは仕方なく撤退代金代わりの割譲をロシア人から受けて、1925年にはそのままV.ファーに併合してしまった。
 なおこの時、日本人もイギリス軍(英日軍)として干渉に参加した。さらにイギリスの経費負担を全額させられた上に、遠征先でかなりの犠牲を出すことにもなった。このため日本人のイギリスに対する不満が大きく高まる結果を残した。しかもサハリン、クリルは自分たちで牛耳り、一部をアイヌに与えたのだから、日本人の反感は一層強まった。

 その後後清では1924年に革命が発生し、清時代から続いていた皇帝を追い出して、ソビエト連邦ロシアの後押しを受けた共産党政権が成立した。国名も「北アジア人民共和国(北亜)」と名を変えて、新たに存続していく事になる。国名は抽象的だが、国内には東トルキスタン、モンゴル、プリモンゴル、マンチュリアの自治国が存在しており、ソビエト連邦ロシアに極めてよく似た政府と制度を持っていた。
 新たな国家は、あくまで漢民族以外の人民(民族)による国家と強く規定され、漢民族出身の共産主義者は1920年代の時点で国外に叩き出されてしまう。指導的地位に漢民族がいては、人民からの支持を得ることは出来なかったからだ。膨張主義的な漢民族は、常に近隣民族の恐怖と憎悪の対象であった。この追い出された中には、毛沢東、周恩来などを中核とする後の中華共産党の姿もあった。しかしその後の彼らは、ソ連や北亜からの援助を受けながら中華中央部での活動を活発化していく事になる。
 そしてこの時の革命と変化により、北亜は中華ではないことが赤くなったロシア人により明確に示された。そして以後の漢民族国家(主に中華民国)は、ロシアと北亜を共産主義に染まった「北狄」としてひどく敵対するようになる。ただし北亜では、しばらくの間は諸外国の資本参加が許されており、初期の干渉の頃から進出していたアメリカ資本の利権はある程度保護された。資本も技術もないので、やむを得ないと判断されていたからだ。ただしその後のあまりに強引なアメリカ資本の進出のため、1931年秋に新たに成立した共産党政権による外国資本の締め出しという形で追い出されている。これを「北亜革命」と呼び、北亜は完全な社会主義国家へと舵を切ることになる。

 後清以外にも、ロシアに付属していた形の朝鮮半島は、ロシア人から半ば捨てられるように手放されていた。と言うよりも、シベリアへの出兵の影響でイギリスなどとの妥協点が図られたと言うのが真相だった。また緩衝地帯になりうるからこそ、ロシア人が手放したとも言えた。
 ただ、イギリスもソ連も当面は朝鮮半島どころではなく、なるべく当事者達に任せる向きが作られた。
 そして朝鮮人自らが独立宣言を一度は行ったのだが、行ったという以上の状態には進まなかった。独立したのも、世界大戦後の民族自決という風潮と共産主義に対する脅威により何となく国際的に認められたものであり、列強間の妥協の産物による無風地帯としての価値しかなかった。
 そうした原因の多くは、原住民族にあった。
 500年前に成立した王朝や支配階層(世襲官僚)の両班は、ロシアの支配を逃れた生き残りが何とか復権を果たすも、近代化に対してまるで役に立たなかったからだ。しかも十年ほどのロシアの荒っぽい統治で、朝鮮半島は旧朝鮮王国時代よりもさらに荒廃していた。ロシア人は、自らの拠点づくりに必要な場所と最低限の鉄道、港湾、通信インフラ、一部の地下資源以外、朝鮮半島に価値を見いださなかったのだ。しかも立派なのは、総督府と正教会、軍港、要塞、ロシア人居留地ぐらいしかなかった。極論ロシア人が欲しがったのは、不凍港と対馬海峡、加えてそれらとロシア本土との連絡鉄道と電信だけと言っても間違いではないほど荒っぽいものだった。
 しかもロシア人の中での朝鮮人の扱いは、中央アジア住民以下の扱いしかされなかった。イギリスに対抗して急ぎ地盤を固めなくてはならないので、緩やかな統治を行う余裕がなかったからだ。
 加えて初期の朝鮮人が無軌道に反抗的でもあったため、多くの朝鮮人がシベリアや中央アジアなどの荒れ地の開発にかり出され、シベリア鉄道敷設などに従事して多くが極寒の大地で命を落とした。1917年時点での朝鮮半島内の人口も、推定値でおおよそ半減(約700万人)していた。しかもロシア革命の混乱の余波で朝鮮半島内も内乱状態となっており、共産党、国粋派などの戦闘で荒廃はさらに進んでいた。シベリア出兵時に現地入りしたアメリカ人の評価では、アフリカの最低地域と同レベルでしかなかった。
 しかしロシアから放り出されたこの地域も、資本主義国家の誰かが面倒をみなければならなかった。これ以上赤くなることだけは阻止しなければならないからだ。そんなことになれば、イギリスが大事に抱えている日本にまで赤い嵐が押し寄せるかもしれなかったからだ。
 そして逆に、日本という巨大な東アジアの橋頭堡を持つイギリスが、朝鮮統治も担当する事が妥当と考えられた。表面上のお題目であっても、それが先進国列強の責任でもあるからだ。アメリカ人も当初は興味を示したが、ロシア人と直接向き合わねばならず、フィリピン以下の価値しかない大地を見ると態度を一変してイギリス人に喜んで譲った。
 何とか現地で生き残っていた朝鮮人たちは、諸手を挙げてイギリス人の支配を受け入れた。ただし植民地として有望なものに乏しい朝鮮半島は、ロシア人が残した僅かなインフラ以外当面役に立つものはなかった。住民の所得も低いので、市場としての価値も最低だった。東アジア地域にしては民度も低かった。地場産業も貧弱だった。日本のように投資する価値はほとんどなかった。500年も続いた中世型王朝の害悪と、わずか十数年のロシア人の荒っぽい統治の結果が、荒廃した朝鮮半島だったのだ。
 故にイギリスは、ロシアや北亜から共産主義が伝搬しないよう、最低限の統治しか行わなかった。熱心に編成したのは、対共産主義用の現地治安維持組織だけだ、後に「黒班」として朝鮮半島で猛威を振るうようになる。朝鮮半島自体の扱いも、ロシア時代にも残されていた王族と特権階級を傀儡としたイギリスの自治国とされた。朝鮮半島に残された知識階級と責任階級では、何をどうやっても近代国家を作り維持する事ができないと判断されたからだ。本当なら保護国か植民地にして総督府を設けたかったが、一応先に独立宣言していたので世相上それも憚られた。ただしイギリスの判定では、半世紀は本当の独立が無理だろうとされた。
 なお支配には、まだイギリスへの忠実さを失っていない日本人が、イギリスの伝統的植民地統治方法に従って活用され、日本人は忠実に任務を果たした。自分たちにまで共産主義が伝搬することは避けなければならないと、日本人達も考えていたからだ。何しろ日本人の中での支配階級のほとんどは、依然としてサムライ達なのだ。共産主義など受け入れられる訳がなかった。
 ただしイギリスは、朝鮮への日本人移民は認めなかった。一部で事大主義傾向が見え始めていた日本人のこれ以上の増長を防ぐためと、民族対立に伴う朝鮮半島の共産化を警戒したからだ。統治のため日本人が入ることを許されたのも、一部の都市を除けばイギリスが有する施設と利権地域だけだった。
 そしてイギリスが朝鮮半島をある程度重視し統治までに手を出した主な理由は、日本というそれまでさんざん自らのリソースを注ぎ込み続けた植民地(保護国)が存在していたからに過ぎない。
 ただし、朝鮮への人的資源提供だけに終わった日本国内では、イギリスへの不満が大きくなった。この頃の日本人には、自らの人口拡大に対して移民以外で何とかしようという考えがあったが、すでに大規模移民地域の不足に悩むようになっていたからだ。そして朝鮮半島南部は米作地帯として有望であり、急速な人口の希薄化が進んでいるため当初は移民が強く望まれた。
 何しろ大戦前の時点で、アメリカにもオーストラリア(+ニュージーランド)にも、移民として赴くことができなくなっていた。南アメリカ大陸も良い顔はしなくなっていた。にもかかわらず国内産業はまだまだ未発達で、各藩の農村部では江戸幕府のタガが無くなった事と、移民すればいいという風潮が出来た事で、かえって野放図な人口拡大が続いていた。大規模な移民先が、是非とも必要だったのだ。
 このためイギリスは日本人の不満を逸らすため、朝鮮統治への参加に対して朝鮮への移民こそ認めないものの、日本国内での日本人統治をさらに緩めるようになる。
 なおイギリスが朝鮮への日本人移民を認めなかったのは、これ以上厄介ごとを抱えたくなかったからに過ぎない。世界大戦後のイギリスにとって、日本を抱えることは既に負担としての比率の方が高まっていたのだ。

 第一次から第二次にかけての戦間期、日本の植民地統治は日本人の自立と独立へと向かっていた。日本人全般は比較的イギリスの支配に従順だったが、地方帰属領のサムライなど中間支配階級とされた日本人がアイデンティティーを育てており、その数が無視できないレベルに達しつつあった。何しろ日本列島の総人口は、英本国と同規模だった。
 また大戦中のある程度の発展もあり、いつまでもイギリスが押しつける物産を買い続ける状態ではなくなりつつあった。しかもV.ファー(エゾ)保持のためにイギリスは日本周辺の安定した統治に力を入れねばならず、共産主義の伝搬を防ぐための軍事力や勢力維持も欠かせなかった。
 また日本内でのイギリス商品の不買運動も徐々に盛んになり、警察権力の強化などイギリスの日本経営コストは上昇を続けていた。加えて日本民族全般の勤勉性から、産業は緩やかなながら発達して人口もさらに拡大していた。イギリス人は当初何度も不買運動などを止めさせようとしたが、そのたびに反発が強くなったため、一部の民生品の生産を認めるようになっていた。しかも1920年代に北アジア人民共和国(北亜)に経済進出していたアメリカが、アジアへの橋頭堡の一つとしてまた市場としての日本に注目し、あれやこれやと日本統治に文句を付けてくるようになっていた。日本独立の運動家が多数アメリカ国内にいたと言えば、その程度が少しは分かるだろう。アメリカの一部では、日本人独立運動家はイギリスに支配されたという一点において悲劇のヒーローとして扱われた。今でもアメリカでは、サムライと言えば(植民地)支配に対して寡黙に戦う姿が定番だ。
 なお、アメリカが口を突っ込んだのは、形式上とはいえ日本がイギリスの保護国であるため、独立による早期市場化が容易いと考えていたからだ。そしてイギリスは先の大戦でアメリカに多額の借金をしており、アメリカ人の言葉を完全に無視することも出来なかった。
 そして1925年には、日本人は地方議員選挙を実施。しかしこれにより選ばれた議員達は、国民議会よりもさらに進んだ日本議会を勝手に開催。平民出身の原敬議員は、日本人の英雄的扱いを受けた。
 当然ながら、会議はすぐにイギリスによって解散させられ、原敬は一時的にアメリカ西海岸への亡命を余儀なくされた。そしてこの裏にもアメリカの姿があった。すぐに独立とはいかなくとも、アイルランドのような自由国化を行わせて、日本の市場化を狙っていたのだ。何しろ北亜は、領域は広大だがまだまだ前近代的で、購買者となる人口が予想以上に少なかった。混乱が続くチャイナも、武器以外での市場としては今ひとつだった。そして巨大な生産力を誇るアメリカには、是非とも新たな市場が必要だった。
 ただアメリカ人の勢いは、1929年秋に一旦意気消沈してしまう。自らを震源とする世界恐慌が起きたからだ。
 だが1931年の北亜での政変で北東アジアからも追い出された事で、逆に日本への関心を強めた。アメリカは新たな市場確保のため、日本の市場開放をそれまで以上に求めるようになり、同じく借金と不景気で首の回らないイギリスも、地球の反対側の植民地に対してアメリカの資本参加を受け入れざる得なくなる。ただし、ごく一部の地域ではあってもイギリスのポンド・スターリングブロックとアメリカのドルが結びついた事は、後のイギリスにとっては大きな利益となる。アメリカとの少しばかりの関係改善が、当面の景気回復の一手となるばかりでなはなく、次の戦争で活きたからだ。
 一方では、日本も世界的な不景気の影響を受け、独立運動にいらぬエネルギーを与えることになっていた。飢えと貧困こそが、古今東西最も革命の温床足り得えた。
 そこでイギリスは、先手を打った。インドに先駆けた1933年、世界恐慌がピークを迎え日本人の不満が高まっているのを見て「新日本統治法」を公布したのだ。
 これにより、日本国内での地方自治が大きく拡大された。ほぼ完全な地方自治を与えたと言え、中央政府も日本人の手に多くを委ねるようになった。イギリスは外交、防衛、中央財政を持つ以外で、日本での支配力を大きく低下させた。正式に日本議会も開かれることになり、日本国内法の日本人による制定はもちろん、国内及び日本人限定ながら独自の司法と裁判所を持つことも許された。独自の警察力と重武装警察としての郷土連隊(治安維持軍)の保持も許された。人材の多くも既にイギリス統治の中でのクリアランスで育てられており、肌が黄色い以外は問題ないほどだった。
 実質的に日本は、「自治国」へと変化したと言えるだろう。ただし国際的には「自治国」とされず「保護国」のままとされた。日本人が有色人種だったからだ。
 無論日本への行いに対する反発ややっかみが、世界中のイギリス領から寄せられた。これに対してイギリス本国は、高度な自治を与えたのは日本人の間に知識階層と彼ら自身による統治可能な人材が育ちつつあるからだと言った。これなら、他の植民地や属領と大きな違いがあることへの説明がある程度つくからだ。実際、アフリカの多くが、本当に自力の自治を行えるようになるには半世紀は必要だと考えられていた。また日本でのケースは、今後の植民地支配のテストケースであるとも合わせて説明された。
 ただしこの時、V.ファー(エゾ+周辺の島)は日本から完全に切り離され、改めてイギリス直轄領から日本とは違うイギリス連邦の一員とされた。何しろこの時点までに、V.ファーには約150万人のイギリス系市民が住むようになっていた(一部はアイルランド移民)。
 1931年のイギリス議会におけるウェストミンスター憲章(Statute of Westminster)では、ファー・ビクトリア(通称V.ファー)として「英連邦=ブリティッシュ・コモンウェルス (the British Commonwealth) 」に加わっている。(※日本も独立後の1945年加盟。)



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