●日本国独立

 第二次世界大戦は、1945年春にナチスドイツの無条件降伏で幕となった。それより早く43年秋にはイタリアが、44年には中華民国も戦争から脱落。世界は平和を取り戻した。
 しかし今度は、アメリカとソ連を中心にしたイデオロギー対立、いわゆる東西冷戦という対立が徐々に鮮明化。新たな対立の時代へとシフトしていく。

 そうした世界情勢の中で、日本は1945年8月15日にイギリスからも了解の上で独立宣言を行い、ここに「日本国」が誕生した。同時に「日本国憲法」も発布され、八十年近くも奪われていた独立を回復する。新たに発足した国際連合にも、独立当初から加盟する事ができた。
 君主(主権者)として天皇がそのまま在位する事となり、内閣総理大臣と議会(日本労働党と日本保守党による二党体制)を設け、イギリスを範とした立憲君主国となった。故に英王室を君主とした英連邦国家ではなく、日本より後で独立したハワイ王国やフィジー王国のように独自に君主を立てた英連邦国家となった。加えて、日本は国旗の片隅にユニオンジャックを入れることはなく、日章旗とされる特徴的な旗を自らの国旗として掲げた。
 しかし日本独力ではソ連や北亜の圧力に対抗できないので、国家安全保障のために英連邦には最初から加盟していた。
 なお、この時一つの政治的珍事が起こった。
 日本の天皇は、東洋的、中華世界的な意味では単に国王に当たるのだが、文字をそのまま英語訳するとエンペラーつまり皇帝になり、英国王よりも格式や国際慣例上で上位に位置してしまうという状態が起こったのだ。これまで天皇は形式上英国王の臣下だったが、独立国家の名目君主になるならば、通常なら今までの関係も改められねばならず、長い間日英の間だけでなくローマ法王庁まで含めた世界中で議論される事になった。
 一方、日本近隣のV.ファー(ファー・ビクトリア)も、大戦での戦争協力を評価された形で自主独立を達成した。こちらはソ連と直接国境を接するため、独立後もイギリス軍の駐留が行われ、後にアメリカが安全保障条約を結んで軍を師団単位で駐留させるようになる。V.ファーの国旗には英連邦の象徴であるユニオン・ジャックが左端に置かれ、緑地の中心に白く抜いた北斗七星が描かれていた。また英領となっていたフォルモサ(台湾)と琉球でも戦争協力に対する報償として自治権の拡大が行われ、60年代には合わせて琉球王国という形で独立を達成している。
 また日本の近隣には、中華民国、朝鮮王国、ノースアジア人民共和国(北亜)、フィリピン共和国があり、どの国も米ソどちらかの影響が強い国家となっていた。しかし日本、V.ファー、琉球(+フォルモサ)はイギリスの影響が強く、必然的に英連邦の一角であるオセアニア諸国との関係も強めていた。太平洋のハワイ王国やフィジー王国では、移民人口のほとんど(総人口の約半数)が日系だったため関係もより強かった(公用語が英語と日本語とされた)。
 各地の公用語は、それぞれの現地語と共に英語が大きな比重を占めていた。日本の場合は、日本語と英語になる。
 また本来なら、日本はイギリスや西側諸国と距離を置いたインドとの関係強化を図るつもりだったと言われている。だがアジア極東での東西両陣営の強い対立状態が、日本に東西対立から遠ざかる事を否定させていた。日本の軍事力や国力は、独立したとはいってもソ連や北亜に対抗するにはまだまだ力不足だったからだ。加えて北東アジアという地理的環境は、独自路線を取るには厳しい土地だった。

 なお日本の独立時、その財政はかなり好調だった。
 先の戦争で多数の志願兵と戦費を出したが、国土自体はまったく傷を受けていなかった。しかも世界大戦そのものと中華大陸での戦争は、日本に大きな特需をもたらしていた。それまでの70年近いイギリスによる統治を土台にして、社会資本建設や設備投資、軽工業分野などで大きな発展が見られた。独立を見越して、イギリス人資本家は日本の資産や資本の日本人への売却を実施しており、尚のこと日本人の力は強くなった。イギリス政府も独立させると決めた時点で、より効率的な戦時生産を行わせるために、日本での産業の発展をむしろ後押ししていた。日本は第二次世界大戦中、戦争特需に湧いていたと言えるだろう。イギリスが強く制限し続けていた重工業力は大いに不足していたが、それでも日本の富と工業力が大幅に拡大したことは間違いなかった。
 そして日本の独立を、財政面で補完していたのが債務・債権の関係だった。
 そもそも英領日本帝国が成立して以来、対英負債(債務)を抱えてきたのは常に日本の側であった。保護国という名の植民地なのだから当然だろう。しかし第一次世界大戦で日本人の側がイギリスの債務を多く抱えるようになり、収支はほぼ拮抗した。日本の権利拡大には、そうした経済面での背景もあったのだ。そして5年半にも及んだ第二次世界大戦は、長い間の債務関係を一挙に逆転させる。
 今度はイギリスが、1945年には10億ポンド(約40億ドル)という膨大な負債を日本に対して持つ債務国となっていた。
 これがイギリス統治時代に建設された日本国内の社会資本の買収を容易にさせ、また一部ではバーターの形で交換されている。そして独立時に国家に借金がないという事は、財政上大きな効果を上げていた。自らの通貨(日本ポンド・スターリングが廃止され、両(ryou)及び文(monn)となる)の信用価値も必然的に高まった。この辺りの事情は、インドとの類似項を多く見ることもできる。
 そして日本の安定した成長を保証したのが、アメリカ合衆国の存在と、アメリカとソビエト連邦を中心にした冷戦構造だった。
 北東アジアで西側陣営とされた国は、当時のGDP順に中華民国、日本国、V.ファー、朝鮮王国となる。一方の東側陣営は、ソ連を例外とすれば北アジア(北亜)一国だった。しかし当時の中華民国は遅れた農業国で、一人当たり所得は極端に低くかった。しかも国内の共産党と大規模な内乱中で、国土も荒廃していた。朝鮮王国でも、北部を中心に共産党が勢力を拡大しつつあった。
 そして中華民国が北亜からの強い脅威を受けつつ泥沼状態の内乱を戦っている現状を考えると、西側の最も強固な北東アジアの橋頭堡は自動的に独立したばかりの日本となった。
 1945年夏の時点での日本の総人口は約6000万人(対世界比率3%)。GDPは20億ポンド(80億ドル)程度(対世界比率2%)だったが、イギリスが統治中に作った大量の社会資本、軍事施設が存在していた。日本人自身が封建時代から作っていた、各種の前近代的インフラもある程度は有効だった。江戸時代から続く城や街道は、多くでそのまま使われていた。
 また軽工業を中心に産業も広く勃興しつつあり、民族資本の力も近代国家として最低限は存在した。そして何より国民の教育程度が先進国列強に次ぐぐらい高く、しかも独立と同時に高度な義務教育体制を作り上げていた。日本独自の社会秩序も相応に整っていた。加えて日本人一般の間では、ロシア=コミュニズムという図式が存在したため、国内での共産主義浸透は最低限で、むしろ酷く嫌われているのが現状だった。共産主義、社会主義の政治活動は、独立後の憲法でも禁止されていた。また日本国内では、武士階級が独立の影響(民主化)で多くの特権を失うも、権威面では多くがそのまま残されていたため、そうした責任階級の存在がさらに共産主義を拒絶させていた。
 そして北にあるイギリス系国家のV.ファー、日本語との類似性が多い言語を持つ琉球王国(自治国)は、近隣で中華民国以外で一番大きな人口と国力を持つ日本との連携を求めていた。
 ただし東南アジア各地に植民地を持つヨーロッパ列強は、日本が必要以上に力を持つことは歓迎していなかった。日本独立より1年ほど先にアメリカからフィリピンが独立していたが、フィリピンは中南米の国々と似た一部富裕層のみの国なので問題なかったが、日本は国民国家として独立していることが問題だったからだ。しかも同じように独立したインドと違って国内の民族問題や宗教問題はほぼ皆無で、独立時の国家の分裂もまったくなかった。国境紛争や近隣諸国との摩擦も、ソ連の脅威以外は存在しなかった。日本国内は完全に一致団結しており、いまだ植民地にしがみつくヨーロッパ諸国にとっては脅威とすら映る国家だった。何しろ有色人種による国民国家なのだ。

 一方で日本に注目したのは、アメリカだった。
 天皇を権威君主とする立憲君主国家としての日本独立だったが、実質的には自由民主主義を掲げる議会制民主主義国家であり、アメリカが目指す理想に近い国民国家の形を持っていたからだ。しかも国民の教育程度が当初から高く、民度も比較的高かった。国内の治安状態も良好だった。これらは、将来的に市場価値が高いことを意味していた。
 またアメリカ国内には古くから日系移民も多いため(※日本独立頃で、西海岸を中心に約1000万人)、言語や文化の壁も乗り越えやすいと考えられた。日本がイギリスの植民地だった事も、言語面では有利と考えられた。既に日本人の多くが英語を理解できるからだ。
 そして何より日本の立地条件は、ソ連(ロシア)のアジア・太平洋への浸透を防ぐ絶好の位置に存在していた。しかも島国であり、アジアから太平洋にふたをするように島が並んでいることは奇跡とすら言われたほどだった。日本国内の人口も多く、軍事力を育てうる要素を多く持っていることも、国家としてのアメリカにとっても好都合だった。
 かくしてアメリカは、日本独立以後に積極的な投資や援助を行って、日本の近代化と市場化、加えて共産主義の防波堤とする動きを加速させていくことになる。そしてこれは、イギリスの植民地時代に英語が公用語の一つとして浸透していたことが効いていた。国民の多くが英語を理解できるため、交流や教育が容易だったからだ。
 そして日本国内にはアメリカ軍の軍事基地が数多く建設され、東アジアの要の位置としての役割を担うようになっていく。

 独立後の日本は、独立以後積極的に国力と産業の発展に力を注いだ。教育による人的資源の育成に大きな努力を割いたのも、地下資源に乏しい事に対する解答だった。
 そして最初はアメリカ製品の消費地として、次はアメリカの下請け生産地、そしてアメリカへ市場進出という形で順当に発展していく事になる。
 その姿は、一部の歴史家により、本来ならイギリスに支配されなかった場合の日本が半世紀以上早い時期に歩んだであろう道だと言われた。



●備考:北東アジア各国の概要と21世紀初頭の現状(1)