●備考2:近隣諸国の概要と21世紀初頭の現状(2)

ノースアジア(北亜)

北アジア人民共和国(北亜)→北アジア連邦共和国(北亜):
 原型は、1911年に成立した「後清帝国」になる。ロシア革命に連動して後清帝国から社会主義体制の北アジア人民共和国となり、さらに冷戦崩壊後は北アジア連邦共和国へと名を代えて自由主義国家に変化した。
 北アジア人民共和国の成立当初から、ソ連の傀儡国家として逆に安定していた。成立当初は共産主義国家となるが、民意の点では反漢民族国家連合として外に向けて強く団結していたためでもある。史実との近似値を求めるのなら、巨大なモンゴル人民共和国に近い状態となる。
 民族も言語も様々だが、中華系言語は漢字共々使われていない。文字はキリル文字を使用していたが、冷戦崩壊後は各地の様々な文字が復活しつつある。それでも漢字と漢語は国策として酷く嫌われている。国内の漢民族の扱いも常に低く、漢民族以外には出産育児で大きく優遇されて多産政策が取られたが、漢民族は逆に減らす方向で政策が進められた。当然国内での漢民族の反発もあり、中華からの陰に陽に干渉が度々あったが、着実に漢民族の勢力は減らされた。
 中華人民共和国成立後も中華地域との(民族)対立は消えず、常に互いに軍隊を向け合ったままとなっている。しかし人口、国力面での劣勢があるためソ連の膨大な援助を常に必要としたが、ソ連は中華地域との緩衝国家として優遇した。
 冷戦崩壊と共に、各地の民族国家に分裂した後に連邦国家化。国内はマンチュリア、モンゴル、プリモンゴル、イースト・トルキスタンに分かれている。

 冷戦中は、北東アジアの火種であり、民族対立から中華地域とは何度も戦争や紛争を行い国際的評価は常に低かった。ただしソ連にとっての巨大な防波堤だったため、ソ連の強い支援と援助が受けられたため、周辺との対立状態を維持する事ができた。一方では、北亜への巨大な援助がソ連の国庫を絞め上げる原因の一つにもなる。
 冷戦崩壊後も、反漢民族の姿勢から基本的に親ロシア政策が基本外交となっている。また日本とその周辺国や中央アジア諸国など周辺諸国との関係も広く重視しており、対中華包囲網の急先鋒となっている。
 冷戦構造崩壊後は、従来通りの親ロシア外交に加えて、日本列島とその周辺部の国々との関係改善に努め、アメリカとも和解している。市場開放もいち早く行われたが、漢民族資本は常に冷遇され続けている。
 軍事費は、冷戦中は勿論崩壊後も多くが投じられ続けており、南の中華人民共和国との対立と緊張状態が慢性化している。
 冷戦期間中はソ連(ロシア)の影響が強いため核兵器は保有しなかったが、冷戦構造崩壊後の1990年代に核兵器の開発を実現して、一時期国際問題化した。21世紀初頭に核拡散防止条約への加盟に踏み切る姿勢を見せるも、核兵器の廃棄は否定している。
 また国境問題と民族問題で朝鮮王国との関係も常に悪く、冷戦崩壊後も解消されずに互いに国境をほとんど閉じた状態となっている。
 なお、冷戦構造崩壊後の国家改変時に民主化と情報面での改革解放路線に転じており、主に地下資源輸出で得た外貨で21世紀初頭には新興国として頭角を現しつつある。
 総人口は、約1億5000万人。人口や産業の中心はマンチュリアにある。

チャイナ(中華)
中華民国→中華人民共和国:
 第二次世界大戦後、まずは中華民国と北亜との関係が急速に悪化した。また国内では、欧米型の民主化政策が行われるも、多くの地域で反発を受けて半ば内乱化。その中で中華共産党が拡大した。
 1950年から53年にかけては北亜との間に「中華戦争」を経験し、華北、青海地域が大きく荒廃して、飢饉も重なって数千万人の死者が出た。そしてこの戦争中、戦闘で活躍した中華共産党が大きな勢力を持つようになる。国民党が巻き返しを図ろうとするが、共産党との対立が激化。
 この時の戦争では初めて「国連軍」が編成されて、アメリカ軍を中心とした軍隊が北亜と戦い、ソ連は「義勇軍」として北亜を支援した。この両者の介入も、中華地域の荒廃を激しくすることになる。
 その後中華民国領内では、「中華戦争」後に再発した国民党と共産党の事実上の内乱に発展。その後の長い内戦で、共産党が勝利した。勝利の時期は1950年代後半から60年代初頭にかけてで、正式な独立宣言は1958年に西安で行われている。北亜との対立があるため、北京は遷都予定地であり続け今も防衛都市に指定されている。
 しかし建国頃に国際承認される事はなく、中華民国の滅亡が西側で認定されてさらに数年後の1963年に国際承認された。ただし西側陣営との関係は、共産主義国家という事で長らく国交を結んだという以上のものではなかった。

 なお、「中華戦争」時のアメリカの本格的なてこ入れと、内乱時代の北アジア(+ソ連)の共産党への支援で戦乱が長引き、冷戦の代理戦争の舞台となる。内戦では数千万人の死者が出て、凄惨な戦いとなった。
 またアメリカ軍主導での中華民国支援も行われ、多数の国が共産主義を防ぐためとして再度派兵したが、結局民心を失った中華民国は崩壊することになる。
 なおこの戦争中に、中華民国がアメリカから供与された原子力爆弾を不用意に使用し、中華地域は世界初の被爆国となった。これは戦闘のためというよりも、逃げ落ちる途中の蒋介石が、共産党に何も渡さないため行った愚劣な政治的行動の結果だった。このため、原爆使用は中華民国が加害者として歴史的に糾弾され、核管理については早期に非常に厳重なものが世界規模で規定されるようになった。
 内戦終結後は、国民党は政府としての亡命先がないのでそのまま滅亡した。北亜は当時ソ連寄りの共産主義国で、イギリスが領有を続けていた海南島には入れないし、琉球王国(当時は英自治領)も小琉球(=フォルモサ)への亡命は断固として受け入れなかったためだった。
 蒋介石らは、その後アメリカからの亡命も断られて、中南米のとある国に金を積み上げて亡命して政治生命を絶たれ、蒋介石は失意の中での憤死を遂げている。
 なお日本は、中華情勢に対して基本的に我関せずで過ごした。

 建国後の中華人民共和国は、長期間の戦乱と内乱で国土が大きく荒廃した上に、清帝国の頃に領有していた地域の多くを失っているため、人口が多いだけの遅れた農業大国として過ごす事になる。また長期間の戦乱と内乱、そして餓死による死者総数は、20世紀に入ってからでも2億人に達すると言われる。建国時の総人口も3億5000万人程度で、清帝国時代から約1億人減少していた。
 外交は、政体の影響もあって孤立傾向が常に強かった。
 西側諸国を滅ぼして建国された共産主義国なので、独立当初から西側諸国とはほぼ敵対的関係だった。特に、戦争と内乱でアメリカが介入したせいで、アメリカとは常に敵対的だった。イギリスの影響が強い他の東アジア諸国からも、伝統的な中華の膨張に対する恐怖と一党独裁の共産主義国という政治体制の違いから酷く敵視された。
 また北亜とは同じ共産主義国で内乱中は支援も受けたが、民族的対立からすぐにも対立が始まった。ソ連との関係も1960年代半ばから敵対的で国際的に孤立した状態が続く。
 内政では、1960年代半ばに「大躍進政策」を実施して、無理な経済建設を行おうとして国内経済が崩壊。そして既に老齢に差し掛かっていた独裁者の毛沢東が失権し、国内が大きく混乱する。
 そこを北亜がつけ込んで侵攻。戦闘が拡大して「第二次中華戦争」となる。最終的に北亜が境界線に追い返されるが、国土の半分が戦場となってまたも荒廃する。しかも共産主義国家同士の戦争のため西側はほぼ傍観して過ごし、ソ連は北亜を支援したため万里の長城より北に押し返すのがやっとだった。兵士だけで100万人、死者総数はその十倍以上にも及んだと言われるが詳細は分かっていない。さらに農地の荒廃などにより飢饉が発生し、さらに数千万人が餓死したと予測されている。
 こうした定期的な民族的な殲滅戦争のため、チャイナ中央部の人口は常に停滞を余儀なくされ、4〜5億人程度で推移した。
 当然ながら、以後他の共産主義国との関係は敵対的となり、国際的に完全に孤立する事になる。
 しかし「大躍進政策」で失脚しかけた毛沢東は、祖国防衛の英雄として復権を果たす。そしてチャイナの復権をかけて、国力増大を目的に多産政策を実施した。しかし食糧問題や経済を無視した政策だったために破綻が目に見えていたため、彼の死後に政策は中止されチャイナの人口は7億人にまで増えた後に少子化政策が進められ微増へと転じた。
 毛沢東死去後の1978年に、経済のみ改革解放政策に転じる。またソ連と北亜に対抗するため、西側に属する周辺各国との関係改善に動いた。この結果、西側諸国の多くとも経済面などでの交流が進むようになった。
 しかし欧米の海外資本は、先に発展を始めていた日本にまずは流れ、冷戦崩壊後は北亜の方がソ連と共に改革解放に強く流れたため、西側資本もその間あまり流れる事がなかった。中華に資本が流れなかったのは、国土の荒廃がいまだ癒えていない点と社会資本の貧弱さにあった。また政治的にも共産主義体制による一党独裁が警戒されたからであり、特に冷戦崩壊からしばらくは他の国への進出に傾く向きを強めさせる要因となった。
 それでも東アジア地域の隆盛に従い、1990年代に入って少しずつ市場経済の効果が現れ始めており、21世紀に入ってからは進出する外資も増え、高度経済成長に入りつつある。
 1970年代半ばから核兵器を保有するが、それ以外のプレゼンスは人口が多いという事以外いまだ大きくはない。経済力の面でも、まだ近隣で一番成長している日本の方が大きく、日本の成長を追い越すのは最低でも十年、恐らくは四半世紀近く先と予測されている。

 国土は、中華人民共和国が主張し続けている旧清帝国の領土とは大きくかけ離れ、もう一つ前の明帝国期に比較的近い。国土面積は、インドと同程度となる。
 総人口は、21世紀初頭で8億5000万人程度。1980年代からは多産政策が中止され一転して少子化政策が進められたため、程度問題での人口増加率となっている。
 日本との関係は、一般外交程度。境界をほとんど接しないし、近代に入ってからの歴史的摩擦もないため、特に目立つ対立は今のところない。東アジアの中ではかなり希薄な方となる。中華側が先に発展した日本に援助や市場進出を求める向きが強いが、日本側としてはまだ魅力が低いため進出は低調。政体の違いも、伝統階級の多い日本を警戒させている。
 そしてむしろ冷戦崩壊後に民主化した北亜との経済関係を強めたため、チャイナとの関係が近年悪化している。

コリア(朝鮮半島):
朝鮮王国
 国土は、朝鮮半島の全域と若干の周辺の島を領有。
 元々500年も続いた前近代的国家が発展と国土開発、さらには近代化を怠った事もあるが、1905年から1917年のロシアの短期間の統治で国土はさらに大きく荒廃した。特に第一次世界大戦中の荒廃は酷かった。
 人口も、ロシア統治時代に奴隷並の労働力としてシベリア、中央アジア各地に強制移住(連行)させられて、半島内で激減している。強制移住者も、三分の二は次世代を残すことなくロシアとその後のソビエト連邦による強制労働などで死亡したと言われ、21世紀初頭でも旧ロシア帝国領各地に300万人程度が散らばって住んでいるに止まっている。
 ロシア革命の混乱の中で独立復帰を宣言。しかし自分たちだけでは何も出来ないため、独立時から列強の庇護を求める。
 その後すぐにイギリスの自治国となると、内政統治においてのみ旧支配階級だった王族と両班の統治も復活したが、近代化はむしろ後退した。彼らにとって都合の良い、民衆の文盲化政策に逆戻りしてしまったからだ。イギリスも遅れた統治を半ば歓迎したため、一部の両班を優遇して民族内での対立と不和を煽る統治を行った。そしてイギリスの自治国時代も、経済価値の低さからアフリカ奥地の植民地程度の扱いしかされなかった。また、共産化させないための最低限の統治しか行わなかった。地下資源も人的資源も、他の地域に比べて少なかったからだ。
 第二次世界大戦後は、あまりに民度が低いので共産党がはびこるも、はびこったのは原始共産主義的な毛派共産党となった。しかし国内では軍事色の強い政府に徹底的に弾圧され、一次内乱に近い状態となる。また、中途半端に海外からの情報が入ったため、支配階級と民衆との間でひどい対立状態が続く。このためイギリスも、保護国として領有することに愛想を尽かし、アメリカの助力を得て完全独立させる事になる。
 1953年、イギリスから完全に主権を回復。完全独立を達成した。しかし自らの力で自立したというよりは、独立させてもらった向きが極めて強かった。しかし英連邦からは自ら外れ、新たにやって来たアメリカの庇護を求める。
 冷戦時代はアメリカが軍事基地を置いて、朝鮮の軍隊だけを強化させてソ連及び共産主義包囲網に役立てた。政権も独裁傾向の強い軍事政権となり、何度も血なまぐさい事件や政変が起きている。しかし冷戦崩壊後は価値も低くなり、アメリカ軍も1994年には撤退。朝鮮には肥大化した軍隊(陸軍)だけが残り、その後何度も軍事クーデターを起こす事になる。
 冷戦崩壊後はどの国もあまり相手にしなくなったため、徐々に中華人民共和国の影響が強まっている。
 また近隣諸国との対立も強く、民族問題で北亜とは常に対立状態となっている。これが軍事政権が続きがちな原因の一つともなっている。
 日本に対しては、他国の支配を長らく受けた上に白人の思想や文化に染められた国として一方的に軽蔑している。両者の国交や交流も、両者の消極姿勢もあって常に最低限となっている。冷戦中の日本としては、朝鮮半島がイギリスやアメリカの政治的影響下の国として保持されるなら、別にどうでもいいというのが本音だった。冷戦崩壊後は、さらに関心を低下させていた。
 朝鮮民族の間では、自らを支配したロシア、イギリスに対する反感も依然強く、関係は常に悪い。近年では、最後の支配者(支援者)でもあったアメリカへの感情的反発も強まっている。
 言葉は朝鮮語が主流だが、文字はイギリスが普及させたラテン文字(アルファベット)を使っており、一部でキリル文字も残っている。民族文字だったハングル文字は、ロシアの統治中にほんとんど破棄され、歴史上の出来事としてしか現存しなくなっている。ハングル文字を復帰させようと言う動きもあるが、もともと一般への普及率が極めて低かった事に加えて、残された資料や文献が少ないためほとんど進んでいない。ロシア語、英語は知識層の一部で話されるが、一般にはあまり普及していない。単語もかなりがロシア語と英語に変えられた。
 総人口は、21世紀初頭で2300万人程度。国内に目立った産業はなく、GDP、一人当たりGDP共に低く、遅れた農業国家として過ごしている。
(※日本の支配や統治、近代化への啓蒙が全く無く、ロシア、イギリス、アメリカに酷い統治を受け続けた結果です。イメージとしては、アメリカに絞り尽くされた中南米の国に近いでしょう。)

琉球王国:
 沖縄本島から小琉球島(フォルモサ=台湾島)にかけての島々を領有。
 1870年にイギリスの保護国となって以後、基本的に遅れた島国として過ごす。
 沖縄本島を中心に小琉球に続々と移民して、現地先住民と混ざり合う。またイギリス圏への移民もかなりの数に上る。国民の多くは、アジア系と言うよりは太平洋系の民族構成となっている。小琉球には日本からの移民もかなりの数に上る。また日本への移民も多数出ており、現在でも移民と相互交流が活発である。
 その後、小琉球への大量の不法移民もあって中華系の影響が強まるが、独立後に国を挙げて不法移民排除と国内での同化政策を強めることで「中華」となる事を避けた。国家としては、英連邦としてイギリスと日本やオセアニア地域を含む太平洋諸国とのつながりを求め続けている。中華の影響を排除するのが、伝統的国内政策となっている。このため中華人民共和国や華僑の多い国との関係は思わしくない。しかも中華側が、琉球を中華の一部と発言することが多いので、反発が弱まる事がない。
 1962年に、イギリスから独立。イギリスを範にした立憲君主制として成立する。
 1980年代中頃から日本に影響される形で経済発展が始まり、新興国として相応に注目されている。琉球諸島は近隣からの観光地としても発達しており、日本やV. ファー、最近では北亜やロシアからも多数が訪れている。
 総人口は、21世紀初頭で1900万人程度。ほとんどが小琉球島に居住する。
 公用語は、日本語とよく似た琉球語。必然的に、民間レベルでは日本やV.ファーとの交流が盛んである。ただし漢字以外で独自の文字を持たないため、主にラテン文字が使われている。漢字とラテン文字を混ぜて使う場合もある。近年は、同じ表音文字の日本語を見本にした民族文字を導入しようという動きが活発に行われている。また第二公用語として英語が指定され、知識階層や都市部では双方を話せるのが一般的。

V.ファー(ファー・ビクトリア):
 正式名称は「ファー・ビクトリア」。共和国などは付かない。旧蝦夷島の名前のファー・イースト・ビクトリア・アイランドがそのまま国名になった。
 英国王(女王)を名目君主とする、典型的な英連邦国家。議院内閣制の共和制国家で、内閣総理大臣(首相)が実質的な国家の代表となる。
 国自体は、北半球にあるニュージーランドもしくは大きなフォークランド諸島と表現すると分かりやすい。しかし冷戦時代はソ連と隣接しているため、独立初期はイギリス軍、その後アメリカ軍が陸軍師団を送り込むなど大軍が駐留した。「極東の楔」や「北太平洋の蓋」と呼ばれ、冷戦の最前線として注目された。独自の軍隊も出来うる限りの整備が心がけられ、英国軍同様の陸海空の三軍を持ち、規模は小さいながら精強が謳われている。徴兵制も長らく布かれていた。
 冷戦崩壊後はロシア(旧ソ連)との対立も消えて、ロシア極東と共にアジアでの白人勢力圏の飛び地として穏やかに過ごすようになる。
 建国以前から現在に至るまでアジアからの移民は強く制限しており、アジアからは日本からの移民を完全帰化など厳しい条件を設けた上で選抜的に受け入れるのみ。世界中から白人移民を求めるも、遠すぎてあまり増えず。1970年代以後になると、北米大陸からの白人移民が増えつつある。同じ英連邦のオーストラリア、ニュージーランド、そしてカナダとの関係が強い。
 しかし国内での人種差別は、移民制限に対して逆にあまり激しくはない。白人と日本人の混血もある程度の比率で存在する。
 総人口は、21世紀初頭で約400万人。
 国土はファー・ビクトリア島、サハリン島、クリル諸島を中心に約16万平方キロを有しているため、人口密度は低い。首都はファー・ビクトリア島中南部のニュー・エドワード市で、人口は80万人ほど。国全体で都市人口比率は高い。主要な場所の地名はイギリス植民地風だが、全体としては現地アイヌの言葉が圧倒的に多い。
 独立当初の主産業は農業と漁業で、今も酪農と混合農業が盛んに行われている。農業生産力の低い日本とのつながりが強く、食料品の多くが日本に輸出されている。地下資源も、ファー・ビクトリア島、サハリン島双方である程度の石炭が、サハリン島では石油と天然ガスが掘られ、国内余剰分のほとんどが日本に輸出されている。主要な食料資源、燃料資源は完全に自給されているため、東の小さなカナダと言われることもある。
 また英国統治時代から工業が進んでいた事もあって、1970年代ぐらいからは先端工業や精密機械工業が重視される。
 一人当たりGDPは北東アジアで最も高い数字を示し、北東アジアで唯一の先進国に含められる。工業技術の高さから極東のフィンランドと言われることもある。
 また近年では日本からの観光も多くなり、出稼ぎ労働以外での相互交流も進んでいる。加えて、ロシア極東との経済や民間交流も盛んとなっている。
 公用語は英語のみ。地方の一部では日本語も若干使われ、名詞のかなりが取り入れられている。先住民族であるアイヌ人のアイヌ語とアイヌ文化の保存運動も、1970年代から盛んに行われている。
 住民それぞれ約1割がアイヌ系と日系、そして白人とそれぞれの混血で構成されている。残り全てがイギリス系で、一部に冷戦崩壊後に増えたロシア人が住む。白人(主にアングロ系)人口は、300万人を少し越える程度。

東南アジアの植民地:
 日本が近代国家として成立しない事、中華が内乱に明け暮れ欧米の干渉を受け続ける事などから、アジアを啓蒙する国がないため各地の独立は遅れる。第二次世界大戦で日本やインドが独立したことで、ようやく啓蒙と独立に向けた動きが始まる。またインドは、日本と連携した独立運動の中で、互いに啓蒙しあって独立への道を作り上げていった。しかし、インドとは別地域とされたビルマの独立は大きく遅れた。
 アメリカが1944年に独立させたフィリピン以外は、1960年代に入ってようやく独立を始める。独立の時期は、アフリカ諸国とほぼ同じとなった。
 ベトナムは一時期共産主義者による民族主義が強まったが、フランスとの戦争に敗北して共産主義者は壊滅。その後フランス側の妥協により、1958年には西側国家として独立した。連動して、インドネシア連邦のラオス、カンボジアもそれぞれ王国として独立を果たす。
 独立の遅れたインドネシアは、一時期赤化の流れが強くなって大きな内乱に発展した。
 独立を守り抜いたタイと、同じ英連邦だったマレーシア、シンガポールは日本などと連携を強める。
 一方で、シンガポール、香港、マレーシアの英連邦地域には、20世紀に入った辺りから日本人の移民が増加した。21世紀初頭では、香港で少数派だが、シンガポールには50万人近い日系人が住んでいる。またマレーシアにも100万人近い日系人が居住する。

 なお、アジアでの啓蒙の遅れの影響で、アフリカの独立も3〜5年程度遅れ、1950年代の独立は史実より減る可能性が高い。

その他の国の変化:
・アメリカ:

 アメリカ西海岸への日本人移民は、日本の江戸幕府があった時代に始まる。18世紀後半以後の開国政策以後半世紀の間に、日本人の海外移民が始まった。その中で大圏航路を辿ってたどり着ける北米西岸が注目され、1840年から50年頃には合計10万人以上が移民して、以後も移民規制が敷かれるまで日本のイギリス統治の中で日本からの移民が増え続けた。そして1950年代に移民が解禁されると、再び日本人が流れ込むようになる。
 このためアメリカ西海岸、特に何とか稲作栽培が可能だったカリフォルニア北部で日本人が大きく増加した。長い間白人移民を数において圧倒し、現在においても西海岸ではマジョリティーである。21世紀に入っても、カリフォルニア北部平野部には稲作が多く行われている。
 アメリカ国内の日系人の総数は1980年頃で約1500万人に達し、日本以外で日本民族が住む最大級の国ともなっている。そのうち約1000万人が、アメリカ西海岸に住んでいる。
 ただし西海岸の一部以外では、長い間有色人種として下層労働者に甘んじていた。それでも「アメリカ人」としての役割を果たした献身が次第に認められ、少しずつ地位を向上させた。特に第二次世界大戦後に大きく上昇。また1960年代以後人種差別が社会的に大きく緩和されると、教育に熱心だった者が多いため社会的地位を得るようになっている。21世紀初頭では、裕福な人種階層に含まれている。
 なお、アメリカでジャパニーズと言えば、国内の日系人の事を指し、本国に当たる日本との関係はかなり希薄なまま推移している。

・カナダ:
 イギリスが日本を植民地化した富により、1867年にロシアからアラスカを購入して領域を増大させている。
 日本人の移民が規制されるまでに、約100万人もの日本人が移民した。1980年頃のカナダ全体の総人口約2800万人のうち約300万人が日系人(混血率半分以上)となっている。日系人は、主に太平洋沿岸地域、アラスカ、中部平原に居住する。
 またカナダ在住の日系人は、カナダ特有の地域及び民族コミュニティーの保存がしやすいため、日本人古来の文化や伝統を一部で保存している。内陸部には、今も日本風の建築物が残っている地域もある。
 しかし白人一般の人種差別のため、社会的地域が向上するのは1960年代以後を待たねばならなかった。だが、カナダ西部奥地の開拓では大きな力を発揮し、アラスカの住人の三割も日系人で占められている。地名の一部も日本風のものが見られる。

・オーストラリア、ニュージーランド:
 有色人種移民が禁止されるまでの19世紀のうちに、オセアニア地域には約100万人の日本人が移民。主に農場労働者として従事する。その関係で、オーストラリアへの移民が多くなった。このため南東部のプランテーション地域に人口が集中。一部では、日本人の手により稲作栽培も行われるようになった。また開拓地を得て自立した農場主になる者も多く現れ、開発の遅れていたオーストラリア開拓の担い手の一翼を担うことととなった。
 20世紀に入ったばかりのオーストラリアの白人人口が約350万、ニュージーランド約70万だったのだから、日本人移民の影響がいかに大きかったかが推し量れるだろう。日本人は現地での人口増加を合わせて、既に150万人に増加していた。
 このため20世紀に入りオーストラリア政府が取った「ホワイト・オーストラリア」政策に対して、既に居住する日本人及び日系人を例外とするなどの対策を取らせざるを得なくなった。ただし、以後の日本人及び英連邦地域を含む全ての地域からの日系人移民は事実上禁止され、既に居住している者については事実上の同化政策(英語化、欧州風生活)が推し進められ、その中で日系は二級市民という位置づけにあった。「バナナ」や「JJ(ジャップ・ジョン)」という蔑称も付けられた。
 その後白人移民が増えたため日系人比率は下がり、1980年頃のオーストラリアの総人口1800万人のうち約400万人が日系人になる。
 しかし1990年代以後は移民規制の緩和に伴い、日本及び日系人の移民が再び認められるようになると増加し、21世紀初頭では総人口2400万人のうち、約500万人が日系人となっている。豪州政府も、インドネシア人が増えるよりは英連邦に属していた日本からの移民を歓迎した。当然日系人の発言権は大きくなり、実質において白人だけの平等や博愛を謳う白人との間に対立が見られる事もしばしばある。
 ただし、国家としての日本とオーストラリアとの関係は良好な状態で維持されている。これは同じ英連邦諸国という枠組みの中に属している事が強く影響しており、来るべき他のアジア諸国の台頭に対する懸念が互いの結束を強めさせている。

 ニュージーランドへの日本人移民は、ニュージーランドの経済規模、人口規模もあって少なく、1980年頃でも約30万人程度の日系人が住むに止まる。これは近隣のフィジー王国などよりも絶対数で少なく、ニュージーランドがアングロ・サクソン系以外の移民を排他し続けた結果だった。またオーストラリア同様に、二級市民としての同化が政策が進められ、権威の向上も1970年代を待たねばならなかった。

・ハワイ王国、フィジー王国:
 ハワイ王国では、同国が長らく独立国(1910年から1945年まではイギリスの保護国)だった事もあり、自主的な日本人移民の流れが続く。ハワイ自身も、白人に対抗するため日本人移民を歓迎した。しかしイギリス商船を使って短期間で大きく増加し、現在では総人口の約半数にあたる約50万人が日系人となっている。当然ながら、ハワイで一番のマジョリティーである。
 有力企業、富裕層、議員の多くが日系人のものであり、東南アジアでの華僑のような弊害をハワイにもたらしている。
 しかし一方では、日本人移民がハワイ王国の独立維持とイギリスの保護国化、そして再独立の流れを作り出した。
 現国王も、ハワイ王族と日本の天皇家の一族双方の血を受け継いでいる。

 フィジー王国では、イギリスが労働移民として日本人、琉球人移民を大量に運び入れて、サトウキビ栽培のプランテーションを経営。短期間で、総人口の約半数が日系人、琉球系人となる。このため、ハワイ同様に日系人、琉球系人と先住民族との対立が問題となっている。現在の日系人、琉球系人人口は約50万人。

・ブラジル(+他の南米諸国):
 同地域への日本人移民は、20世紀に入ってから爆発的に伸びた。これは奴隷を使えなくなった事による下層労働力の要求と、英連邦諸国やアメリカで日本人移民が閉め出された事が影響していた。
 1910年頃、総人口が約2000万人だったブラジルで一気に日本人移民が増えたため、一時期は数において有力民族化した。このため1930年頃には、日本人移民がブラジルでも規制されるようになる。
 そして以後しばらくは、他の南米諸国への日本人移民が増えた。
 1980年頃のブラジルでの日系人総数は、総人口の約一割に当たる約1400万人に達している。地方の公用語として、日本語も限定的に認められている程となっている。教育に熱心で勤勉というのが現地での日系人評で、富裕層での大きな割合を示している。当然ながら、ブラジル国内での政治経済の双方においても大きな影響力を持つようになっており、富裕層が多い事も重なって、他の民族からはあまり好ましくは思われていない。
 ブラジル以外での日本人移民は低調で、ブラジルに一気に流れた事で限定的ながら日本社会が維持された事が、日本人移民を一層ブラジルに集中させる事につながった。
 それでも自作農を求める一部の者が、ラテン大陸各地に移民していった。