■フェイズ07「グレート・ウォーまで」

 幕末から明治を作り出し、主に明治新政府と呼ばれていた時期に活躍した人々を一般的に「元老」や「元勲」と呼び、彼らが高齢になって第一線を退く頃には現役政治家達の調整機関やご意見番としての「元老院」が設置された。
 元勲と呼ばれる人物の中で最も大きな存在が、大久保利通だった。彼は明治三傑と言われた西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の一人であり、明治維新は彼なくしてあり得なかっただろうとも言われる。
 そして日本近代史上屈指のマキャベリストだった大久保の手腕によって、合理的で実務的な明治政府が作られていったと言っても過言ではないだろう。もし大久保が長期間明治政府を率いていなければ、近代日本はもう少し違った姿になったと言われている程だ。ただし、彼が偉大すぎたため、後の人材育成、政治家育成が疎かになったことは否めず、昭和初期の混乱の遠因ともなっている。彼の失策を敢えて挙げるなら、後身の育成を怠った事になるだろう。
 また大久保に準じるほど巨大な元老だったのが、大村益次郎だった。彼を入れて四天王と称する事もあるほどで、木戸孝允亡き後は事実上長州閥の頂点に位置した(※君臨はしていない)。また、大久保と並んで私欲、物欲のない人物で、共に子孫にたいした財産を残さなかったという点で共通している。
 大村は最高齢の元勲(1824年生まれ)だった事もあって、幕末の頃から彼の前では伊藤博文も山県有朋ら長州の人間はまったく頭が上がらなかった。とはいえ彼は軍事の人であり、一度首相を経験して無難に運営した以外では、基本的に兵部省か彼が創設した後の総参謀本部を根城としていた。大村は、自身に軍事以外に関わらないことを肝に命じていた節があり、組閣の話しが来たときも何度か断っている。自身の事を、有能ではあるが変人で敵が多いと自覚していたからだとも言われる。
 また大村は自らの晩年に、あくまで長州閥、陸軍閥を構成して、政党や市民勢力に対抗する向きを強めた山県有朋を、軍人としてだけではなく政治家としても失脚させている。山県は、幕末には奇兵隊に属し大村にとっても子飼いとすら言え、山県も大村によく尽くしたのだが、大村にはそうした苛烈とも取れる一面があった。また同時に長州閥そのものを、大久保と彼の後身達がなどが薩摩閥を葬ったのと連動して葬っているため、大村は郷里の長州(山口県)では酷く嫌われた元勲でもある。日本各地の軍事関連施設などには彼の銅像があるのに、郷里にだけは彼の銅像がほとんど建っていないほどだ。また大村も、大久保同様に自らの後身を育てなかったという点では共通している。二人とも、個人の手腕と力量で明治を引っ張ったにも関わらず、組織しか作らなかったのだ。
 そして大久保、大村という名字に「大」が付くこともあって、この二人を基本的に「大元老」や「大元勲」とし、あまりにも優秀で長期間明治政府を引っ張った事もあって、「双璧」とも並び称された。
 そして、上記二人に準じるも旧幕臣であるため元老院には入らなかった人物が小栗忠順だった。明治の人材としては大村に次ぐ年齢(1826年生まれ)の人物だが、明治入ってからの小栗は、しばらく坂本商会で優れた手腕を発揮して実質的に財閥の基礎を作り上げた。その後、幕末から維新にかけてのほとぼりも冷めたため、手腕を買われて明治新政府に呼ばれている。そして持ち前の優秀さから閣僚を歴任するも、遂に首相にはなれなかった。また元老にもなれなかったのだが、明治政府の人々は彼の知恵と言葉を必要としたため、第一線を退いて再び坂本商会(財閥)に身を寄せて名誉職に就くも、彼の元を人知れず訪れる者は枚挙にいとまなかった。このため小栗のことを「影の元老」と呼ぶこともある。特に民政派の議員や政治家にとって、小栗の存在は貴重だった。
 もっとも当人には、首相になるような野心や野望はなく、役職に反して質素な自宅で淡々とした日々を過ごしていたと言われる。収入の多くも、郷里に寄付したり、学校を開いたりする事に使っていた。明治政府での小栗は、どこか世捨て人の仙人のようだったという記録を残している者も多い。

 そして元老ではないがほぼ同格の人物と考えられていたのが、幕末に明治三傑を結びつけ、大政奉還に幕府を導く一助を行い、そして明治政府の基本方針ともなった「船中八策」を作った坂本龍馬だった。彼の功績の大きさは、特に幕末末期では並ぶ者がないほどと言われた。明治維新を行った人々のほとんどが、坂本龍馬こそが日本最初の宰相になるだろうと思ったほどだった。
 しかし坂本龍馬は、明治政府に直接関わった事は一度もなく、基本的に自分が立ち上げた坂本商会(財閥)で活躍した。伯爵としての勅撰の貴族院議員すら、無理矢理に断っている。しかも日本列島に止まっている事もほとんどなく、多くを海外で過ごしていた。主な滞在地も、気候が温暖だという理由でハワイ王国に置いていた。そして滞在中と移動中は絶えず手紙を書いていたため、彼の残した手紙はそれだけで博物館が出来るほど膨大な量に上っている。何しろ坂本が書いた手紙は、幕末から大正時代にかけての日本の記録そのものだからだ。
 坂本龍馬という人物は、薩長同盟を作ったように、ある種不思議な魅力と常人離れした行動力の持ち主だった。当人を前にすると、いかなる人種、年齢、性別の人であろうとも、彼の話しに魅了されたとすら言われる事も多い。要するに、日本語で言うところの「人たらし」の資質を多分に持ち合わせていたのだろう。もしくは超一流の交渉人(ネゴシエーター)と言えるかもしれない。
 坂本商会(財閥)も、坂本自身に近づくほど様々な人々によって構成された。坂本の発想で作られた日本初のシンクタンクは、坂本商会(財閥)拡大の大きな力となっている。とはいえ坂本自身に細かな経営手腕はなく、彼は発想と行動、そして決断の人だった。具体的に何かをするのは常に周りの者か部下であり、発想が突飛で実現に困難が多いことがままあるため、彼の言葉を実現する人々は必然的に優秀にならざるをえず、歴史にもその名を残した人も多い。創生期の坂本商会(財閥)自身も、明治日本希代の政治家である小栗忠順と陸奥宗光がいなければ、経営を軌道に乗せることは不可能だったとも言われている。
 そしてその坂本が得意としたのが、交渉ごとと金策だった。
 日清戦争では、戦争には強く反対してたくせに、日本の味方を少しでも増やすべく世界中を行脚していた。
 日露戦争でもアメリカ、ヨーロッパを駆け回り、現地の人々と直接会って莫大な金を日本の為に引き出している。日本の外債を集めるための宣伝も積極的に行った。日露戦争で金策に奔走した高橋是清も、一時期坂本と行動を共にして、彼の組織と人脈を利用した交渉と金策を行っている。
 もっとも、坂本自身は金には無頓着で物欲もなかった。金策も常に日本のため日本人のためと、口癖のように言っていたと言われる。また使うとなると、非常に金使いが荒かった。
 だが彼の作り出した会社は日本屈指の財閥であり、日本の海外進出を一手に担えるほどの巨体だった。彼の発想は突飛な事が多かったが、ほとんどの場合成功へと結びついている。このため彼の会社の資金に集まってくる政治家も多く、「明治の妖怪」とすら言われた大久保利通とも対等の立場で話しが出来る大物だった事もあり、ある意味並の元勲、元老以上に巨大な政治力を持っていた。明治後期以後は、一族や財閥内以外からも「大坂本」などと呼ばれるのもそのためだ。
 しかし、先にも書いたように彼は日本の政治に直接加わることはなく、主な住居は日本ではなくハワイ王国に据えていた。ハワイでは、名誉貴族称号、王立大学の永久名誉学長位など、彼の財閥が出資した施設の名誉職などを多数持っていたほどだ。これは彼自身がハワイにいることで坂本財閥の拠点の一つをハワイに強引に置いて、ハワイ併合をスキあらば狙っているアメリカを牽制する目的があったと言われている。その一方で、坂本の友人、知人がアメリカ政財界には多く、彼がいる限りアメリカはハワイ王国に手が出せないと言われていた。このため、歴史上には出てこないが、何度も暗殺未遂事件に遭っているとも言われる。

 そんな偉大な元勲達が常に頭を悩ませたのが、日本を運営するための資金だった。
 明治維新からグレート・ウォーまでの近代日本史は、借金財政の歴史でもあった。国家として近代的な何かを行おうとすればとにかくお金が必要だったが、明治日本は貧乏で、日本には大金を作り出せる物産がなかった。明治政府が最初に行った政策の一つも、商人が武士達に貸していた膨大な借金の棒引き、つまり一種の債務不履行だった。お陰で新政府は旧政権の借金を背負わずに済んだが、これにより没落した商人(高利貸し)も多い。
 しかしゼロにしただけでプラスではなく、日本にはマイナスをプラスにする手段に乏しかった。
 僅かな例外が生糸だったが、生糸で最新鋭の戦艦を購入しようとすれば、日本中の少女達が作った生糸を山ほど売らなければならなかった。歴史の表面には出てこないが、外貨を得るため表向きは移民という形で娼婦として海外に売られた日本人女性も多いと言われる。
 富国強兵をスローガンにして重税、増税、さらには外国からの借金(外債)により一枚看板の巨大な軍備を作ってロシアと戦ったが、その勝利は国家予算の数倍という巨大な借金の上に成立したものでもあった。日本にとっての日露戦争とは、他人から借りた竹馬の上で精一杯の背伸びをしていたようなものだったのだ。
 そして日露戦争によって、借金はこれまでとは比較にならないほど巨大となり、債務の利子返済だけで国家財政は息が切れするほどだった。このため、戦勝で得た満州の開発に外資を入れざるを得なかったといえるだろう。もし外資を導入していなければ、満州の開発と発展は少なくとも初動において大きく遅れていたことは間違いない。また満州の開発が遅延した場合は、日本の経済発展、税収の増大にも影を落とした事もまた間違いなかった。

 一方で、坂本龍馬らが中心となって、明治初期の頃に太平洋中に日本の旗を立ててきた事だが、ある程度の利益を生み出すようになっていた。1880年くらいまでは諸外国も太平洋にあまり興味を向けていなかった事もあり、同時期に日本の当面の国境が確定した頃、太平洋の約半分の島々は日本の領有権が認められていた。ほとんどは小さな島だったが、中には新奄美大島のように面積が1万平方キロを超える島もあった。とはいえ、殆どが赤道近くか熱帯に属しているため農業や開拓には不向きで、冷凍技術が発達するまでは漁業拠点としても使いづらかった。北緯もしくは南緯20度を超えるぐらいからサトウキビ栽培がしやすいのが例外で、日本が取りあえず領有したニューギニア島の東半分は、沿岸部の一部を除いてほとんど手つかずという状態がかなりの期間続いた。何しろ現地は熱帯ジャングルに覆われ、日本人が好むジャポニカ種の米の栽培が極めて難しく土地も貧弱なため、精々ジャガイモかサツマイモしか栽培できなかったからだ。それでもサトウキビ、生ゴムのプランテーション目的で開発が行われ、マラリアなどの熱帯性伝染病にもめげずに移民と開発が続けられた。一時は、ドイツが食指を延ばしたが、支配権を強めることで退けることにも成功していた。
 そうして20世紀を目前にして欧米列強が太平洋に領土的興味を向けるようになると、今度は日本人がほぼ手つかずだった場所が売却対象として脚光を浴びるようになった。
 ドイツとの間には、西太平洋、中部太平洋で幾つかの島の交換と売買が行われ、中部太平洋の日本利権はパラオ諸島とカロリン諸島の一部しか残らなかった。イギリスに対しては、南太平洋の南側、東側の諸島の幾つかが売却され、総額3000万円に達する借金とのバーター取引は、国力差から植民地を失った事を差し引いても日本政府を喜ばせた。何しろ殆どの島が、地図上日本領というだけの場所だったからだ。
 1899年には、イギリス、アメリカ、ドイツに日本が加わった形で太平洋東部一帯の領土確定が行われた。既に清国を倒して列強の末席に座ったからこそできた事だが、明治維新から三十年の実績がなければ、当時の日本では多くを言えなかっただろう。
 そして領土交渉の結果、日本はイギリスにニューヘブリデス諸島(バヌアツ諸島)、エリス諸島(ツバル諸島)、フェニックス諸島(朱雀諸島)を売却し、その以北を領有するようになる。また日本の口添えで、ハワイ王国は赤道以北の小さな島々の領有を認められ、これをイギリス、ドイツが承認したため各国も随時認めて行かざるを得なかった。
 このため帝国主義的行動に出ていたアメリカは、サモア東部のトゥトゥラ諸島、グァム島、ミッドウェー諸島以上の島を太平洋上に得る事ができず、対スペイン戦争で得たフィリピンへの航路で、常に苦労を背負わねばならなかった。実際問題として、原住民の反発による混乱が続いたフィリピンの統治に、長い時間をかけざるを得なかった。そしてアジアに進出したければ、とにかく日本をアテにしなければならなかった。しかも満州利権は日本のものであるため、アメリカのアジア進出は常に足かせが付けられる状態に置かれることになる。こうした状況に、アメリカの日本に対する悪感情が少しずつ高まっていく事になる。

 一方、日本の領土内での北方開発だが、同方面の開発は南洋開発と並んで坂本商会(財閥)が大きな役割を果たしていた。これは坂本商会や海援隊が、明治初期から武士の雇用を積極的に進め、南北問わずに移民事業を進めていたからだ。また南洋での土人(先住民・原住民)の扱いにも慣れている坂本商会は、北海道でもアイヌと比較的うまくつき合っていたため、面倒を嫌った政府から徐々に任されるようになっていったという経緯がある。
 坂本商会が政府から得た払い下げの官営会社の中心も北海道に集中しており、1881年には払い下げ価格を巡って政治問題となった事もあった。
 坂本商会は、創始者である坂本龍馬の故郷が土佐(高知)で、ニューギニアや南十字諸島などでの開発でも有名のため南方開発で発展した会社と思われがちだが、北海道開発で得られたものが日本国内での財閥拡大に与えた影響は大きい。
 なお、坂本商会の北海道、樺太開発での一つの特徴に鉄道がある。日本の鉄道は、狭軌と呼ばれる通常より幅の狭い植民地基準の小型鉄道の敷設が初期の頃に進められたが、坂本商会が私鉄の形で拡大していった北海道の鉄道は、基本的に標準軌を採用していた。これは、坂本商会が主にアメリカから強力な機関車を中古で多数購入していた事が影響していると言われている。北海道で日本政府が先に敷設した分も、日本国有鉄道(国鉄)が出来るまでに全て標準軌に統一されていた。官営鉄道については、坂本商会が様々な政治的圧力によって軌道変更させてしまったものだった。
 このため、1906年から07年にかけての日本政府による北海道鉄道買収後、北海道、樺太の鉄道は、国鉄(日本国有鉄道)とされながらも、大陸での鉄道と同様に日本本土と規格の違いが発生してしまう。この鉄道規格の違いは、北海道、樺太は日本本土と定義する日本政府にとってあまり好ましい状況ではなく、その後日本中の国鉄が標準軌へと一斉変更される大きな要因の一つとなっている。

 そうして日本が国内外で活発な活動を行っていると、アジア情勢に大きな変化が訪れる。
 中華地域で「辛亥革命」が起きて、清国が倒れ新たに中華民国が勃興を始めたのだ。
 辛亥革命を歴史年表的に取り上げると、西暦1911年(宣統3年)から1912年(民国元年)にかけて、中国で発生した王朝打破と新国家建設が行われた革命という事になる。名称は、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因んでいる。
 そして革命の原因としては、漢族にとっての異民族国家である清国の弱体化、列強による半植民地支配、漢族によるナショナリズムの昂揚という事になるだろう。
 1912年2月に、清国最後の皇帝である幼い宣統帝 溥儀(愛新覚羅 溥儀)が退位して、300年近く続いた大清国(清朝)は滅亡する。
 最初に中華民国の臨時大統領となった孫文は、革命の援助を主に近隣の日本帝国と、民主共和制国家のアメリカらから受けていた。そして革命に際しては莫大な資金援助を受けており、日本との間には革命成功の暁には満州を代金として明け渡すという仮約束を交わしていた。
 そこに日本との関係も深い満州王族の愛新覚羅善耆(ぜんき=シャンチー)が、満州族の権威の維持、清朝(清国)復興のための足がかりを残すべく、満州での立憲君主国家の建設という提案を持って、日本領の遼東半島は大連にやって来る。
 善耆は、清朝末期に近代化改革を進めた中心人物の一人で、親日家(知日家)でもあった。国内の革命派にも理解があり、開明的な皇族としても知られていた。その善耆が、漢族からの満州、蒙古の防衛を理由に日本領の遼東半島に亡命し、満州の独立、それが無理な場合でも自治が出来ないかと、日本とアメリカに持ちかけてきた。独立できるなら宣統帝 溥儀を満州族の都である奉天に迎え入れる事も可能だとして、日本に軍事力をアメリカに経済支援を求めた。
 そして日本はすぐに行動を開始し、多大な支援を行った孫文に対する日本への見返りとして、満州の自治独立の約束を文書の形で取り付ける。これで中華民国は、国家として満州と内蒙古の自治を認めたも同然だった。
 一方で最初善耆の提案を渋っていたアメリカだったが、取りあえず日本の勧めもあって、日本と共にロシア、イギリスなどにも相談を持ちかける。ただ当時のアメリカ大統領タフトは共和主義者であり王政国家には反対で、特に権威君主として以上の王権には断固反対していた。しかし大きな市場を得るチャンスを逃すことも出来ず、アメリカはしばらくの逡巡を余儀なくされる。アメリカでは、資本家の言葉が最も強かったからだ。
 状況に変化が訪れたのは、皇帝退位から一ヶ月後の1912年3月、北洋軍閥の袁世凱が列強からの支持を受けて総理大臣から臨時大統領へと昇格した時からだった。
 それまで支援していた孫文が事実上失脚したことで、アメリカ政府は方針を転換。満州、蒙古の自主独立に舵を切って日本との連携を取る。この話しに北満州の利権を持つロシアも乗り、イギリスは得意の二枚舌で袁世凱を支持しつつも、その半ば見返りとして満州族による満州の自立という約束を、公文書の形にする事に成功する。アメリカが方針を変えたのは、袁世凱が大統領とは名ばかりの旧時代型の独裁者であることが分かってきたからだった。
 この一連の交渉は、中華民国の妨害を防ぐため主にヨーロッパ(イギリス)で行われ、満州族の一部の人々は、白人達から支持を取り付けるための散在を重ね、北大西洋航路に就役する巨大客船で盛大な晩餐会を開いたりもした。この過程で流出した清朝由来の財宝も数多いと言われ、その過程で多くのドラマが生まれたとも言われている。また各交渉がもう少しずれていれば、巨大客船の晩餐会はあのタイタニック号で行われていた可能性もあると言われている。客船の話しはともかく、善耆達と彼らを支援する諸外国の努力は報われ、ヨーロピアン全盛だった時代の中で新たな独立国家が誕生する運びとなった。
 西暦1912年5月、「満州王国」は無事成立。首都は旧都の奉天に定められ、国境も確定された。
 政治的には、善耆が宰相として後見人となって、清朝最後の皇帝溥儀が帝ではなく王として即位し、各国の手厚い援助と支援を受けながらイギリスや日本のような立憲君主国家を目指すことになる。主権者を帝ではなく王としたのは、王だと中華民国に政治的妥協の余地が残されるからだった。実際、元中華王朝の皇帝が、満州族の王となったことに中華中央部はそれなりに安堵している。国号が二文字なのも、漢族側の安心感に輪をかけた。大の文字を外した点も、文字が意味を持つ中華世界において、意味は大きい。
 そして満州王国では、当面の軍事力と人的資源の一部を日本が提供し、資金と技術は主にアメリカとイギリスが提供し、北部の権益を持つロシアも技師などを北部以外の各地に派遣している。このため満州王国は、独立とは名ばかりの、日本を中心とする列強折半による経済植民地と大きな違いはなかった。近代的文物を持つのも、ほとんどの場合諸外国だった。
 そして満州王国のバックに日本、アメリカ、ロシア、イギリスが付いて中華民国が独立を認めた以上、他の列強も独立を認めざるを得ず、しかも中華地域での革命の混乱も静まらない頃に次なる大きな変転が訪れる事になる。

●フェイズ08「グレート・ウォー(1)」