■フェイズ14「暗雲来る」
1929年10月末、「暗黒の木曜日」と呼ばれる日にアメリカのニューヨーク証券取引所を震源地として世界規模の恐慌が発生した。 しかしそれまでの世界は一見順調だった。 アメリカ合衆国では、「大量消費社会」とも呼ばれる一般大衆が主となる社会が誕生し、生産と消費が美徳とされ、派手やかな文化も花開いた。禁酒法によるマフィアの暗躍やKKKの活動などの歪みもあったが、1920年代はアメリカが最も輝いた時代だった。映画、野球、ジャズ音楽、娯楽としてのラジオ、多くのものが産み出された。 しかし世界経済もグレート・ウォーからの回復と発展を行い、一見世界は明るいように見えた。そして1923年の震災復興以後の日本経済は、むしろ世界経済の牽引役にすらなりつつあった。 日本での震災復興とその後の公共投資を中心とする積極財政政策には、多くの資源、機械工業が必要だった。このため日本の主な海外の受注先となるアメリカ、イギリス(英連邦)、オランダ(東インド)、そして満州王国はかなりの経済的恩恵を受けている。特に日本の経済植民地でもある満州王国の受けた影響は大きく、日本経済の活性化は満州の産業を大きく発展させる原動力となった。
なお、大震災以前、世界大戦が終わって戦争特需が消えると、日本では大きな反動から戦後不況が到来していた。天井知らずだった輸出超過は輸入超過に戻り、再び国家債務も増えだした。さらに造船業界などは海軍軍縮が追い打ちとなり、大きな不況に見舞われた。このため日本政府は、円の強引な切り下げを実施して、日本製品を低価格とする事で対処した。このため、それまで1ドル=2円だったレートは、約2円50銭ほどに下落している。 その中で比較的好調だったのが、坂本財閥だった。 元々坂本財閥は、創業者の行動もあって、危険も大きい海外展開に積極的だった。国内外での競争力を付けるための新規技術獲得も積極的で、明治の頃から採算を度外視してまで幹部、技術者を留学させたり海外企業に弟子入りさせたりした。世界大戦でも、日本人がヨーロッパに多数渡ることを利用して社員をヨーロッパに送りこんだ。軍属扱いでヨーロッパに渡った坂本財閥系の社員の数は、日本企業の中で最も多く数千名に及んでいると言われる。そうした中で、坂本財閥は日本の財閥、企業の中で最もアメリカの財界と関係の深い企業となっていた。 坂本龍馬自身による日露戦争での資金調達の逸話が有名だが、明治初期の頃から坂本財閥(当時坂本商会)出資者のかなりにアメリカ人の名が連ねられている。このため満州開発でも、坂本財閥は大きな取り分を得ることができたし、アメリカの満州進出による日米関係の進展に乗じて業績と販路を拡大した。 そして世界大戦後では、国内での経営状況の逼迫に対応するべく、依然として経済が好調なアメリカへ進出を強化。アメリカの財界関係者との交流を一層深めた。 ただし坂本海運は、国内での客船運用で日本郵船と競い合って業績を悪化し、日本政府の調整もあって客船部門から多くを撤退。日本の各植民地を結ぶ航路やハワイ航路、北米航路で小規模に運行するまでに一時縮小される。 一方で金融部門の坂本銀行、坂本証券などは、好景気に沸くアメリカでの資金調達に奔走。1925年には、モルガン系財閥との提携で坂本銀行アメリカ支店をニューヨークに開設した。 その後もアメリカでのマネーゲームに狂奔し、莫大な名目資産を作り上げ、その都度換金して日本に環流していった。坂本龍馬が晩年に私財をなげうって帝都復興に億単位の大金を投じたが、坂本財閥自身はそれ以上の儲けをアメリカで産み出していた。この坂本財閥の動きは、競争意識から日本の他の企業にも伝染し、1920年代にアメリカから日本に流れた資金の総額は10億ドルに達するとすら言われる。しかし実際は、坂本財閥が恐慌の開始前後にも空売りをおこなって莫大な資金を得ているので、実際の金額は二倍に達するという説もある。20億ドル(50億円)といえば、帝都復興費用の半分にも達する額だ。しかし、当時のアメリカ株式は完全なバブル状態で、アメリカの経済規模が巨大すぎることもあって、日本人達の行動は「小金を稼いでいる」という程度にしか考えられなかった。 だが、永遠に続く好景気は存在しない。 1929年10月24日、「世界大恐慌」が発生。 この時坂本財閥は、財閥の運営資金確保のために定期的に一定の現金化を行って日本に環流していたため、株価暴落での直接損害は比較的小さく済んでいた。上記したように、むしろ数年間のマネーゲームで大きく儲けていた。 そしてこれを「恩」と考えていた坂本財閥の次世代の経営者達(坂本龍馬の長男の坂本龍一など)は、1929年の大恐慌発生において、恐慌回避のためアメリカの銀行シンジケートが行ったマネープールに参加した唯一の日本企業となった。この事件はアメリカのみならずヨーロッパでも意外な事件と捉えられ、当然ながら坂本財閥とアメリカ財界との関係は深まる事になる。アメリカ人は、人種を問わず恩義だけは忘れない人々だからだ。
そして1930年に入ると、大恐慌の波が日本にも到来する。 アメリカの不景気に伴う生糸の暴落と凶作飢饉、豊作飢饉の交互の重なりで農村が大きく疲弊して、日本での恐慌を悪化させる。小作農の多くが土建業に流れ、日本の農村の機械化が進んだとは言っても、当時の日本の産業構造はまだ過渡期だった。 しかし幸いにも日本の当時の宰相が日本希代の財政家である高橋是清だったので、ほぼ適切な対処が行われた。先の大戦での需要とシベリア出兵頃の米騒動に懲りて作られた、米価安定のための制度(※「食糧管理法」)も有効だった。また震災復興から続く積極財政政策、いわゆる社会主義的な内需拡大政策は、大恐慌に際しても効果的だった。また高橋を中心とする者達は、大戦以後の他国の金解禁と金相場の設定失敗につけ込んで世界の金を買いあさり、日本の金準備額を増やしていた。これは、日本政府が作った、政府による投資信託会社が行ったものだった。その上で大幅な円の切り下げを実施し、低迷する海外輸出に対する対策とした。この結果1ドル=3.3円にまで為替レートは低下した。この時期の日本経済の拡大が、円ではなくドルで見るとたいして上昇していないのはこのためだ。 しかし極端な円安政策も、「持てる国」が実施した経済ブロック政策とも言われる本国と植民地、衛星国を極めて高い関税で囲い込む、いわゆる保護貿易政策によって効果は減殺され、予想したほど大きな効果は得られなかった。このため、経済ブロック政策を敷いた国々に対して、日本国民の不満が溜まるというマイナスの結果を招いている。 海外に強い坂本財閥ですら、海外に会社を作ることでブロック経済に対処しようとするが、あまり成果はなかった。しかし安定した石油部門、海外展開の努力、海外植民地経営など多角経営を行う坂本財閥が受けた傷は、他社、他財閥に比べて小さなものだった。 一方、世界大戦以後経営の悪化が続いていた鈴木商店は、その後も規模縮小を続けていた。それが恐慌到来で一気に業績悪化が表面化して、他の中小企業同様に財閥の企業買収にあってしまう。鈴木商店系の企業買収は、鈴木商店と関係の悪い三井財閥が特に熱心だったが、坂本財閥がホワイトナイトとなって三井財閥と一時的に対立。鈴木商店は、その後「日商」を中心にある程度再編成されるが、大規模な財閥としてはほぼ解体に至る。
そして鈴木商店のホワイトナイトとなったことで、坂本財閥内で大きく進展したのが航空事業だった。 坂本財閥内での航空機部門は、1916年に自社でヨーロッパ向けのライセンス生産を開始したのが始まりとなる。日本国内では早い方であり、欧米の技術を積極的に取り入れているため技術力も高かった。欧州の空を席巻したキャメルやスパッドといった戦闘機も、主に日本軍向けにライセンス生産した。 しかし戦後の国内市場ではまるで採算に合わないため、戦後不況の中で自動車業に転向。以後、航空部門は、ほとんど財閥一家の趣味と研究レベルになるが、自動車産業との関連もあるためエンジン開発、基礎技術開発は続けられた。また、坂本財閥は、ヨーロッパの航空機レースのシュナイダー・トロフィーに参加した唯一の日本チームを出しており、通称「ドラゴン・ホース」と呼ばれた。無論、財閥創始者の坂本龍馬をもじったもので、その名に反して成績は振るわなかったが、最後のレースでは3位入賞の健闘を果たした。 多少余談となるが、1931年で終了となったシュナイダー・トロフィーだが、その最後の大会で坂本財閥の当時の総裁坂本龍一は、財閥創業者の遺言を果たすため、自分たちが主催して新たな航空レースの開催を行うと宣言。開催場所を、坂本財閥と縁の深いハワイ王国固定とした。 1932年に第一回大会が開催されたが、参加したのはほとんど日本のメーカーが主催したチームだった。一部アメリカの中小航空機メーカーのチームが参加し、ヨーロッパからは坂本財閥が頭を下げて招待したチームも含まれていたが、欧米諸国からは殆ど見向きもされなかった。このため坂本家は、賞金を大幅に引き上げたりして宣伝に努めた。強い興味を示したのは、まだ空軍を持てなかったドイツの民間航空企業ぐらいだと言われている。 なお、ハワイでの航空大会の特徴は、今までとは違って水上機ではなく陸上機のレースだった点にある。つまり時代が、水上機から陸上機に移りつつあった証だった。 大会は、その後も金持ちの道楽という見方をされつつも、規模を拡大しつつ毎年開催された。そしてハワイ王国そのものが自国への観光誘致、宣伝として国家を挙げて支援したこともあり、徐々に知名度を高めるようになる。優勝チームには、坂本財閥の出す賞金以外に、ハワイ王国の勲章と名誉国民の位が授けられた。またハワイ王族の前での御前試合が基本であり、大会はちょっとした外交の舞台ともなって華やかさを増した。1935年大会には、日本の皇族も来賓として招かれた。翌年には満州帝国の名物王女がやって来て、優勝チームの会社の飛行機(軍用機)を国が大量に買い込む事を行い、時代のきな臭さを持ち込むも大会を一躍有名にさせた。また、レース自体がハワイ王国公認の賭博としても認められたため、非常に俗な競技大会ともなった。今日のハワイ王国が国営賭博を国家事業にするようになったのも、この競技会を発端としている。 大会は1939年の第9回大会で一旦幕となるが、徐々にヨーロッパにも広く知れ渡り、1937年大会からはわざわざ大型豪華客船が何隻も仕立てられ、大西洋、カリブ海、太平洋と押し渡るほどとなる。アメリカ大陸からは、この日のために大型の旅客機も多数飛来した。アメリカの映画の中心地となったハリウッドからも、撮影隊がやって来た。ツェペリンの飛行船もやって来た。 参加チームも年々増え、世界の列強と呼ばれる国々の有力航空会社が名を連ねるようになった。1936年のベルリンオリンピック以後は国家発揚としての側面すら持ち、ドイツなどは非常に力を入れて参加したりもした。種目も増え、単なるスピード競技だけでなく、上昇速度を競うレースなど様々な種目や部門が作られた。中には、ハワイ諸島を何度も巡回する部門別の長距離飛行競争までが加わった。このため「空のオリンピック」とすら言われたほどだった。 そしてシュナイダー・トロフィーと「ドラゴン・トロフィー」と言われた坂本財閥のエア・レースによって、坂本財閥には多数の航空エンジニアが夢を見るべく集い、そうした人々が後の日本航空産業を担っていく事になる。
なお、航空黎明期の日本では、主に軍からの微々たる政府発注では生きていけず、当時の飛行機では遠距離間の飛行が難しいため民間需要もほとんど無かった。 しかし、1920年代半ばにアメリカの航空企業と提携、満州=日本間での民間飛行機輸送を画策するようになる。そこに大恐慌と鈴木商店が崩壊の危機に瀕し、坂本財閥は鈴木商店の影響下だった関西の川西財閥(山陽電鉄)に属する川西飛行機を友好的企業買収する。 その後、自社の関連産業を全面協力させ、さらには自社の飛行機部門と川西飛行機を統合して、短期間で一大飛行機メーカーに育てあげてしまう。社名も「新明和重工」に変更し、一気に日本の航空需要に食い込んでいった。しかも坂本財閥が日本の海外植民地に大きな利権を有するため、1930年代は大型の旅客用飛行艇を熱心に作った。この結果、満州、南洋、樺太、さらにはハワイ空路など民間用大型機、飛行艇を独占するに至る。飛行艇技術を応用した通常型の大型機の製造にも成功し、水上機、大型機ノウハウを活かした小型機の開発も行われるようになる。 そして川西時代から続く独自の飛行艇開発は、海軍に自ら坂本財閥に足を向けさせることになる。こうして軍の受注も受けるようになり、その中で新明和航空の大本の関係もあって、中島飛行機との関係も一定割合で続く。1930年代後半からは、三菱、中島、川崎などと並んで軍の受注を取るべく、飛行艇以外の戦闘機、大型機のコンペ常連となっていく。 大恐慌がなければ、その後の坂本財閥系の航空産業も創業一族の趣味や道楽で終わっていたかもしれない。
そして鈴木商店のように縮小もしくは消滅していった企業、財閥を後目に大規模財閥はそれらを吸収合併することで規模をますます肥大化させた。 日本ではこれを「五大財閥」と言い、三井、三菱、住友、安田、そして坂本財閥が名を連ねた。 坂本財閥は日本にあってもやや特殊で、植民地、外郭地での政府とのつながりと、アメリカ資本、ヨーロッパ資本との太いパイプ、国内での石油部門でのシェアの大きさが特徴となっていた。また財閥としては古参ながら、新興の財閥とは比較的関係が良好なのが特徴だった。鈴木商店のホワイトナイトとなったのも、そうした関係が影響していた。また坂本商事を中心とした巨大なシンクタンクを有している事でも有名で、その情報収集能力は局所的に日本政府を凌駕すると言われていた。これは、海援隊という歴史的な傭兵組織を持ち続けたことも影響している。
一方、大恐慌の影響は、国際関係にも大きな暗い影を投げかけ始めていた。 「ロンドン海軍軍縮会議」は1930年1月に開催され、5月に閉会した。1927年にジュネーブで行われた会議が失敗に終わり、世界には大恐慌に伴う暗雲が立ちこめつつあったため、この会議に失敗は許されないと言う気概で各国は議席についた。 先のジュネーブで行われた会議は、ワシントン会議で量的制限が行われなかった補助艦、いわゆる巡洋艦、駆逐艦、潜水艦に制限を加えようというものだった。加えて、戦艦にもさらなる制限を加えることも目指していた。しかし巡洋艦の保有数と大きさでイギリスとアメリカが対立し、日本は強力な攻撃力を持つ大型の巡洋艦を多数整備しつつあり、結局話しはまとまらなかった。アメリカは、戦艦の新規建造の5年延長だけでも成立させようとしたが、それもまとまらなかった。 これに懲りたイギリス、アメリカは事前に調整をし、さらに不戦条約など戦争忌避国際世論後押しを受ける形で、「ロンドン海軍軍縮会議」を迎える。 しかし同会議は、当初から日本にとって極めて不満の大きいものだった。日本としても軍縮の理念には賛同したかったが、またも建造中の新造戦艦を廃棄しなければならないからだ。 この頃日本海軍は、艦齢20年に到達した旧式戦艦の代艦建造のため、1927年から新造戦艦の計画を開始していた。わざわざジュネーブ会議の決裂を待って行った慎重なものであり、国際的非難もなかった。 新造戦艦は2隻で、旧式の《摂津》《薩摩》《安芸》の代替艦だった。条約上では3隻まで建造できたが、排水量の関係で2隻の建造しかできなかった。新造戦艦は、1928年と29年に各1隻の建造計画が予算通過。呉海軍工廠と三菱長崎造船所で建造が開始され、それぞれ条約に従って1932年、33年に就役予定だった。ロンドン会議が始まる頃には、呉で建造中の1番艦は大きな第四ドックの中で船体がほぼ出来上がった状態だった。 そして同会議における日本は、新造戦艦の承認と補助艦艇比率対米8割を主張。現有戦力から算定した場合、最も妥当な数字だと論陣を張った。これに対してアメリカ、イギリスは、「世界平和の維持」という錦の御旗を掲げて、日本に新造戦艦の廃棄と特に大型巡洋艦の保有制限を迫った。その代わり潜水艦で譲歩し、巡洋艦、駆逐艦の保有量に関してもイギリス、アメリカが譲歩する姿勢も示した。日本政府もある程度の譲歩案を示し、旧式戦艦のさらなる廃棄と大型巡洋艦の規制を受け入れる代わりに、新造戦艦の建造については続行するという交換条件を出した。これに対してイギリス、アメリカは、日本に補助艦比率の総量75%を認めるので、新造戦艦の建造を止めるように再度求める。英米にとっては、日本の新造戦艦が気にくわなかったのだ。 双方の意見の食い違いのため会議は長引き、これにヨーロッパ間での議論をしていたフランス、イタリアが荷担して、自分たちも新造戦艦の建造が規制されるのではと危惧を強め、主にイギリスとの間に溝を作った。 そして日本本土では、二度目となる新造戦艦の廃棄に日本国民は激怒。報道各紙も、見た目の外観がほぼ出来ていたかつての《加賀》の写真を持ち出して、国内世論を煽った。 結局話しはまとまらず、日を改めて軍縮会議を実施するという事と、ワシントン条約の5年延長という項目だけが了解されるに止まった。そしてワシントン条約は延長して生き続けたため、各国は条約を尊守しなければならなかった。このため日本は、新造戦艦はそのまま建造する代わりに《摂津》《薩摩》《安芸》は順次廃棄されることになる。 次の会議の開催は2年後の1932年を予定し、開催場所には震災復興で装いを一新した東京が選ばれた。 なお、2年後という日程は微妙で、日本は既に新造戦艦を就役させているが、アメリカでも代替艦の建造が始まる時期のため、アメリカとしては自分たちの新造戦艦が建造できるという思惑が強かったと言われる。またアメリカにとっては、大統領選挙もあるため、政治的側面も強かった。
ロンドン会議の失敗後、アメリカでは日本に対向した重巡洋艦の大量整備計画が持ち上がる。だが、折からの不景気による緊縮財政のため予算は半分も通らず、日本に対向できる最低限の数すら揃わない状態となる。フーバー政権の無策とも言われるが、アメリカの民主主義が健全なことの現れとも言えるだろう。だが巡洋艦と同様に、最も旧式戦艦だった《ユタ》《フロリダ》、次に古い《アーカンソー》《ワイオミング》の代艦建造計画(※保有枠と各艦の排水量の関係から、4隻潰して2隻新造予定)も実現しなかった。そればかりか、有力艦艇の近代改装計画すら遅れがちだった。それだけ軍事予算が絞られていたからだ。 そうしているうちに、日本の新造戦艦が就役する。艦名は《伊豆》《能登》と命名。公表数値では基準排水量3万5000トン、最高速力25ノット、45口径16インチ砲3連装3基9門を前部に背負い式で2基、後部に1基装備。装甲部分を局限する集中防御方式を採用しているため、一部を除いて十分な対応防御を持つと紹介された。能力的には、イギリスの《ネルソン級》同様に排水量が許す限りの戦闘艦といえた。諸外国にも乗艦させる形で紹介も行われ、各国は日本があえて公表を控えた装甲数値がかなり低いのではないかと予測したりもした。でなければ、十分な対応防御が難しいと考えられたからだ。 しかし実際は、基準排水量3万7300トン、防御力も十分な対向防御を備え、最高速力は27ノットに達していた。これが露見しないように、普段は燃料や弾薬などの物資を必要以上に少なく搭載するなどの努力が行われたほどだった。その上船体は改装余裕も見越して設計されており、10年以内に3000トン以上の排水量増加を行う改装を計画していた。3万5000トンでは、攻防走を必要十分に備えた16インチ砲搭載戦艦の建造は不可能なのだ。 新鋭戦艦の就役によって、日本は16インチ砲戦艦保有数で世界一となり、アメリカの焦りは強くなる。戦艦保有数だけ見ると、1933年以後は英:米:日=20:18:12で日本が不利となるが、12インチ砲戦艦を16インチ砲戦艦に置き換えた日本が質の面で有利だった。 しかもイギリスは、予算不足を原因として16インチ砲戦艦は2隻しか建造しなかった。加えて、半ば自主的に13.5インチ砲搭載の旧式戦艦(※戦艦《アイアン・デューク級》4隻と巡洋戦艦《タイガー》)を、事実上の予備役に入れる措置を実施していたため、日本の優位はさらに高まっていた。イギリス海軍は、石炭と石油双方を燃料とする旧式艦の近代改装予算が通らないため、上記5隻を事実上の予備役とせざるを得なかったのだ。そして1935年頃には、事実上の海防戦艦に格下げされたり練習戦艦として使われ、一度も大規模な近代改装される事なく次の大戦を迎える事になる。もし、徹底した近代改装を実施していれば、開戦の時点でかなり有力な戦力となっていただろうし、実際に大戦中に大規模近代改装を実施して第一線に復帰している。
話しをもう少し先まで語るが、その後の日本海軍は一定の拡張路線に入っていった。1930年代に入ると空母枠の残り4万500トンを利用して、1隻あたり1万3500トンの中型空母3隻の新造を計画(その後1隻当たりの排水量は大幅に増加していく)。既存の大型空母2隻も、多段式で欠陥が多かった事もあって順次大規模改装を実施した。重巡洋艦も、3年に4隻のペースで建造を続けた。 重巡洋艦については、英米日の間で一定の建造競争が行われ、1939年の保有数は英:米:日=25:27:20となる。イギリスが目指した、小型の巡洋艦(軽巡洋艦)を多数整備するという計画は大きな修正を余儀なくされ、各国は8インチ砲を搭載した大型巡洋艦の整備に力を入れることになった。当然だが、逆に各国での軽巡洋艦の建造が低調となっている。イタリアが9隻、フランスが7隻の重巡洋艦を建造したし、他の国々も国力の許す限り巡洋艦の整備を熱心に行った。 また日本の継続的な好景気と経済の拡大に影響され、フランス、オランダでは新造戦艦の建造が促進されるなどの変化も生んでいた。 そしてこの時期の地味な海軍拡張を可能としたのが、「東京海軍軍縮宿会議」と呼ばれる筈だった国際会議が、国際情勢の変化ため開催されなかった事だった。 その後日本では国内経済の好調を受けて、1934年、1935年に各1隻、1936年2隻の就役スケジュールで戦艦の代艦建造も計画された(※1931年度、1934年度計画で各2隻)。しかし日本政府が、次の軍縮会議開催と通常の景気対策を重視したため1931年度の新造戦艦計画は流れ、この時だけ英米を若干安心させる。そして同時に、軍縮会議開催の気運の多少盛り上がりを見せたのだが、結局会議は開催されなかった。しかしイギリスは、それほど日本の軍拡は危惧せず、アメリカだけが日本の軍備拡張を危険視する向きを強めた。 だがそのアメリカは、建国以来といわれる不景気とルーズベルト政権下での極端な緊縮財政のため軍事費が大幅に削減され、1937年まで戦艦の新造計画を立てられなかった。アメリカ軍全体も、予算不足で苦しい時期を送った。そしてルーズベルト政権は、この政策のしわ寄せを日本の軍拡という事で国民の不満をそらせ、日本側は軍縮条約に則った軍事力整備を行っていないと反発し、互いの溝をさらに深めた。 こうして日本とアメリカの関係は、ボタンの掛け違いの齟齬によって急速に悪化していく事になる。
しかし海軍軍縮会議の失敗だけが、世界情勢を不穏にしたのではなかった。