■フェイズ23「日本の軍備計画(海上戦力)」

 日本の軍事力の象徴は海軍力だった。単に見た目で分かりやすいだけでなく、島国なのだから当然であり、戦時でない限り兵部省が獲得する軍事予算の7割近くを常に海軍が消費していた。このため陸軍の近代化や兵器の配備が遅れがちになったが、陸軍の規模そのものを常に限られた数に抑さえ込む努力を行うことで、質の低下も最低限となる努力が行われた。また幸いにも、国力が大きく向上したお陰で、陸軍も近代化に対応する予算を得る事ができていた。
 そうした中で、平時の軍備として力が入れられたのは、やはり海軍だった。軍艦とは建造に手間のかかるものであり、その手間のかかる艦艇を多数整備して艦隊を編成し海軍を作るには、長い時間を見越した長期的な視野と計画が必要だった。
 また、軍艦とは工業製品の粋を結集した近代兵器であり、その国の工業力の整備も問われるものであった。工業水準と生産力が問われるのは陸上兵器、航空兵器も同様だったが、持てる数の限られている大型艦艇という分かりやすい指標があるため、海軍という存在そのものが注目を集めやすかった。
 故にまずは、海軍から見ていきたい。
 まずは建造設備から見ていこう。

 1940年頃の日本の大型艦船建造施設は10箇所あった。アメリカの16箇所、イギリスの13箇所に次ぐ数字で、大西洋でのような超大型客船建造需要が限られている事を考えると、日本での大型艦建造施設は多すぎるぐらいだった。しかも日本の設備は新しいものが多く、加えて船渠(ドック)型が多かった。当時、アメリカ、イギリス共に、ドック型の大型艦建造施設は一つも有していない。この辺りは、山本権兵衛からの先見の明といえるだろう。従来は船の整備や補修用施設で、建造には不利と考えられていた施設を、技術の進歩に伴いより効率的な建造施設へと変化させることに成功したのだ。
 そして日本での大型艦需要は主に海軍があり、その次が自分たちが使用する経済効率の高い大型タンカーで、さらに大型客船や超大型捕鯨母船などの建造が行われることになる。
 しかしやはり中心は海軍であり、日本の大型艦建造施設は海軍中心に始まった。
 先の世界大戦が始まる頃、日本の大型艦建造施設は4箇所だった。海軍工廠の呉、横須賀、民間の三菱長崎、川崎神戸の4箇所である。大戦中に坂本尾道が加わって5箇所となる。
 その後坂本造船は、タンカー建造で次々に事業を拡大し、坂本今治を作り、さらに能率と合理性を追い求めた大型ドックである坂本尾道船渠を建設し、尾道船渠では一度に2隻の1万トン級タンカーが建造された。ドック型の施設だから出来る荒技だった。そして1936年からは、効率的なディーゼル機関を備えた2万トン級の新世代型の大型タンカーを量産していた。1920年代半ば以降の商船建造に心血を注いだ過程で、艦船用大型ディーゼル機関の製造能力も大きく向上していた。1930年代末頃の坂本重工の大型ディーゼルエンジンと言えば、ドイツのマン社に匹敵すると言われていたほどだ。

 その後日本が海軍軍縮条約離脱を決めると、海軍が行動を開始して呉の一部を埋め立て始め、横須賀の一部を整備し始める。この結果1937年初頭には10万トン級の巨船も建造可能な呉工廠第五船渠、横須賀工廠第六船渠が完成して、すぐにも戦艦を建造し始める。また海軍からの需要と民間需要に応えるべく、川崎が和歌山泉州に新たな大型船渠を建設し、これは1936年に稼働を開始する。そしてこれを見た三菱は、自らの沽券にかけて長崎郊外に広大な土地を取得して、超巨大造船所の建設を開始。次世代やさらに先の大型船も建造できる巨大な船渠を備えた設備を埋め立て段階から作り始める。ただし一部埋め立ての上に大規模なため、施設の完成は他よりも少し遅れることとなった。
 なお、三菱、川崎、坂本の大手三社による大型施設整備のため、1930年頃に海軍が構想していた「大神海軍工廠」計画は流れ、各造船所への助成と呉、横須賀の設備拡充という方向に傾いたという経緯がある。
 そして日本海軍が大規模な海軍拡張を開始した年、日本国内には10箇所の大型艦建造設備が稼働状態に入っていた。
 10箇所のうち4箇所は最大で4万トン級までだが、他の6箇所は6万トンから10万トン級の大型艦が建造可能で、1940年には三菱長崎船渠が2つ完成し、どちらも10万トンクラスに対応できる巨大な造船所として稼働する予定だった。また従来からある中型の造船施設の強化、日本各地の中小設備の拡充も行われ、日本の艦船建造能力は1930年代に飛躍的に増強されていた。
 概要をまとめると、以下のようになる。
 
・建造施設
(10箇所)
超大型艦建造施設(6箇所+2箇所)※( )内は稼働開始年
 ※5万トン以上の各種軍艦が建造可能。
 ・呉工廠第四船渠
 ・呉工廠第五船渠(1937年〜)
 ・横須賀工廠第六船渠(1937年〜)

 ・三菱長崎船台
 ・坂本尾道船渠(1933年〜)
 ・川崎泉州船渠(1936年〜)
 ・三菱長崎第一船渠(1940年〜)
 ・三菱長崎第二船渠(1940年〜)

大型艦建造施設(4箇所)
 ※4万トン級までの各種軍艦が建造可能。
 ・横須賀工廠船台
 ・川崎神戸船台
 ・坂本尾道船台
 ・坂本今治船渠(1934年〜)

中型建造設備(10箇所)
 ※大型民間船、重巡洋艦、中型空母などが建造可能。
軍工廠
・佐世保船台 ・大湊船台
民間造船所(※全て船台)
・浦賀船渠 ・大阪鉄工所 ・播磨造船所
・玉造船所(三井) ・横浜鶴見製鉄造船(浅野)
・三菱広島 ・渡辺製鋼広島 ・浦賀四日市

 これらの巨大な建造能力を使い、海軍は「第三次補充計画」を立案実行する。同計画の骨子は、巨大戦艦4隻、大型空母4隻を中心としたバランスの取れた軍備拡張計画で、他にも6隻の軽巡洋艦、各4隻の大型水上機母艦、高速補給艦などが整備される計画だった。
 建造能力に対して余裕があったが、この頃はまだ世界情勢は不穏とは言えなかった。建造数自体も各種民間船も建造しながらであり、実際1930年代には7隻の大型豪華客船が建造もしくは建造予定で、1937年頃は2万トン級の大型タンカーや巨大捕鯨船も建造中だった。このため民間造船所は既にてんてこ舞い状態で、作業員を大幅に増やして二交代制にして操業時間を増やし、さらに海軍の厳しい納期に間に合わせるため建造期間の短縮という課題にも取り組む事になる。このため1920年代末頃から始まった箱組工法、電気溶接技術が、一気に日本各地の造船所に広まる事となった。中小の戦時標準船の建造技術も進展し、専用の造船施設の建設も日本各地で開始されている。商工省、兵部省、日本海軍も、大規模な助成や技術指導を実施した。
 そしてこの時日本海軍が大規模な軍備拡張計画を実施したのだが、それはアメリカの影に半ば怯えたもので、少なくとも1937年のアメリカ、イギリスの海軍拡張計画は日本海軍を少しばかり拍子抜けさせた。しかし翌年にアメリカが次なる拡張計画を実施したことで日本海軍の警戒心は高まり、日本とアメリカによる海軍拡張競争は激化していく事になる。

 では次に、1930年代の日本海軍の拡張計画を見ていこう。
 
・1931年度計画(第一次補充計画)
蒼龍級航空母艦 :《蒼龍》
白根級一等巡洋艦:《白根》《鞍馬》《蔵王》《乗鞍》
駆逐艦:16隻
潜水艦:9隻
海防艦:8隻
潜水母艦:2隻(《大鯨》《白鯨》 ※空母補助艦枠)
 ※海防艦は小型駆逐艦程度の規模で、主に北方警備用。
 ※戦艦の近代改装に予算傾注。

 この時日本は、ロンドンでの軍縮会議を事実上蹴ったのだが、ワシントン条約については5年間延長され1936年内まで守る義務を日本も負い続けたため、海軍力の整備はワシントン条約に従ったものとなっている。
 《蒼龍級》航空母艦は、初期計画では基準排水量1万3500トンの中型空母だった。計画も、初期は航空巡洋艦とでも呼ぶべき過剰な要求と重武装のため、計画が二転三転した末に1万5000トン級の中型の高速空母として建造されている。このため、建造と竣工の時期が大きく遅れた。
 《白根級》一等巡洋艦は、《妙高級》の系譜に属する条約型巡洋艦だった。これまでとの違いは、前部主砲の配置変更と現場以外から批判の強かった大きな艦橋がかなり小型化した事になるだろう。また雷装も、甲板上設置の可動型で片舷8線と強化されている。船体規模、防御力などは前級の《高雄級》に準じている。基準排水量は名目上は1万トン丁度だったが、実際は就役時で1万1400トン、その後の改装で1万4000トン近くなった。速力も名目は33ノットだが、実際は35.5ノットあった。
 駆逐艦は、ロンドンでの会議が決裂したため、そのまま《特型》の改良型が整備された。船体の大型化、4連装発射管の採用、備砲の高角射撃対応などを採用し、姿も今までとは少し違ったため、これ以後の型を「甲型」と呼ぶ。
 海防艦は、軍事力を復活させつつあるソ連(ロシア)の脅威に対応するべく、北樺太の油田と樺太近辺を航行するタンカーを護衛するため、新たに計画されたものだった。このため、北方用の贅沢な仕様で特殊な装備が多い。合わせて、オホーツク海用の軍用砕氷船(特務警備船)も計画されていた。なお海防艦は、護衛艦隊専用の艦艇でもある。
 一方では、無条約時代に備えて各海軍工廠の新型船渠を設けるための下準備、要するに新たな船渠(ドック)や関連施設を作るための埋め立て工事を実施している。また既存の戦艦の徹底した近代改装工事を実施しているため、新規に建造するだけの予算が確保できなかったという側面も見られた。旧式とされる戦艦群が、新造戦艦に匹敵するほど改装されたのも主にこの時期だった。
 またこの時初めて、通称「空母補助艦枠」と呼ばれるものが設けられている。これは海軍軍縮条約に従って空母の新規建造規制を回避するための措置で、この枠内で建造された艦艇は、有事の際には短期間の改装工事で小型空母へと改装することが可能なように、あらかじめ空母としての構造が取り入れられている艦艇になる。このため就役した潜水母艦は、非常に大型で贅沢な仕様を有していた。このため諸外国は、日本海軍が遠隔地での大規模な通商破壊戦を想定していると考えたほどだった。
 日本海軍としては、アメリカとの無制限建艦競争になった場合の備えで、主に各種高速母艦、高速補給艦がそれに当てられている。構想段階では、内部容積をあらかじめ広く取ることが出来る大型客船も計画に入っていた。だが、客船は戦時の兵員輸送にこそ活用するという向きが日本の発展に伴い必要とされたため、空母としての建造補助は一度もされることはなかった。豪華客船建造への助成も、海軍よりも陸軍予算から割かれている。
 また潜水艦は、この計画から完全な電気溶接を採用し、さらに船自体の静粛性能を高めた構造を一定程度採用している。潜水艦の技術革新は、日本産業全体の発展を物語るものだと言えるだろう。

・1934年度計画(第二次補充計画)
肥前級戦艦:《肥前》《岩見》《周防》《相模》
伊吹級一等巡洋艦:《伊吹》《筑波》《六甲》《普賢》
飛龍級航空母艦 :《飛龍》《雲龍》
千歳級水上機母艦:《千歳》《千代田》(※空母補助艦枠)
駆逐艦:24隻
潜水艦:12隻
海防艦:12隻
香取級練習巡洋艦:《香取》《鹿島》

工作艦:2隻(《明石》《鳴門》)
潜水母艦:2隻(《深鯨》《背鯨》 ※空母補助艦枠)
高速給油艦:4隻(《剣埼》《黒崎》《鷲崎》《犬吠埼》 ※空母補助艦枠)

 この時の計画では、4隻もの戦艦が建造され、他にも重巡洋艦4隻、中型空母2隻というかなりの規模の海軍拡張計画となった。このため多数の民間造船所が、軍艦建造に携わることになる。また軍艦を建造しなくても、民間の大型造船所では大型客船や大型タンカーを建造しており、造船業界自体は非常な活況を示していた。当然というべきか、諸外国からも大きな注目と警戒感の目をもって見られた。
 ただし、ワシントン海軍軍縮条約範囲内の建造でしかない。
 《肥前級》戦艦は、1928年の3カ年計画で建造された《伊豆級》戦艦の改良発展型だった。45口径16インチ砲3連装3基9門装備という主武装は変わらないが、各所に改良が加えられている。軽量化を目的として電気溶接も大幅に取り入れられた。しかし就役頃に無条約時代に入ることが確実となったため、防御力、機関出力など多くの面で強化された。そして就役時には、諸外国の目を欺く為に敢えて燃料や砲弾、各種備品を少なく搭載するなどして、実際の排水量や喫水の深さなどを誤魔化している。名目上は基準排水量3万5000トンだが、実際は4万2500トンとドイツの《ビスマルク級》に匹敵した。このため各装甲の公表値は、1インチ以上誤魔化していたほどだった。同級は、海軍が初めて満足した16インチ砲搭載戦艦と言えるだろう。
 《飛龍級》航空母艦も同じで、無条約時代に対応するべく設計中に排水量が増大され、基準排水量は初期計画の1万3500トンから三割増の1万7300トンにまで増加している。空母としての形状も洗練され、日本式空母の原型が同級でほぼ完成する事になる。
 《伊吹級》一等巡洋艦も例にもれず、見た目は艦橋が前級より少し大きくなった程度だったが、発射速度を高めた新型砲塔を採用した事などから、実際は1万4000トン以上あった。また同級は、日本海軍最後の条約型重巡洋艦となった。
 駆逐艦は基準排水量が2000トンに達し、もはや駆逐艦というよりは巡洋駆逐艦とでも呼ぶべき規模と性能に昇華している。諸外国も、日本の大型駆逐艦整備に慌てるように、無理をしてでも大型駆逐艦を整備している。
 潜水艦は、今まで同様の贅沢な大型潜水艦の整備が中心だったが、戦時の量産を考えた中型で設計を簡略化した艦と次世代の高速潜水艦がそれぞれ1隻ずつ、実験艦的な枠で建造されている。また全ての潜水艦が電気溶接で建造されたのもこの計画からで、潜水艦の静粛性にも大きな努力が傾けられるようになっている。これらの変化は、日本の基礎的な技術発展を物語るものでもある。
 海防艦は、太平洋に広がる日本の植民地警備を行うため、旧式艦艇に代わって計画されたもので、北方航海用ではなく南方航行用の機能を備え、さらに実験的に量産効率を高める設計となっていた。このため、見た目はかなり素っ気ない外観を持つ。
 そしてこの時の計画の特徴は、今まで拡充が行いたくてもなかなか出来なかった支援艦艇の充実にあった。遠隔地での艦隊運用を前提とした重工作艦、航行中の補給が可能な高速給油艦は、建造費が甲型駆逐艦や大型潜水艦よりも高く、日本経済の拡大に伴う軍事予算の底上げがあって可能となった事だった。
 なおこの計画内では、軍縮条約離脱に備えて海軍工廠の拡張を本格的に開始している。また助成金を出して、川崎泉州ドックを造成開始。機械力の大幅導入による工事で、1936年実働状態に移っている。

・1937年度計画(第三次補充計画)
大和級戦艦:《大和》《武蔵》《信濃》《甲斐》
翔鶴級航空母艦:《翔鶴》《瑞鶴》《神鶴》《千鶴》
大淀級二等巡洋艦:《大淀》《仁淀》
阿賀野級二等巡洋艦:《阿賀野》《能代》《矢矧》《酒匂》
駆逐艦:24隻(30隻)
潜水艦:18隻(20隻)
海防艦:12隻
日進級水上機母艦:《日進》《瑞穂》《高千穂》《浪速》(※空母補助艦枠)
香取級練習巡洋艦:《香椎》《橿原》

足摺級高速補給艦:4隻(《足摺》《室戸》《高崎》《州崎》)
納沙布級給兵艦:2隻(《納沙布》《積丹》)
樫野級給兵艦:1隻(《樫野》)
高速給油艦:4隻(《風早》《速吸》《入道崎》《大王崎》 ※空母補助艦枠)

 ※退役予定だった《金剛級》戦艦の大規模近代改装を実施。徹底した改装により第一線に復帰。

 同計画は、全ての海軍軍縮条約からの解放と、日本国内での野放図な軍事予算の獲得を受けて大規模に実施された。計画予算自体も、先の計画を大きく上回る20億円を越えるほどに上った。多数の航空母艦に合わせて、航空隊も大幅に増強されている。
 また新たに造成された大型艦建造施設が次々に完成したことも、同計画推進の大きな力となった。10箇所もの大型艦建造施設では、大型戦艦4隻、大型空母4隻が一斉に建造され、しかも建艦競争で有利に立つべく前年に初期分の予算を先に出して、1937年春から一斉に建造を開始した。
 加えて、戦場後方で艦隊を支援する艦艇をさらに多数計画した事も特徴的だった。前の計画に続くもので、これまでは作りたくて作れなかった艦を、贅沢に建造したという点で注目に値するだろう。この頃の海軍は、明確に南太平洋防衛に主眼を移しており、一定の遠距離作戦能力の付与を重視していた。
 足摺級高速補給艦は、空母の戦闘力維持を目的としてあらゆる物資、各種燃料の補給を行う能力と機能が与えられていた。高純度ガソリンの輸送と補給を担うため、艦内構造の一部は空母並に複雑で、軍艦並の高速発揮能力も相まって建造価格は巡洋艦並となっていた。そして、ある程度の速度で航行しながら全ての補給作業が行える点が、今までにない画期的な特徴だった。納沙布級補兵艦は、海軍の使用する全ての砲弾が積載可能で、それらを前線で迅速に補給する能力を有していた。ちなみに、これらの贅沢な仕様の支援艦艇だけで、《大和級》1隻が建造できるほどの1億5000万円以上の予算を投じている。
 この中での変わり種は、《樫野》だった。《樫野》は、46センチ及び51センチ砲及び砲塔を製造場所(呉)から各地の工廠や造船所、さらには前線にまで運ぶために建造された艦で、用途としては特殊な重運搬船だったからだ。

 計画の目玉は《大和級》戦艦だったが、艦の規模や装備を諸外国から秘匿するため、秘密のベールに包まれたミステリアスな戦艦として建造が進められた。基準排水量6万5000トン、45口径46センチ砲3連装3基9門装備、機関出力16万4000馬力、最高速力28ノットという世界標準を遙かに越える破格の能力を備えた戦艦を、一度に4隻も揃えることに大きな意義があると考えられていた。一部には、アメリカがパナマ運河を越えられない戦艦を作れない事への対応だと言われるが、実際は自らの有する既存の建造施設で限界一杯の大きさの艦を作ったに過ぎない。
 一方《翔鶴級》は、比較的オープンに建造が行われている。基準排水量2万8000トン近い巨体を有する新時代の大型空母で、ある程度情報が公開されたため条約に縛られない自由な設計の大型空母として内外の注目を集めた。
 一方では、5500トン級とも呼ばれる既存の軽巡洋艦の旧式化が目立ち始めたので、まずは6隻の代替艦が計画されている。《大淀級》は、潜水艦隊の前衛旗艦としての運用を目的としており、《青葉級》重巡洋艦に匹敵する排水量8000トン以上の大型軽巡洋艦だった。主装備から魚雷は外され、大型の格納庫に多数の水上偵察機を搭載し、さらに《大和級》の副砲と同じ新開発の6.1インチ砲(15.5センチ砲)を搭載した一種の航空巡洋艦だった。《阿賀野級》は水雷戦隊旗艦用の高速巡洋艦だが、船体は価格低下を狙って《大淀級》と同じ型で、魚雷ではなく砲力によって駆逐艦の突撃を支援する仕様となっていた。こちらにも、新開発の6.1インチ砲を3連装式で4基搭載されている。こちらは、他国が建造した軽巡洋艦とよく似た外観と能力を備えていた。用途の違う軽巡洋艦を同じ船体、備砲としたのは、建造の円滑化、価格の低下などの量産効果を期待したからだった。
 なお、新開発の6.1インチ砲は、条約型重巡洋艦の8インチ砲に匹敵する砲で、《肥前級》建造の折りに開発されていた。《肥前級》《大和級》《大淀級》《阿賀野級》が搭載する三連装砲塔となると、8インチ砲連装砲塔を凌駕するほどの火力を発揮できた。当時としては速射性能も高く、限定的に対空射撃も可能な優秀砲で、その後の日本海軍の標準的な中規模砲として使われた。後に大幅な改良と発展が行われ、自動装填式の両用砲にまで発展していくことになる。また、巡洋艦の砲塔としては殆ど初めて装甲が施されており、艦艇の重量増大に影響した。
 そしてもう一つ、この時の計画艦から高角砲(高射砲)が、従来の89式5インチ砲から96式10センチ砲に一斉に変更された。自動給弾装置を整えた砲塔型の場合は、非常に高い発射速度が維持できるようになっていた(※重量や艦内空間の関係で、継続的な連射速度の低い砲架型を搭載した艦も多かったが)。ただし、同砲が広く採用されたことで、防空専門の小型艦艇を量産する計画は流れ、以後も採用されることはなかった。ただし、同砲を搭載するため駆逐艦の規模が大型化するなどの影響も出ている。この時計画された《陽炎級》甲型駆逐艦も砲塔型を搭載したため、基準排水量は2200トンになっている。

 なお《大和級》戦艦は1941年春〜夏に竣工予定、《翔鶴級》空母は1940年秋〜翌年春に竣工予定だった。しかしこの建造速度でも、戦時建造ではなくあくまで平時の枠内での建造であり、その気になればもっと速度を速めることが可能だった。
 仮に軍艦《大和》を完全な戦時建造した場合、進水まで2年3ヶ月、竣工まで3年5ヶ月と試算された。1937年1月1日に起工した場合、1940年5月に竣工することになる。実際はあくまで平時計画として計画され、初期計画では1941年夏頃の就役を目指していた。しかし建造中に支那事変、世界大戦と続いたため建造期間の短縮が求められ、計画の艦艇のかなりが準戦時体制で建造され、竣工までの期間は大きく縮められている。実際《大和》は、1937年4月に建造を開始して1941年3月に竣工しているので、ほぼ丸4年で完成した事になる。
 また、駆逐艦、潜水艦で( )内で表示されている数字は、《大和級》戦艦の規模を他国に知られないようにするため架空の艦艇建造計画を立案した事で発生した建造枠で、実際の予算は《大和級》戦艦に投入されている。
 なお、空母艦載機用カタパルト実用化の目処が立った事もあり、空母への改装を前提とした大型客船の計画と助成は完全に中止された。代わりに、建造を簡易化した大型の高速タンカーが多数計画される。軍用タンカー(給油艦)建造は、以後の計画でも拡大しつつ継続される事になる。
 なお客船建造への助成金は、戦時の兵員輸送と平時の日本のプレゼンスを行うフラッグシップ建造を目的として日本政府が実施している。また万博、五輪開催のための観光誘致も兼ねているため、この時期特に多く建造された。このため助成金は、兵部省だけでなく商工省など関係各省庁が出資した。それに排水量が4万トンを越えてしまえば、多少軍艦としての構造を取り入れて建造したところで、規模が大きすぎて空母への改装はほぼ不可能だった。
 そしてこの時の海軍拡張計画と、日本経済の拡大に伴う民間船舶の要求を満たすべく、この時期から日本の造船業界は完全稼働状態でも追いつかない状態が起きていた。このため多くの造船所では、工員と夜間照明を増やした操業時間の延長と、効率的な船の建造が追い求められていくようになる。

・1939年度計画(第四次補充計画)
紀伊級戦艦:《紀伊》《尾張》《駿河》《常陸》
剣級超甲種巡洋艦:《剣》《黒姫》《蓬莱》《富士》
大鳳級航空母艦:《大鳳》《海鳳》《瑞鳳》《祥鳳》
大鷹級航空母艦:《大鷹》《雲鷹》《沖鷹》
十勝級一等巡洋艦:《十勝》《岩木》《那須》《磐梯》
最上級防空巡洋艦:《最上》《三隈》《熊野》《鈴谷》《利根》《筑摩》《黒部》《石狩》
駆逐艦:36隻 
潜水艦:大型35隻
海防艦:60隻
工作艦:《対馬》《来島》 ・その他支援艦艇多数

 支那事変が行われている最中に予算成立した事もあり、ほぼ完全な戦時計画となった。最大の特徴は実のところ規模の大きさではなく、計画を一年前倒しにした点にあった。この計画は本来1940年から開始される予定のもので、支那事変とアメリカの大規模な海軍拡張計画が、日本海軍の計画を前倒しさせた事になる。極端に言えば、1937年度の建造予算が年度当たり50%増えたも同然なのだ。
 さらに期間を短縮したため建造施設に齟齬が発生し、本来なら先の計画の大型艦が進水してすぐに建造が始まる筈が、計画が通った時大型艦の多くがまだ各造船所で船体を作っている状態だった。特に建造に手間のかかる大型の《大和級》戦艦は、建造速度を引き上げて計画を前倒しにしても、しきれるものではなかった。このため、三菱が建設中の長崎の新型船渠が工期を早めて使用される事になり、初めて大型艦建造施設12箇所全てを使用する大規模な艦艇整備計画ともなった。
 なお計画艦自体も、新機軸が目白押しだった。
 《紀伊級》は《大和級》の改良型ながら、機関の半分を大型のディーゼル機関として全体の馬力も増強し、浮いたリソースを他に回して完成度を高めている。艦の規模は《大和級》と同じで外見もそっくりだったが、これは当時の日本海軍が運用できるほぼ限界の大きさが《大和級》だったからだ。ただし同級は《大和級》より防御力を大幅に強化した事から、排水量自体は7万1000トンに増えている。最高速力も、馬力を18万馬力に増強したにも関わらず、27ノットと1ノット低下している。
 《剣級》は水雷戦隊全体の旗艦任務を担うべく建造された大型の高速突撃用艦艇とされ、全ての巡洋艦を排除するべく戦艦に匹敵する巨体となった。基準排水量3万7000トン、装填装置の自動化によって速射性を高めた新型の45口径14インチ砲を3連装砲塔で3基搭載し、艦の構造も安価な巡洋艦ではなく高価な戦艦と同じとされた、実質的には中型の高速戦艦だった。超甲種巡洋艦という分類は、日本海軍内での勢力争いの結果生まれた言葉であると同時に、半ば海外向けの欺瞞用の言葉でしかなかった。実際は、日本海軍が建造した新世代の条約型戦艦とすらいえるだろう。戦闘力そのものも、イギリスの《キングジョージ五世級》とほぼ互角と判定されている。しかしアメリカは日本の情報に踊らされ、戦闘巡洋艦という分類を与えた中途半端な能力しかない大型艦艇を多数建造することになる。
 《大鳳級》は基準排水量3万6000トンの大型空母で、単に今までより大型であるのに止まらず、飛行甲板の主要部を装甲で覆った重防御空母だった。また艦橋と煙突を一体化させた構造が、日本海軍の空母では今までにない特徴だった。当初は排水量3万トン程度で計画されていたが、航空機の性能の向上、機体の大型化に対応するため格納庫の規模を30%大きくした結果、排水量も20%大きくなっている。艦そのものの全長は《翔鶴級》と大きく変わらないが、艦幅、飛行甲板幅が増えて、艦首をエンクローズド・バウと呼ばれる飛行甲板まで覆い尽くす構造にしているため、艦橋構造と合わせて外観上大きな変化が生じている。
 《大鷹級》は、支那事変を受けて建造が急遽決まった航空母艦で、高速タンカーを利用した低速の簡易建造艦だった。汎用の艦載機用油圧カタパルトが実用化されたため建造の目処が立ったもので、戦時における簡易空母の実験艦的な要素も含まれていた。これを護衛艦隊に与え、制空権のない場所で使ったり、遠隔地の島嶼への航空機輸送などに活用する実験を行う予定だった。
 《十勝級》は、無条約時代に対応した新世代の重巡洋艦で、排水量1万6000トンと従来より一回り以上重い船体は十分な対応防御が施され、さらに火力も20.3cm砲3連装4基12門に強化されている。またこの砲塔は装填の機械化を進めており、額面上での弾薬投射量は従来型の1.6倍に達した。8門装備の艦と比べると、その差はほぼ二倍となる。日本海軍らしく、魚雷も当然搭載されている重武装艦だった。このため砲塔の装甲化は、今回も見送られていた。
 《最上級》は、先の計画で建造中の《大淀級》と同じ船体を用いた準姉妹艦で、砲塔型の10cm連装砲を10基搭載した防空専門艦だった。しかも、日本海軍の秘密兵器である酸素魚雷は搭載しているので、こちらも非常に重武装だった。
 駆逐艦は、前計画の改良型で殆ど同じだが、排水量を50トンほど増やし、今までおざなりにされがちだった対潜水艦用装備となる爆雷を増強している。これは、大戦勃発と共に行われた追加措置で、ドイツ海軍の活躍に海軍が色を失った結果でもあった。
 大量の海防艦が計画されているのは、南太平洋で活動したり、ソ連から日本海、オホーツクを航行するタンカーを護衛するには過分な量で、多くは支那事変に際して往来する船を護衛するものだった。また、既に旧式化甚だしい前大戦に建造した護衛駆逐艦の代替艦という位置づけで大量整備が決まったという背景がある。対艦戦闘力が貧弱で最高速力が遅いこともあり、全て護衛艦隊に配属予定だった。
 なお、巡洋艦以上の大型艦建造が増えた事もあって、今までに都合18隻建造された空母補助艦枠としての艦艇の建造が完全に停止された。その代わりに贅沢な仕様の高速補給艦に代えて、艦隊随伴タンカーの建造が行われ一度に16隻も整備された。これは有事には補給艦も兼ねる水上機母艦や高速補給艦を、空母に改装しやすくするための措置でもあり、日本海軍が戦時を意識している証拠だった。また戦時にこそ必要とされる大型の工作艦が新たに2隻計画されているのも、簡易型の潜水艦母船、駆逐艦母船などの整備も行われているのも同様である。
 またこの時の計画艦は戦争中の混乱と生産拡大の中で誕生していったのだが、予定通りいけば《大鳳級》空母が1941年冬頃から、《紀伊級》戦艦が1943年初頭から就役し始める事になる。
 そして1940年になると、アメリカが第三次ヴィンソン計画と続いて「両用艦隊法」を通過して空前の海軍増強計画を行い、それに対向し尚かつ現在進行形であるイギリスとの戦争を行うための戦時計画である「緊急補充計画」が日本海軍においても開始されることになる。
 また潜水艦について各計画の隻数以外触れなかったが、1930年代半ば以後ドイツからの技術導入、交流の結果大幅な技術、運用経験の向上が見られており、1940年の戦時計画では大量建造が計画される事になる。
 
 なお、1940年冬の段階での日本海軍の主要艦艇は以下のようになる。

・1940年12月現在の日本海軍の主要水上艦艇
BB(戦艦):16隻
肥前級:《肥前》《岩見》《周防》《相模》
伊豆級:《伊豆》《能登》
長門級:《長門》《陸奥》
伊勢級:《伊勢》《日向》
扶桑級:《扶桑》《山城》
金剛級:《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》

CV(航空母艦):7隻(※1940年計画で大量建造予定)
赤城級:《赤城》 加賀級:《加賀》
蒼龍級:《蒼龍》
飛龍級:《飛龍》《雲龍》
翔鶴級空母:《翔鶴》《瑞鶴》
CVL(軽空母):4隻
《鳳祥》《龍驤》
《飛祥》《瑞祥》(※深鯨、背鯨を途中から空母に改装)

高速水上機母艦:6隻
《千歳》《千代田》《日進》《瑞穂》《高千穂》《浪速》

一等巡洋艦(CG):20隻
《青葉》《古鷹》《加古》《衣笠》
《妙高》《那智》《羽黒》《足柄》
《愛宕》《高雄》《鳥海》《摩耶》
《白根》《鞍馬》《蔵王》《乗鞍》
《伊吹》《筑波》《六甲》《普賢》

二等巡洋艦(CL):23隻(+練習巡洋艦:4隻)
《大淀》《仁淀》
《阿賀野》《能代》《矢矧》《酒匂》
5500トン級各種:14隻 
3000トン級各種:3隻

駆逐艦:(※1940年計画で各種大量建造予定)
旧式 一等 艦隊型(DD):36隻 ・護衛型(DE):84隻
旧式 二等 艦隊型(DD):29隻
新型 一等 特型:24隻、甲型:64隻(+36隻)
海防艦:30隻(+60隻)

潜水艦:(※1940年計画で大量建造予定)
大型潜水母艦:《大鯨》《白鯨》

伊号: 旧式:45隻 新型:18隻(+35隻)
呂号: 旧式:12隻 新型:0隻(+36隻)

 海軍保有大型補助艦
大型タンカー(旧式商船型:12ノット):16隻
大型タンカー(新型商船型・高速:16ノット):16隻
剣埼級高速給油艦など:8隻(艦隊随伴用タンカー・追加建造中)
足摺級高速補給艦など:4隻(戦闘補給艦・追加建造中)
納沙布級給兵艦:2隻(追加建造中)
明石級重工作艦:2隻 
改明石級重工作艦:2隻(建造中)
大型給糧艦:4隻 他多数

(建造中・改装中)
 ※1937年度計画分(1941年秋までに全艦就役予定)
大和級戦艦:《大和》《武蔵》《信濃》《甲斐》
翔鶴級空母:《神鶴》《千鶴》

 ※1939年度計画分
BB:
紀伊級戦艦:《紀伊》《尾張》《駿河》《常陸》
 (先に2隻が1939年春建造開始・最短3年8ヶ月で建造・43年春に2隻、44年前半に2隻就役予定)
剣級超甲種巡洋艦:《剣》《黒姫》《蓬莱》《富士》
 (1939年春建造開始・最短2年8ヶ月で建造・1番艦は41年12月就役予定)
CV:大鳳級空母:《大鳳》《海鳳》《瑞鳳》《祥鳳》
 (1939年春建造開始・2年4ヶ月で建造・41年秋から就役予定)
CL:新型防空巡洋艦:8隻(41年秋頃から順次就役予定)

※その他、1939年度の第二次計画、1940年度の戦時計画が既に実行中。(これについては後述)

●フェイズ24「日本の軍備計画(陸上戦力)」