■フェイズ32「インド侵攻(3)」

 1941年の秋から冬にかけては、戦争の一つの山場だった。
 例年よりも早い冬が迫りつつあるロシアの大平原では、9月22日からドイツ東方軍の命運を賭けた「タイフーン作戦」が発動され、ドイツ軍は一斉に赤いロシアの首都モスクワを目指した。
 一方インドでは、日本軍によるベンガル上陸作戦が10月6日に開始される。
 上陸作戦には、日本海軍の第一艦隊、第二機動部隊、遣印艦隊が支援に当たり、海上護衛艦隊も出せるだけの艦艇を出して護衛に当たった。余りにも圧倒的な戦力だった事もあり、海の上での特記事項はそれほど無いが、あえて挙げるなら《大和級》戦艦が初めて4隻全て揃って参加した作戦と言うぐらいだろう。46センチ砲を9門そなえた《大和級》戦艦4隻を含む戦艦10隻を動員した大規模な艦砲射撃は、遠く百キロ彼方にまで轟いたと言われている。実行した日本海軍としても、「祝砲」のようなつもりでの艦砲射撃だったと言われている。
 日本軍の上陸作戦は、ガンジス川西部のフーグリー河近辺に行われ、そこからまずはカルカッタを側面から突き、主力はそのまま機動力を活かして大突破を行ってガンジス川デルタ地帯を囲み、ビルマ方面軍と共に大きく包囲する計画だった。
 第一波上陸部隊は、約5個師団。着上陸戦に慣れている第五師団、第三海兵旅団を上陸の第一陣として、構築された橋頭堡に戦車第二師団、第二師団、第六師団という日本陸軍の最精鋭部隊が、当時としては史上最大規模となる上陸作戦を行った。ガンジス川河口部での上陸作戦は二カ所の海岸に行われ、貧弱な現地イギリス軍の抵抗を排除しつつほぼ予定通りの上陸が行われた。
 同日、セイロン島を出発した同規模の大輸送船団が、第二機動部隊とセイロン島の航空隊が支援する中で、マドラス近辺の海岸線に上陸する。こちらも上陸時に大きな抵抗に合うことはなく、橋頭堡を確保した日本陸軍の機械化部隊は、時間と共にその進撃速度を早めていった。

 日本軍の作戦が順調に進んだのは、制海権、制空権を完全に握っていたからだった。ガンジス川河口部での上陸作戦には、既に占領されているビルマ方面のアキャブやラングーンからの航空支援を含めると、約1500機の航空機が上陸作戦を支援していた。それ以前に、半年前から航空撃滅戦が行われており、補給の難しいイギリス軍に消耗を強い続けていたので、既に在インド・イギリス空軍の戦力は微弱なものとなっていた。「スピットファイア」などの新鋭機もある程度の数が見られたが、多くは日々続く消耗戦の前に逐次投入となってイギリス軍パイロットは消耗し、日本軍機に撃墜数を稼がせるような状態が続いた。しかもイギリス軍は、日に日に補給や増援の見込みが少なくなっていった。
 その上、特に開戦初期の在インド・イギリス空軍機は、本国に配備できないような旧式機か低性能機が多く、戦争初期の時点で大きく消耗したのが後々も現地イギリス空軍を苦しめた。日本との関係が悪化しても、旧式機や低性能機で十分対向できると考えられていたからでもあった。それでも、日本軍が容易ならざる相手だと分かると、イギリス本国もインドを守るため可能な限り増援を優先して送り込んではいた。しかしイギリス本国からインドは遠く、結局は船で飛行機を直接運び込むしかなかった。アラビア半島からインド西部にかけてのアラビア海を空路で越えることは可能なのだが、それ以前の経路である英本土からジブラルタルそして地中海を、空路で抜けることができなかったからだ。喜望峰周りでも、アフリカ東岸より先は同じ状態だった。しかもインド洋東部には、日本軍潜水艦や通商破壊部隊が常に多数展開して、手ぐすね引いて待ちかまえていた。
 このため輸送船を多数動員したのだが、大西洋やヨーロッパ近辺は、相変わらずドイツ軍のUボートが跋扈していた。枢軸各国の空軍機が飛び交う地中海も危険が多かった。日本がシンガポールを落として以後は、インド洋も安全な海では無くなった。南アフリカ地域もかなり危険だった。
 春までは、インド洋での商船の損害は全体の1割程度だったのが、その後損害比率は右肩上がりとなる。日本海軍が空、水上、水面下からの立体攻撃を仕掛けてくるようになると、ベンガル湾は夏までにイギリス船舶は姿を消していた。オーストラリアが陥落すると損害はさらに酷くなり、セイロン島が落ちるとインドの港湾の七割以上が日本軍の空襲圏内に入ってしまう。夏以後は、空襲圏外の安全な港はもっとも西部のカラチ一つで、当然日本軍潜水艦がカラチと他のイギリス勢力圏を結ぶ航路に濃密な網を張った。しかも潜水艦や大型機だけでなく、艦隊単位の水上艦まで出没するため、ドイツに対するような有効な対潜水艦戦を行うこともできなかった。そしてついに、日本軍の上陸作戦に前後して行われた大増援作戦では、艦船合わせて50万トンも失うという大打撃を受けてしまう。
 開戦前の最盛時には1000隻、600万トン近い船舶のいたインド洋で稼働する船舶量は、この時点で約半分にまで激減していた。無論全てが沈められたわけではなく、いくらかは大西洋やヨーロッパ方面へと去り、残りはインド洋では行動したくても出来なくなっていた。だが損害自体も軽くはなく、日本参戦からアジアでの船舶損害の総量は200万トンに迫っていた。しかも以後三ヶ月の間に、イギリスは月平均30万トンの船舶をインドへの補給作戦やインド各地の戦いで失うことになるので、300万トンと言う数字に迫る。これにドイツに開戦以来受けた損害530万トンを足すと、合わせて800万トンを越える。この数字は、イギリスが開戦から建造した船舶量の4倍の数字であり、イギリスの船舶保有総量は1500万トンにまで低下することになる。日本が1941年が終わる頃に1600万トン近い船舶を抱えていたので、これで船舶保有量の世界一が入れ替わることにもなっていた。
 そうした差は、インドでの戦いでも如実に証明されることになる。

 またインドでの航空戦の方は、シンガポールが陥落したぐらいから散発的にビルマ方面で開始された。その後、日本陸軍のビルマ作戦が行われると、現地イギリス空軍部隊は一気に勢力を減少させた。そしてカルカッタが爆撃を受けると、イギリス本国は慌てて本国や北アフリカ、地中海にいた航空隊から順にインドへと注ぎ込み始める。
 その後日本軍は、一旦オーストラリア作戦に傾注したためインドへの圧力は減ったが、6月になると再び圧力が強まり始める。インド東部での航空撃滅戦も本格化し、イギリス空軍と日本陸軍航空隊の熾烈な戦闘が行われるようになる。
 イギリスは、イギリス本国の防衛やドイツに対する爆撃を大きく減らしてまでインドに増援を送り込むようになったが、6月以後イギリス本土などを起った輸送船のうち三分の一は海に沈み、当然送り届けられる航空機やその他の増援も三分の一は届けられなかった。しかも8月以後は、主な受け入れ港がカラチに絞られたため、東部や南部への戦力移動はインド内の鉄道を駆使しても遅れ、現地の要望に応えられない状況はいっそう激しくなっていった。鉄道も、日本軍の攻撃対象となっていたからだ。
 またセイロン陥落の半月後には、マドラスやボンベイといった南部の港湾が日常的に日本軍機の爆撃を受けるようになり、半島南端部のコーチンなどは僅か半月で廃港状態にまで追いやられた。そしてセイロン陥落により航空撃滅戦の舞台が二カ所となったため、イギリス空軍も兵力分散を強いられ、そして双方ともで圧倒的戦力を誇る日本の航空戦力の前にさらなる消耗を強いられていた。
 在インドイギリス空軍は、日本軍が本格的に侵攻してくる前に既に消耗し尽くしていたのだ。しかもインド自体には植民地政策の影響で重工業がほとんどないため、戦車や航空機を現地で作ることは出来なかった。出来るのは一定レベルの修理までで、何とか飛んでいる航空機の中には、数機分の機体から部品取りをして、やっとの事で飛んでいる機体もあった。
 つまり、在インドイギリス空軍は、既に戦争での末期的症状にあったことを現していた。そしてインドは、敵中に孤立していた。
 反撃のため、日本軍に対して通商破壊戦を仕掛けたこともあったが、インド洋でのイギリス海軍の潜水艦は、潜水艦数も魚雷数も限られている上に、日本軍が護衛艦艇ばかりでなく航空機でも潜水艦狩りを仕掛けてくるため、殆ど何も出来ないままじり貧となっていた。イギリス海軍がインド洋で失った潜水艦数も、約半年間で20隻近くに上っている。

 最初の上陸作戦に呆気なく成功した日本軍は、その後も続々と部隊の上陸を続け、増援や物資を送り込んだ。日本軍の作戦の基本は、二カ所に上陸したことからも分かる通り、東部と南部での戦いを平行して進めることで作戦期間を短縮し、なおかつイギリス軍に負担を強いることにあった。またイギリス軍が計画的に後退しながら戦ったり、内線の利を利用した戦いを仕掛けてくる可能性があるため、対応能力を超える戦力の投入が目指された。準備に時間をかけたのにも、一気に全てを進めるためでもあった。
 このため2週間後には、急ぎ補給を行った日本の大艦隊がセイロンに集結する。
 目標はインド半島西岸の要衝ボンベイ。東岸南部のマドラスからバンガロールやハイデラバードを目指す軍団と半島部を挟撃するのが目的のため、作戦も急がれた。
 上陸作戦は10月22日に開始され、第一艦隊、第一航空艦隊が総力を挙げてこれを支援した。
 しかしボンベイには、イギリスインド軍3個師団が強固な防衛戦を構築して籠もるなど、かなりの戦力があった。また空母艦載機以外の航空支援がセイロンからの重爆撃機ぐらいしかないため、制空権の面で苦戦を強いられた。
 日本側の上陸作戦に際したイギリス軍は、かなりの数の航空機を投入し、上陸作戦中の間隙を突いて日本軍橋頭堡を攻撃したり、一部の部隊は夜間に空母機動部隊を空襲した。特に「ソードフィッシュ」1個大隊を丸々投入した夜間雷撃では、空母《神鶴》が魚雷と爆弾を2発ずつ受けて大破するなど、洋上にいた母艦3隻が被弾する大損害を受けていた。
 この時の夜間戦闘は、イギリス海軍が日本軍に対して挙げた最大級の戦果だった。
 しかし三日間に渡る航空撃滅戦によって、ボンベイ方面のイギリス空軍も活動が低調となり、素早く展開した水上機部隊などの活躍もあって、日本軍の橋頭堡は確保されていった。日本軍が強引にボンベイを奪いにいけたのも、既にイギリス海軍が大きく消耗しているからだった。
 いっぽう、既に包囲下においたカルカッタのあるベンガル方面には、二週間後には後続の軍団が上陸して、先に上陸した部隊と合わせてベンガル方面軍を形成。ビルマ方面軍と共同での大包囲作戦が順調に進められていた。
 そして10月20日の時点で、イギリスはインド総督府をカルカッタからデリーに移転することを決定。既にリンリスゴー総督らは鉄路デリーへと逃れていたので事後的な発表でしかなかったが、イギリスのインド支配の象徴であるカルカッタが放棄された事は、世界に衝撃を与えた。

 11月までにインドに上陸した日本陸軍は、合わせて17個師団。さらにビルマの部隊が続々と越境していったので、合わせると23個師団になる。しかも12月には次の上陸作戦が控えており、輸送船団の方は物資補給の船を除く多くが、日本軍の一大策源地となっているシンガポールへと戻っていった。
 またセイロン島には、次の作戦に備えた4個師団が移動しつつあった。ベンガル方面にも3個師団を送り込むべく、シンガポールに続々と集結しつつあった。またインド作戦を遂行するための武器、弾薬、食料、被服など、あらゆる物資が日本本土などからシンガポールに送られ、戦時生産によって巨大化しつつある輸送船団に積み込まれ、組織肥大化の一途にある護衛艦隊の護衛戦隊に護衛されながら、カルカッタやマドラスを目指した。
 大量の護衛艦艇や前衛のハンター・キラーに守られたコンボイは、一つで各種輸送船が約30隻。この船団が一隻も欠けずにインドに到着できれば、現地日本軍は約45日間の戦闘継続が可能と試算されていた。インドは温暖で余剰食糧も豊富なため、橋頭堡となる場所に現地で買い込んだ食料を軍用糧食とする加工場さえ作ってしまえば、兵站の負担は大きく軽減する。そしてある程度の食料を英本国などに送り込む生産体制を作られていたため、余剰食糧は十分にあった。しかもインドは水が豊富のため、煮沸もしくは消毒さえしっかりしておけば、飲料水に事欠くことはなかった。また大量に運用されている戦車や各種トラックの冷却水に事欠くことがないという点も、機械化の進んだ日本軍にとっては非常に有り難かった。
 また、インドの大動脈であるガンジス川は世界有数の巨大河川のため、外航洋の大型船ですらかなりの距離を遡航する事ができる。当然兵站の負担軽減となり、しかもインドはイギリスが円滑な支配を行うため、総延長6万キロメートル以上の鉄道が張り巡らされた鉄道大国だった。鉄道を運営する労務者約65万人は、イギリスの支配下にあったため初期の頃は利用も難しかったが、日本軍が鎧袖一触の勢いで進撃して占領地を拡大していくと、インド民衆の植民地解放の気運が大きく高まり、日本軍に協力する者は右肩上がりで増えていった。
 それでも、インド国民議会が非暴力や非協力を掲げているため、日本が利用できる現地の資源や労働力は多くの場合限られていた。各地の藩王(ラージャ)達も、自らの権力や特権、財産を維持したいがため、日本軍に対して敵対的もしくは非協力的だった。しかし頑強なゲリラやパルチザンはほとんどなく、あっても正規兵による破壊工作など通常の戦争で行われるような事態しか発生しなかった。
 また日本軍、イギリス軍共に、インド民衆に気を遣った戦闘を行うことが多いため、人口密集地帯、大都市は戦場として避ける傾向が強かった。カルカッタを始め大都市のほとんどは無防備都市宣言が出されるか、どちらかの軍が占領する前にもう片方の軍が退去するため、少なくとも大都市での市街戦も発生しなかった。
 これは、両者がインドでの戦後を考えていたからで、各種戦争協定を尊守しようとしたのでもないし、両者が宣伝したように「紳士的戦争」を行おうという意図があったわけではない。どちらかと言えば、無数のインド民衆が自分たちに牙をむくことを恐れていたと言えるだろう。草食獣の群れの中で、肉食獣同士が決闘しているような状態と言えるだろう。
 故にインドでの戦いは、軍隊同士の戦いという、旧来の戦争に近い形が作られていた。この点は、イデオロギーや民族のぶつかり合いとなっていたロシア戦線と大きな違いと言える。

 しかし日本軍、イギリス軍共に、戦争そのものに手を抜いていた訳ではない。戦いの激しさはロシア戦線もかくやという場もあり、両軍の機械化部隊の激突も、規模はともかく頻度において激しいものだった。何しろインドは広かった。
 そして広大なインドでは、機械化された部隊が必要不可欠であり、機械化部隊の先鋒となる戦車は、兵器としてかなり重要な位置を占めていた。
 日本軍は「九七式戦車」各種と、ようやく大量生産が軌道に乗り始めた「百式中戦車」を投入し、イギリス軍は「マチルダ(Mk-2)」「バレンタイン」「クルセイダー」そしてアメリカのレンドリースで得た「M3軽戦車」を投入した。
 数は日本軍が圧倒的に優勢で、日本軍が各種2000両近い戦車をインド戦線に投入したのに対して、イギリス軍は植民地警備用のタンケット(豆タンク)を除くと800両を切る数しかなかった。本来なら1000両が目指されたのだが、かなりの数が輸送中に運んだ船ごと沈められていた。
 またイギリス軍は、戦車の数以外でも不利な要素があった。火砲の口径と個体能力差だ。日本軍は、野砲の改良型ながら75mm砲を、各戦車に一般的に搭載するようになっていた。固定型の対戦車砲でも75mm砲が一般的配備され、高射砲として配備されている88mm砲はドイツ軍と同様の対地戦闘任務にも対応可能だった。これに対してイギリス軍の戦車砲、対戦車砲は、基本的に40mm口径の2ポンド砲だった。日本軍で言えば長砲身の37mm砲に当たり、「九七式乙」の42口径50mm速射砲の方が、口径、威力共に勝っていた。イギリスで急ぎ開発された新型の6ポンド砲(57mm口径)は、とてもインドでの戦いに間に合いそうになかった。
 防御の面では、日本軍の対装甲戦用戦車は、正面からの2ポンド砲に対してかなりの防御力を有していた。しかしイギリス軍の戦車で、日本軍の75mm砲、50mm砲に耐えられるのは「マチルダ(Mk-2)」しかなかった。特に75mm砲は脅威で、800メートルを切ったらたいていの戦車は正面から撃破され、同距離だと2ポンド砲は役立たずの「ドアノッカー」でしかなかった。歩兵戦車型の「九七式甲」に対してならイギリス軍戦車は優位に立てたが、東南アジアとオーストラリアで何度か苦杯をなめた「九七式甲」は、既に精鋭部隊からは姿を消して、日本本土に戻されて自走砲などに改造されていた。
 そして戦車同士以外にも不利な要素があった。
 まずは、近代戦に必要不可欠な制空権だ。
 日本軍は、陸海軍併せて約3000機の機体をインド作戦に投入していた。インド各地に橋頭堡を確保してからは、すぐにも簡易飛行場で戦闘機の運用を始めていた。重爆撃機は補給と基地(滑走路)の問題もあってそう簡単に基地を前進できないが、1500kmの航続距離があるので、セイロン島やビルマからでもある程度の航空支援が可能だった。そして日本軍は、単発の小型機と四発の大型機双方で地上攻撃専門の機体を有しており、急降下爆撃機もかなりの数を配備していた。そして20mm以上の機関砲を搭載している機体にとって、見晴らしのいい場所で動いている戦車やトラック、そして列車などの車両は格好の標的だった。
 また日本軍は、単に戦車や航空機だけでなく、陸軍全体の機械化と自動車化を押し進めており、特にインドに攻め込んだ部隊のほぼ全てが自動車化以上の機械化部隊だった。1個師団当たり2500両もの各種車両を有しており、後方支援用の補給部隊にも大量のトラックを配備していた。部隊全体の機動力という点で、植民地警備軍がほとんどのイギリス軍を圧倒していた。インドにいた日本軍車両数は、最大で10万両(台)を数えた。
 加えて言えば、日本軍は支那事変以後今までの戦いで教訓を数多く得ており、さらに将兵のかなりの数が実戦慣れしていた。士気の面でも、勝利に乗っている日本軍の士気は高く、無理矢理戦わされているイギリスインド軍の将兵は、負け戦という事もあって士気は低かった。さらに士気という面で言えば、日本軍にはインド国民軍がおり、彼らの士気は異常なほど高かった。

 日本軍が大挙上陸して以後の戦いは、基本的に日本軍が攻めてイギリス・インド軍が遅滞防御を全体の目的とした戦闘を行う形で推移した。一度イギリス・インド軍によって大規模な反撃作戦が行われたが、これも包囲下となった友軍3個師団を救うために行われたもので、本格的な反撃を意図してはいなかった。しかもこの反撃も結果として失敗して、イギリス側は多数の装甲車両と自動車、兵力を喪失し、包囲下の友軍もその後降伏したため、むしろ日本軍の進撃は早まることになった。
 しかも南部戦線では、ボンベイからの軍団とマドラスからハイデラバードへと進んでいた軍団がデカン高原北部で握手。インド半島に取り残された形のイギリス軍と、他のイギリス軍の分断に成功。その後インド半島のイギリス軍も、順次追いつめられて各個撃破され、降伏を選んでいく事になる。
 そして年も改まった1942年1月15日、日本軍が二方向からデリーを伺うようになっていた頃、今度はインド東部沿岸のカラチに日本軍の次なる大部隊が上陸する。この上陸作戦には二波に分けて6個師団が投入され、カラチ方面からデリーの後方を突き、ガンジス川方面との挟撃によってインドでの戦いを一気に決めるため送り込まれたものだった。第一波だけでも、4個師団という大上陸作戦だった。

 当然、この上陸作戦はイギリス側の察知するところとなったのだが、この時期のイギリス軍には日本軍を迎撃するだけの海上戦力、航空戦力はなかった。在インドのイギリス空軍は、補給の途絶もあって既にほとんど活動できないほど消耗していた。海軍は、沿岸部の秘密基地などに小型の潜水艦や魚雷艇などが隠されてたが、ゲリラ的に小規模な日本軍を襲うのが精一杯だった。しかも海では、日本海軍の護衛艦隊が濃密な防衛網を構築しており、とても近寄れるものではなかった。
 ペルシャ、中東方面から反撃しようにも、同方面には既にまともなイギリス軍部隊はいなかった。現地の部隊は、日本軍がインドに襲来するまでに、そのほとんどがインドへと沿岸沿いに移動して投入されていた。中東は、ペルシャのアバダン油田を除いて、ほとんどがら空き状態だった。ヴィシー・フランス政府寄りの総督府やイギリスに反旗を翻したイラク政府を、攻撃することもできなくなっていたほどだ。無論だが、連合軍の一部で研究されていたペルシャ湾からカスピ海に向かうソ連の援助ルートを開設することなど、出来よう筈もなかった。
 さらに言えば、イギリス海軍そのものが日本海軍の連続する攻勢によって半壊に近い打撃を受けており、今や本国近海と北大西洋の制海権を維持するだけの戦力しか有していなかった。アラビア海には、無理を押して出撃する補給船団のためになけなしの艦艇が護衛として出撃していたが、重巡洋艦が最大級の艦艇となっていた。戦艦や空母の姿は既になかった。
 しかもこの時期、イギリス海軍には不幸が続いていた。
 9月19日には、ジブラルタルにおいてイタリア軍の人間魚雷が、戦艦《クイーンエリザベス》《ウォースパイト》の爆破に成功した。この結果《クイーンエリザベス》は大破着底。《ウォースパイト》は沈没は何とか免れたが、艦底に大穴を開けられて修理には半年以上を要する損害となり、本国に回航して修理しなくてはならなくなった。11月23日には、インドに航空機輸送任務に就いていた空母《インドミダブル》が、東アフリカ沖合で日本軍潜水艦《伊19》によって呆気なく沈められた。護衛空母の《アーガス》《オーダシティ》も、前者はマルタ島への補給作戦、後者はインドへの補給作戦の途中に、ドイツ海軍の潜水艦により沈められていた。どの空母も補給用の航空機を満載して輸送船となり、他の輸送船と共に行動していたところを、日独の潜水艦にねらい打ちにされたのだった。
 これらの損害により、イギリス海軍は稼働主要戦力が新鋭戦艦2隻、巡洋戦艦2隻にまで減少したため、慌てて新鋭戦艦1隻の就役を早めて実戦配備とした。インド洋で生き残った旧式戦艦2隻の回航と修理も急ぎ行われた。また、石炭混燃型機関を持ち13.5インチ(34センチ)砲装備の旧式戦艦《アイアン・デューク級》4隻と、旧式巡洋戦艦《タイガー》についても、石炭の黒い黒煙を吹き上げながら、北大西洋の海上護衛戦で酷使されていた。

 そしてイギリスでは、海軍がアテに出来ないとなったので、空軍の出番となった。カラチが落ちればインドへの直接ルートは事実上遮断されることになり、現状での劣勢を考えるとインド失陥が確実と判断されたからだった。
 しかし、そもそもインドに航空機を輸送する作戦の為に、都合3隻の空母は酷使された末に沈んだのであり、解体、梱包して搭載しなければならない通常の輸送船では効率が大きく落ちることは間違いなかった。このためイギリスは、量産が始まったばかりの大型機《ハリファックス》爆撃機と同じく大型の《スターリング》爆撃機、さらに引き抜ける限りの《ウェリントン》をインドへと空路で大量回航して、爆撃によって日本軍の意図を封じる作戦を考案する。また、大西洋にいる潜水艦を出来る限りインド洋に回航し、日本軍が得意とした空と水面下の双方からの攻撃により、日本軍の攻略船団を攻撃することとした。
 さらに水上艦隊も、水雷戦隊を中心に編成そして回航が行われ、好機を捉え攻撃することが計画された。
 空路は、ブリテン島から大西洋を迂回してジブラルタルへ、そこから一気に出来る限りの高々度を使って地中海を押し渡って何とか維持されているカイロへ、そしてアラビア半島のオマーンへと行くことになる。回航される機体数は、二ヶ月の間に約300機。これらを支援するための整備兵などの地上員、燃料、爆弾、機銃弾なども、作戦までに海路で日本軍の妨害を突破してオマーンへと向かうことになる。またカラチには、日本軍が来る前に出来る限りの増援を送り込む算段が行われ、半数は失う覚悟で総数53隻の輸送船が急ぎブリテン本土やカナダからカラチを目指した。船の方は、中規模の船団から独航まであり、中には積載量が比較的大きな高速艦艇も含まれていた。
 「インドを守れ」がイギリス軍将兵の合い言葉であり、高い士気のもと作戦の準備とインド東部への強引な大規模増援作戦が実施された。
 そして当然と言うべきか、多くの艦船が日本軍の強力な通商破壊戦の網に捕まった。またブリテン島を出た輸送船の中には、ドイツ軍の餌食となる船も少なくなかった。この輸送作戦は今まで以上の規模と強引さのため、日独両軍もいぶかしんだ。また大量の爆撃機移動はドイツ軍、イタリア軍などの知るところとなり、さらにドイツ軍が主に受けている夜間爆撃の規模と密度が大きく低下したことが、イギリス空軍が大挙移動していることを知らしめた。イギリス空軍も出来る限り欺瞞作戦を行ったのだが、流石に隠し通せるものではなかった。

 一方、カラチを取ってインド戦に王手飛車取りといきたい日本軍は、勝ちに乗じている事、勝利に驕っている事、そして新たに海軍が新鋭艦艇を迎えつつあることもあり、作戦は予定通り決行されることになる。
 しかし日本側も油断しきっているわけではなく、既に日本軍の一大拠点となっていたボンベイには、大量の重爆撃機「九八式大攻」が入り、長い航続距離を誇る「九九式戦闘機」は特別製の大型増槽を用いることで、片道900kmとなるボンベイからカラチへの航空機支援を研究していた。
 そしてカラチを攻める為に用意された艦隊の方だが、第一艦隊と第一航空艦隊のほぼ全力が動員された。しかも第一航空艦隊は、本土からの増援により第三機動部隊が新たに編入されていた。同艦隊は、就役したばかりの大型装甲空母《大鳳》《海鳳》と、同じく就役したばかりの防空巡洋艦《最上》《三隈》などから編成されていた。《大鳳級》航空母艦は、基準排水量3万6000トンを誇る大型艦で、飛行甲板の離発着する部分に75mmの装甲を張り巡らした重防御が大きな特徴だった。また艦載機数も、当時の機体で常用90機を誇っており、船としての防御力、対空装備も充実した全軍の期待を担った新鋭艦だった。防空巡洋艦も、多数の両用砲と射撃指揮装置、そして各種電探を満載した新時代の兵器だった。
 空母に搭載された機体の方も、「紫電」戦闘機、「彗星」爆撃機、「零式艦上攻撃機」と新鋭機を揃えており、しかも今回の上陸作戦のために戦闘機が約半数を占めているのが特徴だった。
 だが第二航空艦隊は損傷した《神鶴》が戦列を離れているため、日本海軍が動員した母艦数は大小合わせて10隻、艦載機数は約700機となる。うち戦闘機は300機なので、日本海軍としては十分すぎると考えていた戦力だった。
 しかも航空戦力はこれだけでなく、新たに就役した戦時量産型の護衛空母が2隻作戦参加しているため、既存を含めて4隻、艦載機約100機が船団の上空と水面下を守る手はずになっていた。

 そうした状況で始まったカラチを巡る戦いだが、先手を打ったのは能動的行動を取る側にいる日本だった。しかし日本の第一撃は、カラチへの空襲ではなかった。
 年が明けてすぐの1月10日、不意を突いてアラビア半島に接近した第一航空艦隊が、オマーン一帯のイギリス空軍の基地を叩いて回ったのだ。急に規模が拡大した空軍基地を見つけるのは比較的容易だったため、露払いとして攻撃が行われたものだった。また攻撃には、ボンベイにたむろする重爆撃機群も参加し、合わせて1000機もの機体がアラビア半島の東部沿岸各地を爆撃して回った。
 そして、時期や規模はともかく、ある程度空襲を受けることを想定していたイギリス空軍も、機体の分散待避や迎撃戦を実施。苦労して輸送船で運び込んだ「スピットファイア」や「ハリケーン」が、日本軍艦載機群を迎撃した。そして統制の取れた迎撃戦、電子戦ではイギリス軍に一日の長があり、日本軍はやや不満足な結果で作戦を終えなければならなかった。すぐにも洋上補給を行い、本命の作戦に入らなければならないからだ。
 日本艦隊がこれほど矢継ぎ早に行動できるのは、高速戦闘補給艦を多数保有しているが故だった。空母補助艦として軍縮時代に建造され、そのまま補給艦として運用されていた船達は、このインド作戦でその能力を遺憾なく発揮していた。水上艦による長期通商破壊戦や、この時のような空母機動部隊の連続攻撃を可能としていたのは、皮肉にも空母への改造を前提として建造された艦艇群のお陰だった。

 そして1月14日、今度は大規模な輸送船団を中核とした日本の大艦隊が、セイロン、ボンベイなどを出航して、アラビア海の奥地へと進んでくる。前衛を務めるのは日本最強の第一艦隊。《大和級》戦艦4隻を中心に戦艦8隻を有する、当時世界最強の大艦隊だった。その後方には空母10隻を抱える第一航空艦隊があり、水上から手出しすることは、現時点では世界のどの国も不可能な陣容だった。
 また船団の周りには水上機、飛行艇、艦載機による対潜哨戒網が十重二十重と築かれ、拠点出撃の前後から水面下に対する容赦ない攻撃を開始する。そして通商破壊戦にあまり慣れていないイギリス軍潜水艦は、与える損害よりも受ける損害の方が多い有様となった。3日間で6隻のイギリス軍潜水艦が日本軍により永遠に沈められ、4隻が損傷しつつも窮地を脱し、日本側は護衛駆逐艦1隻と輸送船3隻が損傷又は沈没した。
 そしてカラチ沖合に達した日本艦隊は、激しい空襲と艦砲射撃を実施し、順次上陸作戦を開始する。
 だが、この時こそがイギリス軍が待っていた「時」だった。
 既に兵士達を上陸させ始めると、日本軍は自ずと動きが制約され、しかも上陸したばかりの兵士や物資は、海岸部で無防備に近い状態に置かかれてしまう。この無防備は輸送船、艦艇、そして上陸した兵士と物資も同様で、これを爆撃で吹き飛ばすのがイギリス軍の作戦だった。
 戦闘名称「カラチ航空戦」と呼ばれる戦いの始まりだった。
 イギリス軍から攻撃に参加したのは、アラビア半島東端のオマーンとカラチ方面(ハイデラバードやサッカルなどの内陸部)の二方面から合わせて約300機。うち爆撃機は200機で、戦闘機隊はカラチの防空戦をほぼ棄てて全ての機体を攻撃と攻撃隊の護衛へと回していた。
 本来なら、もう50機程度は作戦に参加できる予定だったが、それは数日前の空襲で失うか損傷状態だった。オマーン方面の戦闘機は、作戦に参加できるほどの航続距離がほとんどなかったし、彼らの任務はアラビア半島方面の防衛だった。
 これに対して日本軍も、イギリス軍の主な抵抗は空軍だと想定しており、《大鳳級》には最新鋭の電探と通信指揮設備が備えられていた事もあり、大規模な防空迎撃戦を企図していた。
 350機の艦上戦闘機が橋頭堡と船団、さらに艦隊そのものを守る切り札で、さらに相手次第では150機ほどある艦上爆撃機も迎撃に投入する予定だった。「彗星」ならば、相手が小型の爆撃機なら十分迎撃可能だったからだ。
 また、イギリス軍の基地があるカラチより少し内陸部のサッカルやハイデラバードへの攻撃は、ボンベイの海軍航空隊に当面は一任されていた。カラチに対する攻撃も同様だった。こちらは300機の「九八式大攻」と長距離進撃の訓練を積んだ約100機の「九九式艦上戦闘機」が主体であり、予期せぬ方角からの戦闘機の存在は、イギリス軍に対して実質的に奇襲攻撃となった。というよりも、イギリス軍は予想以上の戦闘機の存在を、どこかの空母が存在すると勘違いしていた。

 そうした状態で、1月14日から月16日にかけて、「カラチ航空戦」と呼ばれる激しい空の戦いが行われる。
 この戦闘では、日英双方ともに誤算と敵に対する驚きがあった。
 日本軍は、イギリス空軍が橋頭堡や停止状態の船団ばかりでなく、艦艇攻撃にも大量の四発爆撃機を投入してくるとは、あまり予測していなかった。イギリス空軍は、艦上機である筈の「紫電」が重爆撃機用の迎撃戦闘機で、しかもそれが大量に揃えられている事が予想外だった。「紫電」はかなりの防御力も備える上に上昇速度も高く、搭載する20mm機銃4門の火力は重爆撃機に対しても十分有効だった。しかもイギリス空軍の重爆撃機は、日本軍が想定していた「九八式大攻」よりも脆弱だった。8門装備するとはいえ7.7mm機銃の防御火力は貧弱な方で、「紫電」にとって中高度を飛行するイギリス軍重爆撃機は十分撃墜可能な相手だった。しかもイギリス軍重爆撃機は、「九八式大攻」のように魚雷を搭載するでも雷撃能力があるわけでもなかった。主な戦術は編隊を組んだ上での水平爆撃で、確率論で艦隊にも爆弾の雨を降らせようというものだった。
 しかし日本軍側は既に何度も空襲を受け、その教訓がかなり活かされているため、船団や艦隊の周りは通常の陸上爆撃ではあり得ないほどの高射砲(高角砲)が密集していた。橋頭堡となる海岸部にも、優先的に高射砲が上陸させられ、既にかなりの数が臨時の陣地を構築していた。
 そして防空戦の本命となる防空戦闘機の数と密度は、地上ではあり得ないほどだった。何より爆撃機に対して迎撃戦闘機が同数存在するという状況は、戦い慣れていた筈のイギリス軍パイロット達にとってもほとんど初めての経験だった。
 一方で、大規模な密集編隊を組んで弾幕射撃をしてくる重爆撃機の群は、日本軍搭乗員にとってもほとんど初めての経験だった。オーストラリアの戦いでも、重爆撃機はほとんど姿を見せていなかったからだ。今まで重爆撃機を持っていたイギリス軍は、日本への対向爆撃をしたカルカッタ方面のイギリス軍ぐらいだった。
 このため、中には不用意に防御砲火の中に飛び込んで自ら落とされる日本軍機も出ていた。また大規模過ぎる戦闘を電探と無線情報で効率的に統制しようとしても、ハードよりもソフトの面が追いつかず、各所で齟齬を来していた。
 しかし水平爆撃は、概ね高度3000メートル程度から行うもので、その高度は日本軍艦載機にとって最も活発に活動できる空でもあった。加えてイギリス空軍は、今まで対地爆撃を主任務としていたため洋上での作戦に不慣れで、艦艇への攻撃は付け焼き刃の訓練しかしていなかった。このため間合いが取れるようになると、日本側は編隊の周りから切り崩していくようになる。速度性能に優れる「紫電」なら、何度も迎撃が可能だったからだ。
 またカラチ方面から飛来したイギリス軍爆撃機には戦闘機の護衛が多数ついていたが、こちらには「九九式艦上戦闘機」が主に向かい、ヨーロッパとは勝手の違う格闘戦に相手を巻き込んで翻弄し、爆撃機に組み付いた。

 結局、イギリス空軍は、戦闘初日で半数近い機体を失うか基地への帰投後に損害の激しさから飛べなくなっていた。日本軍が受けた損害は、水平爆撃機の命中率、確率論の示す通りとなった。
 日本軍の橋頭堡又は日本船団上空に正しくたどり着けたイギリス軍の機体数は、多い目に見ても約100機。初期の爆撃であるため、船団が主に狙われたため、都合200機が爆弾を投下してはいたのだが、実数は90機を越える程度だった。しかも正確に投弾出来た機体となるとさらに激減し、実際は出撃機数の約1割程度だったと考えられている。つまり30機程度だ。
 多くの機体が、多数の迎撃機と地上とは格段の差となる濃密な対空砲火の前に、撃墜されたり進路を逸らされたりしたのが原因だった。 第一艦隊が船団に接近して対空砲火を浴びせた効果も無視できなかった。戦艦の主砲による対空射撃がこの時初めて行われ、実際はよく分かっていないがかなりの数の機体を落としていると言われる。そうでなくても、驚いて進路を逸らした機体は多数出ていた。巨砲から打ち出される榴散弾には、十分以上の心理的効果があった。
 また、半ば牽制のためやや沖合にいた日本軍艦隊を攻撃した部隊は、濃密すぎる防空網の前にほとんどまともな攻撃も出来ずに壊滅していた。
 そして30数機が落とした約1000発の250ポンド爆弾のうち10発が命中もしくは至近弾となり、輸送船4隻が何らかの損害を受け、戦闘艦では巡洋艦1隻、駆逐艦1隻が被弾損傷した。
 うち2隻の輸送船が空襲が終わってから沈没し、さらに消火に失敗した輸送船1隻が自沈処分とされた。戦闘艦の方は、どちらも何とか任務を継続した。確立論を上げるべく小型爆弾多数を搭載したため、防御力、応急対応能力のある艦艇には効果が薄かったのだ。
 日本軍橋頭堡でも相応の損害が見られ、数千トンの物資が灰となり、数百名が死傷した。

 翌日もカラチ上空での戦闘は継続されたが、稼働機が大幅に落ちたイギリス軍の攻撃は、イギリス軍とは違って殆ど稼働機を減らしていない日本軍の前に大失敗に終わる。しかもカラチ方面の空軍基地は夜間爆撃も交えて攻撃を受け、出撃できる機体数は初日の三分の一近くに落ちていた。そして初日同様に強引に突破しようとした重爆撃機群は、無数の迎撃機の餌食となり、全体の半数近くが撃墜の憂き目を見ることとなった。
 日本軍が橋頭堡から威力偵察部隊を放ち始めた、上陸三日目にも航空戦は行われたが、もはやイギリス空軍の意地を見せつけるためのような戦闘でしかなかった。それでも大型輸送船1隻を沈めているので、意地だけは示したと言えるかもしれない。
 なおこの航空戦での総決算は、日本軍は1000人を越える死傷者と5隻の輸送船を失い、イギリス軍は約250機の機体を失った(※空中で撃墜された数は全体の半数程度)。しかしイギリスが失ったのはインドと直接つながる海路そのものであり、失ったモノは大きすぎた。
 しかも無理な戦いのため多数のベテラン搭乗員を失い、その後のヨーロッパの空での戦いにも暗い影を落とすことになる。
 イギリス軍の作戦そのものは特に間違ってはいなかったのだが、日本軍との物量差が勝敗の明暗を余りにも鮮明に分けたと言えるだろう。

 「カラチ航空戦」の終了により、インドでの戦いの帰趨は決したと言えた。日本陸軍は、想定以下の損害しか受けることなくカラチ上陸を果たし、上陸した大部隊はイギリスが籠もるデリー目指して乾いた大地を進んでいった。他での防戦と遅滞防御戦で手一杯なイギリス軍は、カラチ方面にはほとんど陸上戦力を置いていなかったため、その後の日本軍の進撃は非常に早かった。
 先に東部、南部に上陸した部隊も、インド民衆の歓迎を受けながら占領地を着実に広げ、足早にデリーへと前進した。
 最初の上陸から四ヶ月後の1942年2月、デリー前面でイギリス軍の最後のそして最大規模の反撃が実施されたが、制空権はなく機動力にも劣るイギリス軍が勝てる筈もなかった。イギリス軍の主力部隊は突出したところを包囲され、戦闘開始一週間で敢えなく降伏を選ばざるを得なかった。反撃に転じた現地イギリス軍も、本来なら自らの側からの積極的戦闘は避けたかったのだが、全軍の士気、特にインド兵の士気崩壊を防ぐためにも戦わざるを得なかった。また士気低下とインド民衆のため、デリーでの籠城戦が選択できなかった事も、イギリス軍が野戦に及んだ原因だった。
 デリー前面での戦いは、インドでのイギリス軍の凋落を示す象徴的な戦いであり、インドでの戦いの焦点は最早いつデリーが陥落して、インド全土からイギリス人が叩き出されるか、だった。
 インド洋での戦闘もさらに進展し、デリー前面での戦闘が行われている頃、補給と再編成を済ませた日本軍の第一航空艦隊主力が、アフリカのソマリア沖にあるソコトラ島を攻撃。別働隊は、海兵隊を載せた船団を護衛しながらチャゴス諸島へと侵攻。イギリス軍の秘密基地として整備の進んでいたチャゴス諸島も、呆気なく日本軍の手に帰することになる。その後も、春になるまで日本軍空母機動部隊の空襲がインド洋の東部、南部で積極的に行われ、インド洋の全てが日本軍の手に帰したことを世界中に印象づけた。
 実際、この時期イギリスが受けた各地での船舶の損害は大きく、各港湾に逃げのびていた船を中心にして50万トン以上を一度に失っている。このためアフリカ東岸の一部を除くインド洋からは、事実上撤退する事になる。紅海もアラビア半島南東部のアデンが空母機動部隊の空襲で壊滅してからは、北アフリカ情勢もあってほとんど利用されなくなった。
 1942年3月10日、日本陸軍はわざわざ自分たちの記念日に合わせてデリー入城を行う。
 イギリスは、1942年春までにインドを完全に失ったのだった。

 なおインドでの政治情勢だが、1941年内にインド国民軍とインド国民議会の一部が合流し、「自由インド国」の建国が宣言された。建国は日本と日本の衛星国群、それにドイツ以下枢軸各国の承認を受けたものだった。
 そして自由インド国の中心となったチャンドラ・ボースの方針に従い、従来のインド帝国の統治を補完していた各地の藩王国の権力を取り上げ、強力な中央集権国家として建設されることになっていた。しかし日本軍は、ダッカなどでパキスタンのムスリム連盟とも接触して、イスラム勢力の独立も支持していた。これにはボースも反対したが、日本としては自分のポケットに入らないものにあまり興味はなかった。インド各地が日本が必要とする資源を輸出してくれて、相応に商品を買ってくれる国が出来れば特に問題も感じていなかった。そして日本は失う側ではないので基本的に鷹揚で気前がよく、現地の自治と民衆の意向も尊重する傾向が強かった。独立に際しての交渉や環境作りも、イギリスが戦いの為に独立を餌にして条件を小出しにしたような事はせず、一気に押し進めた。
 そしてイスラム教徒の独立を認めた効果は大きく、西パキスタン地域の進撃と解放は驚くほどの早さで進み、多数のイスラム教徒が日本軍に協力し、多くの者が義勇兵となった。あまりに沢山義勇兵が現れるので、日本軍は相手に配る武器弾薬や食料などの物資に苦労したほどだった。
 こうした動きは、ボースだけでなくインド国民議会の反発も受けたが、もともとヒンズーとムスリムが一つの自主独立国家としてやっていく事が難しいと考えている者が圧倒的に多かったので、軍事力を備えた第三者がいるうちに話しを進めてしまう方が良いとする向きがすぐにも出来ていった。
 そしてインドのイスラムを味方に付けた効果は大きく、デリー陥落前後からのアフガニスタン、ペルシャ境界線まで続いたイギリス残存勢力の追撃戦や、次の中東侵攻に際しても日本軍の有利に働いた。
 ペルシャ方面ではインドでの噂が中東にも広がり、日本軍の事をヨーロッパからの解放者とする向きが強まったからだ。
 そして中東、より正確にはペルシャ湾の制圧を目指す日本にとって、インドでの外交は進撃の大きな足かがりとなっていた。
 この頃の日本にとっては、インドですら通過点でしか無かったのだ。
 

●フェイズ33「欧州1941年下半期」