■フェイズ38「南太平洋の死闘(1)」

 1942年7月22日の参戦以来、アメリカ軍にはいいところがなかった。
 アメリカ軍にとっても突然のアメリカ参戦のため準備不足な上に、交戦国の日本とドイツは既に数年間戦い続けていたので、高い戦力と戦技を有していた事が大きな原因だった。
 しかも初戦でのアメリカ側の国民に対する焦りからくる野心的な作戦は、戦艦9隻を一度に失うという歴史的な大敗へと繋がり、戦死者2万人以上という目も当てられない数字に結びついた。その上、救援を求める2万人以上の兵士が敵中にとり残されていた。敵中に孤立しているという点では、5万の兵士がいるフィリピンも頭痛の種だった。フィリピンは当初から半年程度の持久戦を予定していたとはいえ、アメリカ軍の初戦の敗退により当初の予定が完全に破綻していたからだ。

 形の上では両軍が陣取ったフィジー諸島の近海では、日本軍の潜水艦と航空機が各所で頻繁に姿を現して、フィジーに近寄ろうとするアメリカ軍の妨害を熱心に行っていた。輸送船どころか高速の水上艦すら派遣できないフィリピンには、潜水艦の一部を臨時の輸送船や連絡船として使わなくてはならなかった。このため対日通商破壊戦の効率は一層低下した。フィリピンが潜水艦群の拠点だったのは開戦から半月程度で、それ以後は日露戦争の旅順以上に孤立した場所に過ぎなかった。
 フィリピンほど絶望的ではないフィジーに対しては、当初は高速輸送船や旧式駆逐艦を臨時改装した輸送型で強行輸送が試みられた。初期の頃は、日本側の戦力密度や不備もあって何度か成功した。だが、日本側は急速に現地戦力と封鎖態勢を強化したため、半月もするとアメリカ軍の被害が激増した。
 比較的規模の大きな強行輸送作戦では、船団は高速船ばかりでかなりの数の護衛も伴わせたし、サモアから多数の戦闘機を援護に差し向けた。だが日本側が、アメリカ軍以上の戦力を投入して妨害するため、日本軍に餌食を提供しただけに終わった。小数や迂回ルートで日本軍の偵察網の間隙を突いたり迂回などで首尾良くフィジーにたどり着いても、水上には水雷戦隊、陸には重砲部隊が待ちかまえているため短時間のフィジー滞在がやっとで、陸揚げして内陸部に運び込める量も限られていた。とにかく、フィジーの制空権、制海権の双方が日本軍の手にあるため、犠牲なくしてアメリカ軍の行動は成り立たなかった。
 そして泥縄式の無茶な補給作戦では、運べる人や物が僅かな上に、本来なら無用の損害を積み上げていた。日本軍が名付けた「ワシントン急行」は、日本軍にとってはいいカモだった。
 増援と物資を増やした反撃どころか、現地部隊は現状維持すら徐々に難しくなっていた。
 無論アメリカ軍もやられる一方ではなかったが、損害率は概ねアメリカ軍が勝っていた。制空権、制海権のない場所では、アメリカ軍に打つ手がなかった。
 
 そして取りあえず食いつなげるだけの食料備蓄があるフィリピンよりも、フィジーに上陸した2万数千、海戦を生き残った海軍将兵を含めると約2万5000名への補給と救援、できるならば攻勢の再構築が急務だった。しかもフィジーはアメリカ唯一の南太平洋の拠点サモアの近在であり、アメリカ軍の中ではフィリピン救援よりもフィジー救援、出来るなら攻勢の再興を優先する事となった。
 このためアメリカは、回せる限りの航空母艦を南太平洋に向ける準備を行い、日本の空母部隊により一度壊滅したサモアには積み上げられるだけの物資と航空機を送り込もうとした。救援もしくは増援のための陸軍部隊も、アメリカ本土で準備された。
 しかし大規模な物資(船舶)の移動は、日本側にアメリカ軍の攻勢再開を知らせる合図となる。何しろ橋頭堡となるサモアには、重爆撃機すら船で運ばねばならないからだ。また各地からサモアに通じる航路は、日本軍潜水艦とサモア周辺海域へと進入してくる重爆撃機の格好の狩り場となった。
 しかも日本海軍は、南太平洋に軽空母を中心とした小規模の空母機動部隊を投入して、インド洋で行ったような通商破壊戦すら実施した。こうした艦隊の事を、日本海軍は「遊撃艦隊」と呼称していた。アメリカ軍は対抗策として、南太平洋のタヒチなど英仏の植民地島嶼を借り上げて臨時の拠点や中継点を設けても、既に監視の目を向けていた日本軍の前にはあまり効果的ではなかった。少し後方のタヒチであっても、何もかもを船で運ばねばならない点に大きな違いはなかったからだ。
 多少の例外が、フランス領南太平洋タヒチの最も北東部にあるマルキーズ諸島(マルケサス諸島)だった。この島はアメリカ西海岸から直線距離で約5300キロメートル。火山諸島のためかなりの工事を必要とするが、島々の規模がそれなりにあるため飛行場の設置も可能だ。つまりその気になれば、長い航続距離を持つ「B-17」、「B-24」なら、アメリカ本土から片道飛行が可能な場所だった。そしてマルキーズ諸島からだと、タヒチ諸島、サモア諸島への航空機の展開も十分可能となる。また哨戒機の拠点と出来れば、日本軍潜水艦の制圧もかなり楽になる。
 しかしマルキーズ諸島やタヒチ諸島はフランス領のため、自らの参戦までにアメリカ軍が手を付けることは出来なかった。と言うより、殆ど注目されていなかった。その島はどこにあるのか、と聞いた軍高官がいたほどだった。だが初戦で大失敗して情勢が俄に変わると、10月頃からタヒチの保護占領を実施しようと言う動きが出てくる。フィジーを巡る争いの間は、日本はヴィシー・フランス政府に対する外交攻勢でアメリカ軍に使用させないよう働きかけ、アメリカは最初は交渉を行うもそれが拒絶されると力をちらつかせるようになる。そしてフランス自由政府に権利があると半ば居直り、行動を開始する。

 そして11月中頃、いよいよアメリカ軍がタヒチ、マルケサスの事実上の軍事占領を実施する作戦が動き出す。これに対して日本軍は、大量の潜水艦を派遣して阻止行動を実施。軽空母を中心とした「遊撃艦隊」まで派遣して、積極的な妨害を行った。この結果、まだ十分な護衛のなかったアメリカ軍の輸送船団は約半数の船舶を失う大打撃を受けるも、フランス軍の姿がほぼ皆無だった各地の「保護占領」を実施。すぐにも大量の土木作業機械を投入して、飛行場の造営を開始する。飛行場の規模は、数百機の重爆撃機の中間拠点とするため、かなりの規模が求められた。しかし、最初の輸送作戦だけでなく、その後も日本軍の執拗な妨害を受け続けた。通商破壊艦や潜水艦による艦砲射撃や「遊撃艦隊」による空襲も実施された。当然、多くの機材と人員に損害を受け、工事自体が予定よりもかなりの日数(仮稼働まで約二ヶ月)を必要とした為、日本軍との次なる戦いは現状のまま受けて立たざるを得なかった。
 また一方では、フィジーとサモアの間には、ほぼ中間辺りに幾つかの小さな島や諸島があった。どれも海底からそそり立つ火山の山頂のような島だったが、相応の規模の土木機械を投入すれば、小型機が発着できる程度の平面を持っていた。小さな島と言っても、それぞれが長辺が10キロメートル程度の大きさはあったからだ。中には、カルデラ湖のようなドーナツ状の島もあったりした。
 これらの小さな島々は、半ば名目上の島の領有権的をイギリスが握っていたので、アメリカ参戦までに一応日本軍も足を伸ばして調査程度は行っていた。とはいえ、赴いたのは小型調査船や潜水艦程度で、インドでの戦いがほぼ終わった頃にようやく初期的な測量や調査が行われていたに過ぎない。日本軍がこの時期に動いたのも、サモア侵攻の場合の基地航空隊の前哨基地に出来ないかと考えたからだ。
 このため日米が本格的に戦い始めた頃、フィジーとサモアの間の小さな島々は、事実上ごく小数の原住民が住むだけの軍事的空白地だった。
 そしてフィジーに侵攻したアメリカ軍は、三カ所あった名も知れないような島や諸島に、フィジーで大きく躓いた後に注目したのだが、アメリカ軍の意図と動きはすぐにも日本軍に察知され、それらの小さな島々にも戦闘が広がっていく。
 11月中頃にはアメリカ軍に先んじて日本軍の海兵隊が上陸し、すぐ後には設営部隊も上陸して飛行場設営のための調査や測量を開始する。そうするとアメリカ軍も偵察機や妨害のための攻撃隊を送り込み、日本軍も対向して飛行機を上空に送り込み、制空権を巡った空戦が何度か行われるようになる。両者共に基地航空隊で十分往復出来る距離のため、航空戦も熾烈だった。
 そして12月中頃になると、現地に対する戦力投入で優位に立っていた日本軍が航空基地を設営するに至り、アメリカ軍が基地とすることは叶わなかった。そしてその後もそれぞれの島は制空権獲得の場となったり、主にアメリカの輸送船や小型艦艇が沈められるが、遂に地上戦にまで至ることはなかった。情勢は常に日本軍優位で動き、海上戦力の不足するアメリカに地上侵攻するだけの力が無かったからだ。
 アメリカがセリ負けたのは、準備不足の開戦とフィジーに対する冒険、そして空母部隊の質量の差の結果だった。

 一方この頃の日本海軍は、アメリカ海軍の空母部隊を引きずり出せればこれを優先して叩くという意図があったので、実際常に1個機動部隊が南太平洋のどこかに駐留もしくは展開していた。このため、アメリカ海軍も安易に空母部隊を投入出来ず、常に日本軍より劣勢な戦力で損害を積み上げざるを得なかった。上記した小さな島々にアメリカ軍が大規模な上陸ができなかったのも、日本海軍の空母機動部隊を恐れての事だった。200機以上の艦載機が空軍基地ごと移動してくるような空母機動部隊は、中規模以下の戦闘においては極めて効果的な抑止力を持っていた。
 さらにフィジー諸島には、日本軍の水雷戦隊が常に展開し、周辺の海域には潜水艦がウヨウヨしていた。日本軍による航空機の増援も急で、初期の戦闘後すぐにも約200機の機体がフィジーへと送り込まれ、サモアから飛来するアメリカ軍の戦闘機や爆撃機と熾烈な戦いを実施し、フィジーのアメリカ軍を銃爆撃した。このためアメリカ軍では、輸送途中で80%が海に沈むと言われたが、それでも南太平洋唯一のアメリカ軍橋頭堡には多数の兵力と物資が送り込まれた。
 なお当時のフィジーは、海上戦闘が多い事もあって日本海軍の防衛担当のため、機体はほぼ全て日本海軍機だった。お馴染みの「九九式艦上戦闘機」の「32型」と呼ばれる強化改良型と「紫電」が主力で、既にほぼ完全な新型機である「紫電改(紫電33型)」の投入も始まっていた。爆撃機は長距離用の「九八式大攻」、中型の「一式中攻」、それに陣地攻撃用としての「彗星 艦上爆撃機」が中心だった。他に潜水艦狩りをする「一式飛行艇」や旧式飛行艇、旧式爆撃機の姿もあった。機体はフィジーだけでなく、大型機は近在のニューヘブリデス諸島なども拠点としていた。
 対するアメリカ軍は、戦闘機はもっぱら「P-38 ライトニング」一本だった。この双発3胴の珍しい形状を持つ機体だけが、サモアから直接フィジーに至って空中戦ができたからだ。爆撃機の方は重爆撃機の「B-17F」、「B-24」、軽爆撃機の「B-25」が中心で、どれも分解して輸送船でサモアに運び込んだものだった。しかも道中で、おおよそ半分が船と共に海底へと沈むため、アメリカの苦労は並々ならないものがあった。
 サモアには日本軍も爆撃に来るし、途中の航路では基地機の上空哨戒ができない海域が多いので、補給の困難さは地中海のマルタ島以上だった。秋頃から目を疑うような大量建造が始まったたばかりのリバティー船(※アメリカの戦時標準船・排水量約7000トン)も、まだ数が少ない事もあって投入するそばから次々と太平洋の藻屑と消えた。船団護衛に付いた駆逐艦や旧式巡洋艦の損害も積み重なっていた。日本軍の通商破壊部隊が軽空母複数を有する通商破壊艦隊のため、中規模のコンボイが丸ごと撃破されたこともあった。このためアメリカ軍も、護衛に空母の投入を考えるも、自らの圧倒的不利な状態を前に結局何も出来なかった。
 結局、サモア諸島への大規模な増強を行うために、イギリス向け専門で建造されていた初期型の護衛空母4隻のうち2隻が、太平洋艦隊に配備される事になったほどだった。それでもサモアに向かうアメリカ船は、約半分が到着前に水面下へと到達先を変えていた。苦労して取得した護衛空母も、投入第一回目の任務で日本軍軽空母群との対決を余儀なくされ、防御力不足が祟って呆気なく沈められていた。日本海軍の「遊撃艦隊」は、この頃のアメリカ軍によって最大の疫病神だった。
 フィジー戦開始から一ヶ月ほど後に、ようやくフランス領タヒチを中継点や後方拠点、さらに航空基地として使うようになるが、日本軍潜水艦の餌食になる確率が大きく変わる訳ではなかった。何しろ太平洋は広すぎた。
 なおフィジーに飛来するアメリカ軍の重爆撃機だが、フィジーでの戦いが始まって一ヶ月ほどが経過すると変化する。約半数が、爆撃ではなく友軍へ物資を届けるために、輸送機として飛ぶようになっていた。これはロシア戦線の冬にドイツ軍が実施した作戦に似ており、それだけフィジーのアメリカ軍は窮乏は強まっていた。何しろ戦闘開始から半月後には、日本軍が地上での反撃を本格化した。米軍が恐れていた師団級の戦力が、米軍が上陸しているフィジー東側のヴァヌアレヴ島に投入されていた。日本側の新戦力は当然完全編成の部隊で、これまで軽武装の1個旅団程度だったため数で押し止めていた現地の状況が激変する事になる。
 トーチカとして使っていた頼みの「M4中戦車」も、日本軍が増援で投入した「百式中戦車」や大型の対戦車砲(高射砲)との戦闘で日に日に数が減っていった。この頃の「M4」と「百式」の戦闘力は似たようなものだったが、数が違いすぎた。
 重砲の撃ち合いでは、もはや現地米軍に撃つべき重砲弾がない状態だった。決死の空中補給のお陰で何とか戦線は持ちこたえているが、負傷兵がまともに後送できないなど孤立している状況に変化はなかった。それが出来る飛行艇は、日本軍も優先的に狙っていたからだ。フィジーにしがみつく米軍にとっては、M2重機関銃と迫撃砲が命綱だった。
 アメリカ軍としては、補給の回復と制空権奪取のためフィジーの自軍陣地の近くに何とか飛行場を建設しようとしたが、最初に運び込んだ土木車両は破壊されてたので、人力だけではその目論見はまったく叶わなかった。
 日本軍基地に対する爆撃は、日本軍戦闘機が圧倒的優勢のため損害を積み重ねた。流石の「B-17F」も、多数の重戦闘機の前には対向が難しく、日本軍が最初に開発した「空中方陣(コンバット・ボックス)」のアメリカ版も無敵ではなかった。しかもフィジー諸島各所の重高射砲陣地群の前には、重爆撃機も形無しだった。このためアメリカ軍によるフィジー爆撃は、夜間爆撃が基本となっていた。それでも日本軍が電探(レーダー)を揃えて夜間戦闘機も投じてきたので、効果的とは言えなかった。
 対する日本軍のサモアへの爆撃は、随伴戦闘機がないため様々な形の夜間爆撃が主体だった。だが、まともな夜間迎撃手段のない当時のアメリカ軍では、サーチライトを照らして高射砲を打ち上げる以外の手段がなかった。その上、この頃の電子戦では日本側が完全に上回っており、アメリカ軍側の高射砲などの防備も十分ではなかったため、サモア上空での夜間戦闘もアメリカ軍が不利となる場合が多かった。無論日本軍の損害も相応に出ていたが、サモアの受ける損害もかなりのものとなり、フィジーでの米軍の苦境は続いた。そしてサモアが後方拠点としてまともに使えないため、フィジーの苦境はさらに酷くなった。
 なお、アメリカ軍がまともな夜間戦闘機と対潜水艦艦艇を投入するのは、これから半年以上も先の事だった。

 そうした海と空の戦いが、9月末から日常化して1ヶ月以上続いた。だが、遂にフィジーの地上部隊が、断末魔直前と言える悲鳴をあげる。その悲鳴を要約すれば、食べ物がないという言葉だった。砲弾など、アメリカ軍が1発撃てば100発返してくるような有様だった。航空機の数も、日本軍は日に日に増強していた。サモアからの空中補給も、日本軍が輸送機や重爆撃機を手当たり次第に落とすため、補給用、爆撃用双方が枯渇していた。フィジーにアメリカの輸送船や艦艇が近づくことは、ほとんど不可能だった。艦隊が近づけるとするなら、現地に駐留する日本軍艦隊を上回る戦力を投じ、一時的でも制海権と制空権を得なければならなかった。
 またフィジーの日本軍地上部隊は、囲んで補給を絶つ事には熱心だったが自ら攻撃することには消極的で、この事が現地アメリカ軍の崩壊を防ぐという皮肉をもたらしていた。
 だが状況は、アメリカ軍にとって悪化の一途を辿っていた。日本軍は、増援を待って攻勢に転じるつもりだったからだ。
 日本軍はフィジー方面に2個師団程度の戦力を移動しつつあり、少し後方では1個機動群の空母機動部隊がいつでも投入できる状態だと、アメリカ軍では考えられていた。幸いと言うべきか、戦艦部隊は最低でもオーストラリアのブリズベーンにまで後退していたが、南太平洋のアメリカ軍には戦艦、重巡洋艦もまともな数がなかった。空母部隊も、艦載機部隊が再編成中で投入はまだ無理だった。
 しかしフィジーの友軍は何としても救わねばならないとされ、太平洋の各地から戦力が集められた。

 作戦の骨子は、まずは編入されたばかりの新鋭戦艦2隻などを使ってフィジーの日本軍航空基地を艦砲射撃する。そして日本軍の航空脅威が低下した段階で再び艦隊を突撃させ、同時に軍艦多数を含めた多数の艦船を用いて、人間だけをすくい上げてサモアへ撤退するというものだった。
 このアメリカ軍の動きを、日本軍は大規模な増援の兆候だと判断していた。
 このため第八艦隊には、旧式の《金剛級》戦艦から《比叡》《霧島》が急ぎ派遣され、超甲巡の《剣》《黒姫》と合流した。《大和級》戦艦と旧式戦艦は先の戦いによる損傷のため後方に下がって修理中で、他の戦艦は空母に随伴しているかインド洋に展開しているため、これが南太平洋で出せる日本海軍の水上艦隊の全てだった。《大和級》のように日本本土で損傷修理中という戦艦も意外に多かった。多方面に戦線を抱える日本軍は、それほど余裕のある戦いをしているわけではなかった。
 アメリカも日本軍の状況をある程度掴んでいたため、水上艦隊の突撃という計画を考えたと言えるだろう。
 アメリカが動員したのは、《サウスダコタ級》戦艦の5番艦、6番艦に当たる《ロードアイランド》と《ミネソタ》。就役を前倒しにして投入されたもので、一部装備を搭載していないという状況だった。他に回せる戦艦は速度の遅い旧式戦艦のため、今回の任務からは外されていた。
 また作戦は夜間突撃を基本とするが、それまでの航路上での制空権維持のため、多数の戦闘機、主に「P-38 ライトニング」が多数サモア諸島に運び込まれていた。だがこの機体も、日本軍が既に新型の局地戦闘機「紫電改」を次々に投入して、唯一のアドバンテージだった速度面ですら優位に立っていた。しかもアメリカ側がフィジー上空で戦闘できる時間が非常に短いため、苦戦を強いられていた。当時のフィジー方面は、アメリカ軍パイロットの墓場だったため、アメリカ軍パイロットが自嘲的に「ミート・チョッパー(挽肉製造器)」と呼んでいたほどだった。
 そして航空優勢に立つ日本軍は、アメリカ艦隊のフィジー接近も空から捉えたのだが、アメリカ艦隊が反転したため現地司令部も諦めたと判断。念のため艦隊を本島のスバ沖とコロ海のヴァヌアレヴ島近辺警戒配置に付かせ、アメリカ軍のサモアとフィジー双方に嫌がらせの夜間爆撃機を出撃させるに止まった。空母機動部隊の出撃が見合わされたのは、一度出すと補給などその後の面倒が多かったからだ。
 だがアメリカ艦隊は諦めておらず、反転して速度を上昇。進路も若干変更した上でフィジーへの突撃を継続する。

 1942年10月24日深夜、アメリカ艦隊はフィジー諸島に到達。その事を日本側は、高い場所に設置した固定式の大型電探や各珊瑚礁に配置した監視員により察知し、遊弋していた艦隊に緊急迎撃を命令する。また照明弾を搭載した水上機も急ぎ離陸し、「獲物」であるアメリカ艦隊を目指した。
 そしてスバの日本軍航空基地群を目指していたアメリカ艦隊は、新型のSGレーダーにて接近中の日本艦隊を捕捉。相手は戦艦二隻、日本側の《比叡》《霧島》だった。日本側も迎撃のため出撃していたので、既に両者とも臨戦態勢にあった。
 この時の戦闘は夜間戦闘という事で、双方接近して砲撃戦を展開する事になる。この当時の電探(レーダー)の性能はまだ不十分の為、接近しなければ戦闘にならないからだった。当然ながら、戦艦以外の艦艇も次々に戦闘へと突入していった。そして各種照明弾で照らされた夜の海を、日米双方の様々な艦艇同士が激突していった。
 戦闘全般は数で勝る日本艦隊が優勢だったが、アメリカ側が最新鋭の16インチ砲戦艦を投入しているため、近代改装しているとはいえ旧式の元巡洋戦艦では力不足だった。《金剛級》戦艦は、過剰なほどの改装が実施されて一部防御力は同クラスの戦艦を上回るほどだったのだが、流石に最新鋭戦艦相手には力不足だった。
 日本側の方が照明弾や他の友軍もあり、電探(レーダー)の性能は似たようなものだったが、はやり無理があった。大火力をぶつけ合う接近戦となれば、戦艦といえども簡単に大損害を受けてしまうからだ。
 戦列の先頭にたって果敢に突撃した《霧島》は各所に16インチ砲弾を受け、第三、第四砲塔破壊、機関損傷など各所に甚大な損害を被り、よろけるように大破戦線離脱。後を継いだ姉妹艦の《比叡》も米戦艦からの砲弾が集中し、第三砲塔破壊の他、艦後部を中心に中破以上の損害を受けてしまう。日本側の14インチ砲弾も相手に相応の打撃を与えていたが、決定打足り得ていなかった。
 しかし戦闘開始から約25分後、日本の戦艦群が崩れつつある時、別方面に展開していた日本艦隊が増援として戦場に到着する。そして最前線で踏ん張っていた《比叡》から情報を得て、矢継ぎ早に14インチ砲弾をアメリカ艦隊に投射した。
 新たに戦闘加入したのは、それまで別の敵と対峙していた超甲巡の《剣》《黒姫》で、排水量的にはアメリカ軍の戦艦とほぼ同じという世界一贅沢で強力な「巡洋艦」だった。もっとも同艦の構造は、ほとんど「小柄な大和」という実質的には高速戦艦で、建造費も非常に高く付いていた。性能面での優位を得ようとする日本海軍の傾向を見ることが出来る象徴的な艦であり、また日本が裕福になった証拠ともいえる艦だった。
 主砲発射速度は最短で20秒に1回で、3連装砲塔ながらドイツ海軍の《ビスマルク級》戦艦に匹敵した。当然そんな速度で射撃を続けることは出来ないが、半自動装填式の主砲は《長門級》の16インチ砲塔以上に重量があるという代物だった。日本海軍の用途は水雷戦隊の突撃支援と水雷戦隊の旗艦任務だったが、場合によっては《ノースカロライナ級》や《キングジョージ五世級》を正面から相手取れるように性能が求められていた。このための高性能だったと言えるだろう。つまりは、巡洋艦という名の条約型戦艦だったのだ。そして先の海戦では《ノースカロライナ》を2隻共同で撃沈しており、夜間戦闘では14インチ砲でも十分な対16インチ砲防御が施された戦艦の撃破が可能な事を証明していた(※《ノースカロライナ》は厳密には14インチ砲対応防御だが。)。
 しかも相手は、既に《比叡》《霧島》によってかなりの損害を受けており、《ミネソタ》は既に大火災が発生して、夜戦に欠かせないレーダー連動射撃が不可能になっていた。
 加えてこの時、日本艦隊には最新鋭の《十勝級》重巡洋艦の《十勝》《岩木》が危険を冒して急接近し、2艦合計24門の8インチ砲を15秒に一度という速射で見越し射撃していた。(※交互射撃だと7〜8秒に1回の射撃となる。)
 このため、まずは《ロードアイランド》が、距離8000メートル以下の近距離から降り注ぐ8インチ砲弾によって、短時間のうちに上部構造物を蜂の巣にされてしまう。《霧島》を叩いた後御《ロードアイランド》は、次に《黒姫》に狙いを定めた砲撃を開始していたが、巡洋艦の危険性を意識したときには既に手遅れだった。8インチ砲では、距離8000メートルでも主防御区画や主砲、司令塔を貫くことはほぼ不可能だが、それ以外の上部構造物は意外に脆く、《ロードアイランド》の艦中央部は短時間のうちに火だるまとなった。いかに戦艦と言えども、これほどの接近戦は全く考慮していなかった。
 その間《ミネソタ》は《剣》《黒姫》との砲撃戦を行ったが、既に一戦及んでいた事と夜間での混乱そして損傷のため、不利な戦闘を強いられていた。レーダーに損害を受けていた事が、特にハンディキャップとなった。そして《ロードアイランド》が全艦蜂の巣となってまともな先頭ができなくなる頃、《ミネソタ》の方も14インチ砲でボコボコに凹んだブリキ缶のようにされてしまう。強固な防御力を有する《サウスダコタ級》戦艦だが、想定距離より近い場所からの8インチ砲、14インチ砲(さらには各艦の高角砲)多数に耐えられるまでに強固ではなかった。日本側も相応に損害を受けていたが、まだ十分に戦闘力を残していた。
 もっとも、後は魚雷の仕事であり、後始末は劣勢な相手駆逐艦を蹴散らした第三水雷戦隊の任務となった。
 そして敵打撃艦隊を撃破したことで戦闘は決したと考えた日本側は、損傷艦も多かったためフィジー各所の泊地に帰投。その後ヴァヌアレヴ島から、アメリカの艦艇多数が浜辺に接岸しているという情報を受けて慌てて再出動するも、短時間で将兵だけをすくい上げたアメリカ艦隊の別働隊を捉えるには至らなかった。
 翌朝、フィジーの基地を飛び立った日本軍攻撃隊が大挙アメリカ艦隊を襲撃するが、同じくサモアを出撃したアメリカ軍戦闘機隊と接触。激しい空中戦と、その間隙を突いた日本軍の空襲が行われた。空中戦は終日行われ、周辺を張っていた日本軍潜水艦も戦闘加入した。双方に多くの損害が出たが、防戦に徹するアメリカ軍に軍配があがり、日本軍は急速にフィジーを離れるアメリカ軍の艦隊や船団を攻めきれなかった。

 結果、アメリカ軍はフィジーに上陸した将兵2万5000名の生き残り2万3000名ほどのうち、約95%にあたる2万2000名以上を救出。残り1000名は、現地日本軍を引きつける囮となった後に名誉の降伏を選択した。そして脱出の引き替えとして、戦艦2隻の乗組員を含む約4000名の将兵が戦死した。
 一方日本側は、戦艦《霧島》が多数の主砲弾を受けて大破し、沈む寸前だったため近くの浜辺に乗り上げてしまう。また16インチ砲弾を複数受けた《比叡》、《剣》も中破以上大破未満の大損害だった。日本艦隊のどの艦も、ニューヘブリデスにまで進出している重工作艦のいる環礁まで後退せざるを得なかった。
 この海戦は、近距離で戦艦同士が正面から撃ち合うと、双方に大損害が出るという典型例だった。日本側が勝利したのも、制海権を持っていたのと戦力が多かったからに過ぎない。アメリカ海軍にもう一隻戦艦があれば、勝敗は違っていたかもしれない。
 そしてアメリカにとって犠牲の大きな戦いだったが、利点もあった。戦訓を数多く得られた事、これ以後フィジーに対する無理な補給と航空戦を仕掛けなくて良くなった事、とにかく将兵を救出して士気の低下と国民の支持率下落に歯止めをかけらた事、どれも大きな利点だった。特にルーズベルト大統領にとって、近日に迫っていたアメリカ中間選挙前の作戦成功は何よりも得難かった。
 だが、アメリカがフィジーから足を抜いた事で、日本軍が体勢を立て直してサモア諸島に押し寄せることが確実視されていたので、さらに無理を重ねるべきだったという後世の意見もある。
 何しろサモアを失ってしまうと、本当に南太平洋の拠点を失ってしまうからだ。
 そしてその危惧は、早くも具現化しようとしていた。

●フェイズ39「南太平洋の死闘(2)」