■フェイズ46「東太平洋海戦(1)」

 1944年春、日本海軍、連合艦隊は、世界最強の艦隊を北太平洋上に作戦展開させる。
 「あ号」作戦の発動だった。
 作戦発動時、同作戦の目的は既に明確化されていた。
 アメリカ太平洋艦隊の撃滅。目的は、その一点にあった。
 彼らを引きずり出すため、アラスカ地域までの空襲が作戦に盛 り込まれていたし、アメリカ西海岸北部に多数いる重爆撃機の行動圏内ギリギリまでの接近も予定されていた。場合によっては、多少踏み込むことも作戦には含まれている。しかし全てが目的の為の手段であり、アメリカ海軍が全てを太平洋に集中させる今こそ攻勢に出るべき千載一遇の機会だった。
 中でも日本海軍の「獲物」とされたのが、ギリギリで太平洋への回航の決まった大西洋艦隊主力だ。
 アメリカ軍の作戦としては、シアトルからサンディエゴに移動した太平洋艦隊と大西洋艦隊がカリフォルニア半島沖合で合流し、洋上で日本艦隊の同行を見極めて横合いから殴りかかるという事になる。これを西海岸到着前に捕捉撃滅できれば、効果は計り知れない。しかも大西洋艦隊は、他の船と同様に南太平洋から南米のホーン岬を回って、太平洋に至らねばならない。アメリカ及び連合軍の重爆撃機の行動圏外を航行する事も多く、マダガスカルからとタヒチから潜水艦を使って監視もしやすい。
 今までも、散々大規模な護送船団を襲ってきたが、その道をアメリカ大西洋艦隊主力が通ってくるのだ。長い航海で疲弊もしているし、後方に支援艦隊を伴っている可能性も高かった。これを捕捉撃滅するため作戦は前倒しにされ、変更も加えられた。

 1944年3月初旬、日本海軍の戦艦部隊が千島列島南部の泊地(択捉島・単冠湾)に集結しているのを、アメリカ軍は確認した。確認したのは危険を冒して日本近海に赴いた《ガトー級》潜水艦で、他にも無線傍受、暗号の一部解読により、日本本土などを出撃した日本艦隊が続々と北太平洋の東部を指向している事を伝えていた。アメリカに近い日本国内最大の拠点の一つである横須賀にも、かなりの規模の艦隊が集結しているのが確認された。他にも瀬戸内海では空母機動部隊が頻繁に演習しているのが、無電の傍受などで確認された。大規模な上陸部隊を乗せる輸送船団も、日本各地に集結しつつあった。カムチャッカ半島からの長距離偵察も、質と密度が大きく向上していた。各地で日本陸軍の出す暗号無線も増大しており、全てが日本軍の史上空前となる北米大陸に対する大規模な作戦が近いことを伝えていた。
 また、作戦に先駆けて、対潜哨戒機と日本海軍の「ハンター・キラー」、潜水艦を狩る専門の部隊が多数太平洋に出撃し、各地で連合軍潜水艦を積極的に探し回るのも確認された。既に太平洋各所に展開しており、同時に多数の補助艦艇が南太平洋にまで進出していた。アメリカ西海岸でも、頻繁に日本軍潜水艦と思われる暗号化された圧縮無線が傍受されていた。仏領ポリネシアからは、日本軍の大規模な遊撃艦隊が緊急出撃したという情報もあった。
 アメリカにとって、とるに足らない小国だった筈の日本が産み出したとは考えられないほどの巨大な軍事力だった。
 しかし日本海軍は、実際において自らの主力艦隊をひとまとめには行動させていなかった。半分程度でも相手を上回るという理由もあるが、作戦そのものがアメリカ海軍を引っかける事を目的にしていた為だった。このような作戦は本来厳に慎むべきなのだが、戦争に勝っているという余裕と油断が、日本海軍にそうした作戦を採らせていたのかもしれない。

 アメリカ海軍、特にアメリカ大西洋艦隊の動向は、初期の頃から枢軸側に知られていた。準備の段階で出撃準備を進めていることが暗号や無線、物資の流れで掴まれた。大西洋を出撃してからは、ドイツ軍潜水艦の接触を何度も受けた。この時点でドイツは、大西洋艦隊がヨーロッパや北アフリカに来ないことを確認すると、日本側にアメリカ海軍の動向を出来る限り伝える。日本に数を減らして欲しいという、ドイツ側のメッセージだった。
 そして日本海軍は、マダガスカル方面から大西洋南部に潜水艦を多数投入して最初のピケットラインを構成し、アメリカ大西洋艦隊主力が通過するのをひたすら待ち続けた。最初にアメリカ側のハンター・キラー(対潜戦隊)が通過したが、日本軍潜水艦は完全に音無を決め込んでやり過ごして音によって大艦隊の通過を確認し、さらに安全と分かってから日本に向けて通信を送った。地球の反対側で行われた作戦行動は、まるで日本海海戦のようですらあった。
 この時点で、連合艦隊は一斉に動き始める。日本側としては、大西洋艦隊が太平洋に来ることで作戦が変更されるからだ。
 そして連合艦隊では、既に出撃してアメリカ側の目から行方をくらましていた艦隊も多く、彼らは無線封鎖をしつつ、既に多数先発している艦船から補給を受けながら、自らの作戦海域を目指していた。こうした状況をアメリカ側は、日本軍の本格的な可能性が高まったと判断していた。日本側が情報を見せたがらないのは、より大きな作戦、つまり上陸作戦が動いている可能性を高めると考えられた。
 一方アメリカ軍は、一旦サンディエゴに移動していた太平洋艦隊が出撃し、重爆撃機の行動圏内ギリギリとなるカリフォルニア半島沖合を南下。また、メキシコのアカプルコの沖約1300キロにある小さな環礁のクリッパートン島では、通常の飛行艇部隊に加えて、さらに小さな飛行場のキャパシティー限界まで増援が送り込まれていた。運河が閉塞状態のパナマからも、重爆撃機や飛行艇が多数飛んで万が一の事態に備えた。前回は来るわけがないと思いこんでいたため、パナマ運河を破壊されていたのだ。故に今回は、タヒチやサモア、フィジーさらには中部太平洋にも、危険を冒して普段より多い潜水艦が偵察のため派遣された。
 また南太平洋でも、英領のフォークランド諸島、サウスジョージア島などに飛行艇などを追加で配備して、日本軍潜水艦を追い払うべく全力が尽くされた。
 しかし、流石にこの時はアメリカ軍の杞憂で終わる。それでも、日本軍潜水艦もしくはドイツ軍潜水艦がひっきりなしに接触してきたので、大西洋艦隊は航行中に休まる暇もなかった。艦載機、飛行艇の威力が落ちる夜間に攻撃を受けた事もあり、電探と酸素魚雷を用いた超遠距離雷撃によって損害も発生している。お返しに日本軍潜水艦を何隻か返り討ちにもしたが、艦隊乗組員にとって過酷な航海となった。追跡と嫌がらせの攻撃にはドイツ軍潜水艦もかなり参加し、アメリカ艦隊を疲弊させる為の臨時作戦を練るべく、南大西洋上では日本軍潜水艦とドイツ軍潜水艦の洋上作戦会議なども行われていた。
 パナマが運河が健在ならこんな事はなかったのだが、言っても仕方のない事だった。
 それよりもアメリカ軍にとって問題だったのは、アメリカ海軍の合流を待っていたかのように、日本本土を出撃した日本海軍主力がアメリカ軍の予想とほぼ同じ形で姿を現したことだった。

 1944年3月26日に開始された日本海軍の攻撃は、まだ気候的に冬のアリューシャン各地をほぼ同時に空襲するところから始まる。この事からも、日本海軍が複数の空母機動部隊を運用していることが判明した。この地域独特の霧などの気象条件でまともに空襲できない場所もあったが、攻撃規模も大きかった。霧の出ている場所では、対地電探(レーダー)を用いた爆撃も実施されていた。技術の進歩と戦争の大規模化が、自然すら克服しつつあったのだ。
 もっとも、ダッチハーバーを含めアリューシャン列島の軍事施設のほとんどは、前回の日本軍の破壊が大きすぎた事もあって、以前の状態にはほど遠かった。復旧しようとしても、船を送れば日本軍潜水艦が邪魔をするし、アッツ島など日本列島に近い場所では、日本軍の偵察機や重爆撃機が頻繁に飛んできた。しかも、すぐにも日本の水上艦隊までが襲来している。一度だけだが、アッツ島沖合では巡洋艦同士の戦闘すら起きていた。
 また冬のアリューシャン列島は、多くの場所が流氷に覆われてしまうため、船を送り込む以前の問題だった。そして冬の閉ざされた状態で激しい空襲などを受けた場合に備えて、アリューシャン列島からアラスカ沿岸部では、先住民を除く国民のほとんどがアメリカ本土などに疎開していた。アラスカの中心都市アンカレジも、今は軍人ばかりだった。
 そしてそのアンカレジにも、遂に日本軍艦載機が襲来した。
 数は1000機以上も及び、のべ2500機の艦載機によって一日中空襲を受けることになる。このためいまだ流氷に閉ざされていたアンカレジの軍事基地と港湾は、為す術もなく壊滅した。稼働機数は、たった一日で20%台にまで低下した。
 現地には約300機の戦闘機を始め、400機以上の航空機が配備されていたが、額面通りまともに迎撃戦を行ったので、相手が数倍の規模では相手にもならなかった。アメリカ軍の中にはもっと戦力を配置しろという声もあったが、十分な補給もままならない土地に1000機もの空母艦載機に対向できる軍事力を置くことの不経済さを考えると、400機ですら過剰な数だった。そして現地の主な敵は、冬の寒さという有様だった。現地の各航空機、空軍基地も、いかにして稼働状態を維持するかに日々腐心する有様で、日本軍が退去襲来した時も稼働率は精々70〜80%程度だった。
 なお、日本海軍の主力艦載機「烈風」は「F4U コルセア」や「P-47 サンダーボルト」などとほぼ互角で、その上で日本軍はエンジンを強化した「烈風」の強化改良型やさらに新型機を投入していた。数あわせのため製造されたグラマン社の「F6F」は、頑丈で稼働率こそ高かったが日本軍新型機には太刀打ちできず、この戦い以後量産が中止されている。
 日本が新たに投じた新型機は、1944年初めに量産配備が始まったばかりの「陣風」だった。今度の艦載機は、今までの三菱製ではなく坂本財閥系の新明和製だった。このため先の「紫電改」と形状が少し似ており、日本戦闘機としては破格の大きな発動機を持つ太い機体に見るように丈夫な構造を有していた。エタノール噴射時の最大出力は2300馬力で最高速度は680キロ/時に達し、機動性などを含めて当時の空冷エンジン機としては世界最高性能だった。機体の丈夫さではアメリカの「P-47」に一歩譲るが、戦闘爆撃機としての能力も十分に備え、雷撃も可能な一種の万能機だった。しかも、日本機にしては重厚な機体ながら無駄を極力省いているため、速度と航続距離を両立させた機体でもあった。フレームの少ない涙滴型風防を持つので後方視界も良好だ。部品数が少ないため、量産性も高い。ある意味、日本海軍のレシプロ艦上機の集大成と言える機体だった。
 「陣風」の数はまだ多くはなかったが、アメリカ軍が日本軍に追いついたと思ってすぐの新鋭機投入のため、少なからぬ衝撃を与えいてた。

 日本艦隊出現の報告を前に、洋上のアメリカ艦隊はとにかく補給を急いだ。大西洋艦隊は長い航海をまだ終えてもいないし、太平洋艦隊も洋上待機が長いため、弾薬はともかく燃料補給が必要だった。本当なら乗組員に最低限の休養を取らせたかったが、ある程度予測した通り、その時間は与えられなかった。
 もっとも日本艦隊は、アンカレッジ空襲後の丸二日姿をくらませる。アメリカ軍では、少し南下して大規模な洋上補給をしていると予測していたが、その行動こそがアメリカ本土を狙っている証だと考えられた。空母の瞬間的な戦闘力は極めて大きいが、短時間で消耗してしまうからだ。
 このため洋上で合流したアメリカ艦隊は、シアトルとサンフランシスコの中間当たりの沖合600キロあたりに注意深く陣取り、日本艦隊がシアトルもしくはバンクーバーを空襲するのを待ちかまえた。シアトル近辺への攻撃では、ほぼ間違いなく数日間の反復攻撃を実施するだろうから、その最高潮に達した辺りで陸海双方の航空戦力の総力を挙げ日本艦隊を撃退する算段だった。そして推定20隻以上の空母とその艦載機2000機近くの猛威は、今までにない試練になるだろうと考えられた。
 また、日本軍潜水艦がウヨウヨしている筈なので、一カ所に留まっていると水面下から足下を掬われてしまう可能性が高い為、あまり一カ所に留まることも出来ず一定の移動も続けていた。潜伏海域に西海岸近海が避けられたのも、新型の高性能潜水艦の出没も始まった日本軍潜水艦を警戒しての事だった。
 しかし日本艦隊は、アメリカの予測とは違ってまだアラスカ沖合にいた。2日後に出現した艦隊は、ジュノーなど小さな港湾や周辺の小さな軍事基地、特に飛行場を徹底して叩いた。小規模な哨戒基地でも逃されず、文字通り徹底していた。今回はカナダの基地も攻撃対象とされた。
 明らかに日本艦隊の誘いだった。少なくとも、アメリカ軍はそう考えた。
 日本艦隊も、アメリカ本土に近づきすぎると無数の地上配備機に襲われることは分かっている。このため沿岸部の空襲を繰り返し、アメリカ艦隊を洋上に誘い出そうとしている、というのがアメリカ側の判断だった。一部ではアラスカへの上陸を考える者もいたが、それにしては時期が少し早いという意見が大勢を占めた。人が戦争できるアラスカの夏は一瞬しか存在しないからだ。
 一方、日本側には日本側の意図や思惑があった。
 そして、1943年頃からアメリカ西海岸攻撃を想定して演習を繰り返していた日本海軍は、自らの性癖を加えた上で最も可能性の高いアメリカ艦隊の動向を予測して今回の行動に出ていた。
 1944年4月6日、それが形となって現れる。

 1944年4月6日の午後2時頃、オレゴン州の沖合500キロ近辺で行動していたアメリカ太平洋艦隊は、突如自分たちから見て左側面やや後方を中心に強力な電波妨害に遭遇し、レーダー画面がホワイトアウトして無線交信も難しくなった。
 それまでも、数十キロ離れた位置からの日本軍潜水艦と思われるごく短い電波を何度も捉えていたので、自らの位置が既に日本軍に掴まれているとは考えていたが、予想外の方向からの電子攻撃にアメリカ艦隊は混乱する。
 しかもこの時、この日の朝早くに友軍潜水艦が日本艦隊(大型戦艦複数の主力艦隊)のアメリカ西海岸接近を掴んだため、自らも北に進路を向けたばかりだった。つまり日本艦隊は、自らの艦隊を大きく二手に分けて運用していた事になる。そしてうち一方から強力な妨害電波を受けたという事は、艦載機の襲撃が近いことを意味していた。
 このためアメリカ艦隊の各空母からは、可能な限り発進を控えていた艦載機を急ぎ出撃させた。しかし、格納庫にはすぐにも日本艦隊を攻撃できるようにと、各攻撃機が既に魚雷や爆弾、燃料を搭載した状態で待機させられていたため、戦闘機の発進は甲板に上がって待機していた半数を除いて大きく出遅れてしまう。
 しかし《エセックス級》大型空母5隻、歴戦の《エンタープライズ》、《インディペンデンス級》高速軽空母11隻から発艦する戦闘機数は、緊急発進だけで300機近くになる。何しろ、艦載機総数900機を越える大機動部隊だ。相手が日本海軍でなければ、世界のどこにでも暴力を振りまけるだけの戦力を有していた。本来の予定ならば、今頃北アフリカで猛威を振るっている筈だったのだ。だが、その大艦隊が守勢を取らねばならないほど、この頃の日本海軍は強大だった。
 そしてその日本艦隊を探すため、機動部隊からは多数の偵察爆撃機と、アメリカ西海岸各所に配備された飛行艇や重爆撃機が追加で発進した。また沿岸各地では重爆撃機部隊の緊急発進が始まり、友軍機動部隊に近い戦闘機隊の基地では、艦隊の上空援護のための発進を開始した。日本艦隊がさらに接近してきたときに備え、陸上に配備された中型攻撃機も出撃準備を整えた。しかも規定の作戦通り、機動部隊上空には常に一定数の陸軍機が上空警戒に付いていた。
 500キロ程度の距離ならば、航続距離の長い「P-38」「P-47」「P-51」だと十分に上空で戦闘ができる距離だったからだ。陸軍機だから洋上での移動に対する不安もあり、墜落した後の事は覚悟が必要だが、国難と言うことで誰も文句は言わなかった。

 先発した「F-4U コルセア」の編隊が視認した日本軍機の数は、空を黒く覆い尽くす程だった。機体の方は、「烈風」「陣風」に加えて、こちらも既に確認されている新型の艦上攻撃機「流星」で埋め尽くされていた。
 しかも今までの常識からは考えられないほど巡航速度は速く、雷撃機ですら時速400キロ近くの速さで進撃していた。しかも攻撃機の多くが低空を突進しているため、上空の戦闘機隊を突き抜けてなお高速を出す攻撃機を迎撃するのは、非常に難しい状況だった。その上日本軍攻撃機は迷彩塗装を施しているため、戦闘機同士の戦闘空域である上空3000メートル程度からでは、戦闘機パイロットの優れた視覚をもってしても視認が難しかった。加えて、日本軍による電波妨害は依然として続いているため、対応策を行っても対処しきれず、日本軍攻撃隊の全容は掴めなかった。
 もっともこの時、日本艦隊は全てがひとかたまりになっていなかった。
 大型艦の概要を示してから、説明に入ろう。
 当時の連合艦隊の水上艦隊は、大きく以下のように編成されていた。

・連合艦隊
 ・第一航空艦隊
 第一機動部隊(艦載機:約450機)
CV:《大鳳》《海鳳》《瑞鳳》《祥鳳》
CV:《海龍》
SC:《蓬莱》《富士》

 第二機動部隊(艦載機:約380機)
CV:《翔鶴》《瑞鶴》《神鶴》《千鶴》
CV:《蟠龍》
BB:《肥前》《岩見》

 第三機動部隊(艦載機:約310機)
CV:《赤城》《蒼龍》《飛龍》《雲龍》
CV:《大龍》
BB:《周防》《相模》

 第四機動部隊(艦載機:約300機)
CV:《昇龍》《天龍》《瑞龍》
CV:《黒龍》《白龍》

 第五機動部隊(艦載機:約330機)
CV:《龍鳳》《天城》
CV:《紅龍》《水龍》
BB:《金剛》《榛名》

 ・第一艦隊
BB:《紀伊》《尾張》《駿河》《常陸》
BB:《大和》《武蔵》《信濃》《甲斐》
BB:《長門》《陸奥》

 ・第二艦隊
BB:《伊豆》《能登》
SC:《剣》《黒姫》

 ・第六艦隊(特別編成)(艦載機:約150機)
CVE:《大鷹》《雲鷹》《神鷹》
CVE:《海鷹》《飛鷹》《隼鷹》

 ・第三遊撃艦隊(艦載機:約120機)(在東太平洋)
BBC:《比叡》《霧島》
CVL:《高千穂》《浪速》

 ・遣印艦隊:(司令部:チャゴス諸島駐留・在インド洋)
BB:《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》

 ・第一遊撃艦隊(艦載機:約80機)(在インド洋)
CVL:《龍驤》《瑞祥》《飛祥》

 ・南遣艦隊:(在南太平洋)
 第二遊撃艦隊(艦載機:約80機)
CVL:《千歳》《千代田》《日進》

(※重巡洋艦以下割愛、潜水艦隊、護衛艦隊除く)

 見ての通り、もの凄い数と言うしかない。
 新鋭の《龍鳳級》大型航空母艦の《龍鳳》《天城》は初陣だが、もはや一つの艦の事は問題にならないほどの規模だった。しかし南太平洋やインド洋にもある程度の艦隊を置いているので、アメリカ海軍のように全ての高速大型艦艇を北太平洋に投じたわけではない。また、この時の連合艦隊の主力部隊は、いささか複雑な艦隊運動を実施している。
 まずは一丸となってアリューシャン、アラスカを空襲して、その後一旦洋上深くに離脱。そこで洋上補給を実施して艦隊を二分。第一艦隊、第四機動部隊、そして後続として合流した第六艦隊が、その後北アメリカ大陸に接近して再び攻撃を行っている。護衛空母中心の第六艦隊は、アメリカ軍を欺くため臨時で編成されたものだったが、それでも戦闘機は無理矢理「烈風」を満載していたので、短期的にはかなりの戦闘力を有した。
 一方、第二艦隊を前衛とした第一、二、三、五の各機動部隊が洋上補給の後に大きな迂回コースを取って、この時アメリカ太平洋艦隊の横合いから大量の艦載機を出撃させた事になる。そして日本艦隊は、アメリカ軍の作戦意図を見抜いた上で、日本艦隊がひとかたまりで動くという固定観念にとらわれていたアメリカ軍の裏をかくことに成功した。
 またこの時期、通商破壊戦を主任務にした第三遊撃艦隊が東太平洋で作戦行動中で、洋上補給の後に戦場に近寄っていた。このため東太平洋上の日本艦隊が有する艦載機総数は、1600機近くにも達している。
 その上北(西)からも、アメリカ側が主力と勘違いした機動部隊と、強大無比な戦艦部隊が突進しつつある。水面下では、アメリカ軍の対潜掃討にもめげず活動する多数の潜水艦も活動中だった。そしてその全てが、アメリカ本土には目もくれずにアメリカ艦隊だけを目標としていた。
 そうして繰り出された日本軍機動部隊の攻撃隊は、第一波約600機、第二波約400機にもなる。残り500機のうち400機が戦闘機、100機が艦上対潜哨戒機の「南海」や「彩雲」偵察機などになる。各機動部隊の《昇龍級》空母1隻は、防空と対潜任務を行う専用母艦だった。また、第三遊撃艦隊の攻撃隊が、別方向から急接近中だった。

 日本軍の第一次攻撃隊は、各機動部隊をあわせて約350機の戦闘機と250機の攻撃機になる。無論、全てがひとかたまりになって行動していたワケではないが、艦隊からの誘導、偵察機による先導などにより、かなり緊密な編隊を組んでいた。
 そして攻撃機は500キロ爆弾を主に搭載しており、艦隊外縁の護衛艦隊を潰し、余力があれば空母の飛行甲板を破壊するのが目的だった。戦闘機の数が多いのは、これまでの戦訓で戦闘機を多数搭載するべきだという結論に達して搭載機数を増やした事と、最初に制空権を得てしまおうという思惑があったからだ。このため日本軍戦闘機のうち約200機は、優先的に敵迎撃機に対して積極的な戦闘を挑んでいった。
 しかも「烈風」「陣風」の巡航速度が速く先に発艦していたので、この200機の戦闘機隊こそが、10分程度のタイムラグを置くのみながら実質的な第一次攻撃隊だった。
 そしていまだ母艦からの発進が続くアメリカ軍戦闘機との間に、各所で空中戦が発生。空はすぐにも大混乱に陥った。アメリカ軍もイギリスから導入し独自改良を施した優れた防空指揮システムを構築していたが、あまりにも沢山の機体が飛び交うためと経験不足が重なって、有効に機能する事は無かった。既に艦隊上空にいた陸軍航空隊の混乱は特に大きく、連携作戦の難しさを実感させるものとなった。
 これに対して日本側は、友軍母艦群からの指示と、空に上がった電子戦用の複座型「彩雲改2型」の指示、先に飛んで敵艦隊近辺に張り付いていた強行偵察型の「彩雲改」の電波を受けながら敵艦隊を目指した。それでも日本側も混乱し、そこに日本軍攻撃隊の本隊が大きく二つの固まりとなって突進する。
 アメリカ側にこれを阻止する力はほとんど無く、僅かに立ちふさがった迎撃機も日本側の護衛機に空戦を挑まれ、攻撃機を殆ど阻止できなかった。
 そして艦隊へと到達した日本軍攻撃隊は、この時初めて「VT信管」日本語訳で「近接信管」の洗礼を受ける事になる。この信管は、極端にいえば砲弾の中に超小型の電探(レーダー)を仕込み、砲弾の側を金属が通過すると炸裂する仕組みになっていた。今までの時限信管とは百倍の命中率差があると言われていた。
 しかしこの信管は、導入されたばかりで数も少なかった。百倍の命中率があっても、前線への配備数は全対空砲弾(高角砲)の1000分の1にも満たなかった。この時は、格段に強化された対空弾幕そのものの方が脅威だった。そして戦闘機の脅威に比べれば対空弾幕の脅威は、機体が丈夫となっていた日本軍艦載機にとって極端な脅威とはならなかった。「流星」ならば、20mm機銃弾程度なら多少被弾しても大丈夫だった。

 日本軍の第一次攻撃の結果、「流星」攻撃機隊は約14%の命中弾を記録した。この記録はアメリカ軍のもので、日本側は20%近いと判定していた。しかし攻撃規模の大きさから、14%でも35発にもなる。しかも打撃を与えた至近弾も、命中弾の半数近くになる。そして全てが急降下爆撃による500キロ徹甲爆弾なので、駆逐艦程度なら1発でもまともに直撃すれば簡単に戦闘力を喪失し、運が悪ければそのまま沈んでしまう。実際、一撃で竜骨をへし折られた駆逐艦もあった。巡洋艦の中にも、艦橋直撃や舵の破壊で戦線離脱を余儀なくされた艦もある。中には3発の直撃弾を受けて、弾薬庫に引火して爆沈した巡洋艦もあった。至近弾でも、水中爆発など場合によっては直撃よりも大きな損害を与えることもある。
 そうして3つの空母群は合わせて20数隻の艦艇が被弾し、それぞれの艦隊は輪形陣の一方向に大穴を空けられてしまう。
 そして日本軍主力の第二波が、迎撃戦闘機隊との接触まで20分程度の距離まで近づいた段階で、別方向から超低空のまま飛来した大柄な戦闘機の群が、アメリカ軍の防空網の間隙をすり抜け、さらには各輪形陣の穴を易々と突破していった。
 突然の新手は、南東方向から長駆米艦隊を追撃していた第三遊撃艦隊のものだった。二手に分かれた同部隊の艦載機隊はそれぞれ40機の「陣風」で構成され、超低空から輪形陣深くに切り込んでいった。この時の攻撃は、進撃段階の途中から30メートル以下の超低空で実施されたため、アメリカ軍の電探(レーダー)にはほとんど捕捉されず、アメリカ軍は日本海軍主力の迎撃に忙殺されたため、アメリカ軍は艦上の監視兵が視認するまで気付く事がなかった。
 しかも「陣風」隊は、輪形陣に接近した段階で高度10メートルにまで下げている。目的は雷撃。戦闘機の「陣風」が雷撃もできるのを利用し、また辻斬りのような遊撃戦、つまり通商破壊戦では爆弾よりも魚雷が効果的のため、第三遊撃艦隊の各母艦は贅沢にも魚雷ばかりを搭載していた。搭乗員もそのための訓練を積んでいた。その上艦載機は、機体更新を受けたばかりで「陣風」で固められていた。偵察機が艦載機の一部を占めていたが、主力艦載機は「陣風」のため、総数は120機にもなる。艦隊全体の搭載機数が少ないのなら、艦載機を空戦と攻撃双方ができる機体で固めてしまう、と言うのが一度南米沖で苦杯をなめた日本海軍の結論だった。
 本来第三遊撃艦隊は、合流前の大西洋艦隊を奇襲攻撃する予定で急ぎ編成と訓練そして展開が行われた。だが、寸前のところで間に合わず、南太平洋のポリネシアからアメリカ大西洋艦隊を追いかける形で今回の戦いに強引に加わっていた。
 そして増槽のかわりに重い魚雷を積んだ戦闘攻撃機を敵艦隊に送り込むため、遊撃艦隊自身も危険なほど敵に接近していた。アメリカ艦隊との距離は、直線距離で400キロほど。しかも急ぎ北上したため、サンフランシスコ沖合で行動していた。アメリカ軍の哨戒網に引っかからなかったのは、アメリカが北に存在する「日本艦隊主力」に気を取られすぎていたからで、この辺の事情は日本軍の機動部隊本隊が奇襲攻撃に成功した理由とほぼ同じである。
 そして80機の魚雷を抱いた戦闘機は、本職の雷撃機顔負けの低空を高速で突進。レーダー連動射撃の出来ない匐域を高速で進み、その牙を敵へと突き立てていった。
 そして雷撃終了後はただちに戦闘機の本職に復帰し、持ち前の機動力と頑健さを示して防空輪形陣を抜け、損害に怒り狂った敵の防空戦闘機を高速を以て振り切って離脱していった。中には迎撃機を返り討ちにした戦闘機もある。何しろ「陣風」は戦闘機が本職な上に、当時の最新鋭機だった。
 こうした戦闘はまさに辻斬りと呼ぶに相応しく、この戦争中盤以後ひたすら敵輸送船団を追い求め洋上を彷徨っていた熟練部隊の面目躍如たる場面となった。
 ちなみに彼らは、自分たちの行いを「捕鯨」や「鯨狩り」と呼び、アメリカ軍は日本軍の遊撃艦隊の事を「海賊」と呼んでいた。

 なお第三遊撃艦隊が投弾に成功した魚雷の有効数は、実に64本。数が合わないのは、一部は攻撃前に敵防空戦闘機のインターセプトを受けたため魚雷を棄てて空戦に入ったためと、何らかの形で撃墜もしくは撃破されて魚雷を投棄した機体があったためだ。
 そして投じたうちの実に三割が命中。命中数は19本。うち1発の不発を除き、18本が輪形陣の内側にいた艦艇の水面下で次々に炸裂した。
 この結果、二つの機動群の中心を占めていた主要艦艇は大損害を受けた。大型空母2隻、軽空母4隻、戦艦1隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻が、短時間の間に相次いで被弾。攻撃された機動群の母艦のほぼ全てが傷ついていた。うち軽空母1隻では、魚雷の爆発時の大きな振動によりガソリン庫が割けて引火し、全艦火だるまとなる大規模な誘爆が発生した。3発をほぼ同時にしかも同じ側に受けた別の軽空母は、被雷すぐにも総員退艦が命令されていた。既に500キロ爆弾1発を受けていた大型空母も、2発の魚雷を片方に受けて大きく傾き大破、戦闘力を完全に喪失していた。2発被雷した重巡洋艦も、片方のスクリューが破壊されて大きく速度を落として輪形陣から取り残されつつあった。

 そしてまったく予期せぬ襲撃に混乱するところに、日本側の本命である第二派が襲来する。実質的に第四波となった攻撃隊は、150機の戦闘機と250機の攻撃機で編成されていた。「流星」攻撃機の全てが魚雷を抱えており、敵艦隊の30キロに接近した時点で海面すれすれにまで降りていった。
 しかもアメリカ軍迎撃機の一部は、逃げる「陣風」隊を追いかけて艦隊から離れていた。つまり輪形陣だけでなく、空の一部もがら空きとなっていた事になる。
 そして上空で戦闘機同士の激しい戦闘が行われている間に、攻撃機隊は敵艦隊に肉薄、偵察機の指示通りに四群に分かれ、うち三群はいまだ閉じられていない輪形陣の隙間から入り込んで、アメリカ艦隊に痛撃を見舞っていった。
 この時の攻撃は、東側にいた無傷の機動群への攻撃はあまり成功せず、急降下爆撃を受けただけだった群も受けた損害はともかく、それほど大きな混乱はなかった。だが第三遊撃艦隊の襲撃を受けた直後の他の二つの群の混乱は酷く、そこに日本軍攻撃機は付け入った。
 なおこの戦闘時、アメリカ艦隊は4つの輪形陣を形成していた。
 もとの太平洋艦隊は大型空母2、高速軽空母2、高速戦艦5隻で編成されていた。戦艦数が多いのは、前衛を務めるためと、これまでの太平洋艦隊の大型高速艦艇がこれで全部だったからだ。大西洋から合流した艦隊は、大型空母2、高速軽空母3隻、高速戦艦1隻の部隊が二つと、高速軽空母3隻の部隊が一つに分かれていた。軽空母のみの艦隊は編成も小さく、艦隊の一番後方に位置していた。艦隊全体も4つの輪形陣が菱形に布陣し、その横合いと後ろから日本艦隊に襲撃を受けた形になる。
 このため西側の機動群と小振りな南側(後方))の艦隊は、二度の襲撃を受けて既に壊滅状態だった。前を進んでいた機動群も、多数の爆弾を受けて輪形陣にほころびが見られた。そしてそこに、日本軍雷撃機の群が襲いかかった。
 アメリカ軍の迎撃機は懸命に任務を果たそうとしたが、既に数を大きく減じている上に、依然として日本軍戦闘機の妨害が強く、ほとんど攻撃機に取り付くことが出来なかった。そして艦隊自体は、既に輪形陣の多くが綻びを見せているため、重厚だった筈の防空火力は大きく減じていた。3つの空母群では、艦艇の三分の一以上が被弾しているのだから、曲がりなりにも迎撃戦を展開できるだけでも大したものだと言える状況だった。
 最終的な魚雷の命中率は約17%。既に被弾して行動が鈍っている艦が多く、防空能力の低下していた事が比較的高い命中率を産み出していた。総数43本が命中した魚雷は、主に空母の船腹を抉っていた。特に既に被弾している艦は優先的に狙われ、避けることもままならないため命中数も多数となった。
 そしてここで、当時のアメリカ海軍艦艇の最も脆い部分が露骨に現れる事になる。アメリカ海軍の艦艇は、アメリカの基礎的な工業力の高さ、艦艇建造経験の豊富さから優秀な設計と構造、そして丈夫さを持っている。加えて、アメリカ海軍自体が、ダメージ・コントロールという損害を受けた際の応急対処能力が非常に高い。戦時に多数の乗組員を乗せる目的の一つも、ダメージ・コントロール能力を高めるためだった。このため大型空母では3600人、高速軽空母では1600人、護衛空母ですら800人から1000人ほどが乗り込む。戦艦の乗組員も2000〜2500人となる。そしてこれまでの戦いでも、優秀と言われる日本海軍の艦艇よりも頑健さを示した。戦場で日本の艦艇が沈まずアメリカの艦艇が沈むのは、双方の戦力差の結果でしかなかい。いかに応急対応能力が高くても、想定した以上の攻撃を受けては意味がなかったからだ。
 そしてアメリカ艦艇には、共通する弱点が一つあった。本来なら弱点という程度でもないのだが、とにかく弱点だった。その弱点とは、水面下の被害に対してだ。そして第二次世界大戦中盤以後は、世界各国の艦艇も似たような状況になったのだが、とにかく艦の上の方に多数の防空火器や電波兵器を搭載するため、船の重心がどうしても上に来てしまう。このため水面下の被害に尚更弱くなっていた。極端に言えば、重心が上にあるのでひっくり返りやすいのだ。
 日本海軍も、これまでの戦いでアメリカ艦船の弱点を見抜いており、そのための研究も行っていた。その成果の一つが、今回の戦闘方法だった。
 米艦隊の高い防空能力を、多数の戦闘機、急降下爆撃でまずは封殺し、その後雷撃でトドメを刺すというものだ。今まで雷爆同時攻撃と言って、急降下爆撃と雷撃を同時に行って相手の逃げ道を塞ぎ命中率を高める傾向が強かった日本海軍では大きな変化だった。しかも日本海軍は、飽和攻撃という本来アメリカが得意とする手段で戦果を拡大していた。
 そしてその成果は、この戦いで遺憾なく発揮されていた。
 都合60本以上の命中魚雷により、アメリカ海軍が再建した大機動部隊はたった一撃、僅か小一時間の戦闘で半身不随に陥っていた。合わせて、大型空母4隻、高速軽空母9隻、高速戦艦2隻が被弾し、巡洋艦以下の艦艇も26隻が被弾した。このうち、日が沈むまでに大型空母2隻、高速軽空母7隻が波間に没しようとしていた。このうち何隻かの高速軽空母では、短時間の間に沈んだため人員の犠牲も大きかった。巡洋艦や駆逐艦も、被弾したうちの40%近くの10隻(重巡洋艦1、軽巡洋艦2、駆逐艦7)が沈むか自沈処置された。他にも、大型空母1隻、高速軽空母1隻は激しい誘爆を繰り返して多数の犠牲者を出しており、既に助かる見込みはないと考えられていた。排水量が5万トン近い高速戦艦1隻も、多数の魚雷を片方に受けて大破、戦闘不能だった。そしてこの戦場では、アメリカ海軍が多数急増した高速軽空母の欠点が如実に現れる事になる。しかも攻撃隊を既に準備していた事が、損害を拡大していた。1発の被弾で簡単に誘爆したり、傾いて戦闘不能となった。軽空母3隻で編成されていた任務部隊は、輪形陣中央にいた艦艇の全てが被弾し、文字通り全滅していた。
 《エセックス級》大型空母も、防御甲板以上の強固な防御力とは裏腹に、魚雷に対して極端に弱いため、航空魚雷5本の被弾で日没を待たずに沈もうとしている艦があった。

 日本軍の襲撃が完全に終わった午後三時半頃、日米双方は決断を迫られていた。半ば独自で攻撃任務に就いていた日本海軍の第三遊撃艦隊は、夜這いが見つかった間男のように一目散に回れ右で逃げ出していたが、他の艦隊は戦闘継続か逃げるかの二者択一を迫られていた。
 日本側の懸念は、既にアメリカ本土から発進したであろう無数の重爆撃機と、アメリカ艦隊上空の援護に入るであろう戦闘機隊の存在だった。
 日本側は、着陸後の破棄を含めて出撃機の2割近くを失い、再出撃に耐える機体は全体の7割程度あったが、急ぎ予備機も準備しているので再び2波800機程度の攻撃隊を送り出せそうだった。
 しかし時間という要素が、日本軍に重くのしかかっていた。この時期の北太平洋の日没は、午後6時を少し回ったぐらい。攻撃隊が再度出撃できるのは、早くても午後5時。アメリカ艦隊は当然大陸方向に逃げるだろうから、互いの距離もさらに開く。つまり攻撃隊が帰投するのは夜になってからとなるため、艦載機による襲撃は難しかった。ならばと、第二艦隊を中心とした水上打撃艦隊が考えられたが、両者が接近しているならともかく、離れているとなると成功確率は低い。それに、追撃中に重爆撃機の猛攻撃を受けることも間違いなかった。
 結局、午後四時より少し前に、日本側も撤退を決意。一部幕僚や編隊長などが攻撃続行を主張したが、場所が敵地深くであることなどを材料に説得され、日本艦隊は舵を大きく西へと切った。
 対するアメリカ艦隊は、とにかく逃げた。
 17隻もあった母艦のうち、健在なものは合わせて4隻。他に1隻が戦闘力を復帰できるかもしれないが、それはすぐではない。艦載機の数は、上空のインターセプトを生き残った機体を全て収容しても、上限で400機程度となる。しかも戦闘機が半数以上を占めるし、全てを収容したところで、うち三割程度の戦闘機は棄てなくてはならない。飛行甲板が塞がれてしまうからだ。

 しかし戦闘は、まだ終わっていなかった。

●フェイズ47「東太平洋海戦(2)」