■フェイズ52「最後の戦い」

 1944年9月に連合軍が開始したモロッコに対する強襲上陸作戦は、連合軍にとって破綻と崩壊を迎えつつあった。
 強襲上陸から内陸への侵攻までは成功を収めるも、完全な制空権が得られない地域で起きたドイツ軍との本格的地上戦で大敗を喫してしまう。さらに増援を受けた枢軸軍の海空戦力による反撃によって、連合軍側の海上戦力が大きな打撃を受けた。この時点で1944年10月初旬。連合軍の本格的な反攻作戦の第一陣となる作戦は、僅か一ヶ月で敢えなく瓦解を迎えようとしていた。制空権か制海権がもう少しあれば話しも違ってくるのだが、連合軍全体が海軍力で大きく劣る状態では制海権の維持がままならなくなっていた。

 日本、イタリア、ドイツの水上打撃艦隊によってカサブランカの橋頭堡が破壊されたのは、1944年の10月7日から8日にかけての深夜。しかし、内陸に展開する米軍航空隊を警戒したため、夜明けまでには泊地及び橋頭堡に突入してきた枢軸艦隊も立ち去った。艦砲射撃自体も、市街地への攻撃を控えたため、連合軍の受けた直接的な犠牲は少なかった。
 だが、近在に停泊していた輸送船舶は、30万トン近くが沈むか損害を受けた。水上艦の突撃を恐れて沖合に逃げるも、数日のうちに付近にいた空母艦載機と潜水艦に沈められたものがほとんどだった。中には兵員多数を載せたまま岸壁を離れ、そのまま沈められた不運な船もあった。
 また、カサブランカ沖合で枢軸海軍の迎撃に当たった連合軍水上艦の損害も大きかった。アメリカ海軍に4隻あった今や虎の子の大型空母の沈没や致命的な損傷こそなかったが、新型の高速軽空母はまたも弱体をさらし、11隻中6隻が損傷してうち4隻が呆気なく沈んだ。支援任務のため編成されていた護衛空母による低速機動部隊については、ほぼ全滅していた。3個群に分かれて18隻投入されたうち、様々な理由により11隻が沈没し3隻が損傷していた。損傷率8割という数字は、既に軍事上の数字ではなかった。しかも沈んだうちの三分の一は短時間で沈没したため、犠牲者も多かった。軽空母の乗組員は1600人、護衛空母で800名から1000名にもなるからだ。さらに作戦に投入された16隻の各種戦艦のうち、全体の半数に当たるアメリカ軍の新鋭艦の全てが沈められるか付近の浅瀬に乗り上げていた。残り半数の戦艦や多くの戦闘艦艇は夜間戦闘を生き延びたが、さらに何隻かが翌朝の枢軸側の空襲で多くが損害を受けるか沈められた。陣形が混乱していたため、効果的な防空戦闘が実施できなかったからだ。他にも多くの艦艇が沈むが傷つき、損失した艦艇の総量は40万トンを越えた。輸送船舶や揚陸用艦艇の損害と合わせると70万トンにも上る。
 同年春の東太平洋での敗北を越えるほどの大損害だった。海での戦死者の数も、またも2万人を越えた。水兵以外を加えると、戦死者の数は4万人にもなる。
 それでも生き残った多くの艦船が、アメリカ軍と自由フランス軍が押さえる西アフリカのダカールへと落ち延びた。一部の船舶は、最も近い英本土を目指したし、英本土から洋上に多数の援護機や艦船も出されたのだが、途中のビスケー湾の制空権、制海権はまだどちらが握っているとは言えなかったため、追撃戦の過程で両軍共にかなりの損害を出すことになった。

 そして連合軍というよりアメリカ軍にとって問題だったのが、モロッコに上陸した50万の友軍の存在だった。上陸したうちの10万ほどは、既に今までの戦闘で戦死するか捕虜になっていたが、それでも多くの友軍がドイツ軍の圧迫を受けながらも、増援もしくは救援を待っていた。現地の遠征軍司令部のパットン大将は、固守体制に入って友軍の「増援」を待って攻勢を再開すると強気の連絡をよこしていたが、現地での戦力差は既に連合軍の劣勢で、現状のままでは覆す要素もなかった。特にカサブランカ港に設けられた臨時の物資集積所が艦砲射撃と空襲で破壊されたため、弾薬、燃料など物資の不足に悩んでいた。
 このため急ぎ制海権だけでも確保して当面の物資を送り込むべきだと判断されたが、ジブラルタル近辺に日本海軍の大艦隊が展開したとあっては、それもままならなくなっていた。しかも自らの海軍は、高速機動部隊が半壊した状態で残されているのみだった。艦隊の作戦機数は、予備をかき集めてもモロッコ作戦初期の半数にも満たなかった。船団を組んで増援を送り込むことを、自殺行為に等しかった。
 制空権についても、現地に展開する航空機だけでは限定的な制空権を確保するのが精一杯で、それすら徐々に奪われつつあった。何しろドイツ軍を始めとする枢軸側は、増援を続々と送り込んでいたからだ。
 無論連合軍もダカール方面から主に航空機の増援は送り込んでいたが、カサブランカ方面の受け入れ体制が十分に整っていない上に、現地の燃料や弾薬が不足するため、戦闘機や爆撃機を送り込むよりも、物資を満載した輸送機や重爆撃機を送り込む事が優先されていた。しかも枢軸側も、連合軍が輸送機を使って遠距離から補給作戦を行っているのを見付けると、すぐにも目の敵にして襲っていた。このため連合軍は、後の大規模空挺作戦のために準備していた輸送機、グライダー、輸送用爆撃機を、補給作戦のために大量投入する事態に陥っていた。投入された機体の総数は1万機を越えていた。それほどの空中補給をしなければ、現地軍は現状の維持すら難しかったからだ。当然ながら、激しい消耗にも晒されていた。

 以上のような情勢を受けて、アメリカは北アフリカ方面へのイギリス本国艦隊及び、船団護衛に従事している艦艇の投入を強く要請する。自らもアメリカ大西洋艦隊を急ぎ再編成して、二週間以内にモロッコへの大規模な増援作戦を実施したいと申し出た。もともと増援予定が組まれていた部隊が多数乗船しつつあるので、あとは護衛艦隊さえ揃えばよかったからだ。
 これに対してイギリス政府は、危険が大きい事と、イギリス本国の守りと北大西洋航路の守りを疎かに出来ない事を理由として、大規模な増援作戦には強く反対した。その代わり、一回限りの本国艦隊投入を交換条件として、モロッコからの全面的な撤退作戦なら許容できると返答した。
 長期間イギリス本国の艦隊戦力を空にすると、北大西洋上でドイツ艦隊が大規模な作戦行動に出て、イギリス本土とアメリカ大陸を結ぶ通商路が重大な危機に瀕するというのが大きな理由とされた。
 しかし本音は、またもアメリカは内政を理由に投機的な作戦を行った挙げ句に失敗したのに、その尻拭いはまっぴらご免というところだった。既に枢軸側との停戦や講和を真剣に考えているイギリスにとって、現状でのアメリカの近視眼的な戦争運営は政治上での邪魔でしかなかった。一部のイギリス人などは、米軍がそのままモロッコで全滅した方が今後の政治には有益だとすら思っていたほどだ。
 そしてイギリスの悪意とも言える感情を肌で感じたアメリカ側も、渋々ながら撤退作戦に合意。ルーズベルト政権も、反攻作戦の成功ではなく撤退作戦の成功をもって選挙勝利の最後の希望にしようと方針を変更した。
 そしてアメリカ大統領選挙という要素があるため、モロッコでの「セカンド・ダンケルク作戦」は、10月末から遅くとも11月頭までに実施される事が決まる。
 だが、その間に連合軍にとって不利を伝える情報が次々にもたされていた。
 日本艦隊が、地中海とは別の大艦隊をマダガスカル方面に展開させた。各種偵察情報から、同艦隊は新型の大型空母と巨大戦艦複数を含んでいることも判明した。無線情報などから、日本本土からインド洋にかけて大量の輸送船が西を目指している事も分かった。マダガスカルに陣取った艦隊は、間違いなく世界最強の戦艦部隊だった。しかも南アフリカでの航空撃滅戦と海上交通封鎖作戦も強化され、孤立感の強まる南アフリカでの厭戦感情の上昇は鰻登りとなっていた。
 他にも、色々と情報と情勢の変化があった。
 マダガスカル方面とは別の日本艦隊が、スエズ運河を越えて地中海に入った事。ノルウェーのフィヨルドに陣取るドイツ大海艦隊の全力出動態勢が完全に整った事。枢軸軍が、続々と欧州からモロッコに増援部隊を注ぎ込んでいる事。日本海軍が、長期戦に備えて大規模な後方支援艦隊を地中海に入れようとしているという情報もあった。また北大西洋上では、枢軸側の通商破壊活動は活性化していた。北大西洋上での連合軍の制空権、制海権が大きく衰えた為だ。
 そして何より、現地モロッコでの戦いが当初の予想以上に悪化している事が、アメリカの焦りを募らせた。モロッコに上陸したアメリカ陸軍の戦車は、ドイツ軍の猛獣の前にはブリキの玩具程度の価値しかなかった。

 とにかくモロッコでは、防戦一方に追いやられているアメリカ軍将兵の士気が落ちており、自由フランス軍も包囲されると降伏が相次いだ。アメリカ軍部隊もドイツ軍に包囲されると、それほど粘らずに降伏していった。数日ならともかく長期間の固守が不可能で、その間に救援してもらえないという予想が全軍の間に充満していたからだ。事実、現地司令部では、部隊の集合と山間部などの要地への転進と固守の準備以外、出来ることはほとんどなくなりつつあった。戦闘も散発的に行われていたが、アメリカ軍が常に守る側だった。
 既に現地に進出したアメリカ陸軍航空隊も、海岸部の主要な基地が艦砲射撃で破壊された事もあって、作戦能力は大きく低下していた。重爆撃機の生き残りは、燃料を食いすぎるため現地で運用できず、南のダカールか大西洋を迂回して英本土に逃れていたほどだ。その代わり、モロッコにはダカール経由で戦闘機が送られていたが、現地での受け入れ体制と燃料、弾薬、整備部品の関係から、結局望んだだけ送り込むことが不可能だった。
 ダカールには、今までにため込んだ物資や兵器、兵力がかなりあったが、送り込めなければ意味がなかった。大量の輸送機を用いた空輸だけでは、現状維持が精一杯だった。
 このため大西洋を迂回して、英本土から輸送機や重爆撃機で弾薬、燃料、さらには戦闘機などを送り込む作戦がすぐにも開始されたが、それはビスケー湾上空でドイツ空軍の激しい妨害にあった。このため英本土からは、空輸による輸送もままならなかった。
 かつてのフィジーでのように潜水艦など軍艦を用いた補給すら考えられたが、既に現地はジブラルタル海峡を根城にするイタリア艦隊を中心とする枢軸側の海上封鎖も実施され、海からの接近も危険だった。連合軍の制空権がない場所では、Uボートも依然大きな脅威だった。
 日本軍機動部隊は一旦イタリア方面に下がったと見られていたが、それは戦力の補充と補給を行い、別の艦隊との合流を行っているだけだと判断された。空母機動部隊とは、高い戦闘力の代償に一度に多くの物資を浪費するからだ。そして次に日本艦隊が来る時には、増援を受けて1000機を擁する大機動部隊となっている筈だった。そしてこれに来られてしまうと、現地のドイツ空軍よりも脅威だった。機数はともかく、瞬間的な破壊力が桁違いに大きいため、脱出艦隊を出すことすら出来なくなるからだ。
 そして地上で追いつめられている事、地中海に溢れつつある日本艦隊、この二つの要素が脱出作戦をさらに一週間前倒しにさせることになる。アメリカ大西洋艦隊の再編成は不十分だったし、高速輸送艦船の準備も十分ではなかったが、このままでは今なおモロッコにいる40万の将兵は枢軸軍に降伏せざるを得なくなる。そうなっては、選挙に勝つどころか戦争の行く末すら危ぶまれてしまう。
 そうした危機感の中で、連合軍による「セカンド・ダンケルク作戦」が発動される。

 10月20日、急ぎ再編成されたアメリカ艦隊が、再びモロッコ沖合に進出。この動きを事前に察知していた枢軸軍も一斉に行動を開始し、双方の戦力が再びモロッコを中心とした地域に集中する。しかも今回は、イギリス本国艦隊が一週間ほど前に大挙出撃していたので、ドイツ艦隊主力もつられて大西洋上に出撃していた。先の戦闘で開戦以来初めて敵戦艦を撃沈したイタリア艦隊も、再度全力出撃するほどの積極姿勢を示していた。
 モロッコ、北大西洋以外でも、イギリス本土を離陸する連合軍の重爆撃機部隊は文字通り損害を省みない連続出撃、大量出撃を行って、ドイツを始めとする枢軸軍機を1機でも多くヨーロッパの空に留め置こうとした。このためヨーロッパ大陸の北部沿岸の空では、今までにないほど激しい戦闘が繰り広げられた。
 この戦いを「バトル・オブ・ライン」と呼び、毎日の昼と夜それぞれ2000機の重爆撃機と1000機以上の護衛機が出撃を繰り返し、枢軸側も昼は2000機、夜は1000機以上の迎撃機によって手荒い歓迎を行った。ドーバー海峡を挟んだ空は、航空機で真っ黒になったと言われたほどだ。中でも昼間のジェット戦闘機隊が、1対4以上(一説には1対20とすら言われる)の撃墜率という驚異的な戦闘力を発揮した。だがアメリカ軍も、完全な与圧キャビンを持つ新型の超重爆撃を大量投入し、高度1万1000メートルから進入してドイツ空軍の猛威に対向した。両軍共に予備や補充用の兵力も投入しているため、短期間しか大軍投入は不可能だが、連合軍にとって今回は短期間で十分だった。戦略的効果よりも戦術的成果が求められたからだ。
 またビスケー湾上空では、モロッコ方面に空から物資を送る輸送機、重爆撃機を狙うドイツ空軍機と、連合軍側の護衛戦闘機隊との戦闘が熾烈さを増していた。しかも連合軍は、英本土の制空権能力の一時的低下を忍んでも、強引にモロッコに戦闘機隊なども送り込んでいた。英本土に駐留している「P-51」「P-47」「P-38」などの航続距離の長い機体なら、十分にモロッコに飛んで行くことが出来るからだ。
 ダカール方面からの航空機の増援と爆撃、そして物資の空輸も後先考えないほど強化された。
 陸では、ヨーロッパ本土から続々とモロッコに送り込まれるドイツ軍の姿があった。社会資本に乏しい地域なので、前線で戦う部隊よりも輸送を担うトラックが多数を占めていたが、それもこの時期のドイツ軍には豊富にあった。ドイツを始めヨーロッパ各地で生産した備蓄が十分にあったし、大規模な陸戦から解放されていた日本からも大量に供与もしくは輸入されていたからだ。ドイツ軍がアメリカ軍との戦いの初期でも息切れしなかったのは、十分な車両と支援体制があったればこそと言えるだろう。
 モロッコの枢軸軍も、もとからの30万に加えて既に20万以上の強力な増援が送り込まれており、海上輸送力も一年以上地中海を自らの海としていた効果が十分に現れていた。増援部隊は、さらに20万以上の投入準備を行っていた。
 初動では失敗したが、ヒトラーとナチスが残した「ヨーロッパ要塞」は十分に機能していたのだ。

 作戦発動と共に、モロッコに上陸していたアメリカ軍を中心とする連合軍は、急ぎまだ確保されているカサブランカ港などのモロッコ沿岸を目指した。当然ドイツ軍などの追撃を受けたが、役割をよくわきまえていた殿(しんがり)がよく守った。またドイツ軍が敵の増援が上陸する可能性を危惧して、この時点では無茶な攻撃は行わなかったので、連合軍の移動は比較的順調に進んだ。この時ドイツ軍は、連合軍が増援を受け入れるための戦線整理ではないかと考えていた。フィジーの件もあったが、40万の兵力の緊急撤退など常識では考えられないからだ。
 そして作戦発動の二日目には、多数の連合軍艦船がモロッコ各地に接岸を開始する。そこには戦艦を始めとする全ての艦艇、高速船舶の姿があった。空母ですら護衛空母が何隻も接岸して、ほとんど丸腰となった将兵を飲み込んでいた。
 一方その頃、海の状況はまさに錯綜していた。
 ジブラルタルを抜けたイタリア艦隊、日本艦隊を始め、北大西洋上ではアメリカ大西洋艦隊、イギリス本国艦隊、ドイツ大海艦隊、フランス艦隊、さらに連合軍側では自由フランス艦隊、自由オランダ艦隊までもが活動していた。各艦隊規模としての国籍の多彩さは、大戦始まって以来だった。
 連合軍は、ジブラルタルの手前で枢軸艦隊、特に日本艦隊を何とか足止めしようと大量の潜水艦を投入したが、狭い海域に集中した事がかえって徒となった。日本海軍・護衛艦隊の誇る磁気探知装置が、狭い海域に密集していた連合軍潜水艦を芋蔓式に発見し、海峡突破前に出動した地中海西部にまで進出した対潜哨戒機部隊、艦載機の爆撃、先発して展開していた駆逐艦に追い回され、多くの犠牲を出す結果しか残せなかった。一定以上の深度で無音潜行していても見つかってしまうと言う事態は、当時の連合軍の常識からは大きく逸脱していた。
 モロッコの連合軍機は、多くの増援を受け取ってもなお押し寄せる枢軸軍機を前に限られた沿岸部の防衛で手一杯で、ジブラルタル海峡方面にはほとんど手出しが出来なかった。そうなるように枢軸側が努力していた結果でもあるが、おかげで大西洋上には枢軸軍の艦艇が溢れ出ることになる。
 そしてジブラルタルからカサブランカの沖合までは、僅かに200キロほどの距離。航空機にとっては、ほとんどひとっ飛びだった。本来ならジブラルタルを越える前から日本軍の大機動部隊の攻撃を受けてもおかしくなかったのだが、日本艦隊の目的はアメリカ海軍の高速機動部隊にあった。先日逃した彼らを完膚無きまでに叩き潰し、日本への攻勢能力を少しでも減殺するのが日本人達の本当の目的だった。日本艦隊にとっては、カサブランカのアメリカ軍は敵艦隊を潰した後の獲物でしかなかった。また枢軸軍内で、地上はドイツ、イタリア軍の担当という分け方が行われていたので、そうした枢軸内での事情も連合軍を助けていた。
 しかし、狙われるアメリカ海軍の高速機動部隊にとっては、日本海軍の機動部隊は極めて大きな脅威だった。
 連合艦隊の約六割の戦力が集まった艦隊(=特設遣欧艦隊)で、高速空母15隻を中核とする3個機動群と1個遊撃艦隊、さらに何とか再編成した第二艦隊を合わせて5個艦隊、1200機もの艦載機を有する大艦隊だった。そして連合艦隊全体の六割でも、世界最強の艦隊だった。しかも増援として合流していたのは、「陣風」、「流星」、「彩雲」など新鋭機を満載した大型装甲空母4隻を中心とする最も強力な機動部隊のため、連合軍が予測した以上の戦力を有していた。世界最強の戦艦群からなる第一艦隊はマダガスカル方面に進出していたが、これは単に日本の超戦艦達がスエズ運河を越えるには巨体過ぎたからに他ならない。
 当時のスエズ運河の水路幅は44mあるが水深が10mのため、ほとんど空荷にした上で曳船にでも引っ張って貰わないと日本の超戦艦は運河を通行できないのだ。
 スエズ運河のことはともかく、ヨーロッパにまで進出してきた日本艦隊の存在は、連合軍最大の脅威だった。
 このためアメリカ大西洋艦隊は、自らが囮となって日本艦隊を引き寄せ続ける役割を担わされていた。そしてイギリス本国艦隊が、ドイツ、イタリア双方の主力艦隊を牽制し、その間に脱出艦隊が全ての将兵をすくい上げることが予定されていた。

 そうして作戦の序盤は、連合軍の意図通りに進んだ。日本艦隊は、獲物を見付けた空腹の野獣のようにアメリカ大西洋艦隊に食らいついた。ここで予想外だったのは、洋上に出てきたドイツ艦隊主力までがアメリカ艦隊に食いついた事だった。
 当時のドイツ海軍は、戦艦《ビスマルク》《テルピッツ》を中心として、他に主砲換装を中心とした近代改装を終えたばかりの巡洋戦艦2、装甲艦2、重巡洋艦2、空母3(うち2隻は日本製)、軽空母1から編成されていた。ロシアとの戦争が終わって以後多数の艦艇が新たに建造中だったが、大型艦が姿を現すのは数年後の話しなので、しばらくはこれで全部だった。かつてとの違いは、《シャルンホルスト級》巡洋戦艦の主砲が15インチ砲になった事ぐらいだ。
 そしてこの過半がノルウェーに集結して、この一年ほどはイギリス海軍の本国艦隊と睨み合っていた。一部はジブラルタルに進出していたが、基本的に通商破壊用の小規模な艦隊だったので、一連の戦闘ではジブラルタルの守備をしている。
 この戦いでドイツ海軍は、自らの艦艇を空母部隊と打撃艦隊の二つに分け、イギリス海軍がモロッコ近辺に移動したのに対して、そのまま洋上に出て日本艦隊と共にアメリカ大西洋艦隊を挟撃した。ドイツ艦隊の艦載機数は約200機。既にドイツ空軍の奇妙な組織編成も国家元帥の消滅と共に解体されていたため、ドイツ海軍航空隊としての初の作戦でもあった。
 一般的に「北大西洋海戦」と呼称される空母同士の戦いでは、アメリカ側が大型空母3、軽空母7隻に対して、日本側は中型以上の空母だけで15隻もあった。軽空母や航空戦艦を合わせると20隻もの空母機動部隊となる。駆逐艦以上の艦隊総数も100隻を越えていた。これにドイツ海軍の4隻の空母が加わり、母艦数において二倍以上となる。艦載機数の方も、アメリカ海軍が約550機、枢軸側は合わせて1400機以上と2倍以上の数字を示していた。日本側は先の戦闘での消耗も、増援と共に補充を受け取って定数を回復していた。対するアメリカ海軍は、艦載機搭乗員の消耗と確保のバランスが一時的に崩れていたため、十分な機体数を確保できていなかった。補充する機体の問題ではなく、急速な消耗で空母への発着艦ができえ戦闘任務に耐えられる熟練パイロットの数が一時的に減りすぎていたためだ。
 そして当然と言うべきか、数に勝る枢軸側の一方的な航空戦が展開される。しかもこの時のアメリカ艦隊は、モロッコを巡る一連の戦闘の影響もあって艦載機戦力が歪になっていた。意図したものではなかったが、戦闘機の比率が高まって攻撃機の数が減っていたのだ。だがこれは防戦には都合が良いので、アメリカ側は都合300機を越える「F4U コルセア」を中心とする戦闘機を用いて徹底した防空戦を実施して、枢軸側というより日本艦隊の猛攻に耐える戦闘に終始した。しかもその間攻撃隊も送り出し、多少なりとも一矢報いることに成功している。加えてアメリカ海軍は、「VT信管も可能な限り投入した。このため日本軍艦載機は、思わぬ苦戦を強いられる事になる。
 しかし多勢に無勢で、都合6次に渡る大規模な日本軍艦載機の猛攻を受けて、アメリカ軍の稼働母艦数が僅か2隻にまで激減し、その日のうちに戦力を消耗して後退を余儀なくされた。この日の日本艦隊の損害は、空母2隻、他3隻が損傷したに過ぎない。これでもアメリカ軍の艦載機隊は、戦力差を考えれば十分に健闘したと言えるだろう。
 しかし、敵側の母艦がまだ健在な点を枢軸側が考慮したため、翌日も日独艦隊による追撃戦が行われた。このため北大西洋上の中間辺りで前日に起きた戦闘を生き残っていた母艦も、全て沈むか損傷を受けている。最後には、ドイツ軍の水上艦艇と損傷後退中のアメリカ軍艦隊による砲撃戦にまで発展した。日独艦隊は、それほど米機動部隊に食らい付いていた。
 出撃したアメリカ大西洋艦隊は、最終的に大型空母3隻を含む6隻の高速空母を失い、他も軽空母1隻を除いて戦闘力を完全に喪失したため、文字通り全滅していた。砲撃戦まで発生したため、空母以外の損害も大きかった。
 そしてこの全滅は、現時点でのアメリカ海軍高速艦艇そのものの全滅に等しい損害だった。いかに2ヶ月に1隻のペースで大型空母が新造されるからと言って、短期間で補える損害ではなかった。
 そしてここまでの損害を想定していなかったアメリカ、そして連合軍は、実施質的に北大西洋の制海権を失ってしまう事になる。これは当面の戦争運営上で、致命的ともいえる一撃だった。過剰という表現を通り越えた日本艦隊の攻撃性を、連合軍は読み違えていたのだった。

 だがこの一連の戦闘で、アメリカ高速機動部隊は作戦の使命を全うしていた。脱出船団が逃げ出して安全圏に逃げる間、最も恐れていた日本軍空母部隊の空襲を受けなくなったからだ。
 そして水上打撃艦隊だが、こちらはドイツ海軍から解放された形のイギリス本国艦隊主力と、接近する船団への攻撃任務を与えられていたイタリア艦隊主力が相対する。イギリス側は新鋭戦艦4隻、巡洋戦艦2隻、イタリアは戦艦5隻。イギリスの巡洋戦艦のうち一隻は古参の《タイガー》だったが、近代改装により面目を一新していた事もあり、イタリア艦隊の旧式戦艦よりも有力な存在となっていた。こうした差もあってイタリア艦隊がやや不利で、イタリア海軍が必要以上に積極性を見せなかった事もあり、両者共に牽制に終始した。
 連合軍側には、さらに自由フランス、自由オランダ、アメリカ、イギリスの旧式戦艦群の各艦隊もいたが、どちらも基本的に脱出する兵員を満載していたため、どうしようもない場合以外は戦域からの離脱を優先していた。
 この時イタリア艦隊としては、日独艦隊の増援到着を待ってから攻勢に転じる積もりで、これが連合軍の増援作戦なら妥当なものだっただろう。他の枢軸諸国も同じように考え、これから増援が送り込まれたモロッコの連合軍をどう料理しようかと考えていた。日本海軍が、先の海戦に勝利するも大損害を受けていた第二艦隊を再編成したのも、「今後の戦い」に備えての事だった。
 枢軸側は、連合軍というよりアメリカ軍が、大規模な増援部隊と補給物資をを送り込むものだと頭から決めつけていたのだ。
 だが連合軍は、作戦名通り逃げの一手であり、兵士だけを収容する撤退作戦のため浪費した時間も極めて短かった。
 作戦完了間際に、モロッコ各地のアメリカ軍陣地で大きな火柱が何本も噴き上がったが、それは弾薬や物資を破壊するための火柱でしかなかった。
 そしてこの火柱で枢軸側も連合軍の意図に完全に気付いたが、イタリア艦隊を含めて既に遅かった。地上のドイツ軍も慌てて攻勢に転じたが、ねばり強く戦う連合軍の殿のために目的を達せず、空襲も効果的ではなかった。将兵を鈴なりに乗せた連合軍のあらゆる艦艇は、既に安全圏へと逃れていた。枢軸側の潜水艦群が慌てて追撃を実施するも、連合軍側の採算度外視の対潜水艦戦のため、枢軸側に犠牲ばかりの多い戦闘となった。
 そして現地の簡易基地を根城としていた連合軍の航空隊は、最後の離陸をして戦い終わると、そのままダカールや英本土目指して待避し、最後まで戦った殿(しんがり)約1万の兵力が降伏してモロッコでの戦いは幕となった。

 連合軍の撤退作戦はほぼ完全な成功で、一ヶ月半ほど前にモロッコに上陸した50万名以上の将兵のうち、約38万名が救出されることになる。上陸したうち約9万が戦死して、攻勢開始から脱出作戦までに約2万が捕虜となっていたので、殿を受け持った部隊以外のほぼ全てが脱出に成功した事になる。
 時に10月25日。アメリカ大統領選挙まで、もう2週間も無かった。

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※付録:「1944年10月20日現在・聯合艦隊・遣欧艦隊主要艦艇表」

・連合艦隊
・遣欧艦隊

 ・第一機動部隊(艦載機:約450機)
CVB:《大鳳》《海鳳》《瑞鳳》《祥鳳》
CV:《海龍》
SC:《蓬莱》《富士》

 ・第二機動部隊(艦載機:約380機)
CV:《翔鶴》《瑞鶴》《神鶴》《千鶴》
CV:《蟠龍》

 ・第三機動部隊(艦載機:約310機)
CV:《赤城》《蒼龍》《飛龍》《雲龍》
CV:《大龍》
BB:《周防》《相模》

 ・第二艦隊
BB:
《肥前》(中破)《岩見》
BB:
《伊豆》(大破)《能登》(中破)
BB:《長門》
《陸奥》(大破)
SC:《剣》《黒姫》

 ・第三遊撃艦隊(艦載機:約120機)
BBC:《比叡》《霧島》《樺太》
CVL:《高千穂》《浪速》

・在インド洋

 ・第五機動部隊(艦載機:約430機)(在インド洋)
CVB:《龍鳳》《天城》《葛城》
CV:《紅龍》《水龍》
BB:《金剛》《榛名》

 ・第一艦隊(在インド洋)
BB:《紀伊》《尾張》《駿河》《常陸》
BB:《大和》《武蔵》《信濃》《甲斐》

 ・南遣艦隊:
 ・第二遊撃艦隊(艦載機:約80機)(在インド洋)
CVL:《千歳》《千代田》《日進》

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・その他の艦隊(潜水艦隊、海上護衛艦隊除く)

 ・第五艦隊:(在日本本土・北太平洋)
BB:《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》

 ・第四機動部隊(艦載機:約300機)(在日本本土)
CV:《昇龍》《天龍》《瑞龍》
CV:《黒龍》《白龍》

 ・第一遊撃艦隊(艦載機:約80機)(在南太平洋)
CVL:《龍驤》《瑞祥》《飛祥》

 

●フェイズ53「停戦」