■フェイズ55「総決算」

 戦争による世界規模での数字面での変化と、日本を中心とした総力戦の双方についてここでは記していきたい。

 第二次世界大戦の定義は、一般的にはドイツがポーランドに侵攻してから停戦までの、1939年9月1日から1945年1月15日までの5年4ヶ月半とされている。しかし日本を悪いと考える国などでは、支那事変から世界大戦が起きていたと記載する事もある。この場合、戦争開始日が約1年遡って1938年8月7日となる。しかし停戦会議で中華民国は交戦国と認定されていないので、ドイツのポーランド侵攻からとするのが正しい。戦争の終了も、停戦条約成立の1945年4月8日とする事も多い。
 戦争を最初から最後まで戦ったのはドイツとイギリスだけで、他の国は何らかの形で途中から参戦している。参戦が最も遅かった主要参戦国はアメリカで、アメリカは1942年7月22日に参戦しているので、戦争期間は2年半弱となる。こうして時間面から見ると、アメリカの工業力が発揮されないまま戦争が終わったことが見えてくる。

 一方、戦費という面で見ると、最も多く使ったのは強大な国力を誇るアメリカだった。
 アメリカは自らの戦費で毎年平均900億ドルを使い、レンドリースと呼ばれる同盟国への支援で総額約400億ドル支出した。レンドリースの殆どがイギリスとイギリス連邦に注がれている。そしてレンドリースを含めた総額約2400億ドルが、アメリカの戦費となる。これは1944年のアメリカのGDPが約1700億ドルだったので、対GDP比140%程度となる。主要参戦国の中では、最も小さな比率だ。アメリカがあと3年は特に問題もなく戦争を継続できたと言われるのは、こうした実際の数字の為だ。
 次に戦費を使ったのはドイツで、約2000億ドルとなる。ドイツの場合は、むしろこの程度で済んだと言うべき金額だった。これはソ連との戦いが比較的短期間で終えられ、戦争後半は地上戦をほとんど行わなかったおかげだった。もし戦争全般で大規模な地上戦が続いていたら、戦費はもう500億ドルは上乗せされていたと考えられている。
 そしてアメリカ、ドイツの次に戦費を使ったのが日本だった。
 長期間を戦ったイギリスは日本より若干少ないが、戦争中にイギリスの国力が衰退したという皮肉な結果のためだった。
 日本は、総額で1050億ドル(約4000億円)使った。戦争期間一ヶ月以下の1940年、1945年を別にすると毎年250億ドル近い戦費を注ぎ込んでいる事になる。アメリカの三割程度の数字である。1944年度のGDPが約550億ドルなので、対GDP比190%に達する。GDP比で二倍弱の額は戦費としてはかなり高額で、通常は戦費の返済に今後十年以上は苦しむとされる。だが日本の場合は、まだ通常の経済が大きく上向いている状態のため、苦しむ期間はヨーロッパ列強よりずっと短いと考えられていた。
 なお、ドイツの対GDP比はもっと酷く、イギリス、イタリアもドイツと似たようなものだった。どの国も概ね300%以上に達している。ソ連(ロシア)については正確な資料が残されていないが、戦争期間は短いものの毎年300億ドル程度使ったと推定されている。
 しかもイギリスなどは、アジア植民地をほぼ全て全てを手放すので、その窮状は数字以上となる。ナチス時代から国家財政が事実上の火の車だったドイツも、窮状という点ではイギリスと似たようなものだった。しかもイギリスとドイツは、最初から最後まで総力戦を戦い抜いているので尚更だ。
 また、共産主義を自ら棄てたロシアは、単純な戦費以外に国土の多くが地上戦で荒れ果てた事による損失が大きかった。ドイツとの戦争では一方的に押しまくられただけだったが、ボルガ川まで攻め込まれては損失が多いのも当然だった。しかもロシアは、ドイツとの二度目の取り決めにより領土の多くを相手国側からの返還という形で取り戻すも、それでも多くの領土を割譲や独立という形で失っていた。まずは旧ソ連が行った侵略に関する土地を全て手放すことになった。この中には、ポーランドを攻めたときに奪った土地も含まれている。その上で、連邦を構成していた自らを除く14の共和国全ての独立も認めなくてはならなかった。また日本やドイツには、一部の領土を正式に割譲してもいる。さらにドイツには、停戦条約までに成立した約束に基づいて、多くの国内利権を奪われたままだった。しかしヨーロッパからの技術や援助は交換条件のような形でもたらされる事になっていたので、ロシアとしては敗北と合わせて受け入れざるを得ない状況だった。
 このためロシアの国土は、旧帝国時代の75%程度と酷く小さくなっていた。戦争で最も変化を強要された国も、ロシアだったと言えるだろう。

 損害という点では、世界各地で行われた地上戦により多くの犠牲が出ていた。最も人的被害が大きかったのは、これもロシアだった。ソ連指導部が各地で死守を命令し、共産党直属の政治将校や督戦隊を使い味方を後ろから撃って戦わせた事と、基本的にドイツとロシアの戦いがイデオロギーによるもので、尚かつ独裁者同士の戦いだったためだ。ソ連として受けた人的損害、死者の数は、民間を合わせると1500万人に達すると言われる。軍人が1300万人、民間が200万人の比率だ。そしてこの数字は、ソ連時代の総人口の約10%にも相当する。しかも死者は青年男子に集中しており、特に戦争中に二十歳前後だった若者の死亡率は、異常なほど高い数字を示している。このため以後ロシアは、男女比率や人口増加問題で酷く悩まされることになる。しかもロシアは、15の共和国に分離独立したため、総人口は開戦前の半分近くに落ちていた。このためロシアの復興は、他国よりも遅れるだろうと見られていた。
 ロシアの次に人的損害が多かったのは、ドイツだった。ソ連との血みどろの地上戦のため、100万人以上の軍人が戦死していた。また連合軍による極めて大規模な無差別爆撃が続いたため、10万人以上一般市民が犠牲になっていた。数こそ少ないが、イギリスの受けた損害もドイツと似ていた。イギリスの場合は、フランス、北アフリカ、中東、東南アジア、オセアニア、そしてインドで多数の戦死者を出していた。戦略爆撃で失ったパイロット数もかなりの数字を示している。爆撃による一般市民の死者も、ドイツ軍の爆撃だけで7万人と少なくない。しかし最も大きい損失は、海上での損失だった。
 停戦時のイギリスの船舶総量は約900万トン。開戦頃の40%前半しか残っていなかった。しかも戦争中での自国での建造とアメリカの供与合わせて500万トンが保有量と損害双方に加わるで、イギリスが枢軸側に沈められた商船の総量は、約1700万トンにも達する。1隻当たり5000トン平均として3400隻の喪失だ。1隻当たり10人の死者が出たとしても、3万4000名の戦死となってしまう。実際は1隻当たりの平均戦死者は30名程度になるので、約10万近くの人が沈む船と運命を共にした計算になる。北太平洋は海水温が低いため、長時間浮いていると凍死してしまうためだ。
 しかも海軍も海上護衛部隊以外の多くが壊滅的打撃を受けていたので、その分海での戦死者は積み上げられる。残った船のほとんども簡易建造された戦時標準船で、疎開していた一部の船以外に戦争前の船を探す方が難しい状態だった。
 そして、海で甚大な損害を受けたもう一つの国がアメリカだった。アメリカは開戦時1100万トンの船を持ち、戦争中の二年半で驚くべき事に3400万トンもの商船を浮かべた。これに対して終戦時の船舶量は、約2100万トン。開戦時の約二倍と大きく増えているが、差し引きの損失量は2400万トンと世界最大の損失量になってしまう。1隻平均が7000トン(戦時標準船の大きさ)としても、3400隻の喪失となる。船舶沈没による戦死者の数も10万人を越えていた。しかもアメリカは、日本との海上戦闘で負け続けたため、艦艇の損失も非常に大きかった。かつての海上戦力の主力とされた戦艦だけでも、ほぼ全ての24隻も失っている。主に日本に対する通商破壊戦も最後まで振るわず、潜水艦は海軍内でも戦死率が高かった。潜水艦の多くは、日本軍が濃密に仕掛けた機雷に仕留められていた。
 アメリカの戦死者は約41万人だが、約半数が海での戦死者だった。海上なので遺体や遺品の回収もほとんどできず、そうした面がアメリカ国民の士気を押し下げたほどだった。さらに戦略爆撃の戦死者も5万人に上り、陸での戦死者も敵地からの撤退のため遺体の回収はほとんど出来ず、同様の影響をアメリカ国民に与えた。この影響の大きさは、戦後日本やドイツが捕虜をアメリカが予想したより随分多く抱えていた事がアメリカ国内で美談のように語られた事でも分かるだろう。
 主要参戦国の中で戦死者が少ないのは、早期に降伏したフランスと大規模な戦場であまり戦わなかったイタリアだった(※ただしイタリアは、東部戦線にかなりの兵力を派兵して相応の犠牲を出している。)。

 そして日本の戦死者だが、約12万人と主要参戦国で最も少なかった。中華民国との戦いの犠牲を上乗せしても、14万人に達しない。本国が戦場から遠く離れていた為、民間人の死者数も極めて少ない。
 主な戦死者は、ソ連に対する攻勢作戦とインド方面での一連の地上戦で発生したものだった。海では基本的に圧倒的優勢のまま戦闘を続けられたし、日本が受けた船舶損害も他国に比べると非常に少なかったからだ。また日本が、ヨーロッパのような大規模で長期にわたる航空撃滅戦や戦略爆撃を行わなかった事も、戦死者の低下につながっている。
 日本が順調な戦争運営を続けられたのも、船舶量が常に増え続けた事が影響していた。停戦時の日本の船舶保有量は、参戦前の二倍半にあたる約3100万トンに達していた。これに対して、連合軍が日本に与えた船舶の損害は合計で約300万トンと、英米が受けた損害の一割にも達していなかった。主な原因は、イギリスが日本の海上交通を攻撃する余力が無かった事、アメリカが潜水艦魚雷の欠陥を主な原因として初期の攻撃が稚拙だった事、そして日本の海上護衛組織が優秀だった事が挙げられる。また、海上での戦いを常に圧倒的優位で行えた事も、損害を低くした大きな要因と言えるだろう。アメリカが軽空母や護衛空母が大半とはいえ、40隻以上の空母を沈められたのに対して、日本の空母損失数はアメリカの約一割に過ぎない。アメリカ海軍の護衛空母損失が多いのは、彼らの攻勢作戦でまとめて運用しているところを集中して狙われたからだが、それでも日米の差はそのまま戦死者数に直結していた。
 これらの事は、一定の準備を整えた上で優勢を確保しつつ戦った日本と、準備不足のまま戦争を始めたアメリカの違いを見せる典型的な例だと言えるだろう。

 なお、戦死ではないが、忘れてはいけない死者の統計がある。
 それは主にドイツのナチス政権が行った蛮行、強制収容所における死者だ。ナチス政権が中欧各地に建設した強制収容所に収監した人々は、主にユダヤ人、ポーランド人、ロマ(ジプシー)、そして共産主義者になる(※他に同性愛者も含まれる)。
 この歴史的悪行は、ヒトラー暗殺とナチスの消滅と共にドイツ臨時政府によって急ぎ中止されたのだが、それでも長い戦乱の間に行われた悪行によって、それぞれ万の単位で死者を出している。クーデターでの混乱もあるため、正確な数字はいまだ分かっていないほどの規模だ。ドイツが劣勢にならなかったため、食糧配給や疫病などを原因とする死者の数は比較的軽く済んだと研究される向きもあるが、そう言った統計や客観的研究で済む問題でもない。罪のない人々を人種偏見を主な理由として強制収容する事自体が、大きな問題であり罪だからだ。
 また人種差別と強制収容所問題は、ナチスばかりでなくヨーロッパ全般の人種差別、人種偏見も含むため問題も複雑となる。しかもアメリカではユダヤ人移民が多いため、戦後ドイツとアメリカの関係が悪化したまま推移する大きな要因となった。
 もっともアメリカでは、有色人種に対する根強い差別問題があり、さらに自らの参戦後に日系移民に対する強制収容が政府によって強力に推進されているので、人種差別、人種偏見の問題は根深くまた一面からだけでは見ることも難しい。
 なお、アメリカによる日系人の強制収容問題は、アメリカと日本の間に大きな問題も呼び込んでいる。また多くの有色人種国家からも、アメリカは酷く非難されてもいる。アメリカ国内の一部からすら非難されている。アメリカにナチスドイツの罪を問う資格がないと言われるのも、国内での白人とそれ以外の人種の差別問題以外にも、日系人収容問題があるためだ。
 この強制収容所に関しては、戦後も犯罪としての調査と賠償又は補償の問題として横たわり、ナチス時代の精算を行う事を大方針としていた新生ドイツは、相応に賠償と責任を果たさねばならなかった。
 これはドイツが、戦後もヨーロッパ社会の中心を占めるための重要な政策のため、かなり真剣に行われている。国家財政から見れば、大量の軍を抱え続けて他国を押さえ付ける事は不可能だから、政治による安定化と解決を計ろうとしたのはある種当然の選択だった。
 軍の8割以上を動員解除し、政治によってヨーロッパを運営しなければ、戦後ドイツがせっかく得たヨーロッパでの長期的覇権を維持する事が極めて難しかったのだ。

 そうして甚大な被害をもたらした戦争は、戦後の主要な国の勢力図を大きく塗り替えることになった。
 単純な経済力で言うと、アメリカと日本が目立つ事になる。
 1944年の世界のGDP総計が戦後の調査で約4800億ドル程度だったのに対して、アメリカは1700億ドル、日本は550億ドルだった。日本の後ろをイギリス、ドイツ、フランスなどヨーロッパの国々が追いかけ、さらにイタリア程度の数字として日本の隣にある満州帝国が加わる。当時の世界のGDPの過半も、ヨーロッパと北米大陸、それに北東アジアの一部、オセアニアで世界の90%を占めていた。戦後列強を先進国と呼称するようになり、軍事から経済に国力の比重が大きくなった事を現すが、実質は何も変化していなかった。
 ロシアを含むヨーロッパ全体が約31%、英連邦を含むイギリスが11%、これに34%のアメリカ、満州を含んだ日本の14%という配分になる。世界人口比率で見ると、中華とインド地域だけで40%を占めるのに対して、アメリカは僅か7%の人口で世界の富の3分の1以上を占めていた事になる。世界の富が如何に偏った時代であり、工業化、帝国主義化などと言った事象が大きな差をもたらす事を数字が伝えている。
 また単純にGDPを比較すると、アメリカ参戦後の連合と枢軸の戦争が膠着状態だったのは、実に正しい状態だった事が分かる。ドイツが全ヨーロッパの経済を十分に使えると仮定すると、両者のGDPは拮抗してしまうのだ。戦争に勝者がなかったのも、ある意味当然だった。しかしここで示した数字は、あくまで1944年の事でしかない。
 この後も戦争が続いたと仮定するならば、この年の成長率、また戦争が続いた場合の翌年の成長率、そして工業生産そのものの比較、一人当たりGDPなども考慮しなければいけない。もし戦争が続いていれば、アメリカのGDPは1947年に2100億ドルに達していたという予測数字もある。これに対してヨーロッパは、既に限界状態だった。名目GDPは若干増えただろうが、実質は良くて停滞、悪い場合は低下する。アメリカ以外の例外は、日本だけだった。
 日本の場合は、1943年に入って以後の二年間は、海でのアメリカとの戦いとヨーロッパへの海軍の大量派兵以外で、ほとんど総力戦らしい戦争をしていない。何しろインドでの戦い、ロシア人との戦いも終わっていたからだ。敵は海の向こうかヨーロッパにしかいなかった。
 また日本は、本国が戦火から守られている事を利用して、戦争全般に渡って最低限の国力を通常の経済活動に投じていた。そして1943年に入ると、一時的に過剰となった陸軍の一部を動員解除してまでして生産力の向上に振り向け、そうして生産された多くの兵器や各種物資をヨーロッパの枢軸各国に供給している。一度は占領下においたアジア、オセアニア各国との貿易も、自らの船を送り込む事で行った。状況としてはアメリカの写し鏡のような事をしていたし、日本が無資源国だと言うことを考慮すれば海外との経済活動はアメリカ以上に活発だった。
 アメリカが日本の海上交通線を破壊しようとしたのは当然過ぎるほど当然の選択であり、日本海軍(というより海援隊の後身である海上護衛艦隊)が航路防衛に心血を注いだのもまた当然だったのだ。そして日本は時間制限付きながら、全てを守ることに成功していた。
 上記のような条件が重なって、日本の戦争経済はまだ余力を残し、1945年も良性のGDP向上が予測されていた。戦争が続いた場合、1946年以後は悪化するという予測があったが、日本にとって幸いな事に予測は予測で済んでいた。

 そして戦後の世界経済全体から見ても、日本にとって有利な条件が並んでいた。
 まずは日本は、ヨーロッパの全ての国を抜き去って、世界第二位の経済大国に浮上していた。イギリス本国やドイツのGDPは、ドル計算で350億ドル程度。巨大な戦争経済のおかげで両国の経済規模も肥大化していたが、日本はもっと巨体となり両国をそれぞれ五割以上も上回る550億ドルに達していた。一人当たりGDPでは、アメリカの半分程度でイギリスにも少し劣っていたが、それ以外の主要大国はほぼ抜き去っていた。
 それ以外にも、日本にとって有利な条件が、戦争の結果並んでいた。
 何よりも、アジア地域の欧米植民地がほとんど独立して、日本の圧倒的優位下での自由貿易体制も作られたので、今までのようにそれぞれの植民地を持つ宗主国が定めた法外な関税を気にする事無く資源を手に入れ、商品を輸出できるようになっていた。しかも旧英国支配領域は、イギリスとの関係は一定程度続ける用意を持つも、旧宗主国を警戒して日本との関係強化を望んでいた。白人国家のオセアニア地域も、イギリスが大きく衰退したこともあって、自分たちに最も近い貿易相手である日本を重視せざるを得なくなっていた。
 それ以前の問題として、アジアを開放し独立させたのは日本だった。アジア諸国は、日本との関係を重視せざるを得なかった。
 その上、日本とドイツ、イタリアなどヨーロッパのほぼ全てとなる枢軸諸国との関係も深まり、ソ連共産党体制が倒れたのでロシアとの関係改善も進んだ。隣国の一つ中華民国は指導者の汪兆銘が死んで政治的混乱期に再び入ろうとしていたが、これはこれで武器市場として有望と考えられた。中華民国からすれば、最も近在の日本から持ってくるのが一番安上がりな上に調達しやすいからだ。
 そして海外貿易と海上交通という点で、日本は一つの頂点を極めていた。それは、外航洋船舶の保有量についてだ。
 戦争前世界最大だったイギリスは900万トン、ダントツの建造量を示したアメリカは損害が祟って2100万トン、これに対して日本は両国を合わせたのとほぼ同じ3100万トンの船舶を有していた。
 これら三国の船の過半は、戦時建造の味気ない簡易構造船(アメリカの「リバティー級」、イギリスの「プレジデント級」など)ばかりなのだが、日本の場合は残存した内容の三分の一近くが、戦前から保有されている船舶で占められていた。しかも1930年代に建造された優秀船舶が多く、対して英米は大型豪華客船など一部が残存している他は、大型貨物船、貨客船の殆どが戦時標準船で占められていた。また客船という点では日本もほとんどが残余しているので、象徴的な巨船以外での不利もない。戦前、日本で運行されていた客船のほとんどが、戦時は兵員輸送船か病院船として使われ、戦後すぐにも武装を下ろして塗装と内装を整え本来の役割に復帰していた。戦前海軍で構想されていたように、1930年代の計画にあったように空母に改装されていたらこうはいかなかっただろう。また、戦時標準船の大量建造によって、大型貨物船、大型タンカーの保有量でも日本が完全に優位に立っていた。今や、西太平洋から地中海にかけてが日本商船の主な活動範囲だった。
 そしてさらに日本にとって優位なのは、戦争中に日本が太平洋の西半分とインド洋、さらには地中海にまで航路を張り巡らせていた点だった。インド洋から東は、ほとんど日本の独断場だ。しかも航路を結んだ国の多くは、戦後も英米の船が来るよりは日本の船が来ることを望んだ。英米の商船が再び来るということは、英米の戦闘艦と軍隊が来る可能性が高まるからだ。また、ペルシャ湾地域や東アフリカ沿岸以外では、ヨーロッパ諸国の商船が頻繁に来る可能性も低い。運搬コストの面でも、依然として日本船が優位にあった。
 そして船舶量と経済、政治情勢の結果、世界の主要航路の半分近くは日本商船団、通称「日の丸商船隊」の支配下となっていた。例外は大西洋全般の航路と戦後アメリカとの間に復帰する太平洋東部の航路だが、そちらは日本にとって特に重要な航路ではなかった。
 この事は日本が大規模な地域覇権国家の証でもあるが、現状の日本にとってはそれで十分だった。半ば結果論だが、日本にとって戦争はプラスの面が多かったからだ。

 しかし今回の大規模戦争は、利益より不利益が多いと考える国や人々の方が圧倒的多数派だった。
 こうした日本と他の国々の状況の差があるため、戦闘での勝敗は決しなかったが、経済での勝敗は日本の判定勝利と言われる事が多々見られる。

●フェイズ56「戦後すぐのアメリカ」