■フェイズ58「戦後すぐの日本(2)」

 停戦後初の内閣である坂本内閣の軍縮以外の重大事は、経済と外交だった。
 戦争終了に伴う戦時経済から通常経済への移行と、枢軸、連合双方が枢軸優位ながら引き分けとなった戦後世界の舵取りが主な仕事だった。
 また、戦争に貢献を果たした国民への報償も忘れてはいけなかった。

 まずは国民への報償だが、古来より戦争に従事することは「市民」の義務だった。近代国家の場合「市民(シヴィル)」は「国民(ネイション)」となるが、納税と兵役が義務であることに変わりない。ここに近代国家では教育の義務が加わるが、義務の代わりに権利を受け取ることができる。それが「市民」もしくは「国民」なのだ。
 しかし日本帝国が与える権利としては、すでに選挙権は十分に与えられている。故に、普通選挙制度と同時期に作ったものに手を入れることにした。
 悪名高かった「治安維持法」を、世界的にも共産主義が消え戦時も終わったという理由で一旦廃止して、新たに「破壊活動防止法」が制定される。合わせて警察組織も改編し、こちらも悪名を轟かせていた「特高(特別高等警察)」が改変され広域警察が改めて設立される事になった。「特高」の一部は、戦前に設立された「機動隊」にも合流している。
 治安維持法で逮捕された政治犯も、終戦記念の恩赦が行われると共に、一般量刑に照らし合わせて、釈放もしくは減刑が実施された。こちらについては、他の犯罪者ともども停戦による恩赦ともされた。
 しかし、一般庶民にはあまり関わり合いのない事ばかりなので、他にも色々とばらまいた。派手に散財した後なので金は出せないからだ。
 警察に関連して「刑法」と「民法」が大幅改訂され、時代の進歩と人口増加に合ったものとされた。また1930年代から言われていた「道路交通法」が改めて整備された。この副産物で死刑や懲役などの量刑が重くされたが、国民からの批判は無かった。明治ほど大らかな時代では無くなっていたからだ。
 国民の義務である教育面では、1930年代に進んだ「軍国主義的」な要素は弱められ、教育勅語も時代に対応する訳語に変える事と連動して一部を改訂した。教育制度も「教育基本法」を新たに制定することで、大幅に改革することになる。一番の変化は、6年から9年への義務教育の延長だ。さらに義務教育の変更に連動して学制も一部変更し、諸外国との留学にも対応しやすくした。このため大学や高校が俄に増え、多くの学校が制度と共に看板をかけ直すことになる。
 これらをしても、まだ足りなかった。
 そこで戦後の経済政策と連動させる政策が次々に議案提出され、多くが短期間のうちに法案可決していった。
 とはいえ、戦時中の総力戦体制の中で、「統制」と言う形で労働者を保護する法律は多くが既に成立していた。戦争での国民の疲弊度合いを出来る限り低くするために必要だったのだが、戦後になるとこれが生活の保障政策となった。このため坂本政権は、労働者への権利と言う形で国民に報償を与えることにした。既に存在した「労働法」の改訂と拡充がそれに当たる。
 農民に対する補償と改革についても、戦時中に引き続いて進められた。経営意欲のある在地地主はともかく、自ら農場を耕さない都市在住の寄生地主には、意志と行動を確かめた上で「都市住民」として、莫大な固定資産税が課せられることになった。そうした土地で地主が耕せない分を政府が安価で買い上げ、いまだ数多く残っていた小作(貧農)に格安で分配した。経済成長と時代の変化により1930年代後半には小作農の比率は大幅に減っていたのだが、この政策によって小作農はほぼ一掃されることになる。
 しかし無闇に自作農を増やすのではなく、小作農に分配する前に代々の土地所有者による大規模農場経営が奨励されてもいる。これは既得権益にも一定の配慮をした結果だったし、農業規模が大きいに越したことはないからだ。また農業の企業化に対しても、法制度が整備された。このため地主のかなりの数が、自らの農地の企業化を進めていった。
 二次産業、三次産業についても、戦争中に独占、寡占が進んだ財閥については、かなり強引な行政指導を実施して、戦争前の状態程度には比率を下げさせ、新規参入や競争が行いやすいように法制度も整えられた。この時制定された新たな法が、「独占禁止法」になる。この制度に従い一部の財閥や大企業は、俄に分割や分社が行われる事になった。
 農業改革と「独占禁止法」には既得権益からの反対も非常に強く、坂本首相の暗殺未遂事件まで起きたが、国民からの圧倒的な支持によって強力に推進された。
 また国民全般に対しても、社会保障制度、保険制度など様々な法案が可決し、国民の生活と暮らしを重視する方向が強く打ち出された。すぐに動き出すものではなかったが、この程度の報償を与えなければならない程の戦争をしたのだ。
 加えて、様々な法案を通すついでのような形で、大日本帝国憲法の各所にも色々と書き加えたり、時代に則さないものを変えたり消したりした。地方自治、地方自治法も出来る限り手を入れた。省庁の統廃合と再編成も、大規模な人事異動と共に実施された。
 戦後すぐの今でなければ、次はいつできるか分からないからだ。

 そして国民への最大級の「報償」となる政策が三つ実行される。
 「大日本帝国憲法」の大幅改正、内閣総理大臣の公選制度導入、そして議員選挙の改訂だ。
 憲法を大改正する事でより近代的で民主的な憲法とし、改正の中で軍の「統帥権」など半ば形式上で天皇が負っていた多くの責任を首相へと移して立憲君主体制を強化。さらに、責任が重くなった首相の権限と権力を強め、なおかつ国民に新たな選挙権を与えるべく「首相公選制度」が導入されることになった。
 今まで議院内閣制度だった日本の政治では、国民から選ばれた者(=議員)が首相を選ぶ一種の間接民主制を取っていた。これを議院内閣制度と呼ぶ。しかしこれでは、民意が反映されないこともあった。それに現行制度では首相の権限が実質的に限定されてしまう事が多く、特に有事において顕著だった。このためイギリスでは、伝統的に非常時に首相の権限を強化している。
 議院内閣制には、主に政治家達の都合が悪くなったら簡単にすげ替えられるという利点もあるが、日本のような移り気な、ある意味そそっかしい国民性を持つ国の場合は弊害が多いのではないかと、大戦の少し前から考えられるようになっていた。総じて首相の在任期間が短いのも、外交面などで問題視されていた。
 そして三つの変化とも、大きな戦争が終わったばかりという状況でなければ出来ず、だからこそこの時断行されることになった。反対意見や慎重意見も少なくなかったが、1930年代の政治的迷走、今までの政治がもたらした弊害や失態を思えば、これぐらいの事をしなければならなかった。政党や政治家達も、国民の自分たちを見る目が格段に厳しくなった事を意識したため、この時の大幅な政治改革を受け入れざるを得なかった。
 これからの首相は、貴族院議員選挙のおりに直接選挙によって選ばれ最低3年任期とされた。4年もしくは5年という声もあったが、最大三期9年連続務められる制度を添えることで妥協された。
 なお大幅な憲法改正では所謂「有事法」、「非常事態法」も整備され、首相公選制度と相まって有事における首相の権限は非常に強くされる形が取られていた。これも、終わったばかりの大戦前からの混乱に懲りた結果、整備された制度だった。
 議員選挙の改訂は、衆議院は被選挙権が25才に下げられ、首相と共に選ばれるという改訂が実施された。ただし中間選挙が導入され、比例代表で選ばれる議員は選挙によって再度選出される事になる。一方、貴族院は名称自体が参議院とされた。さらに終身議員が廃止され、任期も7年から6年に減らされ、さらに3年ごとに半数の入れ替えが実施されることになる。貴族院議員の資格も、皇族や華族、勅撰、高額納税者ではなくなり、その代わり国の資格審査を通った者だけが権利を持ち、直接選挙で選ばれる事になる。ただし法律で政党に属することが禁じられた。

 そして様々な法改正が一段落する後半部分から、本格的に戦後の経済政策へと乗り出していく。
 坂本政権が経済政策の一つの柱としたのは、政治的に風通しを良くする事だった。政府の基幹組織として、商工省は通商産業省に改名され、規模が拡大されると共に権限も大幅に強化された。
 人材にも経済や産業に明るい者が可能な限り投じられ、省内では若手の抜擢も実行された。この中の有名人に、白州次郎がいる。
 なお、戦争によって日本は、経済的には爆発的な成長を遂げている。
 名目GDPで見ると、1937年度が710億円(約215億ドル・1ドル3.3円)、1940年度が980億円(約280億ドル・1ドル3.5円)、1941年度が1660億円(約415億ドル・1ドル4円)、1942年度が1990億円(約500億ドル・1ドル4円)、1943年度不明、1944年度が2340億円(約553億ドル・1ドル4.3円)となる。
 8年で3倍以上、依然として世界で最も信用の高いドル($)換算でも2倍半以上という、とんでもない成長だった。大戦参加で政府支出が爆発的に伸びて、各企業が24時間操業体制となった1941年度の経済成長率は、名目170%を記録している。
 そして実感としての経済状況も、品目によっては多少の物資不足があったが、1942年内までは日本中が戦争特需に沸き返っていた。戦争に伴い占領地も増えて資源輸入の滞りもなくなり、重工業生産は毎年、毎月、前年度記録を大幅に更新し続けていた。鉄が足りないと言うので、戦争中に新たな大規模製鉄所の建設すら始まった。
 しかし戦争で必要な製品や資源、中間資材と、戦後に必要となるものは別だ。また戦争が終われば政府支出は激減という以上に減るし、政府による統制もなくなる。
 何より兵器及び補給物資の生産という、とんでもない規模の需要が突然全て消えて無くなってしまう。
 このお陰で、戦後すぐのアメリカでは戦争中の好景気が吹き飛んで、かなりの不景気に陥っていた。

 その点日本は救われていた。
 実質的な戦勝と勢力圏の拡大によって、自由に使える資源、市場が格段に増えていた。また海運力が世界一となり、多くの航路も実質的に支配するようになっていた。イギリスなどの欧州各国は、取り返すだけの物理的能力すら無くしている。ペルシャ湾からハワイまでが、事実上日本のものだった。
 そして何より戦争前の1930年代の日本は、新興国、先進国としての発展途上にあった。このため国内に作るべき社会資本、その他建築物はまだ無数にあったし、国民の需要も爆発的に存在した。戦争中は社会資本の建設と一般消費が抑制されていた分だけ、戦後すぐは一般消費財の消費が爆発的な伸びを見せた。
 動員解除、国家予算の削減という間は、この戦後の大衆消費が景気を下支えし、政府は様々な政策を行った上で相応のゆとりを以て戦後の経済政策を行うことが出来た。
 政府の「銃からコンクリートへ」というスローガンによって戦後の日本経済は動きだし、1945年度の経済成長率は3%(70億円増)と、戦後すぐとしてはまずまずの成功を収めた。翌年以後は5%以上(130億円増)となり、戦争により中断した国内の社会資本の建設、民衆の大量消費という内需中心の経済が大幅に拡大していった。復員した兵士達の余剰労働力も、多くが建設業に吸収されていった。
 しかし産業面では、流石に各種重工業生産が落ち込みを見せた。特に船舶、航空各社は、予測していたため計画的に行ったとはいえ、大幅な規模縮小と業績の落ち込みを見せた。反対に、戦争中に大幅に押さえ込まれていた繊維、食品の生産と消費、供給と需要は爆発的に伸び、流通業も爆発的な拡大を見せた。娯楽と余暇を求める人々によって、娯楽・奉仕産業(サービス業)も大躍進した。戦争中に行われていたガソリン、砂糖などの各種配給制度も、1946年には完全解除されていた。
 また家電製品、小型動力車に代表される大衆消費も年々拡大し、電気洗濯機、電気炊飯器、そして白黒テレビの「三種の神器」を持つことが戦後五年ほどの日本の一般大衆のステータスとなった。
 戦前のラジオに続いてテレビ放映も民間に解放され、ラジオ会社、新聞社を母体にして民間会社が相次いで設立された。戦中の締め付けがあったため大衆は娯楽に飢えており、ラジオもしくは白黒テレビは爆発的な売り上げを記録し続けた。1946年はテレビ元年と言われたほどだ。さらに三種の神器も、テレビに加えて、冷蔵庫、自家用車へと変わった。
 そうした消費は、「暮らしの向上」という方向のまま居住空間にも向けられ、1920年代末に出現した「団地」が大都市周辺部の鉄道沿線で爆発的に増加。戦争により巨大な生産力となっていた安価な鉄とコンクリートによって、鉄筋コンクリート造りの中層以上の集合住宅がものすごい勢いで建設された。都市部でも、事業の拡大に伴って事務区画が必要となったため、高層の鉄筋コンクリート建造物が雨後の竹の子のように増えた。街の景観は、戦後の3年から5年の間で劇的に変化した。文字通り「銃からコンクリート」だった。
 社会資本の整備と建設では、1940年に開業した「弾丸特急」改め「新幹線」が、東京=大阪間だけでなく大阪=博多間での工事が開始された。1930年代半ばに始まった高速道路建設も、日本中に張り巡らせるべく次々と予算と計画が組まれていった。
 また、1943年から46年にかけて毎年数百人規模の死者を出した大規模な地震(※1943年9月10日・鳥取地震、1944年12月7日・昭和東南海地震、1945年1月13日・三河地震、1946年(昭和21年)12月21日・昭和南海地震)が日本列島各地を襲ったが、これに対しても政府は素早く大規模な震災復興計画を作って実行した。このため特に被害の大きかった中京・東海地方は、かつての帝都復興に匹敵する大規模な再開発事業が立ち上がり、日本列島の新たな産業拠点としての大改造が始まった。
 また、日本領となった台湾、南洋各地の開発も今まで以上に拡大され、多くの公共投資が実施されると共に、国家の一部としての作り替えが実施されていった。
 とにかく日本のどこもかしかも、建設重機がうごめいていた。戦時中戦車を作っていた工場では、排土車、ユンボ、起重機車などの建設重機が大量生産された。

 以上のような様々な経済効果のお陰で、1950年の日本のGDPは約3250億円(=約900億ドル・1ドル=3.6円)に達していた。同年のアメリカのGDPが約1900億ドルなので、3対1以上だった経済格差は47%、半分近くにまで縮まっていた事になる。しかも近隣の満州帝国は実質的な同盟国で、依然として日本の経済の従属下にあった。そして同国の経済力は、日本同様に大きな成長を続けていた事もあり、1950年の時点で日本の15%程度あった。これを足すと、アメリカの50%を越える事になる。
 日米の一人当たりGDPもアメリカの1200ドルに対して、日本は1000ドル近くに達していた。戦後不況に喘ぐヨーロッパ諸国の多くはその下だ。単純な年度当たりのGDPだけでは国家の経済力は計れないが、日本が成し遂げた経済成長は脅威に値するものだった。日本での「中流」と言われる庶民階層の比率も、7割以上になっている。
 しかも今後も、広大となった自らの商業影響圏との貿易、ドイツを始めとするヨーロッパとの相互貿易により、日本の経済成長は約束されていると言われていた。現に、大量の資源を消費する日本と取引のある国々も、好景気のただ中にあった。
 当然だが、日本も満州も、依然として高度経済成長下にあった。アメリカとの経済成長率の差は、毎年ダブルスコア、年によってはトリプルスコア状態だった。1953年には経済力差は60%、1956年には三分の二(=67%)に達すると予測されていた。日本は、名実共に堂々たる世界第二位の大国へと浮上したのだ。
 その上、人口増加率も日本、満州共に高く、戦争で荒廃したヨーロッパからの移民を受け入れ続けているアメリカ以上の増加率を示していた。ただし、日本、満州での人口増加は、近隣の中華民国、大韓帝国からの移民、流民が大量に存在したことを考慮しなければいけないだろう。

 ちなみに戦後の日本では、戦中の反動で起きた社会変化が一つある。
 大量出産だ。
 戦争中は、550万人の兵士が動員され、うち95%が男性だった。また資源確保など様々な目的で占領地に赴く日本人も多く、20才から25才ぐらいの若者達と働き盛りの男性は、一時的に日本中の街角から消えていた。そうした人々の過半は、動員解除と共に故郷や元の職場に戻ってきた。
 戦争中は、いつ戦争で死ぬかも分からないと言う事で、地域や会社ぐるみで形だけでも結婚したりする場合も多かった。だが戦争中は、子供を作れといっても日本の戦域が広いため一時帰郷の暇すらないのが実状で、戦争中の人口増加は大きく抑制されていた。人口増加数も、毎年100万人程度だった。
 それが戦争の終了と共に、一気に解放される事になる。その上政府は、次の世代を担う者が必要だとして多産を奨励した。一定の育児保護や保障の政策も行ったので、戦後から5年ほどの間は先進国へと進む新興国とは思えないほどの爆発的な出生率を示すことになった。
 このため戦争中は毎年100万人程度の自然人口増加だったのが、毎年150万人から200万人近くを記録。終戦時7600万人だった本土人口は、僅か6年で8400万人となった。
 しかも台湾が、戦後の住民投票の結果を受けて、1947年に本土扱い(台湾州)に法制度の面から改変が行われているので、日本の総人口は9100万人と激増している。中部太平洋、南太平洋、さらには海南島でも熱烈な日本への帰属強化の声があったが、距離がありすぎることと国際関係を考慮して、自治を進める一方で政府の庇護を強めるという相反する対応がとられていた。
 パプア島や海南島など本土以外の日本領も含めると、総人口は9500万人になる。1954年には、日本帝国全体で総人口が一億人を越えると予測された。

 そして人口問題とも関連があるのが、領土問題だった。
 大戦中、日本は史上空前の土地を軍事的な占領下とした。中華地域と中央アジアを除くペルシャ湾以東のアジア地域、オセアニア地域、太平洋のほぼ全域、シベリア、これらを全て一度は占領した。中華地域だって、先の戦争で一度占領している。日本帝国の占領地の広さは、かつてのモンゴル帝国の記録すら塗り替えるほどの広大さだった。
 しかし占領するそばから民族自治政府と現地軍を作り、資源の安価安定供給と戦争中の独占貿易、戦争中の軍隊の駐留と独立支援を交換条件とした占領地政策を推し進めた。このため、日本軍による軍政が続いた場所はごく限られている。軍隊が主にいたのも、アメリカとの戦闘が予測された太平洋の重要島嶼各地、重要拠点のシンガポール島とその近辺、セイロン島、インド洋のチャゴス諸島、ソコトラ島、アラビア半島の一部などとなる。一部住民の反発が比較的強かったフィリピンでも、取りあえずは独立を認めている。軍事占領中のオーストラリアでも、基本的には間接統治が行われた。
 日本政府としては、取りあえず安定して資源が手に入り自分たちの市場として開放されていればそれでよかった。必要な資源と市場を得ることこそが戦争目的だったからだ。植民地解放と民族自決の促進という政策は、半ば方便でしかない。植民地解放を売り物にしておけば、仮に日本が戦争で敗北しても各地の独立の事実は残り、善政を行えば現地からの支援、戦後は友好も十分に期待出来た。
 それに、占領政策で大規模な軍政や軍隊の駐留を行うほどのゆとりは、日本政府にも日本軍にもなかった。戦争初期は、アメリカが参戦する前にイギリスを屈服させねばならず、アメリカ参戦後は如何にしてアメリカを押さえ込むかに心血を注ぎ込まねばならなかったからだ。
 そして停戦によって戦争そのものを逃げ切ってしまうと、独立させて回ったという要素が大きな外交得点となった。
 植民地解放という「錦の御旗」は、勝ち逃げする事によっても錦の御旗として機能したのだ。
 そして戦後、日本はセイロン島にも民族自治政府を作らせ、島からも撤退していった。他の駐留地の多くからも現地で作った軍隊に武器を渡して急ぎ消えていった。例外は、先にも少し取り上げたシンガポール(+近辺)とチャゴス諸島(+ディエゴガルシア島)だった。この二カ所は、新たな日本の戦略的軍事拠点とされ、各国にも承認されていた。そしてこの二カ所が、戦争で得た日本の新たな領土だった。また全島がオランダから日本に割譲されたニューギニア島西部も例外とされた。
 これ以外だと、単独講和でロシアから割譲したカムチャッカ半島と、イギリス及び英連邦が統治能力を減退させたという理由で、南太平洋の幾つかの島々が、そのまま日本の統治下に置かれることになった。小さな島では、自主独立が難しかったからだ。
 またロシアからは、自らの統治が難しくアメリカとアラスカで接している東シベリア東部辺境の売却が日本に持ちかけられ、かなりの間両者の間で領土売却交渉が行われる事になる。現実問題としても、ソ連崩壊以後のバイカル湖以東のシベリアは、一時的に軍事占領を実施した日本又は満州の経済的影響下にあった。

 そして領土問題とも連動するのが、国際外交だった。
 第二次世界大戦で世界は大きく変化し、日本の手によってアジアの多くが欧米諸国の植民地支配から取りあえず脱却する事ができた。だが、全てが丸く収まったわけではない。
 フランスの植民地は、アジア、太平洋でもそのまま植民地とされ続けていた。フランスにしてみれば、ヴィシー・フランス政府様々である。独立したアジア諸国は全体としては上向きだが、旧宗主国となった国々との軋轢、植民地だった事を一番の原因とする国家の貧困に喘ぎ、日本の経済的影響力は向こう半世紀は続くと考えられていた。
 一方アフリカは、エジプト、モロッコがナチス無き後のドイツの庇護のもとで完全な独立を得たが、工業製品の輸入先が変わったぐらいの変化でしかなかった。スエズ運河の支配権では大きくもめたが、ドイツ自身が「正しい道」に戻ったことを強調するため、大株主であるイギリス、フランスへ多少条件を付けて返還する形で落ち着いた。ドイツが二国から運河の株を大量購入する話しも出たが、ドイツにそんな金はなかった。ナチス政権下でのライヒスマルクには、高い国際的信用がないからだ。実際ドイツは、1947年にライヒスマルクから新マルク(ノイエマルク)への通貨変更を実施している。
 一方、中南米地域は相変わらずだった。カリブ地域では一部が欧米の植民地のままで、アメリカが一部で名目上の独立を与えたが、実質的にはアメリカの経済植民地でしかなかった。中米には欧州諸国の植民地も若干残されていたが、世界大戦でのレンドリースの支払いとしてアメリカに抵当として差し押さえられたも同然のため、中米一帯はさながら「アメリカ帝国領」の様相を呈していた。
 南米諸国は、相変わらず財政難に喘いでいる。大戦中の物流の影響もあって、アメリカの経済的影響力も大きく強まった。
 「国家連合(UN)」が出来たが、舞台の幕が変わったり降りるような極端な変化が訪れたわけではない。戦争の結果、一部に変化が出来ただけだった。しかも戦争そのものが、力を持つ者どうしだけの戦いだった。持てる者と持たざる者の戦争だったと言われる事も多いが、持たざる者は持てる者より持っていなかっただけで、競争に参加するだけの力はあったのだ。でなければ、数年間も正面から戦い合う対等の戦争など起きはしない。
 アジアの一部は例外となったが、これも日本が戦争で勝ち逃げして新たなプレゼンスを手に入れた結果だ。そして日本自身は、自らのプレゼンス能力、ガバナンス能力が低い事を自覚していたので、多少の損をしてでも独立をばらまいて必要なだけの利益を得たのだ。この点は、全てを得ようとして出番の時間を間違えたアメリカよりも、結果論的には遙かに優れていたと言えるだろう。アメリカが全てを手に入れたかったのなら、無理を押しても1940年内に参戦すべきだったと言われている。

 なお、「国家連合(UN)」では、独立国であるなら小国でも大国と対等の発言権を得たと言われるが、戦争が終わって間もない時期の発言力などほとんど無かった。大国相手に本気で発言する場合は、滅亡覚悟で張り合うだけの覚悟が必要だった。
 故に日本の外交といえば、アジア諸国の面倒を見るやくざの大親分のようなものだった。ショバを荒らしに来る相手には断固とした態度で望まねばならず、そうした情景は大戦前と何ら変わりなかった。日本にとっての変化は、自らが大きな力と勢力圏を持ったという点になる。GDPは世界第二位、軍事力は海軍力が名実共に世界一、空軍力、陸軍力も列強三指に入る。この国力こそが、日本の発言力と影響圏の大きさへと直接つながっていた。
 また戦争によってヨーロッパ諸国が軒並み力を大きく減退させた事も、日本にとっては好都合だった。その上ヨーロッパ諸国の殆どがアメリカとの対立状態を残したままというのは、実に有利な外交状況だった。連合軍としてアメリカと連携したイギリスまでが、主に戦後の植民地政策でアメリカと深い溝を作っている事も望まい状態だった。
 何しろアメリカは、戦争で得られなかったものを外交、特に日本に対する外交で取り戻そうとして、何かにつけて自由貿易を盾にアジアへの進出を強めていた。満州帝国との間にも、再び問題を積み上げている。
 もっとも、このアメリカのある種強硬な姿勢は、一面では日本にとって望ましかった。手前勝手な「自由と正義」を言い立てるアメリカも所詮は白人国家で、連合軍としてイギリスの利権を守るような戦争をしていたからだ。このためアジア各国は、旧来の状態に戻される危険性を考えて警戒しなければならず、必然的に有色人種国家である日本を頼らざるを得なかった。
 そしてイギリス、アメリカを頼らないと言うことは、これまで主にイギリスなどヨーロッパ諸国から得ていた各種加工製品、工業製品の入手先として、日本をアテにしなくてはならなかった。一部では、日本と関係が良好な旧枢軸諸国の製品も入っていたが、プレゼンスをしているのが日本である以上、それは日本の意志であり、自由貿易といってもその程度の事でしかなかった。
 それでも棚ぼたで独立を獲得したアジア諸国には、価値のある状況だった。
 日本は独立させただけに、諸国で産出される地下資源、農作物などを正価で購入しなければならず、当然今まで搾取されるだけだった地域に貴重な外貨、収入をもたらしていた。欧州及び日本企業による経済上での搾取はある程度残ったが、自国内の外資企業からも税が取れるのだから、今までに比べると大きな差だ。
 この点は、今までのヨーロッパ諸国と決定的に違うし、口先と一方的な金しか出さないアメリカとも大きな違いだった。
 独立したばかりの国々も、そうした現実を肌で実感していたからこそ、白人達よりはマシな日本人を頼ったのだった。
 そして世界大戦停戦の熱狂が醒めると、世界の列強と呼ばれる国々は、世界のためではなく自らの為の動きを再開するようになる。
 この正直な行動こそが、勝者のいない戦争の正しい結果だったといえるのだろう。

●フェイズ59「オイル・マップの激変」