■フェイズ62「坂の上からの眺め」

 1949年(昭和24年)、総選挙と共に日本で初めての首相公選選挙が実施され、官僚出身の吉田茂が選ばれた。
 吉田は政友会に所属するため、政権与党の総理ともなった。結果そのものは順当なものだったが、政友会が吉田茂に決めるまでは紆余曲折があった。
 なお、首相公選の選挙には、選挙に出るための幾つかの資格が必要だった。20年以上前から日本国籍を持つなどの最低限の決めごと以外にも、一定規模以上の政党に属している事、一定の選挙運動資金を事前に用意出来る事などがあった。そうした中に、軍を退役してから10年以上経過していなければならないという項目が存在した。
 また国民の「軍人政治家」を見る目が厳しいため、各党ともに軍人出身者を送り出せなかった。そうした中で政友会は、坂本譲二政権時代に坂本に外相に抜擢された形の吉田茂が、党内からの反対も多少ありながらも候補に選ばれている。
 そして、任期満了までの4年間日本を率いた坂本譲二は、次の選挙に出ることもなく年齢を理由として勇退した。
 これで明治初期を知る人が、完全に日本の政治から姿を消す事になる。戦後初の軍人出身宰相になると言われた堀悌吉も既に70才が見えていたが、彼の初陣も日露戦争終盤の日本海海戦で、明治初期を知るとは言いにくい。
 明治維新から約80年、日露戦争で東郷平八郎が国家の命運を賭けた戦いをしてから44年、約40年ごとに時代の節目があったと見るべきなのだろう。
 国民の多くも、関東大震災以後の発展した後の日本を知る者が多くを占めるようになっていた。少なくとも20代半ば以下の若者達は、日本の急速な発展と共に生きてきていた。彼らは、戦塵と戦争の中での過酷さと不自由は知っていても、多くが発展した日本の中での体験だった。戦争自体も、日露戦争のような肉弾戦はほとんど伝説の中であり、彼らは無数の船や飛行機に乗るか、トラックに乗って自動小銃を撃つ戦争しか知らなかった。
 そして、アラブでの超巨大油田の発見と保有などの好ましいニュースに代表されるように、日本経済は依然として好調で、その他の要因も重なって大きな上昇曲線を維持し続けていた。
 1943年から46年にかけては、毎年巨大地震が日本各地を襲ったが、それすら経済発展に転化して日本中で復興という建設景気が起き、地震などの天災に負けない強固で巨大な耐震建築物が次々に作られていった。関門海峡では、アメリカの金門橋(ゴールデン・ゲート・ブリッジ)に負けないと言われる巨大吊り橋の建設も進んでいた。既に完成している関門トンネルも、新幹線用のものが新たに掘られつつあった。戦後新たに建設が開始された山陽新幹線も既に工事半ばで、1955年には大陸の玄関口でもある博多まで全線開通予定だった。1952年春には、先行して大阪=広島間が開通予定だった。日本中に急速に伸びつつある高速道路網も、各所で精力的な工事が実施されていた。急な山河の多い日本の国土では大規模なトンネルが多いなど難工事の連続だったが、日本人達は上向きのまま前に開けている道を急ぎ足で進んでいた。建設という面では、本州と北海道を結ぶ超巨大トンネルの工事計画すら既に持ち上がっていた。帝都東京の霞ヶ関では、戦前から計画のあった日本初の摩天楼(※万全の地震対策を盛り込んだ、高さ100メートル以上の超高層ビル)が完成しつつあった。
 そして太平洋沿岸の各地では、殆どの場所で大規模な埋め立て地の造成が急速に進み、巨大な工業コンビナート群が既に稼働するか建設中だった。そうした港の護岸は、将来予測に従って10〜20万トン級の大型船が接岸できるように作られており、昭和初期の復興開発を知る人々ですら驚く有様だった。
 吉田首相の言った「列島改造」は、まさに目の前の光景に他ならなかった。
 なお、日本の発展を象徴する出来事が、1952年催される予定が決まっていた。
 1940年に流れた「東京夏季オリンピック」と「札幌冬季オリンピック」、それに日本人の念願である「エキスポ」の同時開催だ。

 1940年(昭和15年)の第12回東京・札幌オリンピックは、支那事変の勃発により日本が辞退し、代替地となった北欧二カ国での開催も第二次世界大戦の勃発で中止となっていた。1944年の第13回ロンドンオリンピックも、第二次世界大戦のため流れていた。そして1948年のオリンピックは、ロンドンオリンピックの繰り越し開催という体裁が1945年秋に決められ、開催を望んだ日本は1952年の開催を受け入れなければならなかった。
 表向きは、1940年大会を自らの戦争のため辞退した日本に対する罰だとされる。だが実際は、主に日本とイギリスとの間の政治取引の結果だった。戦災復興を早急に進めたいイギリスは、経済の起爆剤としてどうしてもオリンピックを開きたいと日本政府と交渉し、1948年のロンドン、1952年の日本(東京)と決まったのだ。またこの時、日本でのエキスポの開催も国際的に認められる事になった。要するに、日英のイベントのバーター取引の結果だったのだ。
 この政治での決着は、日英両政府が日英関係の改善を狙った事と、日本が経済的に余裕があることを示していた。
 また日本政府は、オリンピック、エキスポ同時開催を、自らの国土の総合的社会資本建設の一つの頂点にしようという思惑もあり、その通りに進められた。
 そして1948年に無事第14回ロンドンオリンピックが閉会すると、日本は国を挙げて準備へと傾いた。

 日本列島の社会資本建設は、特に帝都東京においては既にかなりが終えられていた。関東大震災後の大規模な復興事業で、世界最先端といえる機能と景観を持つ近代的都市へと姿を変えていた。都市の動脈である帝都高速道路や地下鉄も、慎重な路線選びをしつつ拡張を続けていた。また戦後から始まった開発事業で、副都心と呼ばれる大規模商業地区の建設も始まり、東京中心部は既に二つの催しを同時にするには手狭となりつつあった。急速に進む埋め立て地の造成も間に合わなかった。
 そこでオリンピックはともかく、エキスポの開催は大阪で開催されることになる。名古屋は数年前の大地震の災害を受けて再開発が既に進んでいたが、大阪は昭和初期の自主的な開発以外ではかなりが旧来のままだったからだ。また海外から来る人々に、既に開業している東海道新幹線、あの弾丸列車を国内移動の手段として使ってもらおうという意図が強くあった。
 そして、世界中から観客、観光客として来日してもらうべく、世界中に対して熱心な宣伝が行われる事にもなった。来てもらうための世界規模での交通網の整備にも一層力が入れられた。
 東京、大阪では、既存の空港の拡張工事が開始されていた。このため大阪の飛行場は、伊丹と言う内陸部にあったものが将来手狭になるとして国際空港としては候補から外され、新たに埋め立てが進んでいた沿岸部へと移動した。沿岸部なら埋め立て地による拡張も容易だし、海に向けて離発着するため今後拡大が予測される騒音問題に対処しやすかったからだ。そして両都市の飛行場と主要駅を結ぶ交通網の建設も俄に始まり、大阪では主要駅の駅舎そのものの全面改築も実施された。
 また当時の主要な交通手段は船舶であるため、各地の港湾の再整備も進んだ。浚渫、巨大護岸の建設、客船用桟橋と主要交通機関の連結。受け入れ施設の整備。世界最先端へと進む国として、恥ずかしくないだけのものを用意するべく、ものすごい勢いで最新の設備が次々に誕生した。また海外からの旅行者を目的とした都市型ホテルや飲食店、観光施設の建設も東京、大阪を中心に日本各地で進み、都市近郊や東海道新幹線沿線にある熱海などの温泉町は、早くも観光客誘致のために動き始めていた。日本国内の旅行者取り込みは、既に戦後すぐにも始まっている。
 また造船所では、海外から日本に客を運ぶべく、そして日本の国威を他国人に見せつけるべく、大型客船が相次いで建造しようとした。
 この当時、日本の海運大手三社は日本郵船、坂本海運、大阪商船だった。最大王手は日本郵船で、旅客部門では大阪商船が何とか追随していた。坂本海運は元々タンカー中心のため客船は不得意だったが、船腹量は他の二社を凌駕するほどで、またグループ全体では海外展開を得意としていた。
 この三社は、戦後日本のフラッグシップ建造を政府が打ち出すと、こぞって名乗りをあげる。
 しかも当時の日本は、世界の主要航路の多くを手に入れた事で、客船需要が非常に大きく伸びている時期だった。
 戦前に建造された4万トン級の「出雲丸」、「樫原丸」、3万トン級の「新田丸」、「八幡丸」、「春日丸」という巨船を有していたが、今回新たにより巨大な超豪華客船を2隻整備する事になる。
 政府は三社の間でコンペを行い、企画力の高さから坂本海運が勝利した。この原因は、大阪商船は資本力不足、日本郵船は既に巨船を数多く有し過ぎているからでもあった。
 建造は主に大戦中に超大型艦を作っていた民間造船施設で、三菱、坂本の二社で建造される事になる。三菱造船が選ばれたのは、客船建造に手慣れているのはもちろんだが、日本郵船を落とした埋め合わせでもあった。
 船名「飛鳥丸」「白鳳丸」は。排水量7万トンという、当時のヨーロッパ最大級のクイーンメリー号に匹敵する巨体となった。あえて世界最大を目指さなかったのは、その後の運行の経済性を考慮したからだったが、それでも全長300メートルに迫るスマートな巨体は、日本の発展を現すものとして完成した。
 船内は巨体に比例して贅を尽くしており、それでいて欧米の船とは少し趣の違う日本的な要素を外観や内装に取り入れていた。海外で日本文化の紹介も担っていたため、畳敷きの応接室や体育館(道場)どころか本格的な茶室や日本庭園まで装備した。和風客室についても、言うまでもないと言わんばかりに多数が用意されていた。
 また、大戦中は灰色や迷彩の地味な色彩に身を包んで兵員を運んでいた客船群も、さらなるお色直しをして総動員されることになっていた。そうした船を客で一杯にするべく、外務省職員や各財閥商社の海外駐在員は、日本の宣伝と各国政府への働きかけを強めた。海外に赴任しているという理由だけで、兵部省職員や軍の駐在武官までが観光宣伝を行ったほどだ。
 そして大量の巨大客船が建造された事もあり、この後の日本は定期航路を増やすだけでなく、国民に観光としての船旅を、ゆとりある生活の象徴だとして強く勧めるようになっていく。かつて移民のためだったハワイ航路は、今度はゆとりある長旅の場所、本当の「憧れのハワイ航路」として注目された。

 一方、文化面では、幕末の開国以来今までは膨大な量と規模のヨーロッパ文化が流れ込んでいたが、この五輪、万博を契機に日本の優れた文化と武道を他国に大いに紹介する動きが見られた。
 オリンピックでは、日本の代表的な伝統武道の一つである柔道が、正式種目として取り入れられる事になっていた。柔道の正式種目化については、1940年の東京オリンピックに向けた1930年代中頃から活発な普及と宣伝活動が進められていたが、さらに1946年ぐらいからも柔道修得者が世界中に派遣されて紹介と普及に務めた。この中では、各国に派遣されていた駐在武官を始めとする軍人達が大きな役割を果たすことになった。柔道ばかりでなく、剣道や空手など日本の武道が海外に広く知られるようになったのも、この時の活動を契機としている。
 また文化面での紹介も力が入れられ、各国の美術館や有力者に陶器や織物、絵画(浮世絵や屏風の写生画)の複製など日本の伝統工芸品が無償で贈られたりもした。文学作品も、古今東西を問わず日本のあらゆる作品の他国語での翻訳本が作ったり、既にあるものを刷り直し、世界中の図書館や学校に贈られた。茶道や和楽器の紹介や指導も精力的に行われた。
 能、狂言、歌舞伎なども今まで日本でしか行われていなかった芸能を海外にも紹介しやすくする努力が行われ、1952年までにも各国から経費込みで多くの人を招いて紹介する活動が行われた。
 世界各国でのテレビやニュース映画、新聞による日本の紹介も、政府が資金を出して熱心に行われた。また、日本そのものを紹介する総天然色の冊子が無数に刷られ、世界中に配布された。冊子の中身には、単に日本の景色や文化・芸術を紹介するだけでなく、日本の歴史や地理などを簡単に紹介する総合的な冊子となったものが多かった。和食といった文化の紹介も積極的に行われた。
 軍事力と単純な国力は戦争で既に示されているので、日本が文化的にも優れていることを伝えることで、国家の威信をさらに上げようと言うのだ。

 一方国民に対しては、語学教育、世界地理、世界史教育が重視されるようになった。既に義務教育を終えた多くの人々に対しては、幾つもの本を出版して啓蒙を進めると共に、官民双方のテレビ、ラジオが多用された。
 そうした中で特に重視されたのが、新たな通信媒体であるテレビだった。当時はモノクロのブラウン管テレビしかなかったが、1940年の放送開始は戦争中に一時中断を余儀なくされるも、戦後の1946年に改めて広範な放送が始まると爆発的に普及した。しかし1940年代のテレビは当時非常に高額だったため、街頭テレビとよばれる施設が日本中の都市に設置され、地方の市町村の役場などには国が購入したものが無料配布された。普及率自体も、五輪、万博の開催が迫るに連れて爆発的に伸びた。1947年には民間のテレビ放送も開始され、庶民の娯楽として急速に普及した。
 そうしたテレビの時代の象徴として、東京には帝都タワー、大阪には新通天閣がそびえた。どちらも高さ300メートルを超える世界最大級の自立鉄塔で、日本発展の象徴とされた。またテレビ塔は日本各地に建設され、多くが街の中心にあって城跡などに変わる新たな町の象徴や目印となった。対して、城郭などの修復や再建も日本各地で行われてもいる。

 なお、エキスポ開催に合わせるように、国を挙げて行われた事業が一つあった。それが地球の外に人類が作り上げた人工物を投射する事業、つまり宇宙ロケットの開発だった。
 1945年秋、日本でのエキスポ開催が決まる頃、日本中の航空関係者が日本政府の命令によってとある場所に集められた。日本陸軍大阪造兵工廠の一角の会議場に集められた人々は、一人の人物とここで出会う。それがドイツのロケット工学者、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士だった。
 日本は第二次世界大戦中にドイツとの軍事技術協力の一環として、日本の艦船技術及び現物の交換で、ドイツのロケット技術、ジェット飛行機技術を現物込みで得ていた。ロケット、ジェットについては日本独自での研究と開発も行われ、ジェット機については停戦前に既に最初の実用機(=橘花11型)が登場していた。ロケットについては、日本軍が弾道弾にあまり関心を向けていなかったので、実機すらドイツから供与を受けても戦争中に二度発射実験を行ったに過ぎなかった。
 しかし日本陸軍から航空隊がほぼ全て引き剥がされて空軍が設立されると分かると、日本陸軍は俄にロケットに興味を向けた。海軍では、大戦中に航空機用の兵器として空中発射型の各種ロケット兵器に興味を持ち、かなりの開発も行われていた。ジェット戦闘機と並んでロケット戦闘機の開発にも、一時期大きな努力が割かれていた。
 また、戦後日本の国威発揚として、日本政府と一部官庁がロケットしかも衛星軌道に至るロケットに大いに注目した。
 そして戦後、日本政府がエキスポ開催を決めるが早いか、日本中の関係者に声をかける。それがこの時の会合だった。
 この会合では、日本政府が日本の国威発揚としてロケット開発を行うことが内々で発表され、全ての開発をまずは一本化して低軌道衛星打ち上げに向かうことになる。誘導兵器の推進装置に興味を向けていた海軍は反発したし、一部学者は軍事利用への転用を懸念してこちらも反対した。しかし、日本が団結する意義を伝えられ、その導き手たる世界最高の権威が夢と現実を語ると、概ね一つの方向へと傾いた。
 この後、日本は世界に先駆けて宇宙開発へと乗り出す。
 なお、フォン・ブラウン博士が来日してロケット開発を主導したのは、ナチス崩壊後のドイツでロケット開発が事実上一事凍結され、英米がドイツという国家を前に何も出来ない間に、日本が一本釣りで博士と周辺の開発関係者達を好条件で日本に連れてきたという経緯になる。
 その後日本では、最初は宮崎県の浜辺で秘密裏に行われるも、2年後には種子島に移って公で大規模なロケット開発が行われるようになった。
 そして1950年には、旧海軍基地のあった沖縄県本島中部にある嘉手納に新たな拠点を構える。新たに「嘉手納宇宙基地」と名付けられた広大な敷地は、移転数年前から大規模な建設工事が行われ、かつてのペーネミュンデに次ぐ宇宙開発の拠点として整備されていた。
 ロケット開発そのもは失敗と前進を交互に繰り返し、莫大な費用に対して結果がなかなか伴われないため、一時は中止もしくは規模縮小の一歩手前までいった。だが、当時の日本が国家、民族双方の面で上を向いていた事、国威発揚を国が求めていた事、宇宙開発に各企業が利益を見いだしていた事、協力した軍の思惑、ブラウン博士を始めとする担当者の熱意と努力、など様々な要素が重なり開発は継続された。それでも日本政府が求めた万博開幕までの打ち上げ成功には至らず、翌年には開発予算が削減されることが決まりかけていた。
 しかし1952年10月24日、大阪エキスポがまもなく閉会しようとしていた時、一つの結果をもたらす。
 クラスター型の第一弾ロケットを持つやや不格好な尖塔のような人工構造物は、ついに人工物を地球の外へと持ち上げた。
 日本が人類初となる快挙を成し遂げたことは、数日後に大々的に発表され、その後も日本は宇宙開発に莫大な投資を行うことを民意の後押しもあって決定する。
 黎明期の日本での宇宙開発も、日本という国家が上を向いていなければ、これほど短期間で成果を出すこともなかったかもしれない。

 一方、五輪や万博そのものに対しても、抜かりはなかった。
 五輪で一つでも多くのメダルを獲得するべく、競技の振興、選手の強化は戦後すぐにも国を挙げて大幅に拡大され、それまで日本人に馴染みの薄かった冬季競技が大いに発展した。さらに、俄に冬はスキーやスケートをすることが、日本人の間で流行るようになった。
 施設については、1940年予定の施設のかなりが既に完成していたが、種目も増えていたし来客数予測も大幅に伸びているので、改めて拡張工事や新規施設の建設が実施された。新たな施設として目立つのは、柔道競技を行うために建設された武道館になるだろう。
 いっぽう万博は、会場には大阪の都市部ではなく、千里丘陵という郊外の山林が選ばれた。
 もっとも当初は、戦後になってから郊外に移転しつつある大阪造兵工廠跡地が考えられていた。しかし現地は、帝都が大災害を受けた場合に備えた予備の首都となる「副都構想」が既に進められていため、主会場とはされなかった。だが、周辺部にホテルを大量に建設して海外からの旅行者の居留拠点とすると共に、大阪城近辺を大規模な公園として整備し、幾つかの催しを行う副会場としてだけ活用されることになる。日本風の巨城という存在が、海外に日本の独自文化を示すのに格好の材料と考えられたからだ。このため昭和初期に再建された近代建築の天守閣や、辛うじて残余する櫓や門扉以外にも、幾つかの建造物が当時の資料を基にして再建されている。日本的要素を多分に取り入れた迎賓館も、場内に新たに設けられた。
 そして主会場となる千里会場は、山を一つ切り開く大土木工事を行って巨大公園を作り、そこに世界中から招致したパビリオンが所狭しと並ぶ事となる。
 高速道路や新幹線から伸びる鉄道網も整備され、開催中は会場外周をモノレールが走ることにもなっていた。
 そして大阪市内と千里会場周辺は、大土木工事の舞台とされた。
 市内は自動車時代に対応するための街路を中心とした区画整備に始まる抜本的な改造が行われ、いまだたくさん残っていた堀や川の上に高速道路網が張り巡らされた。また帝都東京都同様に、大量の地下鉄工事や未着工だった地区の上下水道の整備も進められ、都市機能が格段に向上する事になる。
 戦後はアジア中の物産取引が集まるようになった大阪先物取引市場も、既存施設が手狭になったと言うことで新たな巨大施設が建設された。三井や住友を始め企業の本拠も改めて大阪もしくは京阪神に設置され、坂本財閥も大阪に本社を改めて据えた。合わせて大阪城近くの「副都」中枢を占める谷町界隈には、政府による首都機能分散により通産省の事実上の中枢が設置された。工廠が退いた京橋近辺には、副都心の建設も開始された。
 これらの都市改造により、1930年代から世界大戦にかけて陸軍工廠があることで「軍都」化が進んでいた大阪は、商業の都として再生される事になる。
 また千里会場周辺は、万博会場とは別に他にも山林が無数に切り開かれ、巨大な新世代の団地街が整備された。既に人口飽和で都市機能が低下していた大阪の人口を郊外に移すという目的もあり、この頃日本中の大都市で起きつつあった問題解決のモデルケースとして整備が進められたものだった。

 大阪万博の開催期間は、1952年3月の春分の日から11月3日の明治節まで。東京五輪は、気象や天候予測の結果、10月10日開催と定められた。札幌冬季五輪は翌年2月で、紀元節(2月11日)を挟む予定が組まれた。そして最も海外からの客が集中するのは、東京五輪開催から万博閉会日までと考えられた。五輪閉会式から大阪に移動して数日滞在すると、万博閉会日になるようにセッティングされた。明治節が選ばれたのは、国威発揚としてよりも都合が良い日程がそこだったからだ。しかし以後10月10日は体育の日として、国民の祝日とされるようになる。
 そして1952年に入って日本を中心とする世界中の客船が、主にヨーロッパや北アメリカ大陸を二度の往復した頃、エキスポ大阪が開幕する。
 当時独立国の数は90を数えるようになっていたが、そのうち80近くが何らかの形で万博に参加していた。資金不足の国には、日本が資金を提供していた。また中には、自らの威信をかけて巨大パビリオンを建設した国もあり、そうした国はもっぱら欧米諸国だった。その中で異色だったのが、満州帝国になるだろう。戦前は、日本の経済植民地、悪い場合は属国とすら考えられていたので、こうした国際舞台の場には出来る限り目立つようにしていた。オリンピックでも1936年のベルリン、1948年のロンドンでは、大選手団を送り込んでいる。エキスポ大阪も相当の力の入れようで、満州風、ようするに清朝様式のパビリオンは、少し離れた場所にある中華民国館を吹き消すような存在感を放っていた。一方ではアメリカも相当の熱の入れようで、当時悪化の一途を辿る日米関係を忘れたかのように、日本に開催の随分前から自らの館を立地の良い場所に持ってくるよう働きかけ、巨大なパビリオンを出展していた。アメリカも外交での遅れが目立つため、国際舞台はまたとない宣伝場だったのだ。それに日米双方の良識者の思惑として、平和の祭典で少しでも両国の間に広がる溝が埋められないかという意図があった。
 なお大阪万博のスローガンは、「人類全ての進歩と調和」。「全て」としたところに、複雑な想いが垣間見えていた。世界はいまだアフリカを中心に植民地が多く、「全て」と言いえない状態にあったからだ。参加しているアフリカの独立国となると、エジプト共和国、エチオピア帝国、それに英連邦の南アフリカ連邦共和国、リベリア共和国しかない。当時、世界はまだ帝国主義の残滓を強く引きずっていた。加えて、白人とそれ以外の民族との軋轢や対立も、まだまだ根深かった。
 もっとも、万博そのものは大成功だった。来場者数は国内を中心に5000万人を数え、欧米からも万の単位の来場者があった。近在の満州帝国からは特に多くの来場者があり、外交ではなく見学のために皇帝や皇族までが訪れる熱の入れようだった。
 また日本政府も、諸外国の元首や首相、重要閣僚や有力者を積極的に招き、主に大阪近在の古都京都にて外交に熱を入れることになる。こうした会議をするため、万博開催までに多数の国際施設が京都に建設されていた。

 そして夏が過ぎて秋が本格化する頃になると、東京オリンピックが開幕する。10月10日が選ばれたのは、夏の盛りだと日本は主にヨーロッパの人にとって暑すぎる事と、9月後半から10月半ばまでで統計上10月10日が最も晴れる確率が高かったためだ。
 開幕日には、上空を日本空軍の最新鋭ジェット戦闘機による「蒼穹飛行隊」が、煙幕をたなびかせながら見事な編隊飛行を披露し、東京湾では日本海軍の誇る超巨大戦艦群が、遠雷のように轟く祝砲を打ち上げた。
 開会式は、1936年のベルリン大会以来国家の威信を懸けた一大政治ショーの様相を見せつつあったので、東京大会も踏襲されていた。しかも、日本中に生放送でテレビ放映されるため、いっそうの華やかさを見せるようになっていた。
 競技自体は、大選手団を送り込んできたアメリカ、ドイツが相変わらずの強さを見せていた。前大会を開催したイギリスも健闘し、国の復興に苦しむロシアもかなり健闘した。その中で日本は、金メダル数では何とか三位に食い込み、開催国としての面目を施すことができた。
 そして五輪閉会式、万博閉会式はともにさらに盛大に催され、半年間の祭りを締めくくった。五輪閉会式以後は、東海道新幹線は東京から大阪に向かう外国人観光客で一杯になり、東京湾にいた客船群も大阪や神戸の港に横付けした。
 そして祭りが終わるも、海外から訪れた有閑層はしばらく日本や日本の近隣に滞在した。日本の他の地方を観光する者、ハワイなどへのクルージングに興じる者、隣国の満州や香港、上海などに行く者、様々だった。皆、札幌冬季五輪を待つ者達だった。しかし開催まで三ヶ月あるため、一度帰国する者の方が多数派だった。船でも二ヶ月あれば往復できるし、贅沢な者なら日本が中心となって整備したばかりの民間航空網を使って、短期間で往復することが出来た。満州帝国に渡ってからシベリア鉄道経由でヨーロッパに帰る物好きもいた。
 そうして1953年2月には札幌冬季五輪が無事開催そして閉会日を迎え、日本での祭りは終わりを迎える。
 そして人々は、唐突に気付いた。
 日本は随分と立派になったじゃないか、と。

 万博と五輪、特に自国での万博開催は、明治維新以来、日本人にとって日本が一等国になる証だと考えられていた。その世紀の催し、日本人からみれば一つの通過儀礼を経ることでようやく人心地ついて、自分たちが今まで歩いてきた道を振り返ることが出来たのかもしれない。
 むろん、国内の社会資本の建設が五輪、万博で一つの頂点を過ぎた事もあり、以後の日本経済は今までのような極端な上昇から緩やかで安定した上昇へと変化すると考えられていた。世界には、まだまだ多くの問題も存在した。特にアメリカとの対立は、頭の痛い問題だった。
 だが、日本が少なくとも一つの頂点を極めた事は確かであり、この時の日本人達は大きな満足と幸福の中にあった。

 上を向いて歩き続ければ、いずれ雲に手が届く。遙か高みに至ることが出来る。

 明治初期の人々がそう信じて歩み続けたように、明治の倍近い時間を経たこの時の日本人達も楽天的に歩み続け、そして気が付けば坂の上の雲に手が届くどころか、その雲の上にすら居た事を、しかも望外なほどの遙かな高みに居た事を、この時半ば呆然と実感していたのかもしれない。

あとがきのようなもの