●序章
 フィリピンで対日戦の準備に追われていたダグラス・マッカーサーは、1941年冬には日本軍が大規模な攻撃を行おうとしていると正確に察知した。しかしアメリカ本国は、マッカーサーが求めたフィリピンへの軍の増強をなかなか認めなかった。そこでマッカーサーは、事後承諾の形で直接自らがワシントンに乗り込むことにした。直談判で、彼の大切なフィリピンに大規模な増援を送り込むためだ。
 そして1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃した時、当時軍に復帰して中将となっていたマッカーサーは、まさに首都ワシントンにあった。職務放棄すら言われかねない状況だったが、丁度マッカーサーと接見中に開戦の第一報を聞いたルーズベルト大統領は一つの妙案を思いつく。

「こいつは大嫌いだが、そう言えば前の戦争でヨーロッパに行っていたよな。これは役に立つかも」。

●ヒーロー・ウォー「欧州戦線」

 ルーズベルト大統領は、目の前にいるマッカーサー将軍に対して、アメリカの参戦に際してヨーロッパに行ってくれないかと説得を始める。
 マッカーサー将軍はアメリカ合衆国で最も有名な軍人であり、史上最年少で総参謀長まで勤め上げたエリート中のエリート軍人だった。個性の強さと強引さは折り紙付きだが、だからこそヨーロッパ戦線で各国をアメリカがリードするのに相応しいのではないかとも考えられた。調整役なら、彼の下に適任者を選んで付ければ良いのだ。そして軍司令官で必要な要素は、何と言ってもカリスマ性だった。何しろ今回の戦争では、何でもない有象無象のアメリカ市民を率いなければいけないのだ。

 連合軍最高司令官、元帥位の復活と後の昇進、レインボー師団の再編成。色々な餌がマッカーサーの前に撒かれた。しかし彼は植民地に過ぎない妙にフィリピンに固執して、迫るルーズベルトに対してヨーロッパに向かうのと引き替えに一つの対案を出した。自分がヨーロッパに向かう代わりに、数年前までフィリピンに自らの副官として共にいたドワイド・アイゼンハワーを太平洋方面の司令官にしてくれ、と。
 これをルーズベルト大統領は快諾。アイゼンハワーのオーストラリア派遣までに彼を中将に特進させて(1939年9月時点では中佐で開戦時も准将だった)、太平洋方面軍司令官に任命した。そしてアイゼンハワーにフィリピン防衛を、それが無理な場合は一日も早いフィリピン奪回をよく言い含めたマッカーサーは、取りあえず大将の階級章とヨーロッパ方面軍総司令官の役職と共に意気揚々とヨーロッパへと向かう準備を始めた。
 また軍部には余りにも派手で傲慢なマッカーサーを嫌う者が数多く存在していたが、太平洋方面がマーシャルが気に入っていたアイゼンハワーに任命された事で少しばかり安堵した。またマッカーサーの下に、優秀な調停役となる軍人を付けるようにマーシャルが取りはからったため、少なくとも当面は反マッカーサー派の軍人達も現状を受け入れる姿勢を示した。
 一方、ほとんど突然に突然太平洋方面を任されたアイゼンハワー将軍は、太平洋艦隊壊滅により次の太平洋艦隊司令長官となるニミッツ提督と西海岸やハワイで何度も協議した。そして限られた戦力と戦争資源で、いかに効率よく日本軍と戦うかの議論を交わした。その中で互いの力量を認め合い、陸海軍共に深い連携を取ることを約束した。
 かくして二人の調停者によって、太平洋では地味ながら着実な戦いを開始する。何しろ太平洋艦隊が開戦壁頭で壊滅したとあっては、当面は地味な防衛戦争以外選択できなかった。また広大な太平洋での戦いは、陸海軍の密接な協力なくして勝利はあり得なかった。

 これに対してヨーロッパ方面では、強い個性を持ったマッカーサーによって早々に混乱が引き起こされていた。
 彼の本格的なヨーロッパ進出は42年11月に開始された北アフリカ作戦からだったが、それまでのヨーロッパ派遣軍編成で大量の戦争資源と兵力を自分の手元に握っていた。
 そして北アフリカの派遣軍は、初戦ではドイツ軍に無様な面を見せたりもしたが、戦略家としてのマッカーサーの手腕は冴え渡った。『蛙跳び』と言われた洋上機動戦術で、地中海のドイツ軍を次々に追い込んでいった。豊富な戦力と海上機動、制空権の有無が戦略的勝利を決定付けた。
 しかもマッカーサーは、司令官就任当初からアメリカ本国に対して欧州により多くの物資と兵力を回すように強く訴え続けてもいた。レンドリースも、共産主義者に渡すぐらいなら自分に回せと強く訴え、議会工作すら行ってみせた。
 兵器及び兵站物資の供給も、常にヨーロッパ優先であるべきだと巧みに論陣を張った。
 イエロージャーナリズムも利用して、日本などよりドイツそしてヨーロッパにこそ戦力を回すべきだと訴えた。
 そうした行動には非難もあったが、彼が一介の軍人ではないことを人々に印象づけた。
 そしてそのマッカーサーの目的は、1943年秋のヨーロッパ本土への上陸だ。華麗で大胆な反撃作戦を行うことで、歴史に自らの名を永遠に刻み込むことだった。
 そしてソ連向け予定のレンドリースの半分(※終戦までに約50億ドル=アメリカの戦争リソースの1.25%に相当)が「マッカーサー」の上陸作戦用の資材と兵器と兵站物資、ドイツに対する戦略爆撃に化けた。さらに太平洋に回される予定だった師団と航空機、物資の三分の一が来るべき上陸作戦に回されていく。海軍についても、上陸作戦に必要な旧式戦艦などがわざわざ太平洋から回された事もあった。
 この結果、ソ連赤軍の反撃は遅れた。少なくともソ連首脳部はそう考えた。何しろ自分たちの物資不足のために、スターリングラードではドイツ軍の脱出を許し、ドイツが仕掛けてきた「砦作戦」では、自軍の燃料や兵力の不足から、痛み分けながら戦術的敗北を喫して野戦軍に大打撃を受けた。逆にアメリカ軍は、豊富すぎる兵力と物資を用いて北アフリカ戦を有利に戦い、英本土に膨大な兵力を蓄積しつつあった。
 スターリンは激怒してアメリカに援助(レンドリース)を増やすように言ったが、ほとんど無駄だった。既に欧州(イギリス本土)に渡っていたマッカーサー将軍(既に大将)は、本国からの伝言に対して共産主義者の戯だとしてまるで聞く耳をもたなかった。イギリスのチャーチルも、共産主義者への過分な肩入れは不要との見解を(水面下でのみ)示して、事もあろうにマッカーサーに同調した。
 そして欧州司令部の順調な戦争展開を前に、アメリカ政府もほんの少しばかり対ソ援助を増やして、お茶を濁す程度のことしかしなかった。そう、アメリカ軍の本格的投入によって、もうソ連軍が戦争の主力である時は終わりを告げるのだ。
 逆にマッカーサーは、アメリカン・ボーイズの戦死者を減らして戦争を効率的に展開するためには、もはや必要不可欠な存在だった。何しろ彼の戦略は的確だった。
 そしてマッカーサーは、自らの予定表通りに1943年9月にドーバー海峡を強引に突進する。今まで集めたありとあらゆる戦争資源を投入して、西ヨーロッパ中央部へと一気に躍り込んだ。
 なおマッカーサーが急がせても、上陸作戦のための物資や兵力の不足は否めないため、欧州正面を優先すると反撃作戦の予定が変更された。結果、シチリア島上陸作戦とその後のイタリア本土上陸が後回しとされ、兵力と時間を作りだした。ただしその代わり、陽動のためのサルジニア島上陸作戦が行われ、ドイツ軍がロクに兵力を置いていなかったため呆気なく作戦は成功。しかもドイツ軍は、地中海沿岸が極度の危険にさらされたと解釈して、余計な戦力を地中海沿岸に配備して、兵力分散を余儀なくされた。ここでもマッカーサーの戦略眼の正しさが証明された形となり、早期の欧州反抗を止める一派の動きも潰えてしまった。
 そしてマッカーサーに最も翻弄されたのが、敵手たるドイツ軍だった。
 自らの砦作戦と連合軍のサルジニア島奪回によって、ドイツ軍は各地での戦闘を中途半端にせざるをえなかった。また、各地に兵力を分散配置しなければならなかった。
 このため米英軍のドーバー海峡突破を阻止すべき戦力は、ドイツ軍には存在しなかった。
 しかもドーバー海峡には、ドイツ宣伝省の言うところの「大西洋の壁」などまともに存在しなかった。カレー地区などドーバー海峡正面で砲台など多数が建設されている地区もあったが、海岸線の長さと連合軍の膨大な物量を考えれば気休め程度でしかなかった。
 その上マッカーサーは、上陸場所にドーバー正面のカレーを選ばずに、ほとんど誰も注目していなかったノルマンディー半島を選んだ。
 そしていち早く大西洋側にやって来たパットン将軍はフランスの平原で暴れ回り、マッカーサーもこれを強力に支持した。結果アメリカ軍は、クリスマスまでにライン川西岸にまで前進する事に成功する。共に上陸したイギリス軍は、まだ遙か後方だった。
 なお、急速すぎると言われた進撃の成功は、アメリカの総反抗と進撃があまりにも早すぎたため、ドイツ軍全体に対応する時間を与えなかった事が主な要因だった。
 確かに43年初秋当初の西欧には、50個師団近いの部隊が存在するには存在していた。しかし師団の約半数は、自力での移動力を持たず戦力も低い固定配置の海岸防衛用の「張り付け師団」だった。しかも各地の海岸に分散配置されており、ノルマンディー方面には2個師団しかいなかった。それ以外の師団のほとんども、東部戦線でボロボロになって帰ってきてフランスで再編成中の部隊ばかりだった。再編成中の各師団の戦闘力は、平均して充足状態の3割もあれば高い方だった。機甲師団もいくつかいたが、補給なども考えれば戦力価値はほぼゼロだった。
 つまり43年初秋当初の西欧には、まともな戦闘力を持った師団単位の戦闘部隊はほとんど存在しかなかった。まともな戦闘力を持っていた師団の数は、五本の指を折って数えられる程度でしかなかった。しかもそれすら、ほとんどがカレー方面に集中していた。
 このため連合軍、というよりアメリカ軍の最大の敵は、戦闘地域に対する自軍の兵站維持だと言われたほどだった。何しろアメリカ軍は、43年春の時点で陸軍師団全体の編成を国内で終えつつあり、作戦発動の時点で欧州全体で50個師団近くが活動中で、さらに毎月1個軍団(3〜5個師団)がアメリカ本土から直接投入可能だった。英本土に集結したイギリス軍以下の連合軍も、40個師団近い戦力を整えつつあった。
 しかも「砦作戦」(クルスク戦)を終えて間がなかった事も、ドイツの対応を遅らせることになった。秋口の時点ではドイツ野戦軍は疲れ切っていて、急ぎ西欧に回されても戦力通りの役割が果たせなくなっていた。
 加えて、連合軍の作戦発動直前の8月に東部戦線から引き抜かれた幾つかの戦力は、まずは危険度が高くなった地中海沿岸に配備されてしまった。連合軍の爆撃が続くシチリア島からも、戦力は動かせなかった。そしてようやくドーバー海峡正面に本格的に手を付けようとした所に連合軍が押し寄せ、全ての防衛体制を粉砕したのだった。
 しかもマッカーサーがけしかけた形になったパットン将軍は、補給も無視するかのように強引にフランスの平原を戦車軍団で進撃。堅実な戦争を訴えるモントゴメリー将軍と連合軍内での協調を訴える自軍のブラッドレー将軍を、マッカーサーとパットンの二人の個性が封じてしまい、連合軍の強引な進撃を可能とした。当然ながらイギリスとの関係は悪化した。
 しかも余りにも大量に用意された物資のおかげで、パットン将軍は特に補給不足に陥ることもなく、逐次投入となったドイツ軍増援部隊を次々と撃破していった。パットン将軍は、上陸からわずか一ヶ月でパリを解放し、三ヶ月でフランスとベネルクス主要部をいち早く解放した英雄となった。
 ただし冬に入いると流石に進撃速度が息切れしたため、43年はドイツ本土への侵攻はかなわず、パットン将軍はライン川での立ちションベンで我慢しなければならなかった。
 連合軍は、解放した国への物資供給も行わなくてはならないからだ。しかし冬までにアントワープを中心に補給ラインが新たに構築される予定だったので、ベルリンまでは後半年と見られた。
 だが、連合軍全体で見た場合、問題がなかったわけではない。
 ソ連は、43年夏にドイツ野戦軍との決戦に敗北したこともあって、自分たちを囮に使ったとアメリカに対して酷く怒った。アメリカからのレンドリースが十分に届かなかった事も、ソ連側の怒りを大きくしていた。ソ連から見れば、アメリカだけが利益を得るための戦争をしているようにしか見えないからだ。実際は、マッカーサー将軍が全ての栄誉を得るため策略を巡らせていただけなのだが、成功者のマッカーサー以外のほとんどがアメリカの戦争指導に不満を持っていた。これはアメリカ大統領のルーズベルトですら例外ではなかった。イギリスのチャーチルも、これまで戦ってきたイギリスを無視するようなフランスでの戦いに、アメリカへの不満をぶつける毎日だった。
 1943年11月のカイロ会談では、マッカーサー将軍の独断が非公式の議題に上ったほどだった。
 しかしルーズベルトから苦言されたマッカーサー将軍は、ソ連政府が求めたからこそ一日も早い第二戦線を作り上げたのだと正面から堂々と反論して見せた。そう言われてしまうと、反論の余地がなかった。それまでソ連は、一日も早い第二戦線の構築をアメリカに言っていたからだ。現実は、マッカーサーの言葉の肯定でしかなかった。しかもマッカーサーは余りにも巨大な成功によって、アメリカ市民からは圧倒的な支持を得ていたため、アメリカ大統領と言えど必要以上に彼に強く当たる事も難しかった。
 マッカーサー主導による強引な上陸作戦のおかげで犠牲が大きかったと言われる事もあったが、フランスでのドイツ側の防衛体制が十分でないため総合的な損害ははるかに少ないと判定された。数字に表れている現状は、マッカーサー戦略の正しさを語っていた。フランスのドイツ軍は、ドイツ軍の予測をはるかに上回る早さの連合軍の総反抗のおかげで防衛体制が全く整ってなく、連合軍の予想以上に脆かった。少なくとも結果はマッカーサーの正しさを肯定していた。
 フランスでは、編成表上では60個師団近くいたドイツ軍の三分の二が短期間で殲滅され、連合軍に進撃路を提供していたのだ。

 そして欧州反抗から半年後の1944年3月、さらに体制を強化したライン川西岸の連合軍3個軍集団、約90個師団、約300万人の膨大な戦力は、満を持してドイツ本土への進撃を開始する。
 これまでに片手間のようなシチリア島、イタリア本土への上陸も果たし、さらに戦線を構築してドイツ軍を分散した。また欧州反抗と同時にフランスに戦術機の多くを持ち込んで、ドイツ上空の制空権をほとんど奪うことにも成功していた。ドイツ上空に日常的に連合軍機が飛ぶようになっては、ドイツ空軍はパイロットの訓練がままならず瞬く間にその能力を低下させていった。
 また前線のすぐ側となったドイツの心臓部であるルール工業地帯の稼働率も大幅に落ちており、もはやドイツの命運は風前の灯火だった。軍需相となったシュペーアが力戦奮闘しても、半ば焼け石に水に思える状況だった。ただし東部戦線では砦作戦の成功もあって、いまだにソ連領内のドニエプル川近辺で持ちこたえていた。
 連合軍とソ連軍の目指すベルリンまでは、ソ連軍が倍以上の距離の開きがあった。スターリンにとっては、絶望的とも言える距離だった。
 なおこの時期、ドイツでは大規模なクーデター未遂事件や、米英軍に対する講和への働きかけも若干あったが、いずれも失敗もしくは中途半端なものでしかなかった。このためマッカーサーは、混乱するドイツを後目にドイツ本土への前進にゴーサインを出した。
 後はドイツ軍の決死の反撃を連合軍が得意の物量で粉砕するという戦闘であり、連合軍とっては既に野球のリーグ戦での消化試合のようなものでしかなかった。
 しかしドイツ軍は、本土防衛戦という事でかなり頑強な抵抗を示した。この背景には、ソ連軍がまだ欧州にまで迫っておらず、米英軍こそがドイツの敵だと認識されている時期だったことも影響していたと言われている。特に7月頭から始まったベルリン攻防戦は熾烈な戦闘となり、連合軍も10万人近い死傷者を出すことになった。
 そして1944年7月20日ベルリンに星条旗が翻り、パットン将軍がベルリン陥落の英雄となった。ヒトラー総統はごく一部の幹部と共にベルリンと運命を共にしたが、多くのナチス党幹部がいまだドイツ領内に潜伏していた。

 その時ソ連軍は、6月22日に「バグラチオン作戦」を発動させて総反抗に転じるも、距離の問題もあってまだ自国領内でもたついていた。圧倒的優位に立ったマッカーサーは、そのままドイツ東部とポーランド領域への前進を指示した。
 一方では、首都が陥落して次の総統に指名されていたハンブルグのデーニッツからは、全ドイツ軍に対して連合軍に対する停戦と武装解除そして降伏が命令された。しかしソ連はドイツ軍の降伏を認めず、武力をともなった前進も止めなかった。このため東部戦線のドイツ軍以下枢軸国軍も戦い続けざるを得なかった。
 そしてソ連の野蛮な行動を見たマッカーサーは、ほとんど事後承諾的な前進命令を麾下の全部隊に命令。カイロ会談でのソ連との密約を完全に反故にして、全ヨーロッパへの進駐を開始する。ヨーロッパ解放の真の英雄の座を自らの手に掴むための前進命令であった。だからこそベルリン陥落はパットンやブラッドレーに与えたと言えるだろう。
 アメリカ政府は当初マッカーサーの動きを抑制しようとしたが、マッカーサーの正論と密約を証すことが出来ないと言うジレンマ、各自由政府からの強い要請もあって、マッカーサーの歩みを止めることは出来なかった。
 しかも、既に降伏したドイツ軍や他の国々の軍も止めることがないため、ドイツ降伏からわずか半月で、東欧のほとんど全土に連合軍が溢れた。理由は言うまでもない。ソ連が入り込んできたら、赤い政府が作られてしまうからだ。欧州の大地でマッカーサーを歓迎する者はいても、止める者はどこにもいなかった。しかもドイツ軍の多くも、連合軍(英米)との戦闘が終わるとソ連との戦いに向かっており、ソ連軍が大きく前進する事は適わなかった。
 そして8月頭にようやく米軍兵士の前進が止まった場所は、ソ連国境だった。しかも彼らが到着した線は、独ソ不可侵条約以前のソ連国境だった。この過程で連合軍は、ドイツ降伏まで抵抗を続けていた北部イタリアにも進駐した。現代のカエサルを気取っていたと言われたマッカーサーだったが、イタリアでの戦いはついでのような戦いでしかなかった。
 そしてヨーロッパの全てがアメリカに「奪われた」時点で、ソ連中央部も赤軍に戦闘停止を命令せざるを得なかった。さすがのスターリンも、勢いに乗るアメリカを新たな敵とする気は持てなかったからだ。
 欧州での最終的な戦闘停止は、1944年8月8日となった。

 その後ソ連は、外交による挽回を図ろうとする。
 まずは、戦勝の正統な権利として、東部戦線のドイツ軍捕虜を寄越すように連合軍側に強く要求した。次いで各国の連合国各国による、枢軸国各国の分割統治を強く提案した。特にドイツに対しては、主要国が均等に分割占領すべきだと要求した。しかもソ連軍は、軍部隊も連合軍と対峙させるように配置したままで圧力をかけた。
 しかし連合軍最高司令官マッカーサー元帥は、ソ連の提案の多くを否定して、侵攻した国の軍隊による占領統治をソ連以外の各国首脳に強く提案した。水面下での協議では、連合軍側からの提案が断られた場合は、ソ連及び共産主義の侵略性の高さを理由に、新たに戦端を開くことも辞さない態度をとるべきだとした。共産主義者に妥協は禁物で、力を伴った強気こそが有効なのだと彼は力説した。
 イギリスのチャーチルは、対共産主義政策に関する限りマッカーサーに賛同した。フランスのド・ゴール将軍も同意した。占領されたドイツなどは、いまだにロシア人への敵意を露わにした。ロシア人に蹂躙されるかもしれない東欧諸国に、異論があるはずなかった。ロシア人嫌いは、ヨーロッパ社会のスタンダードなのだ。しかも相手が共産主義者とあっては、マッカーサーの提案こそが正義であった。
 史上空前の四選を目指した大統領選挙を目前に控えたルーズベルトも、11月の選挙が間近いこともあって国民的英雄の言葉を受け入れざるを得なかった。恐れる者のなくなったマッカーサーが、何をしでかすか分かったものではないからだ。まさに彼は、現代のカエサルだった。

 かくして1944年10月、ヨーロッパの戦いはカーテンコールを迎える。
 そして歴史上空前の勝利を掴んだマッカーサーは、ようやく思った。
 そう言えば、太平洋戦線はどうなったのだろうか、と。



●パーフェクト・ウォー「太平洋戦線」