●エピローグ「パックス・アメリカーナ」

 1956年1月、共和党候補として大統領選挙に出馬したドワイド・アイゼンハワーは、アメリカ合衆国大統領に就任した。
 第三次世界大戦は既に1953年7月25日に終了しており、世界はアメリカの圧倒的という以上の優位によって形作られていた。
 15年前まで陸軍中佐に過ぎなかった男は、事実上の世界の覇者となったのだ。

 1949年夏から約四年間続いた第三次世界大戦は、アメリカ市民がソ連(ロシア)領内深くでの出口のない戦闘に嫌気がさした段階で両者の間に停戦協定が成立した。しかしアメリカ率いる国連軍が踏みとどまっていた停戦ラインは、ソ連領内深くだった。
 プロパガンダでは常に強気だったソ連も、内実は疲れ切っていた。ソ連領内には300万トンもの爆弾が投下され、かつてドイツが破壊した以上に荒廃していた。3メガトンという単位は、核兵器が初戦以外で使われなかったとしても、何の慰めにもならなかった。ソ連が滅びなかったのが、せめてもの救いだった。アメリカは、ドイツなど比較にならないほど強力だった。
 しかもウクライナを中心に、第二次世界大戦でドイツに荷担したとして戦後粛正された者が多かった地域では、ソ連政府中央に対する反発も強く、戦争中盤以降の第二次祖国解放戦争での反抗やレジスタンス活動は低調だった。国連軍が攻め込むと、あからさまにソ連を裏切る者も続出した。これには、アメリカが多大な援助とドルの浸透を行った要因も大きかった。
 ソ連側の戦死者の数も、無理な戦闘により500万人に達したと言われている。第二次世界大戦と合わせて、ソ連領内の男性がさらに激減し、その後の人口構成に大きな傷と後遺症を残し続けた損害だった。一方で、アメリカを中心とする国連軍も、アメリカ軍、ドイツ軍、東欧各国軍を中心として軍人だけで100万人近い戦死者を出し、アメリカだけで1500億ドルの戦費を使用したが、停戦時の戦況はアメリカ優勢だった。
 アメリカ政府が停戦に応じたのも、ソ連を追いつめすぎて本当の全面核戦争になることを警戒したからだとも言われた。平和を求める声に応じたというのは、表面上の宣伝文句でしかない。
 しかし「終戦」ではなく「停戦」であり、「講和会議」はなく「停戦会議」だった。以後アメリカとソ連は、長らく形式上の戦争状態を続けていく事になる。核兵器使用に関する罪と今後について話がまとまらなかったのが、「停戦」の一番の原因だったと言われた。
 なおバルト三国は、1939年に奪われた独立を完全に回復した。ソ連を気にする必要性は以前よりも減っていた。国連軍が占領したベラルーシやウクライナでも、民族政府による民主的な暫定政権が作られた。
 トルコのイスタンブールで行われた停戦会議では、これらの処遇をどうするかで大きくもめたのだが、結局国力、軍事力の差がものをいった。またアメリカが事実上の威嚇として実験に踏み切った水爆の存在が、ソ連の必要以上の強気を抑止した。全ヨーロッパを敵としたソ連が感じている恐怖心は大きなものだったので交渉はなかなかまとまらかなったが、皮肉にもバルト三国やウクライナが新たに実質的な緩衝国となったので、最終的に話をまとめることが出来た。
 また戦争中にドイツが独立復帰するだけでなく、経済面、軍事面でも完全に復活してしまった事も、ソ連側の恐れを強くさせた。実際ドイツは、以後東部ヨーロッパからソ連国境にかけて最も大きな影響力を持つようになっていく。

 一方アジアは、ヨーロッパと逆だった。
 戦争中に、中華民国は実質的に共産党によって滅ぼされていた。破れた国民党は、海南島に取りあえずの政府拠点を構えた。米軍軍政下の満州や台湾をアメリカが国民党に与えなかったのは、表面的には欧州以外に手が回らなかったからだとされた。また満州は、ソ連に対する抑えのためにもアメリカによる委任統治が必要だとされた。戦争中のため、政治的な混乱を避けるためともされた。また安定後に中華民国に領土を返還するという口約束も行われた。
 しかし実体は、アメリカが国民党に完全に愛想を尽かしていたからだった。またアメリカ兵士の血で得た所を誰かに与えると言うことが、アメリカの国内世論的に許されなかったからでもあった。三度目の世界大戦中だった事が、アメリカに現実的路線を選択させたのだ。逆に国民党に最低限の庇護を与えたのは、第二次世界大戦での一応の戦友だったからだ。
 なお、アメリカは満州を握ったままで、当然蒋介石が半ば脅しによる明け渡しを求めるも、アメリカが明け渡しの条件としてアメリカ軍及びアメリカ資産の全面撤退を伝えると、すごすごと引き下がった。流石の蒋介石も、自分の立場を理解した。ここでもアイゼンハワーの手腕が発揮されたと言われている。
 また中華地域以外にも、ベトナムで共産党が民族組織として勢力を拡大して、フランスの弱体によって北ベトナムを実質的に押さえるに至っている。これは東南アジア全域に衝撃を与え、東アジア全体で反共産主義的姿勢を強めさせることになる。
 そして中華民国の極端な矮小化と中華人民共和国の事実上の成立、アメリカによる満州維持、さらにはソ連との緊張状態の継続という状況によって、俄に日本に注目が集まった。
 日本の再建と国際復帰は、戦争特需も重なって一気に進展した。戦争に惨敗した当時では考えも及ばなかった棚ぼただった。第三次世界大戦に置いて日本は、実質何もしていなかった。やった事と言えば、戦争特需に沸き返り、主権を回復し、国際連合に加盟し、軍事力を再建しただけだった。
 要するに、全部自分たちに必要な事だけをしていたに過ぎない。

 そして第三次世界大戦後の1954年春、国際連合は第三次世界大戦と独立国の増加を踏まえて再編成される。常任理事国にはアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、ドイツ、日本、インド、ブラジルの8カ国が選ばれた。中華民国は常任理事国から外され、中華人民共和国は国家としてすら承認されなかった。
 しかも常任理事国の拒否権項目は無くされ、安全保障会議は非常任理事国を含めた出席国の3分の2以上の賛成多数と改訂された。第二次世界大戦中に作られた、旧枢軸国に対する敵国条項もなくされた。もう一度正面から戦争を行ったが故の変化だった。
 また、満州、台湾は引き続きアメリカの委任統治領下に置かれ、後々に民族自決国家としての独立を目指すとされた。歴史的に見て漢民族以外の民族地域と認定されたの表面的理由だが、実際は共産党に渡さないためだった。国民党にも渡さなかったのは、国民党に渡ることで北東アジアで再び戦争が起きて、共産党勢力に満州と台湾を奪われる事を警戒しての事だった。満州ならば、ソ連も警戒しなければならないので尚更だった。
 欧州でも欧州ロシアの半分までが、当面はアメリカ経済の下に組み込まれたも同然だった。
 アメリカの優位は、もはや決定的だった。

 そうして安定した戦後世界は、より強大化したアメリカと、矮小化したソ連以下の共産主義陣営による、アメリカにとって都合の良い対立構図となった。
 第三次世界大戦が終わった時点での共産主義陣営は、ソ連、中華、モンゴル、北ベトナムだけだった。しかもソ連と中華の関係は同じ大陸国家のため親密とは言い難く、中華、北ベトナムは世界的には国家承認すらされていなかった。盟主たるソ連も、三度目の戦争で国力を世界の十分の一以下にまで低下させたため、第二次世界大戦末期以後のような勢いは完全に無くしていた。
 アメリカの優位は全く揺るぎなかった。
 ただし東アジアの不安定さは逆に上昇したため、この地域で唯一近代産業を持つ日本の価値は高まり、戦後日本はアメリカと緊密に連携する事によってアジアの大国として再び浮上する事になる。

 そしてその日本では、軍国主義の悪夢から日本人を解放したアイゼンハワーに対する評価は非常に高いものだった。
 アイゼンハワーの大統領就任後に行われた訪日も、日本全土の熱烈な歓迎によって迎えられ、日米の新たな関係を築く大きな礎となった。学生運動を中心とした左翼運動や反米運動も、国民の圧倒的多数の声によって吹き消されてしまったほどだった。
 なお、欧州の戦争で主要な役割を果たしたマッカーサーの名を知る日本人は、今現在に至るも専門家や歴史愛好家を除けば殆ど皆無である。

※:アイゼンハワーの第二次世界大戦からの経歴:
1941年3月大佐昇進
同年9月准将昇進
1941年12月少将昇進
1942年1月中将昇進
同時に太平洋方面軍司令官に就任
1944年大将昇進
同年11月元帥昇進、同時に極東総司令長官に就任
1950年6月国連軍最高司令官に就任
1956年1月アメリカ合衆国大統領に就任

●最後に一言

 もっと短く話をまとめる積もりでしたが、意外に長くなってしまいました。
 第三次世界大戦は少し蛇足だったかもしれません。
 ですが話のオチとして、マッカーサーの史実と似た退場とアイゼンハワーの大統領就任は外せませんでした。
 それと、「日本国民に熱烈歓迎されるアイゼンハワー」と「日本人に知られていないマッカーサー」の二つが本当のオチだったので、ここまで書かざるを得ませんでした。

 それではまた違う並行世界で会いましょう。