●フェイズ108「インドネシア戦争(2)」

 インドネシア戦争は、スマトラ島南部を主戦場として1965年の夏には激しさを増した。戦いは、アメリカ軍などによる空や海からの空襲だけでなく、既に全面戦争と言える状態だった。

 アメリカ軍は、続々と兵力をインドネシアのスマトラ島へと投入した。特に陸軍部隊が、スマトラ島南部に投入された。
 最初は小規模な部隊だったが、夏には20万人近い兵力が投じられた。特にこの時期の第1騎兵師団は、第二次世界大戦頃の機甲師団編成から大幅に改変され、新世代の騎兵である400機以上のヘリコプターを装備する世界最先端の装備を有する空中機動師団と化していた。他にも熱帯や湿地に適応した部隊を優先して投入していた。「グリーンベレー」で知られた特殊部隊については言うまでもない。
 そして日本はもちろん当事者のインドネシア連邦政府すら押しのけて、「主にスマトラ島南部で行われたインドネシア戦争」を自ら「アメリカの戦争」にしてしまう。
 しかも派兵自体は1961年には開始されていた。最初は秘密裏にグリーンベレーを少数投入して、スマトラ島南部での様々な任務に就いていた。それが「スンダ海峡事件」以後激変し、それまで連邦政府を最も支援していた日本を押しのけるようにして、自らとソ連との冷戦の舞台の場としてインドネシア戦争を設定する。アメリカはソ連に対して勝つ気満々、負けるはずのない戦いの開始だった。
 そしてアメリカは、アメリカらしく短期で敵を押しつぶそうと考えるも、戦争の長期化、泥沼化で派兵数は上昇の一途となり、戦いにのめり込んだ末に最大派兵数は約55万人にも達した。これだけの規模の投入は、アメリカとしても計算外だった。
 投入された陸軍部隊、海兵隊も師団数だけで10個になり、中でも空挺部隊、ヘリ部隊の過半がスマトラ島に投入されていった。派兵した兵力は、西ヨーロッパと支那北部でソ連など共産主義陣営と直に睨み合う軍隊を除けば根こそぎ動員と言える規模で、事実アメリカでは徴兵制、兵士動員が強化されている。そして長い戦争で厭戦気分が高まり、アメリカ国内での強い反戦運動、徴兵忌避「強いアメリカ」としてあり得ない事態を招くことになる。
 そして1965年頃のアメリカは、戦争の基本ドクトリンでもある大軍投入によって敵を押しつぶすという戦略に従い、自らだけでは足りない分を友邦に力を借りることとする。
 だがそれだけでは足りず、まずはインドネシア連邦政府に膨大な支援を実施して、巨大な軍隊を建設させた。だが急造のインドネシア連邦軍は、一部を除いて指揮、士気、練度など多くの面で不安が多く、しかも軍内部でも各民族の対立があるなどで連携も取れず、NLFに後れをとる事が多かった。
 このためアメリカは、頼りになる友邦を頼らざるを得ないという面も強かった。そしてインドネシアに派兵したほとんどの国に対して、経済面、軍事面での支援を約束した上で、ジャングルでの地上戦に勝利するべく各国に援軍を呼び込んだ。
 この状態に対して先客の猛者揃いとされるアメリカ海兵隊員達は、「地獄へようこそ、戦友!」と、皮肉な笑みで新たな犠牲者でしかない友軍を出迎えた。

 こうして時期をほぼ同じくして、アメリカ軍以外の兵力もインドネシアへと駒を進めていく。
 最終的にインドネシアに一定数(1000名以上)以上の軍隊を派遣した国は、派兵数順にアメリカ合衆国、日本帝国、満州帝国、インド連邦、ベトナム王国、オーストラリア連邦、ニュージーランド、イギリス、フィリピン、マレー、タイ王国になる。このうち高い戦力を派兵していたのは、アメリカ、日本、満州、インド、ベトナム、オーストラリアだった。
 もっとも、オーストラリアとニュージーランドは、戦争前からオーストラリアが実質的に統治する西部ニューギニアへの派兵が殆どなので、除外してもよいだろう。西部ニューギニアでの戦いは皆無では無かったが、規模の小さなゲリラ戦ばかりで大勢にも影響はなかった。
 派兵では、支那共和国、支那連邦共和国、韓王国も政治的には積極的だったのだが、どの国もアメリカ及び日本から厳しく止められている。
 支那共和国、支那連邦共和国は、何より目の前の中華人民共和国と対峙してもらわなくてはならず、支那連邦共和国はまだ国際的に認められた国とは言い難かったからだ。それに支那共和国は、アメリカのコントロールが効かないという恐れが高いので尚更だった。
 韓王国については、アメリカは自分たちの代わりに血を流してくれる歩兵ぐらい出させてもよいと考えていたが、朝鮮半島の事に詳しい人々から十分にレクチャーを受けていた日本政府、満州政府が断固として反対した為、派兵されることはなかった。
 もっとも、中華および朝鮮由来の国が派兵から外されたた理由は、あの地域で歴史的に行われてきた蛮行の再現を酷く警戒したが故であり、支那戦争などで行われた記録にすら残し難い蛮行がその証拠とされている。
 また、イギリスが自由主義陣営の一角として派兵に前向きだったのだが、西ヨーロッパからの兵力引き抜きは可能な限り避けたいというアメリカの考えもあって、本格的な軍隊(部隊)の派遣は行われなかった。それでもまとまった数の海軍艦艇やジャングル戦に対応できるレンジャーや特殊戦部隊を数百名派遣しており、かつての植民地帝国の豊富なノウハウを各国に披露している。
 そして同じ西ヨーロッパにあり、本来なら当事者でなければならないオランダだが、インドネシアから逃げ出して以後のオランダには、もうインドネシアに兵力を派遣する力は無かった。それどころか政治的に介入する力すら失っていた。本国の目の前にソ連の大軍団が睨みを効かせているとは言え、無責任ではないにしても植民地帝国主義のいい加減な一面を示していると言えるだろう。オランダが辛うじて関わったのは、かつての植民地情報を伝える事と、一部にいた現地言語や文化に詳しい人員を非戦闘員として派遣するぐらいだった。
 そしてアメリカ軍が頼りとしたのは、インドネシアと同じアジアの国々、日本、満州、インド、ベトナムの各軍隊だった。これらの国々の派兵数は、最大で総数30万人にも達している。

 ベトナムは、フランスから独立を勝ち取ると立憲君主制度を取り、独立以後は比較的安定した統治が続いていた。かつて見られた共産主義運動も皆無では無かったが、チャイナが国境を接しなくなり、欧米諸国も概ね関心を失い周辺に外敵が減ったで、冷戦世界の中では正直どうでもよい場所になった。第二次世界大戦前から共産主義運動を続けていたホー・チ・ミンらも、生き残りは共産圏への亡命を余儀なくされた。国内では歴史的に南北の関係が良好とは言い難かったが、この時期は共産主義への警戒感から特に政治的問題になる程でもなかった。
 そうした中で、インドネシア中枢部での共産主義政権誕生には強い危機感を持った。再び自国に共産主義が波及するのではないかと考えたからだ。しかもベトナム政府は強かで、アメリカから援助を引き出した上で部隊の派兵を決定する。
 後進国のため、アメリカもしくは日本からのお下がりの武器の供与を受けて装備を整えるしかなく、10数年前まで植民地だった上に内乱までしていたので、アメリカの期待は低かった。
 しかし亜熱帯に国を持つこともあって、熱帯ジャングルへの適応能力は高かった。しかも十分な装備と支援を与えると、ベトナムの兵士達は非常に強かった。兵士の規律も行き届いていた。内乱を戦った兵士が中堅幹部になっていたこともあり、指揮能力も戦った。
 派兵から一年も経たないうちに、現地アメリカ軍は「歩兵の中の歩兵」、「糞の中にも筋肉が詰まっている」と賞賛し、特にレンジャー訓練を積んだ精鋭・通称「ベトナム・コマンド」は「ベトコン(VC)」と呼ばれて非常に頼りにされた。
 歴史的に主に中華地域の国家に対抗し続けてきたベトナムの兵士は強く、また内戦で実戦経験を培っていた経験がこの時良性に働いたと言える。皮肉混じりに、なぜフランスの植民地になっていたのか分からない、と言われたほどだった。
 派兵数は、最盛時で1個軍団3個師団で総数は4万人ほど。重装備は少ないが、中隊規模での火力密度を上げて対歩兵戦、対ジャングル戦に特化させる事で、他国に引けを取らない軍団として編成されていた。また戦争中に、アメリカ、日本から装備の供与を受けることで、かなりの重武装化も行われてもいた。
 戦争中はスマトラ島南部各地に展開し、現地のアメリカ軍、日本軍共にベトナム軍が支援要請を確約することを喜んだ。
 そしてベトナム自身は、インドネシア戦争で得た外貨を国土開発や産業の育成に投入することで、後に続く発展の端緒を掴んでいる。
 なお、ベトナムへの対抗心、もしくは付き合いから、隣国のラオス王国、カンボジア王国も若干の兵士をインドネシアに派遣したが、兵力の規模が限られていた事もあり後方での警備に若干活動したに止まっている。

 インド連邦共和国のインドネシア派兵は、主に国内の宗教問題が影響していると言われるが、環インド圏の覇権主義や膨張主義の一歩と言われる事も多い。
 主な派兵理由は、自国と同じイスラム教徒を共産主義の脅威から守るためだが、さらにはごく少数ながらヒンズー教(バリ・ヒンドゥー)が虐げられていた事も大きな理由とされている。
 そして派兵する兵士自体については、イスラム教徒を中心に選抜された。共産主義者に対しての、インド国内のイスラム教徒の心情を反映したものだった。同時にインド政府としては、インド全体として共産主義を敵とする事で、国内の団結を計るという目的もあった。このためあくまで志願だが、イスラム系以外の兵士もかなりの数が従軍している。チベットなどに派遣されているグルガ傭兵も、インド正規軍の一部に組み込まれていた。
 ただしインドの場合、戦場での独自性にこだわりを見せすぎたため、陸上戦力で2万さらには空軍と海軍を派兵して日米満以外ではベトナムに次ぐ戦力にも関わらず、アメリカから大きな援助や支援を受けることには失敗している。それでも皆無ではなく、特に日本からは日本の穴を埋める戦力として期待された事もあり、かなりの支援を得ることができた。その最大の象徴が、インドが空母保有国となった事だった。

 インドは、独立以後は内政統治を重視して、過剰な軍備も制限していた。外敵は山向こうのソ連以外いないに等しく、国内の宗教と民族対立こそが最大の問題だったからだ。しかし1960年代になると、長年の苦労の甲斐あって内政も一定の安定を見せるようになり、外に目を向ける余裕が出てきていた。そこにきてのインドネシアでの共産主義政権の成立と分立、さらには共産主義による宗教弾圧とあっては、黙って見ている事は内政問題ですらあった。
 そこでインドネシアへの派兵となったが、インド政府としては単に歩兵を出すだけでは諸外国の中で埋もれてしまうし、国民へのアピールも弱いと考えた。何より、今後の海外派兵のテストケースと捉えており、陸軍だけでなく三軍の派兵をしたいと考える。
 しかし、空軍も海軍も貧弱だった。それでも外敵が少ないので、空軍は出せなくもなかった。(※北東部山岳地帯がソ連のすぐ側だが、地形的にどちらも軍事対立をしたい場所ではなかった。)
 問題は海軍で、当時のインド海軍には日本などから払い下げたり供与された旧式の中古艦艇しかなかった。しかも予算不足から、ほとんど近代化改装も行われていなかった。最大級の艦艇も日本から譲り受けた《足柄》で、1965年頃はヘリ搭載能力を付与する為の近代改装を日本で行っていた。

 そしてインドは目立つ洋上戦力を欲し、日本は自らの不足する戦力の補完としての価値をインドに見いだすことで、両者の握手が成立する。
 だがどの艦をインドに譲渡するかでは、一悶着あった。インドが求める中型(2〜3万トン)の空母で適当なものがなかったからだ。70年代後半なら《瑞鶴》を譲渡しても良いと日本海軍は考えていたが、インド側はそれでは間に合わないと取り合わなかった。かといって、同型艦の練習空母の《翔鶴》は格納庫などが古いままで、離発着訓練にしか使えなくなっていた。それ以前の空母は、コマンド母艦としていた低速の護衛空母以外はすでに解体されていた。仕方なくインドは、一時はアメリカが保管艦としていた分の《エセックス級》に興味を示した。
 そこで日本側は、破格の条件で保管艦の大型空母を提示。搭載する機体の優先供与まで付けることで、インド側も半ば仕方なく首を縦に振る。インドとしても、アメリカよりは日本との関係を重視したかったからだ。
 そして1964年の段階で日本からインドには、日本で保管艦状態に置かれていた《瑞龍》を最低限の近代改装の上での譲渡が決まる。
 《瑞龍》は、第二次世界大戦終盤に就役した基準排水量4万トン級の大型空母だった。しかし、戦後の大規模な動員解除で予備役となり、実質的には退役となった。だが建造が新しすぎるため費用対効果の点で予備役とされ、さらには有事に備えて近代改装後の現役復帰も可能なように保管艦措置が取られた。
 満載5万トン近い大型艦なので、経験が浅いインド海軍での運用には非常に困難が予測されたが、実用段階に至るまでの運用では日本海軍から派遣された多くの将兵が指導に当たることになる。
 しかしジェット時代の空母として、そのままの《瑞龍》では問題が多々あった。中でも、カタパルトが油圧式の旧式で初期の頃のジェット機までしか運用できない事、着艦用のワイヤーも戦後の大型機に対応していない事、格納庫が二段でそれぞれの天井が低いため小型機の運用しか出来ない事、この3点が一番の問題だった。大型艦ゆえの乗組員の多さ、運用経費の高さも問題だが、その点はインドは本艦を海軍の新たな象徴と見ることで必要経費と割り切った。
 こうして突貫工事の近代改装で、同型艦の《雲龍》に準じた緊急改装を実施して、発艦カタパルト、着艦システムの換装と強引な格納庫の単段化、角度は浅いながらもアングルド・デッキ化を施し、さらには最低限の電子兵装、対空装備の更新が行われた。改装には結局1年近く要し、さらに最低限の実用段階に至るまで2年以上が必要だったため、インド海軍の《ヴィクラント》としてインドネシア近海に姿を見せたのは、1967年12月初旬にまでずれ込んだ。
 だが丁度その頃の日本海軍は、空母の常駐ステーションの維持で疲弊していたため、タイミングの良い時期に戦場に間に合う事となった。

 もっともインド軍自体は、インド政府が期待したほどの活躍は示さなかった。海軍と空軍は組織としてもまだ未熟で、陸軍もジャングル戦に出来る限り対応した兵力を派遣したが、他国同様に苦戦を強いられた。陸軍で最も期待されたグルガ兵を中心としたレンジャー部隊が唯一気を吐いたぐらいで、インド軍としては苦い国際デビュー戦となった。
 しかしインド軍が無理を押して行ったバリ島の支援や、それに連動した小スンダ列島への軍事行動は、人民政府を翻弄するという点で大いに効果があり、その後のインドネシア情勢に大きな影響を与えた点は忘れるべきではないだろう。
 なお、その後の《ヴィクラント》についてだが、インド海軍が最初に運用する空母が大型すぎて、運用には経費、経験、その他諸々がけっきょく追いつかず、インドネシア戦争の間は最後までインド海軍のお荷物のような存在となったのは少しばかり皮肉かもしれない。その後80年代前半に日本から《瑞鶴》の譲渡を受け、《ヴィラート》と改名して運用している。インドが満載5万トン級空母をまともに運用するようになるのは、その次の空母からだった。

 満州帝国は、インドネシア、特にスマトラ島への派兵では、アメリカに強く働きかけて最新技術、多額の援助金、貿易の優先権などを引き替えに、多数の兵力の派兵を決定する。
 当初投入された部隊だけでも1個軍団(※3個師団編成)に及び、その後も空挺部隊、ヘリ部隊、さらには河川舟艇隊など5万人を越える多くの兵力を投入した。空軍についても言うまでもなく、1個航空団が派兵された。しかし当時の満州軍は軍用ヘリをあまり保有していなかった為、アメリカ、日本から供与や同盟国価格での購入を行うことで充足している。しかし同時期は、アメリカも日本もインドネシアで大量のヘリが必要だった為、満州軍への供給が後回しにされる事が多く、インドネシアの満州軍はかなり後になるまで軍用ヘリの不足に悩むことになる。
 他国から入手したのは河川舟艇隊用の河川哨戒艇(PBR)やガンボートも同じだが、こちらは日本に生産余裕があったため同じタイプの船を必要な数だけ揃えている。なお、満州軍が河川舟艇隊用をすぐに用意できたのは、ソ連との国境になっているアルグン川、シベリア共和国の国境となっているの国境警備隊に河川部隊が存在していた事が大きく影響している。このため満州軍の河川舟艇隊は、アメリカ軍同様に陸軍が運用している。
 欠点は海軍だが、日本やアメリカから揚陸艦や軍用輸送艦、さらにはフェリーをチャーターして兵力を輸送し、一時期はアメリカに次ぐ兵員数をインドネシアに展開させた。特に50トン以上の重戦車の群れをまとめて送り込もうとしたのは輸送力の点で無謀と言われ、輸送を担った日本とアメリカに借りを作ることにもなった。このため後年には、海外派兵や国連軍活動用に自前の揚陸艦を整備するに至っている。
 そして重戦車を送り込んだように、派兵された兵力の中には有力な機甲部隊(※第二重機甲師団。アメリカの機甲師団並かそれ以上の戦力を有する。)も含まれており、借り物で行われた満州からスマトラ島への移動は、当時かなりのニュースにもなった。

 満州帝国軍の派兵数は、満州里でソ連の大軍と睨み合うのに不足するのではないかとアメリカが考えたほどだったが、満州帝国首相の辻政信は「ショー・ザ・フラッグ」と獅子吼しつつインドネシアへの派兵を実施した。この背景には、首相に就任してから何度かソ連への訪問を実現して、ソ連中枢とは太い信頼関係にあると考えていた為だった。
 だが、辻が信頼した第二次世界大戦の「同士達」には、辻が期待したほどの政治力は既になかった。満州が共産主義陣営(インドネシア人民共和国)を積極的に攻撃した事で、ソ連としては満州帝国への敵意と警戒感を強めざるを得なかった。防げなかったことを満州に詫びたソ連軍人が居たという噂もあったが、結果は満州にとって好ましいとは言えなかった。
 そして牽制としてソ連のザバイカル方面軍が増強され、ソ連と満州の直接の軍事対立も激しさを増してしまい、満州は今まで以上の軍備増強を計らなければならなくなる。もっとも、ソ連としても今まで以上にシベリアもしくは極東の軍備を強化しなければならなくなったので、負担の強まりと軍事費の増加は好ましいものではなかった。
 しかし、ソ連がザバイカル方面での緊張を高めた結果、辻は国民からの支持を失い、満州の首相としては比較的短期間で首相を退任せざるをえなくなる。しかも最も大事な時期に、満州軍の在インドネシア兵力が大幅に削減されるという、西側陣営にとっても痛い事態に至る事になる。
 このため満州軍は、1965年から67年にかけて最大の兵力を派遣していたが、戦争の経過のためインドネシア戦争ではあまり目立たない存在になってしまう。

 これに対して日本は、本格的派兵こそ少し遅れるも、アメリカと並んでインドネシアに継続して大軍を注ぎ込んだ。アメリカの第一の同盟国であり、自由主義世界の重要国であり、アジアの盟主であるという自負があるため、アメリカからの支援の約束を取り付けると続々と大軍を投入していった。アメリカ同様に日本国内では準戦時動員が実施されたほどで、日本にとっては支那戦争、第二次世界大戦以来の「戦時状態」となった。
 日本政府は、アメリカから大規模な派兵に対する報償として、具体的には航空宇宙技術の安価供与とその他様々な支援の約束を取り付けると、大軍派兵の準備に入った。
 既に1950年代後半からインドネシア問題には深く関わっていた事もあって、国民からの理解もある程度得られていた。野党民主党としても、支持母体に等しい軍部が大きい顔をできる政治的状況を前にして、無視することもできなかった。岸信介総理もそうした政治的状況を利用し、一種の戦争特需が見込まれると皮算用した財界からの後押しもあって、まるで挙国一致のような政治的体制を作り上げる。
 何よりインドネシアは東南アジアにあり、しかも日本からペルシャ湾にかけてのアジアの中継点となるシンガポールとマラッカ海峡が近いことは、日本にとって看過できない場所だった。
 だからこそ大規模な兵力を派兵し、その号砲として空母4隻も擁する空母機動部隊で一撃を浴びせたのだ。
 日本及び日本軍は、インドネシアで手を抜くつもりは一切無かった。

 日本軍の本格的派兵はアメリカ軍より少し遅れたが、1966年に入ると急速に進んだ。
 海軍及び戦略空軍の輸送機部隊は総力を挙げて兵力の輸送にあたり、特に海軍はシンガポールに前線拠点を作り上げた。戦略空軍は「原爆パトロール」用の戦略爆撃機部隊の基地の一つがある硫黄島とテニアン島に、戦術任務用の重爆撃機「轟山」を大量に送り込み、特にテニアン島を出撃拠点化していった。他にも戦略空軍は、1個航空群(2個航空団)の各種航空機をスマトラ島などに進出させる準備を進めていった。
 戦略空軍の影に隠れがちの防空空軍も、戦略空軍への対抗心からほぼ同等の規模(1個航空群)を派兵する。二つの空軍を併せると、固定翼機だけで400機近くが派兵される事になる。しかもこの数字は、海軍航空隊の機体を除いた数字で、不定期にインドネシア海域にやって来る海軍を含めると最大で600機を越える。
 戦争初期の日本軍の主力機は、防空空軍が「中島 一二式戦闘機 翠嵐」、戦略空軍が「三菱 一三式戦闘機 極光」、海軍が「三菱 一四式戦闘機 極風」のそれぞれ改修型になる。
 極光と極風は地上用と艦載機用の違いがあるだけでほぼ同じなので、実質二種類になる。どちらも支那戦争に間に合わせるべく開発の始まった機体だったが、どちらも完成は戦争後になった。翠嵐は防空戦闘機として優れていたが、単発ジェット機の中型もしくは小型に属する機体で、極光は双発ジェット機だが、様々な要素を求めたため機体が重く成功した機体とは言い難かった。ただしエンジンの換装でパワーアップし、この時期の機体としてはペイロードが大きいため、戦闘爆撃機としても使用できた。
 そして60年代になると、中島「二〇式戦闘機 隼II(隼弐式)」、三菱「二四式艦上戦闘機 剣風」がそれぞれ制式化されていたが、60年代半ばでは「隼II」はもとが輸出用として開発したため、防空空軍が採用を決めたばかりで、「剣風」は量産が遅れていて配備が始まっていなかった。

 なお、この時期には川西、川崎など他のメーカーは、戦闘機の開発には熱心ではなくなっていた(※軍から研究機や競争試作など指名を受けた場合は引き受けていた。)。この頃の川崎は、満州向けも製造していたシコルスキー社と技術提携し、ヘリコプターの開発を活発に行っている。インドネシアに送り込まれたヘリコプターも、日本製はほとんどが川崎製だった。川西は海軍向けの機体を作っていたが、本命は民間の大型もしくは中型旅客機に移りつつあり、兵器の開発と生産はこの頃低調だった。愛知も海軍向けの機体こそ作り続けていたが、ジェット機開発は失敗の連続で「流星改」以後の機体で行き詰まっており、三菱に吸収合併されるのではないかと、この頃から既に言われていた。
 そして三菱と中島だが、この頃はそれぞれの軍向けに新型機の配備と既存機のアップデートを急いでいた。
 アメリカは「F-4 ファントム」など、ソ連は「Mig21(フィッシュベッド)」(改良型)などが登場し始めており、軍事力こそが日本を最も大国の地位に就かせていると考える人々にとって看過できない状態だったからだ。
 このためベトナム戦争中の軍事費増大を受けて、三菱と中島はもちろんだが、他のメーカーにも強く働きかけて、優秀な機体の開発を急いでいた。これらの機体の一部は、インドネシア戦争に間に合わなかったが、優れた機体が生み出されることになる。

 戦闘機以外だと、「三菱 轟山」戦略爆撃機が有名だが、第二次世界大戦デビューの「愛知 流星改」攻撃機も見逃せない。レシプロ艦上攻撃機の完成型として第二次世界大戦末期に登場した機体だが、戦後にアメリカ軍の「A-1H」同様の複座から単座への変更など、大幅な改良を加えることでインドネシア戦争の頃でも十分に現役を維持していた。それでもジェット化の波は攻撃機にも押しよせており、「流星改」以外の機体のほぼ全てがジェット機となっていた。
 防空空軍は、戦術支援目的の機体を中島が開発し続けており、既にジェット攻撃機は3種類も有していた。しかし旧陸軍航空隊同様に低めの性能しか求めていないため、世界的に見ても積載量などに劣っており、反面戦闘機としての能力を有するなど中途半端な機体ばかりだった。
 海軍と戦略空軍は、同様の機体を有していた。と言うよりも、戦略空軍は重爆撃機以外の攻撃機、爆撃機を独自開発する気がほとんどなく、余程必要に迫られない限りは海軍機の陸上機型を導入するか、場合によっては海軍機のまま使用していた。状況としては、旧海軍時代に近いとも言えるだろう。
 ただし海軍は、核兵器搭載可能の攻撃機ばかり開発していたため、「流星改」で半ばお茶を濁しているという側面もあった。そうした中で「愛知 三〇式艦上攻撃機 天狼」は愛知飛行機が送り出した久々の成功作と言われ、同時期のアメリカ軍機と比べても十分な性能を有していた。攻撃、爆撃以外の要素を切り捨てたある種潔い設計が功を奏した形で、対空戦闘能力は皆無ながら十分以上の積載量と航続距離を有していた(一応、対空ミサイルは搭載できた。)。ただし双発で大型機のため、大型空母にしか搭載できず、なおさら「流星改」を運用し続ける原因にもなっていた。

 しかしインドネシアに派遣された日本軍の本命は、他国同様に陸軍部隊であり、そしてアメリカ以外に唯一派遣可能な強大な艦隊戦力だった。


●フェイズ109「インドネシア戦争(3)」