●フェイズ11「第二次世界大戦(5)」

 1941年に入ったばかりの頃、欧州枢軸各国は海軍の大増強を決めていた。
 盟主のドイツは、1940年秋にZ計画を一部再開して、大型戦艦2隻、巡洋戦艦3隻、空母2隻の建造を再開を決定して、中止されていた建造が再開された。イタリアは各国からの資源供与、輸入を受けて、自らの艦艇整備を加速させた。フランスも、枢軸に正式に加わるようになった10月から新規関艇の建造を再開し、近代化改装の促進を決め、そして自由フランスにまだ属していないフランス植民地各地の艦艇の説得を行った。
 海軍拡張計画の規模が最も巨大だったのはイギリス本国だった。イギリス本国は、自由イギリス連邦の殲滅と英連邦、植民地全ての奪回、そしてアメリカ打倒を旗印として、今までに倍する規模の艦艇整備計画を始動させる。
 1937年、38年の計画だと合わせて戦艦5隻、装甲空母6隻を中心とする計画だったが、1940年秋に策定された計画では、さらに大型の戦艦4隻、大型空母4隻の建造を中心とした、外洋での艦隊戦を目的とした強力な艦隊整備が行われることになる。既に建造が進んでいる艦艇の建造速度も促進される事になった。さらに1年ほど後の事だが、艦載機の開発がそれまでの空軍優位の形が多少改められ、かなりの努力が傾けられることになった。
 イギリス全体の戦争リソースも、本来ならドイツとの戦いで空軍にかなりが充当されただろうが、主な敵がアメリカ、日本となったので、海軍に多くの予算が傾注される事となる。この結果イギリス本国では、航空機関連企業の株が暴落し、造船各社の株が急上昇した。イギリス本土の造船は、第一次世界大戦頃のような有様へと急展開した。
 また欧州全体で、商船の規格化と大量建造に向けた動きが加速される事になる。理由は言うまでもないが、欧州だけで全ての物資、資源を賄うことが出来ないからだ。
 そして経済の動きが活発だったように、この時期のヨーロッパはまだ総力戦のための戦時経済に移行しているとは言い難かった。兵士の動員もまだ総動員とは言えず、ナチス・ドイツの急速な膨張と「欧州帝国」の突然の出現に危機感を持った他の列強の方が、戦争準備ではリードしているぐらいだった。

 そうした中で総力戦体制が最も遅れた列強だったイタリアが、ついに1941年2月に日本に対して宣戦布告した。ただし主に欧州外交、対ドイツ外交を重視した結果であり、資源の安価輸入や技術供与とバーターでもあった。
 欧州の他の国々がイタリアに求めたのは、地中海で遊んでいる状態のイタリア海軍を全力でアジアに派遣するというものだった。もちろん派兵のための各種燃料弾薬の供与も行われる事が決まり、イギリスは全ての拠点の使用も許した。加えて、主にイギリスがイタリアへの資源供与を優先する約束を行った。
 そして宣戦布告のその日、イタリア東洋艦隊がインド南端のセイロン島・ツリンコマリーに出現する。戦艦6隻、重巡洋艦4隻を中心とする堂々とした大艦隊で、イタリア海軍の総出撃とすら言える艦隊だった。しかも戦艦のうち2隻は最新鋭の《リットリオ》《ヴィットリオ・ヴェネト》で、他の旧式戦艦も徹底した近代化改装で有力な戦力だと考えられていた。何よりイタリア海軍全体が高速で重武装なため、高速大型艦艇が不足するイギリス東洋艦隊から非常に歓迎される事となった。
 そしてイタリア海軍のアジア派兵によって、アジアでの海洋戦力のバランスは一気に欧州枢軸優位に傾くこととなる。少なくとも戦艦戦力は、12対10と欧州枢軸が優位となった。このためイタリア東洋艦隊がシンガポールに進めば、日本は東南アジアに進めなくなると考えられた。
 またこのイタリア東洋艦隊は、イタリア史上初めてのアジア遠征であり、イタリア国内でも非常に注目された。ムッソリーニも、各国に恩を売りつつ国内向けにも派手な演説と宣伝を行ったほどだった。
 そしてイタリアが海軍の総力をインド洋に派遣したように、この時期の欧州各国は海での活動に精力的だった。

 大西洋では、イギリス、ドイツ、そしてフランス海軍による、アメリカを標的とした海上交通の遮断が最初のピークを迎えていた。
 ブリテン島からアフリカ西岸各地に至るまで欧州各国の艦艇が常時入り、洋上には潜水艦以外にも多数の水上艦艇が出没して、アメリカ海軍を翻弄していた。大戦初期に戦力外と考えられるようになった仮想巡洋艦までが、商船狩りをしていたほどだった。
 この時期大西洋では、自由イギリス連邦海軍はまだ組織の再編と本格的な戦争準備の段階だった。日本の「遣米艦隊」は、軽空母と水雷戦隊を持つだけの潜水艦キラーなので、後方で地道だが重要な対潜水艦戦に従事していた。遣米艦隊は、アメリカの市民からも自国海軍以上に信頼されていた。
 欧州各国の水上艦に対峙するのは、ほぼ総力を大西洋に移動したアメリカ海軍が矢面に立っていた。だが日本も主に政治面で黙って見ているわけにも行かず、アメリカの高速艦艇不足を考慮して、有力な巡洋艦(重巡洋艦《那智》《足柄》)を追加でカリブ方面に派遣して、多分に象徴的だがアメリカ海軍を側面援護した。大型高速艦の少ないアメリカは《金剛型》戦艦の派遣を望んだが、劣勢に立たされつつある日本側としては重巡洋艦2隻の派遣でもギリギリの決断だった。
 なお、欧州枢軸陣営が水上艦の運用を重視した理由だが、アメリカが開戦初期の混乱から徐々に立ち直りを見せるようになっていたからだった。一方的だった潜水艦によるアメリカ近海での海上交通破壊も、41年に入ると徐々にアメリカ軍から受ける損害が増えるようになった。潜水艦と戦うための武器を揃え、対潜水艦戦術を使いこなし始めたからだ。特にアメリカの沿岸での活動は、春には潜水艦でも厳しくなった。
 そこで欧州各国は、アメリカ海軍の艦艇構成に目を向ける。
 アメリカ軍の戦艦は重装甲、重武装だが、全て低速戦艦だった。新鋭戦艦の就役もまだ先だった。これに対して欧州各国海軍には、高速大型艦艇が多数あった。
 イギリス本国海軍が手元に保持した大型艦は巡洋戦艦《フッド》《レナウン》があり、最新鋭戦艦の《キング・ジョージ五世》が1940年末に就役し、戦艦《ロドネー》以外は全て高速艦だった。ドイツは巡洋戦艦《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》、装甲艦《リュッツォウ》《アドミラル・シェーア》に加えて、欧州最強と宣伝された戦艦《ビスマルク》が新たに戦列に加わった。フランスは最新鋭の戦艦《リシュリュー》は結局新大陸へ逃亡したが、戦艦《ダンケルク》と《ストラスブール》があった。欧州枢軸全てを合わせると、20隻以上となる重巡洋艦もある。
 対するアメリカ海軍は重巡洋艦が12隻、大型軽巡洋艦が15隻あるが、全てを海上護衛戦に投じるわけにもいかなかった。このためアメリカ海軍では、大型艦艇対策として空母を1隻ずつ小規模な艦隊を組んで間接的な護衛任務に付けたりしたが、空母の数も十分ではなかった。しかも空母《サラトガ》は、開戦すぐに雷撃を受けて長期ドック入りしており、まだ空母《ホーネット》は就役していないので、空母数は根こそぎ集めても4隻だけだった。日本が自らの事情を無視して重巡洋艦を派遣したのも、アメリカの窮状を見てという側面も強かったのだ。2隻派遣された軽空母も、非常に重宝されていた。

 欧州連合海軍は、1942年1月〜5月にかけて、ほぼ毎月戦艦を含む任務部隊が主に北大西洋西部を荒らし回った。1月はイギリス、2月はフランス、3月はドイツ、4月はイギリス、5月はフランスとドイツが任務部隊を出した。欧州各国の艦隊は、アメリカ軍の大型機による哨戒を避けつつ航路を行く船を探し求めるか、また潜水艦の狩り場に誘い込んだ。一部は南大西洋にも出没して、アメリカ国籍、日本国籍の船を追い回した。
 日米そして何とか一部を実働状態に持ち込んだ英自由政府も、手をこまねいているわけではなかったが、最初は翻弄された。特に最初の二ヶ月は、北米大陸の近くにまで欧州が大型水上艦を持ち込むとは考えなかったので、戦略的にも奇襲攻撃を受けたようなものだった。
 アメリカが受けた損害も大きく、潜水艦と合わせて毎月50万トン以上の商船を失うようになった。
 主に狙われたのは他の地域とアメリカを結ぶ航路で、1941年に入るとアメリカ軍の哨戒機の活動圏外を出ると被害が増した。しかもイギリスなどは、自国領のジャマイカ島などに有力な航空隊を置くなどして、カリブ海での制海権を奪う動きを見せた。しかも欧州枢軸海軍は、依然としてカリブ海に艦隊も入れており、パナマ運河から北米東岸を目指す船団を襲撃した。潜水艦はメキシコ湾にも出没した。
 これに対向して、アメリカも自国領内のキューバ、プエルトリコに飛行隊や守備隊、さらには小規模な艦隊も駐留させるようになるが、ある程度の体制を整えるまでにかなり手間取り、1941年春頃のカリブ海は両軍が入り乱れた状態だった。しかしカリブ海は、アメリカにとって「庭」であり本土から2000キロしか離れていないのに対して、ヨーロッパからは非常に遠い場所だった。このため欧州枢軸側も、いずれカリブ海に入ることが難しくなる事は十分理解していた。そしてその最後のチャンスと考えた時期が、1941年の5月だった。

 1941年5月13日、南米の仏領ギアナを経由してカリブ海へと入った戦列艦《ダンケルク》《ストラスブール》、重巡洋艦《コルベール》《フォッシュ》《デュプレ》による強力な通商破壊艦隊は、自ら搭載する偵察機によって目標とした船団を捕捉する。(※重巡洋艦は全て《シュフラン級》。ただしネームシップの《シュフラン》は自由フランスに所属して亡命。)
 船団は、当時編成が始まったばかりの護送船団(コンボイ)方式を取っており、日本の「遣米艦隊」が護衛任務に就いていた。この頃はまだ日米混合などの多国籍艦隊を組むまでに至っていなかった。一番近いアメリカ艦隊は、キューバのグァンタナモにいたが、英本国領のままで駐留軍もいるジャマイカと目と鼻の先のため、動くに動けなかった。
 同船団は、輸送船を大小12隻を第五水雷戦隊の約半数に当たる軽巡洋艦《酒匂》と駆逐艦6隻が直接護衛していた。また、枢軸海軍がカリブ海に入っているという情報が得られていたため、重巡洋艦《那智》《足柄》、駆逐艦4隻の艦隊と、軽空母《瑞鳳》、駆逐艦4隻の艦隊が少し離れた場所で間接的な護衛任務に就いていた。当時の「遣米艦隊」としては、アメリカ東部沿岸で整備、休養中の第三水雷戦隊を除いた総力を挙げた戦力であり、護送船団方式の護衛作戦に力を入れていたことを見ることができる。
 なお当時の日本海軍は、軽巡洋艦1隻に4隻編成の駆逐隊4つを合わせて一つの水雷戦隊を編成し、1941年春の時点で連合艦隊所属が6個戦隊あった。これとは別に、海上護衛艦隊所属で旧式駆逐艦、海防艦などによる護衛戦隊が予備や編成中を含めて10個戦隊あった。
 このうち2個水雷戦隊が当時の「遣米艦隊」の実質的な主力で、アメリカ海軍の充実に伴い主にカリブ海で活動していた。

 フランス艦隊から出撃した偵察機は、発見報告の後に通信を絶った。日本の艦載機に撃墜されたためだが、すでに距離を詰めれば砲雷撃戦を挑めるところまで近づいていたので、フランス艦隊は躊躇せずに戦闘速度で突撃を開始した。
 これに対して日本艦隊は、船団を守るため相手の行動を邪魔する作戦を徹底する。このため軽空母《瑞鳳》からは、本来は潜水艦を沈める攻撃機になけなしの対艦攻撃兵装を施して出撃させ、重巡艦隊が船団との間に入った。
 「第一次カリブ海海戦」の最初の一撃は、軽空母を持つ日本艦隊だった。軽空母《瑞鳳》はなけなしの対艦用爆弾を艦載機に搭載して(航空魚雷は搭載されていなかった)、最初の6機から始まって出せるだけの攻撃機、爆撃機を五月雨式に出撃させた。この時、あまりにも対艦装備が少なかった為、その後の補給では若干数の航空魚雷や大型の徹甲爆弾の補給が要請された。
 同時に重巡洋艦《那智》《足柄》と駆逐艦4隻の艦隊が、護衛船団から敵を引き離す進路に徐々に変えつつ、敵に向かって巧妙な突撃を開始する。
 今まで一方的な商船攻撃しかしたことがなかったフランス艦隊は、積極的に反撃されることを想定していなかったため、突撃したにも関わらず初動が遅れた。
 それでも突撃してくる日本艦隊に対して同航戦を挑むべく単縦陣を組んで、《ダンケルク》と《ストラスブール》は彼女たちしか搭載しない4連装砲塔2基8門の52口径33cm砲を用いて、距離2万5000メートルで砲撃を開始する。多少の混乱はあったが、初の敵大型艦との戦闘にフランス艦隊の士気も上がった。
 しかし日本艦隊がこまめに進路を変えつつ進むため、照準がまともにできないので砲弾はまるで命中しなかった。しかも砲撃開始から10分ほど経過すると、砲撃開始当初すでに姿が見えていた日本軍機が空襲を開始する。
 この頃のフランス海軍の艦艇は、世界に先駆けて装備した13cm両用砲、9cm高角砲を主な対空砲として、ホチキス社の37mm機銃、13.2mm機銃という防空範囲を分けた対空機銃も装備していた。装備数も当時としては多いぐらいで、防空能力は当時の日本海軍より高いぐらいだった。しかし、対空射撃訓練が不足していたし、日本軍機を侮っていたし、何よりまず日本軍機を知らなかった。しかも単縦陣形のため、連携した防空戦闘は望むべくもなかった。
 日本側は、すでに砲撃を開始している戦艦2隻に攻撃を集中したが、後方を進む重巡洋艦は多少高角砲の射撃を行うだけで、戦闘を半ば傍観した状態となった。
 そして砲撃戦のため真っ直ぐ進むだけの艦は、非常に狙いが付けやすかった。潜水艦への攻撃訓練ばかりしていた日本軍機だったが、海中へ逃れる潜水艦への急襲は得意だったので、潜水艦よりはるかに大きな戦艦は、対空砲火さえ考えなければ当てやすかった。

 日本軍機による空襲は、五月雨式ながら命中弾、至近弾が相次いだ。しかし、主な装備が60kgから250kgの爆弾だったので、大きさに比べて重防御だった《ダンケルク級》のバイタルパートを貫くには至らなかった。それでも五月雨式に襲来する日本軍機は、後続する重巡洋艦に対してはかなりの有効な打撃を与えている。さらに機銃掃射するなどで、日本艦隊への攻撃の妨害も行っていた。そこに日本軍の《那智》《足柄》が、距離2万メートルという重巡洋艦にとって大遠距離射撃を開始して、フランス艦隊に混乱が広がった。さらに日本軍全てが猛烈な勢いで接近しつつあり、空と海どちらの戦闘を重視するかでフランス艦隊の混乱はさらに広がる。海と空の双方からの同時攻撃は、当時の艦艇全てにとって想定外の事態だった。
 だがそれも、重巡《コルベール》が船体中央に直撃を受けてボイラーの多く(数は諸説有り)が破壊され速力が落ちると、空襲を重視して各個に回避行動を取ることとなる。その頃には、上空を乱舞する日本軍機の数は20機近くになっていた。そして日本軍機は、投弾が終わっても上空に止まり、機銃でフランス艦隊を妨害する機会を伺っていた。中には欺瞞で襲撃動作を行う機体もあった。
 しかも日本の重巡洋艦は観測機を出して射撃しており、射撃はフランス艦隊よりも正確になった。そして1弾が《コルベール》のタービンを打ち抜き、《コルベール》の急激な速度低下でフランス艦隊が戦列を乱してしまう。
 そこを突かれて、日本軍急降下爆撃機の爆弾が、相次いで《ストラスブール》と《フォッシュ》に命中。《デュプレ》以外が何らかの大きな損害を受けたフランス艦隊は、ついに後退を決意する。もちろん護送船団には近寄ることすらできず、散発的な空襲を受けつつの惨めな敗走となった。しかも速力が半減した《コルベール》は、援護を受けながら脱出を図るも逃げ切れず、急接近した《那智》《足柄》からの本格的な砲撃を受けて損害が広がる。さらに日本軍水雷戦隊に追いつかれ、近距離から雷撃を受けて駆逐艦数隻に損害を与えるも敢えなく大破して戦闘力を喪失。その後、日本艦隊に降伏するが、そのまま曳航されて、フランス救国政府の艦艇として復活するという珍しい運命を辿ることとなる。
 なお、南シナ海海戦と違い、戦力で勝る艦隊が積極的に攻めたにも関わらず敗北、後退した事はは、水上戦闘と空襲の双方に対処する事の難しさを見せる戦いとなった。また水上戦闘での制空権の大切さを伝える典型的といえる戦闘だったが、その教訓を双方共に十分に実感するには至らなかった。この戦闘は、小型艦でも相手より数が多ければ優勢な敵を撃退できる一例だと考えられた。そして、フランス海軍の士気と練度が低いという評価を心理面で印象づける事となった。(実際はそのような事はなかった。)

 カリブ海で失敗した欧州連合だったが、大型艦による水上戦はまだ諦めていなかった。むしろ拡大させた。
 1941年5月20日、同9日にフランスのブレストを出撃したドイツ艦隊は、大西洋の赤道近辺を行動していた。欧州連合の拠点となっている南米のギアナを経由して、あわよくばカリブ海への侵入を画策していたためだった。それが無理な場合は、南米と北米を結ぶ航路上の船舶を狙う予定で、フランス艦隊の敵討ちが出来れば良いとも考えていた。
 また4月に出撃したイギリスの巡洋戦艦《フッド》と新鋭戦艦《プリンス・オブ・ウェールズ》を中心とする艦隊が同海域で大きな戦果を挙げているため、かなりの対抗心も燃やしていた。この出撃で《フッド》は、多数の輸送船を沈め、護衛の旧式軽巡洋艦(アメリカの《オマハ級》)を一撃で仕留めるなど大活躍だった。対してドイツ海軍は、3月の出撃では装甲艦と重巡洋艦しか出せず、成果も不十分だったので尚更だった。
 出撃したのは新鋭戦艦《ビスマルク》と重巡洋艦《プリンツ・オイゲン》の隊と巡洋戦艦《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》の2隊だった。ドイツ海軍は、あえて2隊に分かれることでアメリカ海軍を翻弄し、より大きい戦果を得ようとした。
 対するアメリカ海軍は、カリブで日本の遣米艦隊がフランス艦隊を撃退したことで、少し余裕が出来ていた。フランス海軍の主力艦の多くが傷ついた事で、欧州枢軸側の大型艦のローテーションが大きく崩れるからだ。またアメリカ海軍自体も、太平洋と大西洋を合わせた再編成が進んでいた。このため5月に入る頃から活発に活動するようになっており、大西洋各所にも艦隊が配備されつつあった。
 なお南米の仏領ギアナとアフリカ北西部のモロッコを結ぶラインは、当時の欧州連合にとっての補給線であると同時に、アメリカと南米を遮断するラインでもあった。このため欧州、西アフリカ沿岸を伝ってこのラインに乗り、南米へと至るのが欧州枢軸軍にとって比較的安全な航路だった。同ラインは潜水艦の哨戒と海上封鎖のラインでもあるため、アメリカ海軍も迂闊に近寄らないからだ。

 5月21日、アメリカ大陸寄りの海域にいた戦艦《ビスマルク》と重巡洋艦《プリンツ・オイゲン》の隊は、アメリカ海軍と思われる艦艇の接触を受ける。接触は偵察機を介してのものだった。
 当時のアメリカ海軍は、まだヨーロッパ諸国に比べてレーダー開発が遅れていた。配備されていたのは、対空捜索用のCXAMレーダー(後に改良されてSCレーダーなどになる)だけで、水上捜索用のレーダー(後のSGレーダーなど)は無かった。この点は、この頃既に日本海軍が水上捜索用の22号電探(レーダー)を試験運用していたので、日本にすら遅れているほどだった。
 このためレーダーを持つドイツ艦隊の方が有利とも言えた。
 しかしアメリカ海軍の重巡洋艦は、砲撃を受けないギリギリまで接近を続けた。
 この時追跡していたのは、アメリカ海軍の重巡洋艦《インディアナポリス》と《シカゴ》で、長期哨戒配置任務に就いていたところ思わぬ大物に出くわしたのだった。しかしドイツ艦隊はこの2隻が発見したのではなく、ブラジル海軍の艦艇が偶然出くわした報告を伝えられての接触だった。大西洋の戦いは、南米諸国にとって欧州が「敵」だった事の証拠と言えるだろう。また、アメリカ合衆国の影響力の大きさとも言えるだろう。
 なお、ドイツ艦隊への接触を試みた戦力は、他にも多数あった。アメリカ海軍は、つい最近起きた世界規模での戦略的環境の変化を受けて、欧州枢軸艦隊の跳梁を制しようと試みていたからだ。
 24日早朝、《ビスマルク》と《プリンツ・オイゲン》の前に、アメリカ海軍の特徴的な篭マストと見たことのない尖塔のようなマストを持つ2隻の戦艦が立ちふさがる。1隻は「ビック・セブン」の一角をなす16インチ砲を搭載した戦艦《ウェスト・ヴァージニア》、もう1隻は工期を短縮して慣熟航海を兼ねた哨戒任務で同行していた最新鋭戦艦の《ノースカロライナ》だった。他に駆逐艦が4隻随伴していた。
 この時ドイツ艦隊はアメリカ艦隊に対して速度で勝るので、逃げることも十分に可能だった。《ビスマルク》は、最高速力29ノットを誇る高速戦艦でもあったからだ。だが「ビック・セブン」を前にしたドイツ軍指揮官のギュンター・リッチェンス提督は、突撃を命令する。
 この時、ドイツ艦隊は幸運だった。アメリカ艦隊は距離が開いていた事もあるが、最初は《プリンツ・オイゲン》を《ビスマルク》と誤認し、その後間違いに気付いて砲撃対象を変更したため、砲撃がばらつき正確性も欠いた。
 しかも《ビスマルク》が距離17000メートルから放った第5斉射のうち一弾が、《ウェスト・ヴァージニア》の比較的薄い甲板装甲を貫いて第1、第2砲塔の間を貫いて着弾し、第2砲塔の弾薬庫で炸裂した。この爆発で《ウェストヴァージニア》は船体が二つに折れて轟沈し、艦隊司令部を含めた乗組員の殆ど全てが戦死した。
 残された《ノースカロライナ》は、慣熟中のため砲撃精度は未熟で、しかも艦隊司令部ごと《ウェストヴァージニア》が沈んだため、いっそう混乱した。混乱したのは随伴していた駆逐隊も同様で、次席指揮官だった駆逐隊司令(大佐)は自らの隊に煙幕展開と全艦隊の撤退を命令する。
 その間も砲撃が実施され、《ノースカロライナ》は2隻の敵艦から何発もの砲弾を受ける。しかし司令塔や他国に比べて丈夫な艦橋構造物は被弾にも耐えたため艦の指揮系統は乱れず、また機関などの主装備も無事だったので何とか撤退に成功する。そればかりか《ビスマルク》に2発の命中弾(うち1発は至近弾)も浴びせ、重油タンクの一つを破壊し2000トンの浸水を起こさせた。

 アメリカ海軍が「ビッグ7」もしくは「ビッグ5」と呼び誇りとしていた戦艦《ウェスト・ヴァージニア》の轟沈は、アメリカ海軍の復讐心を駆り立てさせた。
 周辺に展開していた全ての艦艇に《ビスマルク》の追撃が命令され、「ビスマルク追撃戦」とも言われる戦いが始まる。各地の軍港からも、次々に艦隊が出撃した。
 この追撃戦では、アメリカ海軍は航空母艦を大いに活用した。当時大西洋上に展開していたのは、空母《エンタープライズ》と空母《ワスプ》で、このうち最初に《ビスマルク》接触したのは《ワスプ》だった。しかし《ワスプ》は、距離が開いていたので爆撃機しか出せず、しかも時間の制約があり一度の攻撃隊しか送り込めなかった。そして距離があるため雷撃機のデバステーターは航続距離が足りず、軽荷状態(500ポンド爆弾装備)のドーントレス急降下爆撃機のみによる出撃となった。
 慌ただしく出撃した機数は23機。このうち1機が途中で引き返したので、22機が《ビスマルク》上空に到達した。しかしこの時、《ビスマルク》は単艦となっていた。無傷の《プリンツ・オイゲン》は、《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》の隊に合流させるべく分離していたからだ。《ビスマルク》自身も燃料を失い浸水もしているため、西アフリカのダカールに逃れようとしていた。アメリカ艦隊は《ビスマルク》がもっと西で活動していると考えていたので、危うく取り逃がすところだった。
 22機の急降下爆撃機は、数を投じた割に戦果は少なかった。攻撃隊は5発の命中を報告したが、実際は1発命中、2発至近弾だった。相手が高速戦艦とはいえ単艦にも関わらず、成績はあまり高いとは言えないだろう。これはワスプ航空隊の練度がかなり低かったからで、仕方ないという意見も多い。
 その後アメリカ海軍は、この日の深夜に一度《ビスマルク》を見失ってしまう。それまでは《ワスプ》艦載機が何とか接触を続けていたが、夕方には帰投せざるを得ず、当時レーダーを持たないため見失っていた。
 しかし《ビスマルク》がドイツ本国に戦闘報告を送った為、再び位置を捕捉することに成功する。だが、アメリカ艦隊が主に捜索活動していた海域からはかなり離れていた。接触可能なのは、哨戒活動中の軽巡洋艦《ブルックリン》ぐらいだった。
 この時半ば無謀と言える追撃を実施したのが、空母《エンタープライズ》と随伴する重巡洋艦2隻だった。駆逐艦も4隻随伴していたが、あまりに無茶な追撃のため燃料不足を避けるため離脱を余儀なくされていた。無茶というのは、戦闘速度で《ビスマルク》との距離を一気に詰めようとしたからだった。
 指揮官はウィリアム・ハルゼー。この戦いで一躍有名になる提督だった。

 26日午後に出した攻撃隊は、《エンタープライズ》が突進を続けなければ航続距離が足りない距離での出撃だった。そうした危険な出撃だったが、攻撃隊は十分な成果を出した。統制の取れた激しい空襲を実施し、直撃弾3発、至近弾2発を得て《ビスマルク》の誇る主砲2基を使用不能に追い込んだ。しかも至近弾の1発が後部で炸裂したときに、《ビスマルク》の舵とスクリューの一部を傷つけていた。
 この損傷で《ビスマルク》は航行に大きな支障が出たが、《エンタープライズ》は追撃の手を緩めなかった。《エンタープライズ》は自らの燃料が尽きるまで突き進むという指揮官の言葉通り(完全な事実ではない)突進を続け、その日の夕方に艦載機のうち出撃可能な攻撃隊全機に薄暮攻撃を実施させる。
 薄暮攻撃は夕方の攻撃で帰投が夜となるため、非常に危険の多い攻撃だった。このため十分な技量を持つパイロットだけの出撃となったが、ハルゼー提督は誘導電波を出して着艦時には飛行甲板をサーチライトで照らすと明言し、実際その通りにした。この行為も、大西洋は欧州枢軸の潜水艦がウヨウヨいるため非常に危険な行為だが、それ以上に危険な攻撃を実施するパイロット達に片道攻撃でない事を伝えるため、士気をあげるために行われた。
 そして攻撃隊は十分に応えた。
 度重なるアメリカ軍との戦闘と追撃に乗組員が疲弊しつつあった《ビスマルク》は、既に航行能力が落ちていたこともあって、攻撃を立て続けに受けてしまう。
 日本軍との対抗演習で旧式、ドン亀と馬鹿にされた「デバステーター」雷撃機だが、この時は十分に任務を果たした。再び出撃したドーントレス隊も、さらなる痛打を浴びせかけた。
 この結果、魚雷3本、爆弾4発が命中。《ビスマルク》が出せる速力は7ノットにまで低下して、4番砲塔が辛うじて独自射撃可能というまでに追い込まれ、戦闘力はほぼ喪失した。

 一方欧州連合だが、当然《ビスマルク》救援に動いていた。
 比較的近くのドイツ艦隊の別働隊は、まずは《プリンツ・オイゲン》との合流を急ぎ、さらに《ビスマルク》追撃に参加しようとしているアメリカ艦隊を牽制する動きを行った。
 もっと積極的だったのはイギリス本国海軍で、ちょうどダカールにいた空母《アークロイヤル》を中心とする艦隊が緊急出撃し、エアカバーをかけようとした。しかも《アークロイヤル》は、《エンタープライズ》が《ビスマルク》に大打撃を与えた夜半、その《エンタープライズ》に夜間攻撃を実施する。
 この時点でアメリカ艦隊も光も電波も封鎖していたが、イギリス軍編隊は友軍潜水艦からの通報を受けて接近し、さらに1機が照明弾を投下することでアメリカ艦隊を確認する。
 ここで旧式布張りでドイツ軍などからも馬鹿にされた「フェアイー・ソードフィッシュ」雷撃機は、照明弾を落とす機と雷撃する機が連携して、洋上での夜襲を前に混乱する《エンタープライズ》に2発の魚雷を命中させる。これで速力が大きく落ちた《エンタープライズ》は、追撃を断念しなければならなかった。しかし猛将と言われるハルゼー提督は、連れてきていた重巡洋艦の1隻にさらなる追撃を命令しているのは面目躍如といえるだろう。だがこれは流石に無謀で、翌朝黎明に再び攻撃隊を放った《アークロイヤル》のソードフィッシュによる雷撃を受け、魚雷1本を受けて損傷後退している。
 だが翌朝には、《アークロイヤル》は米空母《ワスプ》の攻撃を受けて損傷し、飛行機の発着能力を失う。《ワスプ》の方は、《エンタープライズ》ほどでないにしても追撃の無理が祟って、これ以上攻撃隊を放つことが出来ないほど燃料を消耗し、後退を余儀なくされた。

 《エンタープライズ》の猛追と損傷後退に一喜一憂したアメリカ海軍だが、この時《ビスマルク》を完全に捕捉できる位置にいたのは、戦艦《ニューメキシコ》《ミシシッピ》《アイダホ》を中心とする任務群だった。他の艦隊も可能な限りの速力で追撃を実施していたが、速力の遅さがネックとなって距離がまだ開いていた。また各所で欧州連合軍の潜水艦の接触を受けるなどの妨害も多く、即時稼働可能な艦艇の過半を投入したにも関わらず、状況は芳しくなかった。あまりの苦境に、通商護衛艦隊でしかない日本の「遣米艦隊」への支援が要請され、日本側も軽空母《祥鳳》を中心とする艦隊が、捜索と追撃のためキューバのグァンタナモを緊急出撃していた。主にカナダ方面にいた自由英連邦艦隊ですら、巡洋戦艦《レパルス》などが緊急出撃を実施している。
 そして欧州連合は、《ビスマルク》喪失は断固として阻止すべきだと考えた為、続々と艦隊を投入した。通商破壊戦のため多数が動員可能だったし高速艦艇が多かった為、速い船が多い分だけアメリカ海軍に対して有利だった。しかも時間が経てば立つほど戦場は東に移動するので、欧州連合に有利だった。
 《ニューメキシコ級》戦艦3隻を中心とする追撃艦隊も、ジブラルタルを緊急出撃したイギリス艦隊に捕捉されてしまう。先月大西洋で暴れ回った巡洋戦艦《フッド》と新鋭戦艦《プリンス・オブ・ウェールズ》を中心とする艦隊で、この時は巡洋艦や駆逐艦も従えた本格的な編成の艦隊だった。さらに英本国からは、戦艦《ロドネー》《キングジョージ五世》を中核とする本国艦隊も出撃していた。フランスも、ブレストから支援のための巡洋艦中心の高速艦隊を出撃させた。
 この時、アメリカ、ドイツを中心に、ほぼ全ての国が艦隊を出動させ、出動した艦艇の数と規模だけなら、「世紀の大海戦」と表現してもよい程だった。

 一連の戦闘の実質的な最後となったのは、《ニューメキシコ級》戦艦を中核とするビスマルク追撃艦隊と、援護に出た《フッド》と《プリンス・オブ・ウェールズ》の艦隊との戦いだった。
 《ビスマルク》との距離を60キロにまで詰めたアメリカか艦隊は、北東方向から割り込んできたイギリス艦隊に対して激しい憎悪を向けた。《ビスマルク》を沈める直前に邪魔された上に、相手は《アリゾナ》を一撃で仕留めた「マイティ・フッド」だったからだ。アメリカ海軍にとっては、既に追撃が難しいナチス・ドイツの戦艦よりも憎らしい敵だった。
 かくしてアメリカ艦隊は、追撃のための突破を理由としてイギリス艦隊との本格的な戦闘を開始する。
 だが戦闘開始当初、《フッド》は積極的姿勢を示さなかった。ある意味当然の動きで、イギリス艦隊としてはアメリカ艦隊を《ビスマルク》から引き離すのが目的だからだ。これにアメリカは乗り、ノロノロと動くだけの《ビスマルク》はゆっくりと距離を開けていった。
 だがイギリス艦隊の意図は、さらに別にもあった。
 距離30000メートル、しかも全く別方向からの砲撃が、突如アメリカ艦隊を襲った。
 《プリンツ・オイゲン》と無事合流した《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》が、《ビスマルク》救援に駆けつけたのだ。
 このイギリスとドイツの連携は、主にレーダーの有無が大きく作用した。当時のアメリカ海軍は初期型の対空レーダー以外まだ装備せず、航空機の偵察と自身の目視が偵察手段だったが、イギリス、ドイツの艦艇は水上用の捜索レーダーを既に装備していたので、レーダー圏内に入れば敵の動きを捉えやすかったのだ。この時のドイツ艦隊は、さらにイギリス艦隊からの情報も受け取っていたので、砲撃は最初からかなり正確だった。
 これに対してアメリカ艦隊は、割り込んできたドイツ艦隊を無視して、同航状態へと移行して自らが接近しつつあるイギリス艦隊、というより《フッド》に目標を絞った。しかしこれは、結果論でもあるが距離の近い方を先に撃破しようとした事になる。
 
 最初に命中弾を送り込んだのは、遠距離から砲撃を開始したドイツ艦隊だった。《シャルンホルスト》の重量300kgほどしかない28cm砲弾は《ニューメキシコ》の上面から降り注ぎ、9弾のうち2弾が命中した。バイタルパートなら防御できる攻撃だったが、うち1発がよりにもよって煙突中央に命中。そのまま艦内に吸い込まれて、艦の一番深い場所で炸裂する。その場所とはボイラーが並んでいる区画で、《ニューメキシコ》は動力の半分を失う大損害を受けて、戦闘速度が出せなくなる。しかも隊列が乱れた為、砲撃戦も仕切直しとなった。敵味方共に不運を振りまくと言われた《シャルンホルスト》らしい一撃だった。
 約10分後に3つの艦隊は砲撃を再開するが、アメリカ艦隊が不利になっていた。戦闘可能な戦艦は2隻に減り、ドイツ艦隊が大きく距離を詰めていたからだ。アメリカ艦隊は、二つの方向から交互に砲撃を受ける状態になるも、その中から果敢に砲撃を実施した。この砲撃で、《プリンス・オブ・ウェールズ》は主砲がほぼ全て発射不能になる。攻撃を受けた為ではなく、自らの砲撃の時の振動で前の2つの砲塔が動かなくなったためで、新鋭艦にはよく見られる初期故障だった。
 またドイツの艦艇は基本的に口径が小さい砲なので、高い角度からのラッキーヒットを除けば、巡洋艦並に接近しなければアメリカ戦艦の重装甲は貫けなかった。11インチと14インチの砲弾では、砲弾重量が倍以上も差があった。
 だがアメリカの《ミシシッピ》の砲弾も、《フッド》の巡洋戦艦とは思えない分厚い舷側装甲に弾かれるなど、しばらくはとても戦艦らしい戦いになる。そして《プリンス・オブ・ウェールズ》の実質的な脱落を受けて、アメリカ艦隊は《ミシシッピ》《アイダホ》が《フッド》を集中攻撃し、巡洋艦がドイツ艦隊を牽制する形に持ち込んだ。
 そうして10分以上激しい砲撃戦が繰り広げられるが、勝負を決めたのはまたも「マイティ・フッド」だった。
 《フッド》の砲弾が《ミシシッピ》の2番砲塔の天蓋(上面)装甲をまともに貫くことに成功し、そのまま下の弾薬庫まで達したのだ。《ミシシッピ》にとって、非常に不運な角度で砲弾が命中したと言えるだろう。

 《ミシシッピ》の爆沈がこの戦闘の実質的な終幕となった。その頃には急接近したドイツ艦隊により、アメリカ艦隊の戦艦以外の艦艇も損害が続出しており、しかもイギリス軍の駆逐隊までが本格的な突撃を開始していた。
 このままでは追撃どころか自分たちが包囲殲滅されてしまうため、アメリカ艦隊の次席指揮官は撤退を決意。駆逐隊が煙幕を展開し始め、これを合図としてイギリス、ドイツ艦隊も戦場からの離脱を始める。イギリス海軍の「見敵必殺」のモットーに外れると言われるが、戦闘の理由が《ビスマルク》救援だからだ。加えて、イギリス本国艦隊も少なからず損害を受けていた。
 そして多数の艦艇に護衛されつつ、《ビスマルク》は無事にダカールに入港。そこで工作艦から応急修理を受けた後、本格的な修理のためドイツ本国へと帰投した。
 かくして、1941年5月24日〜27日に行われた「ビスマルク追撃戦」は、アメリカ海軍の敗北に終わった。アメリカ海軍は、戦艦《ウェストヴァージニア》《ミシシッピ》を始め5隻の艦艇を失い、多くの艦艇が損傷した。それでいて《ビスマルク》を取り逃がした。
 だが、欧州枢軸も《ビスマルク》大破など少なからず損害を受け、何より水上艦による大規模通商破壊戦の限界が見えたので、戦略的にはアメリカ海軍の勝利とされる。
 攻める側の戦術的勝利、守る側の戦略的勝利、というのが一連の大捕物の顛末だった。

 なお、戦艦の艦砲による上面からの攻撃がこの戦闘で注目されたため、イギリス、アメリカでは多くの大型艦が戦中にも関わらず大規模な近代改装工事に突入する。また砲力の不足が示された《シャルンホルスト級》も砲塔換装の大工事に入ったため、以後しばらく大西洋は少しだけ静かさを取り戻す事になる。


●フェイズ12「第二次世界大戦(6)」