●フェイズ110「インドネシア戦争(4)」

 「ルバラン」もしくは「イドゥル・フィトリ」は、イスラム教の重要な宗教行事である「ラマダン(断食月)」が明けた次の日に行われる祭日に当たる。
 しかしイスラム歴(ヒジュラ紀元)は西暦と違っており、ラマダンも毎年西暦上では違う日時に当たる。1968年新年前後のラマダンは、1967年12月3日〜1968年1月1日もしくは1967年11月22日〜12月21日に当たる。インドネシア人民政府とNLFが選んだのは前者、1月1日に終わるラマダン明けの1月2日のルバランだった。
 なお(インドネシアの)イスラム教では、ルバランに備えて人々は故郷に帰省し、家族でルバランを祝うのが一般的だ。日本で言えば、お盆や正月に少し近いかも知れない。そして重要な宗教行事なので、ラマダンからルバランまで戦闘が自然休止するか、小康状態になるのが通例となっていた。特にルバランとその前後は、戦争休日とすら言われていた。インドネシアに来ていた各国軍も、現地住民の事を考慮して可能な限り戦闘は控えた。そしてこの年は、派遣軍のクリスマス、新年と日時が近いこともあり、いっそう平穏に迎えられるのではと言われていた。
 しかしその日に、インドネシア人民共和国軍(=人民軍)とNLFは、全面的な作戦の実施を決める。

 何故そうなったのか。
 それは、自らが軍事面で不利に追い込まれつつあったからだ。その反面、スマトラ島南部及び中部を中心にして、一般民衆のインドネシア連邦政府及びアメリカ軍などへの反感が非常に高まっていると判断された事が作戦を後押ししていた。
 つまりこの時の作戦は、自らが積極的に動くことで住民の一斉放棄を促すことにあった。そして蜂起を受けて、首都パレンパンを包囲。さらにスマトラ島南端部の人民政府領内に集結している人民軍精鋭部隊を進撃させ、戦争を一気に転換する事までが目指されていた。
 この頃、楽観論が強かったジャカルタの人民軍参謀本部でも、全てがうまくいくという楽観論は流石に少なかった。だが、一斉蜂起を呼び起こすという政治的効果については、彼らが共産党だったためその「魔力」に魅了されていた。共産主義的、社会主義的一斉蜂起こそが革命に最も必要とされるし、ある種の「通過儀礼」とも考えられたのだ。ただし、何故住民に不満が溜まり一斉蜂起が可能と考えたかについては、疑問点も多い。一番の通説は、NLFや現地人民軍が自らの不利を誤魔化す手段として、心理面での優位を積極的にジャワの政府や軍に伝えたからではないかと考えられている。そして不利な戦況を前にして、いつしか嘘の楽観論が全軍に蔓延したというわけだ。
 なお、一斉蜂起を促す総攻撃については、NLFの全戦力、組織を暴露することでの、アメリカ軍を中心とする西側連合軍の組織的な報復攻撃が容易になるという反論もあった。しかし大勢は一斉攻撃であり、最も効果的な日時が「D-day」に定められた。
 作戦は大きく二段階に分けられ、まずはDMZ付近にあるアメリカ軍のメンガラ基地(首都パレンパンへと伸びる街道上の要衝)に対して、人民軍が大規模な陽動作戦を実施。主にアメリカ軍の予備兵力を引き寄せる。そして第二段階として、比較的手薄になったスマトラ島各地でNLFが一斉攻撃を実施するという形になる。
 作戦は多分に政治的要素が強いながらも、人民共和国の参謀本部は作戦成功を確信していた。そして既に軍事的に追いつめられていたNLFには、ジャワ島の共産党と人民軍参謀本部に対して反論を言うこともできず、また起死回生の成果が必要なほど追いつめられているのも事実であり、賭けに乗るしか無かった。

 メンガラからDMZまでは約20キロ。東側標準の152mm榴弾砲だと、ロケット砲弾なら届く距離だった。また、DMZ南側の人民共和国領内のメトロの街から、アメリカ軍のメンガラ基地までは約50キロメートル。人民共和国の策源地となる、港湾都市のパンダルランブルまでさらに20キロメートル。逆方向にメンガラ基地から180キロメートル北に進むと、連邦共和国の首都にして石油の一大産地であるパレンパンがあった。
 既にDMZは軍事的には半ば機能しておらず、メンガラは米軍が何としても押さえなければならない要衝だった。
 メンガラの町は平野にあるが、近くに大きく蛇行する川が流れているので、基地はその蛇行した川を一種の堀として活用していた。また町自体も当時は小さく、さらに国家分裂以後は寂れてしまい、さらに戦争状態になると激戦地の一つとなったため、住民の疎開が行われて無人に近くなっていた(※兵隊向けの商店だけがあった)。つまり、気兼ねなく大規模な戦闘が行える場所だった。
 そしてメンガラ基地に対して、人民軍は周辺に展開する精鋭3個師団に対して総攻撃を命令する。
 152mm榴弾砲、122mm榴弾砲、130mm重曲射砲、82mm重迫撃砲、さらにロケットランチャーなど持ち込める限りの火力が投入され、戦争始まって以来の砲撃戦が展開された。これに対して現地米軍は、基地及び周辺部に展開する全ての火力で応戦。米軍らしく人民軍以上に撃ち返した。
 しかし人民軍の砲弾が、メンガラ基地の地下弾薬庫を直撃。1500トンも備蓄されていた弾薬が一斉に誘爆を起こし、弾薬庫及びその周辺を破壊。現地米軍は大混乱に陥る。この爆発と人民軍の積極的な攻撃を前に、基地の外郭陣地の一つが陥落。メンガラ基地から全軍に対して緊急救援が要請される。だがメンガラ基地は、浸透していた人民軍によって各地と寸断されており、半ば孤立した状態に置かれていた。
 この状況を打破するべく、米軍は大量のB-52を動員した絨毯爆撃「ナイアガラ作戦」を実施。救援に駆けつけた日本軍も轟山爆撃隊を投入し、NLFから「怪鳥の糞」と恐れられた得意の低空爆撃で付近の人民軍をB-52より効率よく吹き飛ばした。その他の戦術型の航空機も、投入できる限りが救援に駆けつけた。そうして人民軍の活動を低下させると同時に、各地から続々と予備兵力を投入して状況を好転させていった。
 ラマダン中の大規模な攻勢にアメリカ軍などは一端警戒を強めたが、ルバランが終わって以後のNLFの活動をやりやすくするための限定攻勢ではないかと判断した。
 いかに人民軍が総力を投入しても、流石にメンガラ基地を陥落させるのは軍事的に極めて難しいという事は、人民軍も今までの戦いで深く理解している筈だからだ。
 しかしアメリカ軍は、敵の意図を完全に読み間違えていた。
 自分たちは、囮に戦力を吸い寄せられてしまっていたのだ。
 かくして1968年1月2日を迎える。

 1968年のルバランは、ほとんどの場所では静かに迎える可能性が高いとアメリカ軍などは見ていた。メンガラでの攻防戦こそ激しいが、1967年12月は他の地域は前年、前々年よりも静かだった。メンガラ周辺以外では、クリスマスもいつもより平和だった。新年も平穏なまま迎えることができた。しかも、一時は戦術核の投入すら真剣に検討されたメンガラでの攻防戦は、人民軍の敗北と退却で終わろうとしており、クリスマス頃には既に戦闘は下火になっていた。
 しかし現地の一部日本軍、ベトナム軍から、NFLの全面攻勢の警告が入る。特に日本軍の司令部からは、強い警告が発せられた。
 日本軍などアジア系国家の部隊は、アメリカ軍よりも現地住民との関係が良好な場合が多く、現地日本軍も良好な関係構築に力を割いていた。そのために犠牲が出た事もあったが、現地日本軍はかなり辛抱強く現地との関係を保つ努力を怠らなかった。その成果として、NFLが活動拠点としていた村落の住民の一部が、巡回にやって来た日本軍にNFLの攻勢の話しを持ち込んだのだ。もちろんだがNFL、人民共和国軍から見れば裏切りになるが、連邦政府軍から見れば正しい行いであり、住民から見ても二つの視点があることにこの戦争の難しさがあった。
 そして現地日本軍司令部は、下から上がってきた情報を重視。今まで何度か報告を無視や軽視したことで、痛い経験を積んでいたが故だった。だから、自分たちの警戒態勢を上げると共に、アメリカ軍はもちろんだが他の友軍の司令部にも緊急用件として将校達が赴く形で情報を伝えた。
 しかし多くの意見は、ルバランに戦闘は起きないというものだった。警告を受け入れて警戒態勢を高めた国の軍隊もあったが、特にアメリカ軍は相手にしなかった。
 このため日本軍は、半ば独自に正月返上で行動を開始する。と言っても、大規模な行動をしては敵の暴発や早期攻勢開始を招くだけなので、基地や重要拠点の警戒体制を引き上げたり、小規模に一部の部隊を攻撃することでアメリカ軍の注意を喚起しようと考えた。
 だが、それでもNFLが行動を早める可能性もあるため、日本軍は兵士の休暇を全て取り消して警戒配置につかせた。将兵達は、特別配給の餅を片手に任務に就いた。同様の行動は、日本軍の情報を正しいと判断したベトナム軍も行い、満州軍でもある程度警戒態勢の上昇が行われた。イスラム系兵士の多いインド軍は、活動を最低限として基地に籠もりきりだった。

 結果として、日本軍の小規模な攻撃を受けたNFL及び日本軍が気付いたと考えたその周辺の部隊が動き始める。
 しかし動いたのは、1月1日の午後に入ってから。攻勢予定より約1日早く、しかも当初一部だったものが五月雨式に拡大して、全体の3分の1程度が結果として動いてしまい、総攻撃の意味がかなり減殺される結果となった。
 そして動きだした敵に対して、アメリカ軍もある程度警戒態勢を上昇させる事とした。ただしアメリカ軍のこの時点での見解は、日本軍が余計なことをしたのでNLFが動きだしたというものだった。
 だが、攻勢全体の3分の1とはいえ、攻勢が今まではあまり対象としていなかった都市への攻撃という点で大きく違っており、しかも今までと比べても非常に大規模で広範囲に渡っていた。

 そして翌日の1月2日、NLF、人民共和国軍の計画通りに作戦が発動。全ての作戦参加部隊が、スマトラ島各地の都市を一斉攻撃した。一斉攻撃は、一部ではボルネオ島、スラウェジ島、ニューギニア島西部でも行われ、インドネシア地域全域が大混乱に陥った。
 しかし、情報が事前に漏れて初動で1日の作戦のズレが生じた事で、アメリカ軍など連邦政府軍側の西側陣営の軍隊も警戒態勢を取っていたため、不意打ち状態の場所でしか軍事拠点への作戦は成功しなかった。
 だが、NLF、人民共和国軍の攻撃目標は、今までとは大きく違って都市部だった。攻撃して一時的に占領もしくは混乱状態に持ち込むことで、都市住民の一斉蜂起を促すのが目的だからだ。
 このため大小100都市以上に攻撃が行われ、実に8万人もの兵士とゲリラ兵が動員された。人民共和国軍はメンガラ以外ではほぼ支援のみだったが、NLFにとっては乾坤一擲の大作戦だった。
 攻撃はインドネシア連邦共和国政府の重要施設を中心にして行われ、連邦共和国軍総司令部、統合参謀本部、大統領官邸、各地の軍司令部、パレンパン国際空港(現スルタン・ムハンマド・バタルディン2世国際空港)及び隣接する空軍基地、国営放送、米軍の後方兵站拠点各所など重要施設ばかり35箇所が襲撃された。
 中でも象徴的だったのが、パレンパンにあるアメリカ大使館の占拠だった。
 6階建ての建造物を中心に、半ば要塞のような建造物で周囲を威圧していたが、そこを僅か19名の奇襲攻撃で占領してしまったのだ。数時間後には駆けつけた第101空挺師団の兵士達によって奪回されたが、このアメリカ大使館占拠がその後大きな政治的意味を持つことになる。
 一方、日本大使館も同様に襲撃を受けたのだが、こちらは大使館の構造と事前に緊急配置に就いていた特殊部隊兵を含む警備兵の奮闘により守られた。
 日本大使館が守られたのは、守備兵の奮闘もさることながら施設の構造のお陰だった。アメリカ大使館ほど広くないし強固にも守れないので、大使館の敷地のやや内側に壁を作り、その外側に幅約2メートルの深い堀を掘った。出入り口は二カ所で、そこは常設の橋(ただの鉄板を置いただけ)でつながれていたが、そこ以外に奇襲部隊が内部に突入する場所がなかった。橋の外側には対車両障害と重コンクリート製の歩哨詰め所も置かれていた。このため同様に襲撃を受けるも、裏口から突入してきたトラックも想定内で、NLFの特別攻撃隊は任務を全うすることなく撃退された。
 なおインドネシア連邦政府の日本大使館は、一見古い砦のような防御構造とアジア的な一部建造物、何より日本の大使館ということで「NINJA House」と俗称されていた。
 しかし日本大使館はどちらかと言えば例外で、メンガラ基地など当時人民共和国国境周辺にアメリカ軍と連邦政府軍の予備兵力が集まっていた為、NLFは防備の手薄になった各地の地方都市を一時的に制圧する事に成功した。
 いっぽうで首都は激戦が行われたが、元からの駐留兵力が多いため、混乱させる事しかできなかったが、それはそれでNLFの想定内だった。だが、完全に想定外だったのが、スマトラの民衆達だった。
 結果から言えば、最大の作戦目的だった「民衆の蜂起」は全く起きなかった。各地の民族対立も一部では利用しようとしたのだが、これも空振りに終わった。何よりスマトラの民衆、特に都市住民は、共産主義思想に何ら魅力を感じていなかった。加えて、共産主義を広めているのが他民族と言える「ジャワ島の連中」だったので尚更だった。そして同じ島の「となりの連中」より、「ジャワ島の連中」の方が彼らにとっては純粋な脅威対象だった。
 一部のプランテーションでも蜂起を促したが、浸透しようとしたら密告される事がほとんどで、自警団を編成してNLFに抵抗する場所まである状態だった。NLFや共産主義者は、自分たちの平穏を乱す敵でしかないのだ。農村部は支持する側と反発する側が半々程度だったが、協力したのはNLFが基盤とする村落だけだった。
 そして米軍などが奇襲攻撃のショックから立ち直ると、戦力面で弱体なNLFは都市という隠れる事が難しい場所で、個々に孤立した状態に置かれたも同然だった。各地でNLFは壊滅的打撃を受け、せっかく制圧した都市の支配権も次々に失い、特に北部のアチェ地方での支配権喪失は早かった。

 また、支援した人民共和国軍も無傷では済まなかった。
 NLF支援のため国境近辺での攻勢を強化し、包囲したメンガラにも増援部隊を送り込んだ。だが、アメリカ軍の予備兵力が集中した場所であるだけに、半ば正面からの戦闘では人民共和国軍に勝ち目は無く、膨大な損害と犠牲を積み上げるだけに終わった。
 かくしてスマトラの民衆を味方に付けることに失敗したNLFは、総兵力8万のうち、実に60%を失って壊滅状態に陥ってしまう。人民共和国軍も2万近い兵力を失って、他から兵力を転用してスマトラ島北端に兵力を増強しなければならなかった。このため他の島から兵力を引き揚げねばならず、何もかもが軍事的には失敗してしまう。しかもスマトラ南端へのその補給をアメリカ軍、日本軍に見透かされ、海峡を越えるところで激しい妨害を受けて損害を上積みした。
 この輸送阻止では、空軍部隊、空母機動部隊による空襲だけでは戦力が不足するため、海軍の他の戦力も動員された。
 艦砲射撃任務で来援していた筈の日米の水上打撃艦隊も、第二次世界大戦以来と言われる洋上艦船への攻撃を実施し、主に砲撃戦能力を残していた艦艇が活躍した。もっとも世界最強の砲弾が粉砕したのが、小さな漁船を改造した密輸船のような輸送船だったのは、あまり誇れる戦果とは言えないだろう。
 また史上初めて、水上艦から誘導魚雷による攻撃も行われてもいる。第二次世界大戦では、対潜水艦用しか誘導魚雷は実戦投入されていなかったからだ。この戦果を挙げたのは、第二次世界大戦中に建造された既に旧式化著しい《夕雲型》駆逐艦の1隻で、同艦はブリテン島北方海上でドイツ艦隊と相まみえた経験も有する歴戦の武勲艦でもあった。そして、まだ残されていた魚雷発射管に装填されていた魚雷だけが1950年代に実用化された高速誘導魚雷で、旧式故に砲撃任務と哨戒任務でインドネシアに出動していたため珍しい戦果を挙げることができたのだ。
 そしてさらに、インドネシア戦争ではジャワ島などの封鎖、監視任務ぐらいしか任務の無かった潜水艦も動員され、輸送船などに対して魚雷攻撃を実施している。ここでは日本海軍の当時最新鋭だった攻撃型原子力潜水艦「八雲」が、史上初めて原子力潜水艦としての戦闘艦艇(※人民海軍に供与されたソ連の旧式駆逐艦)の撃沈戦果を記録している。

 戦術的には、共産主義陣営の完全な敗北で終わった「ルバラン攻勢」だったが、戦略面、特に政治面では全く違う様相を呈した。
 それまでアメリカ政府は、戦争には勝利しつつあり、間もなく終わるだろと自国民に言っていた。だが、現地に入ったメディアが伝えたルバラン攻勢の映像は、衝撃以上の光景だった。何しろアメリカ大使館が、一時的とはいえ敵に占拠されてしまったのだ。
 しかも政府の言う勝利のため、50万人以上投入された兵力のうち既に1万5000人ものアメリカ兵の戦死者が出ていた。1967年内までで250億ドルのインドネシア連邦政府への支援が行われ、さらにアメリカ政府が消費した戦費が膨大な金額で加わる。他にも、日本や満州など兵力を派遣している国々へも、派兵の見返りとしてかなりの支援や援助を行っている。
 にも関わらず、戦争は勝利するどころか混沌としているに過ぎない事、場合によっては不利にすら見える状況である事がメディアによって暴露されてしまった。
 しかも双方の現地軍や政府で「野蛮」な行いが行われる事もあり、ルバラン攻勢の時期にそうした映像も世界中に流れた。それを見た人々は、アメリカがそんな野蛮な事をする国や地域を守るために戦わねばならないのか、と大きく疑問を持つようになる。
 そしてルバラン攻勢以後、アメリカの世論は今までとは比較にならないほど反戦へと大きく傾く事になる。しかもアメリカでは、黒人を中心とする人種差別政策の是正を求めた公民権運動と半ば合わさってしまい、アメリカの内部を大きく揺るがす事になる。
(※派兵される米軍兵士を人口比率から見ると、異常に多い黒人兵の姿があった。)
 かくしてアメリカにとってのインドネシア戦争は、ルバラン攻勢によって大きな転換点を迎えることになった。

 一方アメリカ以外の派兵国だが、アメリカほど混乱は見られなかった。同じ白人国のオーストラリアは、西ニューギニア以外に派兵していないので、早く地盤固めをするべきだという意見にこそなるも、反戦とは少し違っていた。むしろ、インドネシアが今以上にバラバラになる好機と考え、民衆も政府を後押しするようになる。オーストラリアでは、海面が大きく低下してオーストラリアとニューギニアが一つの陸地だった氷河期時代の「サフル大陸」という言葉が出てくるようになったりもした。
 そして残るは、日本、満州、インド、ベトナムが主な派兵国になるが、どの国も基本的に反共産主義で意見が一致していた。そして日本ですらアメリカ市民が「野蛮」とした行動を、極端に否定する事は無かった。戦争が勝利からはほど遠い事は理解されるようになったが、アメリカとは違って「アジアの同胞」の問題は自分たちの問題という考えも強かった。また日本、満州は、シーレーンの問題もあるため、イデオロギーだけで戦っているわけでもなかった。スマトラの戦いは、勝たねばならない戦いだったのだ。
 しかし、アメリカ発祥の影響が皆無ともいかなかった。各国での反戦運動は、共産主義の工作員、シンパによって拡大された。日本、満州などは共産主義運動として厳しく弾圧したが、この事はソ連など共産主義陣営ばかりか、アメリカ、西欧諸国の反戦運動家、リベラリストなどからも強い非難を浴びた。だが日本の場合は、1959年に共産主義が暴力的な反政府運動をした事があるため、日本国民は反共姿勢を崩さない佐藤栄作政権を強く支持した。
 それよりも深刻だったのは、現地でのアメリカ軍兵士を中心とする士気の衰えと風紀の乱れだった。特に「麻薬禍」と後に呼ばれたマリファナ、ヘロイン、LSDなど薬物による兵士の現実逃避は、アメリカ軍以外にも急速に広まった。士気の低下も他国に波及し、アメリカ軍同様に風紀の乱れも広まった。
 こうした事態に対して、日本軍などでは様々な対策が立てられた。カウンセリングのために、精神科医だけでなく多くの僧侶が動員されたりもした。また、派兵期間の短縮も実施されたが、こちらはアメリカ軍ほど徴兵忌避、派兵拒絶が少なかった事もあり、兵員数を減らすことなく兵士の供給を続けることが出来た。
 それでも現地に派兵された兵士の士気低下は看過できないため、様々な手段が講じられた。
 その中でも意外に効果があったのが、食事の改善だった。

 当時の作戦中、特に移動中の兵士の食事は、戦闘糧食(レーション)と呼ばれたものが支給されていた。しかし保存優先だったりしてあまり美味しくないため、兵士からの評判は悪かった。このためまずは、味の改善が精力的に取り組まれた。これには民間企業も多数動員され、缶詰の中に入れる食事の改善が大きく進み、さらには宇宙食と同じ密封方法が導入されている。そうしたレトルト食品の代表として、カレーライス(のルー)が兵士の間では非常に好評となった。一時はタバコや酒よりも価値の高い交換物として、兵士達の間でやりとりされたほどだ。また、様々なレトルト食品が、商品としてではなく兵士の食事として数多く出現する事になる。
 そしてカレーと双璧をなしたのが、インスタントラーメンだった。
 インスタントラーメンは日本で1958年に発売されたが、発売当初は値段がやや高いためあまり売れなかった。それでも、お湯をかければ3分で温かい食事が簡単にできるというので徐々に広まっていった。そして広まるにつれて価格も多少は下がった。しかし当初は軍用食ではないため、スマトラでのデビューは兵士が私的に持ち込んだり日本から送ってもらったものとなる。ただし調理には鍋などが必要なため、完全な携帯食とはいかなかった。そのままでも食べられるが、それでは食事としての魅力は半減どころではなかった。それでも確実な広まりを見せ、日本陸軍も企業と正式契約を結んで糧食の中に組み込むようになった。
 また満州軍では、第二次世界大戦から「温かい野戦食」に強いこだわりを見せており、インスタントラーメンが発売されると、すぐにも専売契約を結んだ。そして当然とばかりに、インドネシアに派兵される兵士達の糧食に組み込んだ。しかも製造企業からライセンスを取得したり、支援金を渡して商品の改良すらさせている。
 そして気が付けば、スマトラにいる多くの兵士がインスタントラーメンを食べるようになっていた。日本兵、満州兵の手で、様々なものと交換される形でひろまったのだ。アメリカ兵も、酒やタバコと交換してでも日満兵から手に入れていた。いつしか一般市民ですら食べるようになり、スマトラ島でのインスタントラーメンは間違いなく日本兵、満州兵たちがもたらしたものだった。
 そして1971年に登場したのが、カップ式のインスタントラーメンだった。インスタントラーメンをコップに入れて食べるのを見た創業者が考え出したという逸話があるように、断熱性発泡スチロールのカップに1食分の乾麺、調味料、乾燥具材のすべてが入っており、お湯さえあればその場で食べられる完全な携帯食だった。
 だが、当時の日本では高すぎて、一般の販売はまるで振るわなかった。しかし、既に同じ会社のインスタントラーメンに目を付けていた日本陸軍は、士気の低下を少しでも緩和するべく継続的な大量購入の契約を交わす。満州軍も、発売前から目を付けて契約を交わしていた。そして兵士達、特にジャングルを歩き回る歩兵達に、どこでも食べられると美味しい食事だと絶賛された。
 熱帯ジャングルで熱いお湯を入れたラーメンなど食べたくないと言う人もいるかもしれないが、それ以上に温かくてそれなりに美味しい食事は魅力的だった。そして汗をかきながらカップラーメンをすするテレビ映像が日本国内に流れると、カップラーメンの知名度は一気に高まり、その後の爆発的な販売という副産物までもたらしている。

 また、士気の維持という面で、主に日本軍では「風呂」を用いることで大きな効果を上げた。日本人は熱い湯船に入るタイプの風呂を好むが、本国から遠く離れた遠隔地でも実現してしまった。
 この発端は第二次世界大戦に遡り、「野戦風呂」は前線の兵士達の創意工夫によって色々な場所で作られた。この話は尾ひれを付けて、イタリア軍が水が貴重な砂漠でパスタを茹でた話しと同列に語られることになったりもした。
 そして戦後になると、支那戦争でも同じ光景が再現された。水が豊富にある場所には、必ず簡易ボイラーと湯船があった。
 そして欧州駐留軍の士気の維持のため、休暇の際にはイタリアなどにある温泉が利用されるようになった。しかし、出来れば毎日風呂に入りたいというのが、一般的な日本人の心情だった。このため現地駐屯地には、風呂が建設されるようになる。建設されたのは日本本土にある銭湯とほぼ同じ様式だったが、中には現地に敬意を示すという理由からローマ風の風呂まであった。
 インドネシア戦争でも、風呂については派兵前から色々と議論が行われ、最終的には「二六式野戦風呂」という装備が誕生して、スマトラ島各地の日本軍駐屯地に「スマトラの湯」などとして常設されるようになる。この野戦風呂は、日本人移民の多い満州軍にも導入され、さらには各国の派遣軍も利用するようになり、パレンパンなど兵士の多い地区に作られた野戦風呂は兵士達の社交場として賑わった。

 そうして各国軍が兵士の士気の低下に悩んでいる間に、アメリカ軍によるジャワ爆撃の停止、アメリカ軍の段階的な撤兵が発表された。しかもそのすぐ後に、オランダのハーグで最初の予備交渉まで開始してしまう。
 しかも1968年秋の大統領選挙は、共和党のリチャード・ニクソンが当選した。しかしその勝利は、民主党候補のジョン・F・ケネディが選挙運動中に暗殺されたおかげであり、当選ですら1%の僅差での勝利で、就任前からケチのついた当選だった。しかもケネディがインドネシアからの即時撤退を掲げていた事からも、アメリカ国内で国を牛耳る人々と市民の考えが大きくかけ離れていることを、これ以上ないほど雄弁に物語っていた。
 一方で共産主義陣営側は、NLFが組織ごと壊滅した状態のため、戦力の建て直しをはかった。今までは境界線DMZ近辺の戦闘にしか加入していなかったインドネシア人民共和国軍が、本格的に戦闘に加入するようになったのだ。
 ついでに言えば、インドネシア連邦共和国軍は、士気の高い者と極端に低い者に分かれていた。高いのはスマトラ島北部のアチェ族出身で、アチェ民族の自主独立よりもスマトラ島全体を背負う勢いがあった。それと意外に、ボルネオ島、スラウェジ島など他の島から来ていた兵士の士気も高かった。これはスマトラ島が共産主義に染まれば、インドネシアの他の地域も同様の運命を辿ると考えられたからだ。特に、一時NLFに制圧された都市でスパイの名目で大量虐殺が行われた事が知れ渡ると、現地兵の士気は大きく上った。
 同じ事は他の東南アジア諸国にもあり、フィリピン軍などの士気も比較的高く維持されていた。

 しかし、既にアメリカのニクソン政権では、インドネシアからの撤退と決まっていた。
 そしてニクソン政権がインドネシア撤退に必要と考えたのが、アメリカ対インドネシアもしくは自由主義陣営対共産主義陣営の対立構造を、「アメリカにとって」インドネシア国内の問題にすり替えてしまう事だった。
 一見難しいが、インドネシア人民政府がアメリカとの間に一定の妥協を結ぶことに同意すれば、もしくはアメリカが同意させれば、アメリカはインドネシアから撤退する事が可能となる。
 だが、アメリカの目論見を完全に成立させるには、アメリカ以外の国々の軍隊も撤退させなくてはいけない。しかしニクソン政権というよりアメリカ合衆国は内政を重視して、自らが呼び寄せたに等しい他国を差し置いて、自らだけ撤退をほとんど勝手に決めてしまう。
 このためアメリカと人民共和国の交渉は進んだが、アメリカと日本など他の国との関係は悪化した。そしてその溝を深めるべく、ソ連が人民共和国への直接支援を減らす。これは、西側諸国の嫌がらせとしてジャワ島に置いていたソ連軍艦艇の引き揚げなどで、軍事支援自体を減らしたわけではない。目に見える形で和平促進を肯定したと見られやすい行動で、実際アメリカのマスコミはソ連の行動を評価した。
 そしてアメリカに梯子を外された形の日本などの国々だが、今更引き下がる気は無かった。引き下がれば共産主義が広まるのは確実だし、日本としてはマラッカ海峡は様々な点で安定して維持される事が好ましかった。対岸のマレー半島が維持されればマラッカ海峡の安全は確保されるという意見もあって、アメリカなどはその論を採っていた。だが、スマトラ島が赤く染まった場合、モーターボート1隻が不穏な行動を取っただけで海峡の使用を止めなければならない可能性も十分にあった。
 このためインドネシア人民共和国の打倒はともかく、スマトラ島への共産主義の浸透は断固として阻止しなければならなかった。
 そしてアメリカの方針変更とアメリカ軍撤退決定以後は、スマトラ島での戦いは日本軍を中心として動くようになっていく。

 もっとも、当のインドネシア人民共和国政府は、アメリカが撤退と和平、交渉による外交的解決を望んでいる事を、かなりの期間フェイクだと考えていた。1969年夏のアメリカによるインドネシアからの撤退宣言も、見せかけに過ぎないと考えていた。その証拠としては、アメリカが交渉を有利にするためスマトラ島南部各地で攻勢と爆撃を強化した事が挙げられる。アメリカとしては相手が一度欧米的外交を受け入れた為(※1959年のインドネシア分立時)、今回も交渉が成功して和平が成立すると考えていた。だが前回は、インドネシア人民共和国政府にとっては苦渋の決断に過ぎなかった。また前回は、ソ連からの外交指示があったからでもあった。しかし今回はソ連はあくまで支援の形であり、独自に判断を下すことができた。そしてアメリカの今までの行動から、安易な妥協はあり得ないと考えていた。しかも世界の世論、特にアメリカの世論はアメリカの撤退を指示しており、自分たちに追い風が吹いているとなれば安易な和平案を受け入れる理由は無かった。
 それでもアメリカが撤退するというのなら止める理由はなく、交渉を進める材料としてアメリカ軍のスマトラ撤退を進めさせた。
 そうした時、さらに一つの大きな変化が世界を揺るがす事になる。



●フェイズ111「インドネシア戦争(5)」