●フェイズ124「1980年代の日本軍(3)」

 次に、戦略空軍だが、日本の1980年代の国防方針の柱の一つとなる「日本列島不沈空母」の主役だった事もあり、核戦力を中心として戦力の充実が図られた。
 当時の戦略空軍は、4軍の中で最も人員規模の小さい軍隊だった。1975年までは、主に海外での通常空軍の役割を担っていたため規模も相応に大きかったが、軍縮と整理統合の結果、本当の意味での戦略的な部隊のみに再編成されていた。冷戦崩壊後のさらなる軍の再編で変化するが、それはこれより後の話しだ。
 当時の主な部隊は、5つの爆撃機飛行隊と戦略偵察機を装備する飛行隊になる。しかし欧州駐留軍と二分されているため、小隊や分隊で分かれている場合もあった。
 以下が大まかな配置と装備になる。

 ・戦略空軍(司令部:木更津)
 第701飛行隊(硫黄島)(装備:轟山(常用18機、予備2機)
 第702飛行隊(シチリア)(装備:轟山(常用18機、予備2機)
 第703飛行隊(択捉島)(装備:轟山(常用18機、予備2機)
 第704飛行隊(ディエゴガルシア島)(装備:轟山(常用18機、予備2機)
 第711飛行隊(硫黄島)(装備:剣山(常用10機、予備2機)
 第721飛行隊(木更津)(装備:北斗(常用10機、予備2機)
 第111飛行隊(択捉)(装備:景雲改(常用12機)
 ※第111飛行隊は、1個小隊をシチリア島に分派。
 ※員数外扱いで、空中給油機型「轟山」が12機運用されている。

 配備されている基地は多いが、装備する機体数自体は少ない。しかし轟山、剣山は大型の重爆撃機(戦略爆撃機)なので、搭乗員数は多いし整備員以下基地要員も多くなる。当然ながら大規模な滑走路が必要だし、同じく大規模な整備施設も必要だった。また全ての機体が、ある意味特別な機体ばかりなので、さらに整備兵などが多く必要になる。加えて1機当たりの搭載量が多いので、装備部隊、補給部隊の規模も通常の航空部隊よりずっと大規模になる。そして何より、偵察隊を除く全ての飛行隊が核兵器を運用するため、さらに多くの専門要員が必要となる。各基地には専門の警備部隊までいたほどだ。
 このため機体総数に比べると、兵員数は多いと言える。これでもアメリカ戦略空軍、ソビエト空軍の同種の部隊に比べると、兵員数はかなり絞られている。これは一部負担を兵部省が担っていたからだ。
 かつては水爆パトロールなどと呼ぶ24時間体制での空中待機を行うため、非常に多くの機体が所属していたが、1975年の軍縮で大規模に縮小された。比率で言えば、4軍で最も縮小されている。
 1980年代になると、常時上空に待機する事もなくなっている。しかし水爆パトロールの頃との6機1個小隊の編成は変わらず、有事(全面核戦争)の際は6機編隊で任務を遂行する。
 一方で通常爆撃も重要な任務とされ、むしろアメリカ空軍よりも戦術爆撃を重視している。これは、装備する機体全てが戦術爆撃を考慮して設計されている点からも伺い知ることができる。逆に言えば、日本軍全体の貧乏性の現れとも言える。
 また、日本戦略空軍独自とすら言える戦術には、対艦攻撃も含まれている。これは母体が海軍航空隊で、第二次世界大戦以前から艦船攻撃を主任務としていた事を引き継いだ形だ。轟山や剣山は、1トンを越える大型の対艦巡航ミサイルでも、最大で1機当たり18発搭載できる。
 戦略核搭載巡航ミサイルの場合は12発の搭載となるが、どちらにせよ主装備は巡航ミサイルになる。そして全面核攻撃時には、1機で戦略原潜に匹敵する攻撃力を持つ事になる。
 この大量の搭載力のため、戦略空軍の巡航ミサイル、対艦ミサイルの保有量(定数)は、最大で600発以上にもなる。80年代の戦略空軍へ投じられた予算のかなりも、大量のミサイルと運用能力の近代化(購入費)に充てられている。
 戦術爆撃の際は大量の無誘導爆弾を搭載する場合もあり、支那戦争、インドネシア戦争では先代の爆撃機(連山改)などと共に絨毯爆撃も実施している。最新鋭の「剣山」はこの時点では実戦経験はなかったが、通常爆撃の訓練自体は日常的に行っている。

 装備面での特徴は、この時点で運用開始から30年を越える「三菱 一五式戦略攻撃機 轟山」になるだろう。戦後日本の戦略爆撃機の代名詞であり、第二次世界大戦後の重攻撃機の代表である。核兵器搭載の機体としてよりも、対艦攻撃機つまり陸攻(陸上攻撃機)としての知名度の方が高く、ある意味海軍航空隊の伝統を引き継いでしまっている。
 一般的な戦闘機や攻撃機のような外見のため、実物を見ると距離感を疑う大きさで、積載量は最大で30トンになる。80年代に保有している機体は、エンジンや電子装備を刷新した改良型の「轟山改」で、運用可能な古い機体も改良型に準じた改修が実施されていた。
 また員数外で、爆撃任務を外された機体の一部が空中給油機として運用されており、速度性能の高さなどから緊急展開任務に使用される。記録映像が流布している、湾岸戦争での出動が有名だろう。

 「三菱 85式戦略攻撃機 剣山」は、「轟山」の後継機として1960年代半ばに開発が開始されたが、何度も開発の遅延や予算の不足から導入延期などがあった。大型の超音速重攻撃機は開発費が非常にかかり、しかも開発自体が困難を伴った。三菱が総力を傾けたと言われる開発を行ってもなお、開発は遅々として進まなかった。これは日本に限った話しではなく、アメリカもソ連も同種の機体の開発には非常に大きな苦労が伴われている。ソ連などはアメリカの機体(B-1)のフルコピーを作ろうとして、実質的に失敗しているほどだ。
 日本の場合は、先代の「轟山」自体が亜音速ながら高速発揮に向いた機体形状を持っていたこともあり、開発の手間、運用ノウハウなどでアメリカより少し有利だったと言われる。また三菱が、本機の特徴である超低空飛行可能な機体を作り続けてきた経験があるため、米ソに比べてアドバンテージが大きかった事も開発を可能とした大きな要因だったと言われる。
 そうして何とか完成したのだが、機体価格が非常に高い事と結局性能が求めた数字にまで達しなかった事から、半ば意地で量産されたに過ぎないと言われる事が多い。生産機数も、試作機や研究用の派生機と含めても22機しかなく、三菱としても大赤字の兵器開発となっている。本当は「轟山」を全て本機と交代させる筈だったが、75年の軍縮もあってもはや不可能だった。このため、代替手段として「轟山改」が数を増やしてもいる。
 一方で、アメリカの「B-1」爆撃機ほど技術的冒険はせず、過剰性能も求めなかった事が幸いして、性能自体は比較的安定していた。シャープなデルタ翼を持つ姿も印象的で、宣伝効果も高かった。
 そして、日本が自力で大型の超音速戦略爆撃機を開発したというインパクトは大きく、ソ連は非常に大きな脅威を感じていた。また「旗機(フラッグ)」としての効果も十分にあった。運用開始がアメリカの「B-1」爆撃機と同じというのも、冷戦下では政治的効果があった。
 日本戦略空軍は、本機による飛行隊を秘密兵器を運用する最重要の部隊と位置付け、彼らにとっての秘密基地と言える硫黄島に配備した。硫黄島は戦後に無人化されて以後は一般人が近づく事ができず、それでいて日本本土からは比較的近くにあるため、戦略空軍の基地としては打ってつけだった。
 ソ連は潜水艦などで何度も接近して情報を収集しようとしたが、日本軍は哨戒機と潜水艦、艦艇を配置して妨害し、その追いかけっこが冷戦時代の日常風景になっていたほどだった。
 こうした経緯から、兵器単体としては十分な成功作ではなかったが、戦略として大きな成功があったとも評価されている。
 初の実戦は湾岸戦争になるが、冷戦最盛期を十分に盛り上げると共に、十分な役割を果たしたと言えるだろう。

 「中島 三二式攻撃機 北斗」は、アメリカ空軍で言えば「F-111」に相当する。と言うより、意識して開発された機体だった。通常の空軍に配備されていてもよい機体なのだが、当初から戦術核の搭載を前提とした機体のため、戦略空軍だけが保有している。戦略空軍の規模が大きかった頃は、最大で70機以上を保有していたが、軍の改革時にコストパフォーマンスが悪すぎるとして大幅な削減が行われた。80年代に保有されていたのはその最後の生き残りで、最終的に00年代まで運用されている。
 日本軍では珍しい可変翼機で、他には「嵐竜」と「天狼」しかない。しかも「嵐竜」は同じ中島の機体でもあるため、「嵐竜」と姉妹機だと言われる事もある。
 能力は同種の機体としては平凡だが、珍しい用途の機体でもあるため重宝された。
 「中島 76式司令部偵察機 景雲改」は、日本が保有するこの時代ほぼ唯一の戦略偵察機になる。
 戦略偵察機と言えば、アメリカ空軍の「SR-71 ブラックバード」を思い浮かべる方も多いかも知れないが、先代の「景雲」及び「景雲改」は、アメリカの「U-2」と似た用途の地味な機体になる。主に東シベリアやオホーツク海で運用されているが、ヨーロッパでの日本軍の戦略的発言権を得るという目的で、一部が地中海方面に配備されていた。
 ただし日本でも、「ブラックバード」のような超音速偵察機の開発は試作までは行われている。しかし十分な性能と実用性に達する事が無かった為、実用化にまでは至っていない。
 
 最後に海軍航空隊について見ていこう。
 海軍航空隊の歴史は古く、実質的に日本軍の中では最も古い航空隊としての伝統を誇っている。しかも戦後の陸軍航空隊と違って、終始固定翼機を運用し続けた「本物の空軍」だった。
 純粋な戦力としての評価は、海軍航空隊としてはアメリカ海軍航空隊には及ばないが、純粋に空軍として見ても並の大国に匹敵する戦力を有している。日本軍全体で見ても、保有機数は全体の40%を越えている。
 主な戦力は大型空母、アメリカ海軍の言うところの攻撃空母を根城とする空母航空隊になる。
 日本の空母航空隊と、アメリカのこの時期の同種の空母航空隊との違いは対潜哨戒機部隊にある。アメリカ海軍は「S-3 バイキング」対潜水哨戒機を空母に搭載して、攻撃空母が一定程度以上の対潜水哨戒能力を有している。日本海軍は、以前は「南海」対潜哨戒機を搭載していたが、改良を重ねても機体の老朽化しすぎてしまい、さらに支援空母の能力強化もあってヘリのみになっている。アメリカからバイキングを買う話しもあったが、予算不足などから見送られた。
 対潜任務は支援空母に任せるドクトリンとしている事、母艦の規模がアメリカよりやや小さい事、航空隊を可能な限り攻撃力や制空能力に使いたいという理由から、75年以後は固定翼型の対潜水哨戒機を積んでいなかった。
 また、主な展開地域がソ連の潜水艦のいない地中海か、友軍の地上配備の対潜水哨戒機が多数いる北太平洋北西部地域になるため、艦隊自体を守る対潜ヘリコプターを十分配備する事に力を入れているからでもあった。
 1980年代の日本の空母航空隊は、1隊当たり以下のような編成となる。

 ・201空母航空団(例)
  (戦闘221航空隊、攻撃621航空隊、支援421航空隊から編成)
 三菱 77式艦上戦闘機 旋風 12×2機(+予備機:各2機)
 愛知 三〇式艦上攻撃機 天狼 12×2機(+予備機:各2機)
 愛知 二四式艦上攻撃機 天狼改 4×1機(電子作戦機型)
 A-E2 ホークアイ 4×1機 (警戒管制機)
 西崎 78式対潜哨戒回転翼機 3×4機(通常3×2機)
 小型輸送機 1機

 同時期のアメリカ海軍と比べると機体のバリエーションが若干少ないが、攻撃力としては空軍の1個航空団に支援部隊を加えた規模になるので、能力自体は高かった。だが、同時期のアメリカの攻撃空母にはやや劣っている。このため日本海軍は、より高度な任務の場合には「支援空母」を艦隊及び航空隊に編入することで、より強力な編成を取ることにしていた。
 支援空母はアメリカ海軍での対潜空母に当たるが、より柔軟で広範な任務を担う、攻撃空母の半分から3分の1程度の能力を有する「軽空母」というのが各国の総評になる。日本、アメリカ以外なら艦隊の主軸になるほどの能力が与えられており、支援空母と呼ぶには相応しくないと言われる事もある。
 そしてその支援空母に搭載されるのは、主に垂直離着陸機と各種ヘリコプターになる。1970年前半までは、やや旧式もしくは小型の固定翼機を中心に搭載していたが、機体の大型化に母艦規模が付いていけなくなっていた。当時からより大型の代替艦が言われていたが、軍縮のあおりを受けて新造艦も小型化されてしまい、合わせて空母航空隊も規模を縮小した。
 以下がその編成になる。

 ・401飛行隊(例)
 AV-8B ハリアーII 10(+予備機:2)
 西崎 78式対潜哨戒回転翼機 3×4(通常3×2)
 警戒管制ヘリ 2(掃海ヘリの改装型・通常搭載せず)
 掃海ヘリ 2(※多目的大型ヘリ・輸送任務も可能)

 見て分かるとおり、主力は垂直離着陸戦闘機の「AV-8B ハリアーII」になる。日本海軍が支援空母に何を求めているのかが、良く分かる編成と言えるだろう。
 しかし上記は最大搭載機数の一例で、警戒管制ヘリは攻撃空母がいなくて危険度の高い任務の場合にしか搭載されない。またハリアーを搭載せずに、他の各種ヘリを多数搭載したり、艦隊全体の「ヘリ母艦」としての役割を果たす場合もある。全く逆に、ハリアーばかりを搭載した事例もあった。
 一番の役割は、危険度の高い海域で艦隊の前面に位置して、多数の対潜ヘリにより敵潜水艦に対する「バリアー」を構築することにある。本来ハリアーを搭載するのは、敵地で対潜掃討戦を行うために限定的制空権を得るのと、艦隊全体の防空の一助とするためだ。
 揚陸飛行隊だが、これは強襲揚陸艦で運用される各種ヘリコプターによって編成された航空隊になる。双発の大型輸送ヘリ、汎用ヘリ、戦闘ヘリを適時配備および搭載して運用される。当然だが、陸軍のヘリコプターも運用可能だ。また、臨時に支援空母のハリアーを編入する場合もあったが、アメリカ海兵隊のように常時搭載はしない。
 対潜航空隊は地上配備の部隊で、大型もしくは中型の対潜水哨戒機が配備されており、主に北太平洋でソ連海軍の潜水艦を探し求めている。補助的に、オホーツク海を哨戒する部隊もある。非常に優秀なため欧州配備が依頼された事もあるが、配備予定の場所が北海やバレンツ海になるため、日本の対潜航空隊が臨時以外で配備される事は無かった。また、演習目的以外で地中海に派遣された事例もない。

 次に代表的な機体を見ていきたい。
 この時期の海軍航空隊の代表的機体としては、「三菱 77式艦上戦闘機 旋風」と「愛知 三〇式艦上攻撃機 天狼」になるだろう。どちらも日本海軍の台所事情を反映した機体だった。
 「三菱 77式艦上戦闘機 旋風」は、日本海軍を代表する母艦搭載専用の戦闘機だが、本当に日本海軍が欲しかった機体ではないと言わる機体だった。
 と言うのも海軍は、1960年代後半にアメリカの「F-4 ファントムII」が、当時の機体の中では飛び抜けて優れた性能を有していた為、三菱が同時期に試作していた機体を事実上蹴って「F-4 」を採用した。しかも「F-4」の数年前に採用した「剣風」を押しのけるように「F-4 」の配備を進めるという、三菱にとっては屈辱と言える状態だった。
 このため海軍は、次の機体は三菱に作らせると確約していた。しかし今度は、アメリカが「F-14 トムキャット」を開発しているのを聞きつけると、海軍はこれを欲しがってしまう。「F-14」が、日本海軍が求める理想を結実したような制空戦闘機だったからだ。
 しかし二つの理由から、海軍は「F-14」を諦めざるを得なかった。一つは、「次は三菱」という約束があること。だがこの点は、ライセンス生産で何とかいけそうな気配もあった。三菱も「F-14」に匹敵する機体の開発が無理なのは自覚していたからだ。しかしもう一つの問題が「雄猫」の導入を阻んだ。
 高すぎたのだ。
 8個飛行隊+練習機の予備機込みで最低でも120機程度の調達が必要になるが、どうソロバンを弾いても当時は3分の2程度の確保しかできない予算しか無かった。しかも可変翼機で、運用経費も非常に高かった。ついでに言えば、艦載機としては大型すぎた。
 後から見れば、予算面では5年違えば導入できたかもしれないが、5年も遅れては新型機導入でソ連軍との軍拡競争に負けてしまうと言うのが海軍側の考えだった。海軍としては、再び強大化が進んでいると噂されていたソ連海軍に対して、何としても80年までに最低でも戦闘機隊の半数は機体更新しておきたかった。ファントムでは、どれだけ改造してもソ連の新型には勝てないと見られていたからだ。
 そして、さらに問題が起きる。
 三菱の新型機が、海軍が予定していた1975年の実戦配備開始に間に合わないというのだった。
 このため海軍は、数年間分の保険をかけざるを得なくなり、この時期に「F-4 ファントムII」の一部を近代改修を決定する。しかしコストパフォーマンスを考えると、その場しのぎだけを理由に近代改修はできないので、延命処理と近代化の双方を実施して、かなり大規模な改修を行う。この結果、「F-4」はスマート攻撃能力を備えたかなり優秀な戦闘攻撃機になったが、かけた予算と手間を考えると適切だったのかは、いまだ議論が続いているほどだった。しかしこの改修型は、日本海軍での用が済むと日本空軍に移管されたり、一部は他国に売却されているので無駄にはならなかった。

 そして紆余曲折の末に誕生したのが「三菱 77式艦上戦闘機 旋風」だった。
 同機は、三菱重工が約15年ぶりに送り出した新型の艦上戦闘機になる。以前と違って陸上運用タイプはなく、海軍専用という点で珍しい機体だった。そして三菱と海軍が作った、今のところ最後の艦上戦闘機になる。(※これ以後は、戦闘攻撃機になる。)
 この時期に空母に固定翼機を開発、搭載しているのは、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、そして日本だけだった(※旧式機を運用する国は他にあった。)。ソ連は最後まで西側と同程度の蒸気カタパルトが開発できなかったため、搭載する機体は例え性能が優秀でも十分な性能を発揮できなかった。しかも、艦上専用機の開発にも失敗していた。イギリス、フランスは、日米ソほどの大型空母は保有していなかった。このため世界最強の艦上戦闘機といえば「F-14」になる。「F-14」は地上配備の最新鋭機に匹敵する能力を有するとされており、独自装備の長射程対空ミサイル、高性能のレーダー、可変翼など幾つもの特徴を持っていた。しかも映画の題材にもなったように、見た目が「格好いい」ことでも有名だった。
 「三菱 77式艦上戦闘機 旋風」は、その「F-14」を目指さねばならなかった。例え越えられないにしても、三菱の沽券に賭けて恥ずかしくないだけの艦上戦闘機を開発しなければならなかった。
 「旋風」は、日本の機体としては初めてフライ・バイ・ワイヤ(当初はアナログ型)を使用することで、優れた操縦性を実現している。遠距離ミサイル戦は、艦隊や警戒管制機の支援を受けることを前提として割り切って二の次にしてしまい、中距離以下での格闘戦に能力向上を傾けていた。制空権特化型と言われる所以だ。
 このため空力特性に優れた流麗な機体を持つ美しい機体で、少しソ連の「Su-27」に似ていた。しかし思ったほど小型化はできず、「F-14」ほどではないが大型機となった。主翼をほぼ根もとから折り畳めるので搭載は問題なかったが、地上機並の大きさは旧式の少し小さめの空母《白龍》では運用に困難が伴った。
 そして海軍と三菱は、この機体を用いて各種の研究機、実験機を開発している。デルタ翼型、前進翼型、二次元可変(ベクター)ノズル型、カナード翼型、デジタル試験型、戦闘爆撃機型、電子戦型、ステルス素材型など、それ以外にも海軍の艦上戦闘機とは思えないほどの種類がある。その後、後継機として完全改修型「旋風改」が量産されてもいる。
 これは本機の拡張性の高さと発達余裕の大きさを物語っている。この点は、日本空軍の「紫電」と通じるものがある。そして同時に、1機種の機体をなるべく長く使うことで長期的コストを下げたいという日本軍全体の考えを見ることもできる。結果としてだが、「F-14」より「FA-18」に似ていた。実際完全改修型は、対艦ミサイルを最大6発も搭載できる戦闘攻撃機型だった。

 「愛知 三〇式艦上攻撃機 天狼」は、アメリカ以外が開発した艦上攻撃機という点で珍しかった。ソ連海軍は、結局オリジナルの単独任務型の艦上攻撃機を持たないまま消えていったが、日本海軍は海軍航空隊を作った時から艦上攻撃機を保有しており、その伝統を担っているのが「天狼」になる。
 日本海軍は第二次世界大戦後は「流星」→「流星改」→「A-4 スカイホーク」と艦上攻撃機を装備してきたが、インドネシア戦争では流石に「流星改」の旧式化が目立っていた。しかも「A-4 スカイホーク」は、愛知がライセンス生産したとはいえアメリカの機体で、日本海軍としては国内の技術維持のためにも国産を求めた。
 また75年の軍縮で核攻撃用の「愛知 二二式艦上重攻撃機 昴」が退役していたため、なおさら国産が求められていた。
 そしてアメリカ政府とアメリカのメーカーは、日本海軍が後継機を考えている時期に「A-7 コルセアII」攻撃機を勧めてくる。確かに優れた性能を有しており、機体がコンパクトなのも日本海軍での運用には向いていた。だが海軍は、この時期は「F-4 ファントムII」を採用していた事から、2機種ものアメリカ軍機は受け入れられなかった。このため海軍の全面支援のもとで三菱と愛知の間に競争試作を行わせ、そうして採用されたのが「天狼」だった。
 「天狼」は小型化を諦め、機体性能を重視している。
 双発、複座、可変翼の機体で、見た目は攻撃機というより戦闘機に近かった。
 多数の搭載量、急降下爆撃、低空進撃、対艦攻撃に対応でき、総力を傾け激しい競争の末採用された機体だけに、確かに優れた性能を有していた。しかし高性能、大型化の代償として、価格が予想以上に高騰してしまった。可変翼も整備や維持を考えるとあまり良くはなかった。また、完成時点での高性能を求めすぎた為、当初予定していたよりも発達余裕が少なくなっている。それでもアメリカ軍の機体を越える性能となったので、当時の海軍は十分満足した。
 しかし、調達半ばで70年代半ばの軍縮のあおりをモロに受けてしまい、予定の二倍以上も旧式機からの転換に時間がかかっている。また、軍縮のあおりで愛知飛行機が中島に吸収合併されてしまい、愛知飛行機として開発した最後の機体ともなった。

 では次からは、第三の空軍を有する海軍の艦艇を順番に見ていきたい。


●フェイズ126「1980年代の日本軍(4)」