●フェイズ128「1980年代の日本軍(6)」

 1980年代の日本海軍は「新八八艦隊」を正式な軍備拡張計画として、その整備に大きな努力を傾けた。その中で、日本海軍にとって水上艦の整備は頭の痛い問題だった。

 空母や潜水艦は変わった形をしている兵器で、一般人の思い描く軍艦とは大きな大砲を載せた戦闘艦艇になるだろう。しかし時代の変化、技術の進歩で、大きな大砲を載せた艦艇は姿を消していき、さらに空母と潜水艦が海軍の主戦力となっていった。
 このため水上艦の整備は予算が限られてしまがちになった。特に70年代は、大型水上艦にとって厳しい時期だった。
 大型水上艦といえば戦艦を思い浮かべるだろうが、日本海軍ではそれまでも交代で予備役と現役を繰り返していた戦艦を、1975年に全て予備役と保管艦措置(モスボール化)を決定した。
 60年代も、キューバ危機以後はソ連の戦艦の活動が低調となったのを受けて、実質4隻のうち半数を予備役とするようになっていた。インドネシア戦争での出動の際も、慌てて稼働率を上げたりしている。
 長らく保管艦状態の予備役を過ごした《高雄型》戦艦4隻も、結局そのまま退役して日本各地で記念艦や博物館などになって余生を過ごすことになった。
 ギリギリまで絞っても1000名以上の乗組員を必要とする戦艦は、空母と並んで多くの水兵が必要だった事など、空母より安いと言っても運用経費が高額だった。しかも大きな大砲以外の武装に乏しいので、実戦力としては使いどころが難しかった。基本的にはソ連が巨大戦艦を何隻も保有していたので、対抗戦力、抑止力として保有していた。
 だがそのソ連の大型艦は、60年代中頃から稼働率が大きく下がっていった。しかも潜水艦と空母に努力を傾注して、世界最大最強と豪語した戦艦すら、就役から15年ほどで予備役にしてしまう。ソ連海軍の維持能力が低かったのも予備役に入れたのも、予算不足が大きく影響していた。
 これで日本など西側諸国も戦艦を維持する理由が無くなり、インドネシア戦争が終わると戦艦は相次いで予備役や退役していった。
 そして戦艦よりも厳しい査定に晒されたのが、大型の巡洋艦だった。

 1975年の軍縮で、一部残っていた第二次世界大戦由来の巡洋艦の全てが退役とされ、ほとんどが解体された。中にはヘリコプター搭載艦、対空ミサイル搭載艦に大改装されていた艦もあったが、全て生き残れなかった。
(※ただし、日本海軍を退役後に他国に払い下げられて、長い第二の人生を歩んだ艦もある。)
 1975年から79年は、日本海軍の建艦史上で海軍の屋台骨とも言われる巡洋艦が最も減った時期だった。
 生き残った巡洋艦は、60年代に就役した打撃巡洋艦(CCA)の《大井》《北上》と、60年代後半に就役した原子力ミサイル巡洋艦《夕張》、同じく70年代前半に就役した原子力ミサイル巡洋艦《大淀》の4隻だけだった。
 大きな大砲を主武装とした巡洋艦は、ことごとく姿を消した。
 《大井》《北上》は、第二次世界対戦型の巡洋艦の旧式化が進む中で、新たな大型水上艦のテストケースとして建造された。満載1万トンの船体に16発もの大型対艦誘導ミサイル「二〇式(虎徹)」を搭載した重武装で、水上艦の戦闘方式を変革しようとした実験艦に近い艦だった。2隻建造されたのは、集中攻撃で打撃力を高めるためだった。このため評価がよければ、そのまま量産を続けるつもりでいた。
 そして初陣でこそ十分な抑止力を発揮するも、当時の対艦ミサイルでは予想したほどの結果は得られなかった。こんな贅沢で単一目的の水上艦を建造するぐらいなら、空母戦力の強化をするべきと結論され、同型艦が作られる事はなかった。
 とはいえ建造された2隻については、主に抑止力として意外に重宝されてもいる。

 《夕張》は日本海軍の水上艦艇として初めて原子力機関を搭載した実験的な巡洋艦で、アメリカ海軍でいえば原子力巡洋艦《ロングビーチ》に当たる。
 主武装も、アメリカ海軍の対空ミサイルとほぼ同等の「一九式艦対空誘導弾発射装置(生弓(イクヤ))」(の改良型)になる。
 「一九式」自体は、「三〇式艦対空誘導弾発射装置(与一(ヨイチ))」が導入されるまで日本海軍の主力艦対空ミサイルシステムで、《夕張》の就役当時では日本海軍の一般的な兵器だった。かつて実験艦となった《扶桑》で実用実験されていたものの発展系にあたり、第二次世界大戦型の巡洋艦の一部も同ミサイルを搭載する近代改装が行われたりもしている。
 また《夕張》は、「二〇式二〇サンチ砲(単装)」を2門搭載していたり、対潜装備も当時のものは一通り搭載して、さらにヘリコプター運用能力も付与されていた。まだCIWSではない76mmの対空用の砲も複数搭載しており、当時としては非常に軍艦らしい堂々とした外観を持っていた。
 能力的にも、ミサイル巡洋艦と言うよりは汎用巡洋艦だった。満載1万2000トンの船体に載せられるだけ載せた格好で、こうしたところに当時の日本海軍の貧乏性が見て取れる。あまりに多彩な装備に、原子力実験艦ではなく兵装実験艦と言われたほどだった。
 ただし重武装すぎて、ダメージコントロールには難点があったと言われる。もし本当なら、原子力機関搭載艦としては、かなり問題があると言える。

 《大淀》も原子力艦だが、こちらも純粋なミサイル巡洋艦とは言い難かった。新型の「三〇式(与一)」を搭載しているので十分にミサイル巡洋艦ではあるのだが、先代の装備を踏襲するかのように大規模なヘリコプター運用能力が付与されていた。
 日本海軍としてはソ連の潜水艦が気になり始めていたので、空母部隊の護衛として潜水艦キラーを随伴させたいという意志の現れだった。なればこその、無限の航行能力を有する原子力艦でもあったのだ。
 艦の船体後部(甲板下)に大きな格納庫を設けて、艦後部の甲板をヘリコプター甲板としており、イタリアの《ヴィットリオ・ヴェネト》やソ連のヘリコプター巡洋艦に近い姿をしている。この点は、先代の大淀とは外観共々少し異なっていた。
 しかし75年の軍縮で、支援空母の対潜空母としての能力強化と増勢までが決まった事と、原子力艦は建造費、維持費(炉心交換費)などが高い事から、後続の艦が作られる事はなかった。建造された2隻も、炉心交換の時期に順次退役している。

 そして今度は、既存艦艇の多くを退役に追いやった事で、空母機動部隊の艦隊としての戦力、特に対空防御力の低下が懸念された。そこで、一度は計画を凍結した原子力巡洋艦を、通常型のミサイル巡洋艦として復活させる。
 これが《青葉型》ミサイル巡洋艦になる。
 復活しても原子力艦にならなかったのは原子力艦の建造費が高かったからで、予算制約からは逃れられていなかった。
 一斉退役した旧式艦の代替艦枠で1976年に予算承認され、79年から82年の間に毎年1隻ずつ合計4隻が就役した。
 しかし本級は、もう少し計画を待つべきだったと言われる事が多い。
 この頃アメリカ海軍では、日本海軍も深く関わる形で画期的な新型防空システムの開発が最終段階を迎えていた。いわゆる「イージス・システム」で、技術提供や技術協力などで深く関わっていた日本海軍も、早期に同システムを導入した艦艇の建造ができる見込みだったからだ。だが、一定規模以上の能力を持った防空艦の整備は急務であり、場つなぎの艦として急ぎ建造される事となる。
 しかしイージス・システム以外の面では、出来る限り次世代艦と装備を同じとすることとされた。そして重く嵩張るイージス・システムを載せない事で、余裕のある船体規模を持つこととなり、巡洋艦として不足のない艦様を有する事になった。
 満載排水量1万1500トン(基準排水量9500トン)、全長191m。10万馬力のオールガスタービン機関を搭載している。主武装は、アメリカの「Mk-41」と同等の「79式垂直発射装置」。これの8×8:64連装型2基を艦の前後に装備して主武装としている。
 「79式垂直発射装置」(※装置だけなので愛称なし)は、日本海軍が1950年代から日本らしくない大ざっぱな発射方法を研究・開発していた成果で、74年まで日本の財政から見て湯水のように予算と人材を投入した成果でもあった。
 アメリカと違い、ターター世代のシステム「三〇式(与一)」と同時期に開発が始まり、結果としてアメリカのシステムと似ていた(ほぼ同じ)。だが、収斂進化のように同じシステムに行き着いた結果でもあった。そして装備当初は、「三〇式(与一)」と同じ対空ミサイルを装備していた。
 ミサイルの誘導装置は4基と防空巡洋艦としては標準的だが、イージス・システム艦ではないのでミサイルの同時誘導数は限られている。しかしその後、イージス・システム艦とのリンクシステムを搭載することで、イージス艦と共同行動を取る際には、「統制射撃」によってイージス艦と同等のミサイル誘導能力を獲得している。しかしこの能力の為に、ミサイル・キャリアーと言われる事もあった。そして就役後は、空母の直衛として重宝された。
 それ以外の装備は、「三〇式艦対艦誘導弾(ヤブサメ)」を4×2:8発、二〇式二〇サンチ砲を1門、単魚雷3×2を搭載、そして後日装備だがファランクス20mmCIWSを2基装備。さらにヘリコプター甲板とヘリコプター2機収容できる格納庫を備えている。さらに後日には、少し無理をしてSLCM(艦対地巡航ミサイル)ランチャーも搭載した。
 沢山作れないならば、少しでも大きくして重武装にしようという戦後の日本海軍らしい艦艇であり、諸外国は「現代の重巡洋艦」と呼んだ。《青葉型》にソ連が刺激されて、《スラヴァ級》巡洋艦の規模を大きくしたほどだった。アメリカでも、同時期により大型の巡洋艦を建造する議論が高まっている。
 なお、1970年代以降も20センチ(8インチ)砲を搭載するのは、日本海軍だけの特徴になる。対空砲として発射速度面で低い評価をされる事も多いが、日本海軍はインドネシア戦争の教訓から艦砲射撃を重視して、大型艦にはなるべく搭載させ続けた。しかし対空火力の不足は認めざるを得ないため、自力でのより射程距離の長い対空砲の開発と装備に力を入れるようなっている。
 また、本艦をタイプシップとして《金剛型》イージス巡洋艦を建造している。

 その《金剛型》イージス巡洋艦は、外見は日本の《青葉型》巡洋艦とアメリカの《タイコンデロガ級》巡洋艦を足して二で割ったようだと言われる事が多い。《タイコンデロガ級》以外で唯一の初期型イージス艦で、同じく他の艦からの派生型という点で共通していたからだ。
 《タイコンデロガ級》との違いは、1番艦からVLS「79式垂直発射装置」を装備している点と、火砲が5インチではなく8インチ(20センチ砲)の点になるだろう。また船体規模は全長が約18メートル、排水量が2000トンほど《金剛型》の方が大きい。堂々たる巡洋艦だった。
 しかし「二〇式二〇サンチ砲」の改良型の「83式20センチ砲」は、改良してもなお対空射撃にはあまり向いていなかった。このため前クラスから若干の船体拡張に伴い追加で搭載された砲塔を5インチ砲かオットー社の76mmスーパー・ラピッド砲にするか議論されたが、違う種類の火砲を搭載する事の面倒と、《金剛型》は広域防空が主任務なので結局そのまま20センチ砲を2門搭載した。
 《金剛型》は83年から予算承認され、1990年までに4隻が就役した。次の防衛計画つまりさらに5年後から、さらに改良型が4隻が建造予定となっていた。それまで防空巡洋艦の半数は、電子兵装の更新とCIWS増設など近代改装した在来艦を充てることになっていた。

 防空駆逐艦の主力は、「三〇式(与一)」を装備した満載排水量6500トン級の《睦月型》になる。
 アメリカやイギリスのミサイルフリゲートやミサイル駆逐艦に当たるが、日本海軍はフリゲートという艦種分類を設定したことがないので、巡洋艦もしくは駆逐艦としか呼称されていない。
 初期の頃の艦種分類は巡洋艦だったが、艦艇全般の大型化と軍縮時の半ば言い訳として駆逐艦に格下げされた。
 1960年代前半に「一九式(生弓)」システム連装1基を主装備として、新生代の空母の護衛として就役した。そして1980年代までに、相次いで「三〇式(与一)」に換装されているが、やや旧式の感は否めない。名称は防空駆逐艦の固有名称となった「月」の名を踏襲して《睦月型》とされ、暦より多い数を建造したので先代同様に後半の艦は別の月の付く名前とされた。
 武装は、艦後部にミサイル連装発射装置、艦の前後に12.7cm単装砲を1門ずつ、アスロックSUMシステムを搭載。艦の後部にヘリコプター甲板を持つが、格納庫は無く発着のみできた。
 1980年代の近代化でCIWSを2基追加しており、「三〇式艦対艦ミサイル(ヤブサメ)」も4×2:8発搭載した。しかし艦隊防空艦のため、SLCMを搭載する事は無かった。排水量は、最終時で満載7000トンを越えた。
 近代改装で建造初期に搭載していた単装砲を2門から1門に減らしていたが、十分に時代に対応できるようになっていた。

 《天津風型》防空駆逐艦は、軍縮時期に防空駆逐艦の小型化、省力化を狙って1970年代後半から整備された。
 満載5500トンクラス(※最終的に6000トンを越えた。)の船体に、「三〇式(与一)」を単装2基、12.7cm単装砲1門、アスロック発射装置を主武装として、80年代にCIWSを2基追加搭載している。ミサイル発射装置を連装型に出来なかったのは、船体幅が足りなかったためだが、かえって艦内空間を取っており効率は悪かった。
 排水量の割に重武装なのに省力化のため艦に余裕が少なく、対艦ミサイル、巡航ミサイルを追加搭載する余裕は無かった。ヘリコプターも簡易発着用の甲板はあったが、搭載はされていない。艦の規模に対して防空能力は高かったが、ややトップヘビーで洋上での運用には慎重を期したと言われる。

 汎用駆逐艦は、長らく第二次世界大戦終盤に就役した駆逐艦を、近代改装や装備更新しながら使い続けていた。1970年代前半にようやく戦後世代艦を揃えたが、ソ連の潜水艦増勢のため、さらに対潜能力の強化を迫られた。
 そして70年代になり、慌てるように次の世代の汎用艦の新規整備が決まる。だが、70年代前半まで前世代型の対潜汎用艦を整備していた事と、75年の軍縮のあおりを受けて延期され、78年にようやく予算化された。
 当初は予算圧迫を受けて12隻を整備する予定だったが、ソ連の潜水艦増勢に対抗するため改良型をさらに8隻を追加。都合20隻が、年2隻のペースで整備されている。それでも十分な数ではないので、90年の時点でさらに次の計画が動いていた。
 《白雪型》は満載排水量5000トン級の船体に、様々な装備を搭載した汎用艦で、大きさ的にも使い勝手は良かった。《朝霧型》は《白雪型》より300トンほど重くなったが、戦訓を受けて上部構造物の一部をアルミから鋼鉄に変更するなどしているが装備などは同じだ。
 どちらも、空母の随伴として装備に対して艦の規模は大きめで、燃料積載量、居住性も十分確保されており、ある意味で日本海軍が建造した初めてのフリゲート艦と言えるかもしれない。また、主に北太平洋で使うことを前提としているので、艦の規模は十分すぎるとも言われる。(※日本軍が駐留する地中海に、東側の潜水艦は事実上いないため。)
 対艦ミサイル4×2発、7.6cm単装砲1門、アスロックSUM、中距離対空ミサイル、短魚雷、CIWS2基、ヘリ1基搭載が基本装備で、対潜水艦戦を行うのが主任務だった。ヘリは無理をすれば2機搭載できた。対潜王国と言われる日本海軍の専門艦艇のため、当時は非常に注目を集めた。ソ連も、日本が有力な対潜艦艇をさらに多数整備したことに強い警戒感を見せている。
 後期型8隻はアスロックと対空ミサイルをVLS化する計画もあったが、同型艦建造による価格低減のため設計変更は行われなかった。

 海防艦は、便宜上(フリゲート・FF)とされているが、日本海軍の分類ではあくまで海防艦とされた。
 日本近海及び沿岸防衛が主任務で、第一線を去った旧式艦があてられている。主に日本近海に接近するソ連潜水艦に対抗するのが主任務で、装備は汎用駆逐艦以上に対潜水艦戦に特化している。
 もとは、第二次世界大戦後にはじめて量産した戦後世代型の《綾波型》駆逐艦で、1960年代半ばから70年代前半にかけて同型艦28隻が相次いで就役した。国産を諦めアメリカからアスロックSUMシステムを導入したように、対潜水艦用の装備を重視しており、対潜ヘリコプターの搭載能力もあった。
 排水量は満載で4000トン近くあり、12.7cm単装砲2門、アスロックSUMシステム、対潜ボフォース、短魚雷と対潜装備を中心に武装を揃えていた。対空装備が単装砲のみだが、当時の防空は空母艦載機とより大型の防空艦の役目とされていたので、あまり深刻には考えられていなかった。搭載機に関しては、後部甲板に離発着のみできた。
 1980年代には代替艦の建造が進んだため順次第一線を去り、いまだ第二次世界大戦世代の旧式艦(※《改夕雲型》駆逐艦の簡易改装型)が海防艦を務めていた日本の沿岸防衛隊となる戦隊に、代替わりの形で配備されていった。
 1990年時点では18隻が在籍していたが、現役を退いたうち6隻が有事に備えた形での予備役として確保され、4隻が他国に売却されている。
 また、現役を維持していた艦については、単装砲を1門撤去してCIWSを装備するなど軽い近代改装が行われている。

 以上が当時の日本海軍の主な水上艦の概略になるが、もう一種類、日本海軍は別の艦種の艦隊編入を決める。

 イージス巡洋艦(日本海軍内での正式名称は:多目的広域防空巡洋艦)は、イージスシステムを搭載した艦艇を何隻整備して、どのように運用するかで揉めに揉めた。
 当時のイージスシステムと在来防空艦混在の艦隊では、大型空母1隻をエスコートするための水上艦は、最低でも10隻程度が必要と考えられていた(※他に原子力潜水艦と大型の高速補給艦が加わる)。
 さらに別途で、支援空母を中核とした対潜部隊による小規模艦隊と、できれば艦隊前面でピケット(斥候)任務の小規模艦隊が欲しいところだった。
 そして日本海軍が自らの防空能力について懸念を抱いたのは、少しおかしな話しだが自らが行った軍事演習が強く影響していた。

 1970年、1975年、ソ連軍は洋上で大規模な軍事演習を実施。
 1970年は、短時間のうちに100発もの対艦ミサイルを発射する演習を実施。これだけでも日米海軍に、大きな衝撃を与えた。
 1975年はさらに大規模化して、艦艇250隻、航空機500機が参加しており、日米海軍が中心となってハワイ近海で行う恒例の大演習を凌駕する規模で行われた。同種の演習は何年かの間隔で行われているが、この時は例年になく規模が大きかった(※予算不足の日本海軍は、その年の他の演習に大きく影響した程だった。)。そして何より対艦ミサイルを大量に用いて、日米の空母機動部隊を攻撃するという想定で行われた事で軍事関係者の間に衝撃が走った。「飽和攻撃」という言葉が頻繁に使われるようになったほどで、特にアメリカ海軍よりも脆弱な艦隊を持つ日本海軍の受けた衝撃は大きかった。
 そして日本軍としては、自らの海軍が実際どの程度の防御力があるのかの実状を知りたくなった。そこで極秘裏に、海軍と戦略空軍が総力を挙げた大規模な演習を実施。
 これが1977年に封鎖海域とも言われる硫黄島近海で行われた「昭和52年度硫黄島演習」で、重攻撃機、潜水艦、地上から発射された無数の対艦ミサイルの前に、日本海軍が誇る空母機動部隊は壊滅的打撃を受けた。
 多数の戦術核を使う想定だったとはいえ文字通り全滅と言える有様で、戦略空軍は「トラ・トラ・トラ」と勝利の凱歌を挙げたが、海軍は大きすぎる心理的衝撃を受けてしまう。
 逆にソ連の主力艦隊を自分たち単独でも捻り潰せることも分かったが、そんな事は慰めにもならなかった。先制攻撃はソ連が行うというのが、西側諸国の大前提だからだ。

 そして困った事に、日本近辺にあるソ連軍最大の基地は多数の原潜、戦略原潜を運用する基地であり、日本海軍にとって最重要攻撃目標だった。
 だがソ連軍も先刻承知であり、同地域を異常なほど厳重に防備していた。多数の航空戦力、対空ミサイルは当然として、敵艦隊が押しよせることを知っているので、無数の対艦ミサイルを配備していた。
 そのかなりが隠蔽陣地や洞窟陣地から引き出されてくるか自走式のため、例え先制奇襲攻撃に成功しても爆撃だけでは破壊しきれない。重攻撃機など、攻撃機もあなどれない戦力が配備されていた。攻撃の際はアメリカ海軍と共に侵攻するだろうが、無数に撃ち込まれるミサイルを艦隊だけの迎撃で無力化する必要があった。
 艦載機を防衛に使ってしまえば、今度は攻撃力が不足してしまうからだ。何しろ艦載機には仕事が多く、敵航空機の相手もしなくてはならない。
 同種のことは、ヨーロッパ方面の一部重要地域に対しても言えることだった。
 このため艦隊防空は、非常に重要と捉えられるようになっていた。
 しかし研究で算定された大型空母(CV)の随伴艦艇の数に、関係者のほとんどが鼻白んでしまう。
 イージスシステム艦は、巡洋艦クラス(CG)が最低3隻、できれば5隻。在来の防空艦(DDG)が最低4隻、できれば倍の8隻。さらに潜水艦の巣を攻撃するのだから、対潜用の空母兼調整艦(CVL)1隻と対潜水用の汎用艦(DD)が最低4隻、できれば8隻。最大で22隻、最低でも11隻の護衛艦艇が必要になる。この上に、原子力潜水艦と補給艦も必要となる。
 そして日本海軍は、自らのドクトリンに従ってこれを4セット用意しなければならない。高価なイージス巡洋艦だけで、最小12隻、最大20隻も持たなくてはならない計算だ。しかしアメリカ海軍の空母任務部隊でもこの最大数より少ない規模なので、予算や人員などから現実的な数字を割り出す事になる。
 以下が、その時の編成草案になる。

 空母機動部隊:
 本 隊:CV:1 CG:2 DDG:4 DD:3
 前 衛:CVL:1 CG:1 DD:3
 補給隊:AOE:1
 潜水隊:SSN:2
 (※CGはイージスシステム搭載艦)

 前衛は、斥候艦を先頭として大型空母の前で対潜スクリーンを張るので、事実上艦隊二つ分の編成とされた。二つとしたのは、船団護衛や純粋な対潜掃討などの任務で軽空母を中心とした小規模運用も考慮されていたためでもある。
 また、イージスシステム搭載艦がより充実してくれば、順次DDG、DDを代替した上で数を大幅に削減できる見込みだったが、イージス艦の価格を考えると10年以上先の話しだった。
 しかも、ここで一つ問題が浮上する。前衛のCG、つまり防空巡洋艦の戦闘力および防御力だ。先頭を進む斥候艦なので敵の攻撃が集中しやすいが、簡単に戦力価値を失ってもらっては困る。シュミレーション上では巡洋艦以上の艦艇が好ましいとされ、不可能なら2隻以上の体制を敷くべきだと結論された。
 だが、そんな金と人は当時の日本にはない。このため色々と案が出ては消えていった。そうした中で残ったのが、半ばやけくそと言える案だった。
 1隻の艦艇に全てを詰め込む案。つまり、イージス艦2隻分の防空能力と汎用艦数隻分の火力、対潜ヘリチーム(6機編成)一つを詰め込んでしまうと言うものだ。しかも防御力も、他と比べると破格の能力を持つ艦に白羽の矢が立てられた。
 そしてそんな艦は、一種類しか無かった。
 日本海軍は、米ソに対抗できるだけの艦隊を整備するという目的で、米ソですら既に忘れていたかつてのモンスターを再び呼び覚ますこととしたのだ。
 日本海軍が目指す大改装には莫大な対価(大金)が必要だが、小規模艦隊1個分に当たるイージス艦2隻とヘリ巡洋艦1隻を作ることを思えば、十分に釣り合いがとれると考えられた。しかも丈夫さが折り紙付きとあっては、文句の付けようがなかった。いつも渋い顔をする大蔵省は、むしろ乗り気だった。内閣も外務省も、外交面を評価して援護射撃をしてくれた。何しろ戦艦なのだ。見た目のインパクトが違う。
 問題は乗員の確保だが、3隻分が1隻に充てられるので、何とか出来ると判断された。

 そうしてまずは、廣島の柱島近辺でいつ記念艦になるかと言われつつ静かに余生を送っていた筈の《大和》《武蔵》の大規模近代改装が決定する。


●フェイズ129「1980年代の日本軍(7)」