●フェイズ14「第二次世界大戦(8)」

 大西洋の戦闘が激化しつつある時期、東アジアでも戦闘は激化しつつあった。そしてまずは、日本軍を中心とする連合軍が東南アジアへと進むより前に、中華地域の戦闘が大きく動いていた。

 1940年内の一連の防戦と局地的な攻勢で、当面の備蓄弾薬を消費してしまった日本軍だったが、半年もすると戦時生産体制が徐々に確立されつつあった。軍の動員も大きく進められ、特に陸軍では平時の17個師団体制(近衛1、戦車1含む)から、以前に廃止した師団の復活と、後備旅団の戦時師団化によって40個師団へと増加した。陸軍の兵員数も120万人となった。また、戦車師団の大幅増設が決まり、既存の戦車旅団などを基幹戦力として、まずは3個師団の増設が進められていた。また各師団の自動車化、機械化、重武装化も平行して進められ、戦前とは全く異なる規模の陸軍が出現しつつあった。
 陸軍の増強はさらに進められる計画で、60個師団200万人体制(航空隊含む)に向けて急ぎ足で進んでいた。この当時の日本全体の限界動員数が350万人で、海軍も航空隊、陸戦隊を含めて100万人の兵員増強を予定していたので、損害の補充を考えると200万人という数字はほぼ限界の動員数だった。総人口に対して動員数が他国に比べて少ないと言われることもあるが、これは日本が新興国だった事が影響している。欧米列強の多くと違い、当時の日本の人口ピラミッドはほぼ三角形で、形が示すように子供が多く成人数が総人口に対して少なかった為だ。また日本が、生産力維持のために熟練工を中心に動員を抑え気味にした点も忘れてはいけない。
 だがそれでも大軍が動員できる事には違いなく、日本の総動員と総力戦体制の構築は着実に進められた。
 このため1941年春頃になると、兵力差で大きな劣勢にある中華戦線に、大規模な増援が開始されるようになった。同時にソ連軍と向き合っている北満州西部の増強も実施されたが、こちらは5月中にドイツ(欧州枢軸)軍がソ連に攻め込んだため増強が不要になる。そしてソ連の脅威が無くなり、日本陸軍の主力が事実上のフリーハンドとなったことで、日本は中華民国に対する短期決戦を目指した大規模侵攻作戦を決定する。
 ヨーロッパを目指すためには、いつまでも東アジアで足を引っ張られているわけにはいかないし、事実上の裏切りを行った中華民国は早期に打倒すべき「敵」だったからだ。

 東アジアの連合軍は、主力は間違いなく日本軍だった。これにフィリピンを拠点とするアメリカ軍と形だけ兵力を派遣する自由英連邦軍(カナダ軍の1個旅団程度)が加わる。開戦までのアメリカのアジア方面軍のフィリピン駐留軍は、基本的に植民地警備軍以上ではなかった。加えて、半ば名目の独立のためのフィリピン軍が建設されつつあったが、開戦から一年近く経ってもほとんどが防衛以外に使えない状態だった。だが夏が終わる頃になると、主に日本列島の西部地域にアメリカ軍が進出してくる。
 主力は第1騎兵師団と第24師団で、日本本土で体制を整えた上で中華地域の作戦に参加予定だった。これ以外だと、既に上海に進出して日本軍と共に中華民国軍と戦っているジョナサン・ウェインライト将軍(当時少将)率いるアメリカ兵を中核とする混成旅団がいた(一部フィリピン兵含む)。
 東アジア方面軍と命名された現地アメリカ軍の総指揮は、正式にアメリカ陸軍中将に昇進したダグラス・マッカーサー将軍が行う。彼はアジアでのアメリカ陸軍の代表ともなるため、実質的には大将待遇とされていた(※1942年には正式に大将に昇進している)。
 日本の長崎、佐世保などには、大船団と共にアメリカ本土からやってきたアメリカ兵約5万人が短期間の間溢れることになる。この二つの港の近くには、アメリカ軍の一時駐屯場所も整備された。これほどの外国人が一度に日本に滞在するのは初めての事のため、日米双方で小さな混乱が無数に見られた。一方では、お互いの事を知る機会ともなり、相互理解と同盟関係の促進が進んだ。その後も、主に横須賀、佐世保はアメリカ軍の寄港地として使われ、周辺の駐屯場所と共にアメリカ兵が一般的に見られる地域になる。またアジア作戦の間のアメリカ軍将兵の休暇時に、将兵達が日本各地の観光するようになったため、日米交流は日本各地でも見られた。

 1941年に入った頃の中華民国の戦線は、北部はほぼ万里の長城での睨み合いとなり、双方ともに最も大軍が配置されていた。兵力差は依然として中華民国有利だったが、日本軍も続々と大軍を増強しつつあり、夏までには十分攻勢が行えるほどとなっていた。
 次に大きな戦線は上海橋頭堡と呼ばれる中部地域で、日本軍は上海とその周辺部を支配し、それを囲むように中華民国の大軍が布陣していた。上海の約300キロ西方には首都南京があったが、既に国民党政府は奥地の四川盆地にある重慶を臨時首都として逃げ出していた。
 残りは広東方面で、こちらは双方ともに兵力は少なく、連合軍としては中華民国の補給ルートを絶つのが主な目的だった。加えて兵力が増強されると、英本国に属していた香港の陸路からの包囲及び緩やかな進撃が開始された。
 対する中華民国軍は、開戦時300万の兵力があると豪語していたが、満州への侵攻失敗と上海での敗北で国民党の直属軍はほぼ全滅し、満州に攻め込んだ直隷平野の軍閥も壊滅状態だった。兵力数は、その後の増強があっても250万人程度で、既に重火器が不足し始めていた。しかも軍のほとんどは地方軍閥で、軍隊と言うよりは野党や食い詰め者の群が武装したような集団でしか無かった。
 加えて華中、華南方面にはイギリス空軍を中心とした欧州枢軸軍が展開していたが、既に日本軍との戦いと長大な補給路の二つによって壊滅状態だった。そして広東の補給路が使えなくなりインドシナが反枢軸の姿勢を取っていたので、41年夏頃には機材の多くを中華民国に供与すると東南アジアへの実質的な後退を開始していた。英本国軍を中心とする欧州枢軸としては、チャイナで可能な限り時間を稼いで、その後マレー方面で日本軍を迎え撃つ目算だった。
 だが中華民国を完全に見捨てる気はなく、インド帝国のビルマ方面から陸路の構築を41年に入る頃から始めており、中華民国の人海戦術もあって夏にはある程度使えるようになっていた。

 1941年4月、日本軍を中心とする連合軍が中華民国に対する攻勢を開始する。だが、まだソ連との関係が思わしくないので、満州にいる軍隊は動かせなかった。
 攻勢の主軸は、陸軍航空隊だった。
 日本陸軍航空隊は、開戦まで主力は満州北部に展開していた。ソ連が第一の仮想敵なのだから当然の配置だった。その隙を突かれる形で中華民国の侵攻を受けて、満州南部の部隊は短期間の航空撃滅戦で半壊した。それでも主力は動かせない為、当面の空の主役を海軍に譲らざるを得なかった。だが、半年の時間を掛けて再編成と共に大幅な増強が実施され、各地に続々と配備されていった。
 そして陸軍航空隊の配備を受けて、基地所属の海軍航空隊は一旦後方に下がって休養と整備そして規模拡大のための再編成に入り、さらに東南アジア侵攻の為の準備に入った。これは二つの空軍組織を巧く使った事例とも言われ、以後日本軍は陸海軍航空隊の二人三脚によって戦争を進めるようになる。もちろんこれには弊害もあり、両者の共同作戦自体は長らく実施されず、欧州枢軸に後れをとる場面も見られた。
 後の事はともかく、1941年春の中華民国、英本国空軍のアジア派遣軍に対する航空攻勢は、日本陸軍航空隊が主力となった。

 当時の主力機は、1939年秋から急ぎ増産された「九七式戦闘機」、「九七式軽爆撃機」、「九七式重爆撃機」の俗に言う「九七式トリオ」だった。どれも採用当時では列強水準の機体だったが、日進月歩の航空機の発展のため既に旧式化が見られた機体で、特にどれも武装が軽かった。陸軍もこの事は気にしており、1938年秋のズデーデン問題以後に強力な機体の開発や、既存の開発プランの強化を指示している。この中で、当時世界中から液冷エンジンのノウハウを集めていた川崎飛行機が開発するも採用されなかった「九八式軽爆撃機」を、慌てて採用、生産している。
 また陸軍は、海軍があまり興味を示さなかったアメリカのアリソン社が開発した液冷エンジンのライセンス購入を政府に行わせ、川崎に生産を行わせる体制を大戦前までに作り上げた。さらに大戦が始まるとイギリスとの交渉を熱心に進め、イギリス空軍が主力機に急速に導入しつつあったマーリンエンジンのライセンス生産の話しを進めた。当時イギリスは、アメリカでの機体を含めた航空機の代替生産の考えており、日本は眼中に無かった。しかし自国が窮地に陥り日本が参戦すると態度を180度変更し、日本陸軍との間にライセンス生産の契約を結ぶ。
 そして計画なら、1940年夏までに現物、冶具、図面が日本にもたらされる予定だった。だが、日本まで到着したのは先行していた図面だけで、他はイギリスの停戦で中止され、ライセンス生産の契約だけが宙に浮いた形で残された。日本がマーリンエンジンの現物を手に入れるのは、1940年の秋に中華民国に派遣された英本国空軍機の不時着機獲得まで待たねばならなかった。このため1941年の時点では、川崎飛行機が独自に機械式過給器を付けたアリソンエンジン(=アツタ)を生産しながら、マーリンエンジンの複製に近い生産を進めている段階だった。
 一方、空冷エンジンの機体の開発も急ぎ足で進められ、海軍向けに三菱が開発した零戦、一式陸攻の開発を横目で見つつ、三菱のライバル社の中島飛行機が新型機を製作した。川崎飛行機も対抗心を燃やし、あまり日本らしくない戦闘機を陸軍に売り込んだ。
 そして「一式軽戦闘機(隼)」、「一式重戦闘機(飛燕)」と「一式重爆撃機(呑龍)」が開発される。「一式」と名付けられているが、実質的には1940年に量産が開始されており、41年春には一部が実戦部隊に配備されつつあった。

 陸軍が求めた後の「一式戦闘機」の開発は中島と川崎が競い合い、中島は自社のコンパクトな栄エンジンを搭載した戦闘機を開発し、真っ向勝負を挑んだ川崎はアリソンエンジンの自社生産型を搭載した速度性能に重点を置いた重戦闘機を開発した。
 中島の機体は非常に運動性が高く、またエンジンの燃費がよいため航続距離も長かった。ただし、オクタン価100のガソリンを用いても、時速510km/hがせいぜいだった。川崎の機体は時速580km/hと当時日本最速を示し、機体も海軍機以上に丈夫なため降下速度も非常に高かった。武装は武式12.7mm4門で、日本陸軍としては重武装だった(中島は同砲2門だった)。機体強度も高く、また改良の余地を受け入れるだけの余裕も持たされていた。ただし航続距離は要求に達しておらず、川崎は海軍と同じ落下増槽で補うとしていた。さらに川崎の機体は、投下装置を付けることで最大で310kgの爆弾が搭載できた。この数字は、当時の軽爆撃機並の搭載量だった。全ては1150馬力ある液冷エンジンのお陰だった。だが、開発当初は自社エンジンの不調が酷く、アメリカからの輸入品(オリジナルのアリソンエンジン)が使われていた。
 しかし二つの機体に対して、陸軍航空隊のパイロットはどちらにも難色を示した。優れた格闘戦能力を誇る「九七式戦闘機」に対して、どちらも劣った格闘戦能力しか無かったからだ。川崎の機体など「真っ直ぐしか飛ばない」と最低の評価だった。そして当初は、パイロット達の言葉が重視され、陸軍は事実上の開発やり直しを命令する。
 この決定を覆したのが1940年7月のイギリス降伏で、すぐに使える機体が必要になったので双方に量産指示を出した。そしてさらに同年秋、海軍の零戦が敵に対して圧倒的性能を示して活躍したことで、少なくとも陸軍上層部は高い格闘戦能力は必ずしも必要ではないと考え、本格的な増産と改良を指示している。
 陸軍航空隊では、航続距離や機体特性から「一式軽戦闘機(隼)」は侵攻戦闘機、「一式重戦闘機(飛燕)」は防空戦闘機として当初は運用する事にした。中華領内のイギリス本国空軍による日本本土爆撃もあったので、高性能な迎撃戦闘機が必要だった事も二種類の機体採用を後押しした。
 そして1941年夏頃には、それぞれ3個飛行戦隊(大隊相当)が編成され各戦線で活躍することになる。
 「一式重爆撃機(呑龍)」は、当時としては標準的な双発の中型爆撃機だった。速度性能に優れていたが、爆弾積載量は最大で1トンで決して多くはない。このため対外的には中型爆撃機に分類され、日本陸軍は日本海軍と違って重爆撃機は保有していなかった事になる。陸軍が4発の重爆撃機を持たなかったのは、整備の面倒さや予算の問題ではなく、基本的に戦術空軍として編成、運用されていたので必要性を感じていなかったからだ。この点はドイツ空軍に近い思考と言える。
 だが、遠距離進出が当たり前になると性能不足が目立った為、結局海軍の「一式陸上攻撃機(深山)」の陸軍型を「二式重爆撃機(飛龍)」として採用する事になる。

 1941年春、中華民国駐留のイギリス空軍が疲れ切った間隙を突き、新規戦力を充実させた陸軍航空隊が、それまで活発に活動していた海軍航空隊に代わって航空攻勢を開始した。
 この時期中華地域の枢軸軍は、イギリス空軍約80機、中華民国空軍約40機にまで稼働機が激減していた。機体はこの倍近い数(約250機)あったが、補給が滞ったり整備不良だったりで、稼働率が50%程度しか無かった。液冷エンジン機は、交換用のエンジンがないと簡単に稼働率が落ちた。
 これに対して、満州北西部、上海橋頭堡に展開した日本陸軍航空隊は稼働機として約200機を準備して、さらに短期間での交代用として100機が用意された。用意された機体総数は、予備を含めて400機を数えた。100機程度だが交代用の航空隊も準備された。ロシア人と睨み合っている航空隊を除けば、ほぼ総力を集結していた事になる。陸軍航空隊は、間断のない航空戦を仕掛けることで短期間での撃滅を企図していた。またこの時、アメリカ軍も陸軍航空隊の「カーチス P-40トマホーク」戦闘機1個飛行大隊を戦列に参加させた為、アジアの空で連合軍として肩を並べることとなる。彼らは「フライング・タイガース」と呼ばれ、アジアで活躍する航空隊だとアメリカ本土向けに宣伝された。
 日本を中心とする連合軍の作戦は図に当たり、約一ヶ月で奥地に後退していた枢軸側の航空戦力は、ほとんど活動を停止する。僅かに重慶に後退した部隊だけが戦力を残していたが、中華の空は日本のものとなった。「一式軽戦闘機(隼)」は得意の格闘戦で多くの戦果を挙げ、陸軍の新たな主力戦闘機としての地位を確立したが、速力、火力の少なさが明らかな事が早くも露呈した。一方の「一式重戦闘機(飛燕)」は、まだ技術的な熟成が完全では無かった事、主に後方での防空任務だったことから、この時はほとんど活躍出来なかった。また日本では珍しい液冷戦闘機だった為、敵味方双方から誤認される事が特にこの時は多かった。
 だが制空権さえ得てしまえば、あとはやりたい放題だった。
 各地の爆撃が継続的に開始され、陸上侵攻するより前に各地の軍閥の士気を砕いていった。
 あまりの惨状に、イギリス軍はインドまで進んでいた航空隊の大規模な増援の投入を見合わせたほどで、この時点で中華地域での戦いの帰趨は決したと言える。生産力がなく十分な兵器の補給が受けられない国では、十分な兵器生産能力を持つ国との戦争は不可能だった。

 実質的な航空撃滅戦の間に、日本陸軍とアメリカ陸軍は内陸部への大規模で電撃的な侵攻の準備を実施したが、この後起きる地上戦は、ほとんど事後処理や消化試合に近かった。また、近年だと陸戦の経験が浅い日本、アメリカ両軍にとっての教訓を得る場所となった。
 しかし41年春の時点で、現地イギリス軍は連合軍が行おうとしている大規模な攻勢に気付いており、中華民国に敵航空基地の破壊のための反撃を強く要請した。これはイギリス空軍が揚子江内陸部の武漢地域に主に展開していたからでもあるが、後世からも判断の正しさは評価されている。
 これに蒋介石は、イギリス空軍の全面的支援があれば上海への反撃を行うと発言し、イギリス側も了承。早くも4月には上海橋頭堡に対する反撃作戦が実施される。これが、中華の空での航空戦をより激しくした原因でもあった。
 この頃の中華民国軍は、イギリスからかなりの量の武器弾薬を受け取っており、それまで主流だったドイツ軍装備はあまり見られなくなっていた。ドイツは自国陸軍の増強と拡大に狂奔している時期だったのもあるが、基本的に関心が薄かったからだ。ソ連軍装備も主に北部で装備されていたので、上海方面ではあまり見られなかった。対してイギリスは、チャイナは自分たちにとっての「盾」だと正しく理解しているので、「盾」を強くすることには熱心だった。
 1941年4月13日、南京東方に主力が展開した中華民国軍は、約80万の兵力で上海を包囲する形で進撃を開始する。
 この時期上海橋頭堡と呼ばれる狭い地域には、日本軍がさらに増援を送り込んで6個師団に増えていた。加えてアメリカ軍1個旅団、自由イギリス軍1個連隊(海兵隊)が展開していた。戦前から上海に駐留していた日本海軍陸戦隊の姿はすでになく、日本本土に帰って再編成中だった。
 連合軍の戦力は、補給担当など後方部隊も合わせて合わせて20万人ほどで、兵力差は歴然だった。単純な数の差だけなら、中華民国軍の勝利となる数字だった。しかも戦車や重砲などイギリスの兵器でかなり増強されていたし、武漢に進出していたイギリス空軍の援護もあった。しかも現地の連合軍部隊は、指揮系統の問題などから統一した司令部が開設できず、日本側も方面軍司令部を作りたくても作れないでいた。この点は、当時の日米両軍の関係が必ずしも良好ではなかった事を物語っている。

 4月15日に開始された戦闘は、基本的に守る連合軍、攻める中華民国軍の図式になった。そして連合軍は下がる場所が殆ど無いので、塹壕や野戦築城を用いた防御陣地での防戦となった。
 現地日本軍の指揮官は、日本側に方面軍司令部が開設されていなかったため軍(軍団)規模でしか設置されていなかった。第四軍の今村均将軍(当時中将)と第六軍の本間雅晴将軍(当時中将)が日本軍指揮官で、これにアメリカ軍のウェインライト少将が加わる。二人の陸軍中将しかも同期の者が並び立った形になるので、日本陸軍では慌てて方面軍司令部を作ろうとしたが、中華民国の攻勢初期は間に合わなかった。しかし両将軍は親友同士で付き合いも深かったため、意志疎通など特に問題は無かった。むしろ両将軍はウェインライト少将との関係に心を砕いており、階級はともかく実質的には同格の扱いを行った。
 また日本軍が方面軍(司令官)を立てる前に、日本とアメリカの間で協議が行われ、ちょうど上海に滞在していたダグラス・マッカーサー将軍が、大将待遇で臨時に上海方面軍司令官に就く事となった。日米の政治的妥協の産物と言えるが、当時の日本陸軍は日本本土で中華民国への本格的侵攻の準備と序列を決める真っ最中で、誰が上海方面の方面軍司令官に立つかでもめていたので、日本陸軍にとっては不安も強かったが渡りに船という心境もあった。だからこそ、軍の多い方が指揮をとる原則に外れた人事が通ったのだった。
 連合軍初の日米合同軍となった上海軍(方面軍)で、しかも大軍を前にしての苦しい防戦だったが、基本的に司令部の関係は良好だった。本間将軍は当時の日本陸軍一と言われたほど英語が堪能で、今村将軍は人格者で知られる人物だった。ウェインライト少将は階級は低かったが、二人の日本軍の将軍よりも年長者だったため日本側が年長者を敬うという形で立て、ウェインライト少将も日本側との円滑な関係を心がけた。その上に立つマッカーサー将軍は、色々と言われる人物ではあったが、少なくともこの時は配下にした将軍達との関係は良好で、賞賛する言葉を多く残している。その後のマッカーサー将軍の行動を見ても、これが表面的でないことは確かだろう。日本の二人の将軍も、マッカーサー将軍の指揮には賞賛の言葉が多かった。

 しかし司令部が良好でも、当初の戦況は厳しかった。
 とにかく中華民国軍は数が多く、焦りがあったので攻撃も激しかった。イギリスから武器弾薬もかなり供与されていたので、機動力と火力も侮れ無かった。新旧の巡航戦車(主力の「Mk-IV」と「Mk-V カビナンター」、「クルセイダー」)と「マチルダI」歩兵戦車に混ざり小数ながら戦場に姿を見せた「マチルダII」歩兵戦車は、当時としては破格の重装甲で当時の連合軍の戦車では撃破がほとんど不可能だった。
 日本の「九七式戦車」も前面60mmの装甲があるので、イギリス軍戦車の2ポンド砲(40mm砲)に撃破されることは正面からだと無かったが、それ以上に日本側の貧弱すぎる戦車砲(57mm短砲身榴弾砲、37mm速射(戦車)砲)が役に立たなかった。撃破はほとんどの場合航空攻撃の結果で、それ以外も野砲による近接射撃か、歩兵の肉弾(手榴弾)攻撃によってだった。日本側の損害がハード面の差のため広がらなかったのは、先のロシア製兵器との戦いで戦車と歩兵などの兵科の混成、共同作戦がうまくいったからに過ぎない。とにかく、火砲の力不足は明らかだった。
 このため日本陸軍では、急ぎ火力の大きな戦車の製作と既存車両の改造に取りかかることになる。また37mm対戦車砲も、他の戦車はともかく「マチルダII」戦車相手には歯が立たず、平行して大口径対戦車砲の開発も行われることとなった。加えて、慌てるようにほとんど試作だった「九九式重戦車」の部隊が実戦化され、前線に送られた。この時の日本軍は、連隊砲兵に配備されていた90式機動砲(ゴムタイヤ式の75mm野砲)、高射砲大隊の九八式速射砲(75mm高射砲)が、陣地防御で大活躍した。双方ともに念のため貫通力の高い砲弾(元々は対トーチカ用で対戦車砲弾ではない)が開発、装備されていたが、これが功を奏した形だった。中華民国兵が操るイギリス製の戦車は、日本軍陣地の前に瓦礫の山を積み上げることになる。
 だが中華民国軍は、戦車以外でもドイツ軍と違い重砲なども供与されており、火力が豊富だと中華民国軍の士気はかなり高かった。このため連合軍の損害もかなりのものに上った。中華戦線ではそれまで見られなかった重砲同士による砲撃戦も、かなり一般的に見られた。
 その中で連合軍の将軍達はよく防戦に務め、また将兵達も将軍達を信頼して戦い、ねばり強い戦いによって戦線を維持し続けることに成功する。
 なおイギリス軍は、中華民国に対して約600両の戦車、300門の重砲など数万トンの武器弾薬を供与し、このうち約80%が日本軍などの通商破壊戦をくぐり抜けて届けられた。そしてその兵器の半分をこの時の戦いに投じている。このため連合軍も苦戦を強いられ、また欧州枢軸軍の兵器の強力さを身を以て知ることになる。ただし中華民国軍の戦術は稚拙な場合が多く、数百両も供与された戦車は歩兵と共にノロノロと平押しするだけで、まともな戦果には全く結びつかなかった。

 2ヶ月の防戦後、6月に日本陸軍航空隊が激しい空爆を行い、日本本土から増援として3個師団が杭州湾に上陸して迂回進撃して中華民国軍の側面を突くと、上海を囲んでいた中華民国軍は崩れて上海橋頭堡の戦いは終息した。機動戦では、日本軍が完全に上手だった。
 そして今度は連合軍の反撃だった。
 春から夏にかけての航空撃滅戦で、中華民国空軍はほぼ活動を停止し、各地の爆撃によって中華民国の交通網は大混乱に陥っていた。中華民国に派遣されていたイギリス本国空軍部隊も、損害と補給の遅れから活動がほとんど停止していた。しかも6月からは、ソ連と睨み合っていた日本軍部隊も中華民国への攻撃に参加するようになったため、連合軍の戦果は大きく拡大した。日本本土で動員された師団も、続々と攻勢発起点となる満州北西部や上海橋頭堡に派遣された。
 8月4日、準備を終えた日本陸軍を中心とする連合軍は、中華民国に対する作戦「一号作戦」を開始する。作戦名の意味合いは、単なる数字ではなく「始まりの作戦」という意味合いがあった。これ以後日本陸軍は、「二号作戦」、「三号作戦」と名付けていくようになる。
 作戦には、日本陸軍が約20個師団、アメリカ軍が2個師団が用意された。また北部では満州国軍が、4個師団を中心にした20万の兵力が用意された。自由英連邦軍も1個旅団参加した。
 日本軍の中には、まだ一つしかない戦車師団とこちらも一つしかない空挺旅団が参加していた。また各師団も自動車化率の高い師団が可能な限り組み込まれ、次の東南アジア侵攻に必要な部隊以外での主力部隊が殆ど参加していた。日本陸軍は自らの決意を示すように、機械化師団への改変を終えていた近衛師団まで戦線に投入している。近衛師団が前線に出るのは、日露戦争以来の事だった。しかし近衛師団の投入には一悶着あり、師団改変の際に大幅な兵員の移動が行われ、従来の兵士の多くが入れ替えられ、実戦向きの精鋭野戦師団へと大きく変貌していた。これは日露戦争以後の日本陸軍としては非常に大きな変化であり、陸軍全体としても戦争への決意の高さを見せる変化と言えるだろう。
 また少し変わったところで、日本陸軍でも最後となっていた騎兵旅団が戦列に参加していた。後方では馬匹による輸送も多く見られたが、既に騎兵の時代が過ぎ去った事を思うと、日本陸軍のノスタルジーを見せる一面と言えるだろう。
 総兵力は約80万人で、これを陸海合わせて700機の航空機が支援した。
 対する中華民国軍は、数だけは250万いると宣伝され主力は連合軍と対峙する形で布陣していた。しかし欧州枢軸や少し前のソ連から供与されていた重火器、機械化車両の殆どを喪失しており、精鋭部隊が既に壊滅している事も重なって、内実は既に壊滅したも同然だった。
 北京、天津はほとんど無血で開城された。首都だった南京前面には大軍が配備されて抵抗を見せたが、機械化部隊と航空機を多用した電撃戦の前には、ドイツ軍に対するパリ陥落直前のフランス軍以下の状況でしか無かった。呆気なく一点が突破されると、一気に瓦解して背中を見せて逃げ出す有様だった。
 北部での作戦指揮は、岡村寧次将軍(当時中将)が実質的な指揮を執った。同将軍は、日本陸軍の中でも電撃戦、機械化戦に明るく、この時の侵攻作戦でも戦車師団、戦車旅団、機械化師団、自動車化部隊を大いに活用し、航空隊と連携させた。後続する補給部隊にも、多くのトラックが動員されていた。このため迅速な進撃が行えたと言えるだろう。そして進撃する様は、今までの日本陸軍とは大きく違う近代的な軍隊の姿だった。

 作戦開始から約二ヶ月で、中華民国の華北、華中の主要な沿岸地域が連合軍の占領下となった。連合軍は主要な都市と鉄道沿線を落としただけなのだが、一旦崩れ出すと各地の軍閥が雪崩を打つように降伏した為だった。
 あまりの降伏ぶりに、占領地行政と補給の負担をかけることが戦略的の作戦なのではと疑われたほどだ。だが、軍閥の頭領(名目上は将軍)などに話しを聞いてみると、満州の張作霖が蒋介石に代わる新しい支配者になると考えての行動でしかなかった。実際、華北から南下した満州軍は、各地で新たな中華世界の支配者として振る舞っていた。この事は日本が慌てて止めたのだが、中華世界の独自性を深く考えていなかった連合軍の失策とも言えるだろう。
 いっぽうで重慶に籠もる蒋介石率いる国民党は、徹底抗戦を唱えて欧州枢軸各国に悲鳴のような支援を要請していた。欧州枢軸も、中華民国を決して見捨てないと宣伝した。
 このため連合軍は、重慶攻略を目指すため揚子江内陸部への侵攻を決意し、年内には航空隊の出撃拠点とする予定の武漢一帯の占領を目指す作戦準備に入ることとなる。
 だがその前に、海南島の攻略を行わなくてはならなかった。このため秋口に日本軍は本格的に南に向けて動きだしていた。

 インドシナにも近い海南島は、海路での欧州枢軸最後の中華民国支援ルートで、無視できない規模の支援物資を依然として届け続けていた。さらに敵の手のままだと、インドシナ進駐、東南アジア侵攻の大きな障害ともなる。しかも1941年春頃には、東アジアの欧州枢軸海軍は大きく増強されていた。
 41年2月にインド洋に進出していたイタリア海軍の大艦隊が、4月にはシンガポールへとさらに駒を進めた。そしてイギリス東洋艦隊と共に、香港、海南島へも進出するようになっていたからだ。英東洋艦隊と合わせると、戦艦だけで12隻と日本海軍の総数を超える巨大な戦力だった。
 連合軍この大戦力が、上海方面の増援阻止及び補給路遮断と考え、日本海軍を中心にして台湾、フィリピン北部に大艦隊を展開して牽制を続けていた。また、香港を取り巻く広東近辺は既に日本軍の占領下だったが、こちらへの補給路維持のために日本軍も守ってばかりもいられなかった。
 このため1941年初夏に、俄に東アジアで海上戦闘の機運が高まっていた。
 最初の戦いは1941年5月、広東を目指す日本の補給船団を、枢軸艦隊が攻撃した事で発生する。

 「香港沖海戦」と呼ばれる戦いには、日本側が軽巡洋艦《長良》《天龍》《竜田》と駆逐艦4隻、海防艦4が参加した。このうち海防艦4隻は高速輸送船6隻を護衛していたので、実際戦闘に参加したのは軽巡洋艦3、駆逐艦4隻だった。《天龍》《竜田》は戦争がなければ予備役に入っている予定の旧式艦だが、戦争になったため護衛用など二線級用に使用継続が決まり、この時も慌てて即時出撃可能な艦として臨時に組み込まれたものだった。対する枢軸艦隊は、イタリアの《ザラ級》重巡洋艦4隻を中心として軽巡洋艦2、駆逐艦6隻と圧倒していた。
 戦いは白昼だったが、動きだしたのは日本側が先だった。日本艦隊の《天龍》《竜田》は、旧式艦のため当時は実験艦的な扱いも担っており、他艦に先駆けて対空捜索用の21号電探、水上捜索用の22号電探をそれぞれ装備していた。このため、目視発見より前に未確認の艦隊を発見することに成功した。
 日本側は輸送船団にいち早く転進と後退を行わせ、護衛以外の残りが煙幕を展開しつつ戦場に残った。
 先手を取られたイタリア艦隊だったが、相手を見て安心した。相手は小規模な水雷戦隊で、自らの戦力が圧倒していたからだ。そして展開されつつある煙幕の向こうに、航空偵察で報告された輸送船団がいると考えた。
 イタリア艦隊は、もちまえの高速で急接近して距離2万で砲撃を開始したが、日本側はジグザグに航路を取るなどまともに組み合わず、輸送船団が待避する時間だけを稼いだ。砲撃を開始するまでにも時間がかかり、日本側の艦隊行動によって進路も輸送船団からはかなり離されていた。
 そして日本艦隊の動きに、イタリア側も日本が後方の輸送船団が近いと考えて突撃を開始すると、今度は斜め後方に進路を取りつつイタリア艦隊との距離を保った。そして重巡洋艦の8インチ砲だと、距離2万メートルも離れると遠距離射撃となり、相手が回避行動に専念していると命中弾を得ることは非常に難しかった。この時もおおむね2万メートル以上離れており、日本側が砲撃せず回避と艦隊運動に専念したので、圧倒的優勢なイタリア艦隊は至近弾以上を得る事ができなかった。イタリア艦隊はさらに駆逐戦隊が突撃したが、こちらには日本の軽巡洋艦が距離1万5000メートル辺りから阻止砲撃を実施して混乱を誘い、イタリア駆逐隊の突撃はうまくいかなかった。加えて、イタリア駆逐隊の突貫も士気の低さためか甘かった。
 そうして距離を開けて緩慢な砲撃戦をしていると、日本側の陸上攻撃機9機が姿を見せてイタリア艦隊に水平爆撃を仕掛ける。この時直撃弾は無かったが、重巡洋艦に至近弾が数発あって多少の損傷をしたが、この時点ではまだイタリア艦隊は戦意を失っていなかった。しかし、水平線上に別の複数のマストを確認すると後退を決意し、海戦はイタリア艦隊の後退という形で終幕する。日本側が急ぎ送り込んでいた、後方で作戦行動中だった巡洋艦戦隊が間に合ったのだ。
 そしてその後日本艦隊は輸送船団が往路へと引き返して無事輸送を成功させたため、戦略的にも日本の勝利に終わった。
 この、「戦争中で最も地味な海戦の一つ」と言われた戦闘が、東南アジアを巡る戦いの始まりとされ、同時にイタリア海軍が史上初めてアジアで戦った戦闘となった。
 なぜなら日本が広東方面への輸送を成功させた事で、日本側は現地の航空基地を大幅に拡張して、周辺の制空権を確実にしたからだ。このため欧州枢軸の香港への接近は夜以外は完全に出来なくなり、その頃上海方面で進んでいた中華民国軍の攻勢を援護することが出来なくなった。一度だけ行われた欧州枢軸側の輸送作戦も、日本海軍の航空機によって大損害を受けて失敗した。
 しかも6月に日本が上海に大規模な増援を送り込んだときも、日本側が制空権を得た香港近辺まで有力な艦隊を派遣して牽制した為、欧州枢軸の艦隊は戦艦数で圧倒するのに、積極的行動が封じ込められてしまう。欧州枢軸側は大きく損傷した場合に近場で修理できない事が、動きを消極的とさせていた。
 そして欧州枢軸側にとっての中華地域の橋頭堡は、残すところ海南島だけとなってしまった。
 このためこの時のイタリア艦隊は、自らの損害に構わず徹底的に攻撃するべきだったと言われることが多い。しかし日本軍の補給や輸送を阻止続けないと意味がないので、大勢には影響は無かったとも言われている。

 そして1941年7月、日本軍を中心とする連合軍が攻勢に転じた。
 1940年12月5日の「南シナ海海戦」以来の、日本海軍の大規模な作戦だった。またアメリカのアジア艦隊も戦列参加しているため、アジアで初めての合同艦隊による作戦でもあった。
 連合軍は海南島攻略に、欧州枢軸が本格的な阻止に出てくると考えていた。針の一穴ではないが、海南島で防がないと欧州枢軸の東南アジア戦略が瓦解する可能性が強まる筈だからだ。そしてここで守れないと、オランダ領東インドが生き残りのため連合軍に降伏もしくは合流する可能性が高まり、連鎖的にオーストラリア、ニュージーランドが連合軍側に立つ可能性まで高まってしまうと考えられていた。
 また海南島は、フランス領インドシナが枢軸側に属していないため、マレー方面から香港への唯一の中継地で、航空機の傘をかけることの出来る場所だった。つまり香港を完全に孤立させない為には、海南島の維持が必要だった。
 そうした政治的意図、戦略的意図も含んだ作戦のため欧州枢軸側の激しい抵抗を予測して、可能な限りの戦力が準備されたのだ。そして日本海軍は、1940年冬以来の大艦隊を揃えて一気に押しきろうとした。
 一方の欧州枢軸側は、既に中華での敗北は避けられず、時間稼ぎ以外は考えていなかった。またイギリスは、連合軍の予測とは違ってシンガポールが戦略的な意味合いで陥落しない限り、オーストラリア、ニュージーランド、蘭領東インドの離反や「寝返り」はないと考えていた。
 加えて遠隔地への補給の負担が耐えられなくなる前に、次の防衛線、主にイギリスにとっての本当に守るべき線への速やかな撤退と再布陣を企図して動いていた。
 このため中華に送られる「予定」で運ばれていた兵器、部隊はインドから東南アジアへと入り、中には軍団規模の大部隊までがマレー、シンガポールへと続々と流れていた。
 だが、中華民国が簡単に手を挙げない為にも、インドから中華地域への援助ルート(ビルマ=雲南ルート)の開設が急がれた。同時に、日本軍を東南アジアで迎撃するための準備も進められた。
 かくして戦争のステージは、中華地域での戦闘を残したまま、東南アジアへと移っていく。


●フェイズ15「第二次世界大戦(9)」