●フェイズ144「新たな宇宙開発競争(1)」

 1978年4月、日本帝国の「宇宙開発事業団(NASDA)」と満州帝国の「満州宇宙局(MSA)」は発展的に合流し、新たに「東亜宇宙機構(EASAもしくは東宙)」が成立した。
 単体の宇宙開発組織としては、アメリカ合衆国の「アメリカ航空宇宙局(NASA)」に次ぐ規模の組織の誕生だった。
(※ソ連は多数の開発グループに分散していたし、西欧のESA設立は1975年だがEASAが予算規模で勝っていた。)

 東亜宇宙機構(EASA)には、設立時からどこを目指すのか、何を行うのか明確なビジョンがあった。突き詰めてしまえば、宇宙の商業利用でトップに立つ事。これに尽きた。日本には軍事利用以外であまり明確な目標は無かったが、満州は商業の宇宙利用が常に第一の目的だったからだ。それに二国で行う事業なので、米ソのようにイデオロギーや国威発揚は目的として相応しくなかった。
 また、正直なところ米ソのイデオロギー競争、プロパガンダ競争に付き合いきれない事は、月レースを傍目で見ているだけで思い知らされていた。軍事用衛星は国家安全保障も関わるので別だが、それでも米ソの3分の1にも及んでいないのが実状だった。
 だが新たな組織として、単なるロケット打ち上げではそれぞれの国からの支持が得られないので、何か華やかな表看板が必要だった。
 そして西側第二位、第三位の経済力を持つ日本と満州が中心となった組織は、それ以上の成果をそれぞれの国民と世界に見せる必要があった。
 しかも既に有人宇宙飛行も果たしたので、それ以上でなければならないが、月は目指せない。そうした中で選ばれたのが、自力での宇宙ステーションの建設だった。
 本当は月に人を送り込みたかったが、それに必要な予算、人員、技術を考えると不可能なのは分かり切っていたので、実現できそうな事業を目標に据えたのだ。

 日本は、NASDA設立の1年前に自力での有人宇宙飛行を実現した。そのために日本はかなりの無理をしたが、米ソに次ぐ快挙には一定の価値があると考えられていた。冷戦構造下のイデオロギー対立の時代下では、力を示す必要があったからだ。自前で技術を確立した事も、大きな価値があった。
 そして1960年代の時点で軍事衛星と月レース以外で米ソが目指そうとしていたのが、低高度軌道での所謂「宇宙ステーション」だった。
 道のりはそれなりに遠いが、研究自体はロケット自体の打ち上げが成功するより前から始められていた。
 しかし米ソは、イデオロギーの赴くまま月面を目指したので、宇宙ステーションは次の課題だった。そしてそこに、1960年代の日本が付け入る事ができる隙があると見られた。
 このため1968年に有人宇宙ロケット打ち上げに成功すると、その後も主に低高度軌道への人と物の投入に力を入れた。これを米ソなどは、遅ればせながら日本も月レースに参加するのではないかと観測されたりもした。日本の宇宙開発も、有人宇宙ロケットの実験を繰り返したからだ。行ったことは米ソの後追いに近く、違っていたのは目指す場所の違いだけだった。
 1968年中に1日以上の宇宙滞在を実現させ、翌年には3人乗りの宇宙船打ち上げを行った。宇宙遊泳も1972年に実現し、74年には2隻の宇宙船のドッキングにも成功する。
 この間、ロケット打ち上げの失敗があったし、他にも危険な場面もあったが、宇宙では一人の死者を出すこともなかった。
(※地上実験の失敗で死者は出ていた。)
 ロケットも改良され、より大型のロケットも開発中だった。この時点で、初期の宇宙ステーションまで後一歩で、月レースを終えた米ソにかなり追いついていた。その間、月に無人の小型衛星を送り込んだことはあったが、それはNASDAではなく文部省=東大系の宇宙科学研究所が行ったものだった。また日本は、人が月面に行けるほどの大型ロケットは、小規模な研究止まりで開発していなかった。
 しかも1974年の改革で、宇宙開発予算も軍事関連分を中心にかなりの削減を受けて、日本の宇宙開発は足踏みを余儀なくされる。
 それを経ての東亜宇宙機構(EASA)設立だった。

 東亜宇宙機構(EASA)が目標に定めた宇宙ステーション建設には、幾つかの目的がある。最低限の目的は、人類の宇宙での長期滞在実験だ。これは1972年から1974年のアメリカが、スカイラブ計画でかなりの成果を挙げていた。自前のデータとしてはともかく、表看板とするからにはアメリカ以上が望ましかった。またソ連も、さらなる高みを目指すための前段階として宇宙ステーション計画を進めているので、少なくとも負けないだけの計画規模が望ましかった。
 幸いと言うべきか、アメリカはより広範で先進的な往還型宇宙船、いわゆる「スペース・シャトル」計画を進めているため、当面は競争相手では無かった。
 そして長期滞在以外の目的となると、やはり宇宙でしか出来ない実験になる。特に満州は、大きな利益が得られる可能性が高い宇宙実験に強い意欲を見せていた。しかし宇宙で様々な実験を行うとなると、長期滞在はもちろんだが複数人を送り込み、尚かつ実験を行うだけの空間、余分な荷物を保管する空間が必要となる。
 そしてアメリカのスカイラブ計画から見えてきた事は、数百トン単位の規模の施設を低高度軌道に建設する必要性があるという事だった。
 このため東亜宇宙機構は、まずはアメリカと同様に長期滞在実験を重視することとした。これならそれほどの規模は必要ではないからだ。そして段階的に基地を拡張し、実験ができる規模へと拡大しようと構想をねった。
 それでも、初期計画だけで合計100トン以上の打ち上げを行わねばならず、計画全体としては東亜宇宙機構の総力を挙げなければならなかった。
 東亜宇宙機構の予算規模は日満の国力、国家予算規模に比例するが、1978年当時ではせいぜいアメリカの30%程度で、宇宙開発予算も自ずとアメリカの30%程度だった。しかも日本では、少額とはいえ別組織が予算を使っていたので、実質は25%程度だった。
 しかし1980年代にかけて日満の経済力、国家予算は大幅の右肩上がりを経験したので、宇宙関連予算も増額に次ぐ増額を重ねた。国家予算全体に余裕がでてきたので、予算比率も増やされた。さらに日満以外にも、東亜宇宙機構に参加する国が増えていった。日満以外が拠出する金額は知れていたし、金の分だけ口も出してくるが、マイナスよりプラスの方が良いに決まっていた。
 しかも、宇宙に利益を見つけた企業もさらに関連技術の投資を増やしていった。
 こうして1990年代前半には、東亜宇宙機構の予算規模はアメリカのNASAの70%近くにまで膨れあがった。その気になれば、自分たちもスペースシャトル計画を出来るほどの額だ。
(※その場合、スペースシャトル以外の大型ロケット打ち上げができなくなる。)

 東亜宇宙機構の「軌道基地」計画は、1978年の設立時に発表された。
 それまでの1970年代半ばから実質的な計画が動いており、さらにはNASDA時代の日本の各種実験で、建設に必要な基礎データのかなりがすでに獲得されていた。
 あと必要なのは、一定規模以上の大型ロケットを連続して打ち上げる能力と予算だった。だからこそ、東亜宇宙機構という巨大な組織が必要だったとも言えるだろう。
 日本のロケットは、米ソがそうだったように大陸間弾道弾(ICBM)をはじめとする各種弾道弾と基礎技術を同じくしている。主に軍用では、同じロケットエンジンが使われる事もあった。また日本の場合は、1975年で大陸間弾道弾の運用を止めてしまったので、技術の一部は潜水艦発射弾道弾の技術も加わる。
 しかし打ち上げロケットは液体燃料、弾道弾は固定燃料が主となるので、完全に同じ技術が使われているわけではない。
 日本が人類を宇宙に送り届けたロケットは、「N型ロケット」と呼ばれるロケットの最終型に当たる。初めて人工衛星を打ち上げた「N1ロケット」を始まりとして、その改良型が次々に「N2」「N3」と開発され、日本人を乗せたロケットは見た目も能力も違う「N5」だった。
 この頃の日本のロケットは、当初から初期加速の補助ロケットに固定燃料を使うことだった。ロケットは補助ロケットを含めると2.5段式で、メインロケット1基に小型の補助ロケットを用途に応じて大小2〜8基取り付けて打ち上げる。2.5段なのは、最初にメインロケットと補助ロケットの全てを噴射させ、最初に補助ロケットが切り離されるからだ。メインロケットは出来る限り1基とされたが、当時のロケットエンジンの能力では限界があるため、開発が進むに従い2〜4基のクラスター型となっていった。
 その後、第一段のメインロケットも離れ、第二段ロケットに噴射。そして所定の軌道に様々な荷物を送り届ける。

 日本人を乗せて打ち上げた「N5」は、基本性能は低高度軌道8トンの貨物を打ち上げることができる。
 だが8トンでは、軌道基地建設を実現するにはまったく現実的な数字ではなかった。また、ロケットは技術的な無理もしていたので、打ち上げコストも安いとは言えなかった。それに「N5」では、地上と軌道基地の人の移動に使うのが精一杯だった。このためより安価で安定した性能の打ち上げロケットが必要だったのだが、70年代に入ると後継機となる新型が開発されつつあった。
 開発自体は、「N5」が開発される前から始められ、第二世代の大陸間弾道弾(ICBM)の開発とも一部連動する形で行われた。もっとも、ICBM自体は1974年に廃止が決まったので、新型ロケット計画だけが生き残る形となっている。それでも一部が大陸間弾道弾と同じ技術、部品を使うことで、コスト削減も大いに期待されていた。そして出来れば、新型で最初の日本人を宇宙に送り出したかった。
 しかし1968年当時は、打ち上げロケットとしての打ち上げ成功率を達成するほどの安全性に自信が持てない為、実績のある「N型ロケット」の開発促進と大型化によって日本人を送り出さざるを得なかった。

 一方で新型ロケットの開発自体は継続され、大陸間弾道弾の方の性能、安定性の双方を向上させることには大いに役に立った(※大陸間弾道弾は1975年に全廃された。)。また派生技術は、潜水艦発射弾道弾にも応用された。そして技術自体は打ち上げロケットも同じであり、来るべき大型ロケットの開発は10年以上の雌伏を経てようやく実現の運びとなった。
 NASDA時代に「H型ロケット」と名付けられたロケットは、最大で低高度軌道10トン、静止衛星軌道4トンの投入能力で十分な性能があった。打ち上げ重量は300トン以上と大型化したが、「N5」より能力が高く無理をしていた「N5」より打ち上げコストもかなり下げられた。しかも十分な発展余裕も持っており、この後も改良されつつ長らく使われていく事になる。
 そして「H型ロケット」の「H-Iロケット」での打ち上げが開始される。初号機の発射は東亜宇宙機構設立の1978年に行われ、大型衛星を静止衛星軌道に打ち上げることに成功する。またその後の打ち上げでは、有人衛星の打ち上げも行うようになった。
 しかし軌道基地建設を行うには、まだ能力が不足していた。軌道基地の小型モジュール運搬や部品、補給物資の輸送には使えるが、人と物を載せて建設ができるほどの能力は無かったからだ。
 また当時のNASDA(もしくは東亜宇宙機構)には、米ソのような大型ロケットが無かったので、本格的な大型ロケットの整備計画が始動する。

 東亜宇宙機構が設立時に計画発表したのは大きく二つ。一つは軌道基地建設計画、もう一つが計画発表された軌道基地建設のための大型ロケット計画になる。
 大型ロケットは、モジュール自体が一つ20トン以上を目標としていたので、最低限の能力として低高度軌道に20トンの打ち上げ能力が求められる。さらに軌道基地建造のための人員と共に打ち上げる場合もあるので、20トン以上あるのが望ましかった。そして「H型ロケット」の改良型は、既に最大で低高度軌道15トン、静止衛星軌道6トンが目指されていた。つまりこれ以上の能力がないと、新たなロケットを開発する意味がない。
 軌道基地建設の構想段階では、「H型ロケット」の改良型にするかより大型のロケットを開発するかで議論が重ねられた。
 しかし自力での建造となると、「H型ロケット」の改良型では能力不足は明らかで、限られた機能しか持たない軌道基地しか建造できない事がハッキリした。
 それに段階的に拡張する場合には、単なるドッキングだけでなく現場での建設作業を行う必要性があった。

 計画初期では、今後の宇宙開発で米ソに並ぶか追い抜く事を目指して、次世代型ロケットとして往還型ロケットの開発も提案された。提案されたのは、飛行機型のアメリカが実用化しソ連が開発を進めた飛行機型のスペースシャトルではなくロケット型だった。
 基本的な性能は、低高度軌道(200〜400キロメートル)程度まで自力で行って帰ってこれる性能が求められる。この場合静止衛星軌道に行くことは単体では考えられず、その場合は貨物として積載する第二段ロケットを載せていく形になる。要するに二段ロケットと似た打ち上げになる。
 そして普通のロケット違うのは、普通のロケットは重さ、推力共に最大となる第一段ロケットは早々に切り離されて役目を終えるが、これを低高度軌道まで持っていって、さらに無傷で帰ってこさせなければならない。
 このためロケットは、打ち上げだけでなく帰りの際には、残された燃料で逆噴射しつつ地上に静かに着陸または着水しなければならない。技術的にはロケットの逆噴射の制御が肝ととなるが、自分たちの研究結果から飛行機型の往還機を長期間運用するよりはるかにマシと考えられていた。
 そして一段のロケットで一気に低高度軌道まで駆け上がるには、膨大な量の燃料と推力が必要となる。このためメイン・ロケットは一つだけでは足りない。複数のロケットエンジンをクラスター型に束ねて、しかも通常のロケットより多くの燃料を積載しなければならない。必然的に通常のロケットより巨体となる。また再利用が大前提なので、通常のロケットよりかなり丈夫だった。ソ連(ロシア)製並の頑丈さが必要と言われたりもした。
 また、試験型として提出された小型版の計画でも、従来の大型ロケット並の大きさだった。東亜宇宙機構が想定上で目指した、月にすら人を送り込める大きさになると、最大で離床重量が3000トンを越える計画だった。
 NASAが開発したサターンV型ロケットつまり月ロケットが約2700トンなので、如何に巨大かが分かるだろう。3000トンは過大でも、最低でも2000トンというスペースシャトルに匹敵する規模が必要と考えられたが、当時のEASAの予算と人員規模では不可能だった。21世紀に入ってからの予算規模なら可能だったという説もあるが、そうだとしてもEASAが往還ロケット開発組織に変化しただろうとも言われている。

 なお、往還型ロケットの研究自体は、日本のNASDA時代から行われていた。これは、米ソのスペースシャトル計画への対抗という名目で、それなりの熱心さで行われていた。とは言えNASDA時代は、あくまで研究で試験以上をするつもりはなかった。実用化するだけの金と人が無かったからだ。
 それでもロケットの逆噴射による着陸実験(航空機から小型ロケットを落とす実験。)は行われ、何度かの失敗を経て成功にまでこぎ着けていた。同実験データについては、アメリカも欲しがったほどだった。そしてこの実験は、研究開発という名目で細々と続けられていたので、新たな計画立案に際して提案された形だった。
 だが流石に無理なので、通常型の大型ロケットが計画される。
 ただし往還型ロケット計画の全てが消えたわけではなく、この後一部の大型補助ロケットについては再利用可能なタイプが登場してくることになるので、研究自体は今のところ無駄にはなっていない。

 新型の大型ロケットは1979年に開発が始まり、10年以内の初号機打ち上げが目指された。
 開発計画は「E型ロケット計画」。アジアの「E」であり、「番外」という意味もある英語のエクストラの二つの意味があるとされた。また「いろは」の「い」をもじっているとも言われた(※それなら「i」の筈なのて否定的な者が多い。)。またソ連の「エネルギア」を意識しているとも言われた。
 開発は「H型ロケット」とも連動しており、既に運用が行われているメインエンジンのLE-7を複数クラスター型で並べるのが基本システムだった。「仮称E-I型」で2基、「仮称E-IV型」で4基メインエンジンを搭載予定で、「仮称E-IV型」だと打ち上げ重量は補助ロケット4基を含めて1000トンに迫る計画だった。
 そして最も小型の「仮称E-I型」だと、打ち上げ重量550トン、低高度軌道への投入能力は20トンで、求めうる最低限の数字となっていた。だが、別に計画が進んでいる「H型ロケット」の改良型の最大能力と大差ないため、当初からメインエンジン3基以上が目指された。
 そして東亜宇宙機構自体の予算規模の拡大もあったので、結局メインエンジンを4基、補助ロケットを2〜4基とした「仮称E-IV型」が採用されれる。日本の今までのロケットから見ると巨人ロケットで、日本もしくは東亜宇宙機構(EASA)が米ソに並んだと言われた。
 もちろん、開発当時は安定した運行が成功すればという条件付きではあったが。
 
 エンジンは既存のもので、クラスターロケットは軍用ロケットや「N型ロケット」で十分な経験を持っていたので、あとは巧く摺り合わせるだけだった。このため簡単にまた低価格で開発できると楽観されたのだが、今までと比べるとロケットの規模が大きかったため、開発は予想や計画より難航した。
 当初予定では1984年に初号機打ち上げを目指していたが、それも2年も先延ばしとなってしまう。
 そしてその時期に、宇宙開発史上で一つの大きな事故が起きる。1986年1月の「チャレンジャー号爆発事故」だ。
 これでアメリカのスペースシャトル運行は約3年間の停滞を余儀なくされ、相対的に他国より大型のロケットを開発している東亜宇宙機構に、世界の注目が集まった。それまでは世界中のマスコミが「ただのロケット」だと、ほとんど見向きもしなかった事と比べると大きすぎる違いだった。

 そして事前の各種実験が無事成功する頃には、東亜宇宙機構加盟各国の国民からも多大な支持を取り付けることにも成功し、いよいよ初号機の打ち上げが1986年4月にサイパン島に新設されたアスリート・スペースセンターで実施された。
 「E-Iロケット」打ち上げの離床重量は通常で約960トン。最大だとさらに約150トン増える。スペースシャトルの打ち上げ総重量が約2000トンとほぼ二倍なので大きく劣る数字に見えるが、「E-Iロケット」は従来型の使い捨て型なので打ち上げ重量自体は大きかった。
(※スペースシャトルは、シャトル本体を含めると110トンを越える打ち上げ能力を有している。)
 また「E-Iロケット」は、ペイロード部分も数種類用意される予定で、用途に応じて様々なものが搭載可能だった。その気になれば、飛行機(グライダー)型の小型簡易往還機も搭載できると、計画書には書かれていた。
 打ち上げ能力は、最大で低高度軌道に50トン、静止衛星軌道に18トン。大型なので1基当たりの打ち上げ価格は決して安くはなかったが、1g当たりで他のロケットと比較すればむしろ有利だった。
 そして一度に大きなものを打ち上げられる点が、最大の利点でもあった。また月ロケットが無くなって以後だと、当時としては最大級の静止衛星軌道への投入能力を有していた。このためソ連が、重大な懸念を感じたほどだった。
 大きなものを打ち上げる必要性が低い事は商業利用では難点だったが、東亜宇宙機構ではそもそもが軌道基地建設のための特別製、番外のロケットなのだから、特に気にしてはいなかった。このロケットは、月ロケットと同じように存在自体が特別なのだ。
 初号機は、補助ロケットを2基とした通常型で無人で打ち上げられたが、1987年には初の有人で打ち上げられている。「H型ロケット」より大型の有人宇宙船が打ち上げ可能で、当時計画上だった完全な宇宙船型だと最大12名の搭乗が可能だった。このため「宇宙旅行」の期待が高まったりもした。
 そして人と貨物を同時に打ち上げることが十分可能なので、今までにない複雑なミッションを行う事も可能だった。そしてペイロードの大きさと共に、有人型という点そのものが東亜宇宙機構の軌道基地計画の切り札だった。

 一方で、新たな打ち上げ基地の建設も急ピッチで進められた。
 1970年代の日本のロケット打ち上げ施設は、NASDAが種子島南端に、軍が沖縄の嘉手納に保持していた。(※東大系は鹿児島の内浦湾に小規模な施設を保有。)
 軍の嘉手納宇宙基地は大規模で、成田空港と同じぐらいの敷地面積を有していた。しかも打ち上げ自体は東に向けて行う方がよいので、東海岸側にも太い専用通行路を挟んだ発射場もあった。さらに騒音や機密保持のため周辺の土地の一部も政府が購入していたので、実質的にはさらに二倍以上の敷地を占有していた。このため現地沖縄では反発もあったが、70年代になると産業に乏しくなった沖縄では嘉手納の軍関係者の消費は貴重なため、その後も二律背反のままの関係が続くことになる。沖縄が「基地の島」と言われるようになるのは、1970年代以後の事だった。
 だがそれ以上に「基地の島」となったのがサイパン島だった。
 東亜宇宙機構は、設立した年に北マリアナ諸島のサイパン島に広大な土地を取得し、新たなロケット打ち上げ施設の建設を発表する。これが「アスリート宇宙基地」で、5年後の稼働を目標に急ピッチの工事がすぐにも開始される。
 サイパン島は、西部太平洋では珍しく、それなりの平地を有する島だった。サイパン島以外では隣接するテニアン島、より大きなグァム島、日本に近い硫黄島ぐらいしか、まともな平地のある島はない。もし日本とどこかの国が西太平洋で争奪戦を行ったら、飛行場の設置に苦労する事となっただろう。
 そうした中で、硫黄島には全島を覆うほどの戦略空軍の基地が置かれ、グァム島はアメリカ領だった。残るはサイパン島、テニアン島だったが、出入りする船が安全に停泊できる環礁の有無でサイパン島に軍配があがった。
 それ以外の日本が使える南の島となると、赤道を越えたすぐにあるビスマーク諸島だが、比較的大きな島なのだがジャングルが深い上に平地が少ない島だった。
 唯一利用できそうな場所(ニューブリテン島のラバウル)のすぐ側には、活火山があるため万が一の事態を考えるとロケット打ち上げ施設は置けなかった。
 日本が有する西太平洋には、島以外にも大規模な環礁が各所にあるため、メガフロート式の施設建設が構想段階ではあったが、数キロメートル四方の人工の土地を日本列島から遠く離れた場所に作るコストを考えると、宇宙開発が国を挙げての事業にでもならない限りは採算が合わないとすぐにも分かった。

 サイパン島は北緯15度にあり、打ち上げに向いていた。世界でこれより緯度の低い打ち上げ場所は、西欧諸国のESAが運用するギアナ宇宙センターしかない。また、年間平均気温の変化が世界で最も少ない場所で、ギネスブックにも記録されているという利点もある。ほぼ熱帯だが一応雨期と乾期があり、雨期にはスコールが多いし台風がごくたまに迷い込んでくるので、打ち上げは乾期の11月から3月にかけて多く行われる。
 島自体は南北に長めの形で、島の中央には標高400メートル級の山を抱えるので、ロケット追跡などのレーダー施設や各種アンテナを置くのにも向いていた。島の南半分はほぼ平地で、そのうち約半分の土地が政府によって最初に買収された。こうして、それまでサトウキビ畑が広がるだけだった場所は、世界最先端の宇宙基地へと姿を変えていく事になる。
 この中で問題もあった。それは取得した土地の中に、今までサイパンと他の地域を結ぶ為の飛行場が含まれていた事だった。しかしこれも、政府が同島内の別の場所を取得して、より立派な飛行場を建設することで解決された。
 飛行場が立派になったのは、これからは今までとは比較にならないぐらいの航空便を発着させるためだった。また、大型貨物機で人工衛星などを直接空輸しなければならないので、滑走路の規模は国際空港クラス(2500m)のものが建設されてもいる。最終的には、沖合を埋め立てたり浮体構造物とすることで、3500メートルの滑走路を有するにまで拡張された。
 また、島の南部一帯を宇宙基地とすることで、同島の主力産業だったサトウキビ栽培と製糖業は大幅な生産量縮小を余儀なくされた。
 この点も政府は折り込み済みで、実質的に島の主要地域全ての買収をその後も進めて製糖業そのものを消滅させている。
 それまでの島民には別の場所の移住もしくは移民を就職込みで斡旋し、さらにはかなりの額の支援金すら支給して島の産業をロケット一本に集中することとした。島内の町のうち、南部のチャランカノアは無くなったが、中心部にあたるガラパンは大規模な再開発を経て、新たな島の住人達の為の街に再編成されていく事になる。

 基地施設以外に島の主要地域も買収したのは、当面は基地の建設と拡張のためだが、他にも基地で働く職員のための居住施設、慰撫施設などを確保する必要性があったからだ。何しろサイパン島は、日本本土から2500キロ以上離れた場所にある。飛行機で日帰りできなくもないが、数千人が働くとなると住んでもらう方が合理的だし、職員の負担も少なくすむ。
 また、打ち上げ施設自体が観光地にもなり、1980年代後半からは観光客用の施設も増えている。連動して中心部のショッピングモール、環礁内でのスキューバダイビングや、テニアン島でのゴルフ場など様々な施設が建設されたりもしている。打ち上げ施設自体も21世紀に入るまでにさらに区画を広げ、島の南部を覆い尽くすほどとなった。
 宇宙センターの施設自体は打ち上げが中心で、工場区画は基本的に最終組み立てのみを行う。複数の発射台と組み立て工場、移動発射台、司令所、発射管制所、各種試験場、観測所もある。また観光地化してくると、かなりの広さのロケット博物館も建設された。
 なお、軍用は軍の嘉手納基地で打ち上げるので、サイパンはそれほど巨大な施設でなくてもよかった。それでも島面積が115平方キロ程度しかないので、ロケット関連施設と飛行場、港湾、居住区、観光施設が揃ってくると、島のほとんどが利用しつくされる事になる。
 このため隣接するテニアン島に、多少の不便を忍んで施設の一部が置かれてもいる。またかなりの電力が必要となるが、そのための発電施設(と燃料貯蓄場所)の確保が難しくなったので、1980年代終盤に世界初となるメガフロート式の小型原子力発電所が、日本本土で建造された後にサイパン島の環礁内に運び込まれたりもしている。
 なお、テニアン島の一部は軍の施設とされ、中規模の滑走路と基地区画が整備されている。これはサイパン島を他国から防衛するための措置で、通常は哨戒艇と哨戒ヘリコプターが少数ずつ配備され、若干の警備兵が常駐。さらに90年代半ば以後は、一個小隊の対テロ部隊が双方の島に常駐している。しかし軍が駐留していることは殆ど公表されていない。ロケット事業は、あくまで平和事業とされていたからだ。

 そして新たな基地から、新たなロケットと新たな宇宙船の打ち上げが始まる。


●フェイズ145「新たな宇宙開発競争(2)」