●フェイズ28「第二次世界大戦(22)」

 カリブでの戦いは、半年間続いたプエルトリコ島攻防戦の終了後も途切れることなく激しく続いた。
 1943年初めに、枢軸軍はプエルトリコ島から「奇跡の撤退」と言われる無血の撤退をしたが、その南東部に広がる小アンティル諸島のほぼ全てを掌握していた。多くの島には飛行場が設置され、重要な島には相応の規模の守備隊も展開していた。本来、この島々こそが欧州枢軸軍が守るべき場所だったからだ。しかし島のほとんどが小さな島で、飛行場を建設できる平地も少なかった。大規模な飛行場の建設はほとんど無理で、重爆撃機用の基地となると尚更だった。
 そしてプエルトリコ島での一連の戦いで疲弊した枢軸側は、プエルトリコ島から南東に100キロ程度しか離れていないバージン諸島からは、プエルトリコ島撤退とほぼ同時期に撤退している。プエルトリコ島を奪回された以上、守りきれないからだ。
 そうして1943年1月半ばの最前線は、小アンティル諸島の中部地域に移っていた。そして枢軸軍としては、中部で連合軍を押しとどめている間に、南部の防備を固めて何とかしてベネズエラ航路を守ろうと考えていた。タンカー護衛はベネズエラの領海を出て大西洋へと押し出すまでに小アンティル諸島南部の制空権下を通るので、可能な限りこの地域が保持されている方がタンカーの生存率が大きく高まるからだ。実際問題、プエルトリコ島を奪回されてからは、同島を拠点とした連合軍の重爆撃機がタンカーや航路拠点となっている港(ポートオブスペイン)への偵察や長距離爆撃を行うようになっており、迎撃のためにも島々の飛行場保持が重要だった。

 しかし小アンティル諸島を巡る戦いは、プエルトリコ島での戦いと少し違っていた。大きな原因は、欧州枢軸側の大型艦艇の稼働数が大きく減少していたためだ。また連合軍も、高速大型艦のかなりが損傷のため修理中だったりして稼働数は減っていた。春もしくは夏になれば両軍共に状況はかなり変化するのだが、この時期は大西洋での両軍の大型艦は希少種となっていた。
 加えて、小アンティル諸島が小さな島々のため、いっそう大型艦の投入の必要性が減る原因となっていた。
 そうした中で主力となったのは水上では水雷戦隊で、特に連合軍側が侵攻作戦を行った時に小規模から中規模の水上戦闘が多発した。そして連合軍が優勢な戦力を投じている場合がほとんどのため、小アンティル諸島は枢軸側の駆逐艦の墓場とすら言われるような様相を呈した。連合軍艦隊は巡洋艦を伴っている事が殆どなので、駆逐艦中心の枢軸側は撃破される一方だった。この一連の戦いでは、カリブに来た歴戦の日本軍指揮官達と並んで、クラッチレー、キャラハン、エインスワース、バークなど優れた指揮官が名を残すこととなる。
 また、水上よりも重要だったのが、航空機だった。制空権なくして侵攻も防衛も不可能で、水上戦闘はほとんどの場合は航空戦の前後に行われた。故に戦いの主役は、基地配備の航空機と言えた。だが枢軸側は、中型以上の爆撃機が配備できる飛行場が少ない上に、小型機が使い物にならない機体が多かった。さらに枢軸側は戦略的状況もあって殆どの場合で防戦側で、連合軍というよりアメリカ軍の各航空隊が主導権を握る戦場だった。
 1943年だけで10回の水上戦闘が発生し、3度の大規模な航空撃滅戦が実施された。
 まず発生した戦いは、小アンティル諸島中部のグアデルーペだった。同地域は非常に狭い運河のような海で分かれた二つの島(パステール島、グンランドテール島)によって構成されており、中央部が比較的平らな為かなりの規模の飛行場が設営されていた。また島の位置も、小アンティル諸島のほぼ中間にあり戦略的にも重要だった。また他に比べたら島の規模も大きい方のため、陸戦の可能性の十分にあった。だが枢軸側は、同島に飛行場こそ建設するも、中間基地や爆撃機の基地の一つとしてしか運用しなかった。それよりもまずは絶対に守らなければならない南東部に努力を集中し、俄にプエルトリコ島戦が始まるとそちらに全力を投じた。
 このため枢軸側がプエルトリコ島から撤退したとき、グアデルーペが重要な防衛拠点となったのに防備がほとんどなされていなかった。辛うじて航空隊によって制空権が守られていたが、それも補給があればこそで、さらに有力な地上守備隊も置くべきだという意見が強まった。
 ここが簡単に落とされてしまうと、ベネズエラの領海を抜けたすぐの地点まで直線距離で約600キロメートルとなり、連合軍の機体なら戦闘機の護衛付きで攻撃隊を出せる場所となってしまう。そうなればタンカーの被害が増すばかりか、航路上自体が制空権獲得競争の場となって安定度が大きく低下してしまう。
 それ以前の問題として、プエルトリコ島から小アンティル諸島の南端部まで直線距離で約1000キロメートルで、重爆撃機なら十分に作戦行動圏内だった。しかも小アンティル諸島は弓なりの形で、大型機の飛行の妨げとはならなかった。このため枢軸側の動きは、空から筒抜けになりつつあった。
 しかも、中南米で欧州枢軸最大の拠点となっている仏領ギアナからベネズエラの領海を出た地点までで約1200キロもあり、その間にイギリス領ガイアナ、オランダ領スリナムがあるが拠点化が遅れているため、体制を整えるためにもグアデルーペはしばらく保持されなくてはならなかった。

 このため各地の基地航空隊の全面支援のもとで、グアデルーペにまとまった数の高速輸送船団を出すことが決まる。
 輸送船団は、主にタンカー用だが港湾も整備されていたベネズエラに最も近い英領トリニダート・トバゴのポートオブスペインから出るが、目的地までの距離は直線で約600キロ。15ノットの高速輸送船を用いても、ほぼ丸一日が必要だった。しかし当時の欧州枢軸には、大型で15ノットの速度が出る貨物船や貨客船が不足していた。もともと数が多くない上に、今までの戦争の中で多くが失われていたからだ。
 当時の一般的な貨物船は12ノットが基本的な速力で、15〜19ノット出れば高速船に分類された。20ノットを超えるのは、中型以上の客船か軍艦ぐらいだった。そして高速大型貨物船の需要は、経済効率の問題もあって世界的に少なかった。しかも1930年代になると、世界的に日本商船団が日米貿易を中心とした高速貨物船、貨客船を大量に就役させた事もあって、ヨーロッパでは大型高速貨物船がさらに減少する結果となった。このため「日の丸商船隊」こそが、カリブでの戦いの影の功労者(MVP)と言われる事がある。
 だからこの時揃えられた船は、イギリスで建造された「エンパイア型」とも呼ばれる戦時標準船が半数を占めており、性能を抑えた船のため船団速度も11ノットと低かった。このため25%余分に時間がかかり、ジグザグに進む対潜水艦航行を加えると、最低でも1日半の時間が必要だった。そして夜間は敵潜水艦を警戒してどこかの島の入り江に入ってしまうと、さらに半日もロスタイムが出てしまう。つまり、最低でも丸2日必要となる。加えて到着後の上陸と荷揚げの為の時間も必要で、タイミングが重要だった。連合軍の攻撃があるのは、後半3分の1の行程の場所だと考えられていたし、港の停泊中を狙うのは常套手段だからだ。
 このため出発は1日目の早朝、到着は3日目の夕方予定で、夜の間に荷揚げをして船団は翌日を島内の制空権下でやり過ごし、3日目の空襲が終わる午後3時頃に出航して帰投を急ぐ予定だった。失敗が許されないので、作戦は慎重を期した。

 船団は高速輸送船8隻を、対空、対潜に秀でた駆逐艦8隻で護衛し、さらに巡洋艦を中心とした陽動部隊も出撃予定だった。潜水艦を警戒する別の部隊も出撃予定だった。
 船団は大西洋側を通ることでプエルトリコ島からの爆撃の危険性を下げることになるが、小アンティル諸島から必要以上に離れることも出来なかった。航路が伸びて時間がかかるだけでなく、沖合に出過ぎると大西洋で展開していると見られている連合軍の空母機動部隊に捕捉される危険性が高まるからだ。
 連合軍の空母機動部隊は、プエルトリコの戦いが終わって以後は日本とアメリカが交代で展開して、隙を見ては小アンティル諸島の各所にゲリラ的な空襲を仕掛けたり艦船を狙った攻撃を行っており、島々の制空権下から離れることは危険度が高すぎた。だが決まり切ったコースを取りすぎると、哨戒任務中の潜水艦に捕捉、攻撃される危険性が高まってしまう。
 しかし結局は、今までどおり諸島に隣接する航路を選んだ。これならば夜の間は途中の港か泊地に待避も出来るし、各地の基地航空隊の支援も受けやすくなる。だが敵の哨戒潜水艦に対する危険は特に夜に高まるので、停泊予定の地点には予め対潜掃討を行うと同時に警戒用の駆潜艇部隊が配備された。
 船団の空を守る航空隊は、プエルトリコやヴァージン諸島から後退した航空隊は、グアデルーペを始め小アンティル諸島南東部のグレナダ島、セントルシア、マルティニーク、バルバドスに展開し、その都度船団の上を守る予定だった。また、グアデルーペからプエルトリコ島にはかなりの規模の攻撃隊を出して、積極的に連合軍の空襲を妨害する予定にもなっていた。
 この場合問題なのは、一度に船団の上に置ける戦闘機の数だった。というのも、「スピットファイア」の航続距離は、ドロップタンクを付けても1000キロ程度しかない。オランダ空軍などが使う「Bf109」は少しマシだが、それでもドロップタンク付きで最大で1500キロ程度だ。このため、すぐ側の島にある飛行場から飛び立っても、長時間船団上空に止まる事ができない。フランス空軍の「D520M(マーリン搭載型)」でも大差なかった。
 だが幸いと言うべきか、空襲の危険は目的地に近い場所だけで、1日目は連合軍の空母機動部隊を主に警戒するだけでよかった。このため小アンティル諸島の中部に事前に航空隊を増強して対応することとされた。

 枢軸側の輸送作戦は、1日目は順調に進んだ。
 小アンティル諸島最南端のポートオブスペインから出発した艦隊は、上空を常に友軍機の編隊に守られながら進んだ。潜水艦に対しても、対潜哨戒機を出すことで対処され、その日の夕方予定どおり泊地となる入り江に入った。
 出発点の英領トリニダート・トバゴなど小アンティル諸島には欧州枢軸陣営の基地が既に多数建設されており、航空隊もグレナダ島、マルティニーク、バルバドスに展開していた。これらの基地はレーダーや無線で強く結びつけられ、連合軍の空母機動部隊も迂闊には近寄れなかった。その先は、セントルシア、ドミニカ島と続き、目的地であり欧州枢軸の実質的な最前線のグアデルーペへと続く。そのさらに北西部の島々の支配権のかなりも欧州枢軸側が握っていたが、飛行場を設営できる平地を持つ島が少ないのであまり意味は無かった。島の中には大規模な土木工事を行えば飛行場に出来る場所もあったが、そのような準備と工事をしている暇のないまま、戦況は推移していた。
 対する連合軍は、既にプエルトリコ島東部の英領バージン諸島を制圧しており、プエルトリコ島共々航空隊をここからも送り出して、物量に任せた航空撃滅戦を展開するようになっていた。バージン諸島を簡単に奪えたは、グアデルーペから300キロ離れているからだった。この距離はスピットファイアが戦闘出来るギリギリの距離に近く、この事例に限らず単発機の航続距離は常に枢軸側のネックだった。
 この輸送作戦でも多数の戦闘機が護衛のために動員されたが、護衛できる距離と時間が限られているため、常に上空にいる機体数を多くしようとしても無理が多かった。それでもグアデルーペに近い場所での護衛、輸送作戦での3日目に最大の戦力を投入すれば良いので、枢軸側は目的地であり最前線のグアデルーペに多くの戦力を集中し、外郭となるアンティグア、ネービスなどの南東部の島々と連携して連合軍の空襲を警戒した。

 枢軸側の予想通り、連合軍は輸送作戦の1日目はほとんど妨害に出てこなかった。大型機や潜水艦による偵察こそあったが、最も懸念された長距離重爆撃機「B-24」の空襲はなく、空母機動部隊も襲ってこなかった。空母機動部隊については最低でもアメリカの部隊が出撃しており、その行方は大西洋上という以上に掴めていなかったのが懸念だが、輸送作戦中はいつもより多くの偵察機を放ち潜水艦による哨戒も行うので、この網から漏れることは考えられ無かった。
 2日目は、フランス領のマルティニーク島まで行くことが目的だったが、この日の連合軍は流石に大人しくなかった。早朝から「P-38 ライトニング」を従えた「B-25 ミッチェル」、「B-26 マローダー」が多数飛来し、第一波は合わせて約100機の大編隊だった。これに対して枢軸側は約70機の「スピットファイアMk.V」を中心とした各種戦闘機を展開していた。両者初見参の機体はなく、制空戦闘は基本的に枢軸側が有利だった。だが守るよりも突破する方がイニシアチブは取りやすいし、100機の大編隊を阻止するのは物理的に不可能だった。このため約40%がインターセプトを切り抜け、低空に降下していく。
 今までこの時の「B-26」同様にそのまま中高度を進んで水平爆撃を行うが、この時の「B-25」は雷撃をするような進路を取った。このため枢軸側は焦りを強める。見た目は「B-25」だが、噂に聞く日本軍機のように雷撃が出来るタイプが登場したと考えたのだ。だが、全く違っていた。最初に船団に突撃した編隊は、雷撃最適距離を過ぎても何もせずそのまま突進を続け、すれ違いざまに猛烈な銃撃を浴びせた。浴びせる対象は護衛の駆逐艦、輸送船の双方に対してで、交差した目標なら相手を選ぶことは無かった。
 この時の「B-25」は機首や機体中部にM2重機関銃を合わせて12機搭載し、さらに積み込めるだけの銃弾を積み込んだ「ガンシップ・タイプ」だった。目的は敵対空砲火の鎮圧と柔目標の破壊だ。特に対空砲火の鎮圧が重視されており、だからこそ護衛艦にも容赦なく襲いかかった。
 そして次の「B-25」は、雷撃距離に近い場所から、雷撃よりも少し高い高度から次々に500ポンド爆弾を投下した。投下された爆弾は水を切りながら跳ねて飛び続け、そのうちいくつかが輸送船の舷側に命中した。俗に「スキップ・ボミング(反跳爆撃)」と呼ばれる戦法で、連合軍が大規模に行った例としては初めてだった。同戦法は欧州各国でも既に発明されていたが、行う機会がないのでほとんど訓練でしか行われていなかったものだった。そして数十機で行った事、事前に制圧射撃まで実施した事入念な攻撃は、護衛していた枢軸側の不意を突く事になり、大きな混乱が見られた。
 だがこの日の攻撃は、護衛の戦闘機部隊が奮闘したこともあって、日が傾くまでに駆逐艦1隻脱落、1隻被弾(航行継続)、輸送船1隻脱落、1隻被弾(航行継続)に止まった。連合軍の損害も少なくなく、帰投後の破棄を含めると50機以上を失っていた。
 
 そして3日目に入るのだが、その前に連合軍が行動が起こした。
 セントネービスの沖合に、有力な水上艦隊が現れたのだ。
 現れたのは日米合同の艦隊で、アメリカが戦艦《インディアナ》と大型軽巡洋艦《へレナ》に駆逐艦6隻で、日本艦隊は重巡洋艦《那智》《足柄》《青葉》《衣笠》《加古》《古鷹》に駆逐艦6隻を二つに分けて編成していた。これらの艦隊は、それぞれ単縦陣で日本艦隊がアメリカ艦隊を少し前で挟んだ陣形を取り、アメリカ側はこれをトライデント(三叉槍)と呼んでいた。
 この時期としては大艦隊で、枢軸側が島の警備に置いていた水雷戦隊を圧倒していた。枢軸側も軽巡洋艦2隻と駆逐艦5隻の艦隊をこの作戦のために前進させて警戒配置に就かせていたが、とてもではないが太刀打ちできる戦力では無かった。
 それでも阻止しなければならず、阻止行動に入った。だが枢軸側が完全に不利ではなく、各地の迎撃用に配備している魚雷艇部隊が直ちに出動して艦隊との連携で阻止行動を開始した。
 これに対して連合軍艦隊は、戦艦による艦砲射撃を重視したので、重巡洋艦で固めた日本の第八艦隊が増速して枢軸側の動きに合わせ、キャラハン提督率いるアメリカ艦隊が艦砲射撃のための動きを継続した。しかしこの時点で、枢軸側は中央のアメリカ艦隊と、重巡《那智》《足柄》による日本艦隊しか発見していなかった。
 なお、この時の連合軍艦隊の特徴は艦艇の全てがレーダーを装備し、日本艦艇のかなりもグァンタナモなどで改装工事してSC レーダー、SGレーダーを装備していた。そしてレーダー性能の安定化と癖の把握、訓練の実施もあり、イギリス艦艇に遅れを取る事も無くなっていた。またレーダー性能の向上により、それまで前衛に警戒用の駆逐艦を配置する陣形を止めて、特に夜間戦闘では単縦陣を心がけるようになる。今までの経験から、夜間戦闘はとにかく混乱することが実感されていたためだ。
 それでも捜索レーダーのためレーダー連動射撃は熟練の技を必要としたが、日本艦隊は歴戦の艦艇ばかりだった。そしてカリブの海に最も慣れていた重巡《那智》《足柄》の艦隊は、迎撃のために進んできたイギリス海軍の大型軽巡洋艦《グロスター》《マンチェスター》を中心とする艦隊に、むしろ逆に突撃するように接近した。日本海軍の(本来は名目上の)モットーである接近戦を挑むためだ。そして本来なら飛行場に落とす予定の照明弾を、既に発進させていた夜間偵察機より一部投下。それを合図に、水上戦闘が開始される。

 戦力的にはほぼ互角で、主砲の威力では日本側が、手数の多さではイギリス側が勝っていた。イニシアチブは日本側がやや握った形だったが、日本側が突撃したのはイギリス艦隊をアメリカ艦隊に近づけないためでもあった。このため自らの損害を省みず突撃した形となり、距離を詰めての砲雷撃戦となった。
 一方のイギリス艦隊は、レーダーエコーが正確には判断出来なかったが、敵の動きから別の隊列(アメリカ艦隊)が敵の本命と判断して、目の前の猛烈な戦闘を仕掛けてきている艦隊をかわして突破しようとした。だが日本艦隊の動きが一枚上手の為それは叶わず、しかも逆に近い方向からも急接近する一群を確認し、混乱が見られた。《青葉》《衣笠》《加古》《古鷹》と駆逐艦3隻の隊列で、一列で急速に接近した。
 旗艦の《青葉》は同士討ちを避けるため、レーダーで状況を把握しつつも《足柄》などの隊列に対して「ワレ、アオバ」と発光信号を送り続けた。あまりのしつこさの為、《足柄》はかえって敵に欺かれているのではと思ったと言われるが、互いの位置はある程度把握できていたし、この日の夜は晴天で視界もあった事もあり、特に誤認も発生しなかった。ただしイギリス艦隊の砲火は呼び込んでしまい、《青葉》は旗艦であるにも関わらず損害担当艦のような役割を担って中破の損害を受けてしまい、さらに艦橋への被弾によって艦及び戦隊旗艦の司令部に大損害を受ける事となる。
 だが、数で圧倒したことで戦闘は一気に日本艦隊が有利となり、イギリス側は突破するどころか自らの生存のために退却せざるを得なかった。しかし撤退の判断は少し遅く、二つの方角から猛烈な射撃を浴びせてくる日本艦隊によって多くの艦艇が傷つき、駆逐艦戦隊による接近雷撃によって枢軸側の守備艦隊は壊滅状態になってしまう。
 これで日本艦隊も艦砲射撃に参加できるようになったが、艦砲射撃の主力を担うアメリカ艦隊は思いの外手間取っていた。
 理由は、島影から次々に襲ってきた魚雷艇だった。照明弾や探照灯で照らしながら、主に駆逐艦が掃討に当たるも、数が多い上に次々の違う方向から数隻ずつ襲ってくるため、思わぬ苦戦と混乱を強いられた。この乱戦の中で軽巡《へレナ》が魚雷を2本受けて中破し、さらにその後も3本の魚雷を受けて最終的に自沈処理せざるを得ない損害を受けてしまう。他にも駆逐艦1隻が沈められ、他1隻も損傷した。それでも護衛艦艇の奮闘で戦艦《インディアナ》は何とか無傷で、イギリス艦隊を撃破した日本艦隊の助太刀もあって魚雷艇部隊の制圧にも成功する。
 そして沖合の夜間戦闘で敵の襲撃に気づいた基地に対して、飛行場への艦砲射撃を実施した。
 砲撃は翌朝の他飛行場からの空襲を警戒しないかのように入念に行われ、飛行場は周辺施設も広く砲撃され、沿岸部で虚しく砲撃してきていた沿岸砲台などの陣地にも多くの損害を与えた。あまりの激しさに、枢軸側は上陸作戦が行われるかもしれないと考えたほどだった。
 そして連合軍の艦砲射撃部隊が敵地に長く居座ったように、この時の連合軍の攻撃はまだ始まったばかりだった。

 セントネービスが艦砲射撃を受けている頃、グアデルーペのレーダーサイトはマイアミもしくはプエルトリコ方面から飛来する大きな航空集団を捉えた。
 規模は最低でも重爆撃機1個大隊。その正体は、「B-17G フライング・フォートレス」1個大隊48機だった。彼らの後ろには、同規模の部隊があと5つも続いており、前衛や周辺には「P-100 スパイダー」夜間戦闘機が護衛や偵察のために随伴していた。この作戦で「P-100」は、迎撃よりも偵察に向いていることが改めて分かった。もとが偵察機なのだから当たり前の話しだが、この事が日本陸海軍で開発された双発重戦闘機(屠龍、月光など)にアメリカの目を向けさせることにもなっている。アメリカは何故か双発重戦闘機を殆ど開発しておらず、「P-100」だと迎撃はともかく護衛が難しいからだ。
 グアデルーペの飛行場は、数多くの高射砲や機関砲で守られていたし、レーダー、サーチライトなども設置されていた。しかし、欧州枢軸全体で機体が無かった為、夜間戦闘機は配備されていなかった。イギリスの「モスキート」が偵察用に配備されていたが、この頃は夜間戦闘機型は存在しなかった。それにアメリカ軍の重爆撃機の圧倒的な弾幕相手に、攻撃型の夜間戦闘機として「モスキート」は相応しくなく、その事は後に戦場で証明されている。とにかく、一連の戦闘でほぼ初めての大規模夜間爆撃に対して、欧州枢軸側は高射砲で重爆撃機の群れを迎撃するしか無かった。
 アメリカ陸軍航空隊の爆撃は、欧州枢軸側の予測を大きく越えていた。この一夜だけで1000トンもの各種爆弾、焼夷弾が飛行場とその周辺部に投下され、甚大な被害が出た。1個大隊だけなら許容範囲の損害で耐えられただろうが、次から次へと飛来する爆撃機、しかも最盛時は100機単位の爆撃機が上空にあったため、地上からの迎撃が全く間に合わなかった。
 そして飛行場は、大型爆弾から中型爆弾、焼夷弾、遅延信管の爆弾など多数が投下され、少なくとも数日間機能が停止してしまう。200機以上が駐留していたうちの半数近くも、破壊されるか要修理の損害を受けた。その他高射砲陣地の一部、格納庫、宿舎など多くの場所が損害を受けた。これらの被害はアメリカ軍がカーペット・ボミング(絨毯爆撃)を仕掛けたからで、夜間爆撃の不利を物量と確率論で満たしてしまったからだ。カーペット・ボミングは、その後も機会があるごとにアメリカ陸軍航空隊の常套攻撃手段となり、欧州枢軸軍を悩ませる事になる。

 そして枢軸軍の船団がグアデルーペに到着する当日、船団を巡る戦闘は最高潮に達する。
 夜明けと共に欧州枢軸陣営の飛行場からは、防空のため一番最初の編隊が飛びだったが、問題なく飛び立てたのは最も北にあるアンティグア基地と、卿の出発点となるマルティニーク、そして道中にあり今日の要ともなるドミニカ島からだけだった。目的地のグアデルーペと、グアデルーペの北西部にあるセントネービス島の基地は夜のうちに破壊されて沈黙していた。つまり、目的地に入れば、連合軍の激しい空襲を受けることを意味していた。このため枢軸側では撤退が議論されたが、進むにしても引くにしてもさらに空襲と損害を受けることが分かり切っているので、犠牲を無駄にしないためにも作戦どおり進むことになった。
 そして予想通り、プエルトリコ島から連合軍の大編隊が飛び立ち、船団への攻撃を開始した。
 だがこの編隊は、連合軍の予測よりも規模が大きかった。
 空母《エンタープライズ》《ホーネット》を中核としたハルゼー提督率いるアメリカ海軍の空母機動部隊が、基地航空隊に紛れ込ませて攻撃隊を送り込んでいたからだ。この事を船団と護衛機は、肉眼で敵を視認するまで分からなかった。そして分かった時には、予測していたよりもはるかに大きな攻撃隊と攻撃隊を守る戦闘機からの攻撃を受けてしまう。
 そして視認した時点で追加の増援を求めたのだが、最も近在のドミニカ島はそれどころではなくなっていた。突如、低空から迫る多数の艦載機と思われるレーダーエコーを捉え、迎撃までに与えられた時間がわずか10分程だったこともあり、支援要請を受けたときには空襲を受けて大混乱に陥っていた。
 この空襲は角田提督率いる装甲空母《翔鶴》《瑞鶴》、高速戦艦《比叡》を中心とした日本の空母機動部隊によるものだった。輸送船団への護衛戦闘機部隊を出していたグアデルーペに増援を送り込んで戦力が低下していた基地に対して、正面からの空襲を浴びせかけた。しかも攻撃隊は、レーダーに捉えられる直前の距離になると、高度30メートルまで下げての進撃を行った。探知が遅れるのも当然だった。
 この攻撃により、枢軸側の船団はドミニカ島からの増援を失い、しかも空母艦載機まで加わった激しい攻撃を受けることになる。
 船団は「B-25」のスキップ・ボミング、空母艦載機の雷撃、急降下爆撃を含んだ激しい空襲によって、最終的に輸送船全ての沈没、護衛していた駆逐艦の半数に当たる4隻の沈没、3隻の被弾をもって全滅した。当然だが増強予定の地上部隊は全滅し、護衛の駆逐艦が救助出来なかった半数以上が溺死した。
 この攻撃の最後に、最後まで空に止まっていた連合軍の偵察機(カタリナ飛行艇)は「ロンドン・エキスプレス(倫敦急行)は運行停止せり」と誇らかに打電している。

 これほど大規模な攻撃を連合軍が行ったのは、連合軍は枢軸側が大規模な輸送作戦を行って基地防衛と船団護衛の二つの任務を抱える瞬間を待っていたからだった。
 このため事前に大規模な戦力が事前に少しずつ用意され、当面の戦闘では緊急事態を除いて攻撃用の部隊を出撃させないようにしていた。だからこそ優位に立った連合軍は枢軸側を攻めきれず、枢軸側は何とか押しとどめることが出来ていたのだ。
 そしてこの戦闘において連合軍は、単に船団の撃滅を目的とはせずに、小アンティル諸島中部での戦闘のイニシアチブを奪い、今後の侵攻の足がかりにする事を目的として戦闘を実施した。このため船団壊滅後も、航空撃滅戦を目的とした戦闘は続いた。枢軸側の飛行場に対して夜間の戦略爆撃だけでなく、プエルトリコ島からの昼間空襲も激化した。空母機動部隊も戦闘を継続し、順次補給をしつつ交代での空襲を繰り返した。
 そして船団攻撃から始まった連合軍の攻勢は、完全な航空撃滅戦へと移行。初手で大きくつまづいた枢軸側は、建て直しができないまま大きな消耗を強いられる一方となる。
 こうなるとカリブの欧州枢軸陣営は、建て直しがきかなかった。
既にカリブ海だけでなく、大西洋中央部の制海権も失いつつあったからだ。

 小アンティル諸島中央部での攻防戦が激しさを増している頃、カリブ海と中部大西洋の西部では双方の潜水艦による通商破壊戦と護送艦隊による潜水艦の撃退、対潜水艦部隊による潜水艦狩りがより激しさを増して行われた。
 潜水艦の戦いは、1942年秋に一度枢軸側が体制を立て直すために中止したが、1943年に入って再び激しさを増して、そして6月にイギリス、ドイツ両海軍が大西洋東部以西での潜水艦運用を中止することで一段落する。このためアメリカでは、1943年末頃には護衛駆逐艦と護衛空母を作りすぎたのではという議論すら起きたが、連合軍が大西洋を押し渡るとまた必要になるため建造と整備は続けられ、枢軸軍制空権のギリギリまで枢軸軍の潜水艦を追い払っていった。
 いっぽう逆に、1943年に入るとアメリカ海軍による通商破壊戦が激しさを増すようになっていた。
 アメリカ海軍は、ようやく自分たちの潜水艦用魚雷を完全な状態とした上に、さらに日本から導入した酸素魚雷搭載型の潜水艦も戦場に投入するようになった。しかも新たな火薬の使用により、破壊力も大幅に増した。しかもその魚雷を運用する戦時建造型の《ガトー級》は大型潜水艦なのに数が激増したため、欧州とベネズエラを往復するタンカーとその護衛艦の損害が激増した。
 そして欧州枢軸陣営では、海上護衛艦艇が急速に不足するようになっていた。それは今までは護衛艦艇はあまり消耗していなかった為、イギリスだけが船団護衛や対潜水艦戦に特化した護衛用艦艇(駆逐艦)を建造していただけだったからだ。ドイツ、フランス、イタリアのどの海軍も、日米の大型駆逐艦に対向するための駆逐艦建造を熱心に進めるも、海上護衛戦に必要な「数」を揃えるには到底足りなかった。しかも贅沢な大型駆逐艦は、簡単に海上護衛作戦に投入できる戦力ではないため、護衛艦艇を整備しているイギリス海軍にばかり負担がいった。しかもイギリス海軍は、大西洋だけでなくインド洋の海上航路の維持も実質的に行わなくてはならず、戦力が足りない上に分散を余儀なくされていた。この護衛作戦では、盟主のドイツ海軍はほとんど役立たずだった。
 こうした状態は、基本的にヨーロッパ各国の海軍の規模が中途半端で大規模な海上護衛戦に対応できないためで、さらにほとんど平時の延長で艦艇整備を進めた結果でもあった。さらに言えば、イギリスが海上航路防衛ができる「外洋海軍」なのに対して、他のヨーロッパ列強海軍は本国や限られた植民地の防衛しかできない「沿岸海軍」だったからだ。世界各地に植民地を持つフランスも、多少マシと言う程度で例外ではなかった。
 これに対して日本とアメリカは、基本的に「外洋海軍」だった。海軍の規模も非常に大きく、平時は他国よりも規模が大きいだけの「沿岸海軍」のように見えても、戦時になると持ち前の規模の大きさを活かしてすぐにも「外洋海軍」へと変化していった。これは第一世界大戦でも見られた事で、第二次世界大戦ではより規模と組織を充実させていた。ドイツがソ連(ロシア)に全力を傾けていたのが、海軍が充実していない原因だという意見もあるが、仮にドイツがソ連と戦わずに海軍に全力を傾注していても、戦前の「Z計画」や戦争勃発後の潜水艦重視の方針から考えても、自らの海上護衛について本気で考え、理解した上で計画を立案、実行したとは非常に考えにくい。
 そして机上の空論を脇に置いたとしても、連合軍の戦時生産が軌道に乗って豊富な戦力が戦場に現れた時点で、違いの差は歴然と現れるようになった。
 そして枢軸側の海上護衛戦力の不足を、連合軍は見逃さなかった。日米の間で何度も綿密な協議が持たれ、大西洋でもインド洋でも護衛艦艇を優先的に攻撃し、次にタンカーなど商船を狙う方針が立てられた。そのための戦術と装備も、優先して開発、整備された。この戦術により枢軸側に護衛艦艇はさらに不足を生じさせ、枢軸側の欧州以外の航路を効率よく締め上げるのが目的だった。例外は最前線での運用される兵員輸送船とタンカーで、日米の潜水艦は群れを作って海での狩りをやり返すようになっていった。

 1943年2月2日〜5日にかけて行われた「小アンティル諸島の戦い(ドミニカの悲劇)」以後、カリブの戦いは一方的に転換し、大西洋へと移るようになっていく。



●フェイズ29「第二次世界大戦(23)」