●フェイズ34「第二次世界大戦(28)」

 1943年8月26日、連合軍の主要参戦国の首相が初めて一堂に会した。
 アメリカ合衆国のアルフレッド・M・ランドン大統領、日本の山梨勝之進首相、英連邦自由政府のウィンストン・チャーチル首相、そしてソビエト連邦ロシアのヨシフ・スターリン書記長の4人だ。
 これまで日米英の首脳は、比較的頻繁に会議を行っていた。ハワイのホノルル、アメリカ西海岸のサンフランシスコは、特に日米両国が会う場所として使われていた。日米首脳が互いの首都も訪問したし、チャーチルが日本に行った事もあった。各国外相などを中心としたアメリカ東海岸各所での会議は、半ば日常だった。日本のアメリカ全権大使の吉田茂などは、毎日アメリカを奔走していた。日本の外交官の半分がアメリカに居るとすら言われた程だった。
 しかしソ連は、参戦が遅かった上に苦境が続いていたため、なかなか為政者同士が直接会う事が出来なかった。42年夏に日本の山梨がソ連に直接に赴き、それに応える形でスターリンはシベリアのノボシビルスクまで出迎えて、両者の首脳会談が行われたのみだった。この時の日ソ首脳会談というよりソ連訪問は、珍しく山梨の独断で決められた。日本人にとって、心理的にはまだ敵地といえるソ連領内奥深くに日本の首相が自ら出向いたことが、日本国内で大きな話題となった。またソ連側は、日本の外交姿勢に国を挙げて感謝を示し、両国首相が抱擁する姿は少なくとも戦争中は日ソ友好の象徴的写真となった。
 また、ソ連と他の国が首脳会談を行える中立的な場所、地理的な場所がなかなかない事も、首脳会談が先延ばしになった理由だった。
 そこで選ばれたのが、アメリカ合衆国領ながらまだ州に昇格していなかったアラスカの中心都市アンカレッジだった。この会議のために、アンカレッジの飛行場は、アメリカ陸軍工兵隊によって大型機が発着できる本格的な空港に拡張、整備された。
 この場所は、ハワイ同様にアメリカと日本の中間に位置していることも、首脳会談に相応しかった。ソ連からも夏の間なら飛行機で直接赴ける場所だし、ソ連にとっては地理上では国境を跨いですぐの場所でもあった。
 またこの時期に首脳会談が行われたのは、連合軍がようやく全ての戦線で戦略的優位を獲得したからに他ならなかった。
 欧州枢軸軍は、カリブ、インド、そしてコーカサスから追い出され、ヨーロッパへと押し込められつつあった。このため戦争自体が次のステージに移行した事になり、首脳会談を開く必要性が出てきたのだ。

 本会議の前に、予定の調整が遅れたソ連のスターリン抜きで会議が一度行われ、大西洋戦線、インド戦線と、既に内乱状態となって降伏も間近なチャイナの戦後処理について主に話し合われた。
 そしてスターリンが合流して、初の四者首脳会談が開催される。
 会議のホストは開催国のランドン大統領だったが、会議を円滑に運んだのは日本の山梨首相だった。4者の年齢はチャーチル、山梨、スターリン、ランドンの順で、ランドンは他の3人より10才以上若かった。また大統領の二期目とはいえ、政治家としての経験は他の者より少なかった。海千山千の政治家達との経験値に差があって、少し役者不足だったので主導権が握れなかった。
 山梨は、他の3名と経歴が違っていた。キャリアの殆どを、海軍軍政家として過ごした軍官僚だった。各軍縮会議に出席するなど実質的な外交経験も豊富で、軍令部総長などで実質的な政治家としての経験も豊富だった。そして山梨は、明晰な頭脳とねばり強さ、何より人徳で会談をうまく運んだ。
 また、前年夏にスターリンと会っていた事も、山梨の有利に働いた。スターリンは猜疑心の強い独裁者とも言われるが、清廉な高級官僚の鏡と言える山梨のキャリアと態度に信頼を置いたし、ロシア人特有の個人関係(友人関係)を重視したからだ。チャーチルは、過去の軍縮会議で山梨と面識があったし、軍人に親しみを持つ傾向が強いうえに海軍好きであり、山梨との話しが弾むことも多かった。ランドンは、連合国の中で日本が最も頼りになるし、長年の日米関係もあり友邦としても信頼できるため、日本との関係を最も重視せざるを得なかった。またランドンは、個人的にも山梨との間に友人関係を結んでいた。
 また日本は、ヨーロッパの利権から最も遠い立ち位置に居たことも、他3者との話しもしやすかった。
 そうした関係から、山梨が会議の実質的なホストの役割を果たしていった。
 主な議題は、今後の作戦についてだった。
 スターリンは一日も早い第二戦線の構築を望み、さらにレンドリースのさらなる増加を求めた。チャーチルは、英本土「奪還」後のイギリスの利権を確認することに終始した。日本とアメリカは、取りあえずヒトラーとナチス、そして全てのファシズムの打倒以外で強い意見は無かった。まだ戦後のヨーロッパについて話し合う時期でも無かったからだ。ただし占領した地域の植民地解放、民族自決を進めることが改めて確認され、中華の占領統治の戦後のガイドラインも取り決められた。
 戦後のインドについては、何故かチャーチルが分離独立を求めるも、インド側との約束もあるので、山梨は統一インド、「インド連邦」の意見を強く押して、これが連合軍の総意とされた。
 そして首脳達は、次はもう少し温かい場所で会議を開こうと笑顔で握手を交わし、それぞれの国へと戻っていった。

 連合軍の初の首脳会談が行われている頃、戦争は次のステージに移行しつつあった。
 1943年8月3日、カラチに展開した連合軍の重爆撃部隊が、初めてアラビア半島ペルシャ湾口のホルムズ海峡付近に展開する枢軸軍の基地を爆撃した。カラチからだと、アラビア半島の北東部一帯が爆撃圏内だった。しかもカラチの郊外西部に建設された臨時の飛行場からは、零戦すら随伴する事ができた。
 そして最初のアラビア爆撃は、現地の枢軸軍に対してほとんど奇襲攻撃となった。

 当時アラビア半島北東部には、半島北東端のマスカットとペルシャ湾に入ってすぐのドバイに基地があった。さらにペルシャ湾奥のアバダン油田近郊と最奥のバスラにも基地があったが、まだ中継基地としてだけ機能していた。この頃の枢軸側のアラビア半島での航空基地は、基本的にアラビア海に面した側の防備を分厚くしていた。空母機動部隊が突然襲いかかってきても、ある程度対処できるようにするためだ。しかし兵力には限りがあるので、防備を分厚くできるのは最前線の要衝だけだった。またアラビア半島は鉄道、道路が不足していて、兵力と物資は船で運ばなければならなかった。このため拠点とされていたのは、紅海入り口のアデン、アラビア海とオマーン湾(ペルシャ湾の手前)のマスカットが中心で、ここに大隊規模の戦闘機隊と対潜哨戒機部隊、偵察機部隊が展開していた。また、二つの都市の中間のサララという小さな町にも基地を建設したが、ここは哨戒機の緊急着陸場所、もしくは中継基地として活用されているだけだった。戦闘機隊など防備できるだけの部隊を駐留させることが難しいからだ。
 マスカットを襲った連合軍機は、日本海軍航空隊から編成されていた。「一式重攻撃機 深山22型」3個大隊、「零式艦上戦闘戦32型」2個大隊が主力で、飛行場とレーダーサイトを狙った。
 マスカットに対しては、既に6月半ばから「百式司偵2型」高速偵察機を用いた偵察が実施されており、基地の概要、戦力はおおよそ掴めていた。そして既に、紅海から伸びる海路を実力で塞いでいたので、枢軸側がすぐに大規模な増援を送り込むことは出来ず、送り込む前の間隙を突いての空襲だった。
 マスカットには、イギリス空軍の2個大隊の戦闘機隊が駐留しており、レーダーサイトもあったので大編隊を捉えるとただちに迎撃機を全力出撃させた。
 しかしイギリス空軍機は、護衛戦闘機をあしらいつつ爆撃機を阻止しなければならないため、最初から兵力の分散を余儀なくされた。攻撃する日本側も前衛で制空戦闘を仕掛ける部隊と護衛隊に分かれていたので、双方同程度の戦闘機の激突となった。そしてこの時、イギリス空軍の航空管制に対して、日本軍もレーダーを搭載した「深山」を複数編隊に含ませていたので、不意を打たれることも無かった。既にアメリカ製無線機も全ての機体に搭載されているので、相互連絡も容易となっており、イギリス側が不意打ちすることもできず正面からの戦闘となった。
 そしてイギリス空軍戦闘機隊の一部は、最初から全速力で零戦の防空網をすり抜けて、一気に重爆撃機へと殺到した。2個中隊がこの突進を行い、上空からの逆さ落としで重爆撃機を撃墜しようとした。だがこの戦場での日本軍重爆撃機は、中華戦線で十分に効果が立証されていたボックスフォーメーションを組み、濃密な弾幕射撃を展開した。これに対して、枢軸側は爆撃機阻止よりも戦闘機戦を前提にした航空隊だったため、スピットファイアは7.7mm機銃搭載型しかなかった。このため中華戦線同様に、重爆撃機の主要部を撃ち抜くことは至難の業で、逆に12.7mm機銃の弾幕の洗礼を受けてしまう。
 弾幕に突撃すると、比較的だがエンジンに被弾しやすい。そして液冷エンジンは被弾に弱く、墜落したり脱落する機体がかなりの数出た。そして重厚な布陣の前に、中途半端な規模の迎撃は通用せず、マスカット基地は約150機の重爆撃機の爆弾の洗礼を受ける。125kgから800kgに至る様々な爆弾が主に飛行場に投下され、一部の爆撃機はレーダーの逆探知装置に従ってレーダーサイトの概略位置に爆弾を投下した。
 投下弾量は一回で約600トン。かつての日本軍では想像もつかない爆撃量だが、日本自体の発展、戦争による生産体制の強化、世界中からもたらされる資源、そしてアメリカからの豊富な支援と援助が、この爆撃を十分可能としていた。しかも同時期、中華戦線でも同規模の部隊を展開していたし、インド戦線で他の任務に付いていた部隊もあるので、日本.海軍航空隊が前線で運用する重爆撃機の総数は予備を除いて400機に達していた。急速に数が増えたので、中堅将校の数が足りないほどだった。
 そして爆撃は継続してこそ価値が有る攻撃なので、日本海軍航空隊も当然の選択として継続的な爆撃を開始した。しかもマスカットへの爆撃が一定の効果を上げたと分かると、次はドバイの航空基地も爆撃した。ドバイの基地は、基本的にホルムズ海峡を越えようとする連合軍潜水艦を監視・迎撃するための基地で、またマスカットの航空隊の予備部隊の駐留基地だった。しかも、既にマスカットに予備も投入していたので抵抗力は弱かった。
 爆撃の規模は二度目からは半分以下になったが、天候が許す限りほぼ毎日実施された。戦略爆撃と言うよりも戦術爆撃であり、重爆撃機を用いた贅沢な攻撃で、そして航空撃滅戦だった。
 この贅沢な攻撃に現地イギリス空軍は対処できず、慌てて付近に駐留するイタリア空軍に支援を頼み、さらにヨーロッパから移動してきたばかりでペルシャ湾奥で砂漠に対応した訓練をしていたドイツ空軍部隊(1個戦隊程度)にも、それぞれの本国を介して支援が要請された。
 そして枢軸側の兵力の移動が本格化した8月18日、今度は単発機の群れが紅海口の要衝アデンを襲った。

 アデンを襲ったのは、日本海軍の空母機動部隊だった。編成は以下のようになる。

・第三艦隊 :小沢中将
 ・第一部隊(小沢中将直率)
 CV《大鳳》CV《赤城》CV《加賀》
 CVL《龍驤》CVL《龍鳳》
 BB《金剛》BB《榛名》
 FA《涼月》FA《初月》FA《新月》FA《若月》
 CL《大淀》CL《仁淀》
 CL《阿賀野》 DD:15隻

 ・第二部隊(原中将)
 CV《蒼龍》CV《飛龍》
 CVL《千歳》CVL《千代田》
 BC《鳥海》BC《摩耶》
 CL《利根》CL《筑摩》
 FA《霜月》FA《冬月》
 CL《阿武隈》 DD:16隻

(※後方に位置していた補給部隊など割愛)

 同部隊は、6月初旬にカラチに強襲上陸を支援した艦隊の一部で、1943年2月からカラチ上陸作戦までに再編成された艦隊に、さらに増援部隊を組み込んだものだった。
 カラチでの任務を終えてアッズに戻って補給と補充、そして最低限の整備と、そして新規兵力の受け取りなど慌ただしい日々を送り、この作戦を迎えていた。戦時で全てが24時間体制で動く状態でなければ、これほど短期間での次の作戦は不可能だっただろう。
 二つの作戦のあいだに新たに迎え入れられたのは、防空巡洋艦である直衛艦の《霜月》《冬月》、《愛宕型》巡洋戦艦3番艦、4番艦の《鳥海》と《摩耶》、三ヶ月で水上機母艦から軽空母に改装された《千歳》《千代田》、そして基準排水量3万6000トンの新鋭装甲空母《大鳳》だった。艦艇数が多いため艦隊は二つに分かれ、短い時間で艦隊行動訓練も最低限ながら行われていた。
 艦載機総数は470機程度。先の作戦からの補充が完全ではなく、過積載もしていないため若干少なかった。しかし、アデンに対する攻撃としては十分すぎた。(※定数を揃えると約500機、過積載だと600機を越える。※満載時=《大鳳》:約90機、《赤城》《加賀》:約75機、《蒼龍》《飛龍》:約70機、軽空母:約30機)
 空母は軽空母(特設空母)を含めて、この時期には多くの艦がカタパルトを装備する改装を施しており、全ての空母が新型機を運用可能となっていた(※《赤城》《加賀》《蒼龍》《飛龍》は連戦続きのため未装着)。

 アデンは紅海を出てすぐ、アデン湾の奥に位置しており、アラビア半島、ソマリア半島、そしてソコトラ島が地形障害としてあるため、比較的安全と考えられていた。それでも、哨戒用の飛行艇や輸送機を含めて総数200機の航空機が配備され、レーダーサイトや高射砲などで十分防備されていた。駆逐艦を中心とした艦隊も駐留していた。
 だが5月から9月はモンスーンの影響で、苦労してソコトラ島に進出した部隊は厳しい自然環境に耐えるしか無かった。ソコトラ島に近いソマリア半島先端部も似たような状態で、さらにインフラに欠けていた事もあって、航空基地の設営すらままならなかった。アラビア半島についても似たような状態で、アラビア半島のアラビア海に面したサララの小さな飛行場の哨戒機部隊が、唯一の前哨哨戒拠点といえた。
 当時のアラビア半島やソマリア半島の周辺部は、世界の僻地だったのだ。
 しかし海で繋がっていれば、空母機動部隊には関係が無かった。
 日本海軍第3艦隊は、各部隊の支援でアッズ周辺の枢軸側の偵察任務の潜水艦を封殺すると、補給艦を伴って秘密裏に出撃。その後は念のため迂回航路を取って敵の目を欺き、そして敵の哨戒機がルーチンで引き返すタイミングでアデン湾の奥へと全速力で進み、翌朝の夜明け前に距離300海里という遠距離から可能な限りの攻撃隊を放った。
 第一次攻撃隊の総数は約230機。その後ろに180機の第二次攻撃隊が続き、一撃でアデンの機能を一時的に破壊することを目的としていた。
 そして枢軸軍側は、突然レーダースクリーンの一部が大編隊のエコーによって真っ白になったことに慌てて、急ぎ迎撃戦闘機を飛び立たせた。迎撃機は何とか離陸できたが、それ以外の爆撃機、哨戒機、飛行艇などは一部を除いて待避する余裕が無かった。滑走路が別でも多数の戦闘機が飛び立つために空を開けて置かねばならないので、飛び立ちたくても飛び立てられなかったからだ。
 約100機の迎撃機に対して、日本側も約100機の戦闘機が攻撃隊に含まれていた。しかしレーダー搭載の偵察機が随伴しているため、連合軍(イギリス軍、イタリア軍合同)が迎撃で奇襲を行うことは出来なかった。そしてほぼ同じ高度で敵を見た枢軸側のパイロットは、敵戦闘機の一部に新型機が存在していることを見付ける。すぐに分かったのは、「ゼロ・ファイター」とは明らかに形状が違っていたからだ。
 「三式艦上戦闘機・烈風」がその正体だった。

 「烈風」は零戦を開発した三菱の開発チーム(堀越技師中心)が、零戦開発後に総力を挙げて開発していた新型機だった(※零戦の改造型は、海軍の指導で別チームが行った)。
 エンジンは、アメリカのP&W社から数々のパテントと協力を得て開発された「ハ43」。三菱社内名「木星」発動機だった。中島の「ハ45(誉)」より少し遅れて登場した2000馬力級空冷エンジンで、1941年に稼働を始めたばかりの巨大なエンジン専門の製造工場で一貫生産された事もあって、今までの日本のエンジンと比べると完成度も高かった。
 工場を新設したことに三菱機の意気込みが見て取れ、三菱は自社のみならず全ての日本軍機に同エンジンを採用させることを目標としていたほどだった。
 だが従来のエンジンと比べると、特に中島飛行機のエンジンと比べるとエンジンの直系が大きく、重量も相応にあった。しかし三菱としては、零戦に金星エンジンを搭載していたので、特に問題とはされなかった。戦争で経験値を増やした海軍も、一部を除いて気にしなかった。加えて小型すぎるエンジンは、各部品が小さくなり整備なども大変で戦場の蛮用には耐えられない、と言う事を今までの国際展開での経験から三菱は得ていた。また小型だと、後の改良も難しいという判断もあった。事実「木星」エンジンは、後の改良で大幅に強化されている。
 機体の開発は、当初は海軍関係者とかなりもめた。と言うのも、当時の海軍側は零戦同様の運動性能や航続距離を求めたからだ。三菱側は、陸海軍を通じて世界中から購入した各種機体、エンジン、さらには世界中の最新の情報から、速度性能に優れたいわゆる「重戦闘機」路線を押していた。カタパルト発艦が前提な事からも、機体が丈夫な重戦闘機路線が正しかった。また三菱は、戦闘爆撃機として使えることもアピールしていた。
 そして海軍初期案だと主翼の全幅が艦上攻撃機並の14mにもなるため、海軍自身も渋り出す。そこで空戦中の翼面荷重値を下げる、世界各国で採用が始まり日本でも川西飛行機が開発した「自動空戦フラップ」を搭載することが検討された。川西が開発した自動空戦フラップは、当時三菱が開発していた自動空戦フラップよりも性能が高かった。そして同時に、川西の技術陣を開発に参加させることも提案した。加えて、翼面荷重値自体も数値をかなり緩和させた「乙案」と海軍が押した格闘戦重視の「甲案」の二種類を同時に作ることとなった。だが二種類を一度に三菱で製作することが難しいため、「乙案」の翼はフラップを提供する川西が製作する事になった。この時点で海軍としては、「乙案」を少し手直しして局地戦闘機(地上配備のみの重戦闘機)とする腹案を持っていた。
 しかし今度は三菱がごねた。自社単独生産に拘る三菱としては、実質的な共同開発は受け入れがたかったからだ。また政治バランスとして、烈風を川西でも生産しなければならない可能性も高まり、様々な利益面でも不利が大きいと考えられた。
 そこで、一日も早く高性能の新型機が欲しい海軍は、川西が戦時中に開発する機体には三菱のエンジンを優先的に使う事を認めさせ、烈風については三菱、川西双方の工場で生産する事となった。
 「乙案」は、翼面荷重値の緩和と川西の自動空戦フラップを組み込んだ設計変更により、主翼の長さは12.5メートルにまで短くなった。また緩い「逆ガル翼」を採用していたが、翼が折れている部分で大きくたためる構造としたので、格納の際にも零戦より少し空間を取る程度でおさまった。そして全幅14mもある「甲案」と共に各種試験や模擬空戦などが実施されたが、結局「乙案」に落ち着いた。
 主武装は20mm砲2門、12.7mm砲2門が基本だが、20mm砲4門に増やした型や12.7mm砲6門型も最初からあった。また落下増槽のかわりに、最大で800kgまでの爆弾が搭載可能だった。後の改造で、ロケット弾も搭載できた。
 その上で、「乙案」の最高時速は654km/hを記録(※「甲案」は641km/h)。上昇速度、降下速度などその他の性能も、要求を上回るほどだった。全ては、準アメリカ製、米星エンジンとまで言われた木星エンジンの性能のおかげで、加えて高いオクタン価のガソリンと高精度の点火プラグによる効果だった。さらにプロペラも、新型エンジンとの相性が良かった。
 生産は1943年1月に増加試作が開始され、4月には最初の量産型がロールアウト。6月に最初の航空隊が編成されたばかりで、このとき空母《大鳳》と本土に戻っていたり新造の各軽空母の航空隊だけが烈風を装備していた。一方で矢継ぎ早の作戦のため主力空母に搭載されていた航空隊は機体改変が間に合わず、この作戦では多数の軽空母が参加する事になっていたが、軽空母もカタパルト設置の改装を受けていたので新型の運用が十分可能になっていた。

 「烈風」とイギリスのスピットファイア、イタリアのファルゴーレの対戦は、烈風の圧勝だった。最高速度、上昇速度、降下速度、さらには運動性、格闘戦能力のほぼ全てで、次世代戦闘機である烈風が上回っていた。しかも空母《大鳳》の戦闘機隊は、精鋭を集めて編成されたので練度の違いも明らかだった。
 また零戦32型も、依然として優位な戦闘を進めたので、あまり精鋭とは言い難い枢軸側の航空隊では、結果は最初から見えていたと言えるだろう。(イギリス空軍の精鋭はカリブにいた)
 そして最初の二撃、その日のうちに合計5回送り込まれた艦載機の攻撃により、アデンの空軍戦力は壊滅的な打撃を受けてしまう。
 アデンの基地からは、偵察機こそ飛び立って日本艦隊を発見したが、攻撃隊を出すこともできなかった。だが、出せなくて幸いと言えただろう。日本艦隊の防空能力はさらに向上を見せていたので、1年前とあまり変化のない攻撃では、悲惨な結果しか出なかっただろうからだ。
 なお、日本海軍がアデンを強襲した理由は、現地空軍戦力の壊滅だけでは無かった。この地に駐留している、欧州枢軸陣営最大の洋上戦力を有するイタリア海軍の総力が結集しているイタリア東洋艦隊の撃破が目的だった。
 戦艦《ヴィットリオ・ヴェネト》《ローマ》を中核とした戦艦5隻など30隻近い大艦隊で、日本海軍では一連の作戦での最大の障害と考えられていた。先のソコトラ沖でも、酷い目にあった艦隊だ。なお、改装空母《アクィラ》、新鋭戦艦《インペロ》は本国近辺で訓練中だったため、総力とは言えないまでも非常に強力な水上艦隊だった。
 そして日本側としては第二次攻撃隊の約半数が、アデン港もしくは沖合にいたイタリア艦隊に襲いかかった。この空襲に沖合に出つつあったイタリア艦隊は無力で、潜水艦を警戒して大艦隊が収まるには小さな入り江から急ぎ出て、洋上に逃れようとする艦隊に対して、日本軍艦載機はいいように攻撃を行った。
 だがこの時の日本軍編隊は、1隻でも多く損傷させることを厳命されていた。撃沈は二の次で、とにかく損傷を与えることが重視されていた。それはつまり、連合軍が一連の戦闘をする間、ヨーロッパにでも修理に戻っていれば良いからだった。もちろん沈められればそれに越したことはないが、目標を1隻に絞った上で徹底的に襲いかからない限り、戦艦複数を含む艦隊の撃滅は流石に無理だと理解していた。日本軍機が最も激しく攻撃したのは、アデンの簡易修理施設とパイロット達に徹底してシルエットを覚えさせた臨時工作船だった。
 そして日本軍艦載機は、都合三度港や沖合のイタリア艦隊を攻撃し、合計12隻いた戦艦や巡洋艦のうち8隻に何らかの損害を与え、うち6隻に要修理の判定を下させた。その他、駆逐艦1隻、臨時工作船1隻、輸送船3隻、その他2隻を撃沈し、その日の空襲を終えた。空襲は終始爆撃ばかりで、入り江の中の攻撃を想定していたので雷撃機も魚雷は搭載していなかった。
 そしてこの攻撃を受けて、イタリア艦隊は迎撃のために洋上に出るのではなく、航行可能な全ての艦艇が待避のための船舶を護衛するという名目でアデンを離れ、紅海へと後退していった。そしてイタリア艦隊は、二度とアジアの海に戻ってくる事は無かった。
 一方的にアデンを壊滅させた日本艦隊は、翌日も同じように空襲を行って、落ち穂拾いといえる攻撃でアデンの基地機能を完全に麻痺させ、残っていた損傷艦艇を沈め、そして去っていった。枢軸側は最悪の場合は強襲上陸があると考えたが、艦隊が接近してくることも無かった。
 なぜなら、日本軍というより連合軍としては、アラビア半島の戦力を一時的に減らすのが目的であり、また敵に攻勢の主目標を誤認させるのも目的だったからだ。そして連合軍の次の目標はペルシャ湾だった。

 日本機動部隊が去ったその日、今度は多数の戦闘機が近距離からマスカットを空襲した。
 パキスタン沿岸部の最も西にある街グウォーダルに臨時に建設された野戦飛行場から飛来したものだった。マスカットからの距離は僅かに約300キロ、零戦の航続距離ならペルシャ湾の半ばまで行動圏内だった。そして連日の爆撃で疲弊していた枢軸側に、カラチからと合わせた攻撃にはもはや対処が出来なかった。スピットファイアでも届く距離に基地があるのに、攻撃する力が現地枢軸軍には既になかったのだ。連合軍が同地に基地を構え、そして運用を開始したのも、枢軸側が疲弊するのを待っての事だった。
 そしてグウォーダルとカラチから連日連夜航空撃滅戦がしかけられ、半ば廃墟となったマスカット飛行場は一時的に破棄され、僅かな残存航空隊もドバイへ後退した。
 8月24日、今度はマスカット沖合に連合軍艦隊が出現。巡洋艦を中心とする高速艦隊と、高速揚陸艦、高速輸送船から編成された電撃的な編成で、艦砲射撃と空襲の支援を受けながら一気に強襲上陸を実施した。
 マスカットには1個旅団と沿岸砲台、高射砲部隊などが駐留していたが、砂漠と海岸の狭間の海岸線にへばりつくようにあるマスカットは、海を閉ざされてしまうと孤立無援に近い場所のため、大軍は駐留していなかった。既に制海権のない状態なので、大軍を駐留させるだけの兵站が維持できず、航空隊の維持で精一杯だったからだ。制海権、制空権を握る連合軍は最悪無視して素通りする可能性があるので、孤立しているので仮に大軍を置く価値が疑問視された。そうした二つの要素から、中途半端な一個旅団が駐留するに止まった。これに対して連合軍は、日本海軍特別陸戦旅団を先頭に強襲上陸戦を仕掛け、その後ろに1個師団が続いた。
 短期間での電撃的占領を目論んでいる事は確かで、海岸線に近い場所に街、駐屯地、陣地、そして飛行場があるため、全ての場所が駆逐艦の砲撃すら避けられない場所のため、海岸からは激しい艦砲射撃が実施された。
 マスカットに枢軸側の海軍はなく、僅かに魚雷艇数隻が駐留していたが、その部隊も8月から始まった空襲で既に港湾施設ごと破壊されて戦力を失っていた。

 マスカットは3日間の短い激戦の後に陥落し、早くは戦闘中から飛行場の再建が始まる。さらに連合軍の進撃は急速で、そして電撃的だった。目標はホルムズ海峡。
 ホルムズ海峡は、地図で見るとの実際に通れる場所の違いの大きい海峡の一つで、機雷で比較的容易く封鎖することが出来る。このため、枢軸側が機雷を敷設する前に周辺部を制圧してしまうのが目的だった。
 そして当時ホルムズ海峡は枢軸側の海上交通路だったため、まだ機雷で封鎖されていなかった。枢軸側としてはアラビア海が連合軍の手に渡ったため、アラビア半島や出来ればインドへの最後の海路が、ペルシャ湾奥からホルムズ海峡を抜けてペルシャ沖を通りパキスタンへと至るルートだった。そして6月にパキスタンのカラチに連合軍が上陸して、ホルムズ海峡封鎖の話しが出てきたが、ペルシャのアバダン油田の石油は、出来るだけタンカーでヨーロッパに運び込みたかった。このため、アラビア半島を廻って紅海へと入るルートを維持するため、ホルムズ海峡の封鎖は行われなかった。アラビア海でのタンカーの損害は無視できなかったが、苦労して陸路で地中海へと輸送するよりも大量に運べて安上がりな事が、この状況を作りだしていた。
 しかしマスカットに連合軍が上陸すると、流石に海峡を封鎖する事が決まる。しかし機雷の急速な敷設には機雷敷設艦が必要だが、既にペルシャ湾にある機雷敷設艦は連合軍の爆撃によりドバイの沖で沈没していた。ドバイの備蓄施設も破壊され、盛大な黒煙を吹き上げた後だった。
 このため連合軍がホルムズ海峡に入っても、空軍でしか防ぐ手段は無かった。だがその詳細を連合軍は知らなかったので、枢軸側が対応を協議しているうちにホルムズ海峡、そしてペルシャ湾岸へと押しよせた。

 1943年9月3日、多数の航空機がドバイを空襲し、さらに重爆撃機は欧州枢軸の空軍基地があるドバイに近いアブダビ、奥にあるダンマームの飛行場も空爆した。
 空襲にはカラチ、マスカットからの連合軍の様々な航空機が参加していた。そしてさらにオマーン湾の入り口近辺に、アデンを空襲した空母機動部隊がアッズでの補給後に再びアラビア半島沖合に戻ってきて陣取り、各地の空爆に参加しつつホルムズ海峡上空の制空権を奪った。1個航空師団に匹敵する部隊が突然現れては、現地枢軸軍では対処のしようがなかった。
 そして5日、強襲上陸部隊を載せた船団を伴った大艦隊が、何の妨害も受けずにホルムズ海峡を通過。6日にドバイ、アブダビ双方で上陸作戦を行う。この上陸作戦にはマスカットを飛び立った空挺部隊も参加しており、日本、自由イギリスの戦艦の艦砲射撃に支援された強襲上陸部隊と共に、マスカット以上の電撃戦で僅かな数の現地枢軸軍を蹂躙した。
 そして9月半ばまでに、連合軍の基地として一通り整備されてしまうと、もう枢軸側が手の出しようが無かった。
 この頃までに、ペルシャ湾の奥地にあるバスラには、インドからペルシャを通る遠い道のりを撤退してきた部隊を含めて、20万以上の枢軸軍が集結していた。地上部隊だけでなく、ヨーロッパからの増援もあって航空機も稼働機300機を数えた。とはいえ、戦闘機の多くは近在にあるアバダン油田を守るために動かすことは出来なかった。
 ここで重要なのは、ドイツ軍部隊が増えた事だった。ドイツ・アラビア軍団(DAK)と改称されたロンメル将軍の地上部隊に加えて、1個連隊以上のドイツ空軍部隊もバスラへと進出していた。イタリア軍も陸軍、空軍共に進出しており、欧州枢軸陣営としてはアジア戦線で初めて足並みを揃えたとも言えた。しかし現地での指揮権は完全に統一されなかった。基本的にはイギリス軍のオーキンレック将軍が総指揮官となるが、ドイツ軍はある程度自由に動くことが認められていたからだ。
 当然だが足並みは揃わず、中東の枢軸軍の足並みが乱れたのは、10月に入って連合軍がペルシャ湾の奥に進んできた時だった。


●フェイズ35「第二次世界大戦(29)」