●フェイズ38「第二次世界大戦(32)」

 連合軍の戦略構想の例えに「車輪(カートホイール)」と「万力(バイス)」がある。
 車輪とは、アメリカ、日本、英連邦、ソ連の四カ国の軍を4つの車輪に例えたものと言われ、北大西洋戦線、ロシア戦線、アジア戦線の三つから欧州を押しつぶしていくのが万力だ。
 この車輪は最初は噛み合わず、万力はむしろ枢軸側が連合軍を押しつぶす側だった。だが基礎的な国力、生産力、資源分布、人口などから、戦略的に見て連合軍の優位は明らかだった。欧州枢軸側の先端技術力の優位を挙げる者も少なくないが、戦争の決定打となる要素では無かった。そして1943年中に連合軍が地球を一周する交通網「アーシアンリング」を完成させたように、ファシズムに征服されたヨーロッパ世界は自らの世界に押し込められつつあった。
 しかし1944年の春を前にして、少しばかり停滞していた。
 世界最大の陸戦が行われているロシア戦線は、欧州枢軸軍のコーカサス撤退による戦線の引き直しで両軍が夏の間中動き回り、ドイツ軍がソ連軍に付け入る隙を与えなかったので、秋には戦線が安定していた。そして双方ともに防御態勢を取ったため、ソ連軍は43年の冬季反抗が実質的に出来なかった。そして厳冬期を迎えたため、ほぼ冬営状態だった。
 大西洋戦線は、2月の連合軍の攻勢が実質的に失敗して、アメリカ海軍の空母機動部隊は予想外の損害を受けていた。このため日本海軍を中心とした次の作戦が延期を余儀なくされ、欧州枢軸側に洋上に押し出す海軍力はないため、一時的な停滞状態となっていた。「車輪」は、最初の段階で躓いた事になる。
 そしてこの時期動いていたのは、北アフリカ戦線、もしくは地中海戦線だった。

 1944年2月初旬、東アジアから進軍した連合軍は、ついに地中海に達した。そして通常なら、次の進撃の準備を整えるのに時間がかかるのだが、連合軍というよりアメリカが産み出した兵站組織が、軍団に止まることを許さなかった。
 この時期、アメリカ軍、日本軍、自由英連邦軍が最も多く展開していたが中東戦線だった。しかもインド戦線、チャイナ戦線が終わって浮いた部隊が、続々と中東に押し掛けていた。そして連合軍は、先鋒を進む部隊を優先して臨時に機械化させて進めさせ、その後ろに鉄道もないのに太い補給路を作っていった。非常に贅沢に戦争をしているわけだが、戦時経済がフル回転しているアメリカ、日本からは無尽蔵といえるほどの兵器、車両、物資が送り込まれているので、これらを消費するためにも進まねばならなかった。何しろインド、中華戦線の消滅で、物資を浪費する戦線が無くなっていたからだ。
 そして本来なら人命軽視のような進撃は連合軍では避けられるのだが、巨大な兵站部隊とそれに加えて優秀な工兵部隊によって、進撃した先々ですぐにも飛行場が開設、拡張され、進撃を支える航空部隊も難なく展開したので、地上部隊は吹き飛ばされた枢軸軍を捕虜にして、占領作業を進めるのが主な任務のような有様だった。
 中東に展開していた欧州枢軸軍が何とか一息ついたのは、スエズを越えてエジプトまで逃げのびた段階だった。
 エジプトのスエズ運河の地中海側にあるポートサイドは、それまでインド及び中東戦線などアジア戦線を支えてきた一大兵站拠点であり、ナイルデルタ(三角州)の西にあるアレキサンドリアは艦隊集結地として利用されていた。
 このためエジプトには多くの兵器と物資があり、先に後退してきた部隊と増援部隊、増強された兵器により、一方的な制空権では無い場所だった。
 しかし同地域の連合軍は、圧倒的戦力だった。

 アラブ地域にあった連合軍の1944年2月頃の単純な兵力量は、空軍が3個航空艦隊(航空軍)と地上部隊100万人になる。しかもその後ろには、さらに100万の兵力と、3個航空艦隊が準備されつつあった。
 この時期の中東にあった主な航空部隊は、日本陸軍が遣印航空軍から改変された第三航空軍(1個航空艦隊規模)と、日本海軍の第十一航空艦隊(1個航空艦隊規模)、それにアメリカ陸軍航空隊の第5航空軍(1個航空艦隊規模)、自由英連邦空軍のアジア航空集団(半個航空艦隊規模)になる。
 これにチャイナから転戦しつつある日本陸軍の第五航空軍、アメリカ陸軍の第20航空軍が各所で再編成中または移動の途中だった。さらにアメリカ本土では第6航空軍(新設部隊)が、移動の準備を進めていた。さらには、チャイナ奥地を吹き飛ばした部隊を基幹とした、重爆撃機専門部隊である第8航空軍が戦略予備として移動準備中だった。英連邦軍も、オージーでの部隊編成を急いでいたので、さらに半個航空艦隊を地中海方面に増派予定だった。しかもアメリカ陸軍航空隊は、カリブで戦った部隊を基幹として、大西洋を押し渡る予定の大部隊が編成中だった。
 基本的にこの時期の連合軍の航空部隊は、30〜50機程度で大隊を編成する。日本軍の場合は、大隊を戦隊や航空隊と呼ぶ場合もある。部隊の最小単位は小隊または分隊で、初期の頃は3機小隊編成だったが、既に2機で分隊、4機で小隊という基本単位が戦闘機隊の主流となっていた。
 そして2〜3単位を束ねて上位組織になる場合が多いが、大隊(戦隊)から連隊を飛ばして旅団の単位になる場合もある。軍団という単位を用いる国もある。日本陸軍航空隊の編成だと、戦隊(大隊規模)→飛行団→飛行師団→航空軍になる。また、戦闘部隊に加えて連隊以上の部隊だと、偵察、輸送などの部隊が加わる事が多い。
 しかし部隊規模や名称は各国で様々で、2〜3単位で上位組織にならない事もある。さらに戦時なので、消耗があったり編成自体が変則化するため、実際と定数に差が開くことが多い。しかも国によって部隊規模が違ってくる。しかし一方で、編成表には載らない予備機(スペア)があるのが普通なので、最大で約二倍の機体数を保有する部隊もあったりする。日本陸海軍でも、戦争が進むに従って「愛機」ではなくその時状態の良い飛行機に乗る事が増えていた。特にアメリカからの貸与機を扱う場合、パイロットよりずっと数が多いのが普通なので愛機を持つことは希だった。
 連合軍に対して現地の欧州枢軸側の航空部隊は、イギリス本国のオリエント航空軍(1個航空艦隊規模)、ドイツの第3航空艦隊、イタリアのオリエント航空団(半個航空艦隊規模)になる。
 だが枢軸側は、日々の消耗と十分ではない補給状況のため、連合軍がほぼ編成表どおりの部隊なのに対して、半数から精々3分の2程度の実働数だった。しかも欧州枢軸側の部隊編成の方が小柄だった。このため単純な数字だと連合軍:枢軸軍=3.5:2.5が、実数では連合軍:枢軸軍=3.5:1.2程度になってしまう。つまり約3倍の戦力差で、この上に基地や補給の状況が上乗せされる。

 そして日々の消耗で、劣勢な側で最も損害が大きくなるのがパイロット(搭乗員)だった。
 兵力が多い側は、交代で任務に就くので後方で十分に休息と再訓練をして、さらに部隊を整えた上で戦場へと戻る事ができる。しかし少ない側は、戦線を支えるために負傷以外で後方に下がることが出来ず、日々の戦いで心身共に消耗して、実力を十分発揮できない中で撃墜されていく。そしてベテランの数は減る一方なので、戦線を支えるパイロットの多くが後方から補充された新人となる。そして戦場で落とされるのは殆どの場合が新人で、さらに劣勢な側は熟練者が日々の戦いで1人また1人と欠けていく。前線に残るのは補充された新人ばかりとなり、その新人は次々に落とされて熟練者はほとんど育たない。戦いが続く限りこの悪循環から逃れる事はできず、こうした戦いを航空撃滅戦と呼ぶ事がある。航空撃滅戦とは、単純な兵器の消耗よりもパイロットの消耗のことを主に示している。
 そして1942年に入ってからの欧州枢軸軍は、ロシア戦線以外で劣勢で消耗する側だった。中でも1942年夏以後のインド戦線、中東戦線での数の上での消耗は激しく、44年になり戦場が地中海へと移行しつつあっても建て直しが出来ていなかった。ドイツ空軍にはけた外れのスコアを持つエースパイロット(撃墜王)が何人もいたが、逆に枢軸軍パイロットの実に90%がほとんど初陣で撃墜されていた。
 対して連合軍側は、適度に後方で休養する上に、ある程度戦果を挙げると教官など後方勤務に従事するため、熟練パイロットはそれなりに多いが飛び抜けたエースパイロットはほとんど居なかった。特にアメリカ軍にその傾向が強く、日本陸海軍はドイツとアメリカの中間ぐらいのエースパイロットが何人かいた。日本海軍だと、「セイロンの魔王」や「烈風虎徹」などの名が後世にも残されている。

 話しを戻すが、中東から北アフリカにかけての連合軍は、44年半ばまでに地上戦力200万、航空部隊7個航空艦隊の体勢を作る予定だった。当然補給体制も整えており、年内に欧州本土にまで橋頭堡を作る積もりでいた。
 これに対して主にエジプトに展開する欧州枢軸軍は、補給を受けても現状では敗残兵に等しくやせ細っていた。だが、大幅な増援予定を含めると、同時期までに地上部隊60万、航空部隊3個艦隊(完全編成)に強化される筈だった。
 しかし2月の時点では、エジプトには元から居た警備部隊を含めても10万に届いていなかったし、重装備も多くを失っていた。航空隊は先に後退したため健在だったが、日々続く航空撃滅戦の前に青息吐息だった。中東にまでいかなかった物資と兵器で補っても、絶対的に兵士の数が足りなかった。
 両者が完全戦力で揃ったと仮定すると、地上戦では攻者三倍の原則に従えば何とか枢軸側が防戦可能だが、数学的なランチェスターモデルが採用される航空戦では、連合軍は20%以下の損害で枢軸軍を完全撃破できる計算になってしまう。しかし枢軸軍には、これ以上の増援をエジプトに送り込むことは無理だった。大西洋では、英本土、モロッコの航空戦力を引き抜けば、連合軍の肥大化した空母機動部隊に蹂躙されるし、ギリギリの戦いを続けているロシア戦線から引き抜くことも無理だった。
 ちなみにこの時期欧州枢軸各国の大まかな空軍戦力は、ドイツが3個半、イギリスが3個、フランスが2個、イタリアが1個半、その他合わせて半個の合計10個半の航空艦隊を持っていた。この数字は実数で、紙面上ではもう少し規模は大きくなる。
 対して連合軍の航空戦力は、海軍の空母機動部隊を含めると、欧州枢軸側の2倍以上の戦力になる。そしてオリエント戦線とも当時言われた中東・エジプト地域に、余剰航空戦力の多くを注ぎ込んで圧倒的な航空優勢を作り上げてようとしていた。これは、ロシア戦線以外で大規模な航空部隊を配備できるのが、同地域しか無くなっていたためだった。そして連合軍は、同地域での航空撃滅戦による欧州枢軸側の消耗を図ろうとも企図していた。
 また、敵の抵抗が弱い場合は一気に進軍し、北アフリカ東部、東地中海を越えてイタリアを目指す予定だった。最短のスケジュールだと、年内にはイタリアに侵攻している予定だった。
 そして中東での戦線崩壊の打撃から立ち直れない欧州枢軸側は、大規模な増援を決定しつつも場当たり的な防戦以外の選択肢が見えない状態だった。これはヒトラー総統がいくら獅子吼しようとも、シュペーア軍需大臣が辣腕を発揮しようとも覆らない現実だった。

 しかし枢軸側にも優位な点はあった。
 連合軍が抱える長大な補給路に比較して、欧州枢軸側の補給路が非常に短くなったことだ。連合軍の無数の爆撃機の存在を考えると、東地中海ですら安全とは言えなくなっていたが、インドやカリブまで補給路が伸びていた頃とは大きな違いだった。
 だが欧州枢軸が思った以上に、連合軍に負担は無かった。特にインド洋方面は、インド洋から欧州枢軸側が追い出されていたので、距離の問題以外で連合軍に新たな負担は少なかった。しかもほとんどが海路なので、距離が伸びた事による不利はほとんど無かった。強いて不利な点を挙げるなら本国との距離だが、既に途切れることなく太い補給線が敷かれているので、本国から前線までかかる時間以外での不利は見られなかった。
 それでも欧州枢軸側の補給負担が大きく軽減されたことは、今までとの大きな違いだった。
 そして欧州枢軸軍は、まだ保持されていた紅海のアフリカ側からスエズ運河経由で通商破壊部隊を送り込もうとしたが、すぐにも連合軍はスエズ運河のユーラシア大陸側(アラビア半島側)まで進んできていた。また、アレキサンドリアより東の欧州枢軸軍の拠点は、ことごとくが重爆撃機の爆撃対象とされ、補給線がアフリカ大陸側の細い陸路だけとなった紅海沿岸の基地群(というほど基地は無かったが)は、補給の途絶で短期間で沈黙していった。
 アラビア海最大の拠点のアデンには潜水艦がかなり残っていたが、スエズ運河が使えなくなった段階で、既に敵地となった喜望峰回りで欧州に戻るか、戻るだけの航続距離のない潜水艦などの艦艇は、人員だけ陸路でアフリカ大陸沿いに撤退して現地で破壊するより他無かった。この中で、航続距離が十分ではない中型潜水艦が多かったイタリア海軍の潜水艦は、ほとんどがアデンで破棄された。爆撃で半ば廃墟となったアデンの港からヨーロッパに向けて脱出できたのは潜水艦だけで、それも途中の攻撃で何隻かが失われていった。
 サハラ以南のアフリカは、南アフリカが寝返って以後いっきに連合軍に陣営が変わっていっているので、潜水艦以外が逃げ出すことが出来なかった。小さなヨットで船出して、中立国の船を装いつつ無事に帰投した話しがブリテン島で花を咲かせたが、そのような冒険まがいの航海でなければ、枢軸側がインド洋から逃れる術はなくなった。
 紅海沿岸部も、もともと兵力と拠点が無きに等しいほど乏しかったので、一度空爆を受けて破壊されてしまうと、補給も途絶えているため残存兵は撤退するより他無かった。それに抵抗するにしても、そのための装備が無かった。スエズ運河が塞がれたので、ボート一隻通すこともできず、中流域から滝が各所にあるナイル川を輸送路に使うことも難しかった。
 そして何より、1944年3月半ばになると、連合軍がスエズ運河を渡るためにシナイ半島を中心に兵力を振り向けてきたので、もう中東やインド洋での妨害どころではなかった。

 連合軍がスエズ運河を渡るのに使った手法は、一見オーソドックスな渡河作戦だった。
 敵の対応能力を上回る各所に陣取って浮橋の建設を開始し、複数箇所から一気に渡ろうという算段だった。
 当然枢軸側は阻止しようとしたが、1500キロ離れたペルシャ湾奥のバスラからは重爆撃機の群れが押しよせて全てを吹き飛ばしはじめ、400キロも離れていないベイルートからは戦闘機が無数に飛来して制空権を確保した。爆撃はポートサイド、アレキサンドリアなどエジプト沿岸の港全てに行われるため、枢軸側はせっかく送り込んだ船団から物資を受け取ることが難しかった。しかも機雷まで空中投下してくるので、空襲を含めて艦船の損害も相次いだ。
 ベイルートにはカウンターの空襲も仕掛けたが、戦力差のため損害ばかりが多くてすぐに尻窄みになった。
 それでも3月半ばまでに、枢軸側は約25万の兵力をエジプト北東部に配備した。多くが補充と増援で、中には最新鋭の装備を持つ部隊もあった。国別で見ると、インドから下がり続けてきたイギリス軍が一番多く、全体の約半数を占めていた。「アフリカ軍団」とさらに改名された現地ドイツ軍は、補充と増援を受けても6万程度にまでやせ細っていた。ロシア戦線を優先したため、満足な増援が遅れなかったのだ。そして残りが、新たに送り込まれたイタリア軍になる。これ以外に、隣接するリビアには約20万のイタリア軍が居ることになっていたが、多くはファシスト民兵組織の黒シャツ隊で戦力にならず、残りも古くから植民地に居座る戦いを忘れたような警備部隊なので、近代戦では何の力も無かった。彼らの多くは、ただ補給を圧迫するだけの存在だった。
 
 連合軍がエジプトに第一歩を記したのは、1944年3月18日だった。
 最初に渡ったのは、浮橋建設を半ば囮とした水陸両用戦車部隊だった。本来は砂浜に上陸する設計だった水陸両用戦車部隊の後ろには、こちらも上陸作戦に使うLVT(アムトラック)が多数続き、あっと言う間に機甲大隊規模の部隊が枢軸側が手薄な場所に溢れた。そしてさらに後ろからは、簡易ボートなどに満載された兵士達が、次々に運河を越えた。作戦を行ったのも、日本陸軍で上陸作戦専門部隊とされる歴戦の第五師団(機械化師団)だった。
 これには欧州枢軸軍も意表を突かれたが、渡河作戦を多数の上陸作戦用装備で行ったのは、後にも先にもこの作戦だけだった。
 そして橋頭堡が確保されると、その場に別の浮橋の建設が進んだ。歴戦の連合軍将兵にとって、直近で砲兵の支援をあてに出来る上に浮橋で部隊を送り込めるので、海岸への上陸作戦よりも気楽なものだった。

 渡河を確認すると同時に、空挺部隊が少し後方の各所に大規模な空挺降下作戦を決行した。
 この空挺作戦に参加したのは、インドから転戦してきた日本陸海軍の空挺部隊(※どちらも連隊規模に拡大されていたが、名称は空挺団のままだった)と、アメリカ陸軍の第82空挺師団の1個旅団、そして自由英連邦軍の1個空挺大隊だった。
 初めて輸送グライダーも使われ、空挺隊員と装備を載せた多数の輸送機以外に、重爆撃機に曳航された輸送グライダーが多数が実戦初参加した。この輸送グライダーは、大戦初期にドイツ軍が使ったものを見た自由イギリスの発案で作られ、カナダで量産されたものだった。珍しいことに、アメリカでは一機も生産されていない。
 同空挺作戦は、連合軍が行った初の大規模空挺降下作戦であり、実験的要素も強かった。基本的には、大規模渡河作戦での後方攪乱と要地の早期占領が目的だが、大規模な空挺降下作戦そのものが出来るのかを確かめるのが本当の目的だった。
 そして空挺降下は大成功だった。
 欧州枢軸軍は、この段階での大規模空挺作戦を全く予測してなく、残地諜報者から大型機集結中の報告を受けても港湾部の大規模空襲を警戒していた。報告自体が正確に伝えられなかったのもあるが、そんなに早く連合軍が大規模空挺作戦の準備をしてきたとは考えがたかったからだ。多数の輸送機の存在も、渡河作戦に際しての万が一の空中補給用だと考えられていた。実際、ペルシャ湾からベイルートルートでは、車両以外に空中輸送機も多数使用されていた。
 だが、実際は違っていた。ベイルートに臨時の拠点を置いた空挺部隊が、数百機の輸送機、重爆撃機、グライダーを短期間で集めて飛び立たせ、そして戦闘機部隊を露払いとして地中海を越えて一気に降下してきた。
 枢軸軍将兵が、多数の輸送機から無数の落下傘が花開くのを口をぽかんと空けて見上げたという逸話も多く、完全な奇襲攻撃となった。エジプトの民衆の一部などは、アッラー以前の古代の神々の兵士達が舞い降りてきたと勘違いしたとも言われた。
 降下した各空挺部隊は、降下の際にかなり散らばっていたが、効果的な抵抗がないので素早く各部隊ごとに集まることができた。そしてすぐにも要地を占領したり街道を封鎖したり、破壊活動を開始した。また空挺部隊の効果を確認した地上では、既に渡河が第二段階に入り、本格的な歩兵部隊がエジプト側に渡り始めていたので、軽戦車や装甲車で編成された威力偵察部隊が、弾薬と重装備が少ない空挺部隊に合流するべく突進を開始した。

 激しい空襲、重砲弾幕、予期せぬ水陸両用車両の群れによる渡河に加えて、後方に大規模空挺降下までされたため、現地欧州枢軸軍は完全に浮き足立ってしまう。
 運河の対岸からは無数の砲火に支援され、次々に浮橋が伸びつつあり、もう止めようが無かった。そして本格的な戦車部隊までが対岸に渡るに及び、最前線の枢軸軍の士気が崩れた。
 そして一度崩れると建て直しが効かなかった。
 渡河されたのも複数箇所なので、枢軸軍が後方に待機させていた機甲部隊による機動防御も手数が全く足りなかった。しかも依然として激しい空襲が続くため、機甲部隊そのものが遮蔽のない場所で移動も十分出来なかった。
 連合軍は実質的に僅か1日でスエズ運河を渡り、その勢いのままエジプトへとなだれ込んだ。
 この作戦を成功させたブラッドレー将軍は、その手腕を実施面で認められ、パットン将軍を抜いて軍集団司令へと抜擢される事になる。

 スエズ運河渡河からわずか3日後、体勢を整えた連合軍は、すぐにも機甲旅団を先頭に立ててナイル川流域への進撃を開始する。既にスエズ各所にいた枢軸軍の主力部隊は後退しており、ポートサイドでは逃げられなかった艦船が自沈していった。一部はスエズ運河を通行不能にするために運河での沈没を試みたが、即席の思いつきだった事もあり、運河閉塞を強く警戒していた連合軍の激しい空襲で阻止された。
 エジプトのナイル・デルタは、アレキサンドリアとポートサイドを底辺として、カイロを中心とする三角形だと考えると少しは分かりやすいだろう。そしてこの三角地帯は、砂漠の中にあって唯一の緑豊かな場所で、古代の昔からアフリカ随一の穀倉地帯だった。
 そしてエジプト王国自体は、スエズ運河が通じる頃からイギリスの実質的支配を受けるようになり、辛うじて独立を維持するも保護国となり植民地状態だった。このため反イギリス感情が強いが、力で押さえ付けられている形だった。しかし力のタガは外され、連合軍が雪崩を打って押しよせた。
 欧州枢軸側は、現地ドイツ軍が市街戦を行うよう進言したが、病気療養中でロンメル将軍の姿がないため、イギリスのオーキンレック将軍の意見が是とされ、市街戦を避けることになる。イギリス本国政府としては、市街戦を行ってこれ以上現地民衆の心証を悪化させては、戦後がどうなるにしてもイギリスがスエズの利権を保てなくなると考えてのことだった。
 連合軍では、エジプト自体には解放という考えがアメリカ軍、日本軍の間で強かったので、市街戦は出来るだけ避け枢軸軍が残されていた場合は包囲して降伏を促した。
 そして一週間もすると、ナイル・デルタから枢軸軍の姿は見えなくなった。カイロほとんど無血開城で、総督府には連合軍各国の旗が翻り、エジプトは連合軍の占領下に置かれることが宣言された。
 一方、ナイル川流域でほとんど戦わなかった枢軸軍は、殿を受け持った一部以外は、連合軍が占領作業に忙殺されている間に、少しでも西へと逃れた。アレキサンドリアから迎えの高速艦艇で闇夜に紛れて逃げた者もかなりいたが、残りは車両に乗っての辛い逃避行だった。この脱出には以前はカルカッタ(コルカタ)にいた兵士もおり、イギリス植民地支配の象徴だったカルカッタ、カイロの二つが陥落するのを目撃した生き証人となった。

 そうして懸命に逃れる枢軸軍に対して、連合軍の追撃は容赦がなかった。熟練兵を1兵でも帰さない事が、その後の作戦の円滑化につながるからだ。
 カイロ、アレキサンドリアを後にした欧州枢軸軍にとって、まともな補給が受けられる場所はイタリア領リビア東部沿岸にある港湾都市トブルクだった。アレキサンドリアからだと、直線距離で約700キロ。車両に乗っているとはいえ、短期間で移動できる距離では無かった。しかも移動は度々空襲で邪魔され、車両が破壊され立ち往生した者達は、自然の猛威から生き延びるために、追いかけてくる連合軍の先遣部隊に降伏するより他無かった。
 しかし、トブルクにたどり着いた兵士達にも不幸が待ちかまえていた。トブルクが遠望できた時、街から激しい煙が噴き上がっていたのだ。
 これは、いち早くスエズ運河を越えた、連合軍の水陸両用戦部隊が、僅かな護衛と航空隊の援護を受けて、中継港でしかなく防備がほとどないトブルクに強襲上陸作戦を決行したために発生した煙だった。
 上陸してきたのは、日本海軍陸戦隊と自由英海軍コマンドの合わせて1個旅団に過ぎなかったが、現地を守るイタリア軍は形ばかりの沿岸砲と高射砲を除いて、重装備をほとんど持たなかった。移動できる戦力の装備は、植民地警備用の軽装甲車と機関銃、迫撃砲が精々だった。黒シャツ隊がいるので数だけは多かったが、民兵という名の元ゴロツキがほとんどの彼らは、連合軍が上陸するとその場でベッドのシーツで作った白旗を掲げてしまう。黒シャツ隊以外の部隊も、植民地でぬくぬくとしているだけの警備部隊なので、一般部隊に比べると腑抜けも同然だった。初めての大規模空襲と巡洋艦からの艦砲射撃で腰を抜かしてしまい、次々に降伏した。抵抗としては、空に向けて銃弾を一発でも撃てば良い方だった。
 この段階で連合軍がこれほど大胆な作戦に出たのは、リビアの実状を良く知っていたからだ。情報は、先に降伏して自由イタリア委員会に属するイタリア人達や、アメリカに移民したばかりのイタリア移民からもたらされてたものなので、ほぼ正確だった。しかも最初から内通者がおり、連合軍の作戦は円滑という以上に速やかに進められた。その証拠に、降伏したイタリア兵の何割かは、そのまま自由イタリア軍に参加していった。
 イタリア人の多くは、既に戦争の大局が見えたと考えたので、速やかに行動に表したのだ。これを腑抜けや変節者、機会主義者と非難する者も少なくないが、そもそもイタリア人はドイツの戦争に巻き込まれたと強く考える者が多かった。その上で既に十分義理は果たしたので、祖国が戦場となる前に自分たちの戦争を止めようと考えていたからだった。つまりは、第二次世界大戦のような総力戦や殲滅戦争などという考え自体が異端な考えで、イタリア人の考えの方が欧州人本来の考え方とも言えるだろう。

 命からがらトブルクまで下がってきたエジプトにいた数万の欧州枢軸軍だが、トブルクを迂回してさらに500キロ近く西のベンガジまで後退するより他無かった。しかし移動のための燃料がすでにほとんど無かったので、全てが後退することは無理だった。このままトブルクへの援軍に駆けつけるにしても、迅速な後退の邪魔になる重砲などは殆どエジプト領内で破棄し、当座の燃料と最低限の弾薬しか持っていなかったので、簡単に撃破されると考えられた。このためさらに重装備、戦車など燃費の悪い車両を棄てて、残った燃料と車両でベンガジを目指すことになる。
 流石にというべきか、それ以上連合軍が攻撃の手を伸ばすことは無かったが、これでエジプトは完全に陥落したも同然だった。主要都市と港湾を押えたら、砂漠での勝負は付くからだ。しかも一週間もすると、カイロ方面から快速部隊がトブルクに入ったので、枢軸側が巻き返そうとした動きに先んじていた。
 だが、トブルクの連合軍の数が少ないという情報を受けた欧州枢軸側は、これ以上侵攻を受けないために、トブルクに展開する連合軍船団に対する攻撃を行おうとした。地中海での上陸船団の数は流石にまだ少ないだろうと予測されたので、トブルクの部隊を叩くことで侵攻を阻止しようとしたのだ。
 攻撃は艦隊による夜襲と決まった。昼間だと、カイロ方面から飛来する空軍部隊の激しい空襲が予測されたからだ。
 しかしここで枢軸側は、連合軍の攻め寄せる時の行動パターンについて少し考えるべきだったかもしれない。

 大幅に近代改装された旧式戦艦《カイオ・デュイリオ》《アンドレア・ドリア》を中核とするイタリア海軍の高速打撃艦隊は、自分たちの庭でもある地中海を快速を活かして進軍し、連合軍の予測よりも早くトブルクへのカウンター攻撃を実施した。
 しかしトブルク沖合に陣取っていた連合軍艦隊は、報告にあった巡洋艦だけでは無かった。確かに日本海軍の大型軽巡洋艦《鈴谷》《熊野》を中核とする日本海軍の地中海先遣艦隊の姿はあったが、もう一つ《イタリア》と《コンテ・デュ・カブール》を中核とする自由イタリア艦隊の姿もあったのだ。
 連合軍としては、イタリアの植民地を攻めるのに際して、今までどおり同じ国の自由軍を先頭に立てて大義名分を整えただけだったのだが、ここに同士討ちともいえる戦闘が発生する。
 しかも両者は最初、相手の正体が分からなかった。
 互いにレーダーで敵影を捉えるが、特にタラント湾から急行したイタリア艦隊は、眼前に展開する高速大型艦を主力とした艦隊が、沈んだか破壊された筈の自国の戦艦だとは考えなかった。連合軍も、これほど早くリビアに攻め込む予定が無かったので、自由イタリア委員会の存在こそ公表していたが、それに属する軍隊についての詳細は伏せていた。これは、リビア侵攻に合わせて公表して、イタリアに心理的ダメージを与えようとしていた為だった。
 だが公表前にイタリア艦隊は来てしまい、知らないまま戦闘へと突入していった。対する自由イタリア艦隊は、接近する敵の詳細こそ不明だが、相手がイタリア艦隊だとは考えていた。

 「トブルク沖海戦」は、両者の錯綜の中で始まったが、自由イタリア艦隊は最初は同胞への攻撃を躊躇していた。しかし相手に自分の正体を明かす手段もなく、先にイタリア艦隊が攻撃を開始してきたので仕方なく応戦を開始する。しかも彼らの後ろには、連合軍の船団の一部がトブルク港または沖合で停泊しているので、連合軍としてここを突破されるわけにはいかなかった。また日本艦隊はもっと早く動き始めており、最新型の射撃レーダーを用いて矢継ぎ早に敵水雷戦隊の隊列に6.1インチ砲の猛射を浴びせ始めていた。
 日本艦隊は、今までの戦いに加えてアラビア海での通商破壊戦で戦い慣れているため、戦闘のテンポが早い上に動きが的確で、編成は軽巡洋艦と駆逐艦だけだが戦闘のイニシアチブを握っていた。そして自由イタリア艦隊も、友軍に合わせて行動せざるを得なかった。
 これで双方のイタリア艦隊が火蓋を切ったが、他の連合軍艦隊に合わせて訓練に明け暮れていた自由イタリア艦隊の方が、どちらかと言えば動きが機敏だった。イタリア艦隊の方は、敵に想定外の戦艦がいたことに動揺し、慣れない夜戦と言うこともあって及び腰になっていた。
 そうした中で互いに星弾を撃ち、双方の姿を目視でも捉える。これでイタリア艦隊は、戦っている相手が同じイタリア戦艦である事を悟る。見慣れた瀟洒な姿を見間違える筈も無かった。これで士気を無くしてしまい、特に戦果もないままそのまま闇夜へと引き返していった。だが、駆逐艦数隻が日本艦隊に蜂の巣にされて沈められただけで、その後も連合軍の追撃は続いた。
 追撃したのは、主に敵潜水艦から友軍艦隊を守るために先遣艦隊と共に地中海入りした護衛空母の艦載機だった。

 高速タンカーから改造した日本海軍の護衛空母《大鷹》《飛鷹》《隼鷹》は、それぞれ約30機の艦載機を搭載しており、搭載機は既に旧式化している「零戦」とまだ現役の「天山」だった。「天山」は対潜哨戒用だが、過去の戦例から母艦には最低限の対艦装備も搭載していた。そして再び敵艦隊の攻撃を受けないために、夜明け前にレーダー搭載機を先導に攻撃隊が発進し、逃げるイタリア艦隊を目指した。
 そしてトブルクという敵勢力圏となった場所まで踏み込んでいたイタリア艦隊は、シチリア島からの戦闘機隊の行動圏内に入る前に、日本軍編隊の攻撃を受ける。
 敵が既に空母まで展開しているとは予測していなかったイタリア艦隊は混乱し、隊列を縦陣のまま全速力で逃走を開始した。このため日本軍攻撃隊は対空砲をあまり気にすることなく、適時射点について雷撃を実施した。
 この雷撃で旧式戦艦《カイオ・デュイリオ》《アンドレア・ドリア》は、共に航空魚雷2発を被弾。それでも戦艦だったため、最高速度は落ちるも航行に支障はなく、そのまま逃走を続けた。そして敵が一目散に逃げる様を最後まで偵察すると、最後の日本軍機がイタリア艦隊上空から去っていった。
 これが「リビア沖海戦」で、二つの小さな海戦は積極的な反撃に出たイタリアの敗北で幕を閉じた。そしてこの戦闘は、連合軍の進撃速度の早さを欧州枢軸側に思い知らせる事となった。そればかりか、東地中海の制海権すら失ったようなものであり、イタリアの受けた衝撃は非常に大きかった。

 そのすぐ後、欧州枢軸陣営は緊急会議を開いて当面の防衛策を決めた。
 クレタ島の増強と、シチリア、リビア西部、チュニジアの三角地帯の絶対防衛圏の設定が主なところで、連合軍をヨーロッパに進ませない戦力の再配置が急がれることとなった。
 絶対防衛圏が設定されたのは、ここを突破されてしまうと西のモロッコ方面の主補給路が途絶する上に、地中海全体の制海権を事実上失ってしまうからだった。そして地中海の制海権を失えば、ヨーロッパ世界そのものが「柔らかい下腹部」を無防備に晒してしまう事になる。
 そして、この決定によりリビア東部のベンガジは半ば放棄されることになったため、カイロから後退を続けていた欧州枢軸軍の残存部隊は、さらにリビア西部のトリポリまで移動を強いられることとなった。
 そして1944年の4月初旬にはリビア東部全体が連合軍の占領下となり、ベンガジに航空拠点を構えた連合軍は、航続距離の長い戦闘機を護衛としたさらなる航空撃滅戦を継続した。
 もう枢軸軍には下がって良い場所は無かったが、連合軍の手はまだまだ先へと伸びつつあった。



●フェイズ39「第二次世界大戦(33)」