●フェイズ40「第二次世界大戦(34)」

 1944年5月末、北大西洋上に再び連合軍の大艦隊が出現した。
 と言っても、アメリカ海軍ではない。アメリカ海軍大西洋艦隊は、同年2月に空母機動部隊(TF.28)がモロッコ攻撃で受けた傷を癒し、さらに新造艦を迎え入れて編入中のため、各所に展開するハンターキラー、米本土とダカールを往来する護送船団、各所に展開する潜水艦だけだった。「だけ」といっても、どれも欠かすことが出来ない戦力であり、それだけでも総数数百隻に達するが、打撃力には欠けていた。
 そして新たに出現した艦隊は、旭日旗つまり日本帝国海軍の軍艦旗を誇らしげにはためかせていた。
 つまり日本海軍の大西洋艦隊主力部隊だった。

 1944年の初夏の頃、日本帝国海軍は都合半年近くかけて移動と再編成、さらに新規戦力の迎え入れを行い、陣容と展開地域が以前とは全く違うようになっていた。
 聯合艦隊司令部は、1942年4月に横須賀に建設された堅固な地下司令部施設に常設され、かつてのように聯合艦隊司令長官自らが陣頭指揮に立つことは無くなった。戦争が完全に世界規模になったため、一隻の軍艦で戦況を把握して命令を出すことが出来なくなったからだ。また、1943年9月に大規模な人事異動が実施され、人事面でも陣容が一新した。聯合艦隊司令長官は1939年秋から丸四年務めた山本五十六から、堅実さが評価されることが多い古賀峰一大将に交代した。参謀長以下の人員も大幅に変更され、従来よりも情報を重視して航空戦に長じた人材が多く登用された。
 なお、山本五十六は新たに軍令部総長となったので、その後も海軍実戦部隊への強い影響力を持ち続けた。そして政治力の強い山本提督が聯合艦隊から軍令部に異動したことで、海軍の命令系統がようやく本来の形に戻ったと言われることも多い。
 そして聯合艦隊実戦部隊は、艦隊を「第一」などの番号で呼ぶことは少なくなり、「大西洋艦隊」などの「方面艦隊」をまず置いて、その隷下に用途に応じた各艦隊を配備する形となった。聯合艦隊指揮下にある護衛艦隊や潜水艦隊は方面艦隊と同格の組織だったが、それぞれの方面艦隊の指揮下にも組み込まれていた。
 この時期の「方面艦隊」は「小さな聯合艦隊」であり、戦争が始まるまでの聯合艦隊に近い役割を持っていた。そして一方面艦隊が聯合艦隊ほどの陣容を持つように、聯合艦隊の規模は異常なほど膨れあがっていた。そして「方面艦隊」は、大きく「大西洋艦隊」と「遣欧艦隊」に分けられていた(※他にも日本本土近辺にいる練習艦隊としての「内海艦隊」と、「護衛艦隊」、「潜水艦隊」がある。)。それぞれの前線の艦隊司令長官は、大西洋艦隊が引き続き野村大将で、遣欧艦隊は東アジアで陣頭指揮に当たった近藤大将が、一度実戦を退いた後に43年9月に就任していた。中将以上が一度前線指揮をしたら後方配置になるのが日本海軍の慣例だが、連合軍としての立場から歴戦の指揮官として他国からの信頼も厚い近藤大将が指揮官となる方が何かと都合が良かったからだ。また「遣欧艦隊」は、日本以外の海軍部隊も指揮下に置くので、連合軍としての指揮系統の関係からも大将が指揮を執らねばならなかった。
 そして洋上での決戦場と目された大西洋に、聯合艦隊主力が結集された。以下が、1944年5月時点での大西洋艦隊・第一機動艦隊の陣容になる。

 日本海軍・大西洋艦隊

・第一機動艦隊 :小沢中将
 ・第一部隊(小沢中将直率)
 CV《大鳳》CV《神鳳》(艦載機:約180機)
 CVL《龍驤》CVL《龍鳳》CVL《祥鳳》(艦載機:約90機)
 BB《金剛》BB《榛名》
 FA《涼月》FA《初月》FA《若月》
 CL《仁淀》 DD:15隻

 ・第二部隊(西村中将)
 CV《赤城》CV《加賀》(艦載機:約150機)
 CV《蒼龍》CV《飛龍》(艦載機:約120機)
 CVL《千歳》CVL《千代田》(艦載機:約60機)
 BC《鳥海》BC《摩耶》
 CL《利根》CL《筑摩》
 FA《霜月》FA《冬月》
 CL《阿賀野》 DD:14隻

 ・第三部隊(角田中将)(※旧第五艦隊)
 CV《翔鶴》CV《瑞鶴》(艦載機:約150機)
 CVL《日進》CVL《瑞穂》CVL《瑞鳳》(艦載機:約90機)
 BB《高雄》BB《愛宕》
 FA《秋月》FA《照月》FA《新月》
 CL《大淀》 DD:16隻

 ・第二艦隊(栗田中将)
 BB《大和》BB《武蔵》
 BB《長門》BB《陸奥》
 BB《比叡》BB《霧島》
 CG《妙高》CG《那智》CG《足柄》CG《羽黒》
 CL《矢矧》 DD:16隻

 ・第八艦隊(五藤中将):ダカール駐留
 (旗艦:CL《香取》)
 CG《青葉》CG《衣笠》CG《加古》CG《古鷹》
 CL《酒匂》 DD:12隻

 ※直轄の潜水艦隊、海上護衛部隊は割愛。

 見て分かるかもしれないが、この時期の日本海軍が有する艦艇のほとんどが集結していた。
 編成上だと戦艦12隻、高速空母8隻、軽空母8隻、その他合計124隻になり、このうち第八艦隊は共に行動しないが、それでも合計で100隻を越えている。艦載機総数は常用だけで約850機で、補用機を加えると1000機近くなる。この上に、多数の戦闘補給艦、高速タンカー、護衛空母を有する支援部隊が後方から支援する。アメリカ東海岸の一角は、日本海軍の艦艇が完全に「占領」している状態だった。
 戦闘補給艦は、前線で空母機動部隊への補給を専門に行う当時としては画期的で特殊な補給艦で、日本海軍しか保有していなかった。最初は来るべき欧州大戦に備えて《剣埼》《高崎》が建造されたが、第二次世界大戦に参戦が決まると続々と計画されていった。中でも《剣埼》《高崎》と改良型の《足摺》《塩屋》《洲崎》は基準排水量1万トンを越える大型艦で、外観の平凡さと異なり中身は軽空母並の贅沢で複雑な構造の装備を有していた。主な積載物は航空機用燃料、航空機用の弾薬、魚雷など危険物ばかりなので、複雑な艦内構造は空母に準じる贅沢さだった。しかも戦争が進んだこの時点でも、まだ日本海軍しか有していない希少種だった(※アメリカ海軍は、戦争が始まってからより大型艦を複数建造開始している)。
 しかし戦闘補給艦は、重油の補給能力が無かった。そのため建造されたのが、航行しながらの洋上補給能力を持つ高速給油艦の《風早》《速吸》などの艦になる。この給油艦は護衛空母の船体にも流用された優秀船だが、戦争と艦隊の拡大に伴い設計を簡易化しつつ可能な限り多数が建造された。空母機動部隊に随伴できる給油艦が、1隻でも多く必要とされたからだ。最盛時のアメリカ海軍などは、一つの補給艦隊に30隻もの給油艦を所属させたりもしている。日本海軍でも、アメリカからの貸与艦などを加えて20隻以上の高速タンカーを前線近くで運用することになる。補給艦隊の指揮官にも、中将が充てられる重要さだった。 

 加えて、前線並に努力が向けられたのが、前線近くの拠点維持だった。戦争が進むに連れて、戦場は日本本土から離れていった。大西洋方面だとアメリカから日本が行う以上の潤沢な補給が受けられたが、インド洋では半分以上を自力で何とかしなければいけないし、アメリカに頼れないものも少なくなかった。
 そうした中で大活躍したのが、工作艦だった。最初から工作艦として設計された《明石》《三原》《桃取》は、動く海軍工廠と言われたほどで、シンガポール、アッズ、アレキサンドリアなどその時の前線拠点で必ず見られた。その能力はアメリカ軍も高く評価したほどで、欧州枢軸軍は最重要攻撃艦艇に指定していた。専門艦艇以外にも、主に戦時標準船を改造した特設工作艦も複数整備され、専門艦の補佐に当たった。さらにアメリカ軍と同様の浮きドックまでが整備され、10隻1セットの浮きドックは工作艦と共に前線を支える事となる。浮きドックは、修理よりも船底についたカキを落とすためにフル稼働していた。

 また、将兵達がある意味で工作艦以上に重視したのが給糧艦だった。
 日本海軍における給糧艦とは、単に食糧を運ぶ船ではない。もちろん生鮮食品を運ぶ船は重要であるが、戦争中は遠方に多数運ぶ必要性から冷凍船などが徴用されたり戦時標準船の一部を改造して多数が整備された。給糧艦の最も重要な役割は、食事面での将兵の慰撫にあった。
 「動く甘味工場」などと呼ばれたように、保存の利かない甘味(スイーツ)を前線の将兵供給する為の設備と人員が満載で、冷凍船としての機能や生鮮食品の運搬が脇に置かれたような状態で任務に従事した。菓子業者が、真剣に社員の出向を考えたと言われたほどだった。
 戦前に建造された《間宮》、開戦までに新たに就役した《伊良湖》だけでは足りず、戦争中は貨客船型の戦時標準船が何隻か特設給糧艦として同様の任務に従事した。これらの船は前線での将兵の憧れであり、移動の際は主力艦隊より厳重に守られたとすら言われる。もっとも、前線の少し後方の拠点で動かない事の方が多く、補給物資は他の輸送船が運ぶという半ば本末転倒な事も多かった。
 また、お菓子を作る船ではなく、生鮮食品や加工食品を運搬し、日持ちしない加工食品を専門に供給する給糧艦も登場した。海軍のものを「食堂艦」、陸軍用のものを「総菜艦」と呼んだりして将兵から親しまれた。海軍のものが食堂なのは、主に駆逐艦や潜水艦乗組員への慰撫を目的として、火を使う料理も可能な上に多数の板前、調理人を乗せ、本格的な料理を船内で振る舞うことが出来たからだ。またこうした船では、豆腐などが船内で生産されて最前線の将兵に供給された。また一部では、「味噌、醤油、漬け物運搬艦」とも呼ばれ、艦内は常に味噌や醤油の匂いが充満していた。
 なお、前線でお菓子を作る奇妙な船の存在は、徐々に連合軍の間にも広がっていった。そして余裕がある時は、日本軍以外にも甘味、お菓子が供給されたため、日本軍以外からも非常な人気となった。その人気の影響で、アメリカ海軍では自国製の同種の艦を作ったほどだった。そしてアジア戦線、地中海戦線では、アメリカ海軍の給糧艦が日本軍将兵からも大人気となったりもした。
 なお、日本の給糧艦は主に日本伝統の羊羹や最中を作り、アメリカの給糧艦はドーナツなど各種洋菓子や焼きたてのパンを作ったが(※電気オーブンが主力だが、特別に火を使うことを許された船だった。)、食べることが戦場での将兵の数少ない娯楽の一つなので、連合軍は殊の外重視した証こそがこれら給糧艦だった。

 話しが逸れたが、空母機動部隊や主力艦隊以外にも、多数の潜水艦が各所に展開していたし、護衛空母を伴ったり駆逐艦だけだったりと編成は様々だが、敵潜水艦を狩る為のハンターキラー部隊も北大西洋各所に展開していた。潜水艦やハンターキラーはアメリカ海軍も多数展開させていた。日本本土とアメリカ東海岸を行き来する護衛艦隊の艦艇も、パナマ運河を越えて配備されている部隊は大西洋艦隊に属していた。
 そうした中で、巨大な空母機動部隊が3つと強力な戦艦部隊を合わせた空前の大艦隊は、日本海軍が度重なる実戦の中で到達した一つの回答だった。
 空母を中心とした艦隊と戦艦を中心とした艦隊の二つがあるのは、主に戦場での不測の事態に対応するためだった。戦艦部隊を敵の空襲を引き寄せるための「盾」だとする意見もあるが、そのような消極的理由で戦艦をまとめて運用することはあり得ない。戦艦とは攻撃兵器だからだ。
 基本的に欧州枢軸各国の海軍は、連合軍に比べて空母の数が少ない。このため大規模な海戦が発生する場合は、欧州枢軸側は陸上機の支援が受けられる場所での戦闘を企図すると考えられていた。それでも空母部隊が展開する洋上まで出てくる可能性は低いと考えられていたので、戦闘が起きるなら戦艦部隊に対してのみだろうという想定で戦艦部隊が編成されていた。加えて今回は、戦艦部隊の任務も存在していたので、十分な戦力が配備されていた。
 空母の数に対して機動群が3つなのは、アメリカ海軍に比べて護衛艦艇が不足したためで、この点がこの時期の日本艦隊の欠点と言われる事もある。しかし護衛する駆逐艦の3分の2は、1939年度計画から大量整備が開始された《夕雲型》駆逐艦だった。基準排水量2400トンの大型駆逐艦で、連装両用砲3基6門と多数の機銃に加えて、対潜装備、高射装置、レーダー装備も十分に搭載していたので、アメリカ海軍の《フレッチャー級》よりも優れた性能を有していた。しかも日本海軍の駆逐艦としては第一次世界大戦以来の戦時建造型であり、無骨で直線的と言われる姿は量産性を少しでも高めるためだった。
 本クラスは、1939年の計画で32隻、40年に40隻、42年に改良発展型が62隻計画されている。1941年秋から就役し始め、1944年5月の段階では50隻以上が就役していた。量産しやすいと言っても高価で複雑な機関を持つ大型駆逐艦のため、日本の建造力では少し荷の重い戦時量産艦艇だった。だが、様々な工夫と努力、専用船台を多数作るなどの措置により、多数が同時に建造されていた。重要性が、空母に次ぐほどだと位置付けられていたからだ。
 駆逐艦以外の大型艦艇は、中東を攻め始めた頃とほとんど大きな違いは無かった。唯一と言えるのは、大型装甲空母の《神鳳》と超超弩級戦艦である《武蔵》が戦列参加した事だろう。

 戦艦《大和》《武蔵》は、44年1月に日本国内で初めて揃って戦隊を編成し、勇躍大西洋へと出陣した。しかしパナマ運河を通過出来ないため(※戦艦《長門》《陸奥》も通過できない)、別の1個艦隊に伴われる形で南米大陸を迂回してマゼラン海峡を越えて大西洋入りしている。第二艦隊の編成にはそういう理由もあり、回航時には護衛空母と護衛駆逐艦のハンターキラー戦隊も同行した。このため大西洋への合流が一番後になった。
 しかしアメリカ東海岸のノーフォークに到着すると、現地で歓迎したアメリカ国民の度肝を抜くこととなった。自分たちの当時最大最強だった《アイオワ級》戦艦よりも巨大で強力な戦艦が2隻もやって来たからだ。この頃《モンタナ級》は、建造が早い艦でもまだ艤装段階で国民にほとんど知られていないので、アメリカ市民の受けた衝撃は少なくなかったと言われる。
 もっとも、より衝撃を受けたのは欧州枢軸各国だった。
 と言うのも、《大和型》戦艦は建造をかなり秘密にして計画、建造された戦艦だったため、このアメリカ東海岸到着がほとんど最初のお披露目だったからだ。
 欧州枢軸各国は、「来るべき決戦」のためイギリスが《ライオン級》4隻、ドイツが《FDG級》2隻、フランスが《クレマンソー》を急ぎ建造中だった。建造開始の早かった《ライオン級》の《ライオン》《サンダラー》は、既に見た目がほぼ完成するほど艤装も進んでいた。
 しかし《大和》《武蔵》は、そのどれも大きく凌駕していた。欧州各国は、日本の新鋭戦艦は《高雄型》の発展型で《アイオワ級》程度と予測し、《モンタナ級》が多数出現するまでは自分たちが優位になると想定していた。だがその前提は大きく崩れ、洋上決戦戦略の見直しまで行わなくてはならなくなっていた。
 では、空母の方はどうだったのか?
 イギリス本国海軍は、既存の《イラストリアス》《ヴィクトリアス》に加えて改良型の《インプラカプル》《インディファティガブル》、軽空母《ユニコーン》が新たに戦列に加わっていた。両艦の建造は、大型艦の建造に予算と資材、人員を回したお陰だった。しかし《オーディシャス級》はどれも艤装中だった。
 ドイツは《グラーフ・ツェペリン》以外に軽空母《ザイトリッツ》が完成していたが、期待の新型空母はまだ艤装段階だった。
 フランスは《ジョッフル》《ペインヴェ》が艤装最終段階だったが、まだ完成には至っていなかった。しかし唯一の低速空母《ベアルン》を実質的に練習空母して、パイロットの育成に力を入れていた。
 このように、欧州各国の大型艦は基本的に1944年秋以後の完成予定だった。この時期動ける空母機動部隊を持つのは、実質的にイギリス本国海軍だけで、しかも連合軍に対して大きく劣勢だった。
 だが、連合軍に枢軸軍の艦隊が整うのを待つ義理はなく、連合軍はあくまで自分たちのペースで次の作戦を発動させる。

 ニューファンドランド島沖合で集結して陣形を整えた日本海軍・大西洋艦隊・第一機動艦隊は、一路ヨーロッパを目指した。艦隊速力は18ノット。一直線に欧州北西部へと進んだと仮定すると、わずか丸4日でフランス北西部も面するビスケー湾に到着してしまう。もちろん潜水艦を警戒して航行するし、敵に対する欺瞞航路を取るのが常識なので、真っ直ぐ進んで来ることは軍事上あり得ない。それでも最短で6日後には到着する。
 そしてこの時期、欧州枢軸側は連合軍が最優先とする軍事目標は、ジブラルタル海峡と考えていた。同年2月に大艦隊による空襲があったし、連合軍は既に東地中海からリビアにまで攻め寄せているので、モロッコに上陸してジブラルタルを突破すれば、うまくいけば現地の枢軸軍を挟み撃ちにできるからだ。
 加えて欧州枢軸側は、連合軍が今回はどの程度の艦隊を送り込んでいるのか、詳細を掴んでいなかった。連合軍の主力部隊が、大きくアメリカと日本の艦隊に分かれたことはスパイ、無線傍受、潜水艦の偵察など各種情報から分かっていたが、どちらもアメリカ東海岸に集まるか、カリブ海北部かメキシコ湾で訓練していた。どちらも規模が非常に大きく、全てを追いかけるのは不可能な上に、一ヶ月違うだけで戦力が増える事まであった。2月に襲来したアメリカ艦隊も、既に傷はほとんど癒えていると見られていたし、活発に活動している兆候も見られていた。
 だがこの時、北大西洋に駒を進めてきたのは日本海軍の艦隊のみだった。そしてこれには、理由があった。理由と言っても、戦略上というより技術上のものだった。
 というのも、アメリカの航空母艦は解放型格納庫のため荒い波の海に弱いが、北大西洋は波が荒いことが多い海だった。北大西洋海流上は、北に進めば進むほど波が酷くなることが多い。また霧や靄が発生しやすい海で、まともな洋上戦は春にしか出来ないと言われるほどだ。
 これに対して日本海軍の空母は、基本的に閉鎖型格納庫を有している。閉鎖型格納庫なのは、本国周辺を波の荒い海に囲まれているからで、地理上の制約を受けたとも言える。だがイギリスも閉鎖型格納庫を持つ空母を建造しているので、解放型格納庫を持つ空母が波に弱いのは間違いない。
 故に連合軍では、北の海での作戦は日本海軍が主に行うことと言う役割分担が取り決められていた。もちろん作戦や戦況によって変化するが、日米双方ともに強大な戦力を有する艦隊なので、分担しても問題ないと考えられていた。そして前回のモロッコ空襲と今回の作戦が、その役割分担の最初の実践例だった。
 そして日本海軍単独でも作戦可能と考えられたように、当の日本海軍第一機動艦隊司令部は、自らの艦隊と航空戦力に大きな自信を持っていた。
 その自信を現すような攻撃隊が、欧州枢軸軍の意表を突く場所で察知される。

 連合軍の大艦隊出撃の報告を受けると、大西洋に面した欧州枢軸各国の艦隊も出撃を開始した。
 前回のモロッコ空襲の傷がまだ癒えきっていないので、再度同じ攻撃を受けたら持ちこたえられない為だ。現地防衛を担当するイタリア、フランスはイギリス、ドイツの増援を求めていたが、どの戦線も逼迫しており大規模な部隊の増援は不可能だった。
 仕方がないので、イギリス本土とフランス本土北西部を守る部隊の一部が、急ぎ移動することになった。これらの部隊は強大な戦力を有し、どこからでも攻撃すること出来る連合軍の空母機動部隊から、それぞれの本土を守る貴重な部隊だった。敵の襲来を待つだけなので「遊兵」と言われることもあるが、両国にとっては内政上欠かすことの出来ない部隊だった。
 また、各国海軍がバラバラに動いては連合軍に太刀打ちできないので、欧州枢軸各国はカリブでの戦い以上に親密に情報を共有し、人員を交流させ、駐留武官の数を増やした。共同訓練も増やし、何より共通の作戦を策定した。
 これが「大西洋の防波堤」になる。
 「大西洋の防波堤」は欧州枢軸海軍が第一の壁となり、攻撃を受けた地域の欧州枢軸空軍部隊との密接な連携のもとで、連合軍の強大な艦隊を撃退する作戦構想を持っていた。カリブでの戦いは、指揮に関しての総司令部が設置されていなかったが、1943年12月にイギリス海軍が作戦主導することになり、ロンドンに海軍合同司令部が設置されている。
 迎撃計画は「V作戦」とされ、脅威度が高い順番に戦域別にナンバーが割り振られていた。ジブラルタル海峡のあるモロッコ方面だと「V-1作戦」になる。
 そして欧州枢軸軍は、「V-1作戦」の発動を決定。欧州各地に分散している艦隊は出動し、モロッコ近海での洋上撃滅を企図する。
 だが、欧州各国海軍の主力艦隊がモロッコ沖合への展開を急いで移動している時、予想外の場所に連合軍の大艦隊が出現する。
 なお「V作戦」の「V」は勝利の頭文字であり、欧州枢軸側の心情を垣間見ることができると言えるだろう。

 1944年6月6日払暁、イギリス本国グレート・ブリテン島北西部のヘブリディース諸島にある長距離対空監視用のレーダーサイトは、突如レーダースコープの一角が真っ白になる。
 敵大編隊の襲来であり、このレーダーサイトに映る未確認飛行機を放った相手は空母機動部隊に間違いなく、たちまちグレート・ブリテン島北西部は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
 スコットランド地方の中でもハイランドと呼ばれる北部地域は、平坦なグレート・ブリテン島の中でもほぼ唯一の山岳地帯で、この島には珍しく平坦な場所がほとんど見られない。しかも海岸も、かつての氷河の影響で入り組んでいた。加えて気象が厳しいため、人口密度も非常に低い地域だった。
 軍事的に守るべき価値のある目標は少ないが、自らの本土の一部であり何が何でも守らねばならない事に変わりなかった。だが地形が険しいため、防衛の要となる飛行場を置けられる場所が限られている。特に船や飛行機でしか行けない地形の場所は、主に冬の補給を考えて大規模な基地は置きたくても置けなかった。主要な飛行場は、主に都市近郊の僅かな平地を利用するしかなく、必然的に飛行場の数も限られてていた。それでもよほど大規模な空母機動部隊でもない限り、攻撃されても受けるダメージが知れているので、1944年に入るぐらいまでは防衛もそれほど深刻に考えられていなかった。
 だが、戦況の悪化、連合軍の戦力の急速な拡大が、防衛を考えさせるようになる。それでも徐々に防衛体制を整えていったが、遠隔地での戦線の維持に資材、労力、兵力を取られているため、それも遅々として進んでいなかった。
 最初に探知したレーダーサイトから最も近い戦闘機大隊が駐留する飛行場は、約100キロメートル離れたインヴァネス市郊外にある。それ以外だと、ノース・アイルランドのベルファスト郊外、スコットランドのアバディーン、エディンバラ、グラスゴーなどの主要都市郊外にある。他にも飛行場はあったが、どれも小規模だったり設備が限られており、不時着用の簡易滑走路にあばら屋だけというものも少なくなかった。
 それでも北部全域には、合わせて1個航空艦隊が配備されていた。配備されている機体の半数は迎撃戦闘機で、残りは対潜哨戒、通常の哨戒を行う爆撃機と飛行艇が多かった。また、念のための対艦攻撃部隊も配備されていた。
 これらの配備は、英本土で敵が攻撃する恐れが高いのが、スコットランドなどの北部と南西部のコーンワル半島だからで、コーンワル半島にもプリマスを中心に1個航空艦隊が配置に就いていた。
 半ば独立しているアイルランドが局外中立でなければ、もっと効率的な配備や縦深を取った防空体制の構築が出来たが、アイルランドが中立なおかげで連合軍が攻撃したり上空を通ったりできないので、アイルランドの中立は一長一短と思うより他無かった。

 日本海軍第一機動艦隊の第一波攻撃隊は約300機。その後ろ30分の時間で約250機が続いていた。ほとんど1個航空艦隊丸まるの規模の攻撃隊であり、その事をレーダーエコーから察知したイギリス空軍は、敵は連合軍の主力空母機動部隊と判断し、全力での迎撃と防空戦を現地に命令した。
 対する日本軍だが、攻撃隊と共に様々な偵察機を送り込んでいた。まずは、約3000キロメートル離れた北米大陸のニューファンドランド島を離陸した「二式大艇」の重偵察型1個中隊と、アメリカ陸軍の「B-24 リベレーター(燃料増加型)」偵察大隊が、複数機の交代で監視任務に就いていた。これらの偵察機は特別改造されており、大きなペイロードを持つ機内に増加燃料タンクを追加した上で高性能の機載レーダーを搭載していた。レーダーは高い場所に設置するほど探知範囲が広がるので、高度8000メートルから長いレンジを持つレーダーで、遠くから英本土の北部辺境を天候が許す限り24時間体制で監視していた。
 この偵察は1943年春から開始されており、特にこの攻撃開始24時間前からは機数を二倍に増やして情報収集を強化していた。
 空母機動部隊からは、レーダー搭載型の「四式艦上偵察機 彩雲」が飛行甲板に攻撃隊が並ぶ前と後に複数発進し、攻撃隊を誘導すると同時に各種情報を指揮官に伝えていた。
 飛行機以外にも、連合軍の潜水艦多数が継続して伏在しており、イギリス軍の哨戒機、対潜水艦艇の攻撃にもめげずに情報を常に収集していた。大胆なものになると、沿岸まで潜水艦で近づいてボートで上陸し、情報を持ち帰ってきた例もあった。そうして収集した情報の中には、座礁したUボートから回収されたドイツの暗号まであった。

 日本軍攻撃隊は、戦闘機は全て「三菱 三式艦上戦闘機・烈風」に更新されていた。2000馬力空冷エンジンを搭載した次世代機であり、イギリス空軍の「スピットファイアMk.V」よりも強力な機体だった。この時期、英本国空軍の主力になりつつある強化型マーリン・エンジンを搭載した「スピットファイアMk.IX」に対しても、最高速度では若干劣るが互角以上の性能を有していた。
 スピットファイアは、既に2000馬力級液冷エンジンのグリフォンエンジン搭載の「Mk.XII」の配備が始まっていたが、この頃は本国のごく一部以外では、より必要とされる地中海と本土南西部に配備されていた。他に「ホーカー・タイフーン」が各所に配備されていたが、戦闘機としての性能は今ひとつという評価が多いため、この機体は主にモロッコ方面、リビア方面に戦闘爆撃機として配備されていた。
 日本軍攻撃隊のうち約半数が戦闘機になるが、イギリス本国空軍は現地の空軍基地が分散している上に、戦略的に奇襲攻撃を受けたに等しいので、十分な迎撃体制がとれなかった。
 日本軍編隊は、イギリス側の迎撃をあざ笑うかのように辺境のレーダーサイトを集中的に爆撃して地上のシミに変えていった。800kg爆弾複数の投下で、鉄塔の基礎すら破壊するほどだった。主力攻撃隊も、現地のイギリス軍戦闘機大隊を正面から粉砕し、最も北にあるインヴァネス空軍基地を破壊した。各地の防空隊も、半ば孤軍奮闘を強いられて大きな損害が出た。
 そして約3時間後、第二次攻撃隊がスコットランドの要衝、グラスゴーに全力で襲いかかった。
 グラスゴーは歴史有る街で、産業革命が起きてからも鉄鋼と造船の街として知られていた。この時も多数の艦船が建造中で、北部では最も厳重に防衛されていた。
 2波約500機の攻撃隊に対して、防空側は各地からの増援を加えて約300機。迎撃側は全て戦闘機なので、迎撃側の方が戦闘機数は多くなる。だが機体の性能、パイロットの質の差から日本側の方が優位で、しかも攻撃側は任意の場所から突破すればよいので、イギリス空軍の迎撃はそれなりに機能するも失敗してしまう。加えて言えば、イギリス空軍機は相変わらず日本軍機に対して格闘戦を挑む傾向が強いが、零戦の後継者である烈風には敵わなかった。
 攻撃に際して日本軍は、レーダーサイト、空軍基地の攻撃を優先して行い、民間施設は一部の造船所と港湾施設しか攻撃しなかった。しかし港湾施設や周辺の船舶への攻撃はかなり激しく、民間人にも多数の死傷者が出た。
 だが、グラスゴーはその一回きりの空襲しかなく、その日最後の空襲は対岸のベルファストに行われた。ノース・アイルランドのベルファストでもグラスゴーと似たような戦闘が展開され、港湾部を中心にかなりの損害が出た。なおベルファストでの防空戦は、ベルファストの空軍部隊もグラスゴー防衛から出動していたので、戦闘はイギリス側がより劣勢だった。このまま戦闘が継続すれば、いずれじり貧になった可能性は十分にあっただろう。
 対して、イギリス空軍による日本艦隊に対する反撃は、ほとんど戦果を挙げなかった。日本海軍が十分以上の数の戦闘機を艦隊前面に展開し(常時150機。最大300機)、イギリス側がまとまった数の攻撃隊を送り出せなかったからだ。しかもイギリス側は、航続距離の関係で戦闘機は一部で双発戦闘機が出撃しただけだった。だから日本軍の迎撃機にとって、攻撃機を落とすだけの容易い任務となった。この反撃でイギリス空軍は、敵艦隊を見ることすらほとんど出来ずに、100機以上の洋上作戦能力を持つ攻撃機を失っている。
 だが日本艦隊は、それほど大きな損害を受けていないのに、翌日姿を見せなかった。哨戒機、潜水艦を多数で伏在していると思われる海域を捜索したが、日本艦隊の姿は掻き消えていた。
 それでも空襲からの損害復旧、北部の防空体制の強化を行い、モロッコ沖に向かっていた艦隊も急ぎ引き返させた。いきなり英本土に上陸してくるとは考えられなかったが、このまま空襲が続くだけでも損害は深刻になる恐れが高かったからだ。
 実際、たった一日の防空戦で、ブリテン島北部の防空部隊は半壊状態に追いやられていた。
 しかし日本の大艦隊は、一日荒れ狂っただけで姿を消した。


●フェイズ41「第二次世界大戦(35)」