●フェイズ47「第二次世界大戦(41)」

 1944年9月13日未明、空前の空母機動部隊がモロッコ西方沖合に出現する。
 アメリカ海軍、日本海軍合同の艦隊だ。

 巨大すぎる艦隊は9つの艦隊に分かれて行動し、高速空母38隻を戦艦23隻など約200隻の艦艇が直接エスコートしていた。周辺には潜水艦を専門に狩るハンターキラー戦隊、周囲と前衛には哨戒の潜水艦群、後方には補給のための巨大なサービス(補給)艦隊がそれぞれ別行動を取っていた。これらを合わせると300隻を優に越える。そしてさらに後方となる西方とダカール方面の南方海上には、強襲上陸作戦を行う大船団とそれを護衛する戦艦、護衛空母多数を含む別の大艦隊が展開していた。さらにアメリカ東海岸とその沖合には、別の大船団が準備または移動しつつあった。
 それらの大艦隊を一度に目にすることは物理的に不可能なのだが、その有史以来最大級の大艦隊を目にすることができるのなら死んでも惜しくない、と言った戦史研究家がいたほどだった。もっとも、作戦指導に当たる司令部では、アメリカが発明したアクリルボードでは扱いきれず、従来の兵棋板も巨大になりすぎたうえに駒の数が多すぎるため、参謀達は状況を把握するのに四苦八苦していた。作戦のためにアメリカで発明されたばかりの電算機(コンピュータ)まで動員されたが、それでも追いつかないと言われたほどだった。日本海軍などは、作戦を半ばアメリカに丸投げしているた程だ。
 そして未曾有の艦隊は、事前の作戦をこなした上で、一つの目的の元に動いていた。
 「オペレーション・トーチ(灯火作戦)」の発動だ。世界に希望の火を灯す作戦として、連合軍が名付けた作戦名だった。

 それぞれ事前の作戦をこなした日米の空母機動部隊は、一度急ぎ足で後方に下がり、洋上またはダカール沖合で十分な補給を済ませていた。一連の補給では、連合軍の誇る前線補給部隊が大活躍し、大西洋のやや荒い波にも挫けず、時間までに補給作業を完了していった。各空母で若干消耗した航空隊も、ほぼ戦闘前の状態に戻っていた。そして、この時点で各高速空母は長時間の効率的運用のため艦載機の過積載を止めていたので、空母機動部隊の艦載機総数はスペア抜きで約2300機となる。これに他の艦隊の艦載機、水上機を合わせると総数で3000機にものぼる。これは陸上だと3個航空軍に匹敵する規模にもなる。しかもダカール方面からは、アメリカ軍を中心とした航空隊も支援に当たり、その規模は重爆撃機を中心として1000機以上に達していた。
 作戦参加艦艇数と合わせて、まさに未曾有の大侵攻部隊だった。このままベルリンに侵攻できると言われたほどだし、欧州侵攻のリハーサルとも言われた。
 対するモロッコ方面の欧州枢軸軍は、半月前に既にアメリカ軍攻撃を受けていたので、航空戦力は開戦前から大きく目減りしていた。急ぎ若干の補充も行われたが、修理した機体を合わせても現地の稼働機は700機を割り込んでいた。しかも攻撃機の消耗が激しいため、有効な洋上での艦隊攻撃は難しかった。本国などからの増援も、機体はともかくパイロットが足りないため、送りたくても送り込めなかった。新鋭ジェット機も、十分な交換用のジェットエンジンがないので、ただでさえ低い稼働率がさらに落ちていた。
 そしてそこに、2300機の艦載機を抱える8つの空母群が襲いかかる。最初の空襲の時点でかなり接近していた為、その日だけで大規模な空襲が5回実施された。
 個々の性能では「ハインケル He280 F」やグリフォン・エンジン搭載機など枢軸側が勝っている機体もあったが、ここまで数の差を空けられると、飛び立った枢軸側の機体は逃げ回ることの方が多かった。飛行場にいても地上で破壊されるだけなので、飛んでいることが一番被害を避けられる手段だった。連合軍にとっての小さな誤算は、ドイツが「フォッケウルフ Fw190」の「D型」を1個飛行大隊を、事前空襲後の短い期間に送り込んできていた事だが、グリフォン・エンジン搭載機と同様に連合軍に小さな混乱をもたらす以上の事は出来なかった。それよりも、撃墜や占領後の飛行場で回収したりして、枢軸側の新鋭機の詳細を知る事が出来た方が、連合軍にとって意味が大きかった。「He280 F」の存在は、アメリカ、日本共にジェット戦闘機の開発を促す事になったし、「Fw190D」など高性能機の存在は単に対抗機体の早期登場を促すだけでなく、重爆撃機を用いた戦闘で随伴機の重要性を認識させることになっている。
 それでも枢軸軍機は次々に落とされ、飛行場、レーダーサイト、高射砲などが手当たり次第に破壊されていった。カサブランカ周辺は「ヨーロッパの城門」とすら言われる強固な航空要塞群だったが、ものには限度があった。しかも攻撃はまだ始まったばかりだった。
 艦載機の群れは、単なる序章に過ぎなかった。

 その日の深夜、沖合に戦艦部隊が出現する。
 プリマスの港を破壊した日本の第二艦隊と、アメリカ艦隊の各空母群から高速戦艦と重巡洋艦を抽出して臨時編成した第44任務部隊だった。第44任務部隊は、9隻全ての新型戦艦を一度集めて編成されているので、日本艦隊よりも強力だった。アメリカ艦隊の臨時部隊は、枢軸側の抵抗が弱い場合に空母の護衛を減らして艦砲射撃に回す作戦案に沿ったものだった。
 そしてここに、戦艦《大和》《武蔵》《アイオワ》《ニュージャージ》《ミズーリ》《ウィスコンシン》という当時世界最強の新鋭戦艦が一同に集う事になる。攻撃される方にとっては、たまったものではないだろう。艦砲射撃は、上陸予定の沿岸陣地に集中的に行われ、一通過約15分だけ上記した戦艦6隻が2組に分かれて海岸から10キロ近くにまで接近し、海岸から20キロ近く離れたカサブランカ郊外の飛行場(※後のムハンマド5世国際空港で、当時はカサブランカで最も規模が大きい空軍基地)めがけて、砲身を大きな角度で掲げ自慢の巨弾を速射でたたき込んだ。内陸の飛行場までは本格的な艦砲射撃はないと考えていた現地枢軸軍は大混乱に陥り、駐留していた航空機と基地施設に甚大は被害が発生した。しかも爆撃想定以上の巨弾のため、地下の弾薬庫や燃料貯蔵庫までが破壊され、大きな爆炎を上げて破壊された。人的被害も大きく、この砲撃で同飛行場の機能は戦闘中ほぼ停止してしまう。なお攻撃によって、枢軸側は損傷機を含めて200機以上の機体を失った。
 その砲撃を最後として、約2時間に渡って行われた総数15隻の戦艦による大規模な艦砲射撃は終わり、終わるとすぐに洋上へと消えていった。
 翌日黎明、この日も早くから空襲によって一日が始まった。連合軍は今日一日も空襲に時間を使うつもりであり、夕方まで激しい空襲が続いた。迎撃する枢軸側は、昨夜の予想外の艦砲射撃の打撃もあって、既に航空戦力は激減していた。ジブラルタル方面からの増援もあったが、戦力差から既に焼け石に水で、無駄に被害を拡大させるだけに終わった。カサブランカでの戦いは、枢軸側の想定を大きく逸脱して、極めて短期間の航空撃滅戦で終幕を迎えることとなる。
 つまり、短時間の激しい航空撃滅戦により、1個航空艦隊以上あった現地の枢軸側航空隊は、組織だった戦闘継続が不可能なほどの壊滅状態に追いやられた。そして枢軸空軍の多くは、活動を維持するためと破壊されないため、後方の基地への後退を余儀なくされていた。
 そしてその日の夕方、今度はダカール方面から来たアメリカ海軍の旧式戦艦部隊と、自由イギリス海軍など連合軍の合同艦隊が現れる。こちらも艦砲射撃が任務だが、今度はゆっくりとしたペースで、今までの攻撃で取りこぼされていた沿岸砲台や水際陣地への艦砲射撃を実施した。
 また、小型の艦艇も多数沖合に姿を見せて、新型の潜水具を身につけた潜水夫も投じて上陸地点近くの掃海や障害物撤去を開始した。この部隊はサーチライトで海面を照らすなど一見無防備だったが、連合軍がそれだけの優位を既に獲得した証でもあった。
 「大西洋の城門」は、呆気なく崩れ去ろうとしていた。

 9月15日早朝、それまでにカサブランカ市郊外の沖合に進出した多数の上陸用作戦艦艇がずらりと並び、上陸用舟艇や水陸両用戦車などを海面に整然と並べ始める。洋上に展開する空母機動部隊と護衛空母群からは多数の艦載機が飛来し、彼らの上空を守ると同時に上陸予定地点への入念な攻撃を行った。飛行場などへのさらなる攻撃も実施され、もはや枢軸側に空で抵抗する術は無かった。
 最初に上陸するのは、アメリカ軍の第2海兵師団と陸軍第1師団。第1師団はカリブでも上陸作戦を行っている精鋭部隊で、アメリカ陸軍の中では上陸作戦にも慣れた部隊だった。また、アメリカが独自開発した水陸両用の「M4シャーマン中戦車DD」を装備していた。加えて、「M4シャーマン中戦車」をベースにして開発した、アメリカ製の水陸両用戦車も作戦参加した。M4のDD戦車は、防水を施した車体上部を四角くマットレスで覆ってスクリューで推進する形式で、1メートルの波間に対応できるとされていた。対する「M11」と名付けられた水陸両用戦車は、少し形状を変更したM4の前後に船型のフロートと水上動力を付けた船形で、前後のフロートは車内からのパージも可能となっていた。見た目は河川舟艇や砲艦で、日本軍の同種の車両と同じく見た目が「船」だった。
 二種類の車両が投入されたのは、実戦での評価試験も兼ねての事だった。そして日本海軍がすでに実績を積み上げた技術を流用しているため、「M11」は40トンを越える巨体で大西洋の波にも負けずに次々にしかも迅速に浜辺に上陸していった。対してM4DDは、当日が想定以上の荒波だったので波に翻弄されて多くの「沈没」車両が続出。部隊によっては全滅に近い惨状となった。このため「DD」をもじって「ドナルド・ダック」などと、友軍からも小馬鹿にされるほど悪い評価を得てしまう。その後も若干使用されるも、以後戦場に姿を見せることはほとんど無かった。「M11」の方は兵員輸送両用艇のLVTと共に各地の戦場で活躍を示し、本家の日本へのレンドリースも行われている。
 ただしモロッコでの上陸がうまくいったのは、現地フランス軍部隊の多くが対戦車砲や速射砲をあまり装備していなかった事は加味しなければならないだろう。フランス軍は沿岸の部隊は対歩兵戦を見越して榴弾砲(短砲身の歩兵砲)ばかり装備し、長射程砲は沿岸の艦船を狙ったからだ。

 なお、モロッコ沿岸部部は上陸可能な砂浜が十分にあるので、第2海兵師団と陸軍第1師団はそれぞれ別の場所に上陸していった。第1師団では、練度の高い兵士で編成されたレンジャー大隊の幾つかも最初に上陸した。海兵隊にレンジャーは無かったが、それは部隊の全てが精鋭だという自負からだが、非公式に精鋭を集めた中隊などは既に運用していた。
 そしてすぐにも、彼らの後ろを第32師団、第77師団が続く。機甲師団である精鋭の第1騎兵師団は後続として上陸予定で、まずは定石通りの上陸作戦だった。4個師団同時の上陸作戦も可能だったが、経験不足と不測の事態に備える二つの要素のため2個師団による上陸とされた。
 連合軍が上陸した海岸部には、フランス陸軍の4個歩兵師団が海岸線に沿って広く展開しており、各所に沿岸重砲兵部隊も配備されていた。それ以外の海岸にも、「張り付け」状態のフランス軍部隊が海岸に薄く展開しており、それだけで数十万の兵力となり、実質的に海岸に布陣する部隊がカサブランカでの主力だった。これは機動力が不足するためで、ドイツに「上納」するトラックをフランス軍が持っていれば、もう少し違った防御配置になっただろう。それでも各部隊は、イギリス本国からの供与もあったので歩兵戦車や重砲などかなりの重装備をそれぞれ有していた。
 なお、モロッコ防衛では、港湾拠点であり飛行場の集中するカサブランカが最も重要なので、フランス軍も可能な限り厳重に防衛していた。1943年頃から本格化した陣地構築も随分進み、鉄筋コンクリート製の陣地も数多く見られた。飛行場も、鉄筋コンクリートの重シェルターや各種施設が出来る限り建設された(※かなりが連合軍の爆撃と砲撃で破壊されたが)。
 さらに後方には、自国製の「S-41D」中戦車とイギリス製の「クロムウェル」巡航戦車戦車連隊を中核とした機甲師団を中心として2個軍団、5個師団以上の予備部隊もいた。その他の軽装備部隊も含めると、カサブランカ周辺だけで30万以上の兵力が配備されていた。
 この予備部隊の中には、イギリス製の「チャレンジャー」歩兵戦車と自国製の「B-3重戦車」を合わせた重戦車部隊もあり、反撃の切り札として期待されていた。

 だが、連合軍の事前の砲爆撃で沿岸陣地を中心に大損害を受けており、主要道路も多くが破壊されていた。敵の圧倒的制空権下での地上戦の経験が浅いことが災いして、不用意に移動したりして攻撃を受けてしまい、後方の部隊も大損害を受けていた。しかし上陸が始まると、敵を海に追い落とすために予備部隊は移動しなければならないので、損害は増すばかりだった。草原を走る車列などは、ロケットランチャーを装備したコルセアのいい的だった。このため機動戦力の移動は、主に夜に行わなくてはならなかった。また、海岸部を守備する各部隊は、多くが歩兵戦車を有するも基本的に歩兵師団で、しかも車両どころか馬匹すら十分には配備されていない「張り付け」部隊のため、数は多いが機動戦力としては数えられなかった。「張り付け」部隊は、いわば「壁」として配備されていたことになる。配備された戦車もトーチカ代わりだった。実際、車体を埋めた戦車も少なくなかった。
 対する連合軍側は、空には常に無数の艦載機が飛んでおり、枢軸軍側から「空が黒くなる」と言われたほどだった。海も上陸用舟艇と水陸両用車両で「黒」が多くを占めた。ナポレオン時代の軍隊の隊列のように整然と海上を進み、沿岸や内陸からの砲撃をものともせずに次々に上陸していった。しかも隊列の前衛は水陸両用の戦車か装甲車による「洋上機甲部隊」なので、生半可な攻撃が通用しなかった。
 それでも撃破される水陸両用車両、上陸用舟艇は後を絶たなかったが、そうした損害は巨大な連合軍の中ではごく限られた情景なので、上陸を止めるほどではなかった。しかも上陸部隊が海岸に向けて進み始めた時点で、僅かに残った沿岸砲台や各陣地の迫撃砲などが火を噴いたが、すぐにも空襲か艦砲射撃によって沈黙させていった。そればかりか、進撃する榴弾砲搭載の水陸両用戦車によって陣地や砲台が破壊された。
 殆どの事象が、枢軸軍の予測を大きく上回っていた。
 第一波の各大隊は素早く橋頭堡を確保。最初に合計6個歩兵大隊と2個戦車大隊が上陸したが、目前のフランス軍では彼らを海に追い落とす力は無かった。そればかりかすぐにも橋頭堡を広げられ、続々と後続部隊が上陸していった。
 連合軍の上陸作戦は完全な成功であり、上陸した兵士の数はたった1時間で1万人を越えた。そしてすぐにも橋頭堡を拡大したが、すでに多くの機甲兵力(水陸両用車両)が上陸しているので、水際に配置された歩兵達では撃退は難しかった。橋頭堡はすぐにも拡大され、占領地が広がると共に枢軸側の火砲は衰える一方だった。上陸地点の水際部隊の多くが壊滅して、後方に後退せざるを得なかったからだ。
 それを確認した連合軍は、戦車揚陸艦、中型揚陸艦など直に砂浜に乗り上げることが出来る艦艇が次々にランディングし、戦車、装甲車など本格的装備を兵士達と共に上陸させ、歩兵以外の支援部隊を吐き出した。こうなると、既に制空権と有力な火力を失った沿岸防衛部隊は、陣地を守ることすら出来ず、空襲の中を徒歩で後退するかその場で白旗を上げるしかなかった。

 連合軍は夕日が没するまでに十分な縦深を持つ橋頭堡を確保し、その日のうちに後続部隊の本格的な上陸まで開始した。機甲偵察大隊は、翌朝黎明にも進撃予定だった。
 これに対してフランス軍の反撃部隊は、予定していた攻撃発起点に至るまでに多くの戦力を失い、敵が上陸した最初の12時間までに反撃するに至らなかった。そして、空襲を避けたいという理由もあり、現地フランス軍は攻撃側にも危険が大きい夜間戦闘を決意する。昼間の移動は犠牲も大きかったが、反攻発起点にかなりの戦力が集まることも出来ていた。
 しかし、9月14日午前1時から開始されたフランス軍の夜襲は、結果として失敗に終わった。フランス軍の移動は、夕方の時点で空から連合軍に察知されていた。最初、連合軍は翌朝からの反撃の準備かもしれないと予測したが、沖合の司令船にいた日本軍の観戦武官からの意見を、総司令官のマッカーサー将軍が重く見たからだ。
 連合軍は急ぎ迎撃の準備を行い、俄作りの防御ラインを作り上げた。M2重機関銃、迫撃砲、ニーモーター、そしてバズーカ。この時点で上陸されていた装備は一部機甲部隊以外は限られていたが、夜襲ならば十分に戦いようのある装備だった。
 戦闘が始まると、橋頭堡の連合軍は盛んに照明弾を打ち上げ、海岸に近づいた駆逐艦などがサーチライトを照射した。それ以前に橋頭堡の部隊は戦闘態勢を取っており、闇夜を突撃してくるフランス軍に猛烈な射撃を浴びせた。フランス軍戦車部隊による機甲突破も、アメリカ軍が急いで上陸させて待機させていた機甲旅団と新兵器のバズーカ砲(簡易ロケット砲)を抱えた歩兵達によって撃退された。
 この戦闘では、アメリカ軍が装備した三式重戦車、米名「HT Type-3 GEO」(Mの名は与えられなかった。)が活躍して重戦車が迎撃戦にも向いてることが証明され、アメリカ陸軍で重戦車開発が促進されるきっかけの一つとなった。フランス陸軍も自国製造のB-3重戦車やチャレンジャー歩兵戦車を投入したが、基本的に三式重戦車の方が強力な上に、物量の差もあってあまり活躍することは出来なかった。チャレンジャー歩兵戦車は、他の戦場同様に連合軍の予想外の地形障害を通って進軍して驚かせたりしたが、驚かせる以上ではなかった。
 このためフランス軍の攻撃は、開始からわずか1時間で中止を余儀なくされ、損害の軽いうちに退却した。連合軍も夜間戦闘の混乱を嫌ってあえて深追いはしなかったので、この夜の戦闘は呆気ない幕切れとなった。しかし、フランス軍は唯一の反撃の機会を自ら放棄した事になり、後世の研究家からは犠牲を省みず攻撃を続行するべきだったという意見が多い。少なくとも連合軍を混乱させて、作戦を遅延させる事が出来た可能性が高いとされるからだ。

 翌朝からは、連合軍では夜明け前には多数の航空機が各空母から飛び立ち、陣地などに隠れたフランス軍を見つけだしては吹き飛ばしていった。既に戦力の多くを消耗した上に夜戦でも大損害を受けていた現地フランス軍に反撃する余力はなく、その後連合軍は順調に橋頭堡を拡大し、内陸部への進撃の準備へと移っていった。カサブランカはモロッコで最も大きな大都市だが、都市を包囲して幹線道路を封じてしまえば他から孤立したも同然だった。
 そして内陸部の戦いに移行しようと言う時、今度は別の場所に連合軍の大船団が出現する。
 「マッカーサー戦法」と呼ばれる、矢継ぎ早な上陸作戦の第二段階が発動されたのだった。
 場所は、カサブランカから100キロ弱北の沿岸部に位置するラバト。現れたのは、アメリカ東海岸からやって来た大船団の一部だった。これを米第6艦隊、連合軍第1艦隊の一部が援護した。加えて日米の機動部隊の一部も、洋上から支援した。枢軸側が予測より脆いから作戦変更されたのではなく連合軍の作戦通りであり、艦隊が巨大なので二カ所の支援も十分にできた。現地の枢軸側航空戦力も、カサブランカを巡る一連の戦闘で飛行場ごと壊滅状態だった。カサブランカ上陸よりも陣容は薄かったが、現地の枢軸軍に上陸を阻止する力は無かった。
 ラバトは、モロッコ内陸部、東部、海峡方面に向かう街道が合流する交通の要衝で、中心都市にして港湾都市のカサブランカに次いで重要な都市だった。枢軸側はこんなに早く強襲上陸が続くとは考えてもいなかったので、同方面にいた反撃用の機甲部隊は既にカサブランカ方面へと移動を開始しており、現地には沿岸防衛用の師団が配置についているだけだった。
 カサブランカ上陸後間髪入れず行われたラバト上陸で、カサブランカ方面の枢軸軍はカサブランカ方面での反撃どころか、補給路と退路を合わせて断たれたも同然だった。敵を海に追い落とすことができなければ、鉄道以外の手段で内陸部へと逃れるしかなかった。もちろん連合軍のいない南部に逃れてから内陸の山岳地帯を迂回して地中海側に逃れる手段もあるが、それをした時点でカサブランカを放棄し、モロッコ自体を失うも同然だった。カサブランカは最も重要な防衛拠点であると同時に、物資が備蓄された兵站拠点でもあるからだ。
 そしてこの二カ所の時間差強襲上陸作戦で、モロッコの戦いは呆気なく帰趨が決してしまった。ラバトとラバトより南には、合わせて50万以上のフランス陸軍部隊がいたが、内陸部の未発達な交通網と激しい空襲を加味すると、地中海方面に後退する事は既に至難の技だった。上空には、沖合の空母から飛来する連合軍の航空機が途切れることなく上空を舞っていた。
 また後退する以上に、まだ自分たちの半数以下の兵士数でしかない連合軍を撃退する事は難しかった。できるのは遅滞防御戦だけで、カサブランカに上陸された場合には想定され、事前に作戦も立てられていたが、ラバトも落ちた事で事前の作戦もほとんど崩壊していた。
 モロッコでの戦いは、圧倒的優位な側がイニシアチブを握った戦いだどのようなものかを見せる戦いだったと言えるだろう。

 その間、欧州枢軸側の主力艦隊はどうしていたのか。
 連合軍は、モロッコに侵攻したら海空からの猛烈な反撃があると想定していた。そのため時間をかけて未曾有の規模の艦隊を用意し、上陸作戦中もそのうちのいくらかは洋上で警戒配置に就いていた。戦艦部隊の日本の第二艦隊などは、ジブラルタル海峡沖合でどちらから敵が進んできても迎撃できるよう、仁王立ちのように洋上で待ちかまえていたほどだった。空母部隊も常に2群が敵艦隊の出現に備えていた。
 だが、地中海のイタリア海軍は、リビア方面でも連合軍が攻勢を強めていたので、主力艦隊をジブラルタルに向かわせている場合ではなかった。欧州北西部にいたイギリス、ドイツ、フランスの各海軍は、多数の潜水艦部隊こそ出撃させたが、結局主力艦隊は出動させなかった。ただでさえ敵に対して戦力(艦艇)が不足する上に、6月に受けた傷も十分に癒えていなかった。さらに出撃拠点となるプリマス、ブレストが攻撃を受けて、短期的に拠点として機能しなくなって作戦行動に大きな支障が出ていた。
 しかし全ては表向きの言い訳であり、実際は連合軍との戦力差がありすぎたので、出撃させたくても出来なかったのだ。
 結局のところ、ジブラルタルは自国の海軍を全てすりつぶしても守るべき拠点ではないと、欧州世界が考えたが故の結果と言えるだろう。
 もちろん、戦略的見知から全力で艦隊を出撃させるべきだという意見も少なくなかったが、最終的にはドイツ海軍の出撃をヒトラー総統が否定したため、欧州枢軸としての艦隊出動自体が中止となった。
 航空機以外の洋上での戦闘は、枢軸軍の潜水艦群が若干の連合軍艦船を撃破するが、各国合計で50隻以上出撃したうちのほとんどが未帰還となった。当然だが、連合軍の作戦を阻止する事は出来なかった。

 「決戦」のために苦労して大艦隊を揃えた連合軍艦隊としては半ば不戦勝のような形ではあったが、モロッコは完全に連合軍の勢力下となった。現地に半ば取り残されたフランス陸軍部隊は、個々で戦うか逃げるかの選択を迫られ、あまりにも絶望的なため多くの部隊、兵士が降伏を選んだ。
 作戦は完全な成功だった。
 その後、ジブラルタル海峡では、モロッコでの大勢が決した9月末頃に、連合軍側から停戦と恭順を求める使いが出された。イギリス領ジブラルタルは欧州のイベリア半島側にあるため、強襲上陸を行うか空挺作戦を行うしかなかったからだ。
 抵抗は無益であり、歴史的にも価値のある場所を破壊するのは忍びないというのが理由だった。降伏ではなく恭順を求めたのは、当然ながら英連邦自由政府に寝返ることを勧めるものだった。海峡の周辺には、日米の主力艦隊が展開しており、沖合には空母機動部隊が万全の体制で布陣していた。さらには地上戦のため、1個旅団の海兵隊と奇襲用の空挺大隊も待機していた。主力艦隊は、あえてジブラルタルからも見える場所に砲身を掲げて布陣した。
 ジブラルタルは連合軍側が提示した24時間の猶予の後の回答で、形だけの砲撃を沖合の連合軍艦艇に行った後に白旗を掲げて降伏し、そしてその後は個人の判断で捕虜収容所に向かうか、英連邦軍の兵営へと向かった。恭順は示さなかったわけだが、連合軍はそれを受け入れた。
 なお、実際戦闘になった場合に、無数の巨大戦艦群の巨砲に対して、ジブラルタルのザ・ロックと言われる岩山に作られた伝統ある要塞がどれだけ耐えられたか議論される。何しろ難攻不落を謳われた海上にそそり立つようにある岩山だ。だが、旧式な要塞砲の射程距離外から世界最大級の巨砲に射すくめられ、岩山の形が変わって遺跡が廃墟となっただけだろうというのが、ロマンを廃した上での評価だった。ジブラルタルは降伏することで、その伝説を守ったと言えるかも知れない。
 とはいえジブラルタルの顛末は、戦場ロマンの範疇の話しでしかなく、連合軍にとっては余計な手間が一つ省けた程度の事でしか無かった。

 かくして連合軍は、圧倒的戦力でジブラルタル海峡を突破し、一気に地中海西部へとなだれ込んだ。
 連合軍の秋季攻勢ともいえる一連の作戦は、まだ道半ばだったからだ。



●フェイズ48「第二次世界大戦(42)」