●フェイズ52「第二次世界大戦(46)」

 もう少しの間、直接の戦闘以外の事を触れていきたい。

 国家の総力を挙げた総力戦を支える膨大な量の武器弾薬の生産には、多数の労働者の存在が必要不可欠だった。このため日本でも、国民総動員の状態で生産体制が構築された。その中でも、特に熟練工と言われた技術者、作業員をどれだけ確保できるかが、高度な技術兵器の生産と大型艦の建造を左右したと言われている。この頃の日本では、当時のアメリカや今ほどマスプロ(大量生産)の概念と技術が浸透していなかったので、とにかく労働者の質が高い方が良いのは間違いなかった。未熟な学生の動員などは、簡単なものの生産以外では資源の無駄遣いに近かった。
 この事は日本政府も深く理解しており、徴兵、招集も慎重に行われた。本来、兵役は国民の義務なので徴兵(または招集)に差別があってはいけないのだが、この点は軍の徴兵と技術者、工員としての徴用や招集はほぼ同列(軍属に近い扱い)として扱われた。その分だけ資格や経験年数などが考慮されたが、おかげで多数の優れた工員を確保し続けることができた。この事は優れた兵器の生産、故障の少ない兵器の生産に少なからず貢献した。
 また、教師と大学生も志願者以外は、基本的に徴兵除外とされた。だがこれは単に科学技術だけでなく、日本の現在と未来の知識全般を守るためだった。もちろん「俄教師」、「俄大学生」などになって徴兵逃れする者もいたので、審査についてはかなり厳格に実施されていた。また、文学や芸術を学ぶ学生が世間から白眼視されたりもしたが、政府は可能な限り擁護に務めた。また学生達も、外国語が得意なら休暇期間は通訳に赴き、音大生なら海外の慰問に赴くなど、自分たちにできる活動については活発に行った。もちろん、兵役志願、軍事教科の取得などを行う学生も少なくなかった。
 だが一方で問題もあった。
 兵士のなり手が減ってしまったのだ。

 開戦時(1940年度)の日本の総人口は本土が約7200万人で、台湾が約600万人でこのうち約1割が日本人だった。日本領の南洋諸島、ビスマーク諸島の日本人は、合計約20万人程度だった。他には、満州には約40年の間に約200万人以上が移住して、400万人の日系人がいた(※日本租借地の関東州除く)。400万人という数字は当時の満州帝国の総人口の約10%に当たり、アメリカ系移民、満州族よりも多いほどだった。
 保護国の朝鮮半島には、釜山の港湾地区と鉄道沿線の租界、各地の日本利権に3万人ほどがいた。それ以外に、アメリカ、ブラジルなどへの移民もあったが、流石にこれは除外する。また満州の日本人、日系人で戦争に参加した者のほぼ全てが、満州帝国軍の兵士として従軍していた。その数は約20万人に上り、満州帝国軍全軍の15%程度を占めていた。
 そして日本軍だが、1942年時点での日本軍は総数で約350万人を必要としていた。内訳は、陸軍が260万、海軍が90万人となる。平時の海軍は5万人なので海軍が非常に多いようにも感じるが、これは艦艇数が異常に増えた事もあるが、何より「空軍」の半数が海軍所属なためだ。陸戦部隊の海軍陸戦隊も、第一線の戦闘要員だけで10万人以上の大所帯となっていた。また、陸軍のうち約5万人(のべ十万人)は、満州帝国軍に籍を移して戦っていた。
 なお、総兵力数は総人口に対して約5%なので、他の主要参戦国に比べて兵士の比率は低い。だがこれは、日本が新興国のためだった。人口ピラミッドを見ると、ソ連以外の他の列強は概ね釣り鐘型かそれに近いが、日本は典型的な三角形を形作っていた。つまり子供の数が非常に多く、20才以上の大人の数が少なかった。加えて、産業の近代化の度合いが低いため、農業生産の維持のために多くの労働力が必要だった。しかも日本の農業は古くから続く労働集約型なので、人手を必要としたので尚更だった。
 このため欧米で見ると、6000万人程度の総人口と同じぐらいの兵士しか集められなかった。しかも日本政府は、熟練工を兵士にしなかったので尚更少なくなった。ただし本国近辺での陸戦主体ではなく、遠隔地での戦争という面も考慮しなければならない。
 1942年度はこれで何とかなった。だが、戦死、負傷または年齢(高齢)で抜けていく数と、二十歳に達して徴兵または招集される数は均衡が崩れていった。
 加えて戦域の拡大が、兵士不足に拍車をかけた。
 特にインドでの戦いは、日本陸軍に大きな人的消耗を強いた。戦死者、負傷者が多かったのではなく、軍の規模を大きくしないと広大な戦場で戦えなかったからだ。このため新たな兵士を、どうしても必要とした。そうしなければ、来るべき欧州侵攻で兵力が不足すると考えられた。だが、政府は熟練工を手放す気は無かったので、他から物色することとした。最初に注目されたのは、台湾だった。

 大戦になるまでの台湾は、あくまで日本の植民地だった。だから台湾出身の日本人以外は、軍の士官学校、兵学校に入学する事は出来なかった。兵士になることも無理だった。しかし大戦に参戦したことで、そうも言ってられなくなる。
 まずは1941年春を目処に、志願者を募った。これは政府、軍の大きなそしてうれしい誤算として、2500名の募集に対して10万人もの志願者が各地の事務所に殺到した。このため1941年のうちに枠は大きく拡大され、当初の十倍の規模で「台湾軍」の編成が進められる。そして台湾各地で在郷連隊を編成していった。この中で陸軍が期待したのは、台湾の先住民族、日本名「高砂族」とされた人々だった。彼らはマレー・ポリネシア系民族で、山深い中で先祖伝来の暮らしを守っていたので、険しい地形、特にジャングルでの経験値が豊富だった。このため東南アジアのマレー作戦では早くから投入され、ビルマ作戦、インド作戦でも重宝され、戦場で兵士達から信頼を受けて日本陸軍内で台湾兵の地位を確立していった。
 そして1942年度からは、台湾全土で本格的な徴兵が開始される。この徴兵は、戦後に台湾の自治権を拡大する事を条件(報償)として実施され、同盟国のアメリカからも高い支持を受けた。
 徴兵対象は、最終的に住民全体の約5%を目指したが、軍の側の受け入れ体制もあってまずは3%を目指した。600万の3%なので、18万人になる。このうち沿岸部の漁民を除くほとんどが陸軍に徴兵された。今まで在郷連隊だったものを一気に師団規模に拡大し、台湾師団が6個編成された。日本の各師団にバラバラに配属しなかったのは、それまでの調査と先に徴兵された兵士達から、日本に対する忠誠度が非常に高いと判断され、不要だと考えられたからだ。
 台湾の人々は、全般的に近代化をもたらした日本帝国に強い恩義を感じており、この戦争は恩を返す絶好の機会と考えていた。また世界を股にかけた大戦争に「一等国日本」の兵士として参加することに、大きな誇りを抱いていた。
 日本政府としては、今までの統治の正しさを再確認する事になったが、それほど住民の慰撫や啓蒙をしてきたとは考えていなかったので、嬉しい誤算といえるだろう。
 そして台湾兵は、1946年度までに計画通り全住民の約5%、30万人にまで拡大して、日本軍の兵力不足を大きく補う事になる。

 だが、それでもまだ足りないと言うのが、軍部の言葉だった。この事を受けて、囚人の動員が進められる。
 戦時法が制定されて囚人が戦場に動員される体制を作り、そして刑務所から戦場へと送り込んだ。看守達も、特務ながら下士官兵や将校として同じく戦場に向かった。
 ただし「囚人動員」決定には一悶着あり、内務省と商工省、軍需省の対立が見られた。当時の内務大臣は、政友会の鳩山一郎。日本の総力を結集する戦時内閣と言うことで山梨勝之進首相に請われての入閣だったが、当時の商工大臣の中島飛行機創業者の中島知久平とは仲が悪かった。鳩山一郎と軍需大臣との岸伸介との関係はそれほど悪くなかったと言われるが、効率的な軍需生産と徴兵・招集の両立に苦心する軍需省と内務省は対立することが多かった。
 そうした関係の中で囚人の動員が政治問題となって、法案の可決と実際の動員が遅れた。この中で特に問題となったのが、治安維持法の逮捕者だった。彼らの多くがいわゆる思想犯で、日本政府が最も恐れる共産主義者、社会主義者、無政府主義者が多かった。軍需省は、軍部と共に借りられるなら猫の手でも借りたいのだし、囚人兵には囚人兵に合った任務があると言った。またソ連同様に囚人兵だけの囚人大隊を編成すれば、思想面での他の者への浸透も起きないとした。これに対して内務省は、この時代では珍しい人道問題まで持ち出して対抗した。
 結局、山梨首相の裁定を経て法案が提出され、早急に議会で可決されて1943年度から動員されていったが、閣僚間の対立が禍根となったのも確かだった。なお、どうせ戦争に勝利したら恩赦で囚人達を減刑しなければいけない場合が多い筈なので、動員に際して減刑を囚人への報償とする事が明記されていた。
 なお、治安維持法の逮捕者数は、通常の犯罪で逮捕・収監された者の二倍以上にも上る約7万5000人。特に開戦後に予備拘束に近い形で逮捕、収監者された者が多数に上っていた。収監者の中には、全体主義者(ファシスト=ナチスへの傾倒者)も数多く含まれていた。だが政府は、ソ連と同盟関係になるまで、共産主義者がテロを起こす事を最も恐れていたので、最も多く逮捕されたのは共産主義系の思想を持つ者だった。
 ただし、一般犯罪者(約3万5000人)を含め囚人の中には多くの女性もいるし、従軍するには年齢を重ねすぎている者もいたので、女性と40才以上は今までよりも重い工場労働への勤労奉仕とされた。また招集年齢に達していない少年院服役者も除外された。これらの場合、禁固刑の者でも労働に従事しなければならなかった。軍役や労働を免除された囚人は、病人以外だと60才以上の老齢囚人だけだった。

 囚人動員の実質的総数は8万人程度で、多くが治安維持法の収監者だった。男性数が多いのも、一般犯罪者、治安維持法逮捕者共に男性が圧倒的に多いからだ。そして世界共通で、囚人は戦場での扱いが良いと言うことはなかった。ソ連軍のように、地雷原を歩かされたり激戦地で無謀な突撃させられるという事は流石に少ないが、一般兵のやりたがらない事を優先的にやらされた。特に「戦場掃除」といわれる激しい戦闘後の戦死者の片付けは、囚人兵や懲罰兵の仕事だった。他にも、陣地構築などの重労働を優先的にさせられる事も多い。一般兵からも下に見られる事も多く、衣食住を含めて扱いも雑だったと言われる。だが、戦闘をしたり突撃を命じられることはあまり無いので、戦死者、戦傷者で見ると一般兵よりはるかに少ない比率だった。
 例外は、満州帝国への割り当てとして送り込まれた囚人達だった。囚人大隊として戦場、しかも激戦地に投入されて、たった一度の突撃でほとんど全滅という事態も見られた。囚人部隊のロシア派兵は、共産主義の総本山の救援ということで治安維持法関係の囚人が多く、そして熱烈に志願したので仕方なく実施されたのだが、彼らがソ連の共産党員などから厚遇されるより前に存在を隔離され、現地の満州帝国軍に使い潰されたというのが実状だった。満州帝国軍でこのような事が出来たのは、満州国内の共産主義者や重犯罪者などを同じように使っていたので、ソ連も気づくのが非常に遅れたためだった。
 また、陰謀史観として、札付きの共産主義者、社会主義者、無政府主義者を合法的に抹殺するために仕組まれたと言われることもある。真実は歴史の闇の中だが、満州帝国軍の囚人部隊として1万人以上が派兵され、その90%以上が戦死したのは確かな記録だった。そして残された10%未満のうち何人かはソ連の共産党に保護され、その後共産主義活動で活動した者もいた。ソ連での日本人共産党員の保護活動は、以前からソ連に亡命していた野坂参三が中心になったと言われている。
 そうした統計学上の小さな事件はともかく、日本は8万の囚人兵(多くは後方要員)を手に入れる事に成功した。これに台湾兵30万を加えると、全体の10%以上の兵士の獲得に成功している。加えて、日本全体での徴兵も若干強化されたので、最終的に日本は400万の人々を兵士とした。

 この総動員の中で女性の兵士としての活用も考えられたが、欧米よりも女性の地位が低かった当時の日本では、軍属であっても動員されることはほとんど無かった。ほぼ唯一の例外は赤十字の従軍看護婦だが、それも可能な限り後方配置とされた。
 しかし軍属でもない女性が、多数戦場近くにまで送り込まれている。言わずと知れた、軍隊には付き物の「性の問題」の解決のためだ。日本の組織は欧州の制度を導入して日本式に改めていったもので、戦争になると軍が多くのことで関与して、将兵が性病などにならないように主に衛生面で努力していた。後方の兵站拠点では、料亭などが「支店」を出しているケースすらあった。これら料亭などは日本軍と一部満州軍のいる主要な場所に存在して、「ゲイシャ・キャバレー」などと呼ばれて同盟国の将兵からも大人気だったと言われる。
 なお、不思議というか当然と言うべきか、同じ連合軍のアメリカもソ連も国は公に性の問題を解決する組織や公式の制度などを持っていなかった。どちらもイデオロギーやプロパガンダの為設けられなかったのだが、理念や思想だけで問題が消えるわけではないので、全くなにもしないわけにはいかなかった。ただし、極端に言えば民間人が「勝手にしている事」に過ぎなかった。このため日本の慰安施設は、米ソの兵士からはちょっとした賄賂などと共に非公式に利用されることも多かったのだ。しかし日本の場合も軍属ではなく、あくまで民間人(市民または国民)扱いだった。

 結局、日本での徴兵はアメリカなどに比べて非常に少ない比率だったが、遠隔地での戦争での動員と言うことを考えるとこの程度が当時の日本の限界だった。
 なお、保護国としていた朝鮮半島(朝鮮王国)は、徴兵の対象外であり続けた。志願兵も、かなり厳しい試験(思想、言語などの)を合格した者だけが兵士となることを許されただけだった。

 朝鮮王国(=韓王国(自称:大韓帝国)英名:Korea)は朝鮮半島に周辺の島々を加えた領土を持つが、1910年以後は日本帝国の保護国だった。保護国とは、外交、軍事、中央税制を宗主国が有する状態で、独立国ではない。保護国政府は、内政自治が認められているので植民地ではないが国家主権は無かった。イギリスなどの自治州や自由国よりも扱いは低くなる。半植民地というのが正しいだろう。
 そして日本帝国は、朝鮮王国の内政に対して立場を尊重する形で助言以外はしなかったので、朝鮮半島内の鉄道と電信の敷設権、付属地、一部港湾の租借、主要鉱山の利権を得た以外ではほとんど放置した。日本政府が行わせたのは、雑然としていた度量衡を日本に合わせて統一したぐらいだった。それでも日本は朝鮮王国政府に近代化の助言と支援の用意を伝えたが、朝鮮王国が求めるのは無償援助、実質的には支配階級の賄賂となる支援だけだった。
 朝鮮王国内の支配階級(両班)は、自国民に公教育(義務教育)を施したら自分たちが権力を無くすと考え、国民の無学化政策を続けた。日本政府に協力を仰いで近代的な学校を作っても、支配階級と一部の富裕層のためだった。国内の治水治山などの公共事業もほとんど行わず、朝鮮の山野は資源として浪費されて禿げ山だらけだった。何かを行っても、日本が日本の利権のために行わせただけだった。鉱山から港への鉄道や道路の敷設は、日本にとって必要だからだ。朝鮮王国として何か近代的なものが作られても、殆どの場合ごく少数の支配階層の為だった。電気が灯っていたのは、日本利権以外では王宮や支配階層の一部などに限られていた。日本が鉱山や租界に設置した火力発電装置以外で、まともな発電施設が無かったからだ。
 鎖国していた朝鮮王国時代と比べて、外の世界から知識や技術は流れてきたので、取り入れようとした朝鮮民族もいたが、ほとんどは無理解な支配階級によって潰された。善良な日本人が個人として農業指導した事すら、内政自治への干渉だと言って元通りになるまで潰してしまった例まであった。日本人が被害を受けると流石に日本政府が干渉したが、朝鮮側は殆どの場合は開き直ってしまい殆ど処置無しだった。
 朝鮮民族が現状から抜け出す手段は、朝鮮王国内にいる少数の日本人に仕える以外だと、日本が引いた鉄道や道、立ち寄る船を使って国外に移民することだった。だが、支配階級は民が国を離れることを阻止したし、日本と満州(の日米支配階層)は朝鮮民族が無軌道に国境を越えてくることを好まなかった。しかも日本(とアメリカ)政府は、朝鮮からの移民を嫌ったため、満州、日本に移住すること難しかった。それでも一部は陸づたいに満州に流れたが、約40年の間に合計50万人程度と考えられている。例外は朝鮮にいる日本人に見いだされる場合だが、日清戦争以後半世紀の合計でも数千人と言われている。ただし、両班の国外脱出は日常的に見られた。
 日清戦争の頃に1300万人だったと考えられている総人口は、その後40年間もほとんど増えなかった。残念な事に、朝鮮政府が増やすための政治を行わないのだから当然だった。医療・衛生の近代化も特権階級以外は否定されていたので、平均寿命も19世紀末と同じ25才程度のままだが、医療や飲料水の環境がアジア最低のレベルだったから当然だった。若干の近代化の影響で増えた分も、国外に逃げ出して相殺していた。
 そして第二次世界大戦になって、日本は朝鮮王国に対する長年に渡る放置状態をかなり後悔したと言われる。直接統治して長い時間をかけて近代化をしておけば、台湾のように戦時生産に寄与したり戦争に動員できたのではないと考えたからだ。しかし全ては後の祭りで、一定数を単純労働者として拠出させる以外には、鉱山などでの増産に動員するのが限界だった。これらの動員は、朝鮮王国内に多数(国民の30%)の奴隷階層がいたので、支配階級に一定の金を積み上げるだけで簡単に動員できた。古いままで良かったのは、精々これぐらいだった。
 なお、労働者は軍属扱いとして動員したが、これは連合国主要国としての日本の立場上、戦後朝鮮半島の独立もしくは自治の拡大を進めるための日本国内向けの言い訳を作るためだった。
 朝鮮半島の例に見るように、日本は最前線以外では既に戦後を見て動き始めていたのが1944年が終わろうとしている頃だった。

 そしてその頃、前線でも次なる戦いのための一つの動きが見られた。人事異動だが。
 連合軍では44年11月にギリシア作戦が終わると、日米海軍で人事が大きく移動した。アメリカ海軍は、殆ど第二艦隊と第四艦隊の司令部の交代だけだが、日本は少し遅れた人事異動の時期になったからだ。戦争中なので異動しても熟練者はそのまま残すか上位の部署に移すべきだという意見もあったが、連合国各国軍との関係、連携を考慮すると前置きするも、平時と変わらず人事異動が開始された。

 なお、アメリカ海軍では、1944年2月の空母機動部隊の攻撃を戦略的失敗と考えて、その責任を問うため懲罰人事的な異動が第二艦隊に実施された。結果、総司令官だったウィリアム・ハルゼー大将は、異動の形で事実上の更迭で第一線を去った。ハルゼー提督は国内人気が高いので、あからさまな左遷ができなかったからだ。第一空母群指揮官だったマケイン中将は、ほとんど予備役と言える形で更迭された。連動して、何名かの高級将校も第一線を去った。そして12月に新たに第二艦隊司令長官になったのが、ハズバンド・キンメル大将だった。
 キンメル提督はハルゼー大将と同期だが、民主党系の人物だったため、積極的で優秀な軍人だったが少将以上になかなか昇進できなかった。それでも1941年からは、「太平洋航路管理局」と揶揄された太平洋艦隊司令長官に就任。これで戦時昇進とはいえ大将に昇進したが、戦争と直接関係のない部署では活躍も限られていた。これも民主党系の軍人だったためだ。
 しかし腐ることなく、航路の安定化と効率的運用に尽力して、組織運用力で高い評価を受ける。船の運航を通じて、日本海軍との深いパイプも作った。そして政権交代によって手腕が高く評価され、実質的な降格ながら本人のたっての希望もあって第一線艦隊の総指揮官に抜擢された。しかし空母機動部隊の運用手腕には疑問もあったため、空母部隊指揮に熟練したミッチャー提督は異動の予定を取り消して留任する事になった。
 なおアメリカ海軍では、実戦部隊の司令部は第二艦隊と第四艦隊があるが、司令部が二つあるだけで艦隊が二揃えあるわけではない。司令部は激務なので、ローテーションを組んで休養させるためだった。そして1944年11月まで第四艦隊が前線指揮に当たり、12月からはカリブでの戦いの頃に激闘を重ねていた第二艦隊に交代した。二つの艦隊が共に実戦参加したのは、艦隊規模が大きくなりすぎた1945年の秋以後の事だった。他の艦隊でも、上級司令部ほど司令部が二つある場合が多かった。上陸支援任務に従事し続けていたキンケイド提督の司令部も、ヒューイット提督の司令部と交代したりしている。上陸作戦のスペシャリストといえるターナー提督らについても同様だ。アメリカ軍は、人も消耗、摩耗すると言うことをきちんとシステム化していた。

 一方の日本海軍だが、一気に前線指揮官の若返りを実施した。本来はもっと早くする予定だったが、戦線が一段落したのでようやく取りかかることができた形だった。
 連合国各国との連携と戦時と言うことで聯合艦隊司令部、地中海、大西洋両方面のトップはそのままとされたが、下に就く司令官、参謀クラスは2〜3期ほど若返った。前線部隊の指揮官は、それまでの海軍兵学校37期、38期中心から39期、40期に移った。聯合艦隊参謀長も交代して、40期の福留繁中将が新たに就任した。
 日本海軍で最大級の戦闘部隊となる第一機動艦隊司令官には、伊藤整一中将が就任した。
 カリブ戦の頃から活躍していた角田覚治中将を推す声も強かったが、アメリカのハルゼー提督の例からも「積極的すぎる」として、角田提督は休養も兼ねて一旦は少し後方の配置とされた。伊藤提督は、艦隊や前線よりも後方での活躍、軍政家としての活躍が目立つ提督なので、前線指揮官に抜擢するには多少の疑問も出た。しかし冷静な人物だし、アメリカに駐在武官に行っていた経験など、指揮官よりも連合軍内でのパイプ役としての手腕を買われた。スプルアンス提督との交友関係もよく知られていた。
 そして補佐として、空母《蒼龍》艦長、第二航空戦隊司令として前線で活躍してきた柳本柳作少将が着任した。各機動群、航空戦隊指揮官も、開戦頃に空母の艦長を務めていた者が多く、非常に実戦的と言われる人事が行われた。
 麾下の第二機動群は山口多聞中将、第三群は城島高次中将が指揮官に着いた。山口提督は、開戦頃から第二航空戦隊指揮官などの前線指揮の猛将として知られ、国民的人気も高かったし、能力、手腕も十分だった。城島提督は、開戦時は軽空母の艦長職と同期のトップ集団からはかなり出遅れていたが、戦争中ずっとカリブ、大西洋で戦歴を重ねてきた歴戦の船乗りだった。常に空母を指揮して、主に潜水艦狩りで活躍してきた。アメリカ海軍からも「サブマリン・キラー」と呼ばれ信頼されていた。空母対空母の戦いにも何度も参加しており、艦長、戦隊司令としての戦果(敵艦撃沈数)の多さは日本海軍随一だった。また、ずっと大西洋で過ごしたので、大西洋に慣れているだけでなく、アメリカ海軍とのパイプも太かった。
 戦艦部隊の第二艦隊司令官は宇垣纏中将。戦争中は、聯合艦隊参謀長、第一戦隊司令など海軍実戦部隊の要職を歴任してきた砲術の専門家なので、この人事には主力艦隊の指揮官としてはまだ少し若いのではという以外で異論は出なかった。参謀長にも、直前まで《大和》艦長をしていた森下信衛少将、第一戦隊指揮官に《武蔵》艦長をしていた猪口敏平少将がついたので、空母が幅を利かせるまでの主力部隊だった戦艦部隊は盤石といえる布陣だった。なお、ここでも角田提督を推す声はあったが、休養ということで角田提督が戦艦部隊を率いる人事は幻と終わっている。
 地中海艦隊に移動になった第八艦隊司令官は、鈴木義尾中将。第二艦隊の宇垣提督とは同期で仲もよく、どちらに《大和》《武蔵》を任せるかで人事が悩んだと言われる。
 地中海の実質的な前線指揮官は、カリブ海での活躍で脚光を浴びた阿部弘毅中将(※《比叡》《霧島》を指揮していた)になった。これで近藤大将は、年齢もあるので後方での指揮に専念する事となる。そして阿部提督に限らず、地中海にはカリブでの戦いの経験者がかなり配属されていた。
 また、大西洋に拠点を置くようになっていた潜水艦隊(第六艦隊)司令は、公家出身の醍醐忠重中将が昨年より引き続いて率いた。彼も古い家柄や上流階級好きのアメリカのエスタブリッシュメント達に追い回されたが、戦場がヨーロッパに近づいてからはチャールストンという辺鄙な場所で練習巡洋艦《香椎》に将旗を掲げて、前線指揮に専念した。多数の潜水艦と支援艦艇しかないそこは、彼にとっての心の楽園だったとも言われる。
 地中海に陣取る基地航空隊の第十一航空艦隊司令には、戦争初期に空母機動部隊を率いて活躍した武部鷹雄提督が、少し早く大将に昇進して指揮官に返り咲いた。そしてその下に大西瀧次郎中将、吉良俊一中将、寺岡謹平中将が、それぞれ実質的にはかつての航空艦隊規模の部隊を率いた。第十一航空艦隊は、開戦までとは規模がまるで違うほど肥大化していたので、方面艦隊同様に大将を指揮官とするようになっていた。(※前任者の塚原提督も、中将で就任して途中で大将に昇進している。)
 なお、武部提督の同期でそれまで空母機動部隊を率いていた小沢提督、軍令部次官の井上成美提督も同時に大将に昇進している。彼らは共に37期だが、それより前の提督の幾人かも通常より少し早く昇進している。これら昇進は、アメリカなど他の連合国各国の昇進に合わせたもので、日本海軍内では「戦時昇進」とも言われた。また、日本海軍が巨大化を通り越して肥大化したため、高級指揮官が多数必要だった事も強く影響していた。

 日本陸軍は、日本海軍と比べても人員規模が大きいため、大将の数は多かった。1944年末頃の前線指揮官で見ても、地中海の岡村寧次、山下奉文、米本土の前田利為、本間雅晴を見ることが出来る。これに、インド総督状態(※正式にはインドGHQ総司令官)の梅津美治郎、中東総督状態の田中静壱、中華総督状態の今村均を加えると、この時期の前線の大将のほぼ全員だった。(※ただし、満州帝国軍人としてロシアに従軍している日本陸軍出身の大将、上将が数名いる。)
 師団数は本土の後備兵中心の留守師団を含めて60個を数え、うち戦時動員された15個の軽装備部隊が中華やインドなどの占領統治にあたり、10個が北米に進出、23個が北アフリカ又は地中海に進出または展開していた。この前線用の33個師団と一部本土で編成や改変中の数個師団は、戦争中に巨大化していった重装備の大規模部隊で、最低でも自動車化師団のため所属兵員数も多かった。他は機械化面以外では戦前の編成に近い軽装備師団がほとんどで、戦闘よりも警備や後方維持の任務に就いていた。所属兵員数では約二倍の差があるため、「師団」と「旅団」ほどの違いがあった。
 前線部隊は大きく地中海方面軍と大西洋方面軍に分かれ、合計で3個軍に再編成されていた。インドや中東では他の連合国と軍団ごとで混成していた方面軍も整備されつつあり、来るべきヨーロッパ本土での作戦準備を進めていた。そして前線では、岡村大将が実質的な「遣欧総軍」の指揮官になる。地中海での実戦部隊は山下大将が指揮するので、現地日本陸軍の総指揮のために岡村大将が派遣されたとも言える。ただし欧州方面は、実質2個軍体制にする予定なので、45年の春までにもう一人大将か大将に相当する中将が派遣される予定だった。なお、60才で予備役になる大将が何名かいたが、戦時と言うことで現役を延長されている。この点は、日本海軍よりも融通性が高められていた。
 ちなみに、日本陸軍では航空機運用に熟練した上級指揮官が殆どいなかったせいか、第3、第5の2つの航空軍(※共に実働機1000機以上で、他の航空軍は実質的な教育部隊や紙面上の存在。)の大部隊の指揮官は、陸軍航空隊を育ててきた中将クラスの指揮官が務め続けた。このためアメリカ軍からは、大将無き空軍と言われたりもした。

 ちなみに、大将、中将に限らず、他の将校、将兵の昇進も平時よりかなり早かった。ただし、この時期にアメリカ、自由英では陸海軍の最高指揮官クラスに元帥の称号を与え始めていたので、日本軍も追随するか激しい議論が起きている。結局、この頃の人事異動で海軍の軍令部総長、陸軍の参謀総長に元帥位が与えられたが、これは異例のことだった。
 日本軍での元帥とは、皇族を例外として実質的に前線を退いた者が授与される名誉称号のようなもので、実戦指揮官に与えられる事はほぼ無かった。肥大化した空母機動部隊の指揮官が中将に留め置かれているのも、半ば伝統的なものだった。前線指揮に大将が複数いる事すら異例なので、結局日本海軍は実務に就く軍人に元帥位を授けることは無かった。
 
 そして人事を一新すると同時に、新たな戦力を迎え入れつつ、欧州へと歩みを進めていくことになる。


●フェイズ53「第二次世界大戦(47)」