●フェイズ59「第二次世界大戦(53)」

 1945年6月7日午前5時13分、枢軸軍は英本土空軍の偵察機が、連合軍の空母機動部隊を最初に発見した。発見した機体は、配備が始まったばかりの「デハヴィラント・ホーネット」双発戦闘機の偵察型。モスキート譲りの快速で、インターセプターを振り切っての偵察成功だった。
 ただし、彼らが最初に見つけたのは、連合軍が英本土に対する抑えとして配置した空母部隊の一角だった。だが詳細まで掴んでいなかったし、その後第二第三の報告もあったので、枢軸側は連合軍艦隊への総攻撃を発動する。

 英本土空軍のうち、英本土北部から沖合の空母部隊を射程に納めていた攻撃機の数は約350機。本来は500機あったが、すでに破壊されるか損傷していた。中に飛行場が破壊され、機体が無事でも離陸できない場合もあった。また上陸部隊を攻撃する重爆撃機隊が、別に200機ほどブリテン島の中枢部から飛来予定だった。本来はどちらかに戦力を集中したかったが、敵主力が洋上ではどうにもならなかった。
 英本土空軍での問題はまだあった。沖合の空母部隊を目指す攻撃隊には、十分な護衛が付けられないのだ。これも航続距離が原因しており、増加燃料を入れたドロップタンクを付けた機体でも敵艦隊に届かない機体が多かった。連合軍はスピットファイアなど枢軸側の機体を「バッタ(ホッパー)」と小馬鹿にしていたが、この時にもその欠点が露呈していた。これがこの時期の連合軍なら、護衛できない戦闘機が存在しないのだから、その差は比較にもならなかった。
 空母艦載機の方は、連合軍艦載機よりも航続距離がかなり短いので、とにかく艦隊が接近するより他無かった。また、当初の計画では、スコットランド北部の空軍基地から飛来する空軍機に艦隊の防空を担わせる予定だったが、北部の基地は既に多くが廃墟や「地図のシミ」となっていたので未発の計画に終わった。そして艦隊防空も機動部隊自身がしなければならなくなり、必然的に随伴できる戦闘機数が半減した。
 だが、総攻撃が命令され、空軍機が飛び立ち始めたのと同時に、枢軸軍の最大最強となった空母機動部隊も艦載機の発艦を開始する。

 枢軸海軍空母機動部隊の艦載機構成は、戦闘機と攻撃機の比率で言うと攻撃機が多かった。基本的に6割が各種攻撃機で、戦闘機は4割程度となる。総数920機あるので、550機が攻撃機で残りが戦闘機になる。そして一度に各空母の飛行甲板に並べられる機体数は、大型空母で30〜50機で軽空母だと20機がせいぜいだ。また、発進にカタパルトだけを使用すると並べられる数がかなり増えるが、発艦間隔は通常より長くなることが多い。ただカタパルト発艦の方が遅いのは日米の空母の場合で、通常発艦の方が早いのは多くの熟練したパイロット達と同じく熟練した空母乗組員がいればこそだった。練度不十分の枢軸の場合は、むしろカタパルト発艦の方が早かったので、もっぱらカタパルトが使われた。
 第一次攻撃隊は総数430機。このうち120機が戦闘機で、残りは全て攻撃機か爆撃機だった。第二次攻撃隊は280機。一度で飛行甲板に並びきれなかった機体が、慌ただしく飛び立っていった。これ以外は、偵察に20機、防空隊が190機ほどになる。随伴艦の水上機もあったが、落とされる可能性が高いので艦隊の対潜哨戒と限定的な偵察に使われただけだった。
 しかしこれほど多数の機体を一度に放つ訓練、特に三国合同の訓練は行っていないため、各空母群ごとの集合と進撃となった。訓練をしなかったのは、徐々に深刻化する燃料不足と、就役して間のない空母が多かったことが原因していた。それどころか、機動群ごとの集合訓練すら十分では無かった。また各国海軍の見えない軋轢、心理的な溝が合同訓練の積極的実施を妨げていた。こうした見えない点も、戦前から合同訓練をしていた日本とアメリカ軍との大きな違いだった。
 訓練で言えば、艦隊を組む訓練も十分ではなかった。連合軍と同じ輪形陣を採用していたが、イギリスはともかくドイツとフランス艦隊の輪形陣はガタガタだった。数字の上では大艦隊と大編隊を作ったのはいいのだが、訓練と運用の習熟にまで至っていなかったのが、この時の枢軸艦隊だった。就役してからの日が浅い艦艇が多いのも、訓練不足を助長していた。加えて言えば、ドイツ、フランスは海軍自体が空母の運用の日が浅いので全般的に経験値が不足していた。
 艦載機の詳細は、イギリス本国海軍が「シーファイア(Mk.IX改造型)」艦上戦闘機、「フェアリー・ファイアフライ」艦上戦闘機、「フェアリー・バラクーダ」艦上攻撃機、そして「ブラックバーン・ファイアブランド」戦闘雷撃機になる。
 ドイツは、「フォッケウルフ Fw190T」戦闘機、「ユンカース Ju87T」攻撃機だが、「Ju87T」は改良型でも既に旧式化しているため、やむなくイギリスから「フェアリー・バラクーダ」も導入した。ドイツ空軍(と海軍)は、より高性能の「フォッケウルフ Fw190D」又は「Ta 152H」を艦載機にしようとしたが、滑走距離と着艦速度の問題を解決できず結局搭載を見送った。またドイツは、艦載機搭乗員と航空整備兵、飛行甲板(空港)運用員が空軍出向の形はこの時も維持され、ソフトの面での問題は解決されないままだった。
 艦載機の問題はフランスも同様で、戦闘機は「アルゼナル VG33M」の発展型の「アルゼナル VG44」艦上戦闘機を何とか間に合わせたが、攻撃機は見るべき機体が無かったのでイギリスの「フェアリー・バラクーダ」を導入した。
 つまり最も多い攻撃機は、イギリス製の「フェアリー・バラクーダ」だった。バラクーダは必ずしも高い評価を受けた機体ではなかったが、量産が進んでいた事もあって大戦後半での枢軸軍の主力艦上攻撃機として使用された。また、急降下爆撃機としても使用されたので、攻撃機の主力は完全に本機だった。ファイアフライは、フェアリー社の機体らしく相変わらず全ての面で中途半端な性能しかないが、汎用機ということで搭載機数の少ないイギリスの軽空母に搭載されていた。
 ファイアブランドは開発に5年もかかり、最初は艦上戦闘機として計画されるも、計画が二転三転して戦況にも振り回され、ようやく45年に入ってから量産が開始されたところだった。戦闘機が開発のスタートだけあって、単座の雷撃機という当時としては非常に珍しい機体だった。日本の「流星」以上に、ある程度の対空戦闘能力もあった。機体分類も戦闘雷撃機だった。しかしパイロットに戦闘機と雷撃機の訓練を積んでいる者が殆どいなかったため、一部の例外を除いて運動性の高い雷撃機として運用された。
 そしてイギリスを中心にして枢軸軍全てに言えることは、枢軸側は最後まで艦上機の開発と整備が成功を収めることが無かったと言うことだった。これは海軍の航空機に対して大きな努力を傾けなかった事と、日米が空軍を持たず海軍が自分たちのためだけの機体開発に力を入れることが出来たからだと説明されることが多い。
 しかし数は力だった。
 総数700機もの大攻撃部隊は、勝利をもぎ取るために一度も勝てたことのない宿敵へと向かった。

 枢軸側が盛んに攻撃機を放っているのは、連合軍側に筒抜けだった。枢軸艦隊から少し離れたはるか上空にいる「F-13」などが、かなり正確なレーダー情報をもたらしていたからだ。また周辺海域には、枢軸側の濃密とは言えない哨戒網をくぐり抜けた潜水艦が複数潜伏していた。潜水艦によっては、雷撃の機会すら伺う余裕があったほどだ。加えて進んでくるルートが分かっているので、予測進路上に潜水艦を伏せておく事も容易かった。
 しかも枢軸側は、とにかく敵に接近しないとまとまった攻撃隊を出せないため突進し、彼我の距離は300キロ以下にまで縮まった。この突進は連合軍としても予想を上回り、潜水艦による攻撃の殆どは断念せざるを得なかったほどだ。さらに、連合軍艦隊の前衛に配されたレーダー・ピケット艦(電探斥候艦)は、攻撃隊をかなり早くから捉えていた。あまりに積極的すぎるため、連合軍側は自らの迎撃網を維持するため少し距離を開けたほどだった。
 そうして連合軍の偵察で分かったことは、枢軸側は攻撃隊の数は多いが、それほど密集していないと言う事だった。特にドイツ艦隊は、陸での戦闘でもするような動きに変化は見られず、自ら攻撃の効果を減殺させていた。
 このため、迎撃の統括指揮をすることになっていた日本海軍第一機動艦隊では、旗艦《大淀》後部にある大きな戦闘指揮所から矢継ぎ早に迎撃を指示していった。
 この時連合軍空母部隊は、7個機動群、空母34隻、艦載機数2200機を効率的に運用することが出来た。特に自らが攻撃隊を放たないので、各空母から攻撃隊を出し入れする事での混乱から解放された上に、全ての戦闘機が迎撃に使用できた。戦闘機総数は約1100機。これを大きく3つのグループに分けて、日本艦隊、アメリカ艦隊、前衛のそれぞれ前面上空に布陣させ、近寄ってくる編隊に対して効率的な迎撃を実施した。日本古来の戦法で言えば、「魚鱗之陣」で迎撃しようとしたと言えるだろう。
 行っている事は、前年のアイスランド沖海戦の規模を大きくしただけだが、規模が大きくなった状況を十分に指揮できることこそが、連合軍の努力の現れであった。
 また別の3群、キンメル提督が指揮する部隊と護衛空母群が、イギリス本国空軍からの挑戦を同時に受けていたが、こちらも状況はほぼ同じだった。しかも場合によっては、相互に援護の航空隊が出せる位置にあった。
 そしてこの状況で言えるのは、枢軸側は集中攻撃をした積もりだったが、連合軍は戦場を実質的に二つに分ける事で混乱を避け、しかも自分たちの方は、完全に分裂していないという事だった。つまり、枢軸軍は集中攻撃を仕掛けた積もりが、実際は各個撃破されたと言うことだった。
 これは連合軍の空母部隊があまりに巨大だったから出来たことであり、また特定の戦力が攻撃を受ける点を逆手に取った形だった。
 連合軍と枢軸軍の差は、追いつめられている側と追いつめている側の心理的余裕の差とも言えるだろう。
 しかし、枢軸軍は追いつめられているだけに、攻撃は苛烈だった。

 枢軸軍の大編隊の先陣は、フランス海軍機だった。
 艦隊の位置が一番前で、さらに所属する空母2隻が中型で艦載機数もそれほど多くなかったので、発艦と空中集合に時間がかからなかったからだ。
 定石通り高度3000メートル付近を進んだフランスの印を付けた「アルゼナル VG44」艦上戦闘機約20機と「フェアリー・バラクーダ」艦上攻撃機約30機の編隊は、半ば奇襲で上空から逆さ落としを仕掛けてきた「烈風改」約50機の迎撃を受ける。たった一通過で40%以上が撃墜され、さらに10%以上が損傷して離脱や待避を余儀なくされた。その後も10分ほど空戦が続いたが、10機程度が進撃を続行できただけだった。全ての面での習熟度、熟練度の決定的な差が、示された形だった。
 まだ敵艦隊は、30海里(約54キロ)も先だった。
 イギリス軍編隊は機数に余裕もあるので、敵が迎撃のために位置するであろう高めの高度を飛ぶ先行機を配置し、さらにレーダー搭載機を随伴させていた。このため効率よく接近してくる連合軍編隊を捉えることに成功し、さらに奇襲的迎撃を防ぐこともできた。
 だが、戦闘機の数が違いすぎた。敵艦隊に至るまでの空には、そこら中に効率よく戦闘機隊が配置されており、その数は攻撃隊を確実に上回っていた。
 枢軸側の攻撃隊は、大きく4群に分かれた約500機から編成されていたが、連合軍の迎撃機の数は二倍いたのだから、無数に近い感覚だったと言われる。しかも枢軸側は、2派合わせて200機に達しない護衛戦闘機しか随伴していないので、インターセプトする側の連合軍戦闘機にしてみれば、獲物が自ら進んでくるように映ったとも言われる。
 かくして枢軸軍の最大規模となった艦載機群は、空のそこかしこで上下左右から現れるインターセプターに啄まれるような迎撃を受けて、確実にそして効率よくすり減らされていった。
 
 最初に敵艦隊を目撃したのは、やはりフランスの艦載機部隊だった。既に戦闘機4機、攻撃機7機にまですり減らされていたが、懸命に編隊を維持しつつ果敢に突撃を敢行した。
 しかし少ない数での突撃は、自殺行為に他ならなかった。
 対空射撃レーダーに連動した97式12.7cm両用砲が護衛する各艦上でうごめき、確実に敵を捉えた射撃を実施した。しかも撃ち出される砲弾の最低でも20%は、アメリカ製(一部日本製)のVT信管を付けていた。しかもこの日は、今までの備蓄分も贅沢に使っているため、平均して30%がVT信管付きだった。艦によっては、5インチ砲以上の主砲や副砲も対空射撃を行った。
 フランス軍編隊は、上空で連合軍のインターセプターと戦って生き残った2機を除いて全機撃墜された。
 そして似たような情景を、これ以後約1時間かけて拡大再生産していく事になる。
 だが、規模の大きな編隊は、それだけ迎撃をくぐり抜けられる可能性が高くなり、一度に多数の機体が輪形陣の内側に入り込むことが出来れば、無敵を誇る連合軍艦艇に肉迫することも十分に可能だった。
 次に到達した編隊は、空母を根城としたドイツ空軍機だった。
 しかし一塊りでは無かった。大型空母の搭載機数に対して発艦速度が遅いため、空中集合のため上空で待機している間に燃料を浪費しすぎるため、第一次攻撃隊が大きく2波に分かれていたからだ。しかも海上での進撃に慣れていない為、さして長くない進撃の間に編隊が伸びてばらけてしまった。このため先頭集団こそ護衛の戦闘機隊と攻撃機隊がほぼ塊だったが、それ以後は中隊単位で進撃していた。
 当然と言うべきか、連合軍インターセプターの好餌とされ、進撃路は連合軍機による草刈り場となった。フランス軍編隊同様に上下左右からインターセプターが襲いかかり、落として、分散させ、編隊を砕き、その上で各個撃破していった。それでもドイツ空軍が送り込んだ精鋭部隊がかなり含まれていたため、完全に崩壊するには至らなかった。特に先頭を進撃した編隊は各戦線から引き抜いたパイロット達を中核とした精鋭部隊なので、護衛戦闘機が切り開いた空路の進撃を続けた。そして彼らの先には、広い海面で重厚な輪形陣を形成する幾つもの艦隊が見えてくる。
 ドイツ軍が攻撃したのは、アメリカ海軍の空母群だった。
 こちらでも濃密な弾幕射撃がドイツ軍編隊を出迎え、そして確実に撃墜していった。急降下爆撃を仕掛けようとした「Ju87T」は、得意の急降下を開始し始めると、順番に集中砲火を浴びて落とされていった。まるで射的のような狙い打ちで、どの編隊でも変わりなかった。この戦闘では、各大型空母に搭載されていた3個中隊が、今でもロシア戦線の敵兵を震え上がらせている急降下爆撃を実施したが、全機帰還する事はなかった。インターセプターを振り切った機体が全体の半数以上だったにも関わらず、全機対空砲の餌食となったのだ。濃密な対空砲火に対する攻撃では、1機1機順番に急降下してはならず、多少命中率が落ちても一斉に降下して自らの被弾確率を下げなければならないのだ。その事をドイツ空軍は分かっていなかった。加えて言えば、空母同士の戦いは一度にどれだけ戦力を集中できるかが鍵なのだが、その事もあまり理解していなかった。このためアメリカ艦隊から見たら、散発的な攻撃を受けたような印象だったという。
 そうして編隊による急降下爆撃は完全な失敗に終わったが、欧州枢軸側の第一次攻撃隊と第二次攻撃隊の攻撃の合間の一瞬、雲の隙間から突然1機の「Ju87T」が急降下を仕掛けて、輪形陣の真ん中に位置する大型空母に投弾。その機体は地上すれすれを飛んで艦隊から離脱し、少なくとも艦隊の対空砲火に捕まることなく逃げおおせた。
 そしてその機体が落とした500kg徹甲爆弾は、狙い違わず空母の飛行甲板の中央部に突き刺さり、格納庫甲板で炸裂して大きな爆炎を吹き上げた。
 《エセックス級》空母の《フランクリン》は、たった1発の爆弾により、格納庫で準備していた攻撃機が次々に誘爆。格納庫全域に火災が及び、死者1000名以上を出す大損害を受ける。しかし僚艦の援護もあって鎮火に成功し、辛くも沈没は免れた。格納庫の船体装甲の下にある機関部はほぼ無傷で、自力でアメリカ東海岸まで帰投することもできた。しかしあまりにも大きな損害を受けた為、修理には一年近くも要することになった。
 そしてこの《フランクリン》大破が、ドイツ編隊の最大の戦果となった。これ以外はせいぜい小破を与えただけで、ドイツ海軍の空母艦載機隊は事実上壊滅した。鍵十字をつけたバラクーダによる雷撃は、別の《エセックス級》空母の1隻に1発しか命中せず小破を与えたのみだった。
 ちなみにこの爆撃をしたのが、かのルーデル(=ハンス・ウルリッヒ・ルーデル)だという噂が戦中戦後語られた。だが、彼はこの時期もロシア戦線にいたので、これはあり得ない。また撃沈ではなく撃破に過ぎないので、彼である筈がないというのも定説になっている。

 なお攻撃したドイツ空軍部隊は、空母艦載機隊以外にノルウェーに展開する部隊もあった。しかし、作戦前に一度大規模な空襲を受けていたため、事前に集結させていた戦力を全て出撃させることは出来なかった。加えて、既に戦力のいくらかが多方面に進出していたので、この時出撃できたのは60機程度だった。しかもこの攻撃隊は、遠距離進出可能な攻撃機、重爆撃機ばかりで、戦闘機の護衛がほぼ皆無だった(※数機の双発戦闘機が随伴したという記録があるのみ)。戦闘機の護衛は、空母艦載機が担当する予定での攻撃だったからだ。しかし、双方膨大な戦力を展開する空で、簡単に友軍と合流できるはずも無かった。そして合流前に連合軍のインターセプターを受けてしまう。しかも連合軍は、ドイツ空軍の中型以上の機体は誘導兵器を搭載していると想定していたので、「Ju188」など双発の攻撃機は優先的に迎撃を受けて、何もしないまま壊滅してしまう。だが結果として、連合軍のインターセプターを引き寄せる囮の役割を果たした事になり、他の友軍の防空網突破を手助けしたので、全てが無駄だったわけではない。

 最後に連合軍艦隊に到達したのは、二つのイギリス軍編隊だった。それぞれ別の機動部隊を発ったが、機数が多いため進撃前の空中集合に手間取ったためだ。
 彼らは各機動群ごとにまとまり、しかも二つの編隊が比較的近くに展開していた。そして彼らの前には、4個群で強固な陣形を組む日本艦隊が展開していた。
 彼らはまず、艦隊前面に展開するインターセプターと対決しなければならなかった。そしてここに至るまでの戦闘で護衛戦闘機の過半が欠けていた為、丸裸の攻撃機が次々に撃墜、撃破されていった。それでも輪形陣の対空砲火が始まるまでに、それぞれ100機近い攻撃機を擁していた。遂にイギリス艦隊は、苦杯を舐めさせられ続けてきた日本の空母部隊に食らい付くことに成功したのだ。
 大編隊での接近だったので、日本艦隊からは狂ったような対空砲火が浴びせられた。戦艦、巡洋艦の主砲の対空榴弾、針鼠のような直衛艦の両用砲、各艦のヴォフォース社の40mm砲、そして無数の20mm機銃。
 日本海軍は、開戦時にはビッカーズ社の25mm機銃のライセンス生産型を標準対空機銃の一つとしていた。しかし戦争が激しくなると、射撃速度が遅いため弾幕が薄いと考えるようになっていった。中距離は40mm砲が絶大な威力を発揮しているが、近距離まで迫られた場合、25mm機銃では威力も弾幕も薄かった。威力は仕方ないにしても、弾幕の薄さ(発射速度の遅さ)は問題だった。このため連装、三連装化が計画されるが、すでに連装または四連装の40mm砲を搭載しているので、これ以上上甲板を重くする事は避けなければならなかった。そこで1944年頃から、アメリカ海軍が使用しているエリコン社の20mm機銃を一斉に導入するようになる。これで弾幕密度は大きく改善され、しかもアメリカ海軍と装備を共用することで補給の手間も省くことが出来た。
 そして空母部隊優先に改装と配備、増設が進められ、この時にはほぼ全ての艦艇が20mm機銃を搭載するようになっていた。
 日本艦隊の対空射撃は、その神髄を発揮したと言って間違いなかった。また空母部隊を守る戦闘機部隊も、命令を無視し尚かつ危険を冒して対空砲の弾幕内にまで入り込んで、敵機の邀撃を続けた。戦闘機隊の中には、雷撃寸前の敵機に体当たりしたものまであったほどだ。
 それでもイギリス軍機は日本艦隊へと殺到したが、日本艦隊にとって幸いな事に2つの大きな集団は、それぞれ別の艦隊を攻撃した。本来なら集中攻撃した方がよいが、日本軍インターセプターの迎撃が激しい事と、後方からもインターセプターが追撃してきているため、進路を変更したり合流する時間が無かったからだ。それに攻撃機の多くは目の前の艦隊以外に見えていないし、正確な情報が友軍から伝えられることも無かった。加えて、枢軸側は編隊の統括指揮を行っていなかった。

 とにかくイギリス軍機は日本艦隊へと突撃すると、まずは前衛の20%程度の機体から噴煙が発生した。小型のロケット弾を撃つには遠すぎるし、噴煙は翼ではなく胴体の真下からだった。つまりこの噴煙は、ドイツから技術導入した対艦誘導ミサイルだった。と言ってもそのままではなく、図面を供与された上に独自改造したイギリス海軍独自の新型だった。また、艦載機に搭載できるサイズにまで小型化もされていた。これを英本国海軍では、空中魚雷と呼んだりもした。
 「バラクーダ」から放たれた「トライデント」と名付けられた対艦ミサイルは、有効射程距離は比較的短いが40mm機関砲よりも長い射程距離があった(※射程距離約7000メートル)。そして比較的低い高度から射出されると、先端部の赤外線シーカーで目標捉えて勝手に向かう。総合的な機械的精度が高いとは言えないが、初手で8発放たれたうちの5発が正常に作動。途中、機関砲に2発撃ち落とされ、1発が動作不良を起こして墜落したが、2発が目標を捉えた。もっと数が有れば良かったが、導入されたばかりで数が少なく、発射されたミサイルの中には増加試作品があったほどだった。
 命中した2発のミサイルは、いずれも輪形陣の外周を固める《夕雲型》駆逐艦に命中し、どちらも中破の損害を与えることに成功する。爆弾としての威力は500ポンド(約226kg)の通常爆弾程度で、運が良ければ駆逐艦程度なら沈めることができる。だが、《夕雲型》駆逐艦は大型でダメージコントロールを考慮した設計が施されている上に、アメリカからの技術と知識も取り入れているため、搭載魚雷が誘爆でもしない限り沈めることは難しかった。しかし、一時的に対空砲火を大きく衰えさせることには成功し、何より日本艦隊の対空弾幕に隙間を作ることができた。
 そしてその隙間を攻撃隊各機が突破していくが、そこは重厚な陣形を組む日本艦隊なので、次は《秋月型》直衛艦の猛烈な対空砲火が出迎える。大型空母の側では、《金剛型》戦艦や巡洋艦が激しい弾幕射撃を実施していた。目標とする空母からも激しい砲火が浴びせられた。
 輪形陣に入ったからと言っても、抵抗の激しさが増すだけだった。特に上空から急降下爆撃と水平爆撃を行おうとした機体は、ドイツ軍機同様に射的の的のように落とされた。また、ごく一部の爆撃隊が、これもドイツ生まれでイギリス製の誘導爆弾を投下しようとしたが、ドイツのオリジナルと同じく無線誘導が必要なため、誘導の為の動きを見せると優先的に迎撃を受けてしまい、1発も命中させる事が出来ずに全滅した。
 しかしイギリス軍編隊の本命は、雷撃機だった。イギリス海軍は、魚雷こそが艦艇に対して最も有効なことを十分に知っていた。そして雷撃を成功させるため、さらに誘導ミサイルを残していた機体が先に攻撃を行い、小型のロケット弾多数を両翼に搭載した攻撃機が随伴する敵艦に肉迫した。そして魚雷を抱えた「バラクーダ」と新参の「ファイアブランド」がそれぞれ目標とした空母に対して自らの犠牲を厭わず肉迫し、そして僚機が次々に四散、爆散、撃墜されていく中で、必殺の距離から魚雷を投下していった。
 しかし、度重なる激しい迎撃と濃密な弾幕を抜けて投弾出来た数は、驚くほど少なかった。

 イギリス軍編隊が狙ったのは1も2もなく空母だったが、意図せずに狙われたのは全体として数がやや少ない軽空母だった。軽空母の方が比較的守りが薄く、空母自体の弾幕も弱いからだ。2波による攻撃で、合わせて《日進》《瑞穂》《龍驤》の3隻が被弾。損害はそれだけでなく、正規空母も大型の《大鳳》、《天城》、中型の《蒼龍》が被弾した。他にも駆逐艦が5隻大、中破し、うち1隻が沈没した。護衛の《金剛型》戦艦や艦隊の守護神である直衛艦にも損害が出た。空母同士の戦いでは、大戦以来と言えるほどの大損害だった。
 日本艦隊で被弾した艦が多かったのは、キンメル艦隊との戦闘と同様に被弾後の自爆機突入が多かったためだ(※確認されているだけで4機。)。それだけイギリス軍が必死であり、同時に刹那的になっていたと言えるだろう。
 被弾した各空母、各艦艇では、アメリカから導入したダメージコントロールが即座に開始されたが、やはり軽空母は脆かった。今までの戦訓を受けて不燃不沈対策を徹底し、乗組員に損害極限(ダメージコントロール)の訓練を徹底してもなお、空母という兵器は燃えやすかった。加えて軽空母は排水量1万トン程度の船体に無理をして色々詰め込んでいるため、防御を固めると言っても限界があった。しかも被弾の多くが魚雷だったため、損害も大きくなった。浸水こそが船にとって一番の天敵だからだ。
 攻撃を受けた空母の中でも、《日進》が一番集中攻撃を受けてしまった。第一次攻撃隊から2発の魚雷を被弾し、さらに自爆機が突入してこの時点で大破。そして約30分後、第二波攻撃隊からも黒煙を吹き上げているため目標とされ、さらに被弾が相次いだ。こうなっては軽空母を救う手だてはなく、戦闘中に総員退艦が命令された。《日進》の沈没は、この戦争が始まって以来初めての高速空母の損失だった。既にUボートに護衛空母を沈められていたので空母の初沈没ではないが、それでも初損失だったので日本海軍は相応の衝撃を受けた。(※さらに言えば、軽巡洋艦以上の大型艦の初の沈没ともなる。)
 しかし開戦時とでは防御面で隔世の感があり、多くの艦は損害を耐えきることが出来た。
 《大鳳》、《天城》は大型の装甲空母なので、1発や2発の被弾では戦闘航行に支障は無かった。ただし《大鳳》は、反撃の第一次攻撃隊を放ってから航空機燃料庫に亀裂が入って気化ガソリンが漏れだした事が分かり、慌てて全艦の換気を開始。すぐに護衛に付き添われて、そろりそろりとアイスランドまで待避せざるを得なかった。なお、日本の各空母にもアメリカの空母のように大型の換気装置(ベンチレーター)が多数設置されるようになっていたので、《大鳳》も何とか大事に至ることは無かった。だが、《大鳳型》以前の空母のガソリン庫の防御に欠点が有ることが分かったため、改装が間に合う艦は緊急改装が施されることになってしまった。
 《蒼龍》は開戦以来3度目の被弾だが、この時の損害の方が今までより大きかった。航空魚雷2本を受けて一部で誘爆も起きたため、危うく沈むところだったからだ。中型で華奢な構造の船体構造の空母が沈まずに済んだのも、徹底した不燃不沈対策やダメージコントロールのお陰であり、また少しばかり運が良かったからだった。そしてこの被弾からも、戦時空母として中型空母を量産しなくて良かったと言われることが多い。
 軽空母の《瑞穂》《龍驤》は《蒼龍》よりさらに脆かったが、いずれも航空魚雷1発の被弾でダメージコントロールにも成功したので、どちらも辛うじて沈没は免れることができた。しかし速力が落ちて航空機の着艦が出来なくなり、格納庫に残る機体も最低限のガソリンだけ積んでカタパルトで打ち出して、その後は他艦で運用せざるを得なかった。

 結果として、1隻沈没、1隻大破、3隻戦線離脱。これが枢軸側が日本の空母に与えた損害の全てだった。加えて、米大型空母1隻の大破で戦果の全てとなる。この時点で、日本艦隊は15隻、アメリカ艦隊は13隻が稼働状態で、インターセプターの損害をさらに差し引くと、合わせて空母28隻、艦載機約1800機の戦力をもって反撃を開始する。
 そしてその反撃は、行った者すら想像できなかったほど壮絶なものとなった。


●フェイズ60「第二次世界大戦(54)」