●フェイズ62「第二次世界大戦(56)」

 1945年6月7日は、とにかく海戦が連続して発生した。
 二つの陣営の海軍が総力を挙げて激突した証拠ではあるが、戦場はかつてのように一カ所で行われる事はなかった。
 「フェロー諸島沖海戦」、「ノースアイルランド沖海戦(航空戦)」、「ノース海峡海戦」、「ヘブリディース諸島沖海戦」、「アイラ島沖海戦」、「オークニー諸島沖海戦」と、英本土近海の各所で多数の戦艦や空母がぶつかり合った大規模な海戦が複数発生した。そしてその中で、最も劇的と言われたのが「ヘブリディース諸島沖海戦」だった。
 
 「ヘブリディース諸島沖海戦」は、日本海軍第二艦隊とドイツ海軍大艦隊の主力艦隊が正面からぶつかり合った海戦だった。
 まずはお互いの参加戦力を見ておこう。

 ・日本海軍 第二艦隊(宇垣中将)
BB《大和》BB《武蔵》BB《長門》BB《陸奥》
BC《高雄》BC《愛宕》BC《鳥海》BC《摩耶》
CG《妙高》CG《羽黒》
CL《矢矧》 DD:16隻

・ドイツ海軍 主力艦隊(クメッツ上級大将)
 BB《フリードリヒ・デア・グロッセ》BB《グロス・ドイッチュランド》
 BB《テルピッツ》
 BC《シャルンホルスト》BC《グナイゼナウ》
 AC《リユッツォウ》AC《アドミラル・シェーア》
 CL:2隻 DD:7隻

 見て分かると思うが、日独双方の主力艦艇が結集していた。
 特に連合軍、枢軸軍のそれぞれ最大最強の戦艦が戦闘に参加しているのが特徴で、両者の沽券を賭けた戦いとも言えた。戦艦の頂上決戦と言われることもあるほどだ。しかしこの時の戦いでは、両者共に相手の最強戦力がどの程度かは正確には把握していなかった。特にドイツの新鋭戦艦は就役したばかりなので、連合軍内ではかなり危険視されていた。しかし、どちらも自らの戦力に自信を持っており、戦う前から退く気は全く無かった。
 攻めるのはドイツ艦隊、守るのが日本艦隊。
 洋上での戦闘は基本的に地形障害がないので、戦法と陣形以外では戦力差が如実に戦果に関わることが多い。そして今回は、攻める側が守る側を突破し、その向こうにいる敵の大船団を撃滅しなければ作戦目的を達成できなかった。対して守る側は、敵を撃滅しなくても撃退すれば戦略的な勝利が得られる。これはノース海峡での戦いと同じだった。しかも日本艦隊は、敵の情報を各種偵察機から十分に得ていたので、最初から有利な場所で有利な陣形を選ぶことができた。
 戦場はヘブリディース諸島の南西側の沖合。
 日本艦隊は最初から同航戦が出来るように、進路を選びつつ敵の到着を待ちかまえた。日本艦隊は得意な筈の丁字もトウゴウ・ターンもする気は無かった。
 本来枢軸側の目論見では、日本艦隊はこれ見よがしに行動しているイギリスの主力艦隊の方に、アメリカ艦隊ともども引き寄せられている筈だった。本命のドイツ艦隊は、当初は空母部隊と共に行動することで、連合軍に空母部隊の前衛と思わせる。そして夜間に人知れず分離して、一気に敵輸送船団を目指す予定になっていた。
 それでも連合軍が上陸船団を丸裸にしない可能性は高いと予測されたが、ドイツ艦隊の前に立ちふさがる可能性が最も高いと予測されていたのは、艦砲射撃を主任務にしているアメリカの旧式戦艦部隊だった。場合によっては、自由イギリスの旧式戦艦が数隻しかいないとも楽観されていた。
 敵の情報が少ないドイツ艦隊は、敵からの砲弾が飛んでくるまで、自分たちの前に立ちふさがった艦隊が何のかを正確に知ることはなかった。それでも、敵艦隊をレーダーで探知してからは、速力から推測が可能だった。そして敵との接触直前に、英本国主力艦隊が発した「米主力艦隊ト遭遇セリ」という電文を受信していたので、目の前に敵の主力がいない可能性が高いとも予測していた。
 だが、連合軍の判断は違い、日本の主力艦隊をドイツ艦隊に用意していた。
 つまり作戦全体が失敗したことになる。
 しかし一方では、ドイツ、イギリスのどちらか、または双方が目の前の敵の突破に成功してしまえば、自らの全滅と引き替えに作戦は完遂できるのではないかという考えを、主に前線の艦隊司令部に考えさせた。自分たちは囮と本命で戦力を分散したが、連合軍も戦力を分散させたと考えることも出来るからだ。しかも欧州枢軸は、アメリカがさらに強力な戦艦(=《モンタナ級》)を投入しているとは考えていなかったので、ドイツ艦隊は英本国艦隊も敵陣を突破できる可能性が十分あると考えた。そして最も作戦がうまくいった場合、敵の侵攻船団を挟撃できるとすら考えていた。
 少なくともクメッツ上級大将以下のドイツ主力艦隊司令部はそう考え、全艦隊に突撃と敵艦隊の突破を命令した。この事は、他の者の証言からも明らかだった。
 連合軍は最後の詰めを誤ったのだ、と。
 全てを知っている後世の視点からだと、戦力差を考えたら欧州枢軸艦隊による敵中突破は難しいという考えが大勢を占めているが、欧州枢軸は連合軍の戦艦戦力を少なく見積もっていた。さらにドイツ海軍は、自分たちが新たに建造した戦艦を「世界最強」と非常に強く信頼していた。
 また、日本海軍の未知の巨大戦艦が如何に巨大で強大でも、「劣った劣等人種」の作ったものだという感覚が強かったと言われる。ドイツ宣伝省の宣伝の成功の証と言えなくもないが、前線に立つ軍人が冷静に戦力差を判断できないのは批判されてしかるべきだろう。もちろんドイツ海軍の軍人達も、空母同士の戦いでは一歩譲る事は認めていたので、戦艦同士の戦いなら負けるはずがないと思い込んでいただけなのかもしれない。
 ただし、大戦中は《大和型》戦艦の能力に不明点が多かったので、ドイツ海軍だけを責める事は酷であろう。実際問題として、枢軸側では《大和型》戦艦の主砲は長砲身の41センチ砲と考えられていた。
 さらに欧州枢軸は、旧式の《長門型》戦艦は戦線後方で予備兵力として待機していると考えていた。だが《長門》《陸奥》は、アメリカでの徹底したオーバーホールとボイラー、機関部の部品を可能な限り高い強度、精度のものに交換することで、より高度なリミッター解除ができる状態でこの戦闘に臨んでいた。
 そして日本海軍とアメリカ海軍は、かつての先達達がそう考えたように、全てを一戦で決着付けるため、全ての戦力を集中して前面に配置してきた。

 とにかく6月7日の午後1時半頃、ドイツ艦隊は勇壮と言える陣形と速度で、日本艦隊に向けた突撃を開始する。(※この時点で、ドイツ艦隊は相手が「高速戦艦多数を含む非常に大規模な艦隊」という搭載レーダーの情報しかなかった。)
 受けてたつ事になった日本艦隊では、約40年前とは大きく違う状態だった。
 第二次世界大戦が始まってから、日本海軍は何度か大規模な艦隊決戦を経験していた。しかし、敵が途中で逃げ出したため不完全に終わるか、夜間の混乱した戦いだけだった。これほど真っ正面から敵が突撃してくるのは、それこそ1905年5月27日の日本海海戦以来だった。日時も近いことから、日本海海戦に思いを馳せた将兵も多かったと言われる。
 しかし宇垣中将以下の司令部は、かつてのような吹きさらしの艦橋にはいなかった。旗艦《大和》の第一艦橋にもその姿はなく、彼らの多くは最も強固な司令塔にいた。また、通信やレーダー関係を中心とした多くの将校や参謀は、艦の奥深くの防御甲板の下に設置された戦闘指揮所に陣取っていた。日本の主力艦隊がこの配置を取ってから一年以上経過しているが、従来の旧時代的な方針からの転換は単にこの方が指揮しやすいからだった。大艦巨砲主義の信奉者や第一人者と目されていた宇垣提督も、この流れに逆らうことは無かった。彼も聯合艦隊参謀長の時代に、横須賀の巨大な地上司令部の有効性を強く実感させられていた。第一戦隊を率いた経験でも、新しい方式の有効性を体感していた。彼の日記にも、一抹の寂寥感という言葉を見ることが出来るが、悔いたり愚痴るような言葉を見ることはない。
 このため、かつての先達のように吹きさらしの艦橋に屹立し、腕を大きく振り下ろすようなこともなく、淡々と命令を下していった。特に宇垣提督は「黄金仮面」と影で渾名されるほど無表情で、さらに無口な人物だったので、司令塔内は艦隊決戦前とは思えないほど静かだったと言われる(※宇垣提督はアメリカ海軍から「沈黙提督(サイレント・アドミラル)」と呼ばれていた。)。
 対するドイツ艦隊の方が、旧時代の影響を引きずった司令スタイルを取っていたことと対照的だった。

 日本艦隊の発砲は、想定外の距離4万メートルで実施された。
 史上最大最長の砲撃開始であり、当然と言うべきかドイツ海軍の度肝を抜いた。
 レーダーで何とか敵影は捉えていたが、敵の姿は水平線の先ののためまだ目視できない状態での砲撃が行われた事に、早くも撤退を進言する参謀がいたとすら言われる。ドイツ艦隊は、この時初めて自分たちの敵が何なのかを正確に知る事ができたのだ。
 だが、この時点で日本艦隊は、既に多くの情報を入手していた。と言うのも、ドイツ艦隊は分離した時点から連合軍機にマークされていた。追跡していたのは日本海軍所属の「二式大艇」の重偵察型。機体に各種レーダー、無線機、計算機などを多数搭載した特別製で、機材の操作の為にパイロット以下16人も乗り込んでいた。同じ機体は複数あり、途中からは交代の機体と入れ替わったが、追跡と情報収集が途絶えることは無かった。
 そして気象状況などを含めた、入手できる全ての情報を第二艦隊に送り続けた。「まるで釈迦の手のひらの上のようだ」と揶揄した人物もいたほどだった。
 そして砲撃前から複数の正確な情報を手にしていた日本艦隊は、さらに情報を確かにするべく、別動隊の駆逐艦を斥候任務に出して情報を収集した。ドイツ艦隊が最初に見つけたのも、この斥候のために突出してきた駆逐艦だった。

 最初に発砲したのは、射程距離4万2000メートルを誇る45口径46センチ砲を搭載する戦艦《大和》と戦艦《武蔵》の2隻だった。他は最大射程距離にも入っていないので、情報に従って主砲をゆっくりとうごめかせるだけだった。
 ドイツ側の主砲も、16インチ砲で3万6800メートル、15インチ砲で3万6500メートルなので射撃は出来なかった。それ以前の問題として、この時点でのドイツ艦隊は水上捜索レーダーによるやや不完全な情報しか、敵の情報を持ち合わせていなかった。
 もちろんだが、ドイツ艦隊は事前に潜水艦を配置して情報収集、できれば奇襲的な攻撃を目論んでいた。敵が待ちかまえている可能性を考慮しての事だったし、敵が動かないなら攻撃も十分に可能と考えていた。
 だが、事前に送り出した潜水艦は、濃密に展開する連合軍の無数の対潜部隊の前に、沈められるか、動きを封じられるか、近寄ることも出来なかったかのいずれかの状態だった。
 イギリス空軍に偵察も要請したが、偵察機の殆どが落とされていたのので、敵の正確な情報はほとんど無かった。ノルウェーのドイツ空軍機に至っては、偵察機が飛行場から飛び立つことすらなかった(※これは海軍と空軍の確執のためだった。)。
 砲撃を受ける少し前にレーダーで探知していなければ、敵の有力な艦隊は存在しないと言う前提で進撃を続けるところだったほどだ。だが、既に突撃陣形に変形し終わっていたので、レーダー探知のすぐ後に突撃を開始していたのだ。
 そしてドイツ艦隊と突撃と《大和》《武蔵》の砲撃により、戦闘の幕は切って落とされる。改良に改良を重ねた32号電探(改八型)は、正確に敵を捉えていた。

 4万メートルの距離を砲弾が飛翔するには約2分が必要となる。この間、1分間に約1キロの距離が縮まるので、《大和》《武蔵》が2斉射目を行うときには、《大和》《武蔵》にとっての正式な最大砲戦距離となる3万8000メートルになっていた。
 他の日本艦隊は距離3万5000メートル、ドイツ艦隊は3万メートルで射撃を開始するので、3斉射目まではまるで《大和》《武蔵》の砲撃ショーとなった。とはいえ淡々と物事が進むので、まるで演習のようだったという感想もある。
 そして演習みたいだと言われたように、偶然の一弾、幸運または不幸の一弾も無かった。しかし想定外の超超遠距離射撃を受けたドイツ艦隊は、非常に強い心理的圧迫を受けていた。何しろ、1斉射目からかなり近くに巨大な水柱がそそり立ち、3斉射目には早くも挟叉、艦を囲むように砲弾が着弾したからだ。そして着弾する水柱は、地獄の底から噴き上がったように赤く染められていた。
 そしてその着弾からすぐにも、他の日本の戦艦も順次砲撃を開始する。この時点ではドイツにとって最大射程であり、高い角度で落下してくる砲弾は何よりも高い脅威だった。まともに喰らったら、どんな艦でも一撃で轟沈する可能性があったからだ。
 この時点でドイツ艦隊は、回避運動をしつつ接近し自らにとっての砲戦距離までまともに組み合うべきではなかった、という後世の考察もある。だが、艦数が多い場合は隊列が乱れてしまう可能性が高いなど、砲撃戦とはそんな簡単なものではないので、この時点でのドイツ艦隊は自らが砲撃を開始するまで接近を続けるより他なかった。
 そして距離3万3500メートル付近で、日本艦隊の戦艦の主砲弾の水柱が次々に林立した。赤、無色、青、黄色の4色で、この時は2隻ずつが砲弾に染粉を入れていた。これは演習でも見られたのだが、同盟国の米英が「日本の砲撃はテクニカラー(総天然色)だ」と驚いた記録がある。この染粉は、本来は同型艦同士が砲撃するときに見分けるためのもので、当初は《金剛型》と《高雄型》だけがそれぞれ使っていた。しかしこの戦闘に際しては、全ての戦艦に採用して挑んでた。こうした細かいところが日本らしいと言う意見もあるし、レーダー射撃の時代に古くさいと言われることもある。そして皮肉なことに、最初に様々な色の水柱が林立した時点では、撃った側は殆ど目視できる距離ではなかった。

 距離3万メートルになって、ドイツ艦隊がようやく砲撃を開始したが、その間に日本艦隊はさらに3斉射を加えていた。この間の命中弾は、《長門》《陸奥》の初弾命中を例外とすると、《武蔵》が《グロス・ドイッチュランド》に与えた一弾だけだった。この砲弾は、副砲の一つをボールのように跳ね上げて破壊した。列強の中でも最も強固な副砲への命中だったので、おかげで防御甲板を貫くには至らなかった。損害を受けても平然としている《グロス・ドイッチュランド》を見て、日本艦隊側もドイツの新鋭戦艦侮り難しの思いを強くしたと言われる。
 連合軍では《フリードリヒ・デア・グロッセ級》戦艦の排水量を、実際より10%以上重く見積もっていたし、主砲も16インチ以上の可能性を考えていた。故に《大和型》に匹敵するか、一部性能は凌駕するとすらみていた。脅威に感じていたのは当然だろう。
 実際の数字だと、《大和型》が全長268メートル、全幅38.9メートル、基準排水量6万8000トンで、《フリードリヒ・デア・グロッセ級》戦艦が全長277.5m、全幅37.0m、基準排水量5万2600トンなので、外見上の大きさはほぼ同じで、排水量では25%近い差があった。それだけ《大和型》が巨砲と重装甲を持つという事になる。だがドイツ側は、持ち前の技術力で差を埋めているので、数字ほどの差はない。よく言われる電子装備や照準性能については、アメリカ、自由英の支援を受けた日本側の追い上げの方が大きく、ほぼ互角、もしくは日本側が若干勝るほどだった。特に遠距離戦では《大和型》が有利だった。
 そうして距離2万8600メートル付近で着弾したドイツ艦隊の最初の砲弾は、あまり誉められたものではなかった。日本が距離4万メートルで射撃したときよりも離れており、ドイツ海軍が遠距離射撃を重視していないことを如実に示していた。いかに優れた測距装置やレーダーを持っていても、訓練と運用が追いついていなければ意味が無かった。しかもドイツの新鋭戦艦2隻は就役して間がないため、なおさら将兵の熟練度に問題があった。もちろん精度の甘さを補うためにレーダー射撃を重視していたが、戦艦は精密機械の集合体であり、一つのことだけで欠点を補えるものではなかった。

 両者の砲弾が命中するようになるのは、やはり距離2万5000メートルを切った辺りからだった。
 この距離になると、日本艦隊はほぼ完全に同航戦の形を取り、この2万から2万5000メートルあたりで距離を固定しようと艦隊を動かしていた。多少命中率が落ちても、高い角度から砲弾を命中させようという意図からだった。それにこの距離こそが、日本の戦艦が想定していた砲戦距離であり、必勝の距離でもあったからだ。そして日本艦隊は、《大和》《武蔵》がドイツの未知の新鋭戦艦を引き受け、他は2隻一組で残りの戦艦を早期に撃破し、中盤以後は総力を挙げて敵新鋭戦艦の撃破に務めることと、艦隊司令部から指示が送られていた。それだけ《大和》《武蔵》の攻防力に自信があったとも言えるし、ドイツの未知の新鋭戦艦(《GD級》)の巨体と未知数の戦闘力を恐れていたと言える。そして《大和》《武蔵》以外が正面からの太刀打ちが難しいという点で、日本艦隊の判断は間違ってはいなかった。
 これに対してドイツ艦隊は、日本艦隊と戦うのではなく突破し、その向こうの船団を攻撃するのが目的なので、あえて動きやすい遠距離戦を崩そうとはしなかった。本来ならドイツ艦隊は、距離2万メートル以下での中距離戦もしくは1万5000メートル以下の接近戦をしかけるのが性能上とドクトリン上での筋だが、作戦上仕方なかった。組み合ってしまっては、突破がより難しくなってしまう。
 しかし後世の意見として、日本艦隊が完全に食いついてきた時点で、ドイツ艦隊は進路を逸らせて、自らを全軍の囮としするべきだったというものがある。もしくは逆に、もっと接近しなければならなかったという意見も強い。《FDG級》の47口径16インチ砲といえども、距離2万を切らねば《大和型》の強固なバイタル・パートはまともには撃ち抜けないからだ。

 そして実際の両者の砲撃だが、基本的には日本艦隊優位のまま進んでいった。日本艦隊の方が数が多いし、砲雷撃戦の前から得られる情報も多かったし、何より遠距離砲撃戦の訓練も積んでいたからだ。さらに言えば、乗り組んでいる将兵の練度も実戦経験も日本側の方がずっと上だった。
 日本側はハードの面だけでなく、ソフトの面でも大きく有利だったのだ。
 日本側が不利な点は《高雄型》が実質的には巡洋戦艦で防御に若干の不安を抱えている事だが、それはドイツの《シャルンホルスト級》も同じだし、《高雄型》の50口径14インチ砲に対応した集中防御方式の防御力は、ドイツの47口径15インチ砲に対してもかなりの防御力が期待できた。
 なお両者の砲撃目標だが、日本側は《大和》《武蔵》がそれぞれ単艦で《フリードリヒ・デア・グロッセ》と《グロス・ドイッチュランド》を狙った以外は、2隻一組の統制砲撃戦で残るドイツ側の戦艦3隻を狙い、装甲艦は無視した。これに対してドイツ側は、日本側の前5隻をそれぞれ単艦で狙い、装甲艦も後方で隊列を組む《愛宕》《鳥海》を砲撃した。つまり《摩耶》は誰からも砲撃を受けない状態だが、砲撃戦自体は《鳥海》が狙う統制砲撃戦なので、あまり意味がなかった。

 連続する雷のような轟音、そそり立つ巨大な水柱さえ無視すれば、遠くから見る限りならば戦闘は意外に淡々と進んだ。日本艦隊優位ながら、24ノットの速度でノースアイルランドの上陸地点の方向に向かっていた。そもそも戦艦という兵器は、簡単に破壊できる兵器ではない。戦力差が同等かそれ以上でも、幸運もしくは不幸の一撃のような事が起きないと轟沈などあり得ない。第一次世界大戦では、20数発の砲弾を受けたドイツの巡洋戦艦やイギリスの戦艦が生還した事例もあった。また日本は、アメリカからの導入で損害復旧能力が非常に高くなり、ドイツはもともと防御に気を遣っているので、互いに簡単に戦闘力を失うことも無かった。
 しかし《大和》の19斉射目、ついに決定的変化が訪れる。
 砲撃戦開始から約30分が経過した午後1時半頃、《大和》と《フリードリヒ・デア・グロッセ》の一騎打ちは、《フリードリヒ・デア・グロッセ》がやや優位に展開していた。排水量差、最大装甲厚だと《大和》が大きく上回るが、主砲の貫通力だと大差なく、《大和》はバイタル・パートこそ守り抜いていたが、非防御区画に複数被弾して、数カ所で火災すら発生していた。それでも艦の主要部は無事で戦闘航行には支障は出ていないため、《大和》は9門の主砲を用いた斉射を続けた。
 その戦艦《大和》が放った19斉射目が、まだ主要部が健在でせいぜい小破程度だった《フリードリヒ・デア・グロッセ》に着弾する。
 この時《大和》の測距員や観測員、見張り員は、《フリードリヒ・デア・グロッセ》艦上に2つの閃光を確認した。そして外れた7発の砲弾が吹き上げる大きな水柱が上がり始めると同時に、巨大な爆発を確認する。この爆発は他の艦からも確認された。というより、その場にいて外の状況を知ることが出来た誰もが確認できるほどの爆発だった。

 46センチ砲から撃ち出された約1トン半のタングステンを豊富に使った一式徹甲弾は、《フリードリヒ・デア・グロッセ》の中央部と2番砲塔の天蓋(天井)装甲部分に着弾した。
 中央部に着弾した砲弾は、舷側に広く張られた装甲部ではなく甲板の右上に着弾。まずは50mmの最上甲板の装甲を薄紙のように貫き、その下の80mm主甲板も難なく貫き、さらに前進を継続。遅動信管のため爆発することなく砲弾は進み続け、ディーゼル室の三重に施された艦底部の床の一番上に達した時点で、ようやく信管を作動させた、と考えられている。そして2基のディーゼルエンジンが納められた部屋に破壊を振りまいた。この結果、12基あるうちの2基のディーゼルエンジンが破壊されたと考えられるが、ドイツの新鋭戦艦にとっては致命傷ではなかった。
 この被弾状況は、命中箇所からの推定に過ぎないが、恐らく正しいと思われる。そしてこの着弾が推定以上に判明しなかったのは、もう1発の命中弾のためだった。
 2番砲塔の天蓋装甲に着弾した砲弾は、130mmというこのクラスの戦艦としては非常に薄い砲塔上部装甲を難なく貫き、砲塔内でも炸裂せずに、砲塔基部のバーベット内へとさらに突進していった。そしてそのまま、圧倒的な運動エネルギーと貫通力によって、砲塔内部の機械や隔壁を貫き続けて艦底を目指した。遅動信管により炸裂した箇所は不明だが、破壊の様子から砲塔のバーベット内だと考えられている。もしかしたら砲弾庫か弾薬庫まで到達していたかもしれない。
 そして爆風が分厚い装甲内で吹き荒れたが、爆発と爆風、そして灼熱した破片は各所を破壊し、そして危険極まりない場所の誘爆を誘った。
 最初に誘爆したのは、揚弾中の主砲弾か弾薬(装薬)だと考えられている。そして最初の誘爆により、砲塔の最深部へと爆風が押しよせる。そして一気に破局へと至った。
 砲弾庫は、二番目に深い場所にあり、その下、最下層には最も危険な主砲弾を打ち出す弾薬(装薬)が格納されている。
 それぞれ分厚い扉と装甲で覆われていたが、船体内部の直近、しかも砲塔内部で大規模な誘爆が始まっては、何もかもが意味が無かった。

 一般的にドイツの戦艦は、砲塔への被弾と損害に強いと言われる。これは事実で、第一次世界大戦のユトランド沖海戦でも、イギリスとドイツの巡洋戦艦の明暗を分けたほどだった。これは、ドイツの戦艦が甲板上の砲塔内で炸裂しても、被害が砲塔上部で抑えられるような構造をしているためだ。また、砲弾を撃ち出す弾薬を金属の筒に入れて保管しているなど、徹底した不燃対策が取られているためでもある。非常に優れた構造と方式のため、第一次世界大戦後に建造された世界中の戦艦の多くが、同じ構造と方式を採用したほどだった。
 だが、戦後建造されたドイツの戦艦には欠点があった。日米の戦艦に比べて、いや世界中の戦艦と比べて、直接的な防御を担う各部装甲の厚さが薄いのだ。これは装甲で覆う範囲を広げたり、船全体の防御力を高める重防御構造のためであるが、世界の趨勢は「集中防御式」というバイタルパート(心臓部)に致命傷を受けない為の構造を取っている。この時対決した《大和》などは、その頂点に君臨するほどの集中防御を突き詰めた、戦艦と戦うための戦艦の完成型の一つだった。またドイツの戦艦は、元とした設計が第一次世界大戦時の戦艦のため、上からの被弾をあまり考慮していない防御方式にもなっている。もっともこれは、遠距離より中距離、近距離での戦闘をより重視した結果の選択だったとも言われる。
 ともかく戦艦《フリードリヒ・デア・グロッセ》は戦艦としての中距離戦闘を主眼にした重防御式で、主砲塔の上部装甲の厚さも他国と比べると非常に薄い。着弾した砲塔天蓋装甲の厚さは、僅かに130mm。《大和》が250mmにも達するのと、大きすぎる違いだ。もちろん使用している装甲板自体の材質や強度が日本とドイツでは違うが、強度の差は最大でもドイツに好意的に見て20%程度だ。通常考えれば、長砲身16インチ砲を搭載する《フリードリヒ・デア・グロッセ》は、180mm以上の天蓋装甲を持っているのが世界の趨勢だ(※天蓋装甲の一部は180mmだが、これは斜めに装着された一部に止まっている。)。
 この時命中した砲弾も、命中した砲塔天蓋がもっと分厚ければ、砲塔の奥深くに突入することなく上部で炸裂して、致命的な誘爆が防げていた可能性が高い。《大和》が放った砲弾は、天蓋を貫いても勢いが落ちずに巨大な運動エネルギーを余らせたままだったため、かなりの幸運も手伝って奥深くまで突進してしまったのだ。そして装甲を薄くしていたツケは、非常に大きかった。

 大きな赤みがかった水柱が収まり始めると、《フリードリヒ・デア・グロッセ》の被害状況が明らかになった。というより、誰の目にも分かる被害が眼前に広がっていた。
 今までの砲撃なら、水柱の中から《フリードリヒ・デア・グロッセ》は雄大な姿を現していた。しかし彼女は姿を見せることなく、全周に轟く爆音と天にも届く爆炎を吹きあげ、その場で艦首と艦尾を空中高くかかげていた。艦の中央は既に海中に没しつつあり、艦尾のスクリューの一部は空中で高速回転を続けていた。この回転の差から、別の一弾の被害状況が推定できるほどよく見えた。
 主砲の弾薬が誘爆した《フリードリヒ・デア・グロッセ》は、2番砲塔付近で二つに折れて轟沈しつつあったのだ。弾薬庫の誘爆なので、付近の艦橋にいたドイツ艦隊司令部も、この時点で既に全滅していたと考えられている。
 非常に鮮烈な情景のため、後世にも広く伝えられた瞬間だ。この時の様子は、《大和》と《鳥海》に乗艦していた従軍カメラマンによって撮影されていた。そしてアメリカから供与された映写機とフルカラーフィルムにより、第二次世界大戦を伝える第一級の映像資料として後世に伝えられる事になったのだ。
 そして沈没の様子を、両軍口をポカンと開けて見ていたと言われる。実際、この瞬間は各艦で命令を出すのが遅れた場面が多々見られた。比較的冷静だったのが《大和》など日本軍艦艇に設置されていた戦闘指揮所に詰めていた将兵達で、淡々と事実を伝え命令を仰ぎ、《大和》ではその言葉で宇垣提督以下の司令部も正気を取り戻したと言われる。

 そしてそれからは、日本艦隊の草刈り場と化した。
 ドイツ艦隊は、それまでの統制と勇猛さが嘘のようだった。今まで決定的な損害が無かったからこそだったのかも知れないが、《フリードリヒ・デア・グロッセ》の轟沈が戦場の雰囲気を完全に変えてしまった。ドイツ艦隊は最強の戦艦を艦隊司令部ごと一瞬で失い、日本艦隊は一瞬固まった以外で変わることなく砲撃戦を継続した。
 しかも今度は、《大和》と《武蔵》が残る《グロス・ドイッチュランド》を狙い始めた。この時既に《グロス・ドイッチュランド》は、《武蔵》との砲撃戦で46センチ砲弾を6発被弾していた。幸い致命傷はないが、第二砲塔は被弾の衝撃による故障で使用不能で、振動や破片、爆風のためレーダーの半数も使えなくなっていた。砲撃を受けた左側の損害もかなり酷かった。ディーゼル機関も12基のうち2基も破壊されていた。だが、まだ戦闘力を十分に残していた。
 しかも自らの砲撃によって、《武蔵》には5発の命中弾を得ていた。ただし《武蔵》の強固な装甲は、うち2発を舷側と砲塔で弾き返し、残りの被弾も致命的ではない箇所の非装甲部分を破壊したに止まっていた。全ての戦艦に打ち勝つ事を目指した日本の戦艦は、防御システムが完全に機能していた。とはいえこれは結果論で、距離と幸運、角度などのおかげで《武蔵》の装甲は食い破られなかっただけと言うのが現代での評価だ。47口径16インチ砲は、それだけ強力な主砲だった。だが、練度の不足もあり、結果として十分な成果は残せなかった。
 そして《フリードリヒ・デア・グロッセ》の轟沈から1分と少し後からは、《武蔵》からの砲撃情報を受けた《大和》が《グロス・ドイッチュランド》への砲撃に加わる。《武蔵》の砲撃情報から砲撃を行うため、《大和》の砲撃は最初からかなり正確だった。被弾している《武蔵》も戦闘力は衰えていないため、依然として全力で砲撃を行った。
 戦艦は簡単には沈まないが、《グロス・ドイッチュランド》はその後戦艦の見本のように簡単には沈まなかった。しかし次々に命中する46センチ砲弾によって艦の機能が停止し、各所が破壊され、200発程度が撃ち込まれた10数分後には浮かぶ廃城と化してしまう(※この間の46センチ砲弾の命中弾は11発)。砲撃は、《大和》の射撃開始から5分程で統一射撃が出来なくなった。艦橋も途中で折れてしまった。そして徐々に、全艦が自らの黒煙に包まれていった。
 そして自らの帰還が叶わないと悟った《グロス・ドイッチュランド》は、その後日本艦隊に立ちふさがるような進路を取り、最初に各艦に撤退を命令した(※次席指揮官の戦隊司令が座乗していたが、既にマストが折れていた為、遠距離通信は発信できていない。)。
 断末魔の黒煙の中、ディーゼル機関の一部が生き残っているため前進は続けたが、もはや死者の国に赴くために進んでいるようにしか見えなかった。そしてその後も戦闘は続くが、さらに被弾して全ての火砲が沈黙する頃には何とか総員退艦が命じられ、日本艦艇も参加しての乗員救助後に雷撃により引導が渡された。それでもドイツ最大の戦艦という事と、その名の矜持がそうさせるのか、この場の海戦で最後に沈んだ大型艦となった。
 そして「大ドイツ」と命名された戦艦が戦闘力を失う頃には、他の戦艦同士の対決も終わりつつあった。

 《テルピッツ》は、参加した戦艦の中でも運のない方だった。当初から《長門》《陸奥》に集中射撃を浴びたからだ。
 《長門》《陸奥》は、この海戦に参加した戦艦の中で唯一の旧式戦艦で、本来なら速力的に艦隊について行くのがやっとだった。だがこの時は、機関部のリミッター解除を限界まで行い、多少荒い海でも最高速力27ノットまで可能となっていた。そして艦が古いだけに、乗組員が砲撃に長けていた。しかも実戦経験も豊富なので、非常に高い命中率を発揮した。《長門》の砲弾は距離3万メートル以上で何と初弾命中の快挙を成し遂げ、その後次々に《テルピッツ》に吸い込まれるように命中した(※この命中距離が、戦艦の命中弾のギネス記録となっている。)。
 《テルピッツ》のドイツ戦艦らしい重防御構造は威力を発揮したが、やはり被弾が相次ぐと次々に戦艦としての機能が停止していった。特に砲撃開始13分で主砲の半分が故障で使えなくなると、あとは一方的展開となった。沈まなくても各所が打ち抜かれて機能を停止しては、戦闘艦として意味が無かった。
 最終的に41センチ砲弾を30発以上被弾して、完全な沈黙を余儀なくされている。対して、《テルピッツ》が目標とした《長門》に命中させた砲弾は2発だけで、しかも徹底的に近代改装された《長門》が受けた損害は小破にも至らないほど軽微で、ほとんどワンサイドゲームだった。命中弾のうち1発は見た目は《長門》の船体中央部を貫いていたが、近代改装で何重にも施された装甲板を突き破るには至らなかった。(※《陸奥》には《シャルンホルスト》の砲弾が3発命中し、小破している。)
 その後《テルピッツ》は、戦闘力を失っても沈没を拒むように浮き続けたため、突撃した駆逐艦が8発の酸素魚雷を命中させることで横転。最後に大きな船腹をさらした後、滑るように海中へと沈んでいった。その後も爆発など無かった為、比較的綺麗な姿で沈んでいるのが、後世の海底探査で確認されている。
 日独の巡洋戦艦対決となった《シャルンホルスト級》対《高雄型》だが、最初からドイツ側が不利だった。《シャルンホルスト》と《グナイゼナウ》は、戦争中の大改装で《ビスマルク級》と同じ15インチ砲に換装した。そのために船体延長までして、各所も時間の許す限り強化された。主砲の門数は6門に減少したが、実質的な戦闘力は《ビスマルク級》に匹敵するとすら考えられた。
 だが《シャルンホルスト級》は、設計段階から色々と無理がある上に、改装ばかりしていた巡洋戦艦だった。竣工時から流麗さを賞賛され、改装後のカタログスペックは非常に高性能を示しているが、何にせよ無理をしすぎだった。
 そもそも《シャルンホルスト級》は、当初は外洋での航行性能が低かった。そのため艦首付近の構造を早々に大改造しなければならなかった。そして15インチ砲塔換装の大改造では、大きく重い砲塔を載せるなどで重量が大きく増加した。その分船体延長とバルジの強化もしたが、やはり追いつかなかった。このため喫水、船が浮かんでいる部分が沈み込んでしまい、舷側部の装甲の一部が海面下となってしまう。加えて、艦の予備浮力も低下していた。
 《高雄型》も建造中に主砲を14インチ3連装砲塔から16インチ連装砲塔に変更したが、こちらは建造中に一部設計も変更しているので、戦争中の運用に支障が出たという話しが聞かれることは無かった。機銃の積みすぎという話しはあったが、それも排水量の大きな巡洋戦艦なので、他の小さな艦艇よりも問題は少なかった。それどころか、第二次世界大戦に適合した最良の戦艦の一つに数えられている。
 そしてこの戦闘では、基本性能で《高雄型》が上回っている上に、数で二倍の差を付けていた。しかも本クラスに砲撃してくるのは、《高雄》が《グナイゼナウ》から砲撃をうけただけで、《愛宕》《鳥海》は11.5インチ砲しか搭載しない装甲艦が砲撃しただけで、《摩耶》に至っては大口径砲からはノーマークだった。このため日本側が存分に射撃に集中することができ、ほぼ一方的展開となった。《高雄》は流石に数発を被弾して最終的に中破の判定を受ける損害を出したが、他は小破以下の損害しか受けず、30分ほどの砲撃戦の結果として《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》の戦闘力を奪うことができた。しかし《グナイゼナウ》は、途中でドイツ艦隊自体が後退を開始し、しかも戦艦隊列の最後尾にいて速力も維持していたので、水雷戦隊の追撃も間に合わず撤退を許してしまう。
 《シャルンホルスト》は、途中で至近弾の影響で舵の効きが悪くなり、さらに右舷のスクリューが破壊されたため、少しずつ右へと進路が逸れていった。そして右側とは日本艦隊が隊列を組んでいる方向であり、半ば敵に突撃する形になってしまう。
 このため戦闘終盤に《高雄型》4隻の集中射撃を浴びてしまい、最後は駆逐艦の魚雷でトドメを刺され、大爆発を起こして沈んでいった。数々の悪しき伝説を残した《シャルンホルスト》は、最後は乗員全てを道連れにしたのだ。

 残るドイツ艦は装甲艦と水雷戦隊だが、装甲艦は最初無視されていた。
 日本側の重巡洋艦は水雷戦隊の先頭に立っていたので、まずは敵水雷戦隊に攻撃を集中したからだ。
 水雷戦隊同士の戦いは、ドイツ側が軽巡洋艦2隻、駆逐艦7隻に対して、日本側が重巡洋艦《妙高》《羽黒》に軽巡洋艦《矢矧》、駆逐艦16隻なので、日本側が圧倒的に有利だった。しかも日本側の水雷戦隊は、日露戦争の頃から主力艦隊の直衛を務めてきた伝統の第一水雷戦隊だった。
 日本艦隊は、戦闘開始当初から30ノット以上の速力で突撃を開始して、敵の水雷戦隊を砲力で圧倒しつつ敵の戦艦隊列を目指した。重巡洋艦を水雷戦隊に置いたのも、戦艦隊列に接近したときに牽制の砲撃をする為だった。しかし敵戦艦の隊列までは遠いし、ドイツの水雷戦隊も突撃を仕掛けてきたので、まずは水雷戦隊同士の戦いとなった。
 ドイツ側は、戦前に建造した標準的性能の中型軽巡洋艦2隻と、雑多な駆逐艦7隻から編成されていた。駆逐艦はドイツ製の6インチ砲搭載の大型艦とイギリスから賠償で貰った駆逐艦で編成されていた。このため火力はあるが統一した行動が難しく、半ば少し離れて行動ししていた。
 日本側は、砲力は重巡洋艦がいるので十分以上にある上に、駆逐艦は全て高い発射速度を有する5インチ(12.7cm)両用砲を6門ずつ搭載していた。しかも魚雷は酸素魚雷なので、まずは1万4000メートルで、魚雷を8基搭載する駆逐艦8隻が4本ずつ扇状に発射。水雷戦隊の掃討を実施する。さらにそこに、近づいたことで命中率のあがった巡洋艦の砲弾が集中して、ドイツ側水雷戦隊は混乱した。
 2隻で1隻を相手にしている状態で、ドイツ側は攻めるよりも守りに徹する方が有利に戦えた可能性が高い。しかし初手で攻撃を選んだ以上、戦力差で押しつぶされるのは自明だった。
 そして水雷戦隊の半数以上が撃破されて戦列が崩壊すると、日本艦隊は次々にドイツの戦艦隊列へと突撃していった。

 その後は、煙を噴いて傾いている敵戦艦への肉迫雷撃を実施し、戦闘は終幕へと向かう。司令部を次々に失ったドイツ艦隊は、散り散りに逃げるより他無かった。
 優勢な敵に正面から突撃した結果とはいえ、近代海戦史上希に見る全面潰走だった。
 戦闘終盤になると、ドイツ側の戦艦を沈黙させた日本の戦艦が残る大型艦に矛先を向けたが、ドイツ艦隊はすでに潰走状態で戦意も喪失していた。正式な撤退命令も出せないまま次席司令部が次々に壊滅するため、最後は装甲艦2隻を率いる戦隊司令が撤退命令を出す事になったほどだった(※遠方の友軍への電文も、ここで行われた。)。
 最終的にドイツ艦隊は、《グナイゼナウ》と装甲艦2隻は辛くも生き残れたが、大型艦は全て大きく損傷していた。《グナイゼナウ》は行き足が落ちなかったのが不思議なほどだと言われたほどで、最後までドイツ艦艇は頑健さだけは示した。
 そして敵を壊滅させた日本海軍は、40年の時を経て砲撃戦での完全勝利を達成する事になる。

 だが、日本艦隊というより連合軍は、二つの主力艦隊との戦いにのめり込みすぎていた。
 ノースアイルランド北方海上には、もう一つの伏兵が刻々と迫りつつあった。
 


●フェイズ63「第二次世界大戦(57)」