●フェイズ67「第二次世界大戦(61)」

 ドイツにとって、そしてヨーロッパにとって、本当の戦争相手はソ連、ソビエト社会主義共和国連邦だった。
 ロシア人の国であり共産主義の国なのだから、歴史的にもイデオロギー的にも決して譲れない相手だからだ。だが、ドイツを率いるアドルフ・ヒトラー総統は、ロシア人に視線を注ぎすぎていたのか、戦争相手を見誤ってしまったと言われる事もある。
 彼にとって、日本は評価にすら値しない3等以下の劣等人種の蛮族国家であり、アメリカは開拓民が作った紛い物で成金の国でしかなかった。しかしロシア人との戦争に躍起になっている間に、気が付いたらその二国に追いつめられ、そして戦争から6年目にして最も肝心なロシア人との戦争をも失おうとしていた。しかもロシア人との雌雄を決すべき戦いにおいても、全く予測しなかった相手に大きな痛手を被っていた。

 ロシア戦線のドイツ軍は、1944年5月27日の「クルスク大戦車戦」に敗北して以後、南方戦線では後退する一方に追いやられた。
 一般的な評価と違い、クルスクでのドイツ軍の損害は致命傷と言うほどでは無かった。クルスクでの一番の失点は、鉄道路線の集中地点である兵站拠点と他の兵站拠点に繋がる重要拠点を失った事になる。これによりロシア戦線全体で補給が混乱し、結果として戦線の崩壊につながった。
 また、クルスクの戦い以後の戦線の大幅な、そして止まることが無かった後退は、ロシア戦線での枢軸側の兵力不足もしくは兵力差が大きな原因だった。その年の春には、最後の有力な同盟軍であるフランス軍の1個軍、20万の兵力が本国に引き揚げていた。残るのは、ドイツ軍以外だと数字合わせ程度の戦力でしかない東欧各国軍だけとなった。イギリスからの戦車、航空機などの供与も、日を増すごとに減っていった。
 またドイツ軍も、欧州に連合軍が駒を進めてくるようになると、少しずつロシアから兵力を引き抜かざるを得なかった。ロシア戦線からの兵力の引き抜きは、インドでの敗北から始まった。そして1944年春頃から規模を拡大し、1月と5月にはそれぞれ1個軍団が地中海方面に移動した。同年10月20日に連合軍がギリシアに侵攻してきたときは、合計で1個軍もの兵力をバルカン半島方面に増強していた。そして1945年に入ってもロシア戦線からの兵力引き抜きは続き、イタリアの敗色が濃厚になると2個軍団がイタリア国境に移動して、5月から6月には北イタリアに進駐している。北大西洋側でも、1945年に入って本土北部沿岸などへの兵力の再配置が行われた。さらに連合軍の南フランス侵攻が明らかになると、フランス軍だけでは押しとどめられないため、初夏には2個軍団がフランス入りした。
 全てを合わせると1個軍集団規模にもなり、実際ロシア戦線に展開する3つの軍集団は実質的にそれぞれ1個軍ずつ少なくなっていた。
 一方で、シュペーア軍需相の辣腕によって兵器の生産はさらに拡大したが、生産が消耗に追いついていなかった。戦車など兵器の性能は向上していたが、それは敵も同じ事だった。
 空軍も厳しさを増していた。
 なにより第三航空艦隊が地中海方面に全力で展開しているため、ロシア戦線は第二、第四の2個航空艦隊で支えていた。しかしヨーロッパ沿岸各所を連合軍が攻撃するようになったため、第五航空艦隊が新設されて、少なくない兵力が充当された。さらに連合軍が欧州本土を攻撃圏内に収めるようになると、長らく訓練兵団状態だった第一航空艦隊を防空部隊として再編成する作業が急速に進められる。実質的に1個航空艦隊を作り上げる作業であり、多くの機材、人的資源が第一航空艦隊に投入されていく事になる。
 これらの結果、ロシアの空を飛ぶ機体の数は、1942年に3000機を数えていたものが、その半数にまで減らしていた。
 連合軍の無数の戦闘機と戦術爆撃機をアルプス以南に押しとどめるにはそれでも不足していたが、最早どこを見ても枢軸軍に余裕は無かった。

 対して連合軍というよりソ連軍は、日増しに戦力を増やしていた。根こそぎを越える規模での兵力動員によって1000万人の大兵団を作り上げた。そして自国でのなりふり構わない生産と、無尽蔵とすら言えるアメリカのレンドリースによってその兵団を運営した。
 ドイツ人が長らく蔑み小馬鹿にしていた満州帝国軍も、1943年頃から有力な存在に変化していた。1945年時点で105万の陸軍と稼働機1200機の空軍部隊をロシアの大地に展開していた。最盛時のロシア戦線のフランス軍を上回る規模だった。兵士の質も実戦の中で高くなり、それを拡大を続ける自国生産と膨大なレンドリースで武装することで、ドイツ軍に匹敵すると言われほdの精強さを持つようになっていた。
 なお、1944年夏頃のロシア戦線での連合軍(ソ連軍)の並びは、北から順番に以下のようになる。

・1944年7月頃
 ・レニングラード方面軍(戦線正面軍)
 ・北西方面軍(戦線正面軍)
 ・カリーニン方面軍(戦線正面軍)
 ・西方面軍(戦線正面軍)
 ・ブリャンスク方面軍(戦線正面軍)
 ・中央方面軍(戦線正面軍)
 ・ヴォロネジ方面軍(戦線正面軍)
 ・満州帝国遣蘇総軍
 ・ステップ方面軍(戦線正面軍)
 ・西南方面軍(戦線正面軍)
 ・南方面軍(戦線正面軍)
 ・北コーカサス方面軍(戦線正面軍)

 このうち、1944年5月のクルスクの戦いに主に参加したのが、ブリャンスク方面軍、中央方面軍、ヴォロネジ方面軍、満州帝国遣蘇総軍、ステップ方面軍になる。そしてドイツ軍の主力と決戦に及んだように、特に1944年初夏の頃のソ連軍の主力部隊が集結していた。そしてその巨大な戦力を用いて、南方戦線での総反攻が実施されていく事になる。
 これ以外に、フィンランド方面の部隊がロシア戦線(ヨーロッパ戦線)に属しているが、形式上以上の方面軍編成は取られていなかった(※フィンランドと長い国境を接するが、戦略性の低さから奪われなければよい場所のため。)。また、ペルシア(イラン)方面軍、東トルキスタン方面軍、タタール(モンゴル)方面軍があったが、殆どは警備部隊や占領軍としての司令部であり、実戦能力は無かった。
 この間の戦線の主軸は、長らく枢軸軍がコーカサスなど南方を重視していたので南部にあった。ソ連軍も主力部隊のほとんどを南方に展開して対抗した。そしてクルスクの戦い以後も、まずは産業地帯、農業地帯であるウクライナの奪回を優先した事と、正面のドイツ軍を撃破した事の双方を理由として南部(ウクライナ)戦線が重視された。
 北部でも冬季反抗を中心に反撃が実施されたが、ウラソフ将軍の部隊が全滅するなどあまり芳しく無かった。それでも南部戦線でソ連軍が大きく盛り返した事から、徐々にロシア戦線全体がソ連優位になり、そして戦線を西へと押し返すようになる。
 1944年下半期の主な出来事をまとめると、以下のようになる。

・7月16日: ソ連軍、ハリコフ奪回。
・8月〜: ソ連軍、南部戦線のほぼ全域で攻勢。
・8月9日〜: 満州帝国皇帝溥儀がソ連を訪問。スターリン書記長と会談し、前線の将兵を激励。
・9月29日: ソ連軍、スモレンスク奪回。
・11月6日: ソ連軍、ドニエプル川渡河。キエフ奪回。

 スモレンスク奪回以外は南部での出来事であり、この時期のソ連軍の重点が南部にあったことが良く分かる。
 そして簡単には大部隊の移動はできないので、1944年の冬季攻勢も南部が重視された。またこの時の冬季攻勢では、レニングラード方面でも実施され、レニングラードが完全解放された。
 1945年の春までに、ウクライナのほぼ全ての奪回に成功して、残す国土はベラルーシ(白ロシア)とバルト海諸国だけとした(※ソ連指導部はバルト海諸国も「奪回」対象と定義していた。)。
 そして1945年初夏から戦争終結までの連合軍(ソ連軍)の並びは、北から順番に以下のようになる。

・1945年5月頃
 ・レニングラード方面軍(戦線正面軍)
 ・第3バルト方面軍(戦線正面軍)
 ・第2バルト方面軍(戦線正面軍)
 ・第1バルト方面軍(戦線正面軍)★
 ・第3ベラルーシ方面軍(戦線正面軍)
 ・第2ベラルーシ方面軍(戦線正面軍)★
 ・第1ベラルーシ方面軍(戦線正面軍)★
 ・第1ウクライナ方面軍(戦線正面軍)★
 ・第4ウクライナ方面軍(戦線正面軍)
 ・満州帝国遣蘇総軍★
 ・第2ウクライナ方面軍(戦線正面軍)★
 ・第3ウクライナ方面軍(戦線正面軍)

 ★印は、実質的な主力部隊で、精鋭部隊が多く他の方面軍よりも大きな編成を持っていた。

 なおソ連軍は、師団(または旅団)=軍=方面軍(戦線正面軍)という指揮系統を持っている。しかしソ連軍の「師団」は、大戦初期にフィンランドに戦争を仕掛けるまで、実質的に旅団程度の小規模編成だった。この小規模編成が実際には都合が悪いことが分かったので、慌てて規模を拡大して師団編成に改変したが、それでも他の列強と比べると師団の規模は小さかった。戦車部隊を中心に旅団のままの部隊も多かった。
 「軍」の編成の方は、通常は数個師団を束ねる程度だが、場合によっては20個師団近い大部隊を指揮下に持つことがある。とはいえ1個師団当たりの規模が小さいので、他国での大規模な「軍団」か「軍」程度しかなかった。そして戦争が進むとさらに上位組織として「方面軍(戦線正面軍)」が設置される。この「方面軍(戦線正面軍)」は他国での「軍」に当たるが、場合によってはさらに上位の「軍集団(総軍)」規模になる。満州帝国遣蘇総軍を同列に列記したのもそのためだ。上記の表で★印を付けた部隊は、通常3個軍程度の編成のところを二倍近い「軍」を有したり、「軍」の内訳も親衛隊や突撃軍、戦車軍など精鋭部隊を含む場合が殆どだった。

 そして各方面軍の指揮官は、大将または上級大将が任務に当たるのだが、非常に重要な戦いや政治的要素を含む場合は、元帥達が前線に出てきて指揮に当たることもあった。
 1943年夏以前だと、元帥と言えば大戦前というよりも大粛正以前からの生き残りのプジョーンヌイとヴォロシーロフになる。しかし両名共に、能力では疑問を呈される実績しか残していないため、実質的な戦争指導は初期の頃から大粛正を生き残った彼らよりも階級が下の将軍達が行った。
 最も有名なのは、ゲオルギー・ジェーコフ将軍だろう。戦略眼に優れ防戦に秀でており、彼無くして初期のドイツの攻勢は防げなかったと言われることが殆どだ。そして彼は実力を認められ、軍の最高司令官でもあるスターリン書記長の元で最高司令官代理として、実質的な戦争指導を行う。
 そしてジェーコフ将軍と共に軍中央を支えたのが、アレキサンドル・ヴァシレフスキー将軍だ。彼もジェーコフ将軍並の早い昇進で、そして代理を経て参謀総長となった。参謀としても優れていたのだが、何より組織調整の達人で、職人技とも言える調整能力を発揮し、世界最大規模の地上部隊を切り盛りした。1000万人を越える大兵団は、彼なくして運用は不可能だっただろう。
 そして彼らと違って、常に前線にあってソ連軍の主な攻勢を指揮したのがコンスタンチン・ロコソフスキー将軍だ。ソ連軍最高と言われる機動戦の達人で、多くの戦場でドイツ軍を圧倒した。
 以上三名こそが、大戦中もしくは大戦後すぐに誕生した元帥達の中でも抜きん出た存在だった。
 彼ら以外にもイワン・コーネフ将軍、イワン・チェルニャホフスキー将軍など優れた指揮官は多数いたが、やはり彼らなくしてドイツの侵攻を防ぎ、そして反撃していくことは難しかっただろう。

 そして反撃で忘れていけないというか、ロシア戦線の記録上で避けて通れないのが満州帝国遣蘇総軍の存在だった。
 反撃の嚆矢となったヴォロネジ包囲戦と、事実上の決戦となったクルスク大戦車戦の立て役者であり、彼らの「独断専行」によるドイツ軍の出し抜きと、誰もが予想しなかった自己犠牲的とも言われる奮闘が無ければ、ロシア戦線の様相はかなり違っていたのは確実だ。研究者の中には、ロシア戦線の動きが半年は違っていたと結論する者もいる程だ。
 満州帝国遣蘇総軍の総指揮官は、馬占山元帥。独立以前の満州で馬賊、いわゆる盗賊の頭をしていた人物だったが、日米の満州経営とその後の満州独立で満州帝国軍の中枢に位置するようになり、他の有力者を押しのけて遣蘇総軍の総指揮官となった。しかし彼の幕下には、同じ満州族や北方騎馬民族の姿は少なかった。いても形式的、名目的な指揮官が殆どで、彼らの多くは軍人としての能力が不足するため満州帝国内に留め置かれている。馬占山元帥の股肱の部下でも例外ではなかった。そして遣蘇総軍を実質的に運営したのが、石原完爾将軍以下の元々は日本陸軍に属していた高級将校達だった。
 満州帝国は傀儡で急造の国家で、軍隊は日本軍わけても日本陸軍が作り上げたと言っても過言では無かった。組織や制度のほとんどが日本陸軍式で、一部にアメリカ式が取り入れられているだけだった。満州帝国以前の関東軍時代から満州は日本陸軍の出張所であり、古くから日本陸軍の多くの軍人が満州に派遣されていた影響だ。
 ロシアへの派兵初期の1942年春の時点では、遣蘇総軍の総司令官は満州皇族の(愛新覚羅)吉興で副司令官が馬占山上将というふうに、一応は満州系で固められていた。だが実質は日本陸軍出身者ばかりで、全軍の参謀長が石原完爾で、第一軍と第二軍に分かれていた各軍の司令官は第一軍司令が板垣征四郎、第二軍司令が尾高亀蔵だった。他も参謀から下級将校に至るまで、将校の約半数は日本陸軍出身者で固められていた。満州帝国出身者の場合でも、日本人移民の割合が多かった。その代わりと言うべきか、空軍にはアメリカ系移民の将校が非常に多く、「陸の日本、空のアメリカ」と言われる事がある。建国後に育てられた満州族の将校も一定数いたが、もともと満州族が少ない上に教育を受けていた者も少数なため、絶対数が少なかった。そして第二次世界大戦の序盤に旧中華民国の将兵を受け入れることで、将校の比率はまた大きく変化する事になる。

 満州帝国軍の遣蘇総軍は、総数で最大120万、戦死者を加えた派兵数は150万人、これに空軍の第一航空軍の約20万人が加わる。さらに後方支援要員、軍属を含めると最大派兵数は170万人に達する。さらに東鉄職員などを含めると、ロシアに行った総数はのべで200万を越えると言われる。この数字自体は、日本帝国軍が欧州や中東にまで派兵した兵力よりも多いほどだった。特に当時の満州帝国の総人口が中華地域からの流民を含めて4000万人ほどだった事を考えれば、動員できる総力を派兵した事になる。
 しかし兵士の半数以上が、元中華民国の兵士だった。彼らは大戦初期に捕虜となった後に、恩赦、満州国への移民許可などの報償と引き替えにロシア戦線に従軍したが、その総数は総数で100万人に達する可能性がある。噂を聞きつけて、わざわざやって来た者も少なくなかった。しかし彼らの多くは、兵士、下士官として満州帝国に属した。戦争中の軍の肥大化による将校不足から、元将校や有能な兵士が将校になる事も増えたが、将校の過半は日系または日本出身者のままだった。
 特に指揮官、高級将校は、8割以上が日本陸軍出身者で占められた。満州で育った日系、米系将校の多くは、年齢と階級からまだ階級が低かったからだ。そして彼らの多くは、日本陸軍内ではエリート将校としての道を歩んできた者が多い。実際、非常に難関だった士官学校に合格し、さらに多くの者が陸軍大学にまで進んでいるのだから、少なくとも机の上の勉学には強かった。だが、思考の柔軟性に欠けると判断される者が多く、また「問題児」とされた者、事実上の左遷をされた者も多く含まれていた。
 そして当初彼らは、関東軍時代はエリートコースの一つでもあった「関東軍」への派遣と言える満州帝国軍への「出向」を喜んだ。だが、雑多で装備も劣る状態の兵力で、しかも日本軍ではなく満州軍としてロシアに援軍として派遣されると分かると、多くの者が一度は消沈してしまったと言われる。自殺者も一人や二人では無かった。しかし、ドイツとソ連が死力を尽くして戦うロシア戦線で現実にもまれ、多くの者が生き残る為に目の前の戦いにのめり込んでいった。中には、戦場で兵士達と意気投合して、士気を大いに上げる者まで出るようになった。
 そして時間と共に戦況と戦力、補給状況は好転し、枢軸軍が満州帝国軍に積極的に攻勢を仕掛けることもないため、装備と戦力を充実させることができた。それに伴い、彼らの士気も少しずつ高まっていった。
 そして彼らが気が付くと、ロシアの大地の一角に彼らが動かしたいと願っても叶わなかった大軍が出現しつつあった。そして彼らは、大軍を用いて「自分たちの戦争」が行えることを理解すると、さらに戦争にのめり込んでいくようになる。この視点で見ると、天保銭と影で小馬鹿にされた勉強型の秀才将校達も、職人気質で農民気質ないかにもな日本人達だったと言えるだろう。
 そして天才と言われた石原完爾将軍が発案し、秀才集団の日本人高級将校団が緻密に組み上げた作戦を立案し、幾つかの幸運と偶然も重なって多くの実績を残した。ヴォロネジ包囲戦は、近代における謀略的軍事作戦の最たるものの一つと言われるし、クルスク大戦車戦でのドイツ軍精鋭部隊への突進と、正面からの激突における奮闘を否定できる者はごく少数派だろう。

 しかしクルスク戦で精神的に「燃え尽きた」と言われる彼らは、その後の活躍はなりを潜めた。その証拠とされるのが、本節の前の方で紹介した各方面軍の並びになる。よく見れば分かるが、満州帝国軍は2つ順番を下げている。つまり南に移動したことになる。実際は、ソ連軍の2個方面軍が後ろから回って北に移動したことで満州帝国軍が南にスライドしたのだが、この結果満州帝国軍は以後の戦いでドイツ本土に進軍できない位置になっていく。さらに近いところでは、キエフ奪回にも参加できなくなっていた。ベラルーシ方面での戦闘にも、関わることが出来なくなった。
 今まで多くの戦果をあげすぎた事によるソ連指導部の横やりと言われるが、当事者の遣蘇総軍の将校達が文句を言うことは殆ど無かった。戦後の述懐などでも、「むしろ、ほっとした」などと記録されていることが多く、満州帝国軍側が戦場の配置換えを積極的に受け入れたことは間違いない。

 そうした中で、時間と共に頭角を現していったのが牟田口廉也将軍だった。
 牟田口将軍は、好悪共に極端な評判の持ち主だった。一番良い面から見ると、勇猛果敢で自らが負傷しても前進を止めなかった遣蘇総軍きっての猛将とされている。将兵にも親しく接した温情家で、最前線で指揮に当たることも多いため、少なくとも直属の部下となった将兵、特に兵士からの評価は高い。
 しかし精神面で自己肥大の傾向があり、素行も誉められるものでは無かったとする説もある。
 特にほとんどの人が認める軍人としての欠点が、「補給」、「兵站」をほとんど理解していなかったという事だ。これは誰もが認めることだが、満州に派遣された日本人将校に多く見られた傾向なので、程度問題だったとする説もある。しかし、彼の下についた兵站将校の多くが、彼を極度に嫌ったのは確かだ。戦争中に彼の兵站軽視が問題とならなかったのは、遣蘇総軍が攻勢に出るまでにレンドリースなどの補給状況が良好になっていた事と、遣蘇総軍全体が攻勢前の物資の備蓄と補給に殊の外気を遣っていたからだ。将校の多くが兵站に無理解な為、兵站業務の多くを東鉄など軍属扱いの民間人が担っていたと言われるほどだ。東鉄の現地課長が臨時に大佐待遇だった事すらあったほどだ。
 また、1943年夏頃から牟田口将軍の兵站幕僚(参謀)となった人物が切り盛りするようになると、彼の部下の不満は沈静化した。満州帝国出身の将校だったその兵站幕僚は、戦後に軍を退役して実業家として大成功した人物だった為か、「自分は銭勘定しかできない」と「猛将」牟田口将軍を戦中戦後共に高く評価している。牟田口将軍も、不思議と彼の言葉には耳を傾けた。

 牟田口将軍は独善的だったり虚栄心が強いにしても、少なくとも臆病者で無いことは確かだろう。
 もっとも牟田口将軍は、最初から「猛将」だったわけではない。
 彼は、戦前のクーデター未遂のとばっちりを受けて、事実上の粛正で満州帝国に左遷された組だった。このため満州では、ロシア派兵まで軍務も疎かになりがちで、芸者遊びなどに耽っていた事もある。満州帝国陸軍の急速な拡大に伴い第18師団長に抜擢されても、ロシアの派兵先には何も(娯楽が)ないと愚痴をこぼす事が多かったと言われる。
 しかし一転して、1942年春のドイツ軍との戦闘では、後込みする同僚達を後目に前線での活躍を示すようになった。精神的に開き直ったのではと言われたほどだ。この時何があったのか不明だが、戦意を取り戻したことだけは確かだろう。そしてさらに一年後の1943年3月のヴォロネジ包囲戦では大活躍を示した。
 常に自らの師団の陣頭に立ち、部隊を前進させ続けた。続く防戦でも、最前線で部隊将兵を激励し続けた。指揮そのものは粗い面もあったが、前線で指揮している事もあってか戦機を逃すことは無かった。そして防戦の最中に、砲撃の破片で負傷しながらも陣頭指揮し続けた事で兵士達からの評価を大いに高めた。実際の作戦中の指揮も高く評価され、参謀長の石原将軍らと並んでソ連からも赤旗勲章など多数の勲章を授与された。総司令官の馬占山将軍も、「キンキラの軍服」を着て後方で作戦図ばかり見ている日本人将校が多い中で、牟田口将軍の事を高く評価していた。従軍記者からも、血のにじんだ包帯を巻いて指揮する彼の姿が格好の被写体となった。
 そしてここに「猛将」牟田口が誕生する。
 そして作戦後、遣蘇総軍の増強と戦力再編、さらに当時の直属の上官だった河辺正三中将の上将への昇進と第15軍団軍団長から第3軍司令官への昇進(※第3軍はこの頃に新設された。)に伴って、彼も階級はそのままながら第15軍団を任される事になる。
 その後も、1943年秋にドイツ軍のバクー到達と共に行われたソ連軍の総反攻時でも活躍して、彼の軍団は優先して強化の対象とされた。この時期には、遣蘇総軍自体のさらなる強化が実施されており、第一軍は第一機甲軍と名を改め戦車師団は重機甲師団に改変、改名された。遣蘇総軍の所属師団も、重機甲師団3個、機甲師団4個、機械化師団6個、歩兵師団15個にまで強化された。第3軍唯一の機械化師団は、牟田口将軍の指揮下の第18師団が改変されたものだった。
 クルスク戦での牟田口将軍は、やはり第三軍の先頭に立ちドイツ軍の防御陣地への遮二無二の突撃を行った。麾下の中華系将兵達も、将軍が乗車(ハーフトラック)と共に突進するのに乗せられて進んでいったと言われるほどの勇猛さで、第一機甲軍の側面配置ながら全軍の突進を自らの突進によって良く支えた。そして第一機甲軍がドイツ軍戦車軍団との決戦に及ぶ中で、事実上最も西に進んでいた彼の軍団には、クルスク突撃の先鋒が命じられた。後続に予備兵力の歩兵部隊が多数続くが、機械化部隊の殆どが「決戦」にかり出されているため、どうしてもクルスクに対する突進力が不足したからだ。そして牟田口将軍と彼の将兵たちは任務を果たし、満州帝国の五色旗と皇帝旗の「龍旗」をクルスク市に一番最初にはためかせることに成功する。(※この時に限らず、満州軍の多くの戦場では小さな日の丸もよく翻っていたと言われている。)
 そしてクルスク戦での活躍で、2つめの赤旗勲章をはじめ多くの勲章を満州、ソ連から受けると共に上将に昇進する。上将とは他国では大将に当たるため、日本陸軍の同期の中ではダントツの出世頭といえた。(※同時期の石原完爾は、ドイツ、ソ連での上級大将に当たる大将に昇進している。)
 その後も、クルスク戦での奮闘で憑き物が落ちたような同僚たちを後目に軍の進軍の先頭に立ち続け、「第3軍は全軍の先頭にあり」や「猛将牟田口、常に最前線にあり」、「ジンギスカンの再来、猛将牟田口」と従軍記者などにも書かれることになる。
 そしてその翌年春の人事異動では、河辺将軍が病もあって前線から去ることになった為、抜擢人事の形で第3軍司令官に就任する。そうして牟田口将軍が第3軍司令官になった頃の満州帝国軍遣蘇総軍の指揮官は以下のようになる。
 
・総司令官    :馬占山元帥
・参謀長     :石原完爾大将
・第1機甲軍司令 :酒井鎬次大将
・第2軍司令   :喜多誠一上将
・第3軍司令   :牟田口廉也上将

 喜多将軍は典型的な参謀本部付の将校で、天保銭の代表と言えた。しかし満州帝国建国後は、満州と北支那に赴任する事が多くなり、関東軍所属を経てそのまま満州帝国軍を率いる事になった。
 酒井将軍は、権力闘争(出世競争)の結果の陸軍主流派(永田=東条派)から追い出された形だった。
 彼も元々は典型的な参謀本部付の将校で、戦争理論、戦史研究の権威としても知られる知性派の人物だった。だが、1930年代半ば、満州で機甲戦の研究を行う事で彼の進路は大きく変化する。元々新しい兵器である戦車や戦車を用いた戦術にも明るかったが、それらを実際に扱う部隊(第一混成旅団)を率いる事になった。
 だが、成果の多くは永田鉄山の懐刀や舎弟と言われた東条英機に奪われ、陸軍内の勢力争いの結果、満州帝国軍の顧問に追いやられてしまう。しかし満州での彼は、志を同じくする将兵と共に機甲戦の研究と部隊設立に熱心に動いた。そして満州が日本より先にモータリゼーションの時代を迎えつつあった事が幸いして、まともな戦車こそ殆ど無かったが歩兵や砲兵などの機械化部隊の編成と実験は順調に進んだ。そうした時に第二次世界大戦を迎え、中華民国軍迎撃の際に小規模ながら満州帝国の機械化部隊(※第一重機甲師団の原型となった部隊)を率いて、日本陸軍よりも活躍を示した。
 この時点で日本陸軍は、酒井に日本陸軍への復帰を持ちかけるが、彼は断って満州軍の建軍にその後も力を注ぐことになる。そして中華民国との戦闘、枢軸軍の連侵攻とソ連の連合軍への参加、満州帝国のソ連派兵で計数的な部隊拡大へとつながる。
 そしてロシアの大地でドイツ軍と正面から戦う以上、大規模な機甲部隊は必須だった。彼は今までの人脈も駆使して満州軍の機械化、機甲化を精力的に押し進めた。皇帝溥儀からの信頼も厚く、ほぼフリーハンドで仕事に専念もできた。
 東鉄など満州資本も、多くが協力的だった。日本の企業も、新興の日産財閥、満州で大きくなった小松製作所(※後の小松重工)、日野自動車などいくつかが、既存財閥が幅を利かせる日本以外の場所での販路拡大のため協力的だった。
 小松製作所は陸軍からの請負で、現地の大型トラクター工場を改造した巨大工場で三式重戦車を日本本土に負けない勢いで量産した。陸軍の息のかかった日野自動車は、戦車も作ったがアメリカ資本と機械を注入してトラックと自動車を作った。中でも日産は最も大規模だった。戦車こそ生産しなかったが、満州軍が必要とする物なら何でも生産し、企業として巨大化していった。満州を牛耳る東鉄については、この頃は流通と金融、さらには情報通信に傾いていたため、生産は満州に進出していた日系企業、一部アメリカ企業が担う事になる。
 また、アメリカ企業との関係も深い鈴木財閥(※旧鈴木商店)も、鈴木財閥中興の祖といわれる出光佐三のもと、物資調達と物流を中心に大きく関わっている。特に国家統制によらない石油供給を掲げ、アメリカ企業(スタンダードオイル系)からの協力を得て北満州の昭和石油開発を促進するなど、日本だけでなく満州の石油事情改善に大きな力を果たしている。

 そして酒井鎬次将軍は、主にこの時期の功績と皇帝溥儀との関係から、戦後には満州のグデーリアンと言われた程だった(※石原完爾将軍は満州のマンシュタインと呼ばれている。)。
 だが彼は、満州本国で機械化部隊を作ることに専念するため、しばらくはロシアの前線に出ることは無かった。教導部隊と人材がある程度育つまで、自らが手腕を振るわないといけなかったからだ。そうして彼が育てた機甲部隊と共に、1943年夏頃についにロシアの大地に軍司令官として向かった。
 さらにロシアでも彼は部隊の編成と訓練に心血を注ぎ、そうして1944年の春までに一つの完成形である第一機甲軍を作り上げる。酒井将軍なくしてクルスクでの満州帝国軍はあり得ず、彼こそが日本人随一の機甲部隊の育ての親であり運用の父であった。日本陸軍ではユーラシアを横断した山下将軍や、主に支那戦線での電撃戦で有名な岡村将軍が有名だが、酒井将軍の名を挙げる者も多い。
 加えて言えば、酒井将軍が作り上げた満州帝国第一機甲軍は、日本人が作り出した最大最強の機甲部隊と言っても間違いないだろう。実際、日本陸軍は、派兵状況、戦場の状況もあって、これほどの機械化部隊を編成することは無かった。

 一方で、ロシアの空で満州帝国空軍第一航空軍を率いていたのは、アメリカ出身のジミー・ドーリットル将軍だった。
 彼は、水上機のスピード競争のシュナイダーズ・トロフィーで1925年に優勝した後の1930年に軍を退役。その後シェル石油の航空部門でも、競技パイロットとして活躍した。その競技の折りに満州帝国皇帝溥儀が観戦しており、いたく感激して膨大な契約金などによって満州空軍にスカウトした。満州帝国空軍大佐となった彼は、現地の日米の航空メーカーや極東の空の交通網も牛耳る東鉄と連携して、空軍の育成とさらには民間航空の発展と拡大にも貢献する。そして1940年に中将となった時に第二次世界大戦を迎える。
 しかしその頃の満州空軍は、他国に比べたら「玩具同然」だったため、まともに戦えるようにするために、規模の拡大と育成に力を入れざるを得なかった。そして1943年秋にロシアの空に派遣する段階になったが、指揮できる人材も限られているため、自らが航空軍を率いるべくロシアの大地へと赴く。そして、雑多で愚連隊なパイロット達と共に、数々の活躍と伝説を作り上げていく事になる。彼の逸話は戦中、戦後も脚色を付けて語られ、「冒険野郎ドーリットル」というテレビドラマにまでなったほどだった。
 彼は1945年春の段階で満州帝国空軍大将で、満州帝国空軍副司令官兼第一航空軍総司令だった。にもかかわらず、時折自らも操縦桿を握って指揮に当たったと言われている。このため満州帝国では「天龍将軍」とも呼ばれた。

 以上のような陣容で、ロシア戦線は1945年初夏を迎えようとしていた。



●フェイズ68「第二次世界大戦(62)」