●フェイズ70「第二次世界大戦(64)」

 戦場がヨーロッパに絞られるようになると、文字通り全世界を舞台にした戦争が終盤にさしかかりつつある事は、誰もが理解していた。しかし最終的な結果、どちらかの陣営が完全瓦解するまで止まる気配が無かった。第二次世界大戦が、欧州枢軸と連合軍(+ソ連)が世界の新たな覇権を賭けた戦いだったからだ。
 しかし、欧州枢軸(EA=Europa Axis)はあくまでドイツを盟主とした一極型の支配構造なのに対して、連合国(U.N.=United Nations ※日本では連合国軍、連合軍と言う場合も多い)はアメリカを中心としつつもその名の通り連合的な組織が目指された。
 戦争自体は、1940年7月頭に一旦ヨーロッパでの戦いは終息したが、すぐにも再開されて同年9月にはソビエト連邦ロシア(以後ソ連)以外の主要参戦国が出揃うことになる。
 欧州枢軸側の主要参戦国はドイツ、イギリス(本国)、フランス、イタリア、中華民国で、連合国側はアメリカ、日本、自由イギリス、満州帝国になる。1941年6月からソ連が連合国に加わり、これで全て出揃う。そしてそれぞれの陣営に多くの国が属しており、特に連合国は国力で圧倒するアメリカも盟主とは言えないので、政治にも力を入れなければならなかった。
 当然、戦争中に国際会議が頻繁に行われることとなる。

 欧州枢軸と呼ばれる陣営が出来たのは、1940年8月のベルサイユ会議だが、連合国の形成には時間がかかった。
 1940年9月2日「日米軍事同盟」が始まりで、その後アメリカ、日本が自由イギリスを承認する形で「アライアンス(alliance)」という名称での連合国が形成される。
 「ユナイテッド・ネイション(UN(United Nations))」としての連合国が形成されるのは、さらに約一年が経過した1941年8月12日の「太平洋会談」においてだ。
 この頃には、欧州枢軸が総力を挙げてソ連に攻め込んでいたが、ソ連は共産主義国なうえに直前までドイツとの間に不可侵条約を結んでいた為、連合国との関係はほとんど敵対的ですらあった。欧州枢軸がロシアに攻め込むまで、連合国の間では水面下でソ連が敵に回った場合の対応が真剣に討議されていたほどだ。だが、欧州枢軸というよりドイツが突如ソ連に全面的に攻め込んだので、世界の勢力図は一変し、ソ連は連合国の一員となっていく。しかし、簡単にソ連が連合国の一員になったわけではない。当初は相互不信から外交交渉すら難航したほどだ。それでも、すぐにも日本との間に事実上の不可侵条約が成立し、1941年10月には日米との間に貸与協定が成立した。この交渉では、アメリカの駐ソ大使だったスタインハルトらと(※鉄道王ハリマンの息子のウィリアム・A・ハリマンの大使就任は後年になってから。)と、駐ソ大使の東郷茂徳、外相幣原喜重郎の活躍があればこそだった。
 それでも関係が深いとは言えなかったが、1942年12月に日本の首相山梨勝之進が単身ソ連に赴き、ソ連書記長スターリンがモスクワを出てシベリアまで向かい、ノボシビルスクで日ソ首脳会談が開催されることで、ソ連の連合国としての一体感が増したと言われる。しかしソ連は、自分たちがドイツを始めとして枢軸軍の過半の戦力を引きつけているとして、まずは援助と支援を求める。そして一日も早い第二戦線を開くことを求めてばかりだった。
 ソ連以外は、基本的に太平洋が完全な安全地帯なので、行き来に事欠くことは無かった。しかも自由英はカナダに政府を置いているので、アメリカとはほとんど一体化していた。それでも自由英の存在が国際外交上で目立っていたのは、ひとえに首相のウィンストン・チャーチルの政治力と行動力、そしてカリスマ性の賜物だった。
 日本は北米大陸から遠いので交流には多少の時間がかかるが、日本はアメリカに吉田茂全権大使を置くことで距離の不利を補っていた。加えてアメリカ、日本では連絡用の大型旅客機が、盛んに開発される大きな切っ掛けとなった。また、アメリカのハワイ、シアトル、サンフランシスコで日本と米英の関係者は会談や国際会議を持つことが多く、太平洋上は頻繁に日米の大型機が飛び交っていた。また日本は、主要参戦国のアメリカとソ連の中間という位置付けを利用して、巧みな外交を展開していた。日本の東京や京都で会議が行われる事も、一度や二度では無かった。1944年春には、日本がホストとなって戦後の東アジア問題を討議する日米蘇(+満)外相会談も実施されている。

 そしてソ連が連合国となった事で、一躍国際政治上に踊り出てきた国が満州帝国だった。満州帝国はソ連に100万もの大軍を派兵することで存在感を大きく増し、さらにソ連と親密な外交を行うことで、他の連合国との橋渡し役すら果たすようになっていた。そしてさらに中華民国が降伏することで、国家の独立に関して誰も文句を言うことも無くなった。
 満州帝国は名目上の国家元首が皇帝の溥儀(康徳帝)、丞相(首相)が張作霖だった。ただし、張作霖は戦争開始の時点で65才だったが、主に心身面での衰えが激しいため戦争中も政務に支障を来すほどで、1944年春に首相の座を副首相だった張景恵に譲っていた(※当時の満州帝国に名目以上の民主政治はない。)。
 1940年夏以後の連合国側での首相交代は満州帝国だけだったが、この交代は満州帝国にとってうまく働き、張景恵は頻繁に日本、アメリカ、そしてソ連を訪れて巧みに外交を展開するようになる。また、張作霖が引退した後を息子の張学良が首相など引き継がなかった事が、連合国各国から満州国が国家として健全に発展していることを確認させる重要な要素ともなった(※張学良は、お飾り以上の官職は与えられなかった。)。
 皇帝溥儀も、まずは日本、アメリカそしてソ連へと自らの強い意志で積極的に赴き、結果として満州帝国の名を世界に広める事に大きく貢献した。どこの国に行っても、溥儀は盛大な歓迎を受けた。清朝最後の皇帝だった溥儀は、ロシアに大軍を派兵する国の君主として、滅びた国の最後の皇帝ではなく、新たな帝国の皇帝としての国際デビューを果たしたのだった。そして国家元首が国家元首として各国で正統な扱いを受けたことで、満州帝国の国際的地位は盤石といえるほどの状態にもなった。
 ただし、溥儀が提案した満州、日本、自由英による「連合国君主会談(仮称)」は、主要参戦国に君主制の国が少ないという理由で、流石に実現することは無かった。その代わりに、日本の昭和天皇(裕仁)が満州帝国を訪問した。昭和天皇が天皇に即位してから公式に外国を訪れる事は実質初めてだったため、大きな外交的援護射撃ともなった。(※昭和天皇の本格的外遊は戦後になってから。)
 一方で満州帝国は、年と共に国際外交での存在感を増していった。特に中華民国降伏後の上海国際軍事裁判では主要国として参加して、連合国の中でも高い存在感を示した。何であれ大軍を遠方に派兵している事が、満州帝国の発言力を高めていた。

 一方の欧州枢軸だが、欧州枢軸と言われるように同じ枢軸陣営の中華民国と欧州諸国の連携は、あまりうまくはいかなかった。距離の問題から、英国と中華民国の外相が一度双方の国を訪問しただけで、首相同士が会うことは一度も無かった。そもそも蒋介石総統は、戦争中一度も国外に出てすらいない。しかも1942年春には、連絡路となるインドが戦場となって行き来すら出来なくなり、欧州から中華民国への支援も途絶えた。中華民国は、戦争初期に欧州からの支援と援助こそ受けたが、ほとんどそれだけで、後は単独で日本を中心とした連合国と戦わざるを得なかった。そして近代的工業製品の生産能力がない国の末路は哀れですらあった。
 枢軸陣営の中華民国以外の国々は、比較的他国との交流と交渉は行いやすかった。欧州枢軸はヨーロッパ地域に国が固まっているので、鉄道や飛行機で気軽に行き来できた。とは言え、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが他国を訪れることは珍しくで、1940年の講和会議以後だと同盟国への訪問はイギリスのロンドンにもたった一度行ったきりだった。その訪問もあくまで私的とされ、ハリファックス首相と会談しただけで、エドワード八世とは公式の上で会うことは無かった。英本国の民意が、いまだに反ヒトラー、反ナチス傾向が強いのを配慮しての事だった。(※ロシア戦線に前線視察で2度赴いている。)
 また、欧州全体の首脳が集合したのが、1940年8月の最初の講和会議以後は一度だけという事実が、欧州枢軸という国家集団がどういうものかを如実に物語っていると言える。結局のところ、ドイツが要請という形で命じた事が欧州枢軸の政治的方向性を決めていた。他国の首相がドイツを訪問することも珍しかった。イギリス本国は少しだけ独自路線が取れたが、それはヒトラー総統とドイツ政府の一部がイギリスに殊の外気を遣った結果でしかなかった。
 そしてドイツ中心過ぎたため、他の主要国の外交は低調にならざるを得なかった。
 フランスは前大戦の英雄の一人であるペタン元帥が最初の首相となったが、政治的に目立った活躍は見られなかった。次に首相となったピエール・ラヴァルは精力的に活動したが、1940年夏の領土割譲やドイツへの供出などと様々な制約からフランス自体が戦争に対して大きく貢献できる状態ではないため、空回りすることが多かった。連合国側についた救国フランス政府のド・ゴール将軍の方が、政治的には遙かに目立っていた。
 イギリス本国のハリファックス首相は、外交よりも内政に力を入れなければならなかった。何よりイギリス本国内では、戦争に負けたからナチス・ドイツ側に組みせざるを得ないという感情が強かった。このため国内では、親ナチス派と反対派(※何の反対派かとは言われなかった。)が常に対立していた。敗戦直後の多少の脱出や亡命では、ガス抜きとしては弱かった。それにドイツに降伏した首相がそのまま政権を続けているので、とにかく英国民からの支持がなかなか得られなかった。その上、戦争が進むにつれて海外領は次々に英連邦自由政府に所属を変えていったので、権威は下がる一方だった。
 イタリアについては、他の主要国と比べて国力や生産力でやや劣る上に、とにかく地下天然資源が無いため、それらが常に脚を引っ張り続けた。ムッソリーニ統領の外交能力自体は、大戦前の活躍から非常に高いと見て間違いないのだが、事が外交や政治から離れてしまうと、イタリアが存在感を示す事は非常に難しかった。

 枢軸の低調な動きを後目に、連合国は次々に政治的動きを進めていった。その最たるものが、1943年8月26日に開催された「アンカレッジ会談」だった。
 アメリカ・アラスカのアンカレッジで開催されたアメリカ、日本、ソ連、自由英の首脳によるトップ会談で、アメリカのアルフレッド・M・ランドン大統領、日本の山梨勝之進首相、英連邦自由政府のウィンストン・チャーチル首相、ソビエト連邦ロシアのヨシフ・スターリン書記長が初めて顔を合わせた。
 主な議題は今後の戦略方針についてだったが、既に戦後を見据えていたのは欧州枢軸と大きく違っていた。
 なお、この会議の水面下において、スターリン書記長は戦争終結についてドイツの完全降伏、所謂「無条件降伏」を提案したと言われている。これに対して日米英三国の首脳は、近代国家、文明国として相手国に政治的退路が全くない降伏は相応しくないと論陣を張ったと言われる。もっともこの話は戦後に言われたことで、ソ連元来の侵略性の高さを印象づける謀略としての偽りを流布しただけだという説が強い。当時ソ連は、まだコーカサスから枢軸軍を追い出しつつある段階で、とてもではないが戦争終結の形について語れる状態では無かった。戦況次第では、不本意な講和や停戦の可能性すらあったのだ。

 連合国の首脳会談は、欧州枢軸というよりドイツを刺激した。そして自然な流れとして、欧州枢軸も自分たちの団結を見せるときだと考えた。
 そこでヒトラー総統は、1943年10月13日にバイエルンのベルヒテスガーデンにあるケールシュタインハウス(※イーグルネスト(鷲の巣))に各国の首脳を呼び集める。これが欧州枢軸が開いた最初で最後の純粋な首脳会談だった。歴史的には「ベルヒテスガーデン会談」や「バイエルン会談」と呼ばれ、特に戦争中はドイツ宣伝省によって派手に宣伝された。このため記録映像、写真が多数残されており、後世にその時の様子を伝えている。
 ドイツのヒトラー総統、イタリアのムッソリーニ統領、イギリスのハリファックス首相、フランスのラヴァル首相と僅かな随員だけで行われた会議は、連合国同様に今後の戦争方針について話し合う会議となった。しかし主な議題は、どのようにして連合国の侵攻を防ぐかという受け身のものにならざるを得なかった。会議の主導面も、ほとんどヒトラー総統が握っていた。
 この頃既に中華民国は降伏していたので(同年9月降伏)、対外的に連合国が中華民国を不当に扱った場合の非難程度しか話し合われなかった。また、連合国軍の進撃はアラブに及び、ロシア戦線では大幅に後退していたが、まだ連合国軍が西アフリカのダカールに侵攻する直前なので、首相達には若干の心理的余裕があった。ホストとなったヒトラー総統も笑顔を絶やさずくつろいだ雰囲気なのが、映像などからも知ることができる。イタリアのムッソリーニ統領も、久しぶりの外交舞台なので非常に元気な姿を見ることができる。
 しかし欧州枢軸の首脳会談は、見た目だけ華やかで実りが欠けていた。
 対照的に連合国は、戦後体制を着実に構築していった。

 1945年7月〜8月にかけて「ブレトン・ウッズ会議」が開催された。同会議は「連合国通貨金融会議」であり、同会議で締結されたのが戦後の国際金融機構を決めた「ブレトン・ウッズ協定」だった。そして作られた状態を、「ブレトン・ウッズ体制」とも呼ばれている。
 「国際通貨基金(IMF)」と「国際復興開発銀行(IBRD)」の設立を決めた会議と協定で、大恐慌後のブロック経済圏を作った反省と、戦後経済の安定化を図るためのものだった。だが、世界の金融の半分を占めるようになっていたアメリカ中心の組織であり、アメリカ無くして成立しないものだった。日本、自由英なども中核として参加していたが、基本的な国力が違いすぎた。このため、アメリカ覇権主義の為の組織と言われるほどだ。だが、アメリカドルを基軸とした金本位制など、世界経済が必要とする安定化を図るには不可欠でもあった。
 同会議では、日本の蔵相(財務相)の賀屋興宣も主要国代表として名を連ねて、日本の地位を作ることに奔走している。賀屋は、日本では戦時財政の第一人者であったが国際金融についての見識には若干乏しいため、日本を発つ前に既に隠居中の高橋是清、池田成彬ら日本の財政の第一人者のもとを訪ねて、知恵を拝借したという逸話を残している。
 また、同会議には満州帝国も代表を送り込んだが、もはやどの国も満州国を日米の傀儡国家として見ることは、少なくとも表向きは無くなっていた。

 さらに同年8月、「ダンバートン・オークス会議」が開催される。
 この会議では「ダンバートン・オークス提案」が採択されたが、その後の「U.N.(国家連合)」で採択される「国連憲章」の原型といえるもので、アメリカのハル大統領が精力的に活動したように、会議は非常に重要だった。同会議には、アメリカの国務次官、自由英、ソ連の駐米大使、そして日本全権大使の吉田茂が参加していた。満州帝国も参加を望んだが、他の参戦国とのバランスもあって叶わなかった(※救国フランスなども参加を望んでいた。)。
 同会議は、アメリカとそれを補佐する形の日本のペースで進んだが、ソ連は安全保障会議の拒否権の設定を譲らず、イギリスは植民地問題で譲らず、完全な形で会議が行われたわけではなかった。しかし植民地問題に関しては、既にインドなどが実質的な自主独立を達成しつつある現状と、何より敵となった欧州枢軸こそが植民地帝国主義の中心であることから、自由英の意見が採用される可能性は極めて低かった。
 しかしこの会議で明確に戦後の国際政治の形が示され、連合国の一方的といえる政治的優位が世界に示されることになった。そして連合国の手はヨーロッパにまで及んだ。
 1945年10月に、戦後の欧州勢力範囲の決めるためのほぼ秘密といえる会談がソ連の首都モスクワで開催される。

 モスクワ会議では、ソ連はスターリン書記長とモロトフ外相が、アメリカはケネディ国務相とハリマン駐ソ大使が、日本は幣原外相と東郷駐ソ大使が、そして自由英からはチャーチル首相とイーデン外相が参加した。日本は、チャーチル首相が行くので当初山梨首相が赴こうとしたが、アメリカのハル大統領が行かないことが分かると外相に委ねていた。これはアメリカ抜きでの首相会談となる事を避けるためだったが、スターリン書記長は山梨首相が来ないことを、私人としては非常に残念がり、幣原外相に山梨首相への個人的な土産を持たせたほどだった。しかし山梨首相は、行けないこと、行かないことをスターリン書記長とハル大統領にそれぞれ自筆の親書をしたためたので、むしろ個人的な評価は高まったとされる。
 そして会議自体だが、主に東ヨーロッパの国々に対する発言権を決めるものだった。ヨーロッパの問題だが、連合国でヨーロッパの国と言えるのが事実上ソ連だけなので、連合国の主要国が代表を送り込んだのだ。
 既に連合国がギリシアに侵攻していたので、まずはその事が討議された。ソ連としては連合国に抜け駆けされた感が強い為、会議当初のスターリンは非常に機嫌が悪かったし、この点を強く非難した。だが、チャーチルなど連合国側のねばり強い説明で納得し、以後はそれぞれの国での勢力を決めた。その結果、ブルガリアは当面連合国の発言権が認められたが、ルーマニア、ハンガリーは全面的にソ連の発言権が認められることになる。そして双方が2国ずつ取った形になるので、他の国については半分ずつとされた。特に問題が複雑かしていたユーゴスラビア地域については保留とされた。またドイツが属国化している、チェコスロバキア、オーストリアについては基本的に半分ずつの発言権とするが、初期の軍事占領についてはソ連の優先権を各国も認めざるを得なかった。この事をアメリカに亡命していた少数のチェコスロバキア亡命組織(※1940年のイギリスの降伏と混乱で、まともな自由政府が作れなかった。)は、連合国の主要国から見捨てられた事になる。
 ただし、第二次世界大戦の発端となったポーランドについては両者の意見が対立したため、その後の関係悪化の呼び水になったとも言われている。
 そして一番紛糾したのが、ドイツをどうするかだった。
 連合国は可能な限り早期に英本土からの大陸反攻を行うので、進軍停止ラインと占領地の決定を求めた。さらに主要参戦国による分割占領と、その後の民主国家としての再出発を強く推した。これに対してソ連は、ドイツに最も損害を受けたのはソ連なので、ドイツ打倒はソ連の権利であり、さらに占領初期はソ連が行うべきだと強く主張した。ただし首都ベルリンだけは、最初から共同占領統治を認めてもいた。また実際問題として、連合国はイギリス本土を奪回したばかりで、南フランス、北イタリアまでしか進んでいないのに対して、ソ連は既に東ヨーロッパに進みつつあった。このためドイツだけでなく全体としてソ連優位に会議が進展する事は避けられなかった。
 この会議での問題は、連合国のアメリカ、日本が、中部ヨーロッパ、東ヨーロッパにこだわりが少ないため、自由イギリスのチャーチルらの奮闘虚しくソ連が会議をリードした点だろう。
 結局は、半ばソ連の「取り分」となる東ヨーロッパの線引きが明確になり、その後連合国とソ連の間の溝が深まる切っ掛けになっただけに終わった。しかしこうした会議が行われた事こそが、戦争の勝利が連合国の完全な形での勝利で終わると誰もが実感していた証拠でもあった。

 そして連合国の外務担当者達が、戦後の勢力争いと枠組み作りに奔走している頃、連合国が議題にしていたポーランドの一角で起きた事件を発端として、全ヨーロッパが激しく揺れ動くことになる。
 何度目かのアドルフ・ヒトラー暗殺未遂とクーデターの発生だ。
 事件は1945年7月20日に起きた。
 この6月に、欧州枢軸は主要艦艇の殆どと北大西洋の制海権を一気に失い、イギリス本国が戦争から脱落、南フランスにも連合国が上陸し、さらにロシアでは戦線が全面的に崩壊しつつあった。その少し前にはイタリアが寝返り、さらには南北に分裂もしていた。もはや、欧州枢軸は瓦解寸前だった。
 19世紀に行われたような戦争なら、今すぐにでも停戦か講和に動くべき状況だった。
 しかし今時大戦は「イデオロギー戦争」であり、連合国は全体主義を打倒するまで戦争を止めるつもりは毛頭無かった。だが逆を言えば、全体主義さえ無くなれば、戦争を止める可能性が有ると言うことだった。
 そうした思惑から、ドイツ国内の反ヒトラー派(※黒いオーケストラと呼ばれることがある。)によって何度目かのヒトラー暗殺が計画された。
 「ワルキューレ作戦」や「ヒトラー暗殺未遂事件」として歴史的にも有名なので詳細は割愛するが、結果としてヒトラーは暗殺されず、その後のドイツは反ヒトラー派の逮捕や処刑で大きく揺れ動き、さらには欧州枢軸の瓦解と敗北を促進させる事になった。
 だが、もし仮にヒトラーが暗殺されクーデターが成功したとしても、戦争が終わったのかというと疑問も多いと考えられている。ヒトラーやナチスが無くなったからといって、少なくとも大きな戦争被害を受けたソ連が戦争を止める理由としては極めて乏しい。むしろ、政権交代で混乱するであろうドイツへの進撃速度を早める可能性の方が高いだろう。ならば、連合国と欧州枢軸の停戦または講和という話しになるが、戦争がここまで進んだ以上、連合国も欧州枢軸の旧体制をそのまま残しておく理由も必要性も薄い。早期の停戦や講和があるとするなら、ソ連の進撃が早すぎて全ヨーロッパに進撃してしまう場合だが、イデオロギーが違うとかソ連の膨張主義を事前に阻止するためなどという理由で、欧州枢軸をソ連に対向させる為に単独講和する可能性も極めて低い。
 反ヒトラー派が楽観的に考えすぎていただけで、欧州枢軸は中華民国のように一度完全に打倒されなければならない、というのがソ連を含めた全ての連合国の基本的な考え方だったからだ。
 なら、自由イギリスや救国フランスはどうなのか? 寝返ったイタリアなどの国については? という意見も出てくるだろうが、それは全く別問題と言える。連合国に自由政府などが属していた事ももちろん大きな違いだが、この戦争自体がドイツが起こした戦争だからだ。
 そしてそのドイツは、いまだ戦うことを止めようとはしていないし、止められない事を知っていた。



●フェイズ71「第二次世界大戦(65)」