●フェイズ72「第二次世界大戦(66)」

 1945年も秋に入ると、欧州枢軸陣営は瓦解一歩手前に追いやられていた。
 イギリス本国は、戦争から脱落するどころか完全に寝返ってしまった。連合軍が踏み込んできたイタリアは、北部に傀儡政権を作ったが、傀儡政府のサロ政権はほとんど何も出来ないまま短期間のうちに連合軍に追いつめられ崩壊しつつあった。フランスは南仏に上陸されるもまだ南部山岳地帯で頑張っていたが、北部の平原に出られたら終わりと言う状況だった。
 盟主ドイツも窮地に追いやられていた。6月から続いたソ連軍の大規模な夏季攻勢によって、秋にはポーランド中央を流れるヴィスワ川にまで追い込まれてしまった。ここまで攻め込まれると、ワルシャワも半分奪われたようなものだった。バルト海沿岸では、ドイツ本土東端に達していた。バルカン半島ではハンガリー前面で踏ん張っていたが、それも物量差の前にいつかは押し切られる事が十分以上に予測されていた。
 そしてこのまま戦争が推移すれば、早ければ翌年春にはソ連軍がドイツ領内どころか最悪ベルリンまで攻め寄せてくるとまで予測されていた。特に敵手である連合軍(ソ連除く)の間では、自分たちがドイツに踏み込めない事への悲観論が強かった。
 そうした中で、ドイツの中枢では二つの意見(作戦)が対立していた。一つは、徹底的に守勢に徹する保守的だが堅実な作戦。もう一つは、自らの力を結集して敵に痛撃を与え、敵の進撃速度を大きく低下させる積極的な作戦。
 どちらも敵(連合軍)が経済的に戦争を投げ出すのを期待した作戦だが、比べるまでもなく痛撃を与える方が賭博性が高かった。しかし守勢防御も、相手が無尽蔵と思える戦力を有するソ連軍が相手となると、どこまで耐えられるのか当人達ですら不安は大きかった。

 そうした状態でドイツ総統大本営で連日にわたって会議が行われ、ヒトラー総統と積極的な軍人達が会議を主導し、大規模な反攻作戦が決定される。
 作戦名は「東方の守り」。敵に守勢防御方針だと情報を誤認させるために付けられた名称で、実際ソ連の諜報組織はドイツ側の方針が防御作戦だとしか認識していなかった。攻勢の兆候もある程度掴んでいたが、自分たちの大攻勢に対する大規模な機動防御作戦のための準備としか見なかった。
 作戦の骨子は、現在(1945年9月末)も大規模な攻勢を続ける、ソ連軍主力が攻勢限界に達した段階で、側面より主力部隊が突破戦闘を仕掛けて短期間で包囲殲滅するというものになる。
 攻勢を終えたばかりのソ連野戦軍は、主に補給面で弱体化しているのは確実だし、戦車などの兵器も長期間の進撃でくたびれきって性能を発揮できないどころか、稼働率が大幅に落ちている。そこを側面から突けば、十分に勝機が見られると考えられた。
 そして急いで作戦準備が進められたのだが、ソ連軍の進撃が予測よりも早く、また装備を失って後退してきた友軍の再編成と装備の供給で時間をとられてしまい、初期の計画通り作戦を発動する事が難しくなってしまった。
 しかし遅れのため、別の目標が作戦に与えられる。ソ連軍の野戦兵站拠点を破壊する事だ。ソ連軍は、ワルシャワ前面まで迫ることで確かに疲れ切って、一度完全に歩みを止めてしまった。各地に建設した要塞都市も、かなり有効に機能してソ連軍の補給路の前進を阻んでいた。また進撃した経路の線路の幅を、ロシア基準に変更するまでの時間もかなり必要となる。そしてソ連軍の物資の備蓄は、要塞都市を陥落させ線路の幅を修復して以後となる。大攻勢のための大規模な前線への物資の供与は、さらにその次だ。
 だが、物資が前線にまで充足してしまうと、何をどうしてもソ連軍に押し切られるのは、ほぼ確実視されていた。しかし逆に補給を一度絶ってしまえば、かなりの時間が稼げると考えられた。そして連合軍と講和するためには、ソ連に踏み込まれすぎてもダメだし、少しでも時間が必要だった。
 こうして10月半ばに作戦は変更され、敵補給拠点として再生が進むポーランド東部の要衝ブレストの一時的な占領と徹底した破壊が作戦の第一目的に変更された。また、初期の作戦案も完全には棄てられず、ブレスト占領によって包囲できる敵最前線の野戦軍は、可能な限り補給を絶った状態で包囲殲滅する事とされた。ただし、長期間の占領は作戦目的としないことは、参謀本部の徹底した要求によりヒトラー総統らも受け入れ、どうしても防衛に必要な箇所以外からは、作戦終了と共に徐々に後退する事も確認された。
 しかし全ては計画であり、作戦を成功させるための障害は非常に大きいのが現状だった。
 それでも反撃のための部隊編成が、秋頃から急速に進められた。

 1945年6月から実施されたソ連軍の夏季攻勢によって、ドイツ軍の北方軍集団、中央軍集団は全面的な再編成を必要とするほどの大損害を受けた。そして最前線は、東プロイセンからポーランド中央部となった。8月からは、ルーマニアが軍事的には一瞬で蹂躙され、秋からはハンガリー国境近辺での激しい攻防戦となった。
 南部はまだ踏みとどまっている部隊が多いが、南部に戻した第1機甲軍の半分、南方軍集団の第7軍、第8軍はハンガリー方面から動かせなかった。
 一方で、長らく北方軍集団を構成していた第16軍、第18軍は、装備を無くした壊滅状態で後退してきていた。ソ連軍の攻勢を正面から受けた中央軍集団はさらに酷く、第4軍、第9軍共に軍どころか軍団を維持するのも難しいほどの大損害を受けて、第3機甲軍も装備と兵員の多くを失っていた。夏頃までロシア方面にいた第4機甲軍は、バルカン半島、イタリア北部、さらにフランスに分散して配置転換したり移動することで、なし崩しに解体されていた。
 幸いと言うべきか、徹底的な再編成のため一旦後方に下げられていた熟練兵が比較的多く残る第2機甲軍が、新規装備と兵士を得たことで復活し、これが何とかポーランド方面の戦線を支えている現状だった。
 そうした中で、第1機甲軍や中央軍集団、北方軍集団所属部隊の再編成と攻勢のための兵力編成が進められる。そうして第5装甲軍、第6SS装甲軍、第15軍に再編成される。これに第2機甲軍を加えた部隊が、今回の攻勢を担う予定だった。
 直接攻勢に参加する師団数は合わせて43個。装甲師団の数は15個を数えた。クルスクの戦い以来の大規模な機甲部隊だった。作戦には2000両以上の戦車が参加予定だった。なお当時ドイツ軍には、武装親衛隊(SS)を含めて書類の上では50個以上の装甲師団(機甲師団)が存在していたが、実際は半分程度しか活動していなかった。そしてまともな戦力のうち約半数が、この時の作戦のために集められていた。部隊の中には80%以上の壊滅状態から、兵士と装備を受領して編成された部隊もあった。だが、歩兵師団にまで強力な突撃砲大隊(IV号 ラング装備)が配備されるなど、1945年に生産されそして中央で備蓄されていた兵器を放出して装備を調えている事から、ヒトラー総統を始めとして軍中央からは大きな期待がかけられていた。
 突破戦力、そして敵の包囲後の対機甲防衛部隊として大いに期待される重戦車、重駆逐戦車も出来る限り動員される予定で、最大で10個大隊が投入予定だった。
 戦車、突撃砲だけでなく、燃料のほうも備蓄されている分が大量に放出される事となり、少なくとも1ヶ月は前線部隊は燃料をあまり気にせず作戦ができる体制が整えられた。

 また、準備されたのは陸軍だけでなく、空軍も可能な限りポーランド正面に集中された。
 すでにイギリス本土から連合軍の爆撃が激しくなり、地中海側でもイタリア半島から連合軍が出撃を繰り返すようになっていたが、ヨーロッパの冬の長い夜を利用し、さらに冬の悪天候を突くことで各方面の航空戦力を最小限として、余剰の全てをロシア方面の第二、第四航空艦隊に集中していた。それでも数では圧倒的にソ連空軍の方が上のままなのだが、精鋭部隊を中心に戦力を集中することで、一時的に局所的な制空権を得ることが可能と考えられていた。
 しかもドイツ軍には、さらなる切り札があった。
 ロケット兵器の「V-1(報復兵器1号)」、「V-2(報復兵器2号)」だ。
 一種のミサイルである「V-1」は、正式には「Fi 103」飛行爆弾という名で、構造が簡単で安価なため大量生産に向いていた。ジャイロコンパスで飛行して落下するため命中率は悪かったが、迎撃が難しいので大量投入することで大きな戦果が期待できた。そしてこの作戦では、前線ギリギリに簡易発射装置を設置し、ソ連軍の野戦飛行場、野戦補給拠点を集中的に攻撃する予定だった。
 「V-2」は人類初の準中距離弾道弾で、一度飛び立てば迎撃は不可能だった。最大射程距離が「V-1」より少しだけ長い事、1発当たりの威力が大きい事、それほど沢山は準備できなかった事から、主に敵野戦司令部、無線(通信)拠点への攻撃に使用される予定だった。野戦司令部は高射砲などで最も厳重に守られているので、航空機や「V-1」ではなく迎撃不可能な「V-2」で攻撃しようと言う事だった。もちろん敵司令官を爆殺しようという虫のいいことを考えていたわけではなく、作戦初動の段階で敵司令部機能の混乱を期待しての事だった。
 そしてさらに、空軍がロケット兵器と平行して支援に当たるのだが、こちらも温存されていた多くのジェット戦闘機、ジェット爆撃機部隊が投入されることになっていた。ゲーリング国家元帥は、久しぶりに会議場で大言壮語の演説を行ったとも記録されている。ジェット機の大量投入は、ジェット機によって敵の迎撃を振り切り、効果的に敵を混乱させるのが目的だった。また在来のレシプロ機部隊も、可能な限り熟練者を集めて、進撃する地上部隊の防空と支援に当たることになっていた。集められた作戦参加機は、1500機を数えた。
 海軍もなけなしの水上艦艇をバルト海東部に進め、ケーニヒスベルグ方面などから艦砲射撃など牽制作戦を行う予定だった。中には何とか修理した空母《グラーフ・ツェペリン》の出撃すら予定されていた。
 
 ドイツ軍がロシア方面に戦力を集中させつつある事について、ソ連赤軍もある程度把握していた。だが、戦力を集中している点では自分たちの方がはるかに上回っていた。だから、ドイツにとって最も重視すべき場所に戦力を集中しているというだけだろう、という感覚しかなかった。ドイツ軍が攻勢を企てているとは、全く考えていなかった。常識的に考えれば、地上戦力で大きく劣るドイツ軍が大規模な反撃作戦に出てくるとは考えられないからだ。そしてドイツ軍が戦力を積み上げようとも、自分たちの方が遙かに多くの戦力を用意して、準備が出来たら一気に蹂躙するつもりでいた。そして公正に見ても、ソ連赤軍の考えの方が正しかった。
 南部にいた満州帝国遣蘇総軍は、ドイツ軍の限定的反攻作戦の可能性が高いと意見を送り、念のため自分たちの防衛体制は高めたが、ソ連軍は取り越し苦労としか見なかった。
 しかしソ連の情報収集網には穴もあり、ドイツ側が可能な限り秘密裏に準備を進めていたロケット兵器の「V-1」、「V-2」の事は十分に把握されていなかった。情報の一部については掴んでいたのだが、それが何なのか深く理解されていなかった。前線での使用例も皆無では無かったが、今までは使われた数も少なかった上に効果も限られていたので、「大きなロケット弾」程度と認識され、問題ないだろうと考えられていた。命中率の悪いロケットが数発飛んでくるぐらい大したことではない、という感覚が強かった。
 それよりもソ連赤軍にとって問題だったのは、いまだワルシャワなど西方へと至るルートの間で陥落していない一部の要塞都市であり、巨大化しすぎた自分たちの前線部隊への補給問題だった。ドイツ軍の要塞都市が攻略されきっていないため、大規模な補給線が十分に伸ばせなかった。ドイツ軍(空軍)の嫌がらせといえる妨害もあって補給の遅れはひどかった。前線には十分な物資が備蓄されず、補給路の問題から食糧供給で手一杯という方面軍もあった。次の大規模な攻勢は、どれだけ早くても1946年2月に入らなければ不可能だった。そしてその間に、ベルリンに至る都市がどれだけ要塞化されるのかが一番の懸念材料だった。ポーランド中央部を流れるヴィスワ川の河川防御線でも、どれだけの犠牲を払わねばならないのか強く懸念されていた。
 そして最前線での補給状態が良好でない事と、ドイツ軍の要塞都市の一部がいまだ抵抗を続けている事から、前線では一部兵力を少し後方に下げて再編成したり、戦力価値の低い部隊は補給が円滑な場所まで実質的に下げてすらいた。これをドイツ軍に察知されないように、また察知されても十分に対応できるように、最前線の戦力はある程度補給も満たされている精鋭部隊が配置された。
 この頃のポーランド方面のソ連軍の配置は、大きくは以下のようになる。

 ●1 第2バルト方面軍
  1 第1バルト方面軍
 1 第3ベラルーシ方面軍
●1 第2ベラルーシ方面軍
   1 第1ベラルーシ方面軍
    1 第1ウクライナ方面軍
   1第4ウクライナ方面軍
  1満州帝国・遣蘇総軍

 文字で地図とソ連軍の概略を表現してみたが、数字の1が戦線、上の●がケーニヒスベルグ、真ん中の●がワルシャワ、一番下の辺りがスロバキア、ハンガリーの北東部になる。
 このうち第1バルト方面軍と第2バルト方面軍は、ドイツ人とロシア人の民族の誇りを賭けた戦いといえる、ケーニヒスベルグ方面に集中されていたので、主力といえるのは他の3つの方面軍になる。しかも第2ベラルーシ方面軍の指揮官は、ソ連赤軍での電撃戦の立て役者といえるコンスタンチン・ロコソフスキー元帥。第1ウクライナ方面軍の指揮官は、南部でドイツ軍精鋭部隊と激闘を繰り返してきたイワン・コーネフ元帥だ。ソ連軍もどこが主戦線かをよく理解していた。
 しかしこの時期の戦線は、ポーランド方面のソ連軍は中央で少し突出する形になっていた。北のケーニヒスベルグ方面のドイツ軍が頑強で、ハンガリー、スロバキア方面でもドイツ軍がまだ頑張っていた影響だった。このためワルシャワ・バルコンなどとも呼ばれる突出部がワルシャワ前面で形成されており、ソ連軍としては念のため突出部に戦力を集中せざるを得なかった。この時ソ連は、突出部の付け根に守りの重点を置くべきだったと、特に後世言われることが多いが、ソ連軍はドイツ軍が攻勢に出る筈がないと常識的に考えていたので、後世から見た机上の空論と言わざるを得ないだろう。単純な戦力差を見れば、ドイツ軍が攻勢に出る余裕はないからだ。
 だがドイツ軍は、誰もが行うはずがないと考えていた大規模な攻勢を開始する。

 1945年12月16日午前3時頃(日の出はまだ6時間近く先)から、ポーランド東部に対して大規模な電子戦が実施された。ドイツ軍による電子戦については、11月末から規模の大小こそあるが何度も行われ、連動して主に補給線と空軍基地を狙った中小規模の空爆も実施されていた。これを当時のソ連赤軍は、兵士を失い、兵力の枯渇したドイツ軍の末期的な嫌がらせ程度にしか考えていなかった。一部に警戒するべきだと警鐘を鳴らす者もいたが、基本的にはドイツが時間稼ぎをしているだけで、空爆以上の事が起きるとまでは考えていなかった。
 しかし16日は違っていた。
 大規模な妨害電波の影で、まずは第2、第4航空艦隊が総力を挙げて出撃を開始。1000機以上の航空機が、各空軍基地を飛び立った。電子装備に劣り、さらに油断していたソ連軍は、それらの情報の多くを掴むことが出来なかった。このため各空軍基地の迎撃機発進も遅れた。(※ソ連空軍に戦術用の夜間戦闘機が酷く少ないことも影響している。)
 そして少し遅れて、ドイツ東部の前線近くの各所に設置された発射装置から、無数の「V-1」ミサイル発射が開始された。約1時間かけて放たれた数は、ドイツ軍の当初の予定を大きく上回り3000発にも達した。当時のドイツの生産力と底力を示す例と言えよう。そして予想外の大規模な空爆により、前線後方のソ連空軍が大混乱に陥っている時、何の前触れもなく天空から数百発の「V-2」準中距離弾道弾が飛来する。何しろ音速を超えて飛来するので、飛翔する轟音は後から到達していたし、成層圏の上から飛来するので肉眼で捉えるのは無理だった。しかも空爆によって、前線に配備されていた移動式レーダーのかなりが破壊され、夜明け前の深い闇もあってソ連軍は盲目状態に近かった。そこに神々の雷のように、突如「V-2」が降り注いだ。
 そして「V-2」着弾とタイミングを合わせて、前線に配備された2000門以上の重砲が一斉に火蓋を切った。重砲の中には、80cm列車砲のグスタフ、ドーラの2両が揃って参加していたり、少し前にワルシャワの街を徹底的に破壊した悪名高いカール自走臼砲も短い射程距離ながら対岸を砲撃するなど、列車砲、巨砲の姿も数多く見られた。ドイツ軍としては、出し惜しみする気がない乾坤一擲の作戦という意気込みを感じさせる濃密で凶暴な砲撃だった。
 そして「V-2」着弾と重砲の砲撃を文字通りの号砲として、「東方の守り」作戦が開始される。
 ドイツの命運が賭ったと信じられた戦いの始まりだった。

 南北二手に分かれていたドイツ軍は、それぞれソ連軍の各方面軍の境界線に投入可能な機甲戦力のほぼ全てをソ連軍の予測をはるかに上回る高密度で叩きつけた。北からは、精鋭の第6SS装甲軍と第5装甲軍が第2ベラルーシ方面軍と第3ベラルーシ方面軍の間を突き、南では歴戦の第2機甲軍と第15軍さらに支援の幾つかの部隊が、第1ベラルーシ方面軍と第1ウクライナ方面軍の間を突いた。またヴィスワ川を挟んだ第1ベラルーシ方面軍、第2ベラルーシ方面軍の正面では、牽制を兼ねた激しい砲撃が昼夜を問わず行われた。また、ケーニヒスベルグ前面の野戦要塞群の後方からも、長距離砲撃を中心とした激しい牽制攻撃が実施された。沿岸部では、艦砲射撃も実施された。
 ドイツ軍で最初の金星を挙げたのは、戦場での偶然からケーニヒスベルグの砲兵隊となった。
 突然の激しい砲撃を前にして、第1バルト方面軍司令官のイワン・チェルニャホフスキー上級大将は、前線近くでの直接指揮で状態の把握と安定化を図ろうとする。だが指揮に当たる彼のそばに、一発の重砲弾が着弾。砲弾の破片と爆風が、チェルニャホフスキー上級大将と周囲にいた幕僚など司令部関係者をなぎ倒した。この結果、チェルニャホフスキー上級大将は重傷を負い、その後全く指揮が取れなくなる。しかもその後彼は戦死しており、状況は周囲にいた幕僚達も同様で、第1バルト方面軍は司令部と命令系統を失った状態となり、一連の戦闘で殆ど何もできなくなってしまう。
 なお、イワン・チェルニャホフスキー将軍は、様々な戦線を戦ってきた歴戦の将軍で、しかも30代で上級大将になった赤軍の出世頭の一人だった。だが、上級大将に昇進したのと同じ1945年に、39才で戦死する事となった。
 第1バルト方面軍が軍として機能しなくなると、そのしわ寄せはすぐ北に位置する第3ベラルーシ方面軍に波及する。第3ベラルーシ方面軍は、正面をほとんど気にしなくてよくなったケーニヒスベルグ方面からの圧迫を強く受けるようになり、しかも北部ではドイツ軍の最精鋭部隊が突進を続けており、次々に部隊が壊滅したり小規模な包囲下に置かれていた。そしてソ連赤軍では方面軍と言えども、二つのことを同時にできるほど柔軟ではないので、結局は場当たり的な対応しか取れなくなってしまう。そして司令部からの命令が滞ると、未熟な面も多い部隊は戦闘力を大きく低下させてしまった。
 そして北部での重圧は、最精鋭部隊でありロコソフスキー元帥が指揮する第2ベラルーシ方面軍が対処しなければならなくなっていた。だが第2ベラルーシ方面軍も、ドイツ軍の攻勢開始当初は混乱の極みにあり、前線の各部隊は司令部からの命令を受けることができずに、個々で戦闘に及んでは無為に損害を重ねてしまう。
 ロコソフスキー元帥指揮する第2ベラルーシ方面軍の司令部が混乱したのは、ドイツ軍が目論んだ通りだった。最重要と位置づけられていたロコソフスキー元帥の司令部には、疑わしい場所を含めた全ての場所に、「V-2」弾道弾が多数撃ち込まれた。それだけでなく、「V-1」もかなりの数が撃ち込まれ、空軍部隊の空襲も行われた。精鋭で編成された「Ar234 ブリッツ」ジェット爆撃機大隊は、事前情報と電波情報を頼りに司令部の無線中枢の破壊という非常に大きな戦果を挙げることができた。
 これらの攻撃の結果、司令部直属の無線部隊は、無線情報を辿ったドイツ軍の集中攻撃を受けて壊滅。そのそばに隣接していた司令部も大きな損害を受けて、ほぼ丸2日間司令部としての機能を大きく低下させてしまう。ロコソフスキー元帥自身はかすり傷を負った程度で済んだが、幕僚、参謀の幾人かも戦死するか負傷した。
 さらに南に位置する第1ベラルーシ方面軍、第1ウクライナ方面軍の司令部も似たり寄ったりで、弾道弾やミサイルという予想外の爆撃によって、総司令官や参謀、幕僚の死傷こそほとんど無かったが指揮系統は大きく混乱した。
 そしてミサイルと空軍の空爆を合わせて、作戦初動でのソ連軍前線部隊はほとんど意味のある身動きできなくなってしまう。ドイツの様々な点で意表を突いた攻勢と、ロシア人達の油断が産んだ状況だった。

 ドイツ軍の先頭を突き進んだのは、第6SS装甲軍だった。
 SSとはドイツ国防軍の軍隊ではなくナチスの親衛隊の事で、本来はナチスとヒトラーを警護する組織だが、戦争の拡大に伴い国内での影響力拡大を狙うヒムラー長官らの官僚的行動によって軍隊化した。しかし、法制度上では国防軍に兵士供給の優先権があるため、兵力(=組織)拡大のためにヨーロッパ各地からの志願兵で兵士を充足していた。当初は1940年に戦争に勝利したため、組織拡大はソ連との戦いが激しくなってからとなった。そしてソ連=ロシア人であり、ヨーロッパ全体の感覚としてロシア人からヨーロッパ世界を守ることが強く認識されていたので、武装親衛隊の組織拡大はそれなりに順調に伸展した。麾下の部隊に各国の義勇SS部隊が拡大したのは、ロシア人と戦いはじめてからの事だった。
 そしてSSの精鋭部隊は党と総統の庇護があるため装備、武装、補給面で優遇され、多くの部隊を編成して主にソ連赤軍相手に激闘を繰り広げることになる。「東方の守り」作戦に参加した第6SS装甲軍は、そうした武装親衛隊の一つの到達点だった。

第6SS装甲軍(指揮官:ディートリヒSS上級大将)
・第1SS装甲軍団
  ・第1SS装甲師団(ライヒス・アドルフ・ヒトラー)
  ・第12SS装甲師団(ヒトラー・ユーゲント)
  ・第3降下猟兵師団
・第2SS装甲軍団
  ・第2SS装甲師団(ダス・ライヒ)
  ・第9SS装甲師団(ホーエンシュタッフェン)
・第4SS装甲軍団
  ・第3SS装甲師団(トーテムコップフ)
  ・第5SS装甲師団(ヴァーキング)

 以上がこの作戦時の第6SS装甲軍の編成になるが、各師団ともに選り抜きの精鋭部隊だった。士気も非常に高く、攻撃的で損害が多い傾向が強いので「士気が高すぎる」と言われるほどだった。この作戦時の各装甲師団は、主力の2個戦車大隊がそれぞれ「V号戦車G型」、「V号戦車H型」で固められ、さらに「VII号重戦車」大隊と、「IV号突撃砲 ラング」で編成した駆逐戦車大隊を有し、その他の支援部隊も充実していた。自走対空戦車も中隊編成で有していた。装甲擲弾兵(機械化歩兵)連隊には、対戦車自走砲「ヘッツァー」も大隊火力レベルで配備されていた。重砲や工兵も、装備が充実していた。
 また変わったところでは、国防軍から引き抜かれた第3降下猟兵師団は、世界初の実用ヘリコプターと言われる「Fa 223 ドラッヘ」を8機装備していた。8機で運べるのは合計64名だけなので、本機体を使った兵士の空中機動よりは、支援任務用として配備されていた。他の地域でも、山岳地帯の輸送用や沿岸部での対潜哨戒などで既に活躍していたが、第3降下猟兵師団では2機が司令部用として使われた他は、負傷兵の後送用として配備されていた。
 なお降下猟兵師団は、その名の通り空から降下して戦うドイツ軍の空挺部隊なのだが、既に空挺降下できる機材も場所もほとんどないため、この時期は単なる歩兵部隊の一つとなっていた。それでも優秀な兵士が配備される事が多いため、精鋭部隊と位置づけられており、この時もSS軍団の突進の効果的な側面支援が期待されていた。ただし、作戦全体で計画された空挺作戦は、別の降下猟兵部隊が実施している。
 そして第6SS装甲軍は、全軍の期待に応えて迅速な進撃を継続した。特に先陣を切るパイパー大佐の機甲部隊の進撃速度は、重戦車を先頭に立てているとは思えないほど目覚ましく、かつての電撃戦を彷彿とさせる進撃を行った。ポーランド北東部のビアリストク(ビャウィストック)市では、秋以後いまだ要塞都市で徹底抗戦を続けていたドイツ軍残存部隊をソ連軍の包囲から救い出し、その後合流して共に進撃するという戦争映画のような場面も見られた。
 南から進軍した第2機甲軍も、国防軍歴戦の部隊、精鋭部隊が多くを占めている事と、ソ連赤軍の多くが混乱している事から、第6SS装甲軍ほどではないが順調な進撃を続けた。特に装甲軍の先頭を突き進んだGD師団(グロス・ドイッチュランド装甲擲弾兵師団)は、国防軍の精鋭部隊で師団に重戦車大隊を有するなど大規模で重武装の部隊のため、SS師団を上回る活躍を示した。

 なお本作戦においては、前線のソ連軍を混乱させる作戦として、降伏して欧州枢軸側の兵士として戦っているロシア人を使った欺瞞工作が実施されている。
 訓練を積んだ兵士達をソ連赤軍の兵士に化けさせて、後方攪乱や進撃路の確保を行おうというものだった。そして戦争初期に得たソ連兵の捕虜は無数にいたし、ソ連赤軍の装備も自軍兵器として使うほどあったので、欺瞞用の部隊を仕立て上げるのに苦労は無かった。問題は、明確な国際法違反ということだった。欺瞞作戦を行う者達が捕まった場合、スパイとして即座に銃殺される可能性がある事だが、選抜は全て志願制としたにも関わらず志願者には事欠かなかった。共産主義がロシア人の間でも嫌われること、憎まれることが多かったからだ。
 そして志願者はもともとロシア人で赤軍兵士だったので、最新情報さえ把握しておけば一般兵を欺くことは簡単だった。
 投入されたのは選り抜きの200名ほどだったが、作戦開始と共に彼らによる混乱は徐々に広がっていった。中には偽の情報によって、同士討ちを始めるソ連軍部隊まででた。ソ連軍も作戦から2日目にはドイツ軍の謀略作戦に気付き、憲兵とNKVDが血眼になって欺瞞兵のスパイを捜したが、そこで多くの労力が浪費され、部隊の移動が阻害され、多くの誤解で友軍兵士が殺された。拘束された中には、上級大将クラスの司令官まで含まれており、イワン・コーネフ元帥などは重要な時期に半日近くもNKVDに拘束された。

 そしてロシア人達が混乱する間、ドイツ軍の精鋭部隊は南北から目的地ブレストを目指した。



●フェイズ73「第二次世界大戦(67)」