●フェイズ93「戦争による変化(2)」

 欧州に続いて、アラブ世界と中東情勢、さらには極東アジア世界まで見ていきたい。
 中東は、第二次世界大戦前から問題が多数横たわっていた。そしてそれは、第二次世界大戦でより悪化していた。
 最も問題視されたのは、ユダヤ人問題だった。

 近代のユダヤ人問題は、第一次世界大戦のイギリスの俗に言う「二枚舌外交」でのユダヤ人国家建設問題に始まる。そして第二次世界大戦で、ナチスドイツがパレスチナ地域をユダヤ人の強制追放、強制収容地域にしたことで極度に悪化した。しかもナチスのユダヤ追放政策を裏から支援したのは、後にモサドで知られるユダヤ人の秘密(情報)組織であり、問題をさらに悪化させる要因となっていた。
 ナチス時代、まずナチスドイツはパレスチナ地域の多くから原住者を追放もしくは虐殺して土地を確保。そこに「不要なユダヤ人」を放り棄てた。しかもナチス的嫌味で、聖地エルサレムに近い地域に多くの収容施設が作られた。その後ドイツ軍を蹴散らして進軍してきた連合軍は、まずは見つけたユダヤ人収容所の救援を行い、追放された原住者については、ほとんど気付かなかったこともあってかなりの期間放置していた。
 しかも同地域には、1920年代からユダヤ人が増え始めていた。その人々は一部がパレスチナの収容所に入れられるも、一旦は再び各地に離散した。そして連合軍の進撃と共に多くが戻ってきていた。さらに戦争半ばぐらいから、ソ連からナチスドイツによるロシア系ユダヤ人の流れができていた。ユダヤ人のネットワークで、情報がソ連のユダヤ人に流れていたからだ。
 こうして1946年末の時点で、約130万のユダヤ人が同地域にいた。この時点での原住者だったアラブ系住民の数は、ナチスドイツ(とフランス)による追放、虐殺もあって100万人を切っており、ユダヤ人の方が多数派となっていた。しかも多くの地域で、強制的な棲み分けも行われていた。
 当初連合軍は、追放そして強制収容されていたユダヤ人については、戦後ドイツやポーランドなど元々住んでいた地域に戻そうと考えていたが、それもソ連との対立によってほとんど実現しなかった。逆にヨーロッパからは、パレスチナ地域にいる家族を捜してやってきたユダヤ人が激増した。しかもパレスチナ地域の方が、戦災で荒廃したヨーロッパ各地よりも連合軍の支援体制が整っていたため増える一方となった。1948年には、戦争中の二倍以上に当たる240万人を越えるユダヤ人がパレスチナには溢れ、早くも開拓や自分たちの都市の建設を行っていた。これを占領するアメリカ、日本は、アメリカは本国の一部支援者の声に従って支援に当たり、日本は人道的見知から半ば惰性で支援を続けざるを得なかった。
 そして問題は1947年に国連に丸投げされ、日本軍、アメリカ軍のほとんどが問題を嫌って撤退し、国連軍として残った少数の兵士は人道支援目的の「国連軍」だけとなった。
 その後ユダヤ問題は中東問題の核となるが、まずは戦争直後のその他の地域について続けたい。

 アラブ地域には、第二次世界大戦前から幾つかの独立国と英仏の植民地(保護領)があった。そして英仏の間の利害調整によって直線で引かれた境界で分けられており、現地の実状は無視されていた。二つの大戦の間にイラクが独立していたが、イギリスの半植民地のような状態でしかなかった。例外はエジプト、イラン、サウジアラビアだが、どの国もイギリスの影響下だった。
 そして、とにかくオスマン朝トルコ時代、もしくはそれ以前から燻っている、もしくは放置状態の問題がそこら中にあった。殆どが、イギリスとフランスが種を蒔いた問題だった。

 ユダヤ問題以外で連合軍の占領統治時に一番の問題と見られたのは、所謂「クルド人問題」だった。トルコ、イラン、イラク、シリアにまたがる地域に独自の民族が事実上分裂した状態なのだがから、問題化するのは当たり前だった。そして敵だった英仏が勝手に線引きした事なので、アメリカ、日本は直接的な問題解決のために線の引き直しを画策する。だが、トルコの国境変更が難しいため当初から中途半端になり、結局イラン、イラク、シリア地域だけにでも作ろうとしたクルド人国家の建設は結局先送りされた。それぞれの国に、自治地域を作るもしくは作ることを目指すと約束させるのが精一杯だった。しかも約束もほとんどが口約束で、履行は一部でしか行われなかった。
 イラク地域でイギリスの植民地だったクウェートは、アメリカの信任統治領という形に書き換えられた。地下に眠る莫大な石油利権のためだったが、同地域の石油利権の一部は日本の石油企業も大きな利権を取得していたし、途中から自由英に属してる事になったアングロ・ペルシャ石油も、イランからの合流組と共に一部権利を保持し続けた。同地域の併合または復帰を望んだイラクの声は、まったく無視された。ペルシャ湾岸の英保護領も、主にアメリカ領(=委任統治領)に上書きされた。
 中東地域で名目上独立していたイラク、サウジアラビアは、欧州枢軸列強の意志(もしくは事実上の命令)により連合軍に宣戦布告していたため、敗戦国の烙印を押されていたからだ。例え土壇場で寝返っても、その烙印が完全に消されることは無かった。その事は、インド戦線で連合軍の支援に当たっていたイランの王政が、連合軍によって倒されたことでも象徴されていた。
 そしてイラク以西の近東、中東地域は、基本的に英仏からアメリカの勢力圏に上書きされ、連合国側の英仏自由政府もこれを受け入れていた。

 同地域で、もう一国敗戦国とされた国の一つがイランだった。
 イラン(イラン帝国)には1921年成立のパフレヴィー朝があり、1940年7月以後は自らの意志で枢軸陣営に属していた。第二次世界大戦中は、インド戦線の後方支援を行うばかりか、イギリス本国軍と共にソ連国境への攻撃も行っている。インドでの戦いのおりも、若干数の兵力が枢軸側として作戦行動していた。若干だが、連合軍との交戦もあった。
 だが、1944年に連合軍が進撃してくると呆気なく降伏。
 連合軍占領後に連合軍への寝返りを申し出た皇帝レザー・ハーンは、連合軍の手によって退位されてイラン全土が連合軍占領地となった。しかも国民のかなりが、皇帝退位を支持した。
 占領担当は連合国内での勢力分割から日本とされ、日本軍主導のGHQ(連合軍総司令部)が首都テヘランに置かれた。
 この占領で日本は、一応はアメリカ代表や自由英のアドバイザーと調整しつつ、かつてのイラン立憲革命の再現を目指した民主共和制国家もしくは立憲民主国家への再生を模索する。王朝存続も一応は考えられたが、支持が低い事もあって結局は王政の廃止が決まった。
 そして日本は現地の人々の声を聞いた上で、イラン国内のイスラム教穏健派、改革派との協力関係を強くして、民主共和制国家もしくは立憲民主国家のどちらとも違う、立憲国家像を描くようになる。政教分離を強引に進めるのは無理だと判断したためだ。
 と言っても、政治的には宗教はあくまで名目上の権威面、人々の精神面に止め、基本的には従来のものを利用した上での近代化を、可能な限り現地の民意に沿った形での民主化を目指そうとした。これにアメリカは、主に近代政治における政教分離の理念から難癖を付けたが、日本はあまり気にせずに戦後自分たちの面倒が一番減る方法を模索し続ける。
 このイランでの革命とすら言える日本主導の改革では、日本人達はかつての自分たちの革命と改革を「参考資料」としてイラン人達に渡して、その上で「無理に政治の欧米化や民主化をする必要は皆無。日本化も同様。発展の為の近代化と割り切って、自分たちに都合の良い面だけ取り入れるか、自分たち風に改めた上で取り入れれば良い」と真剣にアドバイスした。
 アメリカならば、自分たちの民主主義、自由主義を文化ごとそのまま「押しつけた」可能性が高かったが、日本としては民主主義も自由主義も資本主義も、全て国外から取り入れた上で自分たち風に改めたものだから、誰かにそれを教えそして取り入れさせのならば、それぞれの国情に合わせて変更するのが当たり前だという感覚しかなかった。
 このため戦争中の1945年に仮成立したイラン政府(後の「イラン国」)は、宗教的側面を色濃く残した民主主義国家としての建設が進む事となる。最大の特徴は、首相は民主選挙で選ばれた議員の中から内閣総理大臣が選ばれるが、国家元首に当たる役職には宗教者(=最高指導者)が就いて国家の権威を成す事になる点だった。これは主にアメリカから非難されるが、日本としては自分たちの制度と大差ないとしか考えず、大きく問題視する事は無かった。アメリカに対しても、ねばり強く説得を行った。また日本自身も、イランの現状から考えると宗教色が強すぎると考えたので、軍と官僚の近代的教育制度を熱心に指導して作らせ、その上で軍を首相のコントロール下に置くように制度化していた。
 こうして「イラン立憲法国」とも呼ばれる国が、戦争中から作られていく事になる。

 その隣のインドだが、インドは日本軍が中心となって占領もしくは解放が進められ、インド自体の「権利」は自由英からアメリカへのレンドリースの「代金」として渡され、さらに日本とアメリカの間で支那(中華)利権との交換で日本のもの(経済的勢力圏)となった。
 とはいえ、日本はインドをイギリスのように抱え込む積もりは一切無かった。抱えきれないことは分かり切っていたので、経済的影響圏もしくは市場にできればそれで十分だった。
 このためインドの連合軍総司令部は、当初から自由インド政府の補佐に徹し、インド独立に向けた動きを強く推進した。
 インド独立の問題は、大きく二つ。
 一つはモザイク状態の宗教問題。もう一つはイギリス人の余計な差し出口。
 イギリス人の差し出口については、イギリス人がインド独立に際して地域ごとに単位系を変えることを言い出した時点で日本側が珍しく激怒し、イギリス人のインド内からの「追放」を進めることで最悪の事態は回避された。
 イギリス人たちは、自分たちの今までの感覚のままヒンズー教徒とイスラム教徒を決定的に対立させて「自分たちへの憎しみ」を回避し、自らの負担を最低限としようとしか考えていなかった。なお、単位系というのはメートルやグラムなど計量の単位の事で、これ一つで国家、勢力圏、影響圏が分かれるほど重要だった。統治や支配の基本ですらあった。それをイギリスは、イスラム教徒のパキスタン地域と他のヒンズー教徒のインド地域でポンド・ヤード法とグラム・メートル法に分けるように日本に強く働きかけたのだ。それだけで日本が被る全ての問題が回避できると、自信満々で持ちかけたと言われている。
 これに対して日本は、インド地域の市場化は考えていたが、属国化やましてや植民地化は考えていなかった。面倒が大きすぎるし、インドを抱えられるほどの金も人も無かったからだ。もっとも「綺麗な」側面から見た場合、日本が欲しいのは次の時代を共に歩む友好国だった。故に日本は、安定したインド統一国家の建設に力を注いだ。
 そして一番の問題は、雑多な民族や言語ではなくやはり宗教だった。GHQとして日本が参加した国民会議、自由インド政府会議では、いつも問題が紛糾した。宗教観の薄い日本人にとって、今までそれなりにやってきたのに、なぜそれほど対立するのか理解ができず、日本人達は呆れてしまったほどだ。
 だが、日本の代表の一人が「イギリスに出来た事が、あなた方にはできないのか」と暴言を放った事で、情勢が一変したと言われる。インドからイギリス人を追い出し、アジア近代化の先達として認識されていた上での日本人からの言葉は、インドの人々の自尊心をいたく刺激した。もちろんこの話は俗説に過ぎず、長い議論の中で国家建設の流れが変わったのは1945年春頃で、それ以後インドは統一国家建設で一応の団結を見るようになる。だが、それでも完全な団結とはいかなかった。

 インドの統一国家路線を決定づけたのは、1945年8月18日に「指導者(ネタージ)」と誰からも非常に慕われていた「印度三傑」の一人チャンドラ・ボーズの暗殺だった。ボーズ暗殺により連合国、わけても日本はインド分裂を危惧したが、流れは逆に統一インドへと強く流れていった。
 ボーズは急進的人物で急進派の中心人物だったが、彼がいなくなったことで急進派がかなり大人しくなった。強引な統一インドの道筋も弱まり、穏やかな形での統一インドへの向けた軟着陸が可能になったのだ。その後ボーズは建国の英雄として人々から称えられたが、彼の死こそが統一インドを産んだと考えると歴史の皮肉と言えなくもないだろう。
 そして次の段階として、どのような国家を目指すかの議論が重ねられたが、最低でも地域性を強めた連邦制という点は全ての勢力の合意を見ていた。いまだ多数が残っていたラージャ(藩王)すら、権力を維持できる可能性があったからだ。そして国家形態の議論を半ば傍観者として見ていた日本人の一人が、同席していたアメリカ人との雑談で「いっそ、そちらのお国と同じ合衆国でいいんじゃないかな」と言ったことが議会参列者にも聞こえ、それで「新たなインド像」が決まっていったと言われている。もちろんこれも俗話に過ぎず、十分な議論と根回しの末に、地域性を強く認める国家形態としての「合衆国」が大勢を占めたに過ぎない。
 そして「インド連邦共和国」は、終戦の頃には現実味を帯びるようになり、1947年に正式に「インド連邦共和国(F.R.I)」が成立する。国家の中に国家を内包するような地域独自性が強い連邦国家なのはアメリカとほぼ同じだが、国家元首はアメリカ大統領ほど権限は強くなかった。最高権力者が、明確に大統領と首相に分けられている点がアメリカとの大きな違いだった。当然ながら、初代大統領にはマハトマ・ガンジーが、首相にはジャワハルラール・ネルー(ネール)が就任した。
 新生インドの問題は、旧イギリスのインド帝国の領域そのままを新国家としたため、ビルマ(ミャンマー)や独自性の強いヒマラヤ山麓の藩王領、インド洋の島嶼部などを含んでいた事で、長らく宗教と民族の問題を引きずり続けることとなる。国名も、「インド」ではなく「南アジア」とより抽象的であるべきだったという議論についても今日も続いている。

 インドと違い、分立が進んだのが、当時はまだ「極東(ファー・イースト)」と呼ばれていた東アジア地域だった。
 第二次世界大戦前、東アジアには日本帝国、中華民国、タイ王国、満州帝国、モンゴル人民共和国、極東共和国しかなかった。他は欧米諸国の植民地か中華民国の領土だった。
 しかし第二次世界大戦の進展に伴い枢軸陣営が駆逐され、中華民国が実質的に滅びた事で多くの可能性が出現する。チャイナ地域の分立の機会は、実に数百年ぶりのことだった。
 それでも連合国陣営に参加した国や地域の影響で、インドシナ半島とインドネシア地域(スンダ地域)は植民地のままだった。だが連合国に属した自由英は、マレーを自ら英本国側と位置づけて、「敵の領土」と連合国も認定した。このため、自由英ではなく連合国による占領統治が行われる。そしてここでの占領担当も近隣の日本が行った。
 マレー、インドネシアは、当時世界でこの地域でしかほとんど栽培していない生ゴム、キニーネ(マラリアの薬の原料)の生産地で、さらに鉱産資源の錫も世界の殆どを産出していた。日本にとっては石油も非常に重要だった。このため日本および連合国としては、円滑にこれら資源が入手できれば、あとは半ばどうでもよかった。むしろ、反植民地運動や独立運動で生産や流通が混乱することを嫌った。
 また一方では、大戦初期は枢軸陣営に属していたので、人工ゴム、キニーネの代わりとなる薬の開発に力が入れられたほどだった。だからこそ連合国は、インドネシアには事実上手を付けず、支援を与えた上で全てを寝返った現地オランダ総督府に任せた。
 だが、マレー半島のイギリスは、枢軸陣営として徹底抗戦した。そして連合軍は、インド洋に向かうためにはマレーを占領し、南シナ海を安定させなければならなかった。このためマレーに侵攻し、連合国によって統治した。しかし日本もしくは連合国がマレーで欲しいのは、マラッカ海峡と中継点としての立地を除けば資源だけだった。また日本は、ブルネイ島の石油も欲しかった。そして少なくとも戦争中は、シンガポールの港湾施設が必要だった。そこで連合国は、マレー半島、シンガポール島、ブルネイ北部を分割統治する。連合国にとって都合が良いことに、シンガポール島の住人は華僑が過半を占めており、彼らを中華民国と同列の罪に問わないことを条件に従わせた。
 また、シンガポール島は日本の軍政統治が強められ、特に軍港地帯はほとんど租借の形で半ば日本領扱いとされた。これは日本のアジア防衛戦略の為で、長らく変更されることが無かった。

 一方ブルネイ北西地域には、サラワク王国という植民地内の国内国家のような自治政府があった。日本はこれを利用することとして、サラワク王国の主権を認めるばかりか、ボルネオ北部の全ての内政統治権を認め、自分たちはその上から間接統治を実施する。これで元から安定していた現地は非常に安定し、これに気をよくした日本はサラワク王国の完全な自主独立と連合国(国連)への加盟まで認めてしまう。しかもサラワクは、連合国に加わったことで、形だけだがドイツに宣戦布告すらしている。
 こうして、イスラム教を信奉するアジア系の民を統治する白人王族による国家という、世界的に見ても珍しい国家の存続と正式独立が定められる運びとなった。
 なお、ブルック王家の始祖はイギリスの探検家だったが、戦中、戦後は欧米さらには日本の上流階層との交流も活発に展開するようになり、現代では東アジア唯一の白人王家として有名になっている。ただし、その中にあると言える同じイスラム系のブルネイ藩国は、狭い地域に有望な石油資源があるため、近代的統治能力が整うまでと言う但し書きながら、イギリスの手を放れて日本の信託委任統治領となった。
 そして主要参戦国である日本に文句を言える国や地域は周辺にはないのだが、英領全体での独立を目指していたマレー半島は、半島以外が切り離されたことに強い反発を示した。だが、これがかえって連合国の心証を悪くして、逆に20年も日本の委任統治下に置かれてしまう結果になる。また一部華僑が中華民国側の立場をとって、場合によってはゲリラ活動すら行ったため、尚更連合国の心証が悪くなっていた。
 マレー以外の東南アジアでは、1944年にフィリピンがアメリカから完全独立したが、しばらくはそれ以上独立国が増えることは無かった。だが、植民地が残った事は、今後も東南アジアでの火種が残るという結果でもあった。

 対照的に、植民地が一掃されたのが北東アジア地域だった。
 北東アジアには、枢軸側として中華民国があった。同国は、かつての清王朝の領域(最大領域)を自らの正統な領土の回復を旗印に戦争に荷担したため、満州帝国全土、日本領の台湾ばかりか、朝鮮保護国、モンゴル人民共和国、極東共和国も自らの権利だと主張していた。さらに戦争中は、日本の沖縄、南樺太すら領有権を主張していた。そしてこれら全てを統治する「大中華帝国」の建設をうたっていたのだ。
 だが、中華民国は連合軍の手によって滅亡し、戦争中の1944年に開催された「上海国際軍事裁判」で裁かれ、蒋介石ら国家指導者は戦争犯罪者として厳しい処罰を受けた。中華民国は正式に滅亡し、全土が連合軍の軍政下に置かれた。戦争半ばだった事もあって手間を惜しんだため急がれ、正式な国家復興プログラムすら無かったほどだ。
 占領統治には、日本、アメリカ、満州、ソ連、自由英が参加して、それぞれの担当地域を軍事占領した。当初のGHQ総司令官は日本軍の今村均大将で、地理的にも近いことから数の上でも日本軍が過半数を占めていた(※次点は満州軍)。だが日本には、広大な支那を占領統治するだけの財力に乏しく、兵力も他に転用するか本国での生産に従事させなければならなかった。そこで全ての面で余裕のあるアメリカに順次主導権が引き継がれ、日本軍は顧問や連絡武官を残して戦争中にいなくなってしまう。「情」によって東アジア的統治を心がけた今村大将は、現地の人々からも「今大人」(※現地では「今 村均」と勘違いされる事が多かった。)と呼ばれ広く慕われたが、終戦すぐの1947年にはヨーロッパから舞い戻ったマッカーサー元帥に支那GHQ総司令官の職を引き継いで支那の大地を去っている。
 マッカーサー元帥の抜擢は、彼が長らくフィリピンにいて東アジア情勢に詳しいと考えられたからだ。しかし一説には、彼がアメリカ政府、軍の多くの者から嫌われていたのが一番の理由と言われる。また、日本ではなくアメリカが総司令官でないと、占領軍として参加している満州帝国軍を抑えきれなかった為で、マッカーサー将軍以外に人材が居なかったためとも言われる。

 そして連合軍の統治を受けたもと中華民国だが、占領統治と調査の中で、旧清朝は旧時代型の植民地帝国であり、それを引き継ぐ中華民国も同列と厳しく断罪された。また調査の中で、漢族による同化政策や少数民族弾圧も暴露されていった。一時はナチス・ドイツ同様の「ホロコースト」すら言われたが、それが無くても漢族の意図的な流民、そして移民による同化政策は厳しく断罪された。
 そして状況を踏まえた上で、北東アジア地域民族の自主独立を進めるという理念のもと、旧中華民国の解体と再編成が連合国各国の手によって精力的に進められる。しかも連合国は、中華世界が二度と侵略的行動を取らないように、国民の精神面でも徹底的に「指導」する積もりだった。
 その後、中華民国は最低でも3年の占領期間を経た後に、「チャイナ(支那)」として再独立に向けた連合軍による軍政が続けられるが、同時に周辺民族地域は既成事実を作る上でも独立が急がれた。これにはソ連が共産化を進めた東トルキスタンも含まれるが、何より枢軸陣営を断罪することを政治上の上位に置いた連合国各国は、自分たちの担当地域の国々の独立とバーターで受け入れた。そして分離独立と平行して、分離独立する地域からの漢族系もしくは連合国がそう判断した人々の半ば強制的な移住も進められた。
 さらには、分離する地域が支那(チャイナ)ではないという点を民意でも強めるため、支援を行って精力的な教育と宣伝が実施される事となった。特に20世紀後半の中華世界と中華文明、漢族が不当に低く評価される向きも、この時に作られたものだ。
 この影響は世界中にも及び、アメリカのチャイニーズ排斥法(1882年成立)は、実に1993年まで廃止される事は無かった。さらに自由主義陣営各国でも、実質的なチャイニーズの移民禁止が実施されてもいる。中には、既に移民していた者が強制帰国させた国もある。住み難いため、自主的にアメリカから離れる者も非常に多かった。
(※アメリカでの日本人排斥法は1942年に完全廃止されている。)

 中華中央の情勢を、複雑な心境で見ていたのは満州帝国だった。
 民族自決と中華解体は国家としては喜ばしい事なのだが、皇帝溥儀(康徳帝)や旧清朝の重臣、貴族達にとって中華帝国の再興という夢の点で受け入れがたかったためだ。何しろ彼らは、先の国家だった清朝の後継者「後清」を自認しており、いつの日か中華世界の再統一を望んでいたからだ。旧清朝領域ということで、隣国の極東共和国との間にも問題を起こしていたほどだ。
 しかし、それが叶わぬ夢なのも理性として理解していた。そして満州帝国も連合国の足並みを揃えることと国家的利益を優先し、中華民国の解体を積極的に行った。しかも中華帝国の事を知り抜いているため、アメリカが望んだ以上に徹底的に行う決意を固めていた。足腰立てないようにしておかなければ、いずれ自分たちが復讐される事が分かっていたからだ。
 そして彼らが行った事の一つとして、いまだ北京の紫禁城に保管されていた財宝を始めとした文物のほとんどを、「先祖の物」として持ち去ったりしている。持ち運べるなら、建物すら解体して持ち去った。そのための特別工兵隊すら編成したほどだ。そしてこれらの一部は、満州帝国の「新都」建設に活用すらされている。
 また、北京とその周辺に居たかつての臣下(の生き残り)の一部も、溥儀の強い願いもあって一緒に連れ帰ったりもしていた。
 そして中華民国という国家を貶める宣伝を、旧中華民国各地で宣伝部隊を用いて幅広く実施した。
 さらに満州帝国は、ほとんど国家事業として近隣の内蒙古王国の整備と居住民族の移住、漢族の追放を東欧のソ連真っ青の勢いで実施した。加えて、自分たちの皇族がラマ教の守護者でもあるため、ラマ教を信奉する地域でもラマ教徒を守るという建前で、漢族の実質的な強制移住など強引な事を積極的に行っている。事実上の「民族浄化」が実施された地域も、アメリカの目の届かないウンナンなど奥地を中心にかなりの場所や地域に及んだと考えられている。
 あまりにやり過ぎだったため、「チャイナ解体」を戦勝のスローガンとしていたアメリカが慌てて止めたほどだった。

 強引な中華民国解体の結果、戦争中の準備期間をはさんで、1947年から48年にかけて多くの国が新たに誕生していった。
 東トルキスタン人民共和国、チベット法国、内蒙古王国、ウンナン共和国、コワンシー共和国が、当初正式に認められた国々になる。また満州地域、台湾島は改めて放棄が確認され、海南島の期限を設けない国連委任統治領化も決められた。
 そして解体の中で連合国を困らせたのが、残された中華地域内での地域ごとの対立だった。
 長江流域を中心とする中部沿岸地域、長江奥地の四川地域、広東を中心とする南部、山東半島を中心とする地域など、多くの地域が北京(華北沿岸地域)を中心として再編成される予定の新たなチャイナに不満を唱え、中には占領が長期化してもいいので自主独立すら求める地域すらあった。特に北部、中部、南部での言葉の違いの平準化については、それぞれの地域が反発しあった。(※連合国は、歴史的に自分たちに馴染み深い「上海語」を最も重視していた。)
 このため国連軍によるチャイナ中枢部の各種調査が実施され、アメリカの市場化という目的もあるため「連邦国家」化が既定路線として進められる事になっていく。
 だが、国家解体当初から様々な問題があり、さらに米ソによる東西対立の芽も見られた。
 内蒙古の東部地域でも、ソ連主導で解体と独立さらには民族の強制移住が進められた。当面はソ連占領地のままだったが、気が付くと東内蒙古共産党委員会が作られていた。いずれ独立するかモンゴルに併合の形で合併するかはこの時点では決められていなかったが、少なくとも内蒙古王国と一つになる可能性は極めて低かった。また、隣接する青海や外チベットと言われる中華奥地の地域もソ連による占領が続いていたが、ここもソ連の手による独立の動きが続いていた。そしてさらに青海を橋頭堡として、隣接する甘粛地域、四川地域など中華内陸部を中心とした共産主義浸透が行われていた。この共産主義浸透では、1930年代半ばに滅びた中華共産党の残党が再編成されており、しぶとく生き延びていた林彪を中心として活動を活発化させつつあった。
 そして中華中央部だが、上海の連合軍総司令部に陣取ったマッカーサー元帥は、精力的な中華統治を実施した。彼は赴任時の空港に降り立ったとき「我々は、この地に民主主義を建設するために来た」と言った。当人は、大戦最後に戦った地であるフランスもしくは西ヨーロッパの占領軍総司令官になるつもりだったと言われるが、元帥とはいえ一介の軍人に過ぎない彼に選択権は無かった。しかもアジアの第一人者と持ち上げられ、日本の政治家たちからも頼られては、断ることも難しかった。そしてマッカーサー元帥は、軍政家としても非常に優れた人物だった。
 だが、広大で人口が非常に多い中華中央部の統治には、物理的に大きな努力が必要で、アメリカは西ヨーロッパと中華の事で身動きが取り辛くなり、それ以外の地域の事で日本に多くを負担させる向きを強める結果となった。

 一方で、連合軍統治下で新たな中華国家の建設に向けた動きも、精力的に行われた。だが戦前南京、そして戦中重慶にあった中華民国政府が、政治家、軍人だけでなく官僚団の面でもほぼ崩壊していた。それ以前の問題として、人口規模を考えたら中華民国の政府は小さすぎた。独裁的でなければ運営できないと再認識されたほだった。
 そうした中で注目されたのが、北平と改名されていたかつての王朝の首都北京だった。北京は都としての長い歴史があったが、満州が独立すると首都を置くには危険と判断され、首都の座から滑り落ちていた。だが同地域には、長い歴史が育てた官僚とその末裔が住んでおり、一部は中華民国政府に従って南京などに移住したが、それでも多くの者が官僚としての職を失った後も北京やその周辺に住んでいた。多くは時と共にそのまま没していったが、まだ全滅した訳ではなかったし、子孫達も知識や技術をかなり保持していた。
 連合軍はこれらの「再利用」を考え、また新たな中華国家の首都として中華民国の首都だった南京ではなく北京こそが新しい首都に相応しいと考えた。
 しかも今まで仮想敵だった満州帝国は手を携えていく同盟国、友好国であり、北京はなんら危険な都市では無くなった。また、中華民国が南京を棄て、連合軍が重慶を破壊したため、どちらにせよ首都の新設もしくは再建が必要だった。その点でも、首都機能を残したままの北京は首都に相応しかった。
 問題は新政府中央の人材だった。中華民国は、中央政府が独裁的な上に国家規模に対して小規模だった。しかも戦争で多くが死亡し、さらに戦争犯罪者として処罰されていた。新たな政府の首相として期待された汪精衛は、古傷がもとで戦争中に死去していた。
 そうした中で、比較的政治的傷が少なく、民心を集めやすい人物として、かつて建国の父と言われた孫文の息子 孫 科 を連合国は見いだした。父親のような優れた政治的指導者では無かったが、政治家としては及第点と判断され、また御しやすいと考えられた上での選択でもあった。
 そして各地の軍閥も中華民国の敗戦後は比較的大人しくなり、住民の多くは基本的に安定した統治を行う強い権威、権力に対してそれなりに従順なので、占領統治自体は比較的安定して行われた。
 なおこの戦争以後、万里の長城以北は「中華」には含まれないことが国際的に確認されている。これは満州帝国が求めた事で、他の地域の国々も特に異を唱えなかった。
 これらの地域は、特に満州以東は「極東」もしくはシベリアと合わせて「北アジア」と欧米世界から見られ、冷戦時代は極東地域と言われ続けることとなる。
 そしてその「極東」でも各地の自立が進んだ。

 日本の事は次節に譲るので、他の国や地域を見ていきたい。
 最大の国家は満州帝国だ。1928年に、清朝最後の皇帝溥儀を国家元首、首相を張作霖として建国された。
 その後は、康徳帝として即位した愛新覚羅溥儀を権威君主としつつも、実質的には日本、アメリカの衛星国、経済植民地として過ごす。1905年から大規模にアメリカ資本が入ったこともあって、その後大きく発展するが衛星国、経済植民地から脱却することは出来なかった。
 だが、第二次世界大戦で大きな転機を迎える。日本もしくはアメリカの代わりとなって、苦戦の続くソ連へ大軍を送り込み、戦場で大きな活躍を示したからだ。満州帝国軍が活躍できたのは、何と言っても連合軍の無尽蔵なレンドリースのお陰だった。だが、日本中央から実質的にパージされた日本人将校団、移民から数十年を経て根付いていた日米移民とその子孫の存在、多数の旧中華民国系兵士、鬼才と言われた石原完爾将軍、破天荒なドゥーリットル将軍の采配など、様々な要素が揃ってこその活躍だったと言われる。事実そうだった。
 そして何より、「満州帝国軍」が連合軍として活躍したことが、戦後世界では非常に重要だった。何しろ延べ200万人もの派兵数は、日本の欧州派兵数に匹敵するほどだった。しかも満州帝国軍の活躍がなければ、ロシア戦線は大きくそして連合軍にとって悪い方に違っていた可能性が極めて高かった。
 これほど戦争に貢献した国を、少なくとも表向き衛星国、経済植民地にしておくことはもう出来なかった。
 国家規模で見ても、国土面積は日本本土の約3倍、当時の総人口は流民を含めて約4000万。鉄鉱石、石炭、石油が比較的豊富で、約40年間の開発で広大な農地が広がり、さらに重工業を中心とした多くの産業が発展していた。中流階級が勃興し、モータリゼーションすら起きていた。粗鋼及び鉄鋼生産力は、1941年の時点で枢軸陣営の主要参戦国のイタリアを凌駕している。
 しかも世界大戦中に、国内総生産、工業生産力が2倍以上に拡大していた。戦争中盤以後は、日本、アメリカの企業進出と支援を全面的に受けながらではあるが、航空機や戦車を大量生産していたほどだった。経済的には、東鉄や満業など一部の巨大財閥の影響力が非常に強かったが、少なくとも大戦中は極めて有効に機能していた。国家資本主義と言う言葉は、大戦中の満州から生まれたと言われているほどだ。
 そして戦争が終わると、主要参戦国としてだけではなく新たな大国として急速に地位が向上した。大戦半ばから首相となった満州族出身の張景恵も、強かにそして出過ぎない程度に満州帝国の国際地位向上に力を尽くした。皇帝溥儀(康徳帝)も、戦中から陣中視察や各国訪問で満州という国家の国際認知度向上に大きく貢献し、「ラストエンペラー」にして「ファーストエンペラー」として国際的にも認知されるようになっていた。当時の王族としては世界的にも珍しく、外遊にも積極的に赴いた。旅行好きで知られた日本の昭和天皇が羨んだという逸話があるほどだ。
 そして戦後の満州帝国は、ソ連に対する極東の防波堤もしくは重石としての役割が大いに期待されていた。

 日本帝国、満州帝国以外の極東の国家としては、あとは極東共和国と韓王国がある。
 極東共和国は、ロシア革命とシベリア出兵の副産物として誕生し、その後は満州のアメリカ資本の強い影響を受け、ソ連共産主義陣営から離脱していった経緯を持つ。第二次世界大戦まではソ連の脅威に怯えていたが、ドイツのソ連侵攻で一時的に脅威は消え、戦争中は連合軍の中でのソ連支援の中継点として存在感を示した。戦争中に国内産業はさらに発展し、戦争特需にも沸き返った。満州帝国軍籍で、かなりの数の義勇兵も参加している。もっとも、ソ連との微妙な関係が有るため、決して表立っての行動はさせてもらえなかった。
 建国当初100万人満たなかった人口も、建国以後のロシア系亡命者の移民などで増えて、アメリカ資本の注入に伴う開発でさらに人口が増加。そして大戦中盤までは、ソ連崩壊を警戒したロシア人の事実上の移民が主に水面下で多くやってきた。中には共産党スパイも多く混ざっていたが、スパイ対策は戦前から非常に充実していたため、特に問題となる事もなかった。人知れず検挙され、多くが送り返されている事実が、戦後半世紀ほど経過してから公開されている。そして戦争終盤以後ソ連に戻った戦中移民も多いが、共産主義体制から逃れるため帰らなかった者も一定数いた。
 そうして戦争が終わった頃には、総人口は300万人を越えて、国内産業、国防力もソ連に簡単には侮られないほどにまで成長していた。ソ連との国力差は相変わらず比較にもならないのだが、国境線は冬が非常に厳しく険しく山岳地帯で、交通はシベリア鉄道一本だけという地の利もあって心配も少なかった。なにより後背には日本そしてアメリカが控えているので、国家としての安定度はヨーロッパ諸国より高いと戦後言われるようになったほどだ。
 そしてロシアの共産主義から排除された宗教、文化、産業の保存場所として機能したことが、ソ連ではなくロシアとして非常に貴重な為、ソ連も極東共和国が政治的にうるさく言わない限り敢えて触れないようになっていく事になる。

 もう一つの国韓王国は、1910年に日本の保護国となり、1925年に国家としての一部の権利を日本から返還を受けていた。そして第二次世界大戦において、日本および連合国への戦争協力、資源と労働力の供出という面での協力と引き替えに、戦後3年以内の独立を約束された。そして1949年に改めて韓王国として独立し、国際連合にも正式加盟を果たす。
 ただし、問題が無かったわけではない。
 まずは国号と国家元首。
 韓王国は「大韓帝国」「皇帝」に定めて、国際的にも「エンパイアー」「エンペラー」を認めさせようとした。しかし宗主国の日本から否定され、アメリカからはどの国、団体も認めないと宣告される。その後もごねにごねたが、独立返還の延期、支援の大幅減少などを日米満から勧告されると、渋々認めて「キングダム」「キング」のままとされた。韓王国の全ての公式文書の漢字表記でも「韓王国」「国王」と念を押して記された。相手が日本人なので、欧米人に対するように誤魔化すことも出来なかった。しかし国内的には「大韓国」「大韓帝国」と呼称するのが、マスコミを中心とした慣例で定着することとなる。「国王」についても、「皇帝」と呼ぶことが多かった。
 次に借金。
 朝鮮王国の時代から、日本、アメリカに莫大な借金があり、保護国時代も借金を増やし続けた。その反面、援助を受けて尚も国内発展はおざなりで、飾り立てるのは王宮をはじめとした特権階級に関連する文物に限れていた。特権階級の横領で消えた援助も非常に多かった。この辺りまでは、世界中の途上国でもよく見られることだった。
 だが、独立復帰の際に借金を全額免除するように、日米など世界中に迫った。さらに日米に対しては、韓国内にある海外資産の無償返還(譲渡)までも迫った。あまりの厚顔さと国際常識の欠如にアメリカは呆れかえったが、当初日本はある程度受け入れる積もりだった。これ以上、余計な負債を抱え続けたくはなかったからだ。しかしアメリカの政府と財界から強く反対され、またアドバイザーとした旧清朝関係者から朝鮮民族への対応のレクチャーを受けて、中途半端な対応や恩情は示さない事が決められる。
 そして独立返還の際には、債務の返還に関しての国際条約も交わされ、鉄道、電信など社会資本関連の海外資産に関する国家による購入の契約も交わされた。当然莫大な額に上り、遅れた農業国のままだった韓国に支払い能力はほとんど無かったが、ほとんどの者は気にしなかった。戦前同様に、朝鮮半島は赤化しないか共産主義陣営に走らなければ問題はないからだ。そして韓国を支配する人々にとってはどちらも悪夢でしかなく、彼らにとっての不本意な条件を受け入れるしか無かった。

 それでも日本は、近隣諸国が遅れた農業国のままでは、革命の危険が高く経済的にも都合が悪いと考え、自分たちの労力と高額なお金がかからないレベルでの支援を行ったが、多くは戦前同様に韓国内の事情によって失敗した。
 近代化の基本は国民全般への公教育の普及で、近代化以前の問題として農業振興と人口拡大のため治水治山事業を行うべきで、そこからようやく政治、経済の近代化が実質的に行えるのだが、それが韓国内では出来なかった。
 試験によって特権を得る制度が維持されている間は、特に身分の低い国民(※多数の実質的な奴隷階級も含む)の無学化政策は支配のために必須だった。一応の中流階層でも、高等教育など以ての外だった。韓王国としては、治水治山にはある程度興味を持っていて実行されもしたが、教育の不足のため技術者が不足していた。また、治山には植林、営林が付いて回るが、森林、山林は建材から燃料資源まで幅広く使われており、これを改めるための産業が興せない以上、木を植えるだけ無駄だった。せっかく植えた苗木ですら、民衆に燃料にされてしまうからだ。石炭の普及で解決を図ろうとして一部では成功したが、石炭を購入できない者が多いためあまり成功しなかった。
 そして何より、地道に近代化を自力でしようという意志に、特に韓国の特権階級が欠けているため、多くの近代化は牛歩の歩みのまま推移した。



●フェイズ93「日本の戦中と戦後の変化」