●フェイズ99「戦後日本の変化」

 1952年1月17日、日本の瀬戸内海西部辺りの海域から、呉の潜水艦隊司令部、横須賀の日本海軍総司令部、東京・六本木の軍令参謀本部、東京・市ヶ谷の兵部省に一つの同じ電文がもたらされる。
 「本艦ハ原子力ニテ航行中」
 世界初の原子力潜水艦「伊号401」からの通信であり、日本海軍が海中の新たな覇者を自らの隷下に置いた証だった。

 同艦は、第二次世界大戦中の日本海軍の原子力開発プロジェット「G計画」の中核として計画が始まった。しかし全く新しい技術のため開発は難航し、アメリカとの全面的な共同開発となってなおも、第二次世界大戦には全く間に合わなかった。大戦後は開発予算の削減を受けるも、それでも開発は精力的に継続され、戦後急速に本格的開発を開始したアメリカより早い1951年9月30日に同潜水艦が就役した。計画続行の予算を得るために、現役を退いた艦艇は10隻では済まないとすら言われている。開発コストの高さと、日本海軍の期待の高さを伺わせる逸話と言えるだろう。
 なお、この電文を放つ少し前に、初めて搭載する原子力機関の臨界点に達する試験を通過したばかりだった。つまり本当の意味で完成した瞬間に、完成を全世界に告げたのだ。この点は、後を追いかけたソビエト連邦が、危険性や不完全性を残したまま原子力潜水艦を完成したと言ったのとは大きく違っていた。「伊号401」は、最初から完成された兵器だった。
 もっとも、最先端の動力炉を搭載するのに対して艦の外見は既に古くさく、水中速力よりも水上速力が高いという旧時代型の船型を有していた。当時の最大出力で、旧式船型で大型にも関わらず水上で25ノット、水中だと16ノットで航行できた。また航空機搭載潜水艦として計画された名残で、船体上部に設けられた水密型の格納筒には、当時最新鋭の長距離誘導ミサイル「一二式艦対地誘導弾」が4発搭載されていた。そのミサイルは核弾頭搭載を前提としており、世界初の戦略原子力潜水艦と言われる事もある。実戦兵器としての役目の一つにも、主に冬季に北極海から沿岸のソ連軍基地を攻撃することが含まれていた。
 戦争中の日本海軍の意図と、完成時の運用目的の曖昧さはともかく、同艦の完成は日本の技術力、軍事力が米ソに並ぶか一部凌駕したと派手やかに宣伝された。
 そしてそうしたニュースが好意的に迎えられるように、当時の日本は世界の一流国になるために懸命に進んでいた。

 大日本帝国の国家目標は、明治維新から第二次世界戦まで一貫していた。「世界の一等国になること」これに尽きた。そうしなければ、白人中心の帝国主義の時代に有色人種国家が自立した状態で生き残れないと考えられたからだ。
 そして第二次世界戦で主要参戦国として戦い勝利を掴むことで、名実共にアメリカ、ソ連に次ぐ三番目の大国として世界からも認知されるようになる。そのための負担も大きかったが、全ては一等国、大国の義務と考えられ国民の多くも好意的に受け入れた。軍への支持も依然として高かった。
 そして終戦から約10年間は、世界大戦で中断していた国土開発に邁進することになる。これは戦後不況を可能な限り回避するための、政府による財政投融資と景気刺激策であり、同時に先進国としてまだまだ不足する社会資本、近代的文物を一気に構築するためだった。
 
 第二次世界大戦で日本は2900億円(800億ドル)の戦費を使った。これに対してGDPは、1940年度に380億円(115億)が1946年度に1160億円(320億ドル)になる。長期間の総力戦の中で、どれだけ多くの生産を行ったかが良く分かる数字だ。そして円の対ドルレートは、戦前の3.3円程度から3.6円に上昇し、戦後の経済の安定とアメリカとの協議もあって戦後は3.6円(3円60銭)で固定される。
 これで戦費の対年間GDP比は250%になる。
 加えて80億ドルのレンドリースの返済があるが、このうち20億ドルは支那と印度の実質的な交換によって無償扱いとされた。また、日本からアメリカに渡された物資や兵器、技術により、約5億ドルが戦争中に返済されていた。残る55億ドルの返済は、低利の金利によっても30年かけて返済しなければならず、明治維新以来国際条約に敏感であり続けた日本政府は、他国よりもずっと地道に返済していく事になる。
 だが、レンドリースの返済よりも、自身の戦費返済の方がはるかに重荷だった。しかも戦争の終了で今までの軍需景気が消えて無くなるので、景気の拡大も急停止すると予測された。
 このため日本政府は、それまで戦費に向いていた国家予算のかなりを、公共投資に投入することを戦中から決めていた。また、戦時から平時予算になるので予算規模は大きく萎むが、GDPの大幅な拡大に伴う税収の増加はこれからであり、主に増えた税収の多くをそのまま再投資する事とされていた。
 戦時にうずたかく積み上げられた戦時国債を前にしては、流石に戦後すぐの大量の国債発行は無理だった。
 なおこのケインズ理論に似た公共投資、一種の傾斜生産は、日本屈指の財政家高橋是清の発案によるものだとされている。

 1920年代は、関東大震災に伴う帝都復興で大規模な都市開発が行われ、後半はアメリカの好景気に後押しされる形で日本経済も躍進した。1930年代の特に前半は、景気対策として大規模な公共事業が多数行われた。だがその多くが、戦争機運の上昇と共に縮小や延期、中断を余儀なくされた。開発計画の中には、「弾丸特急」と言われる高速鉄道計画、自動車時代に対応した高速道路建設計画なども含まれていた。
 そして戦争中には、国家規模での危機分散のため、中央政府機能の分散が決定された。省庁が減少する帝都東京では、さらに大幅な軍施設の統廃合や地方移転も実施された。中央政府機能の一部がやって来る大阪の中心部でも、陸軍造兵工廠の全面移転が戦後すぐにも開始された。
 また一方では、1944年12月の東南海地震、1945年1月の三河地震による中京地方の復興、1946年12月の昭和南海地震による太平洋西部沿岸の復興も大規模に必要だった。1943年9月の鳥取地震の復興、1945年9月の枕崎台風の復興もまだ不十分だった。
 日本は枢軸軍の大規模な攻撃を受けなかった代わりの天の采配として、多くの天災が集中したと人々は噂し合ったほどだった。また一部では、枢軸軍の地震兵器、気象兵器が使用されたとすら言われたりもした。特にオカルト界では、ナチスの秘密兵器は現代に至っても言われ続けている。そうした噂を呼ぶほどの戦争後半の日本では大災害が連続し、多くの災害は戦時中だったため復興が遅れており、急ぎ対応しなければならなかった。
 さらに戦争中の総力戦研究など各種シンクタンクからは、地方特に東北、関東北部の開発の遅れ、所得の低さが指摘されていた。そして地方の開発の遅れと所得格差は、共産主義の温床になると考えられた。
 以上、様々な要素が重なりあって、戦後すぐの大規模長期開発計画が日本中で立案される。
 優先されたのは被災地の復興だが、他国に比べて遅れている社会資本の整備も重視された。都市、地方を問わずに用地買収を進めつつの幹線道路の整備と、既に用地買収が済んでいた「弾丸特急」の建設、さらに東京湾、大阪湾、瀬戸内各所など日本各地での大規模な埋め立て地の造成と、土砂採取の際の都市部郊外の宅地造成が図られた。戦後の五カ年計画とも言われたが、まるで日本列島を改造するような開発だった。

 中でも最優先されたのが、首都機能の分散と陸軍工廠の移転という国家事業のある大阪だった。だが、人口の急速な拡大で都市機能が一部麻痺していた大阪の「改造」もしくは「近代化」は、1930年代から言われていた事なので急がれたという側面もある。また、大阪は海の玄関口であり、復員してきた兵士がそのまま居着く場合も多いので、そうした人々を労働力として活用しやすかったという面も無視できない。
 そして戦争が終わるが早いか、陸軍工廠の大阪中心部から近隣の堺市臨海部への全面移転が始まる。戦争中から戦時の生産量拡大に組み込む形で新規施設を作っていたので、移転は速やかに行われた。軍工廠全体としては、移転と規模縮小(適正化)を合わせた形だった。
 合わせて関連産業の郊外移転が精力的に進められ、大阪市自体も周辺部の吸収合併に伴う大規模化と「大阪副都化」、都市機能、住環境の整備が進められる。
 陸軍工廠だけでなく周辺の工場まで移転が進められたのは、主に大阪湾沿岸部の低地地帯での地下水問題があった。地下水は基本的に無料なので、工場経営者はあるだけ使った。しかし過度の使用により地下水が急速に減少すると、もともと中州だった軟弱な地盤の沿岸部の低地では急速な地盤沈下が起きた。このままでは多くの場所で海抜0メートルを大きく切るのは確実で、そうなると堤防を高く積み上げねばならず、物流の動脈となる海運、水運の活用が高低差によって非常に面倒になってしまう。それでは一時的であれ都市機能の低下は避けられず、自動車普及が十分に進んでいない日本で受け入れられる事では無かった。似たような状態は、東京府(※1947年に東京都及び東京特別市に変更)の一部沿岸部でも起きつつあったが、当時日本一の工業都市だった大阪の方が事態はより深刻だった。
 また東京(と東京湾一円)は、関東大震災後に外資すら投入した大規模復興事業で都市の近代化が一気に行われたが、大阪の都市の近代化は一部を除いて時代の進歩に追いついていないのが現状だった。そこで一気に都市改造する事としたのだが、これは東京湾一円以外の他の都市の近代化のモデルケースとする目論見もあった。
 大規模な都市開発は、都市化が急速に進んでいた名古屋でも、震災復興と合わせて数年遅れで大規模に行われた。このときの名古屋再開発では、道路の大幅拡張や区画整備の為、多くの住宅地の買収、移転が精力的に実施され、市街中心部の様相が一変していた。

 かくして東京は「帝都」から「首都」へ、大阪は「軍都」から再び「商都」へと改造されていく。
 また大阪でも、陸軍工廠の郊外移転と共に、他の軍関係の施設も可能な限り郊外へと移された。師団司令部(第四師団)、駐屯地、飛行場が郊外や別の場所へと移転し、他の目的の公共地となった。特に陸軍工廠が広がっていた大阪城周辺部は、城の周囲を市民公園として整備すると共に、永田町や霞ヶ関に匹敵すると言われる新たな官庁街が形成される。飛行場は、周辺地域を買収した上で大規模化が実施された。
 軍の施設が郊外移転したのは他の都市も同じで、各都市の主に城塞(旧跡)とその周辺に設けられていた師団司令部なども移転や廃止で無くなり、都市部のそうした場所の多くが再整備の後に公園などとして国民に解放されている。合わせて景観整備のために、現存する城郭の建造物の修理などが行われ、多くが国宝指定されていった。
 そして大阪の中心部に新たに建設されたのが、臨時の首都機能を発揮できる議場、会議場などの建造物と一部省庁になる。またアメリカなど一部の国は、かなりの規模の領事館を大阪に整備した。
 省庁のうち「建設省」「農林省」「通商産業省」「電気通信省」「運輸省」「開発庁」「科学技術庁」などが移転もしくは新たに設置され、日本の中央行政のうち経済や産業、国土開発の中心は大阪に置かれることになる。これにより国家としては、有事の際の危機分散が図られ、都市機能的には東京に集中しすぎる状態を少しでも緩和する事になる。またこの時大阪には、首都機能の一部移転と共に大規模な国際会議場、見本市会場など国際都市に必要な施設が多く建設されており、「アジアの首都」としての力が発揮できるようにされている。来訪する世界中の人々の為に、主要な宗教の礼拝施設(教会など)までが、国が招く形で作られたりしている。
 しかし中央省庁が東京と大阪に分かれた事で、中央官僚団に感覚や意識の違いが生まれてしまい、対立とも言えない心理的な溝を作り出すことにもなった。そして中央官庁が分散される事は日本史上でも珍しい状態であり、戦後日本の官僚制度の特徴ともなっていく。
 また、1930年代から進んでいた主に京阪神から東京方面への企業本拠地移転の流れも止まり、逆に大阪もしくは京阪神地区への集中が進むようになる。このため東京は三菱コンツェルン(+安田コンツェルン)の独断場となるも、その他の有力財閥や大企業は京阪神や中京地区へと移っている。これ以後の日本経済の企業グループを、「三菱=安田枢軸」と三井、住友(+鈴木)を中心とする「関西連合」と分けるようになっていったほどだ。
 そして京阪神へ経済重心が傾いたことで、主に京都市が大学の街として発展する事にもなった。この傾向は帝大(東大)一極集中を是正する動きにもつながり、特に理系、科学技術、医療は地方分散がいっそう進み首都圏の優位は年々低下していった。また首都圏でも、大学の地方分散と地方での新たな設立がこの頃進んでいる。中には、多数の大学が集まる学校の街が新たに誕生したりもしている。

 「首都」東京では、中心部の公共地に若干の余裕が生まれるため、関東大震災後から大規模に進んでいた都市計画をさらに発展させることとして、首都としてより相応しい景観を持つ街作りが目指されるようになる。道路、歩道を広くして街路樹を植え、競技場、公園を増やし、遅れがちな下水道整備と平行して電線、電話線などの地下埋設を進め、国際会議場、大規模見本市会場などを建設する事となった。この開発は1956年の東京オリンピックが重なることで拍車がかかり、より近代的な街へと変貌していく事になる。
 大阪では、首都機能の分散化、企業本拠地の集中に対応するため、同時に都市交通の整備と宅地として郊外開発も実施された。これにより官庁街を中心とした都市中心地域に地下鉄が整備され、既存の国鉄、私鉄も延長や電化、さらに高架化が進められ、そして鉄道の延びる先に新たな街が作られていった。工廠と共に移転した中小の工場跡にも、住宅や団地、郊外都市が新たに造られた。
 そして首都機能の一部が移転した事を受ける形で、大阪府の名称はそのままながら大阪市は解体され、大阪特別区に再編成される。この再編成では、副都設置に伴う大阪自体の予算不足が懸念された事もあり、明治の初期に兵庫県へ合併された一部市町村(旧摂津国の東部地域)の大阪復帰も合わせて行われた。
 合わせて遠距離との交通網の充実も図られ、民間空港の大幅拡張、港湾のさらなる強化が実施されている。遠距離交通網の強化は、首都機能分散に伴う東京=大阪間の移動時間短縮が第一目的だったが、大阪の場合は日本以上に急速に開発が進んでいた満州帝国との玄関口の一つという点も大きく影響していた。そして海外との連絡網の整備という点では、大陸への最大の玄関口となる博多(福岡)と、極東共和国(と満州)への玄関口となる新潟の再開発と拡張も、この時期に大規模に行われている。鈴木コンツェルンが日本での本拠地を本格的に博多に置くようになったのも、戦後になってからだ。
 開業時に「新幹線」と命名された「弾丸特急」についても、当初は東京=大阪間の開業のみだが、博多までの延長計画が戦後すぐに決まった。ただし、戦後になると各地の地主の反発から安価での用地買収が難しくなってしまい、山陽新幹線の開業は1970年代までずれ込んでいる。計画決定だけは早かった東北、上越新幹線の建設も同様で、用地買収の点で遅々として進まなかった。高速道路についても同様で、早くから用地買収の面倒が少なくなるトンネルが増えるルートとなった。ただし国鉄に関しては、1920年代半ばに標準軌に一斉変更しているため、輸送量に関してそれほど深刻でも無かった事が、整備の遅れにもつながっている。また国防面でも、近隣に鉄道輸送を必要とする脅威が少ない事も、鉄道整備事業を遅らせる要因になっていた。

 このように高速道路、新幹線などの用地買収は、どこでも難しくなってしまい、日本の国土開発の大きな停滞をもたらしかねない事態が容易に予測された。そうした状況があったため、戦後すぐから飛行場と航空網の整備が精力的に進められたという経緯もある。飛行場の用地取得は、鉄道や高速の用地買収よりも面倒が少なく、離着陸時の空路の関係で海の近くが多いので埋め立てという手段も使えたからだ。
 また航空網の早期整備、民間航空の発展は、戦争中に肥大化した日本国内の航空機メーカーの政府・官庁などへの積極的なロビー活動があったことも忘れてはいけないだろう。
 日本国内には、三菱重工、川崎重工のように何でも作るメーカーもあれば、中島飛行機、川西飛行機、愛知飛行機、立川飛行機のように航空機専門メーカーも多数あり、満州などを合わせても市場規模に比べて航空機メーカーの数が多かった。飛行機メーカーの一部は、戦後に自動車や自動二輪に事業を拡大した場合もあるが、特に戦後すぐは飛行機部門が通信であり、どのメーカーも民間用機の生産を拡大した。
 その証拠と言うべきか、戦後すぐの日本では重爆撃機、大型輸送機の技術を応用した大型旅客機が次々に登場した。主に開発したのは三菱重工を中心とするグループと、川西・川崎を中心とするグループだった。
 ただし中島飛行機は、亡き創業者(※中島知久平は1947年死去)の意向を受けて民間機は「余芸」だという意識が強く、長らく一部を除いて軍用機開発に専念する事となった。
 そして三菱vs川西・川崎の民間機開発競争は、政府の方針と調整もあって徐々に川西・川崎が主流となる。と言うのも、三菱には軍用の重爆撃機開発を任せているが、三菱がダメな時の代替もしくは競争相手としての存在(開発企業)を政府が必要と考えていたためだ。このため、民間機、軍用大型輸送機は川西・川崎に発注がいく事が多かった。そして民間機ということは、必然的にアメリカの飛行機とも競争する事になり、年を経るごとに川西・川崎の大型機開発は三菱よりも洗練されていく事になる。
 なお川西・川崎は、その後航空機部門を合併させ社名も二つを合わせた「西崎飛行機(N-ZA)」となり、世界の大型・中型民間機製造の最有力メーカーの一つとなっていく。新会社の社名に関しては賛否両論あったが、主に三菱、中島への対抗心が反対論を抑え込み、そして強引にでも早期に統合と協力を進めた事が後の世界進出にも大きな役割を果たした。これは、中島が飛行機会社として世界進出に十分な成功をできなかった事と、対象をなしていると言えるかも知れない。

 なお、日本政府は戦後経済の浮揚と日本列島の開発促進のため、1948年のオリンピック招致を精力的に行ったが、外交交渉と外交取引の結果もあって1948年はイギリスのロンドンに譲った。そして1952年に改めて招致をしようとしたのだが、1952年開催では弾丸特急などの建設が間に合わないため、日本の都合によって1956年招致へとずれ込んでいる。
 もっとも、1952年だと支那戦争がまだ続いていたので、1956年で良かったという意見の方が圧倒的多数だった。そして支那戦争では、アメリカからの発注により日本、満州で戦争特需となり、自らの戦費を差し引いても日本列島の開発に拍車をかけさせることにもなったので、オリンピックに向けての社会資本整備を促進させていた。一般的に支那戦争は、日本よりも満州帝国の戦後の発展の出発点になったと言われることが多いが、日本にも十分な恩恵があったのだ。そしてオリンピック開催に伴う景気が、さらに日本の経済的発展を促した。
 1946年から以後10年間の日本経済の成長率は、1947年に実質マイナスを記録するもその後大きく持ち直し、最初の5年の平均で年率5%、その後五年は平均10%、オリンピック開催前年には15%の高成長を記録した。そして1956年のGDP(国内総生産)は720億ドルに成長し、イギリスを追い抜いた。アメリカ、ソ連に次ぐ世界第三位の経済力になった瞬間だ。
 そして国内の社会資本の整備、国民の中流層の拡大に加えてオリンピック開催もあって、日本は純粋な国力、経済力の分野でも大国の仲間入りを果たしたと言われた。
 もっとも一部の研究では、この時期にも途切れず注ぎ込まれ続けた膨大な軍事費と軍事に関連する各企業の物的、人的な投資を全て経済発展に回していれば、最低でもさらに20%以上の経済発展が果たせたとも言われる。だが、この前後十年ほどの日本の対GDP軍事費率は3%から最大でも7%程度だったので、大国として必要な軍事力を考えれば机上の空論と言わざるを得ないだろう。
(※神の視点より:史実日本の1963年のGDPとほぼ同じ。全盛期の同時期のアメリカはこの約8〜9倍。)

 もっともGDPの伸びは、一人当たりで見ると全体よりも伸びが鈍くなる。と言うのも、戦後十年間ほどの日本では、爆発的な人口増加が起きていたからだ。
 人口の拡大は、1930年代も戦争の危機感への対応という形で、人口拡大による国力の底上げという目的で国が多産を奨励していた。戦争中は、結婚適齢期の男性が戦場など海外に多くが出ていたため停滞するが、戦争も終わった1947年になるとその反動から爆発的な人口増加が起きる。
 もっとも、日本の食糧自給率から考えれば、既に人口拡大は行き過ぎていた。食糧自給率の低下や食糧不足は、明治以来の日本政府の懸案でもあった。日本が満州を欲しがったのも、自前の移民先と食糧供給地が欲しかったからだ。
 そして本来なら、日本政府は多産を抑制する政策を行うべきだったかもしれない。しかし、戦争中すら食糧不足に陥ることがなく、満州という「日本の穀倉」は1905年以後順調に発展と拡大を続けていた。アメリカとの関係も良好なので、海外からの安価な食糧輸入も年々伸びていた。また戦争中の経緯から、カナダ、オーストラリアからの輸入も、戦時中ほどではないが戦後も伸び続けた。日本人の間でも、お米以外の穀物を食べる習慣も根付いていった。「洋食」「パン」は、大正、昭和の頃から庶民の食べ物だった。
 食料輸入に伴う外貨の流出、貿易赤字は決して好ましくないが、人口が拡大すればその分だけ日本全体の所得の伸び、外貨流出よりも国力の拡大の方が上回ると考えられた。食糧自給率の点で問題なのは供給が途絶えた場合だが、支那戦争で全世界規模の長期全面戦争の可能性は大きく低下していることが確認されたため、輸入に関する有事の際の懸念も大きく低下した。そして大規模な食糧輸出国は、全て日本の友好国で密接な関係にあった。
 しかも日本政府は、1954年まで妊娠中絶を妊婦の病気など特殊な事情以外で実質的に禁じていた為、多産奨励と重なって人口は年率平均3%という高い伸びを示した。
 日本政府が妊娠中絶を認め、人口拡大を多少は抑制するようになったのは、1946年に7700万人だった総人口が1956年に1億人を越えるという統計数字が現実のものとなってからだった。しかも同じペースで増え続けた場合、四半世紀後の1971年には1億5000万人を越えるという、流石に行き過ぎた数字が見えてきていた。
 もっとも、米ソに対して国力で劣る日本にとって、「人口=国力」という考えはなかなか棄て難く、国民は早婚と多産を美徳とする考えを長らく持ち続けた。そして日本政府は、1970年代まで特に強くは人口拡大を抑制しなかった。そして日本の経済発展と一人当たりの所得の向上が欧米諸国ほどではなかった事もあり、人口増加率は徐々に鈍化をするもそれでも高い数字を維持していった。
 冷戦時代を通じて日本のGDPが全体として相応に伸び続けた背景には、一定程度の経済自体の発展と平行するような人口の拡大があったことを忘れてはならないだろう。

 そして日本が、国民皆保険制度、国民年金制度に本格的に手を付けるようになるのも、人口増加率を抑制し始める1960年代を待たねばならなかった。制度が整えられたのも、人口増加率がそれなりに安定期に突入した事が大きな理由で、それまでは新興国としての人口の伸びを続けることになる。
 日本は主要戦勝国であり戦後第三の大国ではあったが、まだまだ先進国とは言い難かったのだ。


●フェイズ100「戦後満州の変化」