●フェイズ1「ソ連の決意と戦争方針の変更」

 1944年3月8日のドイツ降伏時、ソ連軍はまだ自国領内でドイツ軍以下の枢軸軍と対峙していた。4月までに全ヨーロッパでの戦闘が終了したが、それまでにポーランドの東半分とルーマニア、ブルガリア、ハンガリーの半分、スロバキア地方に攻め込めた段階で、米英軍との握手を行わざるを得なかった。勝手にベルリンを落とした米英軍が、そこまで進出していたからだ。
 米英軍はソ連軍の進撃が遅すぎたからだと言ったが、ソ連からすれば明らかな裏切りだった。
 それでもソ連軍は、ごく一部でドイツの東プロイセンの国境線まで攻め込んだが、ドイツ軍の頑強な抵抗が続くうちにドイツが引き入れた連合軍が握手を求めて反対側から現れたため、ドイツの領内を軍靴と戦車のキャタピラで踏みにじることができなかった。
 その後の占領統治でも、米英などが占領した国による占領統治を押したため、覆すことができなかった。
 このためドイツのほぼ全土、ポーランドの半分、チェコ、ユーゴスラビアのソ連赤軍による解放は叶わなかった。辛うじてハンガリーは自らに取り込んだが、チェコスロバキアについては、チェコがアメリカの管轄となりスロバキアしか得ることができなかった。
 ベルリンの共同占領だけは実現できたが、米英のおこぼれようなものでしかなかった。
 確かに祖国奪回は叶ったが、その後の欧州での指導的地位を得るには到底足りない勝利でしかなかった。特にドイツでの徹底した収奪を行えなかった事は、ナチスに国土を酷く破壊されたソ連にとっては大きな失点だった。
 そこでソ連の指導者スターリンは、東欧での未回収を極東で挽回することを素早く決意。素早く大軍を極東へと移動させ始めた。

 なお、1943年6月の「ラウンドアップ作戦」の成功によって、世界中で連合軍の進撃は激しさを増した。海軍と洋上機動戦力に大きな余裕が出たからだ。
 当然ながら、太平洋戦線に大きな影響を与えた。このためイタリア半島上陸後に余ったアメリカ軍の上陸作戦専用の兵力や海軍部隊の多くが、多数太平洋に回された。
 そして1944年正月前後から、太平洋方面でのアメリカ軍の攻勢は激しさを増し、日本軍は守勢一方に追いやられた。
 あれ程優勢を誇った日本海軍だったが、1942年秋頃からの南太平洋での消耗戦と通商破壊によって弱っており、1943年8月に行われた第二次ミッドウェー沖海戦で日本海軍が敗北して後は、アメリカによる一方的な戦争展開へと大きく傾いた。
 しかしアメリカ軍の進撃速度上昇と共に不気味だったのが、ドイツ降伏頃からソ連軍が極東へと大軍を送り込みつつあった事だった。
 日に日に各地からの報告は多くなり、日本中枢部も完全に無視するわけにはいかなくなった。しかもソ連は、1944年4月20日に日本との中立条約破棄を通達した。
 またソ連の対日参戦決意とその行動は、アメリカ軍の歩みにも微妙な変化を与えた。
 これからはソ連とアメリカによる日本進撃競争であり、余計な場所に攻め込んでいる場合ではなくなってきたからだ。
 しかもアメリカ軍自らが攻めるためには、太平洋を押し渡るため日本の海空軍力を撃滅しなければならないのに、日本の海空戦力が減れば減るほどソ連の日本本土上陸の可能性は高まるというジレンマを抱えての進撃となった。
 逆を言えば日本の海空戦力がある程度残っている限り、少なくとも日本本土にソ連は手を付けられないことを意味していた。
 ただし日本および日本軍の戦意は依然高く、少なくとも一度決定的敗北を経験しない限り降伏しないと考えられた。しかも日本軍は、自らとドイツの敗勢と共に守勢防御の姿勢を強めており、一部では戦線の縮小も行われるようになった。特に支那戦線関連が顕著で、インド方面でのインパール攻略作戦と、支那大陸での大規模な作戦(仮称:一号作戦)は中止され、支那大陸の戦力の一部は44年が明ける頃から満州や南方の各地に転用されるようになった。
 そしてソ連の動きに一番変化を受けたのは、やはりアメリカ軍だった。
 それまでアメリカ軍は「カートホイール作戦」に従い、陸軍主導と海軍主導の二重作戦により日本本土を目指していた。しかし作戦では大規模なフィリピン奪回作戦が含まれており、当然大規模な地上戦と長い戦闘期間が予測された。
 このため作戦は大きく修正され、マリアナ諸島=沖縄=日本本土、という最短のラインでの作戦に戦争資源が一本化されることになった。同時にニューギニア方面での作戦も縮小され、枝作戦については日本軍を引きつけるためや本当に必要な作戦だけが行われる事になった。
 そして日本軍は、自らの燃料不足や兵力不足という理由で次なる戦場の設定を進める事になる。
 そして1944年5月31日、アメリカ軍はマリアナ諸島に襲来した。これに対して日本海軍は「あ号作戦」を発動。
 日本軍は、連合軍のニューギニア西部、ビアク島での作戦を陽動であると自らの都合から断定し、マリアナ諸島防衛に全戦力を投入した。既に日本軍に、全てを守る戦力も備蓄燃料もなかったからだ。
 しかし日本軍は、アメリカ軍の実質的な各個撃破戦術を前に戦力消耗を重ねて、結果惨敗を喫することになった。
 アメリカ軍にも多少の犠牲を強いたため、完全なワンサイドゲームとはならなかったが、日本がマリアナ諸島防衛に失敗した事は確かだった。しかも日本海軍の空母機動部隊が壊滅した事は、戦争を次なるステージへと導く事になる。
 そしてここで連合国は、一手を打った。
 鞭の次は飴を見せて置くことが、終戦に向けての一つの方策であるからだ。
 かくして1944年5月26日、「ポツダム宣言」が発表された。
 これにより日本は、政府ではなく日本軍が無条件降伏すれば良くなった。だが、まだ戦力を残していると考えている日本陸海軍は日本政府に黙殺を迫り、日本政府もまだ降伏の時期でないとしてこれを無視した。何も知らない日本の民意も、まだ徹底抗戦にあったからだ。
 しかし日本政府のこの時の決断は、大きな報いを受ける事になる。



●フェイズ2「ソ連対日参戦と沖縄決戦」