●フェイズ3「ソ連への降伏」

 沖縄決戦のあった翌月の11月半ば、ソ連軍は昨年夏の間に北極海経由で強引に回航したあらゆる艦船を用いて、強引に北海道へと侵攻した。またソ連軍は、占領した南樺太や沿海州方面からの無尽蔵の空軍戦力の投入を行い、自らの犠牲を省みずに作戦を強引に推し進めた。赤軍兵士一万人の命よりも、日本本土に1平方メートルでも踏み込むことが重要だった。
 無論この時期にソ連が無理に兵を動かしたのは、沖縄決戦でのアメリカ軍の一時的な半身不随状態と日本海軍の壊滅を見透かした侵攻であった。別に沖縄での状況がなくても日本本土侵攻の準備は進めていたが、現状は千載一遇のチャンスだった。
 無論侵略される側の日本軍も、無為にソ連の侵攻を受けたわけではない。歴史上何度目かの希な本土での外国軍の侵略に対して、迎撃準備も行われていた。
 だがこの時の日本軍には、近代戦に必要な全てが不足していた。不足を感じないのは、根拠のない戦意だけだった。
 始まったソ連軍の侵攻に対して、日本軍は侵攻船団への航空機を中心とする各種特攻と現地部隊の陣地固守で対応したが、本土でも制空権、制海権が獲得できないまでに弱体化していたために、無尽蔵と言わんばかりに攻め寄せてくるソ連軍の侵攻を防ぐことができなかった。
 ランチェスターの法則に従った当然の結果だった。
 ただし、ソ連軍側が渡洋侵攻作戦にまったく慣れていなかった事、洋上作戦の不得手から制空権獲得が極めて甘かった事などから、日本側の水際撃滅は当初はうまく機能した。ある場所では、後方に待機させていた機動防御部隊すら投入できて、二度までソ連軍を海に追い落とした海岸もあった。海岸がロシア人の血で染まった場所も一つや二つではなかった。上陸作戦に関連するソ連赤軍の死傷者の数は、10万人を優に超えると言われている。北海道の日本陸軍部隊は、一人一殺以上の活躍を示したのだ。
 「もっと露助を寄こせ」と勇ましい電文を送った日本陸軍部隊もあったほどだった。だが彼らの戦意と活躍そして実戦結果は、電文がまるで正しいものであるかのようだった。
 しかも日本軍の予測以上に、ソ連軍は人の波となって北海道に殺到した。ソ連空軍の戦力も徐々に膨れあがり、北海道の空を埋め尽くすようになった。空挺部隊までが舞い降りた戦場もあった。
 ソ連の大規模な北海道上陸作戦は、日本軍の頑強な抵抗にもひるむ気配すら見せず、都合三度行われた。
 その後道北、道東から順番にソ連軍が溢れ、石狩平野近くへの上陸を許したことで日本軍の抵抗も潰えた。北海道各地に4個師団が展開していた筈の日本陸軍部隊は、勇戦敢闘の後に命令系統を失うまでに壊滅した。12月中頃までには、北海道全土が事実上陥落した。無論後退することもままならないので、大本営は北海道の「玉砕」を発表した。
 組織的抵抗が終わった後も山岳部で抵抗を続けている者も少なからずいたが、もはや組織的なものではなかった。
 ただし北海道でのソ連軍は、満州同様の無意味な殺戮や略奪、強姦が少なかった。軍隊が相手の場合でも、投降者はほぼ国際法に則って処理された。特に無意味な破壊や殺戮については驚くほど少なく、市街戦もソ連側の意図により可能な限り避けられた。ソ連軍内で軍規違反者が処罰された事もあった。
 ソ連中央が、日本に新たな国家を作ろうとした意図を見て取ることができる行動だった。事実ソ連軍は、侵攻部隊に対しては国際法に則って行動するように通達が下っており、下士官以上には事前のレクチャーと概要を記した小冊子がわざわざ配られたほどだったという。このため、士気の萎えてしまった部隊が続出するという、実にロシアの軍隊らしい状況が出現したほどだった。
 また北海道での作戦に余裕が出てくると、ソ連にしては珍しく現地民生維持のための物資も多く持ち込むようになった。日本人の産する物産も、掠奪や掠奪まがいのことは極力行わず、占領地の日本人との間で正統な取引が行われる傾向が強まった。驚くべき事に、反抗しない限りにおいて、日本人による地方自治もそのまま認められていた。
 このためソ連占領後の北海道での反ソ連感情は比較的低く、円滑な占領統治が実施された。
 ソ連のこうした行動は、無論人道を優先させたからではない。一刻も早く日本の占領地を確保するための方便であった。
 そしてここでソ連は、1945年2月1日に札幌を臨時首都とした「日本人民共和国」をさっそく建国した。ソ連政府及び臨時政府は、真の道に目覚めた日本人による政府だと強調した。また現地には、多数の思想キャンプが作られ、早速日本人の再教育が始まった。北海道で食料が不足することはなかったが、キャンプに行けば不足する生活物資の供与が受けられるため、住民の側から参加する者も多かった。

 一方、敗北と本土の一部失陥に色を失っていた日本政府は、日本とは違う日本の独立宣言に強い衝撃を受けた。
 日本国内に別の日本が作られてしまっては、政治的に国体護持の意味がなくなってしまう恐れが高くなってしまうからだ。そしてこれが引き金となって、ただちに「ポツダム宣言」受諾を進めようとした。
 一方では、1945年1月当時、アメリカ世論は大きく揺れていた。沖縄作戦の大失敗のためだ。
 いかにルーズベルトと言えど、ドイツとの戦いが終わって半年以上たってからの空前の大損害には勝てなかったのだった。
 かくして、アメリカ大統領選挙直前の一度に20万人近い戦死者を前にして、ルーズベルトは選挙で敗北。共和党のデューイが選挙に勝利し、失意のルーズベルトはそのまま病床に伏した。選挙が大番狂わせとなったため、ニューヨーク取引市場の株価も乱高下を繰り返した。
 そして年を明けても、政権交代の混乱がまだ続いていた。1月頃は新たな大統領がようやく役職に就いたばかりであり、多くのスタッフも似たような有様で、対日戦に関する知識と経験が不足する政権となっていた。
 しかし新政権は、反共産主義的というより前政権よりも中立的であり、ソ連に対して必要以上に友好的感情を持っていなかった。むしろヨーロッパでの戦いが終わった事から、ソ連を次なるライバルと見る向きが強まり始めていた。日本の事など、所詮は戦争処理の一環程度にしか考えられていなかった。
 しかも北海道で作られた日本の傀儡政権成立に、強い警戒感と不快感を示していた。ソ連側は、日本を降伏に追い込むための効果的手段であり、かつ一時的な政治的手段だと説明したが、全く油断がならないと判断していた。
 一方では、日本に対するアメリカ市民の復讐心も大きく、簡単に日本のポツダム宣言受諾を受け入れる事は難しいのが現状だった。20万人の突然の死は、アメリカにいらぬ負のエネルギーを与えていた。
 しかしアメリカは、自軍の侵攻部隊が一時的に壊滅した事の不利と、ソ連が既に北海道に上陸していることを鑑みて、日本の動きに合わせることになった。
 かくして1945年1月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は戦中の予測よりもずっと早く早く終幕した。
 しかしソ連赤軍にとっては、1945年1月15日午後零時からこそが次なる作戦の号砲であった。
 秘匿作戦名は「フビライ」。
 かつてのモンゴル人の日本襲来の故事に習い、日本全土を占領統治下に置く事が目的だった。

 ソ連赤軍は、日本のポツダム宣言受諾が早いか、一斉に日本本土に武器を向けずに殺到した。
 船舶は勿論、ソ連赤軍史上最大規模の空挺部隊が、北海道、朝鮮半島南部から、日本本土各地を目指した。この作戦のためにソ連全軍から空挺部隊と空挺部隊を輸送する輸送機部隊が集められた作戦だった。
 しかも先陣を切ったのは、日本の政府代表と降伏文書を交わす者達だった。鳥無き里のコウモリを気取るソ連海軍の巡洋艦が、平和の旗を振りながら日本の港にやって来た。
 そして日本本土に足を踏み入れたソ連赤軍は、自らに占領軍や侵略軍ではなく、軍国主義から日本を解放する軍隊、つまり「解放軍」としての位置づけを各部隊に強く持たせていた。無論ソ連上層部が強く命令したからであり、日本本土全域をアメリカより先に占領しまうための方策だった。
 これは、ソ連がそれまでの満州や朝鮮、北海道での戦闘から、日本人及び日本軍が占領後は予測以上に占領側に対して従順である事に気付いていたからだった。
 満州国の官僚組織などは、いまだに満州でソ連赤軍の軍政に協力している有様だった。満州などで日本の文物を漁っている中華共産党などよりも、余程占領行政に役に立っていた。
 そして「解放軍」であるソ連赤軍は、アジアの占領地から集められる限りの食料を占領部隊の次に送り込み、物資、特に食料が不足し始めていた日本本土に、自らが解放軍である事を食料によって印象付けた。
 赤軍兵士に対しても、日本占領に際しては可能な限り友好的に接することを命令し、男性社会特有の問題すら強引に我慢させた(後で日本側に慰安施設を用意させたが)。
 ソ連の突然の動きに一番慌てたのは、占領される側としての覚悟をある程度決めていた日本ではなく、アメリカだった。
 連合軍というよりアメリカが、1945年2月2日を予定していた降伏調印よりもずっと早く、ソ連軍が占領軍として日本本土の各地へと殺到したのだから当然だろう。
 しかもこの時のアメリカ軍は、海上戦力はもちろんの事、輸送力そのものを完全には沖縄での損害から回復していなかった。降伏調印用の艦艇ですら、完成して前線配備されたばかりの戦艦《ミズーリ》だったほどだ。当然ながら、進駐すべき戦力も、軍の移動のための船舶までもが不足していた。沖縄で5個師団が吹き飛ばされた事も、当座の占領軍を用意する点では大きな失点だった。
 アメリカ軍が正式な占領軍を揃えて日本本土に送り込めるのは、早くても2月半ばだった。本格的に送り込めるのは、日本本土侵攻用の部隊がやって来る3月を待たねばならなかった。
 これに対してソ連赤軍は、1月中に日本に到着した第一派占領軍だけで15万人に達した。その後は、占領下に置いた日本の勢力圏にある船舶を借り上げてまでして、各地から日本領内へと大量の兵力と物資を注ぎ込んでいった。3月半ばまでには、約40万人の赤軍兵士が日本列島に溢れた。
 アメリカは、慌てて日本政府との降伏調印を早めようとしたが、それまでに日本政府は新潟に上陸してそのまま一気に東京へと乗り込んできたソ連の誇る英雄ジェーコブ元帥とその使節団に対して降伏調印を行った。
 無論これは正式なポツダム宣言の調印ではなかった。
 ソ連側が用意した「本当のポツダム宣言」であり、その中には日本政府にとって「正式なポツダム宣言」よりも重要な項目が一つだけ含まれていた。言わずと知れた、「国体護持」つまり天皇の保全の確約である。しかもソ連側は、天皇の保全が日本の中央官僚制度の保全であることもちゃんと知っていた。既に占領した満州国が日本の複製国家であり、その国がどのように運営されていた事を調べてから日本本土に乗り込んでいたからだ。加えてソ連側の独自提案として、独立宣言を行ったばかりの「日本人民共和国」の現日本政府への合流も文書に盛り込まれており、国家が二分されるよりはマシな条件が多く含まれていた。アメリカが交渉相手では、ソ連がごねることが分かり切っているだけに、日本の破壊と日本民族の分裂を恐れた日本政府がソ連側になびいたのも仕方のない事だった。
 そしてソ連政府は、日本本土全てを自らの手に掴むため、一時的あれ自らのイデオロギーを曲げてまでして、手を尽くしたのだった。
 一方ソ連は、既成事実の積み重ねによって、自分たちのポツダム宣言を認めさせる考えだった。ソ連は、世界中にはアメリカの陰謀によって、最初の発表されたポツダム宣言から、本来のポツダム宣言に盛り込まれるべき条項が削除されたと言った。しかもこれは、完全な嘘ではなかったため、アメリカも完璧な反論を行うことができず、沈黙と秘匿によって応えざるを得なかった。

 日本降伏から約一ヶ月後、日本占領準備を何とか整えたアメリカは、日本本土近海に大艦隊を展開させて後に、ソ連に対して日本本土の共同占領を提案した。
 しかしその頃までには、日本本土ばかりか沖縄や硫黄島、果ては台湾島にまでソ連赤軍の旗が、たとえ形式に過ぎずともへんぽんと翻っていた。当然と言うべきか、後からやって来たアメリカ軍は、ソ連軍の手によって追い返されてしまった。
 その頃日本本土では、ソ連占領軍の手により解放・復活した日本共産党と「元」日本人民共和国の人間が急速に勢力を拡大しており、ソ連側の指導によって既に政治に参画するよになっていた。
 アメリカが手を付ける間もない短期間に、日本全土の赤化がスタートしていたのだった。


●フェイズ4「赤い占領統治」