●フェイズ6「ザ・ディ・アフター1・「第二次日中戦争」」

 2度目となる破滅的な日本と中華地域の戦争を見る前に、まずは第二次世界大戦から戦争に至る時系列を整理していきたいと思う。

・年代順経緯
1940年代

 41年:
12月:「真珠湾奇襲攻撃」 太平洋戦争開始
 42年:
5月:珊瑚海海戦:アメリカ敗北
6月:ミッドウェー沖海戦:アメリカ敗北
11月:アメリカ、ソロモン諸島から一時的に撤退
   同月アメリカは戦争方針を変更
 43年:
6月、ノルマンディー上陸作戦:
 44年:
1月:ヤルタ会談:
3月:ドイツ降伏:
5月:ポツダム会談:
6月:ソ連対日参戦:
10月:沖縄沖海戦:アメリカ軍侵攻部隊壊滅
10月:ソ連北海道侵攻:
 45年:
1月:日本、ポツダム宣言受諾 :
1月:ソ連、日本単独進駐:
4月:中華地域、国共内戦再開:
 46年:
3月:第一次インドシナ戦争:
5月:日本国憲法発布:
 47年:
トルーマン・ドクトリン:
マーシャル・プラン:
モロトフ・プラン:
 48年:
東亜赤化:旧大日本帝国領内は、日本、琉球、朝鮮の民族自決共産主義国家として再建が進む。
5月:日本、「血のメーデー」
アメリカ軍、日本包囲。日本の反米意識再び急上昇。
 49年:
中華人民共和国連邦成立:北東アジアが完全に共産化。自由主義陣営の危機感増大。

1950年代

 50年:
マッカーシズム(レッドパージ):アメリカで「共産主義者狩り」が進む。アメリカでの対日批判も強まる。
インドネシア内戦:オランダは撤退したが、新政府と共産主義陣営が各地で戦闘。日本人は、個人レベルでの政府軍支持と国レベルでの共産党支持に別れる。混乱は長引く。
日本とアメリカの西太平洋上での対立激化。
 51年:
国連総会で、日本の国連加盟見送られる。
独立承認問題が原因。
 56年:
スターリン批判:共産陣営に動揺と亀裂。人民中華と他の共産主義国の間に大きな溝。日中対立始まる。
ハンガリー動乱:東西両陣営で緊張が高まる。
第二次中東戦争:英仏没落強まる。
 57年:
スプートニク・ショック:ソ連人工衛星打ち上げに成功。同時に大陸間弾道弾を実戦配備。西側に強い焦り。
 58年:
カシミール紛争:インド・中華衝突。国内意思を固めるための中華側の陰謀。
中華、大躍進政策を実施するも大失敗に終わる。中華経済が一時的に壊滅。中華と東側各国との関係も悪化。特に日本との対立が強まる。
 59年:
キューバ革命:共産主義の拡大。アメリカの危機感増大。北東アジアでの共産主義陣営内の対立を煽るようになる。

1960年代

 61年:
日本、フランス相次いで原爆実験:世界的に核兵器の拡散に懸念が広がる。共産中華、日本に対する警戒感上昇。
日本、「もはや戦後ではない」発言。戦後復興が大きく進んだと言われ、東側第二の共産国として浮上。実際、ソ連からの技術供与、資源の安価輸入で経済と産業は大きく発展。
 62年:
キューバ危機:核戦争の危機。アジアの重石が、アメリカの強硬姿勢を自重させたのではないかと言われる。事実西部太平洋上では、日米の大艦隊同士が睨み合い状態となった。
 64年:
フルシチョフ失脚:ソ連で政変。対外リアクション能力が若干低下。陣営内の統制力も低下。
中華、原爆実験:関係悪化していた日中の対立がいっそう深まる。
 65年:
第三次中東戦争:イスラエルの一方的勝利。中東問題が、本格的にソ連にとっての不安要素となり始める。
日本、太平洋上で水爆開発:西側諸国が非難。中華の警戒感も大きく上昇。日本との対立が一層深まる。
 66年:
ベトナム戦争開始:
中華、日本、人民朝鮮など、北東アジア各国がソ連と共に北ベトナムを強く支援。
中華、文化大革命開始:中華国内は事実上の内乱化。殆どの国が関係を断絶。大使館も引き上げ。中華と東側陣営の関係が極度に悪化。
 67年:
日本、人工衛星打ち上げ成功:西側が非難。中華に強い焦り。
日本、大陸間弾道弾実戦配備:日中の対立激化するも交渉窓口がないため対立が一層深まる。互いに非難合戦となる。赤衛兵が中華内の日本資産攻撃。
 68年:
テト攻勢 :アメリカ政略面で敗北。アメリカの反戦運動が大きく増大。軍事的リアクションも取りにくくなる。
 69年:
第二次日中戦争:
日中核兵器実戦使用:
中華の先生核攻撃:多くが失敗するが、日本の長崎が世界初の被爆地となる。
日本の報復攻撃:北京消滅。
第二日中戦争勃発:中華人民共和国連邦崩壊。

 ※「第二次日中戦争」(1969年)

・経緯:
 第二次世界大戦以後相次いで成立した日本、中華では、建国以後の日中関係は日本が事実上の戦時賠償を中華に様々な形で支払う形になっていた。
 これは資本主義から社会主義体制への移行で混乱していた日本経済にとって、負担も小さなものではなかった。当然ながら、日本側に大きな不満を持たせるようになる。しかも日本では、中華側の方が遅れて共産主義国になったということで、戦前から引き続いて見下す感情が絶えず維持されていた。
 1956年のフルシチョフによる「スターリン批判」では、日中間で最初のイデオロギー対立が発生した。これが高じて、1958年の中華での「大躍進政策」では、日本の統一社会党書記長の岸信介が開始前に大躍進政策をこき下ろして日本国民は喝采したが、中華共産党の書記長毛沢東は激怒した。一方の日本経済は、ソ連からの技術輸入と安価な資源輸入で経済と工業の発展を続けていたので、両者の違いは明らかだった。
 以後の日中関係が関係が悪化し、同時に関係の冷却化が急速に進んでいった。日本から中華への投資や援助も、1958年を境にほとんど途絶した。これは互いの反目をさらに醸成する土壌となり、文化大革命初期の段階で日中の政治面で対立が決定化するようになる。それでもまだ国交断絶などには至らず、ソ連の仲介もあって最低限の関係は維持されていた。上海に再び進出していた日本人も、ほぼそのまま仕事を続けた。
 しかし1966年、中華で一種の政治闘争である「文化大革命」始まる。この激化により中華全土がほぼ内乱状態となり、漢民族と周辺民族(共和国)との間に大きな対立が発生した。しかも中華政府中央部は機能を低下させ、無軌道に暴れる赤衛兵を止めることが出来なかった。しかも中華内は連邦国家のため、各地は独自の軍隊を持つため、人民解放軍を全面に出した赤衛兵と地方軍の戦闘にまで発展した。
 そして中華は、自らの内政上の抗争を外に持ち出す事で、国民のガス抜きを行って事態を解決しようとした。

 中華広報は突然のように、日本の社会主義政策(官僚主導の経済政策)を修正資本主義だと強く批判した。また天皇を保全していることに対しても、共産主義にあるまじき体制にして封建的だとして非難を強めた。
 当然日本側の強い反発があり、大躍進政策を前近代的な遅れた思想で、毛沢東は全体主義を越えるほどの独裁者になろうとしているとして強く非難仕返した。
 これで日中両者の政治的対立が完全に悪化し、非難合戦の後に双方の大使引き上げにまで発展していった。
 そして両国の反目は民衆の間にも広がりを見せ、その一番の先鋭的集団である赤衛兵による中華での日本邦人襲撃事件が多発した。日本政府は、中華側に国際法上での対応を要請するが、当時統治能力そのものが低下していた中華側に反応はなかった。むしろ、誰とも分からない者達が、赤衛兵を煽るような行動ばかり取って日本側の反発が一層強まった。
 そして日本政府は、自国民の保護を理由にして中華渡航禁止と邦人引き上げを決定。
 赤衛兵の中華国内での日本叩きは収まらず、いつの間にか同じ社会主義国家である日本は大日本帝国扱いとされ、これを中華政府までが公式に発言して深い外交問題にまで発展する。
 日本政府も黙っておらず、文革を徹底的に批判し、非難した。さらに日本は、中華に対して国交断絶を宣言。中華も対抗外交として日本の大使館を閉鎖した。
 それに連動して日本は、中華各地からまだ残っていた邦人の一斉引き上げを実施。同時に引き上げられる限りの自国資産引き上げも実施し、最後に大使館も引き上げた。引き上げに際しては、東シナ海に艦隊を置いて威圧したほどだった。
 当然中華側も全く同じ措置を取り、日中は完全に国交断絶してしまう。
 この日中の対立と中華での文革を警戒した中華と国交を持っていた各国も、文革を理由に中華との国交断絶と在留邦人の一斉引き上げを実施した。被害が及んでいたのだから、当然の結果であり、中華地域に外国人はほとんどいなくなった。上海に残っていた日本人以外の外国人のほとんども、日本人の撤退に便乗する形で逃げ出していた。
 これに対して西側諸国は、内輪もめ、国家同士の内ゲバということで当初は笑ってみていた。イギリスが大使館を置いていたが、これも他国に連なる形で引き払ったのが具体的な行動だった程度だ。
 かくして中華は国際的に完全に孤立してしまう。
 そして当面拳を振り上げる先を失った無軌道な赤衛兵は、今度は海外に拳の振り上げ先を求めるようになる。
 そして彼らの間で謳われたのが、日本への攻撃と並んで祖国回復運動だった。
 俄に琉球人民共和国の台湾奪回を掲げ、洋上での国境紛争が発生するようになる。赤衛兵の船は小さな漁船ばかりだったが、非武装でも数が多すぎて十分な脅威となっていた。小規模な琉球人民軍では対処できず、赤衛兵の上陸事件も発生していた。
 国力の小さい琉球政府は、共産各国に支援を要請。日本とソ連は、艦艇派遣を実施して赤衛兵の動きを実力で封じた。
 そして日本政府は、かつて自らの領土としていた琉球の庇護を本格化。大規模な海・空軍を派遣して、支配力を強める動きに出た。この頃には日本の海空戦力も相応に復活しており、太平洋ではソ連海軍よりも有力な存在となっていた。まともな工業力のない中華側に対抗できるだけの海空戦力はなかった。
 そして日本の軍事力に恐れを抱いた中華側は、対日反発をいっそう強めるようになる。
 ただし正面からの戦闘などは考えておらず、台湾などに対する赤衛兵船団の上陸とテロ行為を実施して、赤衛兵のガス抜きと日本への強硬外交対策とした。またこれは、日本と本格的な軍事衝突をしないという中華側からのメッセージでもあった。中華側としては、琉球か日本のコーストガードが出てくれば、適当に暴れた後で引き下がる積もりだった。
 しかし政治的メッセージを理解しない日本側の過剰反応を誘発してしまい、日本は海空軍を投入して赤衛兵を実力で撃退する。つまり軍隊を用いて、貧弱な漁船などに乗り込んだ赤衛兵を容赦なく粉砕してしまった。国際法の上では、日本軍の行動が正しいものだった。
 そして当然と言うべきか、中華側では自国民が殺されたとして強く反発。台湾海峡でにらみ合いとなる。
 これで追いつめられた中華政府は、自国民に対する政策として、日本資産の接収と資産凍結を宣言に追いやられた。政治組織、官僚組織がまともに機能しない状態なので、大味な行動しか取れないのがこの頃の中華中央政府の状態だったのだ。
 当然ながら日本政府は資産の返却を求める生命を出すが、互いに大使館もないのでまともな交渉にはならなかった。
 そして両者の対立はエスカレートし、台湾海峡での軍事的緊張を強める結果となった。
 ついには、日中両軍機による威嚇合戦に発展。膨大な数で押す中華軍機に、日本機が事実上撃墜される事で、事態は次なるステージへと至る。
 中華側の「軍事恫喝」に対して、日本政府は事実上の最後通牒発言を実施。その中で日本の首相は、外交的発言として「核兵器を用意する事も辞さず」と言った。
 ここでソ連が大規模な仲介に乗り出す。日本側の目的も、ソ連を引っ張り出すことにあった。
 これに対して西側諸国は、日中両国を国家としてまともに承認すらせず国連にも加盟していない(させていない)ため、外交的に何かをしたくても実質的に何もできなかった。仕方なくアメリカは、フィリピン、グァムの海空軍を増強。太平洋に空母機動部隊が展開し、ベトナム沖にいた空母機動部隊も日中寄りに移動させた。軍事的抑止以外に手段がなかったからだ。しかしこれは日中双方の反発を招き、事態を悪化させただけに終わった。しかも両国は、テト攻勢以後のアメリカの政治的弱腰を見抜いており、実質的に何も出来ないだろうと高をくくって、アメリカの軍事的恫喝を自国国民に対して政治利用しただけだった。
 そうした中で、ソ連仲介によってハバロフスクで日中外相会談が行われるが、妥協点を見つける事もできず物別れに終わる。
 中華側は、日本の方が核戦力で勝るために強い焦りを持ち、事実上の臨戦態勢へと入った。
 これに対して日本側は、自らが軍事的に優位にあるため警戒レベルは中華側より若干低く押さえられていた。ただし両国がほぼ臨戦態勢に入ったことは間違いなく、近隣のソ連極東軍や人民朝鮮でも警戒態勢が強化される。ソ朝両国の満州国境の軍事力も増強された。当然中華側が反発を示し、既に殺気立っていた事もあって国境各地で発砲事件も多発し、ソ朝両国のさらなる警戒感と軍備の増強という悪循環を繰り返した。
 満州国境地域だけで、三国合計で150万人近い軍隊が溢れるようになる。
 そして近隣の緊張増大を受けて、当事者である日本も、警戒態勢を事実上の戦時体制にまで強化した。
 人民解放軍、全軍に準戦時体制を命令。第二砲兵にも命令が下った。
 気が付けば、状態は既にキューバ危機の時の米ソよりも悪い状態だった。

・戦争:
 日本と中華の戦争は、宣戦布告のないまま中華側の先制攻撃によって開始された。しかも、史上初めての核攻撃によって開始される事となった。
 1969年8月6日、人民解放軍第二砲兵は5キロトン級の原子力爆弾を搭載したDF-2(東風-2)を日本本土に向けて発射。発射は成功し、大規模な軍事用造船所が存在する長崎市郊外で炸裂した。ただし命中精度が低くかったためか目標位置から3キロメートル以上ずれ、軍用造船所のある港湾部ではなく海岸近くの山の斜面で炸裂した。幸いというべきか、爆発威力の多くが都市中心部には放たれなかった。しかしそれでも三ヶ月以内の死者だけで3万人以上に達し、軍港も被爆して軍港としての機能を一時的に喪失した。
 そして日本は世界初の被爆国となった。
 世界初の核攻撃に際して、中華側は日本への懲罰だと全世界に向けて発表するも、世界中では一部軍部の暴走ではないかと強く言われた。戦略兵器である筈の核兵器使用が中途半端だったからだ。全面戦争する気なら、全力で攻撃を行うのが筋だからだ。
 しかし、DF-2(東風-2)はもう2発と実験段階以前と言われていたDF-3(東風-3)1発が同時に発射されていた事がこの前後に判明した。だが他の2発の東風-2は、発射及び弾道飛行に失敗して目標に到達しなかった。発射には成功した1発については、その飛翔ルートから廣島もしくは呉を狙っていたのではないかと言われている。
 実験段階だった東風-3は、恐らくはデータ不足から逆に飛翔しすぎて弾頭が目標の東京中枢部を通り越え、東京湾に落着するという結果に終わっていた。
 そして東京上空を通過した東風-3については、日本ばかりか米ソなど周辺各国のレーダーにも捉えられており、中華側が何を目的としていたかが明確となった。ただし日本にとって幸いな事に、東京湾に落着した核弾頭が起爆する事はなかった。核弾頭はそのまま東京湾に海没し、その後日本軍の手によって回収され、研究の後に破棄されたと言われる。なぜ起爆しなかったのかなどは、いまだ謎のままだ。

 中華側の先制核攻撃に対して、日本政府は最初は恐れ、そして怒り狂った。翌日の日本政府公報は、あらゆる報復が許されると、徹底した報復を世界に対して宣言した。被爆の状況も、テレビ映像で全世界に配信された。しかし日本は即時報復には訴えず、念のため各国の対応を見るようにその後数日は不気味に沈黙した。
 この間、ソ連が全てのチャンネルを使って日本に核による報復を止めるように強く要請し、逆に日本政府はソ連に対して全ての共産国による中華総攻撃を強く要請した。日本側は、中華は共産主義の裏切り者であり、断固として粛正されなければならないと言った。
 しかしソ連側は、条約機構を中心にして各国と対応協議すると返答。この返答により、日本は自力での対中華全面戦争を決意するに至ったと言われている。
 また世界世論も、日本に対して同情的な報道が多かった事が、日本の反撃を心理面で後押ししたのではないかとも言われている。
 なお、この時ソ連書記長のブレジネフは、アメリカとのホットラインで、自らの重要拠点が核攻撃を受けない限り自らは決して戦端を開かないことを伝えている。同時に、日中問題に関しては、中華を見放し流民がソ連領に流れ込まない措置を執る可能性があることを示唆していた。
 そして三日後の8月13日、中華政府は自らの国際政治上での不利と日本側の沈黙を見て、日本に対して話し合いによる国際会談を提案した。日本が核攻撃もしくは全面戦争を躊躇しているのなら、今が全面戦争を止める最後のチャンスだったからだ。
 しかし日本は、泣き寝入る気も無ければ、報復を躊躇したわけではなかった。日本は、軍国主義を背負ったままの社会主義国だった。
 日本は、ただ単に攻撃の準備とタイミングを計っていただけだった。

 8月15日、日本軍は報復攻撃を実施した。
 首都北京に対して、重爆撃機Tu-95Jベアを用いて核攻撃を実施したのだ。
 しかも使用された核兵器は原子力爆弾ではなく、より強力な水素爆弾だった。破壊威力は爆発規模から5メガトンに達すると見られた。
 この水爆を投下した爆撃機は、日本本土を飛び立った時は中隊規模の編隊に含まれていた。そして当初は人民朝鮮北部へ移動する予定の機体とされ、人民朝鮮側もそう考えたものだった。正規ルートで通達も行われていた。この頃頻繁に行われていた、単なる兵力の移動による抑止戦略だと見られていた。人民中華を始め各国の警戒も一応行われていたが、過度の物ではなかった。この時日本軍は、開戦準備とも取れる、攻撃行動以外の兵力移動をそこら中で行っていたから、全てを監視、追尾することが難しかったのも原因していた。
 しかし全ては欺瞞だった。
 編隊はそのまま朝鮮半島を素通りして、速度を上げて一気に北京上空へと入った。このため誰も阻止することができず、緊急迎撃に出撃した人民空軍も、日本軍機が3機編隊ずつで幾つもの編隊に分かれ、成層圏高くを亜音速近くで突進してきたためインターセプトは失敗した。
 そして今度は、水爆爆弾が史上初めて人の上で炸裂した。
 この爆発で北京は完全に壊滅。合わせて、日本軍は爆撃成功と同時に行動を開始し、各軍事拠点を爆撃もしくは海軍艦艇で攻撃した。日本側の攻撃が遅れた理由は、自らの報復による際限ない核攻撃の応酬を恐れたのではなく、自らの反撃体制が整うのを待っていたためだった。このため中華側から再度の核攻撃を受けた場合は、その時点での総攻撃を予定していたとも言われている。
 5メガトンの核攻撃で、北京の街の中心部半径5キロメートルの円内がほぼ完全に消滅した。破壊や壊滅ではなく、辞書通りの「消滅」だった。有効破壊半径も実験結果などからの予測通り10キロメートル以上に達し、短時間での死者は最低でも600万人以上に達した。中華側の当時の資料が失われたために細かい数字は不明だったが、推定では1000万人程度が短時間で死亡したと考えられている。二次災害やその後死亡した被爆者を含めれば、1500万人に迫るとすら言われる。日本攻撃に気勢を上げる赤衛兵が紫禁城に多数(数十万人)集まっていた事が、悲劇をより大きくしていた。
 爆心地近くの紫禁城は、丈夫な土台や礎石の痕跡を残して跡形もなく消滅した。爆心地となった中南海(政府中心部)は、跡形もなくガラス状の表層が覆う荒土と化した。
 また核爆発による電磁パルスによって周辺で全ての電子機器機が機能停止したため、爆発から生き残った政府・軍・党の施設も機能を成さなくなる。それ以前に爆発による熱や爆風で全てが吹き飛ばされていた。貧弱と予測される中華政府の持つ核シェルター程度では、例え破壊されなかったとしても、核爆発の影響が収まるまで生き残ることは不可能とも判定された。何しろ真上で大型水爆が炸裂したのだ。爆心地はかなりの時間灼熱地獄と化した。
 そして予測通りに、中華人民共和国連邦の中央政府がその後声明を発表する事はなくなった。中央部の指導者が公の前に姿を現すこともなくなり、中央官僚団、共産党中枢も消滅したと判断が下った。中華人民共和国連邦政府は、消滅したと判断が下された。また中華首脳部の消滅は、水爆だけでなく日本軍が各地の政府重要拠点、要人の個人的施設を徹底して攻撃したことも影響している。

 北京消滅と日本軍の総攻撃により、核攻撃直後から中央からの命令がとぎれたため、人民共和国、人民解放軍や各地の共産党の統制が無くなってしまう。国境線各地に展開していた人民解放軍の多くは、自らの郷里に自主的に移動開始した。大軍がひしめいていた満州は、極めて短期間で満州人民共和国固有の軍事力しかいなくなってしまう。
 なお核攻撃以外にも、日本の海空戦力が中華各地の軍事施設、研究施設、通信施設や、さらには共産党施設、重要工業設備、発電所、港湾設備、操車場、油井・炭鉱など、日本の脅威になりそうなものを、手の届く限り片っ端から吹き飛ばした。この攻撃で、日本軍の虎の子である空母機動部隊と戦略爆撃機が活躍した。特に核兵器関連施設の攻撃が重視され、放射能漏れや核事故も気にせず徹底的に破壊された。ただし核攻撃は、北京への一発だけだった。威力に格段の違いはあるが、報復攻撃としてのルールは最低限ではあったが守った事になる。
 その後、日本の核攻撃成功とその後の混乱を受けて、既に臨戦態勢にあった人民朝鮮軍が、同一民族救済を旗印に満州人民共和国に「武力進駐」を実施。兵力が激減し混乱する満州人民共和国は、まともに対応できなかった。対応すべき満州政府も、日本軍の爆撃で吹き飛んでいたからだ。かつて日本人が作った長春の軍司令部、党本部なども既に吹き飛ばされていた。
 そして他からの増援もまったくないため、50万人以上の軍隊で侵攻してきた人民朝鮮軍の占領下に置かれる。
 その後人民朝鮮は、年内に満州人民共和国の併合を宣言した。混乱が酷かった現地も、むしろ朝鮮の侵攻と統治、そして併合を歓迎した。ソ連も、今後の混乱が確実な中華と接する国境が減るためこれを黙認した。
 なお、満州人民共和国が呆気なく崩壊したのは、朝鮮の軍事力が予測よりはるかに大きかった事もあるが、北京が満州固有の軍事力を常に制限し、さらに文革の破壊の対象とされて荒廃が進みつつあった事も強く影響していた。
 ちなみに、この時の米軍は、日本軍との戦闘に関われば核攻撃を受ける可能性が高いとして、必要以上に戦闘地域には入り込まなかった。日本との戦争になった場合、最終的に勝利できるのは間違いないが、それまでの犠牲者の数とベトナム戦争での政治的状況を加味すれば、とてもではないが武力介入は選択できなかった。
 また日中の核兵器使用が、その後ベトナムで核兵器が使用されなかった大きな理由だと言われている。

 戦後中華:
 戦後、中華各地の人民共和国がそれぞれに独立宣言した。さらに各地の軍閥が独立宣言や自活状態に入り、大規模な内乱となった。文革で既に荒れていた中華の大地は、よりいっそう荒廃していった。そして軍閥に率いられた中華各地が勝手に独立を宣言して四五分裂の状態となり、長い時間をかけて最終的に5つの政治組織に統廃合されていく事になる。そうして各地の人民解放軍と赤衛兵との衝突などもあって、中華全土が内乱から内戦化した。
 戦闘は、共産党支配の崩壊からか、近親憎悪のためか、それとも文革最盛期の悪影響が残っていたためか、激しい殺戮戦や浄化戦争となった。また、初期の日本軍の攻撃と戦乱により流通網が破壊されたため、各地が飢餓状態となって餓死者が続出した。物流の途絶えた都市の荒廃は特に激しかった。疫病もはやり、さらにはインフルエンザが猛威を振るった。
 そうして当時8億人に達していた総人口は、内乱の続いた僅か数年の間に約半数の4億人に激減したと見られた。都市の多くも破壊と略奪、住民の離散で荒廃し、中華全体が遅れた農業国家へと転落していた。
 この間、東トルキスタン、内蒙古にソ連軍が進駐し、最低限の安全保障を提供して勢力圏に組み込んだ。ソ連の目的は、自国に流民を入れないために緩衝地帯を得ておくことだった。また台湾を有する琉球は、共産主義を見限ってアメリカとの関係を急速に進展させ、以後アメリカの勢力圏となった。
 そして1972年の時点で、国連総会の満場一致で国連軍の介入が決定され、ソ連各国境や何とか保持されていた香港などから国連軍が中華各地に入った。これで日本が、北京に対してどの程度の核兵器を使用したかが完全に判明し、改めて日本への非難が高まった。戦争や報復そのものは国家の権利だとしても、中央政府の存在する大都市への大威力水爆の使用は、戦争行為としても逸脱しすぎているとされた。特にアメリカは、自らのベトナムでの戦争と敗北を国民の目から逸らすため、ことさら生き残った日本への批判を強くした。
 また人民朝鮮の支配下に入った満州人民共和国は、そのまま人民朝鮮領高句麗自治州と名を変えたが、朝鮮軍が万里の長城付近を完全封鎖したため、皮肉にも荒廃は最も小規模だった。
 そして1972年、中華地域での戦争状態は自然休戦を、軍を投入した国連が宣言。さらには、中華自民民共和国連邦の消滅を確認。戦乱と飢饉、社会基盤の崩壊で、総人口の半分近くに当たる4億人が死亡したと推定された。

 戦後日本:
 日本に対しては、1969年の核兵器報復が敵首都への水爆使用だったため、第三世界を中心に国交を持っていた国の多くが国交を断絶した。ソ連を含めた東側諸国は国交断絶こそしなかったが、交流は東欧諸国を中心にほとぼりが冷めるまでは最低限となった。報復とは言え、相手国首都を水爆で吹き飛ばす全面戦争は流石にまずかった。東欧を始め欧州各国は、ソ連や西側の核兵器保有国に対する恐怖を強くしたからだった。
 アジアの他の共産国は、当初は助けてもらった人民琉球と親密な関係だった人民朝鮮が国交を保ったが、琉球はアメリカと急速に和解したため日本の側から交流を絶つことになった。また人民朝鮮も、満州への侵略で各国との国交が大きく後退していた(※人民朝鮮は、民族自決国家として早くから国連に加盟していた)。
 戦後日本は、各国との国交が大きく後退したため、経済的な困窮に見舞われた。特に東側陣営との交流減少によって食料輸入が滞ったため、国内の食糧供給が危機に陥っていた。国内の食料自給力が8割程度だったため、国民のかなりの数が飢餓線をさまよう状態までが予測され、日本国内は食糧危機が叫ばれた。
 これを見かねた人民朝鮮が、国交を維持していた事と満州を手に入れた事から日本との貿易を大規模化する。人民朝鮮は、人道支援と日本の暴走抑止を強調して国際非難をかわすと共に自国評価を挙げるように動き、日本からは様々な物を得ると共に日本への大きな貸しを作った。しかもその後、満州を握る人民朝鮮は日本にとっての生命線となり、両者の関係は友好的ながらも微妙なものとなっていく。日本から人民朝鮮への「援助額」の大きさと人民朝鮮での核兵器開発の進展、海軍の発展が、その微妙さをよく現していると言えるだろう。
 そして水爆まで使用した国として国際非難にされされた日本は、国連への加盟どころか再び世界中から非難の対象として見られるようになる。さらには、水爆を使用したとして恐怖の対象としても見られるようになった。特にアメリカは、自らのベトナム戦争での批判を、日本への批判へとすり替えるべく強力に運動していた。
 当然ながら日本は国際孤立を深くして、噂が沈静化して東側諸国との交流がある程度回復してからも、国連加盟を認められることはなかった。
 そして以後の日本は、東側でも特に凶暴な軍事国家として位置づけられ、大日本帝国から何ら変わりない「悪の帝国」として定義付けされるようになる。
 当然ながら、中華の生き残りからの恨みはもはや天井知らずとなり、日本国内もしくは海外での対日中華系テロはその後日常のものへと変化していく。



●フェイズ7「ザ・ディ・アフター2 「日本孤立」」