■フェイズ04「古代2・大和朝廷の侵略」

 7世紀半ば以後、北太平洋の過酷な海の道を克服しつつ、細く緩やかな竜宮と日本との交易関係と交流が数百年間続いた。しかし日本(大和朝廷)側の事情で、竜宮との交流が活発になる。
 9世紀末、西暦894年の遣唐使廃止が原因だった。
 中華大陸で唐が衰退してついには滅び、交流相手がいなくなったための変化だった。実際、最後の遣唐使は840年の帰国をもって、停止していた。
 遣唐使の廃止は、先進地域との文物の交流の停滞をもたらすと同時に、日本独自の文化を育てる時期ともなったが、中華地域との一時的な外交関係の断絶状態は日本に一つの機会を与える。自らを中心とした、擬似的な中華帝国の真似である。律令体制の確立と、総人口が800万人になり平安京の人口が15万人にも達した物理的な要素が、少なくとも日本中央の一部に中華的考えの実行を促していた。
 そして9世紀初頭まで行われた蝦夷に対する北進が気候的に難しいと判断され、奄美大島(徳之島)の向こうにある南の琉球には国家と呼べるものはない上に土地が小さすぎ、ある程度の国家的な社会を構築しつつあった竜宮が注目されるようになった。竜宮が、日本にとっての新たな東夷と見られるようになったのだ。(※以後、蝦夷の残党は「北狄(ほくてき)」をもじって蝦狄(えしゅう、エシ)とも呼ばれるようになる。)
 そしてこの東夷という方向と四神(東の青竜(せいりゅう)・南の朱雀(すざく)・西の白虎(びゃっこ)・北の玄武(げんぶ))の関係もあって、ここで竜宮の名が定着するようになった。
 なお日本では、自分たちの読み方で竜宮を「リュウグウ」と呼んでこの名が中華世界を介して世界的にも流布していったのだが、竜宮人の用いる漢字は仏教僧が伝えた中華伝来の漢字の読み方が重視された、というより竜宮にない単語や語彙が即物的に取り入れる事が多かったため、「ロング」もしくは「ロングゥ」と読む。ただし竜もしくは龍を現す「ロン」は、文字の伝来以前から言葉として用いられているため、中華地域からの移民がこの言葉を古くに持ち込んだと考えられている。他の動物ばかりでなく名詞の多くが、中華風の読み方が多い。

 話が逸れたが、日本の動きによって竜宮との間の日本優位での朝貢関係が徐々に重視されるようになり、あわよくば大和朝廷の影響力を拡大させるという流れが強まっていく。
 しかし竜宮は物理的な距離が遠いため、大和朝廷の影響力拡大には、短期間での侵略ではなく大規模な入植が必要と判断された。何をするにも自分たちの足場を作らなければ影響力の拡大や侵略はできないし、足場を作ることで文明と人を浸透させやすく、勢力も広げやすいと考えられた。太平洋の果てに大艦隊を仕立てて攻め込むなど、この時代の日本では夢物語以上の事業となるからだった。
 このため、まずは竜宮の現地豪族に技術や文物とバーターの形で日本人移民を受け入れさせ、時間をかけて自らの勢力を増やすことから始められた。日本からの入植事業も、無理矢理の移民や奴隷の移送によって行われた。開発のための役人や技術者、場合によっては貴族すらも送り込まれた。東の果ての大地に知識と教えを伝えるべく、心ある僧侶達も果敢に海を渡っていった。一攫千金を夢見た人々も、黒潮の流れに乗って旅立った。
 そして約半世紀間の長い地道な努力によって、植民と人口拡大、開墾、開発を行い、竜宮人に警戒感を持たれるまでの日本人勢力を作り上げる。
 大陸様式を真似て、堅固かつ可能な限り大陸風の雄大さで作られた竜宮城を中心として、数にして2万人程度の大和入植地(竜宮府もしくは竜府)となっていた。
 しかも大和朝廷の側は、結束力、技術力、軍事力で竜宮人に対して懸絶した差を持っているため、その力は単純な人数の差で計れるものではなかった。日本で勃興が始まっていた、戦うことを専門とする侍(武士)も屯田兵として竜宮に送り込まれ、徐々に竜宮各地で衝突も発生するようになった。
 一方では竜宮全体の人口も、日本から持ち込まれた新たな技術(より高度な鉄製農具の普及や農業技術など)と開拓の促進、自然増加によってさらに増加を続けていた(※総人口は10世紀半頃には約50万人)。だが竜宮人の文明レベルは、いまだに日本の古墳時代にも達していなかった。それどころか、せいぜいが邪馬台国レベルの国でしかななかった。しかも竜宮人全体としての統一が取れていない上に、現地の大和朝廷におもねる者も多く出た。
 なお、農耕文化に加えて家畜(主に豚)を飼い、狩りを行うなどで恒常的な獣食文化を維持し続けていた竜宮人の方が体格は大きかった。加えて人が利用可能な平地に対する人口密度の違い、住環境の違い、食生活の違いからカロリー摂取量も多かった。南部が日本人との取引と北部の穀物と交換するため広く行った砂糖栽培も、竜宮人のカロリー摂取量増加につながっていた。竜宮人は、食品としての砂糖の一般への流通と普及に従い、既にある程度の甘い食べ物、つまり高カロリー食品を摂取するようになっていたからだ。ただし、砂糖の製法はこの時点でも日本人に教えられることはなく、南部の島々に住む人々の極秘事項であり続け、南部の人々のアドバンテージとなっていた。
 加えて、遣唐使によって日本に伝わりさらに竜宮に伝えられた各種乳製品についても、羊と山羊の飼育(牧畜)などにより一般的な食材としての地位を得ていた。特に魚介類によるタンパク質を得にくい竜宮本島の内陸では、肉食や乳製品利用の傾向が強かった。また豚の飼育も、野豚の狩りから飼育・牧畜に移行しており、一般的な冬の食材になっていた。この頃は、同時期のヨーロッパと同様に、ドングリの林での放牧が盛んに行われていた。また食習慣そのものは、日本よりも中華地域に近かった。
 そしてこの頃には、日本人が仏教の教えに従って獣肉を食べることをしなくなっていたので、竜宮に住む日本人もほとんど獣は食べず、竜宮人と日本人の体格差は尚更開いていた。獣肉を食べないため、日本人入植地は魚の得やすい地域に存在したほどだった。また屈強な竜宮人を雇う現地の日本人の上流階級も多かったと記録されている。

 大和朝廷による竜宮入植開始以後、日本列島から遠く離れた竜宮では、現地にやって来た新たな日本人と、日本でいうところの弥生時代から住んでいる竜宮人との間での衝突の増加が、交流の活発化と並行するように活発になっていった。
 しかし、侵略や浸透を前提に入植した新たな日本人達だったが、日本列島と頻繁に交流するには当時の技術では竜宮はあまりに遠く、大和朝廷との深いつながりを保つことは不可能だった。当時の日本人の間隔では、竜宮はまさに地の果てだった。
 京の都から派遣された役人も、一度竜宮に行けば帰ること難しかった。命がけでやって来て、さらに命がけで帰りたがる者は少なかったからだ。加えて日本人は、竜宮人のように見た目に頼りない粗末な小舟(アウトリガーカヌー)で太平洋を押し渡る者はほとんどなく、蛮族の技術だとして技術も得ようとしなかったため、竜宮人よりも危険な航海を行うしかない状態が続いた。このため情報や小規模な交流では、依然として竜宮人の方が多くのものを得ており、この頃には風と海流の流れに沿って、琉球諸島にも竜宮人が訪れるようになっていた。つまり竜宮人も、日本人以外の人と交流を持ち始めていた事になる。
 そうした状況で大和朝廷は、入植から半世紀頃を境として徐々に強硬な意見、無茶な要求を竜宮の大和入植地(竜宮府)に行うようになり、日本人入植地の中でも日本列島(大和朝廷)に対する不満が大きくなった。
 加えてその頃になると、日本の関東地方を中心にして武士の反乱が頻発して、日本と竜宮の航路も閉ざされがちとなった。たまに来る大和朝廷の船団も、文物を運ぶことよりも兵士を載せて至った。さらに、役人や貴族の使いが竜宮の富を税として取り立てに来るかたわら、さらなる富や一日も早い竜宮の征服を言うだけだった。積み荷を少なくして兵士(武士)を乗せた船は、年を増すごとに増えた。
 加えて、たまにぼろ船で竜宮にたどり着く者は、大和朝廷からも追われた武士だったりと、大和入植地での日本列島に対する反発を強めさせる要素が強まっていた。ちなみにこの落ち延びた武士の中には、日本の関東平野で反乱を起こした平将門がいるという伝説が日本の側に存在している。
 そして竜宮府は、結局は大和朝廷の命に逆らうことはできず、要請した増援部隊を乗せた船団(艦隊)が到着すると、遂に竜宮との抗争を本格化させる。
 西暦にして965年の事であり、以後二十年近く小さな竜宮の世界は、戦乱に揺れることになる。

 当初の戦闘は、本土からの増援も得て奇襲にも成功した大和入植地の優位に進んだ。戦闘を専門とする武士を中心にした大和朝廷軍は強力であり、竜宮人が奇襲や騙し討ちなど戦争行為そのものになれていなかった事も重なって、竜宮人側は敗退を続けた。大和朝廷軍はすぐにもいくつかの小王国(豪族)を滅ぼすか服属させ、竜宮本島の半分近い勢力圏を短期間で作り上げた。
 一方で大和朝廷側も、竜堂一族を中心にした竜宮側の主要勢力を倒すには至らず、短期的な決定打に欠けていた。小さな島々で構成される南部も、日本人の航海技術の欠如から征服どころか進出にすら至らなかった。また大和側は、急速に支配領域が拡大したため統治や支配が行き届かず、当面は侵略の継続よりも新たに得た領地の安定化に力を注がねばならなかった。
 しかし侵略がある程度成功した事が分かると、日本列島はさらなる増援や支援を送り込む事よりも、竜宮の物産を頻繁に求めるようになった。しかも竜宮負担(造船)により物産が運ぶ事まで命令されたため、占領地域は疲弊する一方だった。このため竜宮の大和勢力は、竜宮人を懐柔するよりも支配を強化する事になり、安定化にはほど遠い状態が続いた。
 一方文明の差から負ける一方の竜宮側だが、侵略に対して地域及び民族全体の団結に向かった。そして以前から一番大きな勢力を持っていた竜堂一族を中心に一つの方向に向かい、983年に「竜宮王国」の成立を日本に対して宣言した。
 国家は祭祀的な面を重視した、邪馬台国から古墳時代の大和朝廷程度の遅れた国家だが、一部には当時の大和朝廷の政治制度も取り入れられていた。また軍事力の面では大きな変革と発展が見られ、軍事技術の格差は数の優位を使えば十分に覆せるまでに成長していた。特に鉄を自力で大量に生産するようになった効果は大きく、東部平原の騎馬と組み合わせる事で、日本的ではない軍隊を急速に整備した。またこの時点で、広範な分野で優れた知識を持つ者が竜宮の側に存在していたと考えられている。これがいったい誰なのかは歴史の闇の中だが、単なる伝説上の人物でないのは歴史が証明している。軍事を中心にした様々な知識を竜宮人に広め、竜堂一族のもとで戦争を指導したことは間違いない。この人物は、古代竜宮史でも「軍師」や「大臣」として記録されている。しかしこの人物は、自ら権力を握る事はなく、安定の到来と共に記録の中から消え去っている。一部では、安定後の暗殺説も存在する。
 話が少し逸れたが、建国宣言の翌年の984年、竜宮側は大和朝廷側の竜宮府に対する全面攻勢に打って出た。同時に、大和朝廷側の支配領域での大規模な反乱も行われた。原始的とはいえ軍勢の数は数万にも及び、各地での反乱のため大和朝廷軍は、兵力がいくらあっても足りない状態となった。しかも竜宮側の精鋭部隊は日本の武士と互角の戦いを演じるようになっており、「戦士」や「勇士」という記述が文献にも多く残されている。中でも「星の戦士」と通称された者の名が数多く登場して活躍が記録されており、彼の率いた少数の部隊は数多くの伝説を成し遂げたとされ、今日にも古代の年代記から今に伝わるおとぎ話に至るまで、数多く語り継がれている。
 それでも大和朝廷側は武士団を中心にして踏みとどまったが、大和朝廷側の強権支配や日本列島に不満を持ち続けた大和朝廷(竜宮府)側内部の裏切りもあって、大和朝廷側は北西部で行われた「大林原の戦い」で敗北する。その後竜宮府の本拠地竜宮城も炎の中で落城して、大和朝廷側の役人と武士の殆どが殺され、僅かな者だけが降伏を許された。降伏が許されたのも、主に交渉役や知識人の仏教僧と様々な分野の職人や技術者だった。
 また入植者でも農民については刃向かわない限りは助命されたが、多くの男が無理矢理兵士に取られて既に殺されていたため、その後竜宮側の同化政策の中でほとんど消えていく事になる。
 そして混乱の中で一部の者が残された船で逃れ、一路日本列島への逃避行を行おうとした。しかし季節は春で貿易風の向きが相応しくなく、また竜宮側も徹底した掃討と島から出さない方策を講じたため、日本列島に事の経緯が伝わることはなかった。

 翌々年の986年冬、戦争を始めた筈なのに連絡が一つも無いことに疑問を持った大和朝廷が、丁度竜宮の物産が不足してきた事も重なって、竜宮諸島に念のための武士団を伴った船団を派遣した。そして船団が無事竜宮に着くも竜宮府は既になく、竜宮府の本拠地だった竜宮城は竜宮王国の臨時の都とされていた。
 しかも船団は、すぐにも竜宮の武装した粗末な小舟(アウトリガーカヌー)の群に取り囲まれ、身動きが取れなくなった。しかしこの時は大和朝廷側の態度が賢明だったため、戦闘に発展することはなく何とか上陸して話し合いをする事になった。
 上陸を許された大和朝廷の役人は当初権高に罵ったりもしたと記録に残されているが、竜宮側の対等の立場での交渉以外受け付けないとする態度を前に引き下がらざるを得なかった。連れて行った武士団も護衛用の数十名なので、圧倒的な数の差を前にしては何かができるわけもなかった。彼らは帰るまで竜宮側に軟禁され、翌年夏に竜宮側の要求を持って日本に帰った。しかし、この船団は不幸にも嵐に巻き込まれ、1隻も日本列島に帰り着くことはなかった。船団丸ごとはともかく、当時はよくある難破事故でもあったが、使節が帰らなかった事は大和朝廷の警戒心を大きく上昇させることになる。
 今度は、武士団数百名を伴った大規模な船団(軍船を含んだ艦隊)が編成され、早くも988年に竜宮諸島へと向かった。
 そして大和朝廷の艦隊を発見した竜宮側は、大和朝廷の攻撃を強く警戒していた事もあって、竜宮にたどり着いた大和朝廷の船団に対する攻撃を開始した。相手側の船に兵士(武士)が多数見えた上に向こうから攻撃をしかけてきたのだから、遠慮する事は考えられなかった。
 かくして、大和朝廷と竜宮側の初めての海戦が行われる事になった。
 この戦いでは、戦闘になるにしても海上での攻撃はないと思いこんでいた大和朝廷側が、竜宮の小舟の群を見て恐慌状態に陥って不用意に攻撃を仕掛け、その時点で戦闘となった。
 そして迎撃準備を整えていた竜宮側が総攻撃を行い、準備のない大和朝廷側の艦隊は散々にうち破られた。主に竜宮側の小舟による相手側への乗り込みと、火矢などによる焼き討ちにより、海での戦闘を予期していなかった大和朝廷側の艦隊は呆気なく全滅する。船団は、全て沈められるか捕らえられた。
 船団に乗っていた武士多数を含む1000名近い日本人の半数以上も死亡し、生き残りの多くも竜宮側が敢えて殺さず捕らえた水夫達がほとんどで、他も役人や従軍していた僧侶、通詞(通訳)しか残さず、武士は竜宮の戦士にほぼ皆殺しにされたと考えられている。
 なお当時の船の乗員は、全体の三分の二ほどが船を操ったり修理するための水夫で、全長30メートルほどの船に1隻に120名程度が乗船した。一人当たりの床面積は畳一畳もない狭さで、この狭い船内で長い場合は2週間近い航海に人々は耐えた。竜宮向けの丈夫な大型船の場合は平均乗組員数は150名程度で、中には200名近くが乗り込める大型船も存在していた。この時も十数隻の艦隊を組んでいたとされるが、武士の数は1000名の中のせいぜいが300名程度だったと考えられている。
 そして当時の竜宮は、長い戦乱で軍事態勢が強化されている事もあり、首都とされた竜宮城には常に1000人以上の戦士(兵士)が滞在していた。水軍の数も、海のエキスパートである海士を中心にして、漁民や海賊などを総動員すれば数千人を数えた。王国の全てを合計すれば、戦闘力はともかく5万人以上の兵士を揃えることが人口学上では可能であり、この時代に対抗可能な侵攻部隊を一度に送り込む能力は大和朝廷には存在していなかった。
 この時の無謀な遠征も野心的な侵略行動ではなく、存在している筈の拠点に対する援軍や増援を目的としたものであり、尚更竜宮府の全滅と敵の海上での奇襲攻撃は想定されていなかったものと考えられている。


●フェイズ05「中世1・国の形成」