■フェイズ07「中世3・源平合戦と竜宮」

 12世紀半ばの西暦1159年、日本では「平治の乱」によって源氏と平氏の戦いで平氏が圧倒的優位に立った。平清盛という優れた指導者に恵まれた事もあり、平氏の権勢はそれまでの朝廷に代わって武士が実質的な政権を担う時代をもたらす程になる。
 しかし公家(貴族)の勢力はまだまだ強く、各地での戦闘行為に敗れた源氏も地方で勢力を蓄えようとしていた。奥州藤原氏も半ば独立したような状態であり、平家は武威を示すことで権勢を維持しなければならなかった。そうした中で日宋貿易の拡大を計ったが、ここで第三者に注目が集まった。

 平氏の権勢が強まる中、中心人物となった平清盛は、終始竜宮との貿易促進による勢力拡大を一つの目標としていた。竜宮側も日本の貿易拡大に好意的で、平氏との関係を強めた。
 しかし竜宮の動きには、日本側が感知していない情報が数多く含まれていることが、朧気ながら見えてくる。
 竜宮王国は、日本との貿易を行う傍ら、琉球地域の一部を拠点として、宋や琉球よりさらに南方との交易を行っている事が分かった。中継基地として、日本が知らない伊豆諸島の島に拠点を持っている可能性も高く、さらには琉球諸島の一部には移民まがいのことまでしている可能性が指摘された。貿易の規模と行き交う船の数が、その事を教えていたからだ。
 そして日本は宋との貿易において砂金、漆器、木材、鉄製品などを輸出していたが、竜宮は豊富な各種宝石を貨幣の代わりとして大陸に持ち込むことで日本よりも大きな優位に立っていた。中華側が砂金よりも各種宝石に興味を向けており、宝石は持ち運びやすい換金価値の高い商品だった。竜宮の交易活動は日本の貿易にも悪影響を与えており、11世紀以後150年以上にわたって貿易以外で強く意識しないようにしていた両国の関係は徐々に悪化した。
 そこに平氏の台頭と平氏が武威を示す必要性に迫られた事で、竜宮に対する仕置き(対策)が必要との判断に至る。
 しかも日本人にとっては、日本語とよく似た言葉を話す東の民が日本に服属していない事は、かつての侵略の失敗もあって、長年外交と内政双方において気に入らない事だった。この点からも、竜宮は日本の管理下、最低でもより強固な朝貢関係にあるべきだと言うのが京での一般的な意見だった。
 加えて竜宮なら、万が一の事態つまり日本側の侵略戦争が発生しても、中華王朝を始め他の国が文句を言うという可能性が極めて低いのも大きな魅力だった。少なくとも日本人のほとんどがそう考えていた。
 しかし日本人は、一度竜宮に対する侵略が失敗したことは覚えていた。あまりにも遠い(約3000キロ)ので、海流と風を使っても大規模な侵攻部隊を送るのは、まだまだ極めて難しかった。例え侵略を成功させても、継続的に支配することが難しいのも物理的に分かっていた。しかも仮に侵略が成功して日本人が竜宮を支配しても、竜宮の新たな支配者として現地の日本人たちが独立する可能性すらが考えられた。しかも、既に竜宮の方が高性能な船を建造しているとあっては、武力侵攻や侵略は不可能に近かった。
 だが竜宮には、既にアキレス腱が存在している事に日本人達は気が付く。
 竜宮王国は、海外貿易に広く手を出しているため、外部から様々な文物を手に入れることが国家運営に欠かせなくなりつつあった。そして日本の辺境各地や琉球には竜宮人の拠点が設けられており、日本の貿易港にも竜宮人が住んでいる事があった。これ使って、竜宮をコントロールできる可能性があったのだ。

 そこで平氏は、竜宮王国と日本の勢力圏下にいる竜宮人に、日本の土地を利用している対価に似合った税(通行税と使用税)を払うように言い渡した。その対価は法外とは言わないまでも高いものであり、竜宮側に不満が高まった。かつての記憶も呼び起こされ、さっそく軍隊の準備が竜宮本国で始まったりもした。しかも広く交易したことで海賊対策も行っていたため、竜宮の海上戦力は既にかなりの規模になっていたのでその規模は日本人の予想を遙かに上回っていた。
 竜宮側の実状を、日本人はほとんど知らなかった。
 平氏側としては、払えばよし、払わなければ実力に訴え出るという程度のものだったが、この時は竜宮から交渉のための王国の使節がやって来くる。竜宮側も、戦争よりもまずは話し合いの可能性を模索した。このことは、当時の日本にとってはむしろ幸運だったと言えるだろう。
 そして平氏との交渉において、平氏との貿易優遇と竜宮から日本側への特産品の朝貢によって問題は解決された。朝貢による対価も当初の税に比べると低くなり、数年後には平氏に賄賂を多く流す事で半ば有名無実化していくようにすらなっていく。
 この後平氏は、対竜宮貿易で大きな利益を上げるようになった。日本全体を揺るがすほどの財ではないのだが、朝貢という名目的な状況もあって平氏に力を与える一つの要素となった。平氏一門や宮廷という狭い範囲に限ってしまうと、その財の積み重なりと効果は大きかった。竜宮の対日本貿易を平氏が握ったという事は、公家の間に出回っていた竜宮産の贅沢品、特に宝石や砂糖が平氏を介してしか手に入らなくなったからだ。また平氏は、対竜宮貿易での利益を宋との貿易に投入し、富の規模を増やした。
 一方で、平氏に税を支払わされた竜宮だったが、かえって日本で堂々と動くことができるようになった事による利益の方が結果として大きかった。当時から問題となっていた航路防衛(海賊対策)を平氏に依頼することも出来るし、平氏が開いた福原などの新たな貿易港も使えるようになった。その使用料と思えば、平氏に渡す財などたかが知れたものだった。
 そして1160年から以後約20年間は、実質的に平氏と竜宮の蜜月時代となった。
 しかし源氏が勢力を盛り返し始め平清盛が死ぬと、平氏と竜宮の蜜月にも陰りが見えた。源氏の拠点が伊豆半島だったため、その先にある伊豆諸島の支配権を源氏が平氏から奪いに来て、竜宮にも自分たちとの関係強化を要求してきたからだった。
 この時竜宮は、しばらく伊豆半島から撤退する事を選び、多少の不便を忍んで琉球諸島に拠点を集め、一部が種子島などにも拠点が置かれた。竜宮としては、すぐに武力に訴える野蛮な源氏よりも、話の通じる平氏を選んだとも言えた。
 しかし竜宮人が日本近辺での航路を再設定している間に、見る間に平氏は勢力を失っていった。この数年間の竜宮は平氏に対する武器商人のような立場になり、主に日本よりも優れた船舶を多数売却した。これらの船の一部は実際に平氏によって戦闘で使用され、その優秀性を示した。特に竜宮の船は過酷な太平洋での航海を目的としているため航海性に優れ、日本近海でも海流に左右されにくい高速の帆走船(以後:竜宮船)として重宝された。特に高速連絡船として使われた事が、文献や資料に残されている。もっとも、日本人は船の模倣を行うことはなく、竜宮の船は単に使い潰されただけに終わっている。これは、沿岸部で行う戦闘には、船の形式が相応しくなかったからだった。そして当時の日本人のほとんど全てが、海外に出ていくと言うことをほとんど考えていなかった。

 話が逸れたが、竜宮の存在は日本での勢力争いと戦争の流れそのものを変えるには至らず、平氏は敗北を重ねた。瀬戸内海からすら追い出された平氏は、最後の戦いでは竜宮から得た船の多くに財産と一族の非戦闘員を乗せて、一種の疎開船団に仕立ててしまった。
 1185年3月に壇ノ浦の戦いで平氏が破れると、平氏残党の操る十数隻の竜宮船が北九州から種子島に設けられていた竜宮人の中継拠点に逃れてきた。風を捉えることを重視して外航能力に優れた竜宮船は、容易く源氏(日本の水軍)から逃れることができた。
 そして竜宮側としても懇意にしていた平氏の残党を見殺しにすることもできず、補給と修理を行うと先導船を仕立て、まだ残る北西季節風と偏西風に乗って竜宮へと連れて行った。
 ただし水面下では源氏との交渉を行い、海賊衆を率いて追撃してきた源義経に、平氏が持って逃げていた日本の権威の象徴である三種の神器を返していた。平氏残党は異常なほど反発したが、源氏ではなく朝廷と天皇家に恩義を売る手段であり、また平氏残党を竜宮側が助ける交換条件だとして強引に受け入れさせた。
 このことは、竜宮が日本の内政に干渉する気がなかったからだった。竜宮人は、日本人独特の考えに基づいた戦争や政争に関わったらロクな事はないと見ていた。そしてこの時は、三種の神器などの返還に合わせて、あくまで個人的関係によって平氏の残党を助けるのだという書状を源氏や朝廷宛てに添えている。また別ルートで、京の都にも密使が派遣され様々な言葉が公家達に投げかけられた。
 しかし竜宮側は、源氏が自分たちや平氏をそのままにするとは考えず、本国では戦争準備を進めつつも戦闘以外で源氏の足を引っ張る事を画策した。源義経に三種の神器を渡した理由の一つも、源氏内での勢力争いを誘発させるためだった。また奥州藤原氏との結びつきも強めるようになり、源氏を牽制した。公家への工作も強化され、大量の賄賂が積み上げられた。そもそも平氏の残党を助けたこと自体が、日本の意見を分裂させる手段として有効ではないかと考えられたからだった。
 そして竜宮との接点を図らずも持った源義経が反乱を起こして失敗して逃亡すると、これにも援助の手を差し伸べた。奥州藤原氏が整備した環日本海航路を使い、竜宮の船(軍船)が日本各地に入り込んだ。
 そしてこの後、源義経は藤原氏によって殺されたとされているが、竜宮の船で竜宮に逃れたとも新天地に旅立ったとも言われた。しかしその後竜宮側の文献など各種記録にも登場しない事から、少なくとも竜宮に落ち延びた可能性は低い。源義経がアイヌに多くの知識を教えたとも言われているが、源義経よりも各地に赴いて交易を行っていた竜宮人が、知識や技術、文物を伝えたと考える方が自然だろう。

 竜宮が試練に立たされたのは、藤原氏がほとんど何の抵抗もできないまま滅び、1192年鎌倉幕府が成立してからだった。
 竜宮は簡単には侵略されない場所にあるが、日本の全力をあげれば攻め込むことは不可能ではないと、少なくとも竜宮人は考えていた。何しろ先の戦闘は、主に海上で行われていたからだ。
 しかし実際の日本は、軍船といっても沿岸や内海用の小舟ばかりで、外洋航海ができる軍船はほとんど保有していなかった。海上で大規模な戦闘を行えるほど多数存在した日本の海賊衆も、近海以外では竜宮商船を襲撃することすら難しい船ばかりだった。何しろ日本海賊のもとを辿れば、そのほとんどが各地の漁民でしかなかったからだ。また日本の商船の一部は竜宮にまで至っていたが、それはあくまで商船であり、航海性能と耐久性を重視していて速度や敏捷性は、とても戦闘に耐えるものではなかった。
 竜宮では自らの必要性から、陸軍がおざなりのまま商船と共に軍船も発達していたが、この当時の日本は海上戦闘力は、沿岸海賊に毛が生えた程度でしかなかった。無理して太平洋を押し渡った俄軍船がどういう末路を辿るかは、過去の事例が示していた。
 それでも日本人は、竜宮にこだわった。
 鎌倉幕府が派遣した船団が竜宮にやって来て、まずは平氏の残党と源義経の引き渡しを要求してきた。これに対して竜宮は、平氏は竜宮の客人であって渡すことはできず、源義経は存在すらしていないと要求を拒絶した。鎌倉幕府の使いは激怒したとされるが、多数の軍船を出して警戒を露わにする竜宮側に強硬手段を取るわけにもいかず、返書を得て引き上げると伝えた。
 しかし風が変わる夏まで日本への帰路を待たねばならないので、他と同様に半年近く幕府の船団は竜宮に滞在する。
 ここで問題が起き、何もしないまま追い返されたとあっては言い訳でできないため、幕府の役人や武士が竜宮国内を無断で歩き周り、これを竜宮側が捕縛して問題が複雑化した。
 しかし双方共に、現時点でこれ以上問題をこじれさせることは好ましくないと合意に至り、この時は何とか日本に帰っていった。
 しかし秋に報告を受けた幕府側は焦りを強め、3年後に軍船を多数仕立てて何としても平氏残党と源義経を引き渡させるため再び訪れようとした。この時は久しぶりに艦隊を揃えることになり、このため出発にも時間が取られた。太平洋を押し渡るためには、急増の軍船や安易な徴用船では無理だからだ。とはいえ侵略のための軍隊ではなく、威圧のための軍隊であり規模は限られたものだった。何しろ本格的に侵略するだけの金は、鎌倉幕府にはなかった。
 そうして5000の兵を乗せた鎌倉幕府の艦隊が伊豆諸島の八丈島に集結して出発する。
 だが竜宮側が出迎えたのは、航海中に嵐(低気圧)に直撃されて壊滅的打撃を経て、何とか生き残った日本艦隊の残骸だった。数は出発当初の三割以下、乗組員は二割を割っていたと記録に残されている。多くの漂流物も、竜宮各地の海岸に打ち上げられた。
 結局この艦隊は、竜宮側の助けを得て残った船を修理して引き上げる以外の事ができず、これ以後平家の落人問題はうやむやとなった。
 鎌倉幕府側も莫大な経費と人員をかけた行いの結果に消沈し、日本から竜宮に逃れた者が二度と日本の土を踏まなければ良いと最後に使いを出して一方的な問題解決とした。

 なお、平氏残党が数百名も竜宮に落ち延びてきた事で、当時の日本で最先端だった文化が竜宮に広く伝えられる事になった。京を知るものが、これほど一度に竜宮を訪れたのは初めての事だった。そしてこれこそが、竜宮が平氏残党を助けた理由の一つだった。
 それまでに日本や大陸の文物を断片的に手に入れていた竜宮だったが、竜宮全体として余裕がないためによく言えば質実剛健もしくは実利主義であり、別の面から見ればあまりにも味気ない文化しか持っていなかった。
 しかし平氏残党がもたらした日本の宮中文化が伝えられた事で、竜宮の上流階層も華やいだ文化を持つようになった。一時期は、平氏の人間を賓客や家庭教師として迎えることが流行り、竜宮人による文化の発展も見られるようになった。文化以外にも技術のいくつかも獲得する事ができた。
 しかしそれは、竜宮で産しない文物と知識をさらに竜宮人に追い求めさせる事にもなり、竜宮の外への興味はより強まっていった。


●フェイズ08「中世4・パックス・タタリカ」