■フェイズ14「近世3・ヨーロッパ諸国の対立」

 竜宮王国は北太平洋上で孤立した小世界に存在する国であり、自らが得られない文物を手に入れたければ、危険を顧みず外に出ていくより他無かった。
 このため、稚拙な技術にも関わらず海の彼方へと積極的にこぎ出した。それでも丸木船に毛が生えたような小型船(アウトリガーカヌー)は、むしろ太平洋の荒波に対応できたので、最低限の交流は行おうと思えば可能だった。これは、東南アジアの一部やポリネシア地域で行われた交流や交易と似た側面があった。
 しかし大規模かつ組織的となると、太平洋の荒波と長い距離が大きな障害となった。ただし海流と風向きに恵まれていたため、孤立した環境の割には交流の可能性が高かった。
 それでも竜宮人自らが大型船を建造するようになると、最初は二回に一回、三回に二回は航海が失敗するというような状態だった。だが竜宮人にとっては、自らの存亡と発展、そして何より欲望の充足がかかっているため徐々に知識と技術が向上していった。他の地域からの技術導入も積極的に行われた。そしてようやく安定した交易体制を構築したと思った所に、肌の白いエイリアン(異邦人)達がやって来る。
 ヨーロッパ勢力の台頭する所謂大航海時代が、東アジアにまで到来したのだ。

 もっとも、ヨーロッパから地理的にほぼ反対側にある竜宮に、大規模な行動ができるヨーロッパ国家はなかった。仮に船でやって来ても、細々と商売をするのが精一杯だった。単なる国家規模、人口規模で言うなら、ポルトガルやイングランド単体では竜宮よりも小国となってしまう上に、竜宮は彼らの位置から地球の反対側にあるのだから、ある意味当然の結果だった。
 しかし17世紀当時、ヨーロッパ最強の国家へと躍進していたスペイン(イスパニア)だけは別格だった。新大陸に広大な植民地を築き、そこで得た膨大な銀(富)を持って、しかも太平洋を東から西に押し渡ってアジアへと乗り込んできたのだ。
 そしてスペイン船が太平洋を通って新大陸に戻る中間点に、竜宮が存在した。竜宮が、北太平洋海流と偏西風、北西季節風の進路上にあることが大きな理由だった。
 この事は1580年頃にスペイン側が自らの航海によって気付き、最初に通常の航路をやや南よりに進んで竜宮を発見した船団は、そのまま未知の大地を夢見て竜宮の港へと入ってきた。
 両者驚きの体面となったが、幸いにして武力を用いるには至らず、それなりに友好的なファーストコンタクトの末に有償での補給と修理、乗組員の休養が行われた。このとき竜宮側が、ポルトガル語を話せる人間を用意できたことが大きな効果を発揮したと記録に残されている。
 竜宮本土でのファーストコンタクトは、スペインにとって大きな利益のある状況だった。スペイン人が武力を用いなかったのは、出迎えたのが大砲を備えた竜宮の戦闘艦艇であり、港にも大砲を備えた石造りの強固な砲台があり、陸には大量の鉄砲を装備した地上部隊を見たからだった。言葉が通じるかどうかが問題ではなかった。この時スペイン人達は、世界の果てにとんでもない軍事国家が存在すると恐れたほどだった。
 しかし交流はその後も友好的に進められ、その翌々年には国の親書を携えたスペイン船が竜宮を訪れ、早速は竜宮との本格的な交渉を持ちかけてきた。スペイン船による竜宮本国での交易と、有償での船への補給、乗員の休養をさせて欲しいと言うのがその内容であった。また、同行した(イエズス会)カトリック宣教師が、竜宮での布教の許可も求めてきた。宣教師の方は、多数の献上品を持ち込んでの交渉であった。
 なお重ねて記すが、スペイン人全般が竜宮をあからさまに見下したり攻撃しなかったのは、竜宮が距離的に遠いことと必要十分な近代的軍備を備えていると見たからだった。大砲を備えた帆船と海に向けて大砲を用いて要塞化された強固な砦、馬と鉄砲、鉄の防具で武装した兵士を見ては、蛮族の小国と侮るわけにはいかなかった。それに竜宮の都はヨーロッパに匹敵するほど栄え発展しているように見え、物産も豊かなので交易する価値があると考えられた。またスペイン人は、下手に刺激したら自分たちの方が侵略されるのではないかと恐れてすらいた。
 一方の竜宮側は、スペインの来訪を半ば予期していたので対応も冷静で適切だった。また相手に対して、決して損の出ない取引を最初から持ちかけた。無論、ヨーロッパに攻め込む気など全くなかった。
 スペインの使節を前にした竜宮王は、スペイン側に交換条件としてスペインの持つ太平洋航路を教えることと、竜宮による新大陸での貿易権を要求した。
 スペインの使節はその言葉と竜宮側からの返礼の品を本国に持ち帰り、スペイン側は竜宮の申し出を了承するに至る。
 そして1585年、メキシコ太平洋岸のアカプルコ、フィリピンのマニラ、竜宮の昇京を結ぶ交易路が両者の間に設定され、太平洋上での限定的な三角貿易も開始される。また琉球もスペインに開港されることになり、中継点やマニラと同様の中華商人との取引場所としての再出発が計られた。
 アカプルコで積まれた新大陸の銀が、マニラで中華商人やマカオのポルトガル商人が運んできた中華製の絹や陶磁器などと交換され、絹と陶磁器の一部が竜宮の昇京で売買され、昇京で積み込まれた各種工業製品(武器を含む)がメキシコを始めとした新大陸(ノヴァ・イスパニア)の太平洋側に流れた。

 竜宮で建造された遠洋航海用の新たな大型船、スペイン人のガレオン交易船を真似て作った大型船が初めて就役したのは1584年だった。同型の船は順次改良しつつ多数建造されて、最初の船団がスペイン人の案内人を乗せ、竜宮人にとって未知の土地となる新大陸に向けて出発したのが1586年の事だった。
 航海は何とか成功を収め、4隻のうち1隻の船を失うも、竜宮から積み込んだ様々な道具でアカプルコの銀を得ると、その銀を積み込んでマニラに至り、翌年の春に無事に絹を満載して帰ってきた。またアカプルコでは銀以外の新大陸の様々な物産と、大西洋を越えてきたヨーロッパの物品も満載されていた。
 この航海の成功は竜宮本国で盛大に祝われ、新たな発展の糸口を見つけた竜宮人の外への興味はさらに増していった。
 その後スペインとは比較的良好な関係が築かれ、マニラでは竜宮の出した兵が現地の警備に傭兵として貸し出されたりもした(※ただし竜宮傭兵の過半は日本人傭兵だった)。
 スペイン側も、竜宮が存在することでアジアでより多くの利益を上げることができたので高く評価していた。さらには、乗員の疲労軽減や船の整備、補修、途中修理により船(及び荷物)の損失率が大幅に軽減して、船員の充足率も向上し、結果として航海費用の軽減、つまりは利益の向上を実現した価値は大きかった。
 このためスペインは、できれば竜宮を我が手に掴みたい(植民地にしたい)とも考えたが、武力による侵略はもちろん積極的な布教についても結局断念された。竜宮王国に至った商人や宣教師の報告を信じる限り、日本を征服するよりも厄介だと判断された。住民の教化が難しく独自の武力と航海術を持つ相手な上に、世界の反対側にあっては流石のスペインもどうにもならなかった。
 しかし一旦仲良くすると決めると、スペイン人は他の白人よりもずっと寛容さと順応力の高さを見せるようになった。とにかく、文明的交流が可能という点がこの場合は評価された。そして船乗りや商人が竜宮の貿易港に訪れるだけでなく、少数ではあったが商取引を理由にして根付くようになったりもした。宣教師の中には、布教を目的に教育や医療を行う者もあった。極めて短期間のうちに司教(司祭任命権を持つ)も派遣された。
 過ごしやすい竜宮の風土は、北太平洋の楽園としてスペインの船乗りの間で評判となった。ただ、娼館などでのスペインの船乗りたちの置きみやげである混血の子供が少しずつ増えたことは、当時の竜宮にとってはかなり頭の痛い問題となった。とはいえスペイン船は、豊富な外貨(主に銀貨)を落としていくし、自分たちも他の地域で似たような事はしているので、それほど問題視もされなかった。
 そして十数年もすると、竜宮側も国に居着くスペイン人を優遇するようになった。世界を半周してくるだけの彼らに、それだけの価値があると考えられたからだ。
 また一方では、別の白人が現れたとの報告が、本国にもたらされるようになったからだ。

 新たに東アジアに至ったのは、新興のネーデルランド連邦とイングランド王国だった。
 ネーデルランドは1594年に最初の東アジアへの航海を成功させると、1595年から1602年までに14船隊、65隻の船をアジアに向けて放った。彼らの目的は香辛料の独自取得であり、取引場所のマレー半島や原産地のインドネシアに群がった。そのうち1隻が難破して、1600年に最初に日本にたどり着いた阿蘭陀(オランダ)船となった。ネーデルランドが竜宮に至るのは、その後さらに5年を経た1605年の事だった。ただし竜宮人との接触は1598年のマラッカで始まっており、警戒感を抱いた竜宮人が本国の位置を教えなかったので、ネーデルランドは他の案内人をしたてて竜宮へと至っている。
 一方のイングランドは、1602年に初めて東南アジアに至った。しかし当時のイングランドはまだ貧しい国であり、当時ヨーロッパ随一の貿易国家ネーデルランドとの競争に敗れると、インド方面での活動を重視して一旦は東アジアから撤退した。このためイングランドが竜宮本土に至るのはずっと先となった。
 つまり、竜宮にとっての新たな脅威としてネーデルランドが急速に浮上する事になる。
 しかもネーデルランドは、竜宮にとっての商売相手であるスペインと強く敵対し、ポルトガルの東アジア利権に対しても執拗な攻撃を行っていた。そして何と言っても、貴重な香辛料を産出するモルッカ諸島を我が物にしようとしたどん欲な行動によって、現地に商館を置いて貿易を行っていた竜宮との戦闘も行われた。
 戦闘は様々な先端技術で劣る竜宮側が不利だったが、竜宮側も地の利を活かして大軍を送り込んで対抗し、さらにはネーデルランドと対立するスペイン、ポルトガルと連携する事で、それぞれの国が持つ既得権益の多くを守り通した。しかしネーデルランドは、今度は主にスペインやポルトガルと敵対的な現地国家と結んで拠点を築き、新たに商館を開いて対抗してきた。
 こうした流れは、1609年にネーデルランドとスペイン、ポルトガルの間に休戦条約が結ばれると一旦沈静化する。スペインの口添えにより、竜宮とネーデルランドの間にも休戦が成立したからだ。
 しかし、平和は長く続かなかった。
 1619年の「アンボイナ事件」を切っ掛けにして、ネーデルランドの武力を全面に押し出した活動は活発化して、東南アジア各地のイングランド、ポルトガルを次々に攻撃した。当然ながら、竜宮も攻撃を受けるようになった。
 当時ヨーロッパ最先端の科学力と技術力、そして大きな経済力を持つネーデルランドの力は強く、他と同様にネーデルランドと争った竜宮王国も各地で後退を余儀なくされた。
 特にネーデルランド船は優秀であり、この模倣が行われ大量に就役するようになるまで竜宮の劣勢は続いた。
 しかし地の利を持ち、日本から得た豊富な傭兵を投入することで竜宮は対抗し、少なくとも自分たちが既に得ていた権益の多くは保持し続けた。東南アジア各地の入植地や拠点の過半も保持され、主にインドネシア地域は現地国家の中にネーデルランド、ポルトガルそして竜宮が現地国家の間でモザイク状に住み分けるようになっていた。
 またこの時期の竜宮は、大量の私掠船(海賊船=プライベーティア)の許可を出して、積極的にアジアに来るネーデルランド船を襲わせた。航海技術と交易範囲の拡大で増えていた竜宮人海賊の多くと一部の日本人海賊がこの話に乗って、ネーデルランドと竜宮私掠船との間に熾烈な戦いが展開された。また日本で得た多数の傭兵も、この攻撃に参加した。おかげで全般的には東アジアでの優位を竜宮は得ることができたが、強固に守られた重要拠点の奪取には至らず、戦況は半ば停滞する。だが、この時期から四半世紀ほどの間、現台湾島のネーデルランド拠点を得るなど、相応の得点は獲得している。
 この時の争いを、「竜宮=ネーデルランド戦争」と呼ぶこともある。
 なおこの時期は、国からも支援を受けた竜宮海賊の全盛期であり、東アジアからインド洋全域にかけて活発な活動を行った。東洋の海賊として、イスラム系、中華系と並んで竜宮系の海賊が大いに幅を利かせた。特に竜宮海賊は、国から支援されている頃に大量の火薬兵器(大砲、鉄砲)で武装したため、ヨーロッパ系の海賊並に跳梁する事になった。冒険心に富んだ海賊の中には、大西洋やカリブ海にまで遠征した海賊もいたと言われている。そしてこの頃から、竜宮の船の船首の飾りが様々な竜(龍)をあしらうようになった。
 
 話が逸れたが、やや停滞した情勢に変化が訪れるのは、ヨーロッパでのドイツ三十年戦争が激しくなってからだった。
 特に1635年にスウェーデン軍がオーストリア・スペイン連合軍に敗れ、フランスがプロテスタント陣営に与してスペインに宣戦布告してからだった。しかもスペインはネーデルランド海軍にも破れ、自国で続く大飢饉による大量死と、それに連動した膨大な経済損失も重なって完全に失速してしまう。とどめとばかりにペストが小規模ながら流行して、その翌年の1648年に締結された世界初の国際条約である「ウェストファリア条約」によって、ネーデルランドの隆盛とスペインの敗北は確定した。
 そしてヨーロッパ情勢は竜宮にも影響を与えた。
 良い面は、東アジア、太平洋でのスペイン、ポルトガルによる竜宮への依存度が高まり、竜宮とスペインの関係が親密さを増した事だった。
 悪い面は、ネーデルランドの隆盛と東アジアへの進出強化によって、スンダ(インドネシア)地域で竜宮が持っていた拠点や入植地のかなりを失ってしまった事だった。特にジャワ島での優位は完全にネーデルランドに奪われ、以後竜宮はネーデルランドと敵対する現地国家を支援して香辛料など時刻に必要な物産を得るようになる。
 ほかの竜宮(+現地日本人)の持つフィリピン、シャム(タイ)、広南朝(ベトナム)の拠点は維持されたが、スンダ(インドネシア)各地ではその後一世紀をかけてほとんど全ての拠点を失うことになる。このため、後に貿易港として少し北にあるブルネイが注目され、竜宮の大規模な進出が行われるようになる。
 一方では、日本でのネーデルランドと竜宮の対立はほとんど見られなかった。
 江戸幕府の鎖国政策によって日本でのヨーロッパ唯一の窓口となったネーデルランドだったが、長崎の出島に寄港を許される船の数は鎖国初期で年に5隻だけで、数十倍の規模で活動している竜宮に全ての面で太刀打ちできなかったからだった。しかも取引相手が頑迷な江戸幕府とあっては、日本近在で戦闘に及んだら追い出されかねず、このことは竜宮も同様のためお互い戦闘を避けた結果であった。
 またフィリピンより南での貿易では、両者の棲み分けが行われていたので、特に争う必要もなかったという要因も大きい。たまに竜宮側が嫌がらせをする程度の関係が長らく続いた。
 そうしてヨーロッパの世界進出に半ば巻き込まれた竜宮だったが、今度は自分たちからさらに動き出す時がきつつあった。


●フェイズ15「近世4・国内発展と政変」