■フェイズ19「近世8・繁栄と膨張」

 17世紀後半から18世紀前半にかけての一世紀は、竜宮国の全盛期、黄金期だった。
 初代女皇瑠姫(ルキ)の優れた治世と積極姿勢によって、国は富み、勢力圏は大きく拡大した。
 しかも世界に対して強欲さを示し続けたスペインは、17世紀前半の三十年戦争で勢いを失い、18世紀初頭のスペイン継承戦争で世界帝国として完全に没落した。東南アジアでの新たな敵となりつつあったネーデルランドは、イングランドとの度重なる戦争のためアジアで竜宮を相手にするどころでなくなり、18世紀を迎える前にこちらも衰退していった。ネーデルランドを破ったイングランドは、まだ太平洋に出てくる力はなかった。イングランドは大ブリテン王国となり勢力を各地で拡大するも、フランスとの間に第二次百年戦争と言われる戦いを始めていた。また他のヨーロピアンに、アジア、太平洋までやってくる力はなかった。
 東アジアの海と北太平洋は竜宮のものだった。それが鳥無き里のコウモリであっても、竜宮のものであった。
 莫大な黄金に釣られた世界中の船乗りと商人も、世界の僻地である竜宮の都を目指した。皇都昇京は繁栄を謳歌し、竜宮自体の人口増加もあって都市の総人口は最盛時50万人にも達した。
 ガラスをふんだんに使った華麗な竜宮風建築を中心にした白亜の建造物で埋め尽くされた昇京の街は、「太平洋の宝玉」、「大洋上のヴェネツィア」としてヨーロッパ世界にも広く紹介された。そして世界の果てにある富に満ちた白亜の都として、さらに多くに人と富、情報を竜宮に呼び込んだ。しかも黄金ばかりでなく、依然として竜宮本土は翡翠、水晶、そして天然真珠の宝庫として世界から注目を集めた。
 この時期はイスラム商人、インド商人もまだ元気が残っていたので、ヨーロッパのスペイン、ポルトガル、ネーデルランドらと共に竜宮にやって来た。時折イングランド人も来た。抜け目のない清国の商人も、鎖国や国同士の国交など関係なくやって来た。琉球などからの船便で、日本の幕府の役人や薩摩藩から客人が隠密で訪れた事もあった。日本からの水面下での棄民も、この時期は活発に行われた。

 そしてこの時期、竜宮皇瑠姫が熱心に進めた事の一つが、莫大な富を積み上げることで世界中から知識と技術を集め、それを竜宮人に教え込ませて根付かせ、自らの学術と産業を盛んにする事だった。
 ヨーロッパ世界に自分たちの事を積極的に紹介したのも、ローマ教皇に相手を仰け反らせるほど莫大な寄進を行ったのもそのためだった。
 生糸、絹織物、綿織物、羊毛、陶磁器、製鉄、冶金、精錬、ガラス工業、造船、建築、土木、そして武器。竜宮に足りないもしくは未熟な産業はいくらでもあった。技術者、書物、技術書、道具、様々な物が世界中から積極的に輸入された。巨大な皇立図書館(王立図書館)が建設されたのも、この頃の事になる。
 他国が輸出を渋るものには、平然と大金を積んだり、その国の上層部や物品を融通する商人に賄賂を積み上げた。必要な物を手に入れるために、ヨーロッパの国家同士や大商人同士の反目を利用する事も日常的に行われた。東アジアを中心にして、技術者や知識人の誘拐も半ば平然と行われ、誘拐された者は竜宮人への技術伝搬を条件に非常に優遇された。
 そして竜宮の大地には、新たな産業振興のための資源である、鉄(砂鉄含む)、石炭、ガラス素材、その他の金属資源が豊富にあったため、相応の成果は徐々に現れた。
 また、旧王朝以来、即物的に海外のものを取り入れる体質から、独自の科学、学術もそれまであまり省みられる事がなかったため、様々な知識の吸収と蓄積、そして自己発展にも力が入れられた。このための拠点として、新王朝時代にあった大学が大幅に組織改編して大規模化され、これを中心にして竜宮各地に数多くの皇立学校も設立された。主にヨーロッパからは、多数の学者、自然哲学者(科学者)などが招かれた。そして知識や技術吸収の副産物として、海外の言葉に対しても大きな努力が払われ、語学教育も発展した。
 それまであまり省みられなかった庶民(農民)の教育も、豊かさの中でそれなりに奨励されるようになった。竜宮の各地には学校や塾が各所で作られ、国が多くの支援を行った。竜宮人一般の識字率が大幅に向上したのも、この頃からだった。
 一方では人々の暮らしが豊かになったため、一部の貴族以外からも文化、芸術、音楽、芸能に強い興味が向けられるようになり、繁栄している国に相応しく華々しい文化が花開いた。文化の担い手は、それまでの貴族から大商人と都市住民の富裕層に代わり、国も自国文化の保護と発展そして商業利用を積極的に行った。これより少し後には、陶磁器や工芸品の輸出が盛んになっている。
 国家規模や文化圏の規模から完全に独自と言えるものはなかなか出なかったが、中華風、日本風、ヨーロッパ風、イスラム風、インド風など地域を問わず、竜宮人が気に入ったものが次々に取り入れられ、そして自分たちに合った改良がされていくようになった。今で言う所の竜宮文化や竜宮装束が出現したのも、ほぼ18世紀の事になる。
 これは文化の基本である食文化にも言えることで、元々米を中心に多くの肉類、魚類を食べる食文化だったため、世界中の食文化が受け入れられていった。とはいえ竜宮も東アジア文化圏の端っこに属しているため、調味料の基本は万能調味料の一つである醤(ジャン)で、日本から技術輸入された醤油が好まれ、後に竜宮風に改良された醤油が生産されるようになる。

 国内の充実と共に、海外領土の開発も精力的に実施された。
 竜宮という小世界は、いかに自国産業を発展させようとも、まともな周辺国がないためヨーロッパ諸国のような相互に影響し合った形での発展は物理的に不可能だった。一番近隣の日本ですら、限られた数しか船は行き来できず、他の太平洋・東アジア地域でも似たようなものだった。
 しかも当時の日本の政権は限定貿易しか行わせず、清国も同様だった。琉球は、既に竜宮の衛星国のような状態のため交易相手とは言えなかった。東南アジアの国もインドネシア地域は国がまだ残っていたが、貿易の多くはネーデルランドに取られていたし、香料貿易は既に旨みのある商売ではなかった。フィリピンはスペインの衰退に比例して竜宮人が我が物顔に使えるようになってきたが、そこも一応はスペイン領だった。インドシナ各地やシャムには、日本人町を吸収して核とした拠点が各地にあったし現地国家も比較的健全だったが、貿易相手としては物足りなかった。インドの安価な綿織物(キャラコ)などはとても魅力的な物産だが、インドは近在とは言い難い貿易相手だったし、インド洋は竜宮商人の勢力圏ではなかった。
 ヨーロッパ人相手だと、メキシコを起点としたガレオン貿易を行うスペインと、香料貿易と日本交易に力を入れるネーデルランドがあったが、その効果も限定的でしかない。他のヨーロッパ諸国は、ごくたまに親書交換のついでに官営貿易を行う程度のことしかできなかった。文化や技術、知識の輸入はともかく、貿易相手としては大いに不足する相手だった。
 基本的に竜宮は、当時の世界で最も手間のかかる海外貿易地域だったからだ。
 そうした中で考えだされたのが、自分たちでもう一つ交易相手を作り上げる事だった。
 幸い新大陸ではかつての自分たちの同胞の末裔達が、長い年月をかけて少しずつ文明的な拠点を築きつつあり、そこには広大な手つかずの土地が広がっていた。しかも竜宮本国の人口が創世以来遂に飽和状態に入りつつあり、移民や入植という名の棄民先としても新大陸は有望と考えられた。
 そこでかつての敗残者の末裔に破格の待遇を与え、天里果(アメリカ)大侯爵と天里果領を設定したのだ。

 まずは現地に物資と最新の文物を送り込み、開発の促進が図られた。天里果大侯爵以下の先住者には、まずは現状の所領が国皇の名の下に保証され、さらに5年以内に開拓した場所を自由に加えて良いというお触れを出した。主に開発促進のために、竜宮の持つ技術の伝授も約束、実行された。
 同時に、適地に大型のガレオン船が接岸できる施設と周辺施設を備えた大規模な港町の建設を開始し、軍の砦、商館の建設資材が人員と共に送り込まれた。また、早くも大規模な製鉄、製材など各種加工工房が建設され、現地で必要なものを生産し始めた。有望な土地や資源の探索も熱心に行われた。
 ひっきりなしに訪れる大型ガレオン船の群と開拓・開発の速度に現地はすっかり圧倒されてしまい、半ば竜宮本国の言うがままに突然の技術革新と開拓を進めざるを得なかった。開拓の屯田兵を兼ねた兵士(次男坊以下の余剰人口)の数もアッという間に数千の数が新大陸に送り込まれた。無数の大砲を備えたガレオン戦列艦共々、とてもではないが武力で逆らうことはできそうにもなかった。それに竜宮本国は、現地に対して無理や無茶を言う事は少なく、また現地の利益もそれなりに考慮したので、革新と開発による富の拡大を差し引きすれば十分許容できるものだった。新大陸北西部は、たった数十年で苦難の中世から革新の近世へと強引に進みつつあった。
 一方では、竜宮から物資や人などを降ろしたガレオン船は、天里果領で優良そうなものを満載すると、すぐにも出発する船が多かった。そして彼らは、ノヴァ・イスパニアのアカプルコやパナマ地峡を目指した。竜宮本国、天里果大侯爵領、ノヴァ・イスパニア、フィリピン、琉球、日本を結ぶ交易網がこうして整備されていった。スペイン船も、天里果大侯爵領やハワイに時折立ち寄るようになった。
 しかし初期の天里果大侯爵領で得られる物産に高い価値のあるものは少なく、本国を出る船は満載した物資の他に突如豊富となった黄金(竜宮金貨)も積載して新大陸に旅立っていた。
 竜宮本国が入り込んだ初期の天里果大侯爵領では、とにかく大量に持ち込んだ家畜による牧畜や酪農が熱心に行われ人口拡大が計られた。海岸沿いは牧畜に適した土地が多いが農業には適さなかったからだ。農業は主に200キロメートルほど内陸に入り込んだ巨大な河川を抱える巨大な盆地で行われ、ここが竜宮本国からの入植地兼穀倉地帯として開発が急速に進んでいく事になる。
 しかし竜宮にとっての17世紀中の開発の主軸は豊富な金を産出するアラスカであり、天里果大侯爵領の開発と入植事業が大きく進むのは18世紀に入ってからとなった。
 一方では、開発と並行して周辺部の探査や探検、冒険的狩猟、冒険的行商も行われるようになった。
 しかし北部での竜宮の活動に刺激されたスペインが、竜宮が至る前にノヴァ・イスパニア地域をサンフランシスコと彼らが名付けた湾岸地域に名目上の領土を広げていたため、海岸部を進むことは早々に諦めなくてはならなかった。その気になれば戦争で奪うことも可能だったが、当時はそれだけの価値もないと判断されていた。
 また向きを変えて東に進もうにも、大盆地の向こうには巨大な山脈が幾層も控えており、しかも海の民である竜宮人は大きな山が苦手だった。それに現状でも広すぎる土地を開発しなければならず、新大陸奥地の開発は長い間活発になる事がなかった。
 それでも方々に派遣された探検隊が残した標識や、黄金や珍しい毛皮などを求めてさまよい歩いた山師や狩人、行商人達の足跡は、当時文明社会に知られていなかった新大陸北西部の内情を少しずつ教える事になり、竜宮が領有権を主張する大きな根拠となった。

 竜宮が、もう一つ開発を促進した地域が南方だった。
 貿易の中継拠点となるブルネイ王国への影響力増加と、巨大なブルネイ全島(といってもほぼ沿岸部だけ)を勢力圏に収める努力が行われた。他の地域での勢力争いに敗北し、残る場所が植民地化の難しいブルネイ島しかなくなっていたからだった。
 この過程で、ブルネイ島でサトウキビ、ココヤシなどの集約的単品栽培が沿岸部を苦労して開発して進められ、ネーデルランドに奪われた香辛料地域に代わる香辛料栽培地としても力が入れられた。また、メキシコからマニラへの航路を少しずれると行けると分かった大きな島(パプア大島)の周辺部にも開発の手を伸ばした。竜宮諸島自体の開発が進みすぎた事、竜宮人の消費カロリー量が伸びた事を受けた、新たなサトウキビ栽培地の獲得が目的だった。琉球で生産された分はほとんど日本に流れていたので利用が難しく、ネーデルランドやスペインから購入することもできるがその場合無駄に金を浪費しかねないため、かなりの熱心さで推し進められた。少し遅れて、竜宮人達が半ば忘れかけていたハワイ諸島の開発が進められるようになる。
 そして南方での開発と農場化には、ある程度竜宮から人も連れて来られたが、多くが東アジア各地からの「棄てられた」人々、捕らえられた奴隷が活用された。何しろ南方ではマラリアや黄熱病などの疫病が多く、人の消耗が激しかったからだ。現地に人を根付かせるため、俄に公衆衛生や医療が発展するという副産物すら生まれたほどだった。
 なお竜宮人は、商業貿易国家的な特徴として、外に出る役人や商人達は奴隷や外国人の使用人を持つことを一般的なものだという考え方を持つようになっていたため、奴隷売買や決定的な格差のある人の使役には特に抵抗を感じていなかった。むしろ海外に出た場合は奴隷の使役はステイタスで、所有する奴隷をうまく扱う事は紳士のマナーですらあった。
 かつて日本人の侵略に怯えていたことなど忘却の彼方であり、竜宮人は長きに渡る貿易による国家育成の中で、ヨーロッパ的な侵略的商業国家、植民地国家へと変化しつつあったのだ。
 それを知っていたからこそ、女皇と国は自国産業と学術の振興に熱心になったと言えるだろう。


●フェイズ20「近世9・安定時代」