■フェイズ22「近世11・アメリカとの出会い」

 アメリカ合衆国は、1776年に独立宣言を行って以後、北の新大陸全てを飲み込むかのように拡大を続けた。
 1803年にはフランスからルイジアナの広大な土地をただ同然の値段で購入して、形式上では竜宮の天里果副皇領と境界線を接した事になる。
 もっとも、竜宮とフランスの新大陸での境界線はいい加減なままだった。竜宮とフランスの関係は、フランス王国でルイ13世の時代に竜宮が親善使節を派遣して、それにフランス側が応えた時から始まっている。と言っても、フランス革命までに数度親善使節を交換し合っただけで、まともな貿易に発展しなかった。王が変わるたびに互いに使節を出して、ついでに官営貿易を行うという程度の間柄だった。
 距離的に遠すぎる上に、お互い努力してまで欲しがるような貿易品があまりなかったためだ。主に欲しがったのも、両者の富裕層が求める双方の贅沢品や工芸品、衣服、酒類ぐらいであった。
 そして疎遠なまま過ごすが、18世紀中頃、フランスではルイ16世の時代に、スペインからの話によってようやく両者の新大陸での勢力が接触しているのではないかと言うことに気が付いた。だが、お互いに実際調べる手間も金も、まともに調べる気もないため、ロッキー山脈の最も西寄りの分水嶺(ロッキー分水嶺)を境界とすると文書を交わし合ったに過ぎなかった。
 これは竜宮とスペインの新大陸での境界線を北緯40度と明確に決める文書を交換した事と比べると、酷くいい加減だった。
 竜宮側は古来から陸づたいの国境線というものを殆ど持ったことがなく、フランス側は境界線が接したと言っても実害がないため、大まかに取りあえず決めてその後で必要ならばむしり取れば良いと考えていた。当時ヨーロッパ随一の大国を自認するフランスにすれば、太平洋の辺境にある竜宮は、結局とのところ蛮族の国に過ぎなかったからだ。
 しかしそのフランスは、ナポレオンの時代にアッサリと広大な新大陸の中部を新興国アメリカにタダ同然の値段で売り払ってしまう。スペインからタダで奪ったような土地な上に、維持する能力もなかったから当然といえば当然の結果とはいえ、これは世界的に見ても最も安価な領土売却であった。
 とはいえ新たに広大な領土を手に入れたアメリカも、竜宮の事など当初は眼中にはなかった。せいぜいが、多少は進んだ文物を持ったインディアン程度に考えていた。
 一方の竜宮は、隣人が代わるとすぐに行動を起こした。そして現地のスペイン人に道案内を頼んで、わざわざ東海岸のワシントンにまで自前の船で出向いて交渉に及んだのに、最初はほとんど相手にしてもらえなかった。
 わざわざ太平洋から大西洋に送り込んだ竜宮製のガレオン船も、旗を掲げているにもかかわらずスペインのものだと思われていたほどだった。
 しかしアメリカ政府(ジェファーソン大統領時代)は、竜宮がガレオン戦列艦を自力で建造・運用する力を持っている事を知ると態度を豹変させ、両者の間に国交の樹立と境界線の決定が行われた。ただしこの時アメリカは、新大陸の竜宮領での領事裁判権と協定関税を竜宮側に要求し、竜宮側は当然これを拒否した。竜宮は今までネーデルランドやスペイン相手に何度か煮え湯を飲まされてきたので、ヨーロッパ流の知識は一定量持っていた。そしてこの時竜宮は、新大陸に出来たばかりの移民の国であっても白人の国は白人の国だと思い至った。
 そして竜宮は、新大陸のヨーロッパ人に文句を言わせないために、新大陸各地に調査隊や探検隊を大量に派遣して、とにかく境界線とされた場所に標識を設置して回らせた。できるのなら、役所や軍隊も置いた。適当でもいいので、地名も付けて回った。優遇措置を設けて移民を送り込んだり、公費で道を切り開くなどして、ロッキー山脈奥地の開発も進められた。自分たちの領域内に住んでいる先住民(インディアン)に対しても、取り込むために破格の条件で応対するようになった。
 領内に勝手に入ってきたアメリカ人(開拓者)などにも、軍と役人により十分な対処が行われるようになった。
 そうした努力の結果アメリカ側も竜宮の動きを認め、両者の境界線に関する協定が詳細に結ばれることになった。

 しかしアメリカの態度は徐々に変わり始める。
 19世紀初頭に新大陸東部で行われた米英戦争が終わり、その後フランスのナポレオンが敗れてウィーン会議の終わる頃になると、俄に竜宮との関係を微妙なものとさせた。
 竜宮とスペイン、アメリカが結んだ領土協定によって、竜宮がロッキー山脈を抜ける当時ほとんど唯一のルートを領有していたからだった。しかしまだ当時は西海岸南部はスペイン領もしくはメキシコ領だっため、アメリカもそれほど強い態度にはでなかった。せいぜいが、陸の交通路を押さえられた事に対するやっかみ程度だった。
 またもう一つの要素で、竜宮とアメリカの関係ができた。
 捕鯨産業だ。
 竜宮側は、ネーデルランドなどから、大西洋での捕鯨が徐々に難しくなっていると伝え聞いていた。大西洋での鯨がこれまでの乱獲でほぼ枯渇(絶滅)していたからだ。
 このため欧米の捕鯨がいずれ太平洋に出てくるだろうと考え、自分たちの縄張りを相手に伝えることにしたのだ。竜宮人にとって鯨漁(捕鯨)は一種の神事であり、底なしの欲を持った白人に荒らされてはたまったものではないと考えたのだ。そしてやって来ると予測されたのが、19世紀の時点で盛んに捕鯨を行っているイギリスとアメリカだった。
 このため竜宮は各国、特にイギリスとアメリカに対して、自分たちの縄張りを伝えた。竜宮近辺、新大陸北西部沿岸、ルキア地域(アラスカ、アレウト列島、チウプカ半島に至る)、ハワイ近海、琉球などに入らないよう伝え、勝手に入った場合は海賊と見なして対抗措置を取るとまで伝えた。
 実際大西洋の捕鯨船が太平洋に来始めた1820年頃からは、軍艦による巡回も行われるようになり、国が自国の漁業関係者を支援して、他国に取られるぐらいならと漁業(捕鯨)振興を行ったりもした。
 これに対してイギリスは、そのような事はしないとわざわざ竜宮との間に約束文書まで交わした。アメリカは竜宮の縄張りは荒らさない代わりに、太平洋にアメリカ船が入った場合の補給のための寄港を求めてきた。
 そしてイギリスは、約束した通りに竜宮の縄張りに殆ど入ってくることはなかった。竜宮の勢力圏に無理矢理捕鯨に行かねばならないほど、捕鯨産業は既に盛んではなかったからだ。
 一方のアメリカは、南北戦争が始まるまで、そして石油が広範に利用されるようになるまで、捕鯨は国家産業ですらあった。
 そして大西洋での資源枯渇に従って、アメリカの捕鯨船団が太平洋に入り込むようになり、国家間の約束を無視して竜宮の勢力圏での捕鯨も行うようになった。1820年代半ばから1850年代ぐらいが、太平洋での捕鯨のピークで、1830年代に入ると竜宮の捕鯨漁師や巡視軍艦と頻繁にもめ事を起こした。通告通りに海賊として処罰されたり、場合によっては戦闘に発展して沈められたアメリカ捕鯨船も出た。
 このことをアメリカ政府は竜宮に猛抗議したが、竜宮側は違反は捕鯨船側にあり通告したとおりだと言う以上の返答はせず、今後も取り締まりを行うと重ねて通告を行い、さらに大量の軍艦を北太平洋に放った。反撃してきた捕鯨船は、容赦なく拿捕するか沈めた。
 竜宮側の対応は、ヨーロピアンからすれば屈辱的な事件とされたが、相手が相応に優れた武力と組織を持つとあっては引き下がるより他無かった。そして当時アメリカと関係があまり思わしくなかったイギリスなどヨーロッパの王権国家のかなりが竜宮の立場は正当だと評価したことも、アメリカが引き下がる理由となった。民主共和制を敷くアメリカは、この当時ヨーロッパ社会での異端児だったのだ。
 この結果アメリカの捕鯨船は、生命の危険のため竜宮の勢力圏から自主的に立ち去り、今度は当時豊かな漁場だった日本近海に殺到した。これが少し後にアメリカの日本への関心を大きく強めさせることになる。

 竜宮とアメリカの関係がさらに悪化したのは、1845年以後の事だった。
 1821年にメキシコ(メヒコ)がスペインから独立した。他の新大陸地域でも、前後してほとんどが独立を果たした。竜宮もスペインからメキシコに交渉相手を代えて、新たに国交を結んだ。国境を巡る交渉も、つつがなく終えることが出来た。
 しかし新たな独立国は様々な面で不安定な国が多く、メキシコも例外ではなかった。そこにアメリカがつけ込み、テキサスと名付けられた地域を現地の移民がテキサス共和国として独立させた。これが1836年の事だった。
 そしてその十年後の1845年、テキサス共和国をアメリカが州として併合すると発表すると、国境を巡る相違からアメリカとメキシコの間に戦争が発生した。
 戦場のほとんどはテキサスと、テキサスからメキシコの首都メキシコシティーに至る場所だった。だが、どん欲なアメリカは、かつてアルタ・ノヴァ・イスパニアもしくはカリフォルニアと呼ばれていた地域にも強い興味を示した。太平洋進出を目論んだのだ。
 しかし北部のサンフランシスコと名付けられた地域に至るためには、海路を使わないのならば陸路で竜宮の天里果副皇領を通らねばならなかった。テキサスからロサンゼルスに至り、そこから北上する方法もあったが、当時カリフォルニアの内陸部はあまり開発されておらず、サンフランシスコとロサンゼルスの間を船以外で行くことはかなりの困難を伴った。当時のサンフランシスコは、あくまで竜宮の新大陸領とノヴァ・イスパニアを結ぶ小規模な中継港でしかなかったからだ。他の場所には、依然として先住民達が住んでいるほどだった。
 戦争までにサンフランシスコの平野部に至ったアメリカ東部からの移民者は合わせて約1000人ほどいたが、そのほとんどが竜宮側が設けた関所(国境検問所)を二度通って現地に至っていた。
 しかも竜宮側は、ロッキー山脈の狭隘な谷間の道の要所に関所以外にも頑丈な砦を築いており、ナポレオン戦争後にヨーロッパで大量に余った武器を購入してそれを配備していた。竜宮がアメリカを強く警戒している何よりの証だった。
 ただしアメリカ=メキシコ戦争まで竜宮がアメリカ人の移動を妨げるという事はなく、むしろ遠路移民する人々に出来る限りのもてなしを提供していた。古来より、通過していく旅人とは歓迎との交換で情報をもたらすものだからだ。アメリカ人移民も、インディアンとは違う人種による文明的な応対に、竜宮に対しては概ね好意的だった。移民先をそのまま竜宮の副皇領にする者もあったほどだった。
 しかし戦争によって状況が変わった。
 竜宮はメキシコから戦争協力もしくは参戦を持ちかけられていたが、それを断って武装中立を宣言していた。竜宮は全ての国境を閉ざし、一度アメリカが軍の通行を求める使者を寄越したが断っていた。このためアメリカ軍は、テキサス経由だけでカリフォルニアへの進軍を行わざるを得ず、砂漠の横断のために多くの負担を強いられることになった。
 しかし当時400万人以上の現地人口を抱え本国からの支援もある文明地域に、何かができるほどの力はアメリカにはなかった。しかもロッキー山脈の向こう側とあっては、手の出しようがなかった。しかも竜宮は境界線と定めた場所の警備を固め、本国から天里果副皇領に向けて最新鋭の蒸気動力船を派遣し、相手を牽制することを忘れなかった。
 そうした状況もあって、竜宮は戦争に関わることなくこの時を過ごした。

 しかし戦後すぐに、アメリカから竜宮に一つの打診があった。
 竜宮の天里果副皇領の南部辺境を売却してくれないか、という申し出だった。範囲は北緯42度以南の地域全てで、買い取り価格は即金で750万ドルが提示された。
 アメリカが新たに領土としたカリフォルニアのサクラメント近くで、大量の黄金が発見されたのが大きな理由だった。
 ゴールドラッシュのため、既に続々と東部もしくはヨーロッパからの人々がカリフォルニア北部を目指し、天里果副皇領の南部辺境の土地を通過していた。それが西部に行くため一番近い陸路だったからだ。また近隣で一番の人口を抱えていた天里果副皇領からも、多数の人々が黄金を求めて殺到していた。
 竜宮人のカリフォルニア入りは、地理条件と竜宮人の現地での勢力の大きさをから互いに仕方ないと諦めるにしても、天里果副皇領東部辺境は問題だった。アメリカとしては人口の増えた領土を陸路で結びたいと考え、竜宮はアメリカのどん欲さに強い警戒心を持った。
 竜宮は、ゴールドラッシュ時に見せた白人の異常なほどの敵意と実際の攻撃に対して、強い敵意と共に自分たちに対するいわれのない、そして拭いがたい悪意と蔑みを感じ取っていた。そしてアメリカが売却を求めた場所は、当時の竜宮人にとっては幸い価値の低い場所だった。何しろ雨量の少ない砂漠や荒れ地、山岳地帯がほとんどだったからだ。
 竜宮は交渉において、渋るそぶりを見せてアメリカをじらし、一時は既に多数の竜宮人が住んでいるという理由で譲れないと交渉の席を立ったこともあった。売却に際して、住民の保証を求めたこともあった。1億ドルは最低用意してもらわないと話にならないと言ってみた事もあった。交渉もなるべく時間をかけ、あしかけ数年間にも及んだ。全ては値段をつり上げるためで、本格的に争う気があったわけではない。
 そうして1854年にようやく双方合意に至り、天里果副皇領東部辺境は即金で3000万ドルと後金で同じく3000万ドルの合わせて6000万ドルアメリカに売却されることになった。同時に、域内の移民、移動の自由を3年間認め、竜宮側資産の移動も同時に認められた。
 売却されたのは北緯42度から40度にかけての地域で、これによりロッキー山脈の分水嶺から下って東経110度と北緯42度が交差する場所を角とする竜宮とアメリカの国境線が正式に引きなおされることになった。

 なお、カリフォルニアに殺到した竜宮人の多く(のべ約20万人)は、既にゴールドラッシュのピークが過ぎ去ったので、アメリカに税金を支払った後に竜宮領内に引き上げており、これで当面は安定がもたさられる事になる。それ以前に、多くの竜宮人はカリフォルニアでアメリカの政府組織ができて、白人が増える前にほとんどが引き上げていた。
 ちなみに、彼らが竜宮領内に持ち帰った黄金の総量だけで、6年間の間に採掘された総量の約3分の1に当たる120トン(※金貨3400万枚分・銀貨1億3600万枚分に相当)に達すると見られている。主に砂金の状態で手早く採掘して現地で税金制度が出来る前に去った者も多く、また地の利もあるため竜宮人にとっては、実にゴールドラッシュらしいぼろ儲けの出来ごととなった。そしてこの時の領土の売却益と竜宮人が国で使った黄金による経済の回転によって、竜宮の国庫は大いに助けられた。さらには竜宮では経済的な活況がもたされて、自らの産業革新の運転資金を得ることもできた。領土売却とゴールドラッシュは、当時の竜宮にとってむしろプラス面の方が多いと考えられていた。

 しかし一方では、新大陸北西部を有色人種が有しているという事は、東部の白人にとっては由々しき問題と考えられるようになった。
 とはいえ、峻険な巨大山脈の向こう側に存在する有力な相手では、大陸横断鉄道が布かれるまでアメリカが何かをできるわけではなかった。加えて相手が、前近代的ながら社会秩序、武器など様々なものを有しているため、火事場泥棒のような戦争を吹っかけて併合するというわけにもいかなかった。竜宮は、メキシコなどとは格の違う相手だった。
 一方の竜宮側は、自分たちが数百年かけて育て上げた天里果副皇領をアメリカが狙っていると考えるようになった。このため新国境決定後すぐにも、国境線に厳重な検問所を設けるなどの対策が行われた。また舐められない程度の軍事力の必要性を認め、本国からのガレオン戦列艦の常駐が開始されるようになる。現地での兵士も数を増した。またアメリカが戦争で使った新兵器ライフル銃にも強い興味が注がれ、購入や自力生産に努力が傾けられることになる。しかし、すぐには竜宮単独でライフル銃を作り上げることはできず、また単独でアメリカに対抗することはより難しかった。
 ここで登場したのが、新大陸北部を西に進みつつあったイギリスだった。

●フェイズ23「近世12・竜宮とイギリス」